こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

受難の主日(枝の主日)(マルコ15:1-39)言葉を尽くしてイエスの沈黙を説明するなら

2021-03-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/3/28(No.1112)
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受難の主日(枝の主日)(マルコ15:1-39)
言葉を尽くしてイエスの沈黙を説明するなら
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受難の主日、イエスのご死去までの出来事を駆け足で辿ります。聖木曜日、聖金曜日の典礼に参加できない方は、特に今日の典礼を通して、私たちのために血の一滴まで流し尽くされたイエスの犠牲・奉献を思いましょう。そこから、この一週間私にできることは何か、考えてから生活に戻ることにしましょう。

田平小教区の皆さんは、先週の連絡会で、復活の主日・日中までの説教を配布してもらえるようにお願いしました。すでに目を通されている方もいるかも知れません。本日の朗読で、イエスが語られたのは最初と最後だけです。しかも、一切弁明をしないのです。

私たちの主は、なぜこうまで沈黙を守られたのか。イエスの沈黙の中に、復活への希望を見いだす。イエスの沈黙の中に、私たちも場所を見つけ出す。そんな十字架の道行が、私たちにも必要になってきます。

時折、物言わぬ沈黙が尊い価値を持つことがあります。東日本大震災から10年を迎えた3月11日に、特集番組のいくつかを見ました。その中に、すでに退職した似顔絵捜査官のドキュメンタリーがありました。この人の手にかかれば、それまで手がかりがなくて暗礁に乗り上げていた事件が一気に解決する、そんな似顔絵を描く人物でした。

この元捜査官が震災の身元不明者を遺族にお返しする切り札として呼ばれたのです。痛みの激しい遺体や、完全に白骨化した頭から、本人の特徴を引き出して似顔絵を描きます。似顔絵が決め手になってたくさんの身元不明者を遺族に引き渡すことができました。今も、最後の一人まで遺族に引き渡そうと、一度描いた似顔絵も描き直して捜査に協力しています。そんな番組でした。

ご遺体は、何も語りませんが、元似顔絵捜査官だった人は、そのご遺体の声なき声を拾って、似顔絵に反映させていました。何も語らないはずの骨から、当時の姿を引き出す。そこに実際には声はなくても、正確に伝わる何かがあるのだと実感しました。「沈黙に聴く」ということでしょう。

イエスの十字架上の場面は、言葉で言い尽くせない神の計画の集大成です。それを言葉であれこれ説明する必要があったなら、イエスはいくらでも説明を尽くしたでしょう。しかしイエスが選ばれたのは沈黙でした。人間的に考えれば、何も語らなければ誤解され、思いをねじ曲げられる恐れもあるのに、イエスは何も語らず、ご自身を十字架の上でささげました。

それは御父への信頼があったからです。「御父は、沈黙のうちに十字架上の救いのわざを正しく理解させてくださる。心配する必要は無い。」御父への絶対の信頼があったから、イエスは沈黙のうちにすべてを成し遂げたのです。

沈黙が私たちに教えていることは何でしょうか。それは私たちがイエスのように御父への信頼のうちに生きることです。私たちも、御父への信頼のうちに生きるなら、たくさんの言葉よりも沈黙のほうが価値を持ってきます。言葉で弁明したくなるところを、沈黙の中に留まることができます。御父が、私の沈黙の正しさを証明してくれるからです。

イエスは十字架の上から言葉で弁明しませんでした。御父が沈黙の正しさを証明してくれると信じました。そしてイエスは復活し、ご自身の正しさを証明してくださったのです。

イエスは私たちにも招いています。沈黙の中に、場所を見いだすこと。沈黙の中に、答えを見いだすこと。人間のどのような弁明よりも、神がそばにいて守ってくださる沈黙のほうが、はるかに力強く、信頼できるものです。イエスはそのことを十字架の上で証明されました。私たちは同じことを、それぞれの人生の上で証明するのです。

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‥次の説教は‥‥
聖木曜日(ヨハネ13:1-5)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年の聖週間がスタートする。受難の主日、予報では雨。外での行列は無理かも知れない。そもそも集団になる行動は控えるべきではあるが、密にならないように気をつけながら行列を行いたいのだが。
▼今年は、プリント代がかかったが全世帯に「受難の主日~復活徹夜祭」の原稿を用意して配布する。説教だけの前撮りもする。教会新聞の主任司祭記事も。そしてそれらをYouTubeにアップしてみる。ミサの収録をアップしているが、ひょっとしたら説教のみの収録をアップした方が助かる人もいるのかな。

