こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(マルコ9:38-43,45,47-48)イエスとの繋がりを壊すものを切り捨てる

2012-09-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/09/30(No.612)
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年間第26主日
(マルコ9:38-43,45,47-48)
イエスとの繋がりを壊すものを切り捨てる
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まずは今年の司祭団ソフトボール大会の結果報告です。優勝は長崎市内チームで、乱打戦を打ち勝ったという感じでした。当日はバックネットからセンターに向けて一日中強い風が吹いていました。到着してすぐ、ボールが高く上がると何かが起こりそうだなぁと思いました。

中田神父は、去年に引き続き修道会連合チームにレンタルに出され、五島チームで試合に出ることは叶いませんでした。これがあとで思わぬ結果を生むことになるのですが、「まぁ、奉公に出された場所で一生懸命プレーするしかない」そう思って試合に臨んだのです。

大会の始球式は、大司教さまが務めました。写真を玄関に貼り付けていますが、大司教さまが投げたボールはホームベースまでの半分も届きませんで、地面に落ちたあとコロコロと、キャッチャーのところへ転がっていきました。それを見た司祭たちからいっせいに「やり直し!」という厳しい声が掛かり、始球式をやり直して試合が始まりました。

最初の試合、長崎市内チームと五島チームが対戦しました。わたしは五島チームで試合に出られないので三塁コーチャーを引き受けました。たしか25対17で、長崎チームに負けました。

長崎チームは例年にない強打者揃いで、結局大会を終えた時には岡神父さんが3本、山添神父さんが3本、他にも1本打った神父さんが2人いて、これでは打ち合いで勝てないのも当たり前です。岡神父さんの勢いと言ったらもう・・・分かりますよね。

わたしは修道会連合チームで二試合に出ました。なぜかバッティングが調子良くて、ホームラン2本、ヒット2本、8打数4安打の大当たりでした。ホームラン2本のうち1本は、岡神父さんから打ってやったので、かなり気持ちよかったです。「あ~、説教で絶対言われそう」と言っていましたが、当然です。

夕食の時の懇親会で、五島チームのある司祭から「お前をよそに出さなきゃよかった」と声を掛けてもらいましたが、わたしからそれを言うわけにはいかないし、今日打てても明日打てるとは限りませんから、そう言ってもらえるだけでもありがたいことです。

さて今週の福音朗読で、今この年齢になってみて「あー、そう理解したほうが適切だよなぁ」と気がついた部分がありました。それは9章43節以下の部分です。

「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」(9・43)

「もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。」(9・45)

「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。」(9・47)

イエスさまがこの厳しい警告を実際に語ったのだとしたら、わたしたちはできるだけ素直に言葉の意味を考える必要があります。しかし、手や足を切り捨てるとか目をえぐり出すというのを文字通りに取るのは大変困難です。何か、手や足、目に該当するものを切り捨てる、えぐり出すというふうに考えたほうがイエスの考えていることに近いのではないでしょうか。

では、イエスが手とか足、目と言い表したものは何だったのでしょうか。イエスから切り捨ててしまいなさいと言われてもなかなか切り捨てることのできないものとは何でしょうか。それはわたしたちをあるべき姿から引き離そうとする「誘惑」ではないでしょうか。

たとえば、今日済ませなければならないものを明日に回すこと。それは誘惑のなせるわざです。わざわざ近づかなくてもよいものに、近づいてみること。あえて失わなくてもよいものを失って後悔すること。誘惑する材料はたくさんあって、それらはしばしば切り捨ててしまわなければ離れることはできないのです。誘惑となるものを近くに置いていながら、誘惑に陥らないように努力するのは時間と労力の無駄です。

さて誘惑について、福音書の別の箇所にはとても興味深いことが書かれています。イエスは誘惑に陥らないようにとマタイ・マルコ・ルカ福音書これら共観福音書のいずれでも仰っているのですが、そのどれもが、誘惑に陥らないように祈ることを教えています。

「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」(マルコ14・38)生活の中にたえず祈りが織り込まれている人は、誘惑に陥らずに済むと、イエスは言っておられるのです。これはよくよく肝に銘じたいと思います。

切れ目なく繋がっているわたしたちの身体。身体に関して言えば、その一部分を切り捨ててしまうことほど辛く耐えがたいことはないでしょう。イエスとわたしたちの繋がり、信仰生活と社会生活の繋がりも、本来は切れ目なく一体であるはずです。

