こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第3主日・その人があなたに生きた水を与えます

2008-02-24 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/80224.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
08/02/24(No.343)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第3主日
(ヨハネ4:5-15,19b-26,39a,40-42)
その人があなたに生きた水を与えます
‥‥‥†‥‥‥‥

イエスは言います。「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(4・10)。イエスのこの言葉に、私は2005年8月に公開された映画「マザー・テレサ」の1つの場面を重ねて考えました。

オリビア・ハッセー演じるマザー・テレサは、駅で倒れて動けなくなっている人に目が留まりました。その人は身動き一つしませんでしたが、この人を通して「もっとも貧しい人々の中に、『水を飲ませてください』と言っているイエス・キリストを見た」と告白しています。彼女のこの体験が、その後の生き方を決定づけました。

マザー・テレサは、インドのもっとも貧しい地域の人々に奉仕するという生き方を通して、イエスが言う「生きた水」をいただくことになったわけです。「水を飲ませてください」と言ったのは目の前の人であると同時に、その人の中におられるイエス・キリストであった。

そのことが分かってからは、むしろ彼女の方からその人(目の前の人と同時に、イエス・キリスト)に頼み、その人(さきほどと同じ)は生きた水を与えてもらうことになりました。こうしてイエスの言葉「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」が完全に理解できたのだと思います。

マザー・テレサはよく次のようなことを言っていました。「わたしは毎朝、祭壇の上から小さなパンのかけらの主をいただいています。もう一つは、町の巷の中でいただいています」。この話は「二つの聖体拝領」と言われるようになりました。一つは朝ミサで拝領するご聖体、もう一つは町に出て、行き倒れの人を探してその人に接することでイエスに触れるというのです。

マザー・テレサが言った「町の中でいただくもう一つの聖体拝領」は、そのままイエスの言葉と一致しています。マザー・テレサは毎日町のどこかでのどの渇いている人、食べ物に困っている人、そのほかにも見捨てられている人に十分なお世話をして、人々の中におられるイエス・キリストから、「生きた水」をいただいていたのです。

私はマザー・テレサの取った態度の中に、福音宣教の大切なカギがあると思いました。つまり福音宣教とは、何も通りに立って聖書の本を片手にイエス・キリストの生涯を話して聞かせることばかりではないということです。イエス・キリストが人々に示したのと同じことを、私たちの身の回りで実行するなら、それがすでに福音宣教になるということなのです。

もう少し説明を続けましょう。例えばイエスは、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」(マタイ5・39-42)と言いました。

このイエスの言葉を、繰り返し言うことも福音宣教かも知れませんが、むしろ生活の中でこのイエスの戒めを実行することが、より力強く福音宣教していることになるということです。同じように、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」(マタイ5・43-45)。この言葉を繰り返すよりも、生活の中でその通りに生きることが、確かな福音宣教なのだと思います。

実は私たちの身近なところにも、今週の福音朗読と似た場面がたくさんあるのではないでしょうか。「手を貸してください」「席を譲ってもらえませんか」「教えていただきたいことがあるのですが」。井戸の側でイエスがサマリアの女性に語りかけた言葉に当てはめて考えると、「『○○してください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに(恵みや報いを)与えたことであろう」となります。

生活のあちこちに、サマリアの婦人が直面した場面があるということです。私たちがそれらを逃す手はありません。ごく身近な場面で、出会う人の中にイエスを見いだし、自分から進んで近づくことによって、福音の教えに生きる場があるのです。それはそのまま福音宣教にもなるし、第二の聖体をいただくことにもなるのです。