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今週の1枚
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第719回目。毎年、役員が快く協力して受難の主日に使う枝を用意してくれる。

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四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)何も弁明せず、一粒の麦は地に落ちて死ぬ

2021-03-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/3/21(No.1111)
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四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)
何も弁明せず、一粒の麦は地に落ちて死ぬ
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本日、午後1時から浦上教会で司祭の叙階式が行われ、三人の受階者が司祭に叙階されます。三人司祭が与えられるのは久しぶりです。神様に感謝しましょう。そして、日頃から祈りと神学生養成援助でお支えくださった皆様に感謝致します。

三人新司祭が誕生すれば、当然三ヶ所の任地に派遣されることになります。その他の人事異動も含めて、集まった司祭たちで賑やかになるでしょう。異動の対象になっていない私は、盛り上がっている輪の中に入って、誰がどこに異動なのか、集めて持ち帰りたいと思います。

先週、小教区の黙想会が行われましたが、その数日後に紐差教会巡回の黙想会に、ゆるしの秘跡の手伝いに行ってきました。黙想指導をしておられたのは、紐差小教区出身で、長らく宮崎のミッションスクールの校長を務めたことのある「山頭原太郎神父様」でした。何と御年96歳。

声はしっかりしておりましたが、耳は遠くなり、説教をするために祭壇に上がるにも、一旦座った椅子から立つのにも濵口主任神父様の介助が必要な状態でした。ですから信者さんの告白を聴くのはとても無理ということで、私が手伝いに行ったわけです。

紐差教会の巡回教会は二つありまして、一つは木ヶ津教会、もう一つは大佐志教会です。皆さんの方がよくご存知でしょう。そして木ヶ津教会と言えば、聖堂内にかつて永井隆が描いた「十字架の道行」が飾られています。思ったよりも小さな絵でしたが、小さなかわいらしい聖堂を飾るには十分でした。

午前の部で木ヶ津教会のお手伝いに行きましたが、「そう言えば、桜も有名だったなぁ」と思い出しまして、お手伝いを終わって食事までの空き時間に桜を見に行くことにしました。スータン姿で、歩いて出かけました。田平教会の北側の通路くらいの、狭い道を歩いていると、後ろから軽トラックがそろーっと付いてきます。

私が邪魔しているかも知れないと思い、畑に上がって道を譲ったら、おばあさんが軽トラから声をかけてきました。「神父様~。神父様は山頭神父様ですか~?」私はショックを隠しきれませんでしたが、気を取り直して「田平教会の神父よ。木ヶ津の黙想会の告解の手伝い。」

するとそのおばあさん達はこう続けます。「あー、平戸口教会ですか。ご苦労さんです。」ショックでした。そのおばあさん達にとって、「田平教会」とは、「平戸口教会」のことのようです。それでも自分を奮い立たせて「いやいや。平戸口教会じゃなくてレンガの教会のほうよ」と返すと、「それじゃ宝亀教会ですか?」と言うのです。私は田平教会のすべてを否定されて、泣きたい気持ちでした。

話を切り替えようと思い、こう言いました。「お母さん。この道を行ったら桜があるかな?」すると「慈眼桜のことですね。私たちも今から行くところですよ。」それで私が「そうか。ありがとう」と言ったら、その軽トラックは去ってしまいました。せっかくなら荷台に載せろよ!

生涯残る面白い出会いでした。虚を捨てて、心を開いて話に耳を傾けたら、会話した言葉の何倍もの収穫があったからです。「田平教会」と聞いたおばあさんが「平戸口教会」と疑いもなく考えたこと。ではこのおばあさん達にとって、田平教会は何という名前の教会で呼ぶのだろうか?深く考えさせられました。

その他にも、たくさんの収穫がありました。そこで、「何だと?黙想会の説教をしていたじいさん神父様と勘違いするとは失礼にも程がある!」と切り捨てたら、何も収穫は得られなかったでしょう。イエスがすべての人を救うために、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12・22)と言われたのが、この年齢になって痛いほど分かります。

さて、慈眼桜を見に行く時に出会ったおばあさん達は、あの時のことを振り返って思い巡らしたでしょうか?「『田平から来たよ』と言っていたけれども、平戸口教会じゃなくて瀬戸山教会のことだったのではないだろうか?すると『レンガの教会』と言っていたのも宝亀教会ではなくて当然瀬戸山教会だ。何ということでしょう!」そこまでたどり着いたでしょうか?