つまずきや誘惑は自分や隣人をイエスとの繋がりから断ち切らせるものです。イエスは、ご自分との繋がりを危うくするものは、手や足を切り捨ててしまうくらいの決意でしりぞけるように命じます。つまずきとなるもの、また誘惑ときっぱり縁を切る。切り捨ててしまう。そうやってイエスとの繋がりをいつも良い状態に保ちましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(マルコ10:2-16)
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ちょっとひとやすみ
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▼最近2つの特筆すべき事があった。まずインターネット通販で買い物をしようとして、2度ならぬ3度までキャンセルせざるを得ない状態になった。3回の買い物すべてを思い出せないので、災害時の非常用懐中電灯のことを書いてみる。
▼台風14号の際、五島列島は怖くて眠れないような時間を過ごした。台風のときに巡回先の教会付属の司祭館になくて困ったのが懐中電灯だ。これは必要だと思い、手回しで充電できる便利そうなものを見つけて注文した。
▼送料込みでだいたい2000円くらいだっただろうか。良心的な値段だと思い、1個注文してみた。しばらくして店舗から確認メールが来たのだが、五島列島に商品を届けるには、中継料が必要だという。しかも1000円も。
▼これでは高すぎる。仕方なくキャンセルの連絡をした。数時間で、「キャンセル承りました」という連絡が来た。「相変わらず早いなぁ。」それが最初の注文だった。実はこれに懲りずに、他社で似たような値段の同じ商品を見つけ、注文をかけてみた。送料込みで1980円。
▼するとこの会社からも、「中継料1000円をいただきます」ときた。冗談じゃない。広報委員会とかマリア文庫など、長崎で受け取ってくれそうな住所に送ってもよかったのだが、そこまでするほどの商品だろうかと思っているうちに注文する気持ちが薄れてきた。
▼もう一つは、亡くなった自分の父親が夢枕に立ったということだ。これまで一度も亡くなった父の夢を見たことはなかったが、先々週だったと思う、父と親しく話しをした。まったく内容は覚えていない。けれども一人の人間として、互いを尊重して和やかに会話した感触は残っている。
▼父は何か話したかったのだろうか。何か伝えたいことがあったのだろうか。父ともう一度夢で会えるなら、わたしは何を話そう。今どこにいるのかを聞くかもしれない。

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今週の1枚
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第219回目。ソフトボール大会。これがいちばん躍動的。

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年間第25主日(マルコ9:30-37)イエスは人類を一人の子供として抱き上げた

2012-09-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/09/23(No.611)
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年間第25主日
(マルコ9:30-37)
イエスは人類を一人の子供として抱き上げた
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先週、婦人会のミニバレーの練習のときに、日曜日の説教って、案外よく聞いているんだなぁというのがよく分かりました。大変失礼な話ですが、みなさんがどれくらい説教を聞いているのか、半信半疑だったのです。

ところが、火曜日の練習だったか、わたしの動きがだんだん緩慢になってきて、目の前に落ちようとしているボールを拾えなかったり、自分が拾いに行くべき時に人に拾いに行かせたりしていたら、「集中力がなくなってきたぞぉ」と味方からはっぱかけられました。

同じようなミスを続けていたところ、相手コートのお母さんたちからも「ほら神父さまは、もう集中力がないぞ~」と冷やかされまして、説教はほとんどの人が最初から聞いているんだと、痛いほど分かりました。先週の出来事で、説教で話したことはいつか浜串の信者さんたちの中で実を結ぶのと思えるようになりました。

今週の福音朗読で、イエスは「いちばん偉い者」について、弟子たちが考えもしなかったことを取り上げます。弟子たちは、「だれがいちばん偉いか」と議論し合っていたのですが、きっと弟子たちが考えていたのは、力のあるなしとか、貢献したかしなかったかとか、イエスの質問に何回適切に答えたか、そんな優劣ばかり話題にしていたのでしょう。

そうした弟子たちの愚かな議論に、イエスは釘を刺します。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(9・35)さらに驚いたことに、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(9・37)

おそらく子供を連れた家族とかが、イエスの近くにいたのでしょう。ですが弟子たちの目には、目の前の子供たちなどまったく気付かなかったのかもしれません。出世、社会的地位、周りからの評価。そうしたことで頭はいっぱいで、イエスが見ているものが見えていなかったのでしょう。