遠い井戸まで出かけなくとも、もっとも貧しい人々のもとへ出かけなくても、今生活している目の前で、イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言っています。もっと大胆に、「主よ、その水をください」(4・15)と願いましょう。出会う人々の中におられるイエスに、「生きた水」を与えてもらいましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼明治村の見学で撮影したデジカメ画像をようやく現像に回した。できあがったものを模造紙に貼って、大明寺教会で展示することにしたが、模造紙に貼る仕事を教会学校の子どもたちに手伝ってもらうことにした。実はこうして教会学校を1回サボったのだが。
▼模造紙の上には、あらかじめ割り付けのためのスペースをマジックで囲んで用意し、そこに割り付けて欲しい写真も無造作に置いて子どもたちに配置を考えさせることにした。模造紙は2枚あり、1枚は犬山市の国宝犬山城と大明寺教会以外の明治村の写真を配置することにし、1枚を明治村の大明寺教会聖堂だけに重点的に使用することにした。
▼もろもろの写真を貼る模造紙には明治村とこうじ神父が書いたが、大明寺教会を特集する模造紙には子どもに題字を書かせようと思い、「誰か書いてみないか。○○、書いてみるか?」と向けると、まんざらでもなさそうだったので任せることにした。すると、「大」は問題なく書いたのだが、続けて「寺」と書いてしまったから大騒ぎ。「大明寺教会って、まともに書けないわけ?」とほかの子どもから突っ込まれ、たじたじ。上から紙を貼り、「明」と書いて続きを書かせた。花を持たせようと思ったのが裏目に出てしまった。
▼区画ごとに写真の配置を決め、分担してセロハンテープで貼り付けるのだが、写真の配置をやってみたい者はいるかと聞くと、みんな尻込みしてなかなか手を出さない。この子が良かろうと思う子がいた。「やってみるか」と言うと、迷わず写真をにらみ、パパパと配置を決め、「さああとは貼り付けてくれ」と指示を飛ばし始めた。あの子には特別なリーダーの資格があるのかも知れない。

‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥
第19回目。私たちはなぜ夢を忘れてしまうのだろうか。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ヨハネ9:1,6-9,13-17,34-38)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四旬節第2主日(マタイ17:1-9)私たちがここにいるのはすばらしいことです

2008-02-17 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/80217.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
08/02/17(No.342)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第2主日
(マタイ17:1-9)
私たちがここにいるのはすばらしいことです
‥‥‥†‥‥‥‥

私たちは、当たり前になっていることにはなかなかその良さが分からないということがあります。伊王島・高島の海はお世辞抜きで抜けるような青い海です。そしてその美しさやすばらしさは、私たちにとっては当たり前なので、観光客が船の乗り降りの時に「きゃー、海がきれい」と言っているのがかえって不思議に思えるくらいです。

もう一つ例を挙げると、伊王島・高島は高齢者が多い町です。何を今さらと思われるかも知れませんが、ミサに来ておられる高齢者、あるいは島内で見かける方であっても、私はある時「いいなぁ、あの歳まで生きていて」と思うことがあるのです。

どういうことかと言うと、私は父方の祖父母も母方の祖父母も私が成人式を済ませる頃にはいなくなっていたからです。ですから、祖父母に当たる年齢の人が生きておられることは、私にとっては当たり前のことではなくて、生きているだけでうらやましいことなのです。

なかには、杖がなければ歩いて回れない人もいらっしゃるでしょうし、ひんぱんに病院に通うので、毎日気が重いという人もいるかも知れません。けれども、年を重ねても今日一日何とか生きることができるのは、当たり前のように思えて、当たり前ではないのです。事実、私の祖父母は4人とも会いたくても会えないのですから。

福音に入りたいと思います。3人の弟子が特別にイエスと山に登り、イエスの神々しい姿を見ることになりました。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17・2)私たちは肉眼で太陽を見ることはできません。それほどの輝きをイエスは弟子たちの前で現したのです。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」(17・4)。ペトロがこのように話すのも無理もないことです。

ところで、私たちははじめに、当たり前のことにはなかなかその良さが分からないということを考えました。ペトロは、光り輝く姿のイエスを見て、そのすばらしさを言葉にしたのですが、よく考えれば、もっと当たり前のこと、イエスと共にいること、イエスと寝起きし、町や村を巡って神の国を告げ知らせ、ときには人々に理解されずに辛い思いをしてきたこと、これらのごく日常の出来事が、もともとはすばらしいことなのではないでしょうか。