おそらく、何も気付かないままだと思います。それでも、私が多くのことに気付いたので、恵み多いひとときになりました。そのように、イエスがたとえに用いられた「一粒の麦」は、何も語らず、弁明もせず、御父からこの地上に種蒔かれて、死ぬのです。

舞台を整えてから死ぬのではありません。十字架という、残酷な形で死ぬのです。しかし、死ねば多くの実を結ぶのです。それは私たちがあとで思い巡らして豊かにするからではなく、御子の死が無残な死であっても御父が栄光を与えてくださるのです。

すでにその時は迫っています。イエスは黙って、死に向かわれます。弁明もなく、一粒の麦になられるのです。私たちにできることは限られていますが、いつか私たちが一粒の麦の立場になる時、イエスの姿に見倣いたいものです。弁明の機会が無くてもうろたえず、自分を差し出しましょう。もし一度でもそのような機会が与えられれば、私たちはイエスのたとえを生きることができます。

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‥次の説教は‥‥
受難の主日(枝の主日)(マルコ15:1-39)
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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会は説教師を招いて行うことが多いので主任司祭は接待に回る。さまざまなタイプの神父様と個人的に親しく会話する貴重な機会となる。司祭会議では見えなかった一面も見ることが出来、実り多い三日間であった。
▼期間中、火曜日が大荒れの天気だった。参加者の中にも、荒れた天気を嫌って遠慮した人もいたようだ。さらには新型コロナウィルスの影響もあったかも知れない。参加人数が私の予想よりも少なかった。来年は、通常開催といきたいものだ。

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今週の1枚
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第718回目。桜の開花ももう少し。私は慈眼桜でなく、「田平桜」が好き。

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四旬節第4主日(ヨハネ3:14-21)独り子を信じるという道が与えられた

2021-03-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/3/14(No.1110)
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四旬節第4主日(ヨハネ3:14-21)
独り子を信じるという道が与えられた
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「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(3・16)復活の主日まであと三週間となりましたが、今週四旬節第4主日が復活の主日までの鍵となりそうです。

朗読された箇所はヨハネ福音書の3章、「ニコデモとの対話」という物語です。第3章ですから、イエスの御生涯のクライマックスではなく、割と早い場面でのやり取りです。イエスが語りかける相手はファリサイ派に属するニコデモです。朗読箇所よりもあとになりますが、ニコデモはイエスから「イスラエルの教師」と呼ばれていることから、かなり突っ込んだ話がなされていると分かります。

イエスはここでは多く語りますが、御受難に近づいてくるとほとんど語らなくなります。十字架上では、ついに何も語らなくなります。これからの三週間で、「多く語っているイエス」と「何も語らないイエス」、どちらも「神がお与えになった独り子」であることを理解する。この長く困難な道を歩く必要があります。

3月11日は東日本大震災が発生してから10年を迎える日でした。多くの命が奪われました。多くの人の生活基盤も失われました。また、新型コロナウィルスの脅威にさらされて、すでに1年が経っています。ここでも多くの命と多くの人の生活基盤が失われました。

幸いに、ほとんどの人が懸命に前を向いて歩いています。どれだけ基盤となるものを失われても、どこかに「決して失われないもの」があって、それをよりどころにしてここまで歩いてきました。計り知れない恐怖が二つ襲いましたが、それでもなお取り去られない基盤があることを体験によって学んだのです。

人によってはそれを「震災に負けない」「コロナに負けない」と表現するかも知れません。キリスト者であればもっと別の表現ができるでしょう。それは「独り子を信じる」という生き方、あるいは「道」です。

個人的なことですが、3月12日は55歳の誕生日でした。去年の誕生日に、新型コロナウィルスの影響でおよそ2ヶ月ミサが中止になるとは夢にも思いませんでした。司祭の生活の基盤はミサですから、私も生活の基盤を奪われたわけです。