イエスははっきりと、ご自分が見ているものを指し示します。それは子供たち、つまり無力で助けを必要としている者たちです。そして一人の子供を抱き上げることで、無力で助けを必要としている者を最優先に考えて動く者が、イエスに評価される者、イエスをお遣わしになった父なる神に評価されるのだと諭したのです。

わたしは、イエスが子供を抱き上げる姿には、隠された意味があると思います。子供に代表される無力で助けを必要としている者とは、人類全体を言い表していると思うのです。

血管が1cm詰まっただけでその後の人生がすっかり変わってしまう。ほんの一瞬よそ見をしただけで、自分の身を守ることができない。そんなあわれな人間を、イエスは抱き上げるために人となり、この世界においでになりました。罪な生活を断ち切ることができない、自分の罪も、他人の罪もゆるして清めることができない弱い人間を抱き上げる姿を、一人の子供を通して示しているのではないでしょうか。

イエスは、人類という一人の子供を抱き上げるために、この世においでになりました。その生涯は、「すべての人の後になり、すべての人に仕える」生き方でした。後をついて行きやすい人の後だけたどったのではありません。すべての人の後になりました。仕えやすい人にだけ仕えたのではありません。なぜこんな人間に仕えなければならないのかと理解に苦しむような人にも、イエスは仕えたのです。

イエスの考える偉大さが、ここに詰め込まれています。上に立つ偉大さは、限られた人にしか手本になりません。しかし仕えることで発揮される偉大さは、すべての人に道が開かれています。イエスは、すべての人の模範となるために、仕える道を通して偉大な道を示そうとしたのです。

9月の第4日曜日は、日本の教会では「世界難民移住移動者の日」に当てられています。自分の国を追われた人、理由があって自分の国を離れた人、さまざまな理由で滞在している人がいます。

このような人たちに手を差し伸べることは、弱く助けを必要としている人に仕えることになります。わたしたちが今日おささげした献金は、広く日本に滞在している難民移住移動者のために用いられます。これは、わたしたちにできることの一つです。

ほかにも、わたしたちにできること、わたしたちが考えておくことがまだあると思います。弟子たちが考えていたような、「だれがいちばん偉いだろうか」であくせくするのではなく、どんな場所でも、一人の子供、弱く助けを必要としている人を優先して考える活動を考えましょう。個人として、評議会として、小教区として、いろんな立場で、イエスが取った姿に倣っているだろうか。ときおり振り返る必要があると思います。

最後に、来月10月からの大きな動きについてお知らせしたいと思います。教皇ベネディクト16世は、昨年10月17日に、「信仰の門」という教令を発布して、今年10月11日から来年11月24日までを「信仰年」と定め、信仰を深める取り組みをし、信仰の力のすばらしさをすべての信者に理解してもらうよう呼びかけておられます。よきおとずれの10月号にも、信仰年について大司教さまが詳しく説明しておられます。

わたしたちはこれからの一年間、教えをもう一度学び直し、理解を深めるようにしましょう。カトリックの信仰を持っている信者はこんなにすばらしい生き方ができると、信仰年の間に証しができるカトリック信者に成長していきましょう。その中でも特に「すべての人の後になり、すべての人に仕える」生き方は、カトリック信者が何をいちばん尊い生き方と信じているか、人々に示す確かな方法になると思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(マルコ9:38-43,45,47-48)
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ちょっとひとやすみ
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▼9月23日は甥っ子の1歳の誕生日。甥が生まれようが姪が生まれようが、そんなこと知ったことかと思っていたつもりだったが、いざ生まれてみると「バカじゃないのか」と思えるくらいに気にしている。
▼他人に甥や姪の成長ぶりを聞かされても「バカじゃないのか」と本気で思っていたのだが、今は自分が「親バカ」ならぬ「叔父バカ」ぶりである。世の多くのジジババがケータイに写真を入れているように、さまざまな写真をストックしていて、たまにとっかえひっかえ待ち受け画面に使っている。
▼「初節句」は、ためらったが祝ってあげた。ためらったのは宗教絡みではなく、おきまりの祝い方だから嫌だったという理由だ。ちょっとアドバイスをいただいて、「のぼり」を贈った。のぼりと甥っ子が写った写真が送られてきたが、その場にいなかったくせによかったよかったと一人で喜んだ。
▼誕生日に何かを贈ることも考えたが、1歳では何を贈るのも難しいので、メッセージカードを送った。NTTにまんまとはめられ、キャラクターの電報を打ったら3650円也。いい商売してるわ。
▼一言だけ、信仰につながる言葉を添えた。「神と人とに愛される人になってください」「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」(ルカ2・52)知恵が増し、背丈も伸びることを願うだけでは神父であり兄である自分としては芸がない。
▼いつか、この言葉を母親である妹に教えてもらい、自分がその時からどのように愛されて育ったかを思い起こす時が来てくれればいい。甥っ子と話しができる歳になったら、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」(使3・6)と言おう。