つまりペトロは、光り輝く姿を見ていなくても、本当は同じ言葉をイエスに言うべきだったのです。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(17・4)。

もしかしたらマタイは、イエスと共にいること、そのことがすでに「すばらしいこと」であると理解していたのかも知れません。それと同時に、ペトロがまだその点では十分に理解していなかったということも、ここでは匂わせているのかも知れません。

たとえそうであっても、弟子たちはその後イエスの最期の場面までお伴していくなかで、イエスと共にいること、そのことがすでに「すばらしいこと」だったのだと気付いたのです。その気づきがなければ、弟子たちはのちに殉教するほどの固い絆をイエスと結ぶことはできなかったはずです。

ペトロの体験は、私たちにも今の信仰生活について考えさせます。イエスのそばにいる人は、当たり前と思っていることのなかに、すばらしいものが詰め込まれていると気付くべきなのです。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」。

イエスのそばにいる私たちが、当たり前と思って見落としているすばらしい宝は何でしょうか。ここであらためて確かめ合いましょう。私たちが、自信を持って人に知らせるために、また、信仰を面倒だと思ったり放っておいてくれと投げやりになっている人にも、持っている信仰のすばらしさを思い出してもらうために、気付かないでいるすばらしい宝を確認しておきましょう。

何と言っても、私たちが受けた最高の恵みは洗礼です。洗礼は、私たちが神の子とされる恵みです。神が私たちの父となり、私たちが子としてもらう決定的な恵みです。神が人間と結んでくださる絆がどれほど深いか、預言者イザヤが教えてくれます。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ49・15)。

ある時期は、受けた信仰のすばらしさに気が付かない時もあるでしょう。高校生、大学生になる時期、高校を卒業して社会に飛び込んでいく時、親が側にいることや親の影が見え隠れすることを極端に嫌う時期がやってきます。この時期は親にかまってもらうのがうっとうしく、ついて回ったり先回りしたりすることを嫌がるものです。

そのように、高校生から大人としての一歩を踏み出し始める頃は、天の父の存在がうっとうしく感じたり、ことさらまじめに祈ったりミサに行ったりすることを拒否する時期があるのだと思います。中田神父も、ある時期そういう気持ちになることは、分からないでもありません。

ただ、だからといって肉親の父が高校生から二十歳になる時期に子どもを見捨てたらいったいどうなるでしょうか。その後の人生が狂ってしまうことにもなりかねません。そのことを知っているので、親はどれだけ子どもに嫌がられても関わり続けるわけです。

父である神も同じことです。私たちが青春期に信仰を嫌って遠ざかっても、神は決してその人から離れたりはしません。親から受けた命がすばらしいように、神から受けた命、洗礼の恵みもすばらしいものなのです。それは、親が決して子どもを見捨てることがないのと同じく、神が人を見捨てないことで分かります。

神はご自分の命を与えた子どもたちを決して見捨てません。ぜひ、洗礼の恵みのすばらしさを、時間がかかってもいいから、自分たちの子どもに、日頃教会との交わりを避けている人に、本人が気付くまで教え導いてほしいと思います。

