こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)わたしも神のいつくしみを届ける人になろう

2017-04-23 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/170423.mp3

-(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2017/4/23(No.882)
‥‥‥†‥‥‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
わたしも神のいつくしみを届ける人になろう
‥‥‥†‥‥‥‥

「神のいつくしみの主日」を迎えました。一年前の「神のいつくしみの主日」が前任地での最後の日曜日でした。残りわずかとなった日々を惜しみながら説教台に立ったのを思い出します。今年は、去年とは違った学びを見つけました。

さて今年の初めあたりから、百周年記念誌のタイトル募集をしておりました。少しずつ応募が集まっておりましたが、特に黙想会のとき、わたしが声をかけたこともあって、たくさんの方が応募してくださり、最終的に51通の応募がありました。

27人、51通の応募をすべて開きまして、なかなか一つに決めるのが難しく、最終的に「タイトルとサブタイトル」という形をとり、2人の方の応募を組み合わせて今回の記念誌のタイトルとすることといたしました。メインのタイトルは「百年の祈り未来へ」を短くして主任司祭が一文字加え、「祈りは未来へ」とさせていただき、サブタイトルは「瀬戸山天主堂100年の歩み」を使わせてもらいました。

最終的に、記念誌のタイトルは、「祈りは未来へ~瀬戸山天主堂100年の歩み~」とさせていただきたいと思います。応募されたほかのタイトルも印象深いものばかりでした。この場をお借りして感謝申し上げます。採用された2人にはあらためて記念品を差し上げますが、応募された全員にも、何かのしるしは差し上げようと思っています。

ちょっとだけ余談です。メインのタイトルからは「百年」を外させていただき、一文字だけ主任司祭の責任で付け加えたと言いました。「一文字加えたから、わたしも記念品もらえるかなぁ」と言ったら、「ダメ」と言われました。一文字変えても応募した人の作品であることに変わりはないそうです。それはそうと、記念誌編集部会の皆が、良いタイトルができたと喜んでおられました。前回の記念誌「永遠の潮騒」にかかわった方々もきっと喜んでくださると思います。

福音朗読に戻りましょう。今週の朗読箇所は、直前の箇所と読み比べると興味深いです。直前のヨハネ20章1節から18節は、週の初めの日の出来事で、前半では複数の弟子たちが登場し、後半ではマグダラのマリアに焦点が当てられています。

同じように、今週の朗読も週の初めの日の出来事で、前半は弟子たち全般が取り上げられ、後半はトマスに焦点が置かれています。何かを考えさせるために、福音記者がこのように整えたと考えることもできるかもしれません。

そこで考えたのは、イエスの復活の出来事は、共同体にも、個人にも、救いの恵みを届けるということです。中でもトマスは、取り残された人の代表のように見えます。共同体に広く喜びが届いても、一人二人の、取り残された人がどうしても出てくる。そんな取り残された人にも、イエスの救いの手が届く。そのことを教えているのでしょう。

福音朗読の学びは、わたしたちの信仰生活に何を教えてくれるでしょうか。朗読箇所は、わたしたちの信仰生活の何かに似ていないでしょうか。お気づきの人もいるかもしれませんが、週の初めの日に、共同体が集まっている場面は、わたしたちのこの主日の集まりのことではないでしょうか。

もちろんわたしたちは、「自分たちのいる家」である「教会」の戸に鍵をかけてはいないでしょう。しかし、人によっては、日曜日のこの時間に教会に行って集まっているのだと、公にしていない人もいるかもしれない。そこまでではなくても、教会に行って何をしているか聞かれた時、「いやちょっと」と口ごもる人もいるのではないでしょうか。

そんな、いろんなものを背負って集まっているわたしたちの中に、イエスが来て真ん中に立ってくださいます。それはつまり、わたしたちがささげるミサ、聖体祭儀です。パンとぶどう酒のもとに、イエスさまが確かにおいでくださる。ここに集い、聖体祭儀を共に祝うわたしたちは、「平和があるように」といつくしみ深い声をかけられ、「聖霊を受けなさい」と使命を授けられ、派遣されていくのです。

しかし、中にはどうしても事情があってこの祭儀にあずかれなかった人がいるかもしれません。だれかから、「この前のミサに行ってないの?あーそれは残念」と、さらに追い打ちをかけられるかもしれません。いつの間にかわたしたちは、「ミサに行けなかった人」を、「ミサに行くことができた人」の立場で見ているかもしれないのです。

その時こそわたしたちは、「神のいつくしみ」を示すまたとない機会になります。その時のミサに参加できなかったことをあれこれ言うよりも、また主の日に集まって、いつくしみ深い神に近づこう。共同体にも、個人にもいつくしみ深い神が待っていてくださる。そんな声かけが必要なのだと思います。

今年の復活徹夜祭を思い出してください。光の祭儀の様子を、生まれて初めて見た人もいたのではないでしょうか。声は聞こえるけれども、何をしているのかは分からない。わたしは特に関わっているメンバーではないから、見ることができなくても仕方がない。そんな思いだったでしょうか。

わたしは、「もっと多くの参列者が、光の祭儀、復活のローソクにおこなっている儀式を見せてあげたい」そう思ったので、知恵を絞りました。より多くの人に、参加していてもはじかれているその人に、司祭が執り行っていることを見せたい。何か工夫すれば、神のいつくしみがそこに感じられるのではないでしょうか。

今日、復活したイエスさまは、わたしたちにトマスの姿を示して、何かの事情で漏れてしまった人に、あなたが恵みといつくしみを届ける人になってくださいと派遣します。どのように答えようかを考えてください。あなたが神のいつくしみを届けるために力を貸してくれるなら、イエスの復活を見ないのに信じる人はもっと増えていくのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:13-35)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼じわじわと、来ている。復活徹夜祭に、光の祭儀(復活のローソクの儀式)をカメラ越しにスクリーンに投影してみた。これが大好評で、「初めて様子を見ることができた」とか、「神父様の言葉が、あのような動作と一緒に唱えられていたとは知らなかった」そのほかにもおおむね良い反応をいただいた。
▼プロジェクターを個人的に買ったのだが、個人的に買っただけでは面白くないので、何とか公のために働く場所ができないかと思っていたのだが、典礼のオルガンを弾いてくれるシスターからのひとことで今回のアイディアが具体化した。
▼何でも、自分のために買ったものが自分のために役に立つのは当たり前のことだ。それを超えて、誰かのために、多くの人のために役立ったときに「買ってよかったなぁ」ということになる。今回は本当に買ってよかった。
▼たまに失敗もある。しかし、自分のアイディアがそれほど的外れでもないのだなと感じさせる出来事だった。十字架の道行きのために、等身大の十字架を担がせるようにしたことも、アイディアとしては新しくもないのだが、喜んでくれた。何となく、「じわじわ、来ている」と感じる一年だった。
▼平戸地区から異動していく司祭の送別会に参加してきた。一人の先輩が、「経済的に困りだしたら、○○をやってみようと思います」と発言したが、わたしと同じ手法だったので、「ここでも突飛ではなかったのだ」と感じたのだった。次に迎える司祭たちとも、交わりを深め、刺激を受けてこの地区のために働きたい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第489回目。百周年記念誌のタイトルに応募くださった皆様に感謝。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 復活の主日(日中)(ヨハネ20... | トップ | 復活節第3主日(ルカ24:13-35)... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2017-04-25 00:26:38
お別れしていく神父様との最後のお祈りが復活の喜びであることを、神様のいつくしみとともに、幸せに思います。
どちらのためにも (こうじ神父)
2017-04-27 23:26:10
ある程度の期間で異動するのはよいことです。

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事