こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第13主日(マルコ5:21-43)イエスはわたしたちの苦しみに触れてくださる

2015-06-28 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/150628.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/06/28(No.775)
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年間第13主日
(マルコ5:21-43)
イエスはわたしたちの苦しみに触れてくださる
‥‥‥†‥‥‥‥

年間第13主日B年は、「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」の物語が選ばれました。選ばれた朗読から、「イエスに触れる」「イエスが触れる」ということについて学びを得たいと思います。

先週、これぞ船の船頭という仕事をすることができました。ある浜串出身のシスターが休暇を取って来ていたのですが、「しばらく浜串でお世話になります」とわざわざ司祭館にあいさつに来て、「こちらに着いてすぐ波止場で久しぶりに釣りをしました。お魚を10匹釣りました」と聞かされたのですが、申し訳ないけれども、シスターが釣った魚というのはわたしが釣る魚が捕食している小魚でした。

わたしはとても同情し、一週間滞在すると言うことでしたので、もしシスターが一緒に出掛けてみたいと言うならボート釣りに誘ってみようと心の中で考えました。水曜日の晩に釣具コーナーをのぞき、道具を補充し、木曜日の朝ミサの後に恐る恐る声をかけてみました。

「シスター。わたしは今日ボート釣りに出かけるけれども、シスターがもし興味があれば連れて行くよ。」行かないと言うだろうという読みだったのですが、意に反して行ってみたいということでしたので、初めての鯛釣りに出かけたわけです。

結果はわたしにとって芳しくないものでしたが、シスターはうねりのある海上で3時間ボート釣りに付き合い、一度も船酔いせず、ずっとわたしの指示を守って釣ろうとしました。残念ながら本人が釣ることはありませんでしたが、わたしがキジハタを2匹仕掛けに喰わせたので、その竿をシスターに渡して、シスターはキャーキャー言いながら釣った気分を味わうことができました。

船頭としては、本人が釣り上げてくれるのがいちばん嬉しいのですが、いちおう、釣れたらこんな感じだよと魚のかかった竿を持たせてあげたので満足でした。港に帰るとわたしたちに声をかけてくれる人が2人いました。わたしは鼻高々だったのでそのうちの1人に「わたしが釣って、竿を持たせてあげたんだよ」と自慢すると、「ほんなごどかよ(それ本当の話なの?)」と一蹴されてしまいました。ちょっとわたしでは説得力がなかったかも知れません。

さてイエスはヤイロの娘と出血症の女性を救ってくださいました。実は今週の朗読には前触れのようなものがあったと思っています。おとといの金曜日はマタイ8章の「重い皮膚病を患っている人をいやす」という物語で、「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。」(マタイ8・4)とあります。

さらに土曜日には金曜日の続きの出来事として、ペトロのしゅうとめが熱を出して寝込んでいて、イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした(同8・15)という場面が朗読されました。これらの朗読が、年間第13主日の福音朗読をさらに豊かにしてくれていると思ったのです。

金曜日、土曜日、そして今日の朗読で目に留まるのは、イエスが病に苦しむ人々に触れてくださる姿です。本日の福音朗読では出血の止まらない女性が背後からイエスの服に触れます。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」(マルコ5・30)と言われました。これは見た目には出血症の女性がイエスに触れているわけですが、力が出て行ったのはイエスから女性に向かっています。

また、ヤイロの娘は使いの者の報告によって死んだことがはっきりしていましたが、イエスが子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われました(同5・41)。イエスが子供の手を取る動作は、当然イエスが子供に触れているということを意味します。こうして、イエスが病に苦しむ人々に触れてくださるとき、決定的なことが起こっているのです。

イエスが病に苦しむ人々に触れてくださると、すべての時間が止まります。病に苦しんできた時間、わが子を失った悲しみの時間、希望を絶たれた絶望の時間、それら悪が勝ち誇っている時間にイエスは触れて、すべてを停止させてくださるのです。

代わりに、イエスが触れたその時から新しい時間が始まります。苦しみから解放された時間、悲しみの闇から希望の光に導かれる時間、絶望をもはや思い出さない希望の時間です。新しい時間はイエスが触れた瞬間から始まり、決して奪われることはないのです。

イエスが触れることで始まった新しい時間が決して奪われないことは、出血症の女性にかけたイエスの言葉が教えてくれます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(5・34)

今週の福音は、誰も止めることのできないものを止めてくださるお方を指し示しています。誰も奪い去ることのできないものを与えてくださるお方についても指し示しています。それはイエス・キリストです。

わたしたちが日々の暮らしの中で深い淵に落ちていくように感じ、誰もそれを止めることができないと悲しんでいるなら、イエスのもとに駆け寄りましょう。

喜びや希望は続くはずがないと何度も裏切られたことがある人も、今こそイエスのもとに駆け寄りましょう。イエスは、わたしたちに目を留め、触れてくださいます。わたしたちの望むものを、わたしたちの望み以上の形にして返してくださるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(マルコ6:1-6)
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ちょっとひとやすみ
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▼お告げのマリア修道会上五島地区の静修のために講話を依頼されていたが、先週の初めにようやく形になり、2回声に出して読み、録音も試してみた。録音した時点では60分を切るくらいだったが、実際に50人くらいのシスターを目の前にして話す時に、どれくらいの時間になるだろうか。
▼わたしは原則、原稿を用意して原稿に沿って話をする。メモがないと話の順番すら正しく思い出せない頭しか持ち合わせていない。ところがわたしが聖スルピス大神学院に在籍していた時、葉書大のカード4枚だけで授業をこなしていた哲学の教授がいた。
▼同じことをしなさいと言われたなら、わたしは90分の講話を埋めるためにパソコンを使ってA4レポート用紙20枚びっしり原稿を用意しないといけないだろう。それを、かの教授は4枚のカードのみでこなしていた。中学時代から原稿を用意しなければ発表も何もできなかったわたしとは雲泥の差である。
▼わたしの印象では、原稿を用意する人と用意しない人の差は、頭の中に原稿があるか、そうでないかの違いだと思う。わたしの頭の中はいつも空っぽであり、もし原稿がなければお手上げである。
▼一度出張先に原稿を持ち込むのを忘れ、青ざめたことがあった。明らかにしたくはなかったが、その時は司祭館のパソコンをパスワードを開いて立ち上げてもらい、ネットで原稿を送信してもらった。本当に、手元に原稿がなければ、頭の中は空っぽなのである。
▼そのような非力な頭脳ゆえ、パソコンの資料を失うとわたしはお先真っ暗の人間だ。頭の中にすべてがある人がうらやましくなる。きっとそういう人は、「慌てる」という経験がないに違いない。パソコン依存症のわたしだから、パソコンが使えない場所に派遣されたら、きっと今のわたしではなくなると思う。

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今週の1枚
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第382回目。本日午後から、50人ほどのシスターを前にえらそうに講話をします。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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お告げのマリア修道女会上五島地区月の静修

2015-06-28 | Weblog
お告げのマリア修道会上五島地区
四季の静修
2015,6,28

前置き
●中田輝次神父です。前回皆さんの前でお話ししたのは信仰年の年だったような気がします。話を依頼されると快く引き受けるのですが、こうやって話をするたびにやすやすと引き受けるべきではなかったと後悔します。
●皆さんの中には車を運転する人もいらっしゃるでしょう。道路に直接数字が書かれているのをご存知でしょう。つい最近のことですが、数字を見てショックを覚えました。生まれて初めてのことでした。
●何の話かと言いますと、わたしは昭和41年(西暦1966年)3月生まれで、49歳3カ月となっています。考えたくはないのですが、来年の誕生日で50歳になります。頭のどこかにそのことがあったのでしょうか、ある日車を運転していて道路に書かれている「50」という数字を見てショックを受けたのです。
●今までその数字を見ても車のスピードメーターに目をやるだけでしたが、生まれて初めて、「あー、もうすぐ50歳になるんだ」と、悲しい気分になりました。よほど、気にしていたのだと思います。
●まぁそういう些細なことでショックを受けるようになったということは、やはり歳を取ったということなのだと思います。けれども歳を取ることは悪いことばかりではありません。その年齢にならないと感じることのできないこと、その年齢になってようやく理解が及ぶこともあるからです。
●年齢をわきまえない発言で、お仕えした主任神父さまに執務室に呼ばれ、一度だけ叱られたことがありました。叱られた内容はお話ししませんが、次のように言われました。「あのなぁ。60(歳)にならないと言うべきでないこともあるんだぞ。」50歳を目の前にして「50の恵み」をいただいています。