人が神からいただく恵みはすばらしいのです。人が神と関わっているという事実は、すばらしいことなのです。当たり前と思って、驚きも感動もないかも知れませんが、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と声を上げるのに十分すぎるくらい、私たちは神からの恵みを受けて生きているのです。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼ひょんなことから知ったこと。ドコモのFOMA(フォーマ)は、一度に受信できるメールの文字数が5000文字なのだそうである。それならと、パソコン用の説教のメルマガをケータイのアドレスで登録して、パソコン用の原稿(約3000文字)のままケータイにも配信してみた。すると難なくFOMAではパソコン用のメルマガを受信することができた。
▼ケータイは非常にすぐれた機器である。買い物の支払いもエディ機能で「チャリーン♪」と済ませることができるし、空港のチェックインでも最近利用できることが分かった。長崎市内のバスでも、バス専用のスマートカード機能をケータイに持たせることもできるようだし、他社のではあるがキーボードまで備えた電話機も見たことがある。
▼そう考えると、これから進歩していくのはもしかしたらパソコンなのではなくてケータイなのかも知れないと思った。パソコンはどんなに小さくしても持ち歩けるものではない。ノートパソコンもあるが、少なくとも私は持ち歩いて家に帰ってきた頃にはすっかり肩が凝っているという苦い経験がある。大学ノート一冊の重さと厚さのノートパソコンは、しばらく登場しそうにもない。
▼そうすると、発想の転換が必要になってくるかも知れない。説教のメルマガを本当の意味で手のひらに届けるためには、パソコンへの配信ではなく、ケータイに届くほうをもっともっと研究しなければならないのかも知れない。FOMAの利用者は、ケータイメルマガの利用者のほぼ9割に達していると聞く。これだったら、本来の3000文字説教の配信先を、積極的にケータイユーザーに広めていく方向で進めていいと思う。新しい展開が見えてきそうだ。

‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥
第18回目。言語能力の習得は、歩行能力の習得とはまったく異なる。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ヨハネ4:5-15,19b-26,39a,40-42)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四旬節第1主日(マタイ4:1-11)イエスの模範に倣う生き方を探そう

2008-02-10 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/80210.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週のお説教」
08/02/10(No.341)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第1主日
(マタイ4:1-11)
イエスの模範に倣う生き方を探そう
‥‥‥†‥‥‥‥

四旬節第1主日を迎えました。この日はイエスが霊に導かれて荒れ野に行き、悪魔から誘惑を受ける場面が朗読されます。イエスは悪魔の誘惑を一つずつ退けました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4・4)「あなたの神である主を試してはならない」(4・7)「「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』」(4・10)。

悪魔を退けるこれらイエスの言葉を合わせて考える時、人間が神の前にどう生きるべきかが問われているのだと思いました。神の前にどんな態度を取ったら、人間は本当の意味で人間らしく生きることができるか。そのことをイエスは40日の荒れ野での誘惑の中で示してくださったのだと思います。一つずつ、考えてみることにしましょう。

悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(4・3)と誘惑しました。石をパンにできるのは全能の神だけです。それは人間に、全知全能になれたら素晴らしいと思わないかと、誘惑しているのと同じです。

確かにそうなれるなら、素晴らしいのかも知れません。けれども、人間が全知全能になることが、本当に人間にとって幸せなことなのでしょうか。私たちは知らないことがあり、あることについてはできないことが分かっているので、人間らしい生き方ができるのではないでしょうか。知らないことがあり、できないことがあるから人間は互いに助け合い、協力し合うのではないでしょうか。

人間の分を超えた存在になろうという誘惑は、結局人間を不幸にします。むしろ、全知全能の神に自分を委ね、信頼を置いて生きる時、人間は本当の意味で幸せであると言えるのです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とは、人間が神になることが幸せなのではなく、神の言葉に生かされ、導かれる生き方が本当の意味での幸せなのだと教えているのです。

次に悪魔は、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」(4・6)と挑みます。「天使たちは手であなたを支える」(4・6)に違いないと誘惑するのですが、これは、神が人間の言うことを聞いてくれるかどうか試してみろと騙しているわけです。

人間が神を試すなら、人間は人間ではなくなってしまいます。神に従う人間こそが、本当の意味で人間らしい生き方です。神に従わず、神を試すなら、人間は自分の分を超えたものになろうとしているのです。それは、悪魔の誘惑に完全にはまっている姿ではないでしょうか。

この場面での誘惑を考える時、私はイエスの十字架の場面を思い起こします。「神の子なら」という言葉を悪魔は使っていますが、マタイ福音書によると、イエスの十字架の場面で人々が「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(27・40)と言ったとされています。

これも、御父のみ旨に完全に従おうとするイエスに、神に従わず、十字架を降りてみろとけしかける悪魔の誘いです。イエスは、人間が人間らしく生きる道をきっぱりと示すために、神に従う道、御父のみ旨に従う道をはっきり示してくださったのです。