それでも、ミサを休むわけにはいきませんので、個人的にミサを続けながら次のように考えました「ミサの奉納金がなくても、ミサをささげることが司祭の生活の基盤である。」痛みを伴って初めて理解できたのでした。

ミサの依頼があれば、「○○さんの依頼で、○○○○の為」という意向を持ってミサをします。公式のミサが中止になって、私は何の為に、ミサをささげるべきか。毎日考えました。私にできること、私が祈るべきことを考えさせられる期間でした。

そこで最後に得たことは、「イエス・キリストを信じる道」「独り子を信じる道」は、どんな困難の中でも決して奪われることがないということでした。人によっては同じことを「震災に負けない」「コロナに負けない」と表すかも知れませんが、私は「独り子を信じる人は負けない」と言い表せると思うのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3・16)これまでの生活基盤は、ある時すべて奪い取られることがあると、経験によって知りました。それでも前を向いて歩いている人は、きっとこれまでの基盤とは根本から違う何かを、新しい基盤にして歩き始めているのです。

中田神父はそれこそ「独り子を信じるという生活基盤なのですよ」と伝えたいのです。多くの人が知らずに、新しい生活基盤に立って前に進んでいます。人はそれを「震災に負けない」「コロナに負けない」という言葉で理解しようとしています。知らずに頑張っている人に、「実はそれが、『独り子を信じるという道』なのです」と知らせたいのです。

想像を超える困難を経て、私たちは「元の生活には戻れないのだ」と、はっきり理解しました。失ったものも、壊されたものも、もう戻っては来ない。だから、別の道を選んでほしい。「独り子を信じる」という新しい道を選んでほしいのです。

私たちキリスト者にとって、この四旬節は神の望みにしっかり向き直る季節です。過去の生活基盤にしがみつくのではなく、「独り子を信じる」という生活基盤の大切さを噛みしめる時期です。ミサがなかった時、各自が違う形で「独り子を信じる」生き方を探したことでしょう。その体験は貴重な体験です。

できれば、生き方を通して、周りの人に、どんな困難に遭遇しても決して奪われない基盤を知らせることのできる人に育っていきましょう。「震災に負けない」「コロナに負けない」この思いをキリスト者である私はこう理解している。そんな証ができるように、ミサの中で恵みを願っていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼およそ1年前、初聖体を延期した。新型コロナの「第一波」が襲ってきたからだ。都市部ではもっと早かったかも知れないが、3月下旬に、ミサなどの礼拝は中止となった。今年は少し状況が違っている。ただ一都三県は、まだ再開できないかも知れない。
▼1年前、最初の「公式ミサ中止」が通達された。心のどこかでは「思いがけず、時間を与えられた」と思ったりもしたが、遠足の前の日のような気分は1ヶ月中止になった中で吹っ飛んでしまった。次にミサが中止になれば、暗く沈んだ期間になるだろうと思った。
▼1年が経った。状況は少し改善している。そして心がけも、1年で変わってきた。初めて経験する困難を、まったく新しい取り組み、視点で乗り越え、学びとして次に伝えることを考えるようになった。どんな困難の中にも、私たちを新しくする材料が隠されている。

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今週の1枚
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第717回目。神社の鳥居じゃないよ。野外ミサで使いたい組み立て式祭壇。

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四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)初聖体を受けて、さらに御聖体を授けさせる人に

2021-03-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/3/7(No.1109)
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四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)
初聖体を受けて、さらに御聖体を授けさせる人に
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「初聖体」の日を迎えました。昨日は初めての「ゆるしの秘跡」を神父様のところでしました。皆さんは園長先生と練習していたと思いますが、園長先生は罪を赦すことはできないので、神父様のところでゆるしの秘跡を受けて初めて、ゆるしのお恵みがイエス様から届きます。

今日の初聖体も、「キリストのおんからだ」「アーメン」と、何度も園長先生と練習したでしょう。聖体拝領も、神父様から御聖体をいただいて初めて、御聖体のお恵みが皆さんに届きます。

練習は、園長先生が導いてくれました。練習のほうは、神父様ではできないと思います。もし練習中に皆さんのお行儀が悪かったら、神父様の注意がきつ過ぎて本番で受けたくなるかも知れません。練習のためには園長先生が必要ですし、本番のためには神父様が必要ですね。