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今週の1枚
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第218回目。お祝い電報。おめでとうの気持ちが届きますように。

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年間第24主日(マルコ8:27-35)命を失って、それを救う

2012-09-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/09/16(No.610)
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年間第24主日
(マルコ8:27-35)
命を失って、それを救う
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今週、敬老者のためにミサをささげています。わたしは、歳を重ねることの重みを考えるようになりました。去年はここまでできていたということが、今年は同じところまでできなくなったりします。

たとえば、今婦人会といっしょにミニバレーの練習を、司祭団の間ではソフトボールの練習をしていますが、バッティング練習が回ってきて、去年は外野の守備ギリギリのところまでボールを飛ばせたのに、今年は何度試しても少し手前で外野の守備の司祭に取られてしまいます。

ミニバレーで言うと、去年は練習の最後までしっかり練習できていたのが、今年は練習の終わり頃になると気持ちが途切れてしまって、「あー、そろそろ終わらないかなぁ」と思うことがあります。去年と今年、1年しか違わないのに、やはり何かが少し違ってきています。

今日敬老のお祝いを受ける75歳以上の方も、多かれ少なかれ、今年は去年に比べて少し違いが出て来たなぁということがあるのではないでしょうか。そして、そういう少し荷が重くなった負担を、今もこうして正面から担っておられます。本当に、立派だなぁと思います。

今週の福音は、ちょうど敬老者の姿に重なります。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(8・34-35)

自分を捨てて生きるとか、自分の十字架を背負って生きるとか、好んで選ぶ道ではないはずですが、今日お祝いを受ける敬老者の方々は、思い通りに生きることを少し控え、思い通りにならない頭と体を日々担ってこられました。それは、敬老者の立場で、イエスに従う生き方だと思います。考えようによっては十年前二十年前よりも、もっとイエスの望みに従って生きることができるようになったのかもしれません。

思い通りに生きることを少し控えて自分を捨てて生きている姿、思い通りにならない日々を自分の十字架として担っている姿は、ペトロの信仰を表す場面とも重なります。ペトロは、「あなたは、メシアです。」(8・29)とイエスに答えました。

この信仰告白は、イエスに、「あなたは他の誰でもない、ただ一人の救い主です」と言い表しているのですが、敬老者の皆さんも、生き方で「イエスさま、あなたは他の誰でもない、ただ一人の救い主です」と言っておられると思います。他に欲張って求めるものはなくなり、ただイエスの救いだけを必要としている姿。敬老者の皆さんは生き方で、ペトロの信仰を言い表しているのだと思います。

今日のこのミサには、敬老者を祝う人々も集まっています。子供たち、敬老者を家族に持っておられる方、教会家族で敬老者のお祝いのために集まっています。敬老者を祝うわたしたちも、敬老者の生きたお手本から自分の振る舞いを見つめ直したいと思います。

イエスはご自分の死と復活を予告しました。自分に死んで、新しい命に生きることが、救いのためにどうしても必要だと考えておられます。イエスが必要だと考えておられることに、わたしたちが口を挟むことがどうしてできるでしょうか。

それなのに、つい口を挟んでしまうのです。「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」(8・32)イエスには、ペトロの思い通りのイエスであって欲しい。ペトロの勇み足がここに現れています。「あなたは、メシアです」と、気力も体力も充実している時に表明した信仰は、それ自体は素晴らしかったのですが、歳を重ねた信仰、火で精錬された信仰にはたどり着いていなかったのです。

イエスは、思い通りにならない道、すなわち十字架の道を通って、救いを完成しました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(8・35)わたしたちも、思い通りにならない道を通って初めて、意味深い信仰告白ができるようになるのだと思います。