最後に、悪魔は「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(4・9)と誘惑しました。神を礼拝し、主にのみ仕える生き方が人間らしい生き方です。悪魔を拝むこと、それはつまり神以外のすべてのものを拝むことですが、こうした態度は、本当の意味で人間らしい生き方ではないのです。人間が人間らしく生きていけるように、イエスは40日の断食の中で、空腹になる中で、模範を示してくださいました。

今週の朗読箇所を通して学んでほしい点を最後に短い言葉で示しておきましょう。それは「イエスの模範に倣う生き方を探そう」ということです。第1の誘惑で考えるなら、全知全能になろうという野望を持つことと、全知全能の神に導かれて生きることとはまったく違います。全知全能の神になろうとすることは人間の分を超えた態度であり、全知全能の神に導かれて生きようとすることは人間本来の生き方、しかもすぐれた生き方なのです。

神の前に人はどう生きるべきか。この問いに答えることができる人は、周りの人に自分の生き方を伝える必要があります。あなたも、本当の意味で人間らしく生きるべきです。神になろうと思ったり、神を試そうとしたりせず、神に従う生き方、神の言葉に導かれて生きることを考えてみませんかと、はっきり示すべきです。

私たちはみな、神に従うことが本当の意味で人間を人間らしくするのですよと、人に知らせる使命が与えられています。イエスが荒れ野での40日間の誘惑で示した模範が、私たちを常に励ましています。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼元気があれば明治村の続き。結果的にだが、行きはJAL、帰りはANAという選択は正解だったと思う。JALは名古屋の中心街に降り立ち、ナゴヤドームも見ることができた。翌日の夕方帰ることを考えれば、行きと帰りの航空機が逆だったら、おそらく名古屋の中心街遊覧飛行は楽しめなかったかも知れない。
▼セントレア(名古屋新国際空港)はとても行き届いた空港で、食事のできる店がふんだんに入っていて、目移りした。お土産もあれこれ選ぶことができたし、トイレも広々としたスペースを確保して、荷物を持ち込んだ人でも安心して用を済ますことができそうだった。ちなみに犬山からセントレアまでは直通の電車が通っていて、乗り継ぎがなかったこともあって景色を見る前にグーグー居眠りしてしまい、記憶がない。
▼ついでに犬山城のことを書くと、この城は各階に行き来する階段がとても急な作りになっていた。理由があるのかも知れないが、この城の殿様やお姫様は、あれでは上り下りが大変だったに違いない。さらに最上階では素晴らしい眺めを楽しむことができたが、その眺めを楽しむ「テラス」は、高所恐怖症の私にはあまり楽しいとは思えなかった。ガイドのおじさんから笑われてしまった。
▼愛知県には母方の兄(叔父さんに当たる人)がいて、連絡すればきっと案内してくれたと思うが、旅は自由な気分を味わうものだろうから遠慮した。いろいろ詳しい場所を教えてくれただろうけれども、不便を承知で、それでも1人で十分楽しめた。
▼教会学校の子どもたちに「愛知県の明治村に行くけれども、お土産なにがいいかい」と尋ねたら、間髪入れずに「中日ドラゴンズの帽子がほしい」と言われ、ずっこけた。明治村のお土産と言ってくれるものと思っていたが、子どもたちにとって愛知県行きはナゴヤドーム行きと同じ意味なのだろう。帽子は買わなかったが、ドラゴンズのストラップを買ってきたら子どものように喜んでくれた(事実子どもです。笑)

‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥
第17回目。外国語を学ぶことは、自国の文化に対する洞察力を生む。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(マタイ17:1-9)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第4主日(マタイ5:1-12a)イエスの語る「幸い」に生きている人々がいます

2008-02-03 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/80203.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週のお説教」
08/02/03(No.340)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第4主日
(マタイ5:1-12a)
イエスの語る「幸い」に生きている人々がいます
‥‥‥†‥‥‥‥