センスのある人と、センスのない人
●浜串小教区に6年お世話になっています。写真家の峰脇さんから5年前の聖母行列の写真を2016年ドンボスコカレンダーに使用したいのだが写真に写っている人全員の了解を得たいという相談がありました。写真の真ん中に十字架を抱えて写っている幼かった子供が高校2年生になっていまして、本当に6年間過ごしてきたのだと実感します。
●ここには写っていませんが、当時保育園の年長だった女の子が現在小学5年生としてミサの侍者を務めています。この女の子のことを取り上げて最初の話の取っ掛かりとしたいと思います。
●浜串小教区は女の子の多い小教区です。現在小学生のうち、男の子は1人しかいません。女の子を侍者に使わなければ、ほとんどの日が侍者なしでミサをしなければならなくなります。さてこの女の子ばかりの侍者の中で、「この子はセンスあるなぁ」とわたしが感じている女の子が1人います。
●どの小学生が侍者を始めるときも、一通り練習はするのですが、習い覚える子供のセンスは一人ひとり違います。紹介する子供にセンスを感じたのは、聖体拝領の時に使う受け皿のことです。ご聖体を授けるときに受け皿を差し出すこと、うっかり神父さまが落としそうになったら、君が受け皿でキャッチすること、手伝いが終わったら浜串教会では祭壇脇に受け皿を置くこと。これくらいの説明をして全員練習させております。
●すべて聖体拝領が終わり、侍者が受け皿を祭壇脇に置きます。様子を見ていると、とにかく置きさえすればよいと考えている侍者がほとんどですが、1人、わたしが聖体拝領後のすすぎをするときに手を伸ばして届くところに必ず置いてくれる子がいるのです。それだけでなく、その子は必ず受け皿の取っ手を少し司祭側に向けてくれるのです。
●おそらく、そこまできっちり指導すれば、全員その通りにするでしょう。しかしそこまで指導すれば、どの子がセンスを感じさせる子供か見抜くことができなかったでしょう。わたしの指導がいい加減だったおかげで、1人の子のセンスの良さを知ることになりました。
●聖体拝領の受け皿は、基本的には祭壇に置いて帰れば司祭があとのことはします。けれども、祭壇のいちばん端に置かれたら、「もうちょっと近くに置いてくれればなぁ」と思うわけです。司祭の手の届くところに置いてくれるだけでもありがたいですが、更に取っ手を司祭側に少し向けてくれるというのは、非常にありがたいのです。
●これは、「センスの問題」だと思います。「自分の働きを、どのように感じているか」この問題です。わたしが取り上げた子は、「受け皿を祭壇に置くのは置くけれども、どのように置けば神父さまは助かるだろうか」ここまで確実に考えて受け皿を置いていると思います。最後にちょっと取っ手を司祭側に向けるしぐさは、侍者が10人いてもその中で何人もができることではありません。
●センスの問題を取り上げました。もっとわかりやすく言うと、「自分の働きを、どのように感じているか」ということです。修道者の皆さんにも、わたしたち司祭にも、センスの問題があります。「自分の働きを、どのように感じているか」ときおり、自分に問いかける必要があります。
●これはあくまでもたとえですが、司祭館で奉仕するシスターが、主任司祭と具体的な奉仕の内容について話し合っているとします。その中で、これはあくまでも「たとえば」ですが、「朝食の時間は何時にしましょうか。11時にしますか?」と確認を求めてきたとしましょう。主任司祭はどう反応するでしょうか。
●「朝食が11時とか、あり得ないだろう。いったい何を考えているのだ」と主任司祭は答えるのでしょうか。わたしがそのシスターに遭遇したら、「はい、分かりました」と言うと思います。なぜかと言いますと、これはそのシスターの「センスの問題」で、いくらどのように指導しても、おそらく変わらないからです。
●わたしが30代だったらガミガミ言っているかもしれません。しかしもうわたしにはそのようなエネルギーはありません。限られたエネルギーです。浪費するよりは温存したいので、もはやそのような「センスの問題」で言い合うつもりはありません。すでに、いろいろ言うまいと思われている人もいるかもしれません。
●「自分の働きを、職場の人はどのように感じているだろうか、主任司祭はどのように感じているだろうか、神さまはどのように感じているだろうか。」センスの問題を抱えている人にそれをとやかく言う人はめったにいないと思いますが、もし率直に指摘してくれる人がいるようでしたら、有難く頂戴したほうがよいと思います。

センスがあってもなくても、役に立つ人でなければならない
●しかしながら、たとえセンスに問題を抱えている人であっても、奉献生活にある人は皆、「役に立つ人」にならなければなりません。「役に立つ」で思い付く英単語は”useful”です。単語のつづりからして、”use”と”ful”を合成して出来上がっています。似たような単語は、”powerful””wonderful””beautiful”などがあります。どれも後ろに”ful”が付いていますが、これはどう考えても「十分に」という意味の”full”が語源でしょう。
●何が言いたいかというと、「役に立つ」というのは、英語の”useful”と比較しながら考えると、「十分に使える」「十分に使い物になる」という意味があるということです。「百回に一回くらいは居てよかったと感じる」そんな意味ではないのです。十分に、フルに役立ってこそ、「役に立つ人」”useful”なのです。
●この考え方に立って、今の自分の生活を考えてみましょう。神さまにこの身を役立てたいと思ってから、それぞれ何年過ぎたでしょうか。5年・10年・25年もしかしたら50年。わたしは平成4年(西暦1992年)の3月17日に司祭に叙階されましたから、かれこれ23年目を歩いています。
●23年目を歩いているわたしは、所属教会の信徒の皆さんにとって「十分使い物になる司祭」「"useful”な司祭」であるだろうか。これまでの23年を振り返って、「十分使い物になる司祭」「”useful”な司祭」であろうと努力を続けてきただろうか。まずはこの点を皆さんと一緒に振り返ってみたいのです。
●なかなか、客観的に自分を評価できる人はいません。そこは気の許せる仲間に評価をしてもらうというのも一つの方法だと思います。ほかにも、自分で自分を評価する参考として、5つの「役に立っている」という項目と5つの「迷惑をかけているのではないか」という項目を書き出してみてはいかがでしょうか。
●その「役に立っている項目」と「迷惑をかけているかもしれない項目」に、自分自身の「センス」を重ね合わせると、より鮮明に自分を見つめ直すことができると思います。センスの問題を抱えている部分と、迷惑をかけているかもしれない項目とがぴったり重なるとしたら、もはやそれは生涯迷惑をかけ続ける項目、修正不可能な項目と言えるかもしれません。
●でもがっかりする必要はないと思います。センスの問題を抱えていても、「十分に物になる可能性」がなくなるわけではありません。わたしは小学校の時から音楽は2でした。けれども自分が音楽センスに問題があると理解しているので、オルガン奉仕者から指摘を受ければ、それは素直に従うようにしています。センスの問題を抱えている部分で迷惑をかけているとしても、自分がそうなのだと忘れさえしなければ、十分お役に立てる人となれるのです。
●中には、「わたしはあなたの苦手なここができるから、手伝ってあげましょう」という人もいたりします。司祭同士でもそうです。黙想会のときとか、それぞれが赴任している教会、派遣先でとか、お互いに助けたり助けられたりすることがあります。本当に慰め多い体験です。こんな隣人は大切にしたいですね。
●いつだったか、時期は忘れましたが、出張先で眠っている夜中に電話がかかってきました。出張先のことでしたので嫌な予感がしました。おそらくだれかが救急搬送されたのだろう。すぐには病院に行けない、だれかに依頼しなければと思いました。ところが電話は全く違う内容でした。
●「神父さま。寝てましたか?」「なんね?」「カメがふ化したんですよ。見に来ませんか?」急にテンションが下がりまして、「出張先なのになんで見に行けるとや・・・」と、内心ムッとしたのですが、でもわたしにどうしても知らせたかったわけですから、それは受け取り方の問題です。わたしが「きっとかわいいだろうね」と言ってあげれば済むことです。
●いずれにしても、夜中に電話で起こされた時、「だれかが緊急事態かもしれない」と感じたということは、わたしが司祭として、神さまのお役に立っている(”useful”だ)と思える出来事の一つとなりました。
●イエスは「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」(マタイ28・11)と仰せになりました。司祭も修道者も、「奉仕する」の「仕える」と、「役に立つ・使い物になる」の「使える」”useful”この両方の意味でイエスの道具であるべきだと思います。
●皆さんお一人お一人これまで奉献生活者として過ごしてきた年数があります。わたしたちは同時に、大まかで結構ですから、これから先の年数も考えておくべきです。たとえばわたしは、あと20年くらいは働くことになると思います。これからの20年、日本の教会のためにお仕えする司祭、イエスのためにお仕えする司祭でありたいし、日本の教会にお役に立つ司祭、イエスのために「使い物になる司祭」「”useful”な司祭」でありたいと思うのです。皆さんも考えてみましょう。