敬老者が生き方で示す信仰に謙虚に耳を傾け、共にイエスに従って歩む道を見つめ直しましょう。思い通りにならないことを数多く通り抜けた先に、輝く信仰者の生き方があります。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(マルコ9:30-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼今、訳あって自炊中。久しぶりに「エレナ」というスーパーに出向いて、買い物をしてきた。一言断っておくと、目の前の漁協のストアにも買い物に行ったけど、牛乳2本、チャーハンのもと、レトルトカレーを買ったくらいだったから、ここでは割愛。
▼レシートに書かれた順に列挙する。塩ラーメン。みそラーメン。塩あじそら豆。みそかつおにんにく。人参。キャベツ。白ネギ。伊万里小ネギ。以上。今回は写真ではなくて、その実物のレシートを添付している。
▼上記の買い物が何を意味しているか。つまり、わたしが買い物に行けば、このような物を買う(こんな物しか買わない)ということだ。たかがこれだけの買い物だが、考えに考え抜いて、30分もウロウロして買ったのである。
▼まず塩ラーメンとみそラーメン。この3年間、ほとんどインスタントラーメンを口にしなかった。夜食に食べる人もいるかも知れないが、幸か不幸か、わたしが赴任してきてからというもの、台所にはインスタント類はいっさい見つからなかった。だから、ふだん口にしない物の代表格として、これを買った。
▼そら豆。1週間経過したがまだ手を付けていない。これはビールのおつまみで買った。ところがビールを飲む暇もなく、葬式が入ったりしたもので夜に一人でゆっくり過ごせなかった。もう少し自炊生活は続くので、いずれ食べる機会もあるだろう。
▼にんにく。ご飯のお供にと、買ってはみたがまだ炊飯器を使っていない。これもご飯を炊けば、どうしても必要になる予定。ちなみに漁協で買ったチャーハンのもとも、レトルトカレーも、ご飯を炊かなければ出番はない。
▼人参とキャベツ。わたしの頭の中で「温野菜」に必要な野菜。この野菜と、ベーコンを少し加え、みそを小さじ2杯ほど入れてから蒸気でしんなりさせる。温野菜は朝食用。食パン1枚を焼いてマーガリンかバターを載せ、一緒に食べる。
▼白ネギと小ネギは、うどんを食べるため。五島うどん(有川うどん)を美味しく食べるのに、ネギは欠かせない。少し麺が余ったら、水分を切って焼きうどん。ネギがまたよく合う。ただし、焼きうどんは余った麺に限る。最初から焼きうどんだと、美味しすぎて食べ過ぎてしまう。
▼まぁこんな感じで、今月はゴソゴソ、自炊しないといけない。

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今週の1枚
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第217回目。ちょっとひとやすみのネタになったレシート。タイムセール中だった。

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年間第23主日(マルコ7:31-37)わたしたちすべてを父なる神に開くイエス

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こうじ神父
「今週の説教」
12/09/09(No.609)
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年間第23主日
(マルコ7:31-37)
わたしたちすべてを父なる神に開くイエス
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視覚障害を持っている方に情報を提供する団体が九州から集まり、研修する目的で先週は宮崎に行ってまいりました。集まってきた団体は、おもに点字図書館とか、ライトハウス(この場合のライトは、明るくするほうのライトです)という名前の付く団体でした。わたしが関わっているマリア文庫はその他もろもろの団体なのですが、皆さんしっかり研修で収穫を得てきましたし、わたしは理事会にも出席してきまして中身のある会合でした。

金曜日は12時ですべての研修内容が終了したので、マリア文庫の会員は宮崎でわたしたちと共に活動している会員の案内で昼食をご一緒させてもらい、さらに青島という場所を観光してきました。唯一、研修とは別の気分転換になりました。

さて、福音の学びを得ることにしましょう。イエスのもとに、耳が聞こえず舌の回らない人が連れて来られました。イエスは人々の真剣な思いに応えて、病をいやしてくださいました。3つのことについて触れたいと思います。

1つ目はイエスは病をいやす際に、とても細かい動作をされたということ。2つ目は、イエスが奇跡によってもたらしたことは、病からの回復だけではないということ。3つ目は、イエスがだれであるか、人々から理解されなかったということです。

イエスは、耳が聞こえず舌の回らない人に、細かい動作を行いました。「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。」(7・33-34)