今週は灰の水曜日からの四旬節に移行する年間の週です。四旬節ということは40日後にはご復活がやってきます。早いものです。ご復活が近くなれば、黙想会のことも気になるでしょう。今年の黙想会は川上神父様にお願いしてみました。私も、この小教区の先輩のお話を聞いてみたいので、楽しみです。

明治村に行ってきました。以前、明治村に行ったことがある人もいると思いますが、私たちが大切に守ってきた大明寺教会が明治村のいちばん奥に、ひっそりと根を下ろしていました。大明寺教会が置かれているのは、1丁目から5丁目まである明治村の中で5丁目、いちばん奥です。

この5丁目にはもう一つのカトリック教会で京都の司教座聖堂だった、聖ザビエル教会も移されていました。私のひいき目かも知れませんが、静かで目立たない大明寺教会のほうが、かえって祈りの雰囲気を保っていて、中に入って落ち着くことができました。

明治村は全体を5時間かけて回りました。その中で大明寺教会で過ごす時間をいちばん長く取りました。もしも大明寺にそのまま置かれていれば、私が主任司祭なのですから、いろんなところに興味がわきまして、雨戸を開け閉めしてみたり、香部屋に行く横の扉を開け閉めしてみたりして、明治村を案内するボランティアガイドに泥棒と勘違いされそうになりました。

皆さんが明治村に行った頃には、京都の路面電車とか、機関車は利用できたでしょうか。路面電車は2駅、機関車は1駅でしたが、乗って楽しむことができました。そのほかにもいくつか興味のあるものにしぼって見学してきましたので、写真ができあがったらまず最初に大明寺教会で写真展を開きたいと思います。1ヶ月前から練っていた計画でしたが、この予定のためにたくさんの人に無理をお願いしてご迷惑をおかけしました。申し訳なく思っております。

そう言えば、明治村に行く2日前に、私は人間ドックにかかって健康診断を受けました。胃カメラはものすごく苦しかったです。費用も36500円かかりました。それだけ払ってはっきりしたことは、胃に慢性的な胃炎が見られるということと、太っているので痩せなさいということでした。36500円も払って、太りすぎという診断ですから、ずいぶん高く付いたなぁと思っています。ついでに言えば、その翌日には父親がフランシスコ病院で診察を受け、その日に入院を告げられました。大変あわただしい1週間でした。

さて今週の福音朗読は、有名な山上の説教の「幸い」についてです。弱い立場に置かれている人を取り上げて、イエスは「幸いである」と約束してくださいました。私はここに述べられている8つの幸い「真福八端」に、今年は新しい発見がありました。イエスは、弱い立場に置かれている人だけでなく、私たちの中でも8つの幸いに生きることが可能だと教えているのではないかと気付かされたのです。

きっかけは、土曜日「主の奉献」の祝日に行われた、純心聖母会の終生誓願式に参加したことでした。5人の初々しいおとめが、終生誓願を神さまとその場にいる全員の前で宣誓しました。誓うのは3つです。清貧・貞潔・従順。私はこの3つの誓願が、今日の福音朗読に大いに関わっていると感じました。1つずつ考えてみることにしましょう。

1つめは清貧です。イエスは今日の幸いの中でこの貧しさについて真っ先に取り上げました。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」(5・3)。誓願を立てる修道者たちは、天の国のために貧しさを積極的に選びます。昨日参加した純心聖母会であれば、大学教育にも携わっています。中には大学教授をしている修道者もいることでしょう。それでも、約束されている高収入を神さまのために手放している。保育園の先生だって同じことです。積極的に貧しさを選び取って生きている人が、今の時代にもちゃんといるわけです。

2つめは貞潔です。この誓願は「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る」(5・8)が当てはまっていると思います。心の清さは、しばしば肉体の清さとつながっています。両方の清さを合わせたものが、貞潔だと思うのです。この点でも、修道者は心の清さを積極的に取り入れて生きている人だと思います。