イエス・キリストに養われて「役に立つ存在」になる(1)「聖体」
●「センスがあってもなくても、役に立つ存在になりましょう」とは言ってみたものの、人間の努力はたかが知れています。本当に、人間の努力なんて吹けば飛ぶようなものです。
●わたしはパソコンの致命的な故障や操作ミスのために過去に2度、パソコン内にためていたすべての資料を失いました。5年とか、10年ため込んできた知識や経験や記録を、たった一度のミス、あるいは過度にパソコンを信頼しすぎたせいで、あっけなく失ってしまったのです。
●聞くところによると、ベッドに長くふせっている人は、筋肉が1日につき0.1%ずつ失われていくそうです。すると、1カ月で3%も失われてしまう。それまで懸命に体づくりをしていた人でも、1ヶ月とか、3カ月で今までの努力が水の泡になるということです。
●こうしてみると、わたしたちが役に立つ人であり続けるためには、自分の努力により頼んではいけないということが分かります。社会で活躍するほかの人々は、自分の努力により頼んでも構わないかもしれません。けれどもわたしたちは、修道者である皆さんは、イエス・キリストにより頼むことで自分を役に立つ人に造り上げてもらう必要があるのです。
●ではイエス・キリストのどのような姿により頼めばよいのでしょうか。現代まで(わたしたちまで)受け継がれているイエス・キリストの姿はご聖体と十字架です。ほかの姿はさまざまな絵画で残されていますが、すべての場面がすべての人に知られているわけではありません。すべての人に受け継がれているものとしては、ご聖体と十字架ということになります。
●そのご聖体と十字架のうち、まず「ご聖体に養われて役立つ存在になる」ということを考えてみましょう。ご聖体に感謝の気持ちがより自然に湧いてくるのは、自分自身が弱さを感じている時ではないかと思います。それは病気を抱えているときとか、心を病んでいるときとかです。病人訪問をすればそのことはよくわかります。
●わたしは最近、弟がすい臓を患って入院した時に、弟にご聖体を授けに行ったことがあります。弟はふだんは生意気な口を聞くタイプですが、入院していても生意気は変わっていませんでした。けれども聖体拝領のために儀式を始めたときに、そうした生意気な雰囲気は隠れてしまい、ご聖体を敬虔に拝領する姿に変わったのです。
●この時の経験から、ご聖体はイエスの言葉で言えば、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2・17)を現代にまで受け継いでいるイエスの姿だと思います。
●すると、ご聖体は誰を養ってくれるかというと、特に弱っている人を養って「イエスのために役立つ存在」にしてくれるのではないかと思います。弱さを感じている人は、自分が役立つ存在になっていないことを日頃から気に病んでいるかもしれません。病気のため、心の病のために弱っている人は、自分の努力で強くなろうとしても無理なのです。
●こうした、負い目を感じている人を養い、「イエスのために役立つ存在」にしてくれるのはご聖体なのだと思います。修道生活にあって、皆さんはかなりの頻度でミサにあずかり、ご聖体をいただくことができます。ご聖体により深く養われる生き方にありますが、その中でも、自分が弱さを感じている時、今こそ聖体に養われるときだと理解しましょう。
●さまざまな病で自分が生きている意義や、修道者としての価値に疑問を感じるとき、その時こそご聖体に養われるときだと思います。ご聖体のイエスは、特に弱さの中にある人を養い、価値ある者としてくださる恵みです。
●ご聖体は、拝領した直後からわたしの中で溶け始めます。イエス・キリストがご自分を無にしてわたしたちの中に溶け入ってくださいます。それは、わたしたちに対するしるし、模範です。わたしたちも、置かれている場所に溶け入る必要があるのです。ご聖体のイエス・キリストがとどまるにはまったくふさわしくないわたしの中に溶け入ってくださっているのですから、わたしたちも置かれた場所をわたしにふさわしくないとかわたしはここが嫌だと言わずに溶け入る必要があるのではないでしょうか。
●ここからちょっとだけ余談ですが、ご聖体にイエス・キリストがとどまっておられるという信仰は、なかなか同じ信仰を持たない人には伝わらないと思います。一つたとえを持っていると心強いかもしれません。そのたとえを説明するちょっとした道具を用意したいと思います。温かい場所に置きっぱなしにできない物なので、今からちょっと冷蔵庫に取りに行きたいと思います。
●(チョコレートを用意して)これ、ぱっと見て何に見えるでしょうか?わたしにはチョコレートに見えますが、皆さんには何に見えるでしょうか?おそらくこれを見て、他の物を想像する人はいないと思います。これ、今年の黙想会の指導をしてくださった大木神父さまが話してくれたたとえです。わたしたちは銀紙を見て、ほぼ間違いなくチョコレートであろうと中身を想像するのです。
●もしかしたら、上手に準備された別の物かもしれません。クッキングフォイルにだし昆布を包んだだけの物かもしれません。そこまで難しい想像をする人は誰もいないはずです。外見を通り越して、中身を見ずにはっきりと捉える作業をしているのです。これは、わたしたちがなぜご聖体の中にイエス・キリストがとどまっておられると信じることができるのかを、同じ信仰を持たない人に話して聞かせるときの格好のたとえになると思います。ぜひ一つ持っておいてください。

イエス・キリストに養われて「役に立つ存在」になる(2)「十字架」
●次に「十字架上のイエス・キリストに養われて役立つ存在になる」ということを考えてみましょう。ご聖体のイエス・キリストに養われる姿が、特に弱い立場の人を意識したものであったのに対して、十字架上のイエス・キリストに養われる姿は、力に満ちていたり、困難をものともしない気持ちの強さを持っていたり、勝気な気性だったり、弱さの中にある人と反対の方向にいる人が養われるイエス・キリストの姿と言えます。
●その代表的な人物が、パウロです。迫害者であったサウロは主の弟子たちを脅迫し、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するのを当然のことと考えていました。彼は力にみなぎっていたのですが、イエスに出会い、回心して力を誇る者ではなく、弱さを誇る者となっていきます。「サウロの回心」の場面の朗読を皆さん十分ご存知ですが、確認のために部分的に読んでみましょう。使徒言行録の9章です。