本来イエスが奇跡を行うのに、これらの動作は必要なかったはずです。それでもこのような細かい動作をされたのは、その人の重荷を、すべてイエスが引き受けてくださるという思いがあったのではないでしょうか。イエスはすべての人の重荷や苦しみを、一つひとつ身に受けてくださいます。

次に、イエスが奇跡によってもたらしたことは何か、ということですが、イエスの細かい動作の中にヒントがあると思います。実はイエスの細かい動作の中に、一見病の治癒とは無関係な動作が入っていました。それは、「天を仰いで深く息をつき」というものです。

この動作は、人を父なる神に結び合わせようとするものです。天を仰ぐ動作は神への祈りで、深く息をつくのは解放してあげたいという切なる願いの表れでしょう。イエスはこの「天を仰いで深く息をつく」動作で、単に病からこの人を解放するだけではなくて、人間全体を、喜びへと解放してくださったのです。イエスという方は、ただ病気を治す人ではなく、人を父なる神へと向かわせ、喜びへと解放する方なのです。

最後に、イエスはこの出来事を目撃した人々に、「だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた」(7・36)とあります。わたしは、イエスが人々をそれほど信用しておられなかったのだろうと考えました。

結果的に人々は、イエスが行った奇跡だけに目を奪われてしまい、神を賛美することはできませんでした。イエスはあらかじめ、そのことをご存じだったのでしょう。それで、人々に口止めをされたのでした。わたしたちは、人々のようになってはいけません。イエスの奇跡に触れる時、神を賛美する者でありたいと思います。

イエスは「エッファタ」「開け」と言われました。その叫びは、「耳が聞こえず舌の回らない人」のためだけではありません。わたしたちすべての心に、「開け」と呼び掛けているのです。イエスのさまざまな教えや導きにもかかわらず、わたしたちの耳はイエスの言葉がよく聞こえていません。イエスの招きがあっているのに、わたしたちの舌は神を賛美するためによく回らないのです。

そんなわたしたちに、イエスは今も「エッファタ」「開け」と叫んでおられるのではないでしょうか。生活のすべてで、わたしたちはイエスの呼び掛けに耳を傾け、舌を使って賛美する必要があるのです。朝昼晩と食事をする時、イエスは「開け」と言っているのにわたしたちの舌は食事に先立って神を賛美しているでしょうか。

一日の始まり、また一日の終わり。イエスは「開け」と言っているのに、わたしの舌は神を賛美して一日を始め、賛美のうちに一日を終えているでしょうか。こうしてイエスは、わたしたちすべてに、「開け」と言って心を神に向けるように促しているのです。

わたしたち一人ひとりが、イエスによって心を開かれ、神を賛美する者となれるように祈りましょう。人と人との語らいも、心を開いて神を賛美する語らいとすることが可能です。いつも誰にでも、イエスが「開け」と言っておられることに気づき、神に結び合わされることができますように、今日のミサの中で祈り求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(マルコ8:27-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼宮崎での研修会の途中、金曜日の朝に南宮崎教会を訪ね、ミサをささげさせてもらった。ザベリオ宣教会の神父さまが迎えてくださり、わたしと2人きりでミサをささげた。前もって研修の参加者に、「朝のミサに、宮崎で参加しましょう」と誘ったのだが、全員「朝起きる自信がありません」と断られ、1人で南宮崎教会に行ったのだった。
▼実は南宮崎教会の信徒の方が来てくださっているのではないかと淡い期待を持って出かけたのだが、実際には司祭が1人で待っておられたのだった。「あー、誰もいないか」簡単な説教を準備していたのだが、説教もする必要ないかなぁと思ったが、一応考えてみたことを披露した。
▼福音の箇所は、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という内容を含んだ箇所だ。わたしは、「新しいぶどう酒は聖霊だと思います。この聖霊を、生活の中に保ち続けるために、わたしたちはつねに新しい革袋であるべきです。古い革袋ではいつか破れてしまい、新しいぶどう酒である聖霊は流れて失ってしまうかもしれないからです。」だいたいこんなことを話したのだった。
▼話し終えた頃にこの教会の司祭が、「わたしに一つだけ付け加えさせてください」と申し出てきた。初めての体験だった。この司祭はこう言った。「ぶどう酒は、保つだけではなく、皆に分け与えてあげるのがよいと思います。聖霊がぶどう酒、それはよいアイディアです。聖霊であるなら、多くの人が喜ぶはずです。多くの人に、分けてあげるなら、多くの人が聖霊に満たされます。いかがですか。」ごもっともだと思った。
▼後で聞いた話。研修が終わってわたしたちが案内してもらった宮崎在住のマリア文庫の会員さんは、何ともう一つの宮崎市内のカトリック教会に所属している信徒だった。しかも、この日の朝、所属の教会に行ってミサに参加したという。さらに偶然は重なる。その、もう1つのカトリック教会の現在の主任司祭は、わたしの2年先輩のY神父さまだった。
▼そこまで把握していれば、南宮崎教会に行かずに、もう1つの教会に行ったのにと悔しかったが、明らかに宿泊先から近かったのは南宮崎教会だった。残念と言えば残念だが、貴重な経験をしたわけだし、今回は痛み分けということだろう。

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新企画今週の1枚
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第216回目。研修の様子ではなく、ケータイで撮影した青島の写真のうちの1枚。

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年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)あなたの心の中に糾明すべき罪がある

2012-09-02 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
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(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
12/09/02(No.608)
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年間第22主日
(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
あなたの心の中に糾明すべき罪がある
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休暇をいただきました。月曜から長崎に行く予定をしていましたが、日曜日のミサ後から天気予報を見ていると、どうも月曜日に船は出そうにありませんでしたので、日曜日の夕方5時の五島産業汽船を申し込んで、半日早く五島を脱出しました。

結果的にその判断は正解だったのですが、あとで考えたら日曜日の夜には評議会が入っていて、議長さんにはよろしくお願いしますと連絡はしたのですが、悪いことしたなぁと思っています。

さてサッカーのロスタイムのようなおまけの休みが与えたれて、学生の人たちはさぞ喜んでいることでしょう。わたしが記憶している限り、小学生時代に9月3日が始業式になったことなど聞いたことがありません。くやしいです。

さてぎりぎり夏休みの最後の週で、堅信組に言い聞かせる七つの秘跡の話は間に合いました。今週の福音朗読から、「ゆるしの秘跡」について、呼びかけをしたいと思います。ゆるしの秘跡は、二つの柱があります。罪を犯した人は洗礼以後に犯した罪について、問いただし(糾明)・悔やみ(痛悔)・司祭に告白し・償いを果たします。司祭は罪を犯した人にキリストの名によって罪のゆるしを与え、償いを言い渡します。

どのような罪を告白しなければならないかというと、洗礼以後、まだ告白していないすべての大罪を告白しなければなりません。また小罪を告白することも、教会から強く勧められています。小罪を告白することで、わたしたちの正しい良心を養い育て、悪い傾きと戦う助けになるからです。

そこで、罪について少し考える必要があります。罪と言うと、何かをしなかったとか迷惑をかけたとか、結果だけ考えるのは堅信組の中学生の糾明、告白としては不十分だと思います。告白する人が「日曜日のミサに行きませんでした。2回」と言ったとしましょう。中にはそれだけしか告白のときに言わない人もいます。そんな時、わたしは心の中では「よく考えてほしいなぁ」と思っています。

福音朗読をもう一度読み返しましょう。当時のユダヤ人たちは、昔の人の言い伝えを守り、外出先から帰ると念入りに手洗いをして食事をしていました。外出先が外国人のいる場所、違う宗教を信じている人の場所だと、宗教的に汚れると思っていたからです。

けれども、イエスと弟子たちはその習慣をそれほど気にしていませんでした。ファリサイ派の人々と律法学者たちにとって、手を洗わないイエスの弟子たちの態度は、汚れをできるだけ遠ざけようと努力していた自分たちを侮辱しているように見えたでしょう。

イエスは、きっぱりとご自分の考えを伝えます。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(7・14-15)ファリサイ派の人々と律法学者たちは、外を一生懸命清めようとしていましたが、彼らの心の中は、手を洗わないイエスの弟子たちへの怒りと憎しみで一杯だったのです。イエスにとって、外の汚れを洗ったか洗わなかったかよりも、宗教指導者の心の中の、怒りや憎しみこそが罪だったのです。