さて、試験をしましょう。お恵みの大きさに比べたら、今から尋ねることは小さな試験(動作)です。今日御聖体をいただきます。御聖体とは、何ですか?もう一つ。聖体拝領の前に、主の祈りを唱えますね。自分で唱えることができますか? (時間を与える)

これで十分準備をしてきたことが分かりました。神父様のお話で最後の仕上げをしましょう。神父様が今日朗読したのはヨハネ福音書2章の「神殿から商人を追い出す」物語でした。イエス様は神殿のいちばん広い場所で、牛や羊や鳩を売っている人と、両替の仕事をしている人を厳しく叱りました。

「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(2・16)まるで、初聖体の練習のときに「聖堂の中でお行儀の悪いお友だちは初聖体の練習はできません。出て行きなさい」と叱られているようですね。イエス様はめずらしく厳しく叱ったのです。

なぜ、イエス様はあれほど厳しくしたのでしょうか。それは、父なる神様がおられる神殿をずっときれいにしておきたい、清く保ちたいと願う燃えるような熱意からでした。イエス様は大切な場所を、大切に守りたかったのです。

初聖体を受ける皆さん、これから皆さんの心はイエス様が来てくださるお家になります。大切なイエス様が来て、そこで皆さんをお恵みでいっぱいにしてくださいます。保育園では、使った物はきちんとお片付けをするでしょう。また皆さんのお家でも、誰かがやって来る時にはお片付けをするはずです。もしその人が大切な人なら、特別にきれいに掃除して待つはずです。

今日まで皆さんは心をきれいにして、いちばん大切なイエス様をお迎えする準備をしてきました。ですから今日、もちろん心はきれいです。今日はお片付けができていて、イエス様が心にやって来てもゴミ一つ無いでしょう。ですが、次の日曜日はどうでしょうか?

もっと先はどうですか?次の日曜日だけでなく、卒園して小学校に入学してからも、あなたの心はイエス様をお迎えできるきれいな心が続いているでしょうか?いつの間にか、自分だけの楽しみで心がいっぱいになって、イエス様が座る場所が無くなってしまわないでしょうか。そうならないように神父様がこれからも確かめたいと思っています。

田平教会の日曜日のミサは6時と9時です。皆さんがお家の人から「ほら教会に行くよ。準備しなさい」と言われた時、「今日は行かない。これからプリキュアを観るから」「これから仮面ライダーを観るから」と言ってお家の人の言いつけに背くなら、あなたの心には「誘惑する悪い者」が住み着いていて、イエス様をお迎えするのを邪魔していることになります。

毎日曜日、イエス様をお迎えするために、きれいな心を持ち続けてほしいです。心にいつもイエス様の場所を作っている人は、イエス様からたくさんお恵みと喜びをもらうことができます。

日曜日だけでなく、月曜日も火曜日も毎日、イエス様のための場所を作ってくれるなら、女の子のお友だちだったら将来園長先生になれるでしょう。男の子のお友だちだったら将来神父様になれるでしょう。そうなると初聖体を受ける人から、初聖体をさせてあげる人に変わるのです。

御聖体のお恵みは今日だけで終わりではありません。これからも、生きている間ずっと続きます。ほとんどのお友だちは、大きくなっても御聖体を受ける人で終わるでしょう。ただし一つだけ違う道もあります。それは御聖体を受ける人から、御聖体を受けさせる人に変わる道です。

神様にしかできないことですが、御聖体を受けさせる人が、男の子と女の子で現れてくれたらいいなと思います。御聖体を受ける人だけしかいなかったら、いつか御聖体を受けることはできなくなります。

使徒言行録の中で聖パウロがこう言っています。「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」(使20・35)それでは、「初聖体の決意表明と信仰宣言」に移りましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日(ヨハネ3:14-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼初聖体を受ける子供達の中に、少し遅れて洗礼を受けた子がいたので、4人の初聖体者のうち2人は私が洗礼を授けた子だった。自分が洗礼を授けた子が次の段階に進む姿を見ていると、時の流れを感じる。
▼いつかどこかで、洗礼を授けた子が堅信を受けたり、結婚したりするのを見ることがあるのだろうか。結婚する場面があるとすれば、25年前とか、30年前に授けた子供だろう。時間の流れは速いものだ。

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今週の1枚
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第716回目。季節外れだがマゴチを釣った。2時間半で1回だけのアタリを捉えた
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