使徒言行録9章1節から6節
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

●回心するサウロがどんなイエスの姿を目撃したのか、ここからは読み取れませんが、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使9・5)とありますから、迫害によって傷つき、苦しみを担っている姿、あるいは十字架を背負ってゴルゴタの道を歩む姿を思い描いたのかもしれません。
●サウロが誇りにしていたものはいったん打ち砕かれました。そして弱さを誇りとする人となります。コリントの信徒への手紙二に、次のように述べています。「主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(二コリ12・9)
●この弱さは、病の中にある弱さではなく、力にみなぎっている人がたどり着くことのできる極めて高い霊的な状態です。回心してパウロとなり、彼が弱さを誇りとすることができるようになったのは、十字架上のイエス・キリストに養われる人となったからに違いありません。パウロの書簡の中で、十字架上のイエス・キリストを説く姿は際立っています。
●「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(一コリ2・2)パウロが養われていたキリストとは「十字架につけられたキリスト」だったのです。「十字架を通って救いを完成されたキリスト」と言ってもよいかもしれません。
●では「十字架上のキリスト」に、わたしたちはどのように養われることができるのでしょうか。まずは十字架上のキリストが何を語りかけようとしているのかに注目しましょう。
●語りかけていると言いましたが、実際にはほとんど語りかけはありません。ただ、イエスは十字架の上で、わたしたちのためにすべてを与えつくされたということは伝わるはずです。衣服をはぎ取られ、さまざまにののしられ、槍で脇腹を突き刺された。ご自分のために何も残さず、分け与えられたのです。
●その姿と向き合う時に、わたしはイエスのためにどこまで自分を与えることができるだろうかと当然考えるはずです。ここに集まった修道者として生かされているのですが、だれか協力者がいて修道者として活動しているわけではありません。何かの社会活動をする人は、企業の支援を得ていたりするので、その企業を社会に知らせる働きとか、支援企業に恩恵を返すことが期待されています。
●わたしたちはそのような支援で成り立っている生活ではありません。わたしたちの生活が成り立っているのは、すべてイエス・キリストのおかげです。イエス・キリストがすべてを与えてくださったからです。十字架上のイエス・キリストがわたしの唯一の支援者なのです。
●十字架上のイエス・キリストが唯一のスポンサーなのであれば、わたしたちはイエス・キリストにお返ししなければならないはずです。どれくらいお返ししようと考えているでしょうか。すべて、お返ししようとしているでしょうか。イエスが十字架にはりつけにされるところまでわたしたちに与えてくださったのなら、わたしたちも自分の十字架にはりつけにされて、すべてをイエス・キリストにお返しする覚悟が必要ではないでしょうか。
●愛が行われるところには犠牲があります。わたしたちの社会でも贈り物を用意したり、自分を横に置いて行動したりして、犠牲を伴う愛の形を知っています。父なる神も愛のために御子をわたしたちに与え、十字架上でいのちをささげてもらうという犠牲をしました。神の愛がどこまで示されているかを知るには、十字架上のイエスを黙想することがより良いように思います。
●イエスの十字架上での犠牲は、御父に栄光を帰すものであり、同時に御父へのイエスの最後の愛の姿です。イエスが御父に「わたしはあなたを愛しています」と全身で答えているわけです。御父の愛に応えようとする十字架上のイエスの姿は、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15・9)という招きにつながっていきます。御父に栄光を帰し、御父への愛を十字架上で表したイエスに、わたしたちも倣う必要があります。
●イエスはペトロに、ご自分を愛し、ご自分に栄光を帰すためにどこまで返し続けなければならないかを最後にお示しになりました。復活したイエスがペトロに三回「愛しているか」と問われた場面です。三回目の状況は、神に栄光を帰す状況でもあります。
●「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。(ヨハネ21・18-19)イエス・キリストに愛をお返しするとは、最後は神に栄光を帰すことも厭わない。そういう意味です。
●ここまで、病の中にあるならご聖体に養われて役立つ人になりましょう、健康であるなら十字架上のイエスに養われて役立つ人になりましょうと話してみました。一つの取り組み方として、参考になればと思います。

日本のことわざ「無い袖は振れない」
●使徒言行録の「ペトロ、足の不自由な男をいやす」という話を取り上げたいと思います。まずは該当箇所を朗読したいと思います。

使徒言行録第3章1節から10節
ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。」

●日本のことわざに、「無い袖は振れない」というものがあります。本当にその通りで、今朗読した使徒言行録の個所で、ペトロとヨハネは、「金や銀はない」とはっきり言っています。お金は持ち合わせていなかったということです。もしかしたら持っていたかもしれませんが、ペトロとヨハネは与えることのできるものをほかに持っていた、お金よりも役に立つものを与えることができるという確信があったということです。
●しかし不思議なことに、ペトロとヨハネが与えたものは、ペトロとヨハネが持っていない物でした。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」イエス・キリストに依りすがって、足の不自由な人をいやすという奇跡を与えてくれたのでした。
●さきほど、「無い袖は振れない」ということわざに触れました。ペトロとヨハネは、自分にはないのに、与えようとしたのでしょうか。わたしは、それはちょっと違うかなぁと思っています。ペトロとヨハネには、たしかに足の不自由な人をいやす力はありませんでしたが、彼らが持っている信念を与えたと考えることができると思います。彼ら2人が持っていた信念とは、「イエス・キリストの名を信じて生きる」ということです。

イエス・キリストにすがって生きる
●ご存知の通り、ペトロもヨハネも初めはガリラヤの漁師でした。彼らはイエスに呼ばれ、弟子となります。しかも、弟子としてイエスについて行くときに、船を手放し、父親をその場に置いてイエスについて行ったのです。それは、これまでの漁師としての経験を横に置き、イエス・キリストにより頼む生き方を基本として再出発するという決意の表れでした。
●この生き方は、イエスの弟子となってからずっと続きました。イエスは死んで復活し、天に昇られたのですが、弟子たちだけとなってからも、ずっと生き方は変わりませんでした。それは、自分の知識や経験にすがって生きるのではなく、イエス・キリストにすがって生きる。この生き方でした。
●すると彼らは、どんなときにも、誰に対しても同じ接し方をする人に変わっていきます。自分たちが、イエス・キリストにすがって生きていることを、どんな時も、誰に対しても示すようになるのです。
●もちろん、弟子たちが一度も迷うことがなかったかと言うと、そうではありません。ヨハネ21章3節に次のように記されています。「シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」
●イエスの復活を知らされていた弟子たちでしたが、まだイエスにのみより頼んで生きる者に生まれ変わっていなかったのかもしれません。このあと復活したイエスは弟子たちに三度目の出現をなさいます。
●これは、一つの生き方だと思います。自分の経験や知識を武器にして生きることも、たしかに一つの生き方でしょう。けれども自分に頼って生きる場合、頼りにしているものを失う危険は多分にあります。積み上げた経験が生きない職場に変更になることもあるでしょう。知識がもはや時代に合わなくなり、役に立たなくなることもあるでしょう。
●あるいは手に入れたものを病気や怪我や、脳に起こる障害(簡単に言えば認知症ですが)によって使えなくなることも起こりえます。そうすると、自分に可能な生き方はずいぶん狭められ、場合によっては思い通りの生き方が不可能になることも考えられるわけです。
●イエス・キリストにすがって生きる生き方はどうでしょうか。不思議に思えるかもしれませんが、イエス・キリストにすがって生きる生き方は失うものがありません。なぜなら、イエス・キリストは自分が獲得したものではなく、自分を超える存在だからです。自分が獲得したものは失う可能性がありますが、自分で獲得したものではなく、恵みとして与えられた生き方は、失うことがないのです。
●わたしが健康を害したり職場を去らなければならなくなったり、あるいは脳に障害が発生したとしても、イエス・キリストにすがって生きる人は、何も失うものがないのです。だからイエス・キリストにすがって生きる人は、ペトロやヨハネと同じ言葉を言うことができます。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」生き方を示し、生き方そのものを与える。これはペトロやヨハネのように、イエス・キリストにすがって生きる人すべてに可能なのだと思います。
●奇跡は、無理かもしれません。けれども、イエス・キリストにすがって生きて、何も失うものが無くなっている生き様は、それを受け取る人によっては人生が180度ひっくりかえるような大きな影響を与えるかもしれません。それは、場合によっては金や銀を与えるよりも、大きな影響を与えるかもしれないのです。

「イエス・キリストにすがって生きる」生き方の手本はどこに?
●すばらしいお手本が目の前にあります。奉献生活を生きている皆さんです。今の生き方はそのまま「イエス・キリストにすがって生きて、何も失うものが無くなっている」お手本です。皆さんがそれぞれの場所で、それぞれの年代で、生き方を世に示すのです。皆さんこそ、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と呼びかけることのできる生き方なのです。
●わたしは特別養護老人ホーム「福見の園」に月に2回訪問しています。1回はチャペルで聖体拝領をさせ、1回は同じチャペルでミサをささげています。福見の園にはシスターも入所しています。シスターの人となりを詳しく知っているわけではありませんが、入所している人の中にシスターがいるというのはすばらしいことだと思っています。実際には入所しているシスターたちは、何も与えることはできないかもしれません。しかし彼女たちは、「イエス・キリストにすがって生きて、何も失うものが無くなっているさま」を示し続けていると思うのです。
●わたしは、「イエス・キリストにすがって生きている姿しか、与えるものがない」というのは、考え方によってはすばらしいと思うのです。わたしたちはどうかすると、まだまだ何かこの世のものを与えることができてしまいます。知識や経験や、あるいは置かれている立場によってはこの世的な他の物さえ、与えることができてしまう。もらい物かもしれないけれども、それを人にあげることだってあると思います。
●ところが、本当に何も、あげるものが無くなった。そこからがわたしたちの、修道者の皆さんの存在価値が試されるのではないでしょうか。ですから、「何も与えるものが無くなったらわたしはどのように振る舞うのだろうか」今のうちに考えておきましょう。脳に損傷を受けて正常な判断が困難になってからとか、自分で身の回りの世話ができなくなってから考えたのでは間に合わないと思います。何も与えられなくなってからでも、イエス・キリストにすがって生きている姿を示そう。その覚悟が、今のうちにできていなければ、その時になってから示すことはできないのではないでしょうか。
●わたしには、召命を決定づけたシスターがいます。シスター小林三枝です。親戚のシスターはほかにいますし、初聖体のけいこをしてくれた憧れのシスターもいますが、司祭召命に決定的に関わったのは小林三枝シスターです。わたしが小学5年生の時に侍者をするようになって、主任神父さまの代わりにけいこ部屋で侍者の特訓をしてくれました。
●中学校からは神学校に入りましたが、それまで公教要理という小さな本を暗記させてくれました。わたしはふまじめな生徒で、けいこが始まるころには東浦小学校の体育館裏で息をひそめ、けいこが終わるころに何食わぬ顔で帰る不良生徒でした。
●学期ごとに主任神父さまの試験があり、けいこを教えた小林シスターの責任が問われるときでもあります。わたしも試験には落ちたくなかったので、どうすればこの場を切り抜けられるか、様子を見ていました。すると主任神父さまは、いちばん最初に一問一答を掛けた生徒には「1・11・21・31・・・」と問題を掛けているようでした。
●次の生徒には「2・12・22・32・・・」と問題を掛けているようでした。そこでわたしに回るのは何番目かを数えて、たとえば14番目だとすると、「4・14・24・34・・・」だけをその場で覚えて、見事に試験を乗り切ったのです。シスターの顔にも、母親の顔にも泥を塗らずに済みました。
●また小学生が着る侍者服は赤い服に白い肩掛けをまとったものでしたが、6年生の後半になると体が大きくなってどうしても入らなくなり、中学生のお兄さんたちが着る黒服に白のスルプリを付けたような服を着ることになりました。その服を着せてくれながら小林シスターはこう言ったのです。「小学生でこの服を着た人は誰もいない。この侍者服を着たからには、神父さまにならなければならない。」今になって思うとただのハッタリだったかもしれませんが、わたしはそれを真に受けました。
●やがて神学校に入り、司祭になって、晩年のシスターを見舞いに行きました。シスターは認知症を患っていて、「あら!中田神父さま!今はどこでご活躍ですか?」という質問を、お別れまでに3回聞かれました。わたしは気が短いので、本来なら「何回も同じこと言わせるな」となるはずなのですが、子供のような曇りのない顔で繰り返し聞かれたものですから、まったく気を悪くすることなく「今ね、どこそこ教会なんだよ」と答えることができました。
●小林シスターは、何もないところからわたしに司祭職への憧れと、司祭職に招かれてからの生きる道を与えてくれたと思っています。その日の面会が最後でしたが、「何も与えるものが無くなってからが実は真価が問われるのだ」ということをその姿で教えてくれたシスターだったと思います。

「わたしたちを見なさい。」この一言で証しを立てる修道者でありたい
●わたしたちも、いつかどこかで真価を発揮する必要があります。365日真価を発揮できれば「役に立つ修道者」「十分使い物になる修道者」ということでしょうが、弱い人間であるわたしたちは、イエスの前に100%役立てる修道者ではないかもしれません。
●しかしそれでも、最終的にわたしたちがわたしたちの真価を発揮するために語る言葉は、「わたしたちを見なさい。(中略)わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」という言葉だと思うのです。わたしたちが人に与えることができるものは、突き詰めるとこの世のものは何一つないのです。あるのはただ一つ、イエス・キリストから与えられたものなのです。
●一人一人、イエス・キリストから与えられたタレントには違いがあると思います。でもイエス・キリストが与えてくださったタレントは、あなたの真価を発揮させるはずです。あー、このような生き方もあるのだ。そう受け取る人もいるでしょう。このような生き方が今の時代に成立するのだと感じて、同じ生き方を選ぼうとする人も現れるでしょう。
●「わたしたちを見なさい」と人に注目させるのですから、他でも手に入るものを示すのではなくて、修道者からしか手に入らないもの、「イエス・キリストにすがって」生きる人からしか得られないものを与えて、わたしたちの真価を発揮したいものです。

最後に
●テレビの受け売りで本当に恐縮ですが、日本で活躍するある医師が、先輩から次のように言われたそうです。「『あなたが医者でいてくれてよかった。あなたと出会えたからわたしの命は助かった。』将来そういう人が一人でも現れたら、あなたの医者としての人生は成功だと思いなさい。」
●わたしたちにも考えさせる言葉だと思いませんか。「あなたが司祭でいてくれてよかった。あなたがシスターでいてくれてよかった。あなたに出会えたからわたしはイエス・キリストを知ることができた。わたしはあなたと出会って永遠の命を手に入れることができた。」こういう人が一人でも現れたら、わたしたちの召命の道は成功だったのではないでしょうか。
●どこかの小教区で、どこかの修道院で、小教区の人々と、地域の人々と出会いながら召命の道を全うしていきます。置かれた場所で真価を発揮する。そのために心の準備を整えておきましょう。この世のものを何も持たない、イエス・キリストにのみより頼む。そのときわたしたちの存在価値は極まるのだと思います。
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年間第12主日(マルコ4:35-41)イエスと向こう岸に渡る

2015-06-21 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/150621.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/06/21(No.774)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第12主日
(マルコ4:35-41)
イエスと向こう岸に渡る
‥‥‥†‥‥‥‥

年間第12主日は、「突風を静める」という物語ですが、わたしは違う言いかたで、テーマを示したいと思います。それは、「イエスと向こう岸に渡る弟子たち」です。弟子たちは、向こう岸に渡るという出来事の中で、弟子として訓練を受けたのだと思いました。

釣りに関して、海の上で耐えられる限界というのがかなり上がったと思います。今まででしたら、気分が悪くなっていたような状況でも釣りに集中できるようになりました。それがどんな役に立つのかと言われると困りますが、ほとんどの人が船酔いするような状況でどんな作業でもできるようになったと言えば、何か役に立つかもしれません。

ところで今日は父の日です。日頃の御苦労を、家族でぜひねぎらってあげてください。または、お父さんがふだんは忙しくてできないことを、今日一日くらいは気の済むようにさせてあげてください。母の日と比べると、ちょっと影が薄いので、今日はお父さんに花を持たせてください。

福音朗読、イエスは弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と呼びかけます。漠然と「向こう岸」と言っていますが、その意味は「イエスと一緒に渡らなければ渡ることができない場所」と考えられます。そのことを学ばせる機会として、嵐の体験があると考えてよいのではないでしょうか。ガリラヤでずっと漁師をしていた弟子たちでさえも、「おぼれそうだ」と感じるほどの突風を受けたのでした。

明らかに、人間の努力では乗り越えられない困難に弟子たちは置かれています。そんな中でイエスは眠っています。これは眠くて眠っているのではなく、しるしです。「人間の努力でこの困難はとても乗り越えられない。そこにイエスがおられる。イエスに信頼を寄せるべきである。」このことを教えようとしているのです。

イエスは「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに声をかけた時点で、これから起こることすべてをご存知でした。弟子たちが混乱すること。イエスにより頼めばすぐにでも助けてくれるのに、イエスに信頼を寄せる気持ちが湧かなかったこと。イエスが嵐を叱り、すっかり凪になってもまだイエスを信じられずにいることなどです。

突風に見舞われ、恐れで自分を見失い、イエスの一言で風がやみ、すっかり凪になる。イエスが「向こう岸に渡ろう」と仰ったのだから、必ず渡ることができるはずです。それなのに弟子たちは、イエスがそばにいることを忘れるほど取り乱したのでした。

嵐のさなかに眠っているイエスの姿は、御父に信頼を寄せていることの表れです。イエスは、何が大切なのかを教えようとしているのです。乗り越えることができそうにない困難を前にしたとき、人はイエス・キリストを通して御父に信頼を寄せる必要があるのです。

イエスの助けを受けて向こう岸に渡った弟子たちは、「向こう岸に渡る」つまり困難を乗り越えるためには、イエスに全面的に信頼を寄せることが必要であることを学びました。弟子たちの体験はわたしたちのためでもあります。わたしたちも乗り越えられそうにない困難に直面することが考えられます。その時に弟子たちの体験を思い出すように促しているのです。

ただし、弟子たちに起こったことはわたしたちにも起こるでしょう。それは、イエスがそばにいるにもかかわらず、困難に直面して気が動転し、また困難を乗り越えられたとしてもそれがイエスによるものだと理解できずにいるということです。

弟子たちはイエスに信頼を寄せることが困難を乗り越える何よりの力であると確信するまでに、相当の時間を必要としました。わたしたちもきっと、イエスに揺るぎない信頼を寄せるには長い時間を必要とするでしょう。

イエスに信頼しきれずに道を誤ったり、また時間がかかってもイエスに信頼すべきだったと立ち返ったり、何度も行ったり来たりして、わたしたちはイエスに信頼することが最善の策だと悟り、最終的に向こう岸に渡ることができるのだと思います。

イエスはすべての人に、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけます。わたしたちが今いる場所に留まっていては、イエスに絶対的な信頼を寄せる体験を積むことはできないのです。おぼれそうになる体験、恐怖を覚えるほどの体験を経て、わたしたちの信仰は火で精錬された鉄のように強くなるのです。

イエスは決してわたしたちをおぼれさせることも、恐怖に打ち負かされることもお許しにならない方です。信頼して、信仰の旅をこれからも続けてまいりましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第13主日
(マルコ5:21-43)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼6月28日にお告げのマリア上五島地区の「四季の静修」という集まりがあって、今回はわたしが講話の担当となっていて、会場も浜串教会で行われる。講話を1時間くらいする予定だが、かなり早くから依頼されていたにもかかわらず、なかなか完成しないでいる。
▼言い訳がましいが、予定調和というか、いよいよにならないとすべての材料は揃わないもので、あーこれですべてが揃ったと感じないと、講話も完成しないことになっているようだ。自分のことなのに「ようだ」とは何事かと思われるかもしれないが、しばしばギリギリまで完成しないのである。
▼中心となるキーワードはかなり前から浮かんでいた。それは「わたしたちを見なさい」という言葉で、神殿で物乞いをしている人にペトロが語りかけた言葉である。それに続くペトロの言葉は次の通り。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
▼ペトロの証しを、修道者の皆さんも生きる必要があります、というのが大きなテーマだが、このテーマを肉付けするこまごまとした材料集めが、かなり日数を要したわけだ。最近でも18日、特別養護老人ホームにカトリック信徒のお見舞いに出掛けて思うところがあり、これも材料の一つとなる予定である。
▼ギリギリまで材料が浮かんでは消え、浮かんでは消えして、そのうちに本当に必要なものだけが消えずに残っていく。そこまで待って、原稿にしたためるわけだ。こういう準備の仕方を可能にしているのは現代のさまざまなIT機器だと思う。
▼わたしの尊敬する大学教授は、葉書大のカード4枚で、1回の講義を進めていた。カード4枚しか、講義に持ち込んでこなかった。敬服するが、真似は出来ない。カードと筆記用具では、おそらくわたしのような人間は準備はできなかっただろう。現代文明に感謝である。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第381回目。あなたは父の日に何をしますか。あなたには父がまだいますか?

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
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年間第11主日(マルコ4:26-34)多くのたとえで御言葉を語られた

2015-06-14 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/06/14(No.773)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第11主日
(マルコ4:26-34)
多くのたとえで御言葉を語られた
‥‥‥†‥‥‥‥

今年の年間第11主日はマルコ4章の「成長する種」のたとえと「からし種」のたとえが語られました。神の国についてのたとえを語るイエスから、わたしたちが人に神の国を語る姿勢を学びたいと思います。

今週の福音朗読は、神の国についてのたとえ話が2つ挿入されて語られています。この朗読個所を説明するのに、何か別の例えを話すということにすごく抵抗を感じました。

イエスが「神の国は次のようなものである」(4・26)とたとえ話を語る。イエスがたとえ話を語っているのに、わたしが「これは、たとえて言えばこのようなものですよ」と言うのはふさわしくないのではないか、たとえ話を台無しにすることにならないかと考えたのです。

イエスのたとえで、神の国は十分語り尽くされている。そう信頼して語られたたとえに向き合う必要があります。人が土に種を蒔きます。種は芽を出して成長します。成長の仕組みを知ることのできないわたしたちにはとても不思議に見えますが、いくらどうなっているのかを追及しても、わたしたちには解き明かせません。

けれども農夫は、この不思議な種の実りに信頼を寄せ、農夫にできること、すなわち水をまき、雑草を取り除くなどして世話をします。すると、種に書き込まれた神の設計図に沿って、確実に実を結んでいきます。

これが神の国の姿をうまく言い当てているとイエスは語ります。神の国(神の支配と言ってもよいでしょう)は目には見えず、いつ頃にどこまで及んでいるかを計算することもわたしたちにはできません。しかし神の国は、神が思い描いた設計図に沿って確実に広がりを見せるのです。わたしたちはただ、神の働きにそれぞれが協力するのです。

からし種が成長して空の鳥が巣を作るたとえも、不思議な出来事です。鳥は、どのようにして巣を作る技術を手に入れたのでしょうか。両親から巣のこしらえかたを学び、練習したのでしょうか。わたしたちはそれを知る方法がありません。神が鳥の本能に、巣を作る設計図を書き込んでおられるとしか説明のしようがないのです。

どんな鳥でも、雛を育てるために巣を作ります。わたしたちができるのはただ、鳥に巣作りの場所を提供することくらいです。人間はわずかしか協力できなくても、そのわずかな人間の協力の上に、神は驚くほどの働きを積み上げてくださいます。神の国は、人間が神の働きに協力するのを喜びつつ、神が描かれた設計図通りに広がっていくのです。

今説教を聞いている皆さんは、ここまでの話を聞いて、「今週の説教だったら、わたしでも話すことができる」とお考えのことでしょう。きっとその通りだと思います。イエスのたとえ話に、人間に過ぎないわたしがいったい何を付け加えたり差し引いたりすることができるでしょうか。

あえて、1つだけ言うとしたら、イエスが「多くのたとえで御言葉を語られた」(4・33)このことにじっくり留まってみるべきだということです。イエスは、実に的確に、神の国について、たとえ話を語られたのです。それは何を意味しているのでしょうか。

それは、イエスが神の国について、だれにも説明を受ける必要がないほど完全に理解しておられたということを意味しています。完全に理解しておられるから、それをたとえを引きながら説明することができるのです。物事の本質を、的確に掴んでいるから、それをたとえを用いてわかりやすく説明することができるのです。

わたしたちの信仰生活を振り返ってみましょう。わたしたちは、信仰の遺産の一部でも、たとえを用いてわかりやすく説明することができるでしょうか。たとえを用いてわかりやすく説明できるということは、たとえようとしている信仰の遺産を十分に理解していることを意味します。

わたしたちは祈りを大切にしています。祈りがいかに大切か、祈りが生活に何を添えてくれるのか、よくよく理解しているなら、それをたとえを用いて人に説明することができるはずです。

祈りは呼吸にたとえられます。人は呼吸をします。息を吸って、吐くことで、新鮮な酸素を体中にめぐらせます。呼吸することでぼんやりしていた頭はすっきりして、体も活力がみなぎってきます。そのように、祈りはわたしたちの魂に必要な酸素を行き渡らせ、魂の働きを活発にするのです。祈りを怠る人は、魂に新鮮な酸素が行き渡らず、不活発になるのです。このようなたとえは、祈りに冷淡な人にも通じるでしょう。

わたしたちは聖書にもっと親しむべきです。聖書に親しむきっかけは何度か用意してもらいました。聖書愛読運動や、浜串小教区独自の録音聖書での読み聞かせなどです。

聖書に親しむ人ことは、たとえるなら辞書を引いているようなものです。聖書を何度か通して読んでみて、わたしはそういう答えにたどり着きました。聖書に親しむと、自分が語る言葉、自分が人に伝えたい言葉を聖書から探すようになります。そうやって聖書から生活に必要な言葉を探すようになれば、ここまで聖書は人の生活を導くのだと、聖書に全く触れたことのない人も心を開くのではないでしょうか。

信仰の遺産は、朽ち果てていっては何にもなりません。価値あるものだと次の世代に理解されなければなりません。そのためには、イエスが神の国を多くのたとえで語られたように、受けた信仰を十分噛み砕いて、次の世代に分かるようなたとえを添えて伝える必要があります。

どんなたとえなら、受けた信仰を十分に伝えることができるでしょうか。「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」(4・34)と言われるイエスが、わたしたちにも照らしと導きをくださいます。信頼して、どんどんたとえを生みだして神の国を告げ知らせるものとなりましょう。わたしたち以上に、わたしたちを通して神は常に働いてくださいます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第12主日
(マルコ4:35-41)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼何ヶ月ぶりかに(「何ヶ月かぶりに」と、どちらだろうかと悩んだ結果、「何ヶ月ぶりかに」を選択した)診療所に行って薬をもらいに行った。診察手帳に「血液検査」と前もって書かれていたので、今回はそのつもりで行ったのだが、1つ誤算があった。
▼「血液検査」は織り込み済みだったが、血液採取の時に脇に「紙コップ」が置いてあった。「あれ?」と思ったが、尿も採取してきてほしいということだった。わたしはほぼ毎日、朝8時にトイレで大小を済ませる生活をしている。困ったと思った。
▼尿採取のためにトイレに行ってみると、意外なことにすんなり尿が出た。8時にトイレに行って病院に来たのに9時過ぎにちゃんと尿を採取できた。次から、薬をもらう以外に何かが予定されている時には「尿検査」もあるに違いないと心の準備をしておこう。
▼血液と尿の検査結果がそろったところで、担当医の診察。数値を見て「すべて正常値の範囲内に収まっています」と説明してくれた。このあとわたしが言われたのは「このまま、今の生活を維持してください」という言葉だった。
▼内心わたしはニヤッとしたのだが、「今の生活」とはどういう生活だろうかと思い返した。4月から食事の賄いをしてくれるシスターの派遣がなくなり、なんとなく自炊をしている。そして6月にしてはやけに日焼けしている。これが「今の生活」である。
▼自炊。「なんとなく」であって、三大栄養素がどうのこうのとか、そんな気のきいたレベルではない。ただ食べているだけである。しかも1ヶ月もしないうちに自炊に疲れ、同級生の司祭のところに晩ご飯を転がり込んだり、差し入れが来ればそれだけ食べて栄養のバランスを考えなかったりの生活である。
▼もう1つ、釣りに去年よりも行くようになった。月曜日によく集まっていた司祭たちのテニスも去年から今年は全く実施されておらず、月曜日はもっぱら釣り三昧である。おかげで釣りの腕前はかなり上げたと思う。釣った魚は、晩ご飯をごちそうになりに行く同級生の司祭に持って行ったり、近くに配ったり。この前病人見舞いに行っている家に差し入れた。すると栄養ドリンクが1ケース返って来て、かえって世話を焼かせてしまった。
▼鯛ラバでの鯛釣りは、リラックスと集中力を同時に試される。これまでの経験で、釣ってやろうと焦っていると魚は殺気を感じ、警戒して逃げ去ってしまうように思う。あくまでもリラックスして、魚に気配を悟られないようにする。魚が喰いつけば、今度は魚の動きに合わせてやり取りし、取り逃がさない集中力が必要になる。
▼3kgの鯛や2kgのキジハタ(ノミノクチ)が釣られまいと逃げる。魚が逃げるとき慌てると、0.8号の道糸に3号のショックリーダーというラインシステムは簡単に切られてしまう。リラックスと集中。それが釣りにも人生にも必要なのである。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第380回目。便利傘。帽子のように使用。ただ風が強くなるとすぐ外れる(>
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ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)一度きりでも価値を失わないご聖体

2015-06-07 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
15/06/07(No.772)
‥‥‥†‥‥‥‥
キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)一度きりでも価値を失わないご聖体
‥‥‥†‥‥‥‥

今日キリストの聖体の祭日です。これまでどのような心構えでご聖体に近づいていたかを振り返ってみましょう。そして本来はどのような心構えで近づくべきなのかを考えることにしましょう。イエスは常にご自分のすべてをご聖体を通して与えようとしておられます。イエスの深い愛は、わたしたちにどのような答えを求めておられるのでしょうか。

今から8年前でしょうか、司祭叙階式の説教を任された受階者の主任司祭が行った説教は実に心に残るものでした。司祭に叙階された人がイエスの僕として真っ先に行うわざはミサである。叙階の秘跡を受ければ、ゆるしの秘跡をおこなうことも、病者の塗油を授けることも可能だが、あらゆるわざの中で、真っ先におこなうのはミサである。

そして、もしもの話であるが、叙階の秘跡を受けたその人が、真っ先におこなうそのミサを終えて、死んでしまったとしても、その1回のミサのためにその人が叙階の秘跡の恵みを受けたことには価値がある。

たとえその後ゆるしの秘跡をおこなえず、病者の塗油も授けずにたった1回のミサをささげただけで死んでしまったとしても、その人が司祭になったこと、叙階の秘跡の恵みを受けたことには十分価値がある。およそこのような内容の説教だったと思います。

それまでに何度も叙階式の説教を聞いたにもかかわらず、わたし自身の司祭叙階の時の説教も含めて、どれ1つとして覚えていないのに、その時の説教は今も思い出すことができます。わたしにとって心打たれる説教でした。なぜなら、ミサをささげるときの心構えをもう一度考え直すよい機会になったからです。

仮に年間400回くらいミサをささげてきたとして、22年の司祭生活で8800回くらいはミサをささげているわけです。しかしながら、「最初の1回のミサをささげて死んだとしても、その人が司祭に叙階されたことには十分意味がある。ミサはそれほどに価値あるものだ」という理解にはたどり着いていませんでした。それほどのミサを、何千回もささげてきているのに。心構えが足りていなかった自分に、精神をたたき直すような強さで迫って来たのです。

まさに、今日祝っているキリストの聖体の祭日に求められる心構えが、あの時の司祭叙階式ミサでなされた説教にまとめられているように思います。ご聖体は、御父にささげられた完全ないけにえであるイエス・キリストがとどまっている秘跡です。人類のすべての罪を完全に消し去るいけにえとなられたイエス・キリストがとどまっておられるのです。

また、ミサはイエスの死を通して新しい契約を成し遂げ、救いのわざを完成させた出来事を今に再現させる祭儀です。一度限りで、完全に救いを成し遂げた十字架上の出来事と同じ価値を持つ最後の晩餐です。これより尊いものがない最上の主の食卓です。そのミサが今ここにささげられ、その中で聖体が用意され、わたしたちは恵みにあずかるわけです。

1回のミサのために司祭に叙階され、命を召されてもそれでも価値があるミサであると、これまでわたしは考えたことがあっただろうか。恥ずかしく思いました。それほどの価値があるのに、心は散漫になり、ミサの奉献文を唱える口は熱心さに欠け、聖体を高く掲げる手は力なく、聖櫃に向かう足取りは重くなることがあったのです。

一人ひとり思い出してみましょう。聖体祭儀と言われるミサに足を運びながら、ミサをさっさと終わらせて次は何をしようかと考えたことはないでしょうか。「今日は何時何分に終わった」と、ミサが行われたというミサの価値よりも、終わった時間のほうを気にしたことはないでしょうか。1日に2回ミサをささげることがあるわたしは、1回目と2回目では心の込め方が違ったのではないか。

これまでわたしたちがどのようにご聖体に近づいていたか、自分なりの反省が見つかったならば、これからどのように近づくようにすればよいかも見えてくると思います。このミサは旧約時代の過越の食事とも関係しています。わたしたちはご聖体に対するこれまでの不熱心さを超越して、熱心さをあらためて呼び覚まし、ご聖体に近づきましょう。

先週あたりにお知らせを入れるべきだったのですが、昨晩から今朝にかけて、青砂ヶ浦教会では召命祈願のため、徹夜での聖体礼拝を行ったそうです。熱心さをもって聖体により近づく、聖体から片時も離れない心を育てて、聖体の奉仕者である司祭・修道者を与えていただけるように願っての聖体礼拝でした。わたしも夜中の時間に1時間だけ参加させていただきました。聖櫃に納められた聖体から、参加している皆に、小教区全体に、恵みを注ぎ続けているのだなと感じました。

わたしたちに記念として残された聖体の尊さを考えてきましたが、最後に次のことに目を向けて結びたいと思います。イエスは最後の晩餐で杯を取り、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(14・24)と仰せになりました。今ここには、限られた人数しか聖体祭儀に集まっていませんが、もっと多くの人のためにも、ご聖体の恵みは流れ続けているはずです。恵みを知らずにいる多くの人々とご聖体の恵みの橋渡しをするのは、わたしたちです。ぜひここで受けた恵み、今心にある熱意を、出かけて行って人々に届けましょう。

祭壇で霊的に渡されるイエスの御体、流されるイエスの御血を、人々に届ける奉仕者にしてくださるように、聖体拝領を通して願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第11主日
(マルコ4:26-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼おそらく上五島でいちばんゆうちょATMの前で長く居座って機械を占有しているのはわたしだと思う。わたしは3ヶ月に1回くらいしか郵便局窓口に姿を現さず、ほとんどはATMで入金処理をしている。
▼どんな入金の用件か、読者は容易に想像がつくと思う。教会では日曜日ごとにミサ献金が集められ、主任司祭はそれを台帳に記録し、年度ごとの予算決算で本部事務局に報告する。具体的な金額は割愛するが、日曜日に信徒が仮に200人集まり、1人50円ずつ献金すれば、金額も硬貨の枚数もそれなりの数になる。
▼これを毎週ゆうちょ銀行に持ち込むと、通帳にも記録が残って重宝するが、持ち込む側に立って考えると毎週は煩わしい。そこで1ヶ月分まとめて入金に赴くことになる。当然先ほどの約4倍の硬貨の数になる。しかも教会は3教会あるわけで、それぞれの通帳ごとにATMに張り付いて何十枚何百枚もの硬貨を入金することになる。
▼仮に100円硬貨で4万円の賽銭を持ち込むとしよう。ATMは一度に100枚までしか硬貨を受け付けない。複数回に分けて入金するため、硬貨をあらかじめ100枚以内に小分けし、通帳を機械に差し込むとすぐに片方の手のひらに硬貨を100枚乗せる。
▼硬貨の投入口は店舗によってはガマ口のように大きく開くこともあるが、上五島ではすべてのATMが貯金箱の口のように細いスリットから硬貨を投入する形になっている。ここに、片方の手のひらに山盛り積み上げた100枚の硬貨をもう片方の手で手際よく滑り込ませる。
▼ご存知かどうか分からないが、ATMの現金投入には制限時間がある。いまだに制限時間を把握していないが、制限時間内に紙幣・硬貨を投入しなければ勝手に機械が投入口を閉ざし、その時点で投入されている金額で計算をし始める。だから制限時間内に手早く、確実に投入するには熟練した技が必要なのである。
▼日常生活でスリルを味わいたい方、硬貨を100枚用意して、ぜひATMに立ち寄って入金作業を体験されるとよいと思う。制限時間内に投入しなければという焦りで、スリル満点間違いない(硬貨100枚の最小金額は100円であるが、100円で入金作業を受け付けるかどうか、まだ試したことはない)。
▼今は制限時間内に安全確実に投入できるようになったが、かつては制限時間で投入口が閉められ、腹立たしい思いをしたことが何度もあった。機械に当たっても仕方のないことであるが、人間と機械の真剣勝負が、毎月岩瀬浦郵便局や奈良尾郵便局、あるいは青方郵便局で繰り広げられているのである。

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今週の1枚
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第379回目。社会福祉協議会主催の老人への食事サービスに、次の2匹を提供。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
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