先週中田神父は浜串と福見で平日まったくミサをしませんでした。そのことだけを取り上げたら、重大な罪を犯しています。けれども月曜日から水曜日は長崎で、木曜から土曜日は鯛ノ浦で、ミサをささげました。わたしは朝の6時に、浜串と鯛ノ浦に同時にいることはできません。浜串と福見でミサをしなかったし、できませんでしたが、理由まで考えれば理解してもらえると思います。

堅信組の皆さんも、ゆるしの秘跡を受ける前には十分な糾明をするでしょう。ミサに行かなかった日もあるでしょう。本当に、どうにもならない場合は、わたしは罪にならないと思います。行けば行けるのに、行きませんでした。それは、心の中で罪を犯していると思います。行きたくないという思いを優先したからです。

イエスの言葉はゆるしの秘跡のしかたをもう一度考えさせます。「人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」ミサに行かなかったのは結果に過ぎません。なぜ行けなかったのかをよく糾明して司祭に告白する必要があります。起き上がれないくらい頭が痛くて行けなかったのか、起きなさいと親から言われたのに、聞こえないふりをして行かなかったのか。事情はまったく違います。

中には病院に入っていて日曜日のミサに行けませんでしたと言う人がいますが、それは結果だけを気にしている人です。病院にいれば行けるはずがないのですから、そんなのは罪ではありません。

「人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」堅信組の中学生は、保護者といっしょに11月の堅信式の前にゆるしの秘跡を受けます。お祈りをしませんでした3回、ミサに行きませんでした2回というような告白はもううんざり。不合格です。

イエスは「人間の心から、悪い思いが出て来る」とも言っています。思い、言葉、行い、怠りについて、悪い思いがその時になかったか、よく糾明をしてほしいと思います。決して、教会に行かなかったことだけが罪なのではありません。生活全体を見つめて、心の中で、悪い思いを持ったときのことを糾明・痛悔・告白してほしいと思います。

最後に、司祭は、だれがどんな罪を言ったのか決して話しません。だいたい分かっていますが、決して話しません。なぜなら、司祭はイエス・キリストの名によって奉仕をしている僕です。一人ひとりの罪について何かが言えるのはキリストお一人です。僕である司祭には何かを言う権限はありません。だから、司祭には完全な秘密を守るように義務づけられています。イエス・キリストと向き合って、立派な告白ができるように、ミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(マルコ7:31-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼休暇中、あれもこれもしたいと思い、大きなバッグを抱えて休暇に入ったが、思うようにできなかった。静かな環境が、わたしにとっての大事な休暇だが、残念ながらその理想は叶えられなかった。テレビがつけっぱなしであったり、さまざまなことで静けさは与えられなかった。
▼そういうわけで9月3日締切の作業は終了できなかったわけだが、締切を過ぎたわけではないので希望を捨てたわけではない。ギリギリまで努力するのみだ。休暇中にできなかったこともあるけれども、休暇でしかできないこともいろいろ叶ったので、良しとしよう。
▼休暇に入る頃だったか、嬉しい話が舞い込んできた。プライベートな話では、尊敬し、今でも連絡をくださる大学の先生が、長崎に来る時にまた浜串を訪ねたいという連絡が入っていた。それは予想外の喜びで、待たせてはいけないと思い、確認の電話を入れ、久しぶりの再会を約束した。
▼もう一つは、結婚式が入ることになった。新しい生活を祝福し、送り出すのはいつも喜ばしいことだ。最近結婚式なんか司式はおろか見たこともなかったので、本人たち以上にウキウキしている。結婚式には何を着ていこうかなぁ(笑)みたいな。
▼2013年度のカレンダーに、五島の写真家が撮影した写真で作られたカレンダーを信徒に勧めた。わたしの見込み以上に注文が舞い込んでいる。注文に二の足を踏む人が多いのではないかと思っていたが、そういうことは全くないようだ。集計がまだ終わってなかったが、注文の期日の関係で、だいたいこれくらいという見込みのもとに注文した。
▼現在、3人の司祭が療養中。1人は引退司祭で、散歩中に倒れられた。1人は大先輩で、転倒され左足を骨折。1人は10歳も後輩。9月初旬には長崎の病院へ転院するとの話。病気はどれも他人事ではない。病気するかもしれないという覚悟もだが、まずは健康な生活が第一だろう。

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今週の1枚
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第215回目。浦上教会。朝5時45分。空が赤く染まる中、信徒はミサに向かう。

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