3つめは従順です。次の幸いが当てはまりそうです。「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ」(5・5)。心穏やかな人は、目上の人や責任者の命じることを柔軟に聞き入れます。上長に従うことは、イエスが御父のみ旨に完全に従っておられたことを生きることになります。従順であるためには、怒らず、いら立たず、穏やかであることが必要です。ですから、柔和な修道者は、従順の誓いに生きることができるわけです。

それぞれ、3つの誓願が、山上の説教の「幸い」にうまく当てはまっていることがよく分かります。そしてもっと優れているのは、修道者たちが、3つの誓いのうちどれか1つを選んで守っているというのではなくて、「3つとも同時に選んで生きている」ということなのです。

「1つ選択して生きるだけでも大変なのに、3つも同時に、しかも生涯その状態で生きることを誓うなんて、考えられない」と思うかも知れません。ですが目撃した私が証言しますが、昨日誓いを立てた3人の姉妹達は、決して強いられてしているのではなく、自分たちの生きる道として自分で選んで、誓っていることがよく分かりました。

これは、何を意味しているのでしょうか。私は、今日福音朗読で取り上げられている「幸い」は、たまたまそのような状態に置かれている人にイエスが希望を与えているというだけではない、むしろ積極的にその状態に留まって生きることができるということを教えているのではないでしょうか。

貧しさや、清さや、柔和な姿を強制されているとしたら、人はどんな顔になるでしょうか。きっと、表情は暗く、輝きも失せることでしょう。ところが、昨日誓いを立てた5人のおとめたちは、表情は明るく、輝いていました。あの表情を見て、誰が生き方を強いられていると感じるでしょうか。

あの喜んでいる顔こそ、イエスが教える「幸い」は強いられてするものではなく、自ら選んで、生きていく時、喜びを得ることのできる道なのだと教えてくれます。彼女たちは喜んでいました。喜びは、束縛や強制からは生まれません。自由を感じている人に自然とわいてくるものです。今日イエスによって紹介された姿を生きようと思うなら、私たちは不自由になるのではなく、むしろ自由になり、喜びが満ちあふれるようになるのではないでしょうか。

イエスが語る「幸い」を、生涯生きていく人々が私たちの身近にいます。私はこれから、修道者の皆さんを、「真福八端を喜んで生きている人」として、あらためて尊敬の念を持って接していきたいと思いました。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼何から書いたらよいのか分からないくらいたくさんのことが起こった1週間だった。いちおう、明治村のことを整理して書いてみたい。大村空港からJALで小牧(名古屋)空港に降り立ち、空港の玄関から出ている連絡バスで西春駅まで移動(終点なので間違えることはない)、西春駅から名鉄で犬山へ向かった。
▼犬山駅は、交通の要所らしく、いろんな方面への路線でどれに乗っても犬山を通っていた。それで、迷うことなく犬山にもたどり着いた。犬山で宿を取ったホテルも、歩いて5分なのですぐに見つけることができた。翌日国宝の犬山城を見学し、犬山駅に戻ってバス乗り場に向かった。ここでも「明治村行き」の大きな案内板が出ていたので迷うことはなかった。
▼非常にスムーズな乗り継ぎで明治村に到着し、入念に検討していたコースを基本に、気分の向くままに村内を見て回った。平日だったせいか、京都の路面電車や鉄道の体験乗車は、貸し切りだった。どうせ1人で貸しきりなら、運転席に乗せてもらいたかったなぁ。無理だろうけど。
▼大明寺教会は、いい場所に引っ越したなぁという感じを持った。賑やかな場所に置かれていたら、とても祈りの雰囲気を保つことはできなかっただろう。静かで、しかもひっきりなしにアベックが入ったりしないので、祈りやすかった。それに比べて聖ザビエル教会はアベックが何とも思わずにおしゃべりして中を歩き回り、祈りの雰囲気を保つのは難しいと感じた。観光地に行ったのだから致し方ないが、皆がそれぞれの建物の本来の姿を尊重してくれればいいのにと思った。

‥‥‥†‥‥‥
今週は予定変更
‥‥‥†‥‥‥
特別に。明治村の4つの風景を紹介します。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(マタイ4:1-11)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする