こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)見て、告げ知らせ、反芻して信じる

2016-03-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/03/27(No.821)
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復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
見て、告げ知らせ、反芻して信じる
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あらためてご復活おめでとうございます。復活の卵に「当たり」が入っていた人もおめでとうございます。福音朗読から、「見て、信じた」というヨハネの理解に少しでも近づくことにしましょう。

今から6年前のことです。当時司祭館では信者の賄さんが働いてくれていました。この賄さんは食事を用意しながら鼻歌を歌うのが常でした。後期高齢者が口ずさめる歌ばかりでした。

浜串教会への異動の辞令を受け取った翌朝のミサ後の朝食、いつものように鼻歌を歌いながら食事を並べているところに、二階からわたしが降りてきます。階段を降りている途中で歌っている鼻歌が聞こえてきて、その歌に胸が締め付けられ、再び二階に戻りました。あろうことか、「星影のワルツ」を歌いながらご飯を用意していたのです。

「別れることはつらいけど しかたがないんだ君のため 別れに星影のワルツを歌おう 冷たい心じゃないんだよ 冷たい心じゃないんだよ 今でも好きだ 死ぬほどに」転勤の事実を知らないとは言え、いくら何でも選曲が悪すぎます。二階で気持ちを落ち着かせていると、一階から追い打ちをかけるように「おつゆが冷めます。早く降りてきてください。」平静を装うのに苦労しました。

こちらでも面白いことが起こりました。社協の食事サービス「マリア会」でのことです。3月の食事サービスを終えて「来月はいつにしましょうか。去年桜を見に土井ノ浦に行きました。神父さまは去年参加できなかったので、今年はぜひお願いします。4月8日でいいですか?」と聞いています。

慌ててわたしは「4月8日はちょっとまずいんでないかなぁ」と生返事をしました。「4月1日は寒いです。では15日にしましょう。」「15日はますます悪いんでないかなぁ。」それでとうとう事情を話す必要に迫られまして、異動なのだとそれとなく言ったのでした。

福音に戻りましょうご復活日中の典礼に選ばれているヨハネ福音書第20章から、一つの点を指摘しておきたいと思います。それは日本語で「見る」と訳されている箇所についてです。与えられた朗読に3個所登場します。「墓から石が取りのけてあるのを見た」(20・1)「亜麻布が置いてるのを見た」(20・6)「先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」(20・8)

ギリシャ語ではそれぞれ別の単語です。それぞれ意味が違うと考える聖書学者もいます。解釈に立ち入らないとしても、マグダラのマリアが見た後にペトロに伝え、ペトロが見た後にイエスが愛しておられた弟子が見て、最終的にイエスの復活を信じました。

見たことを告げ知らせ、見たことを反芻する中で、イエスは生きておられると理解できたのです。これは、わたしたちにも当てはまるのではないでしょうか。わたしたちもできる限りミサ聖祭に集い、ここで聞いたみ言葉を告げ知らせ、みことばと聖体の恵みを反芻する中で、イエスは生きて、わたしたちを導いておられると理解できるようになるのです。復活の信仰は、繰り返し見て、何度も告げ知らせて、反芻するうちに、信じることができるようになるのだと思います。

ご復活の知らせが来ると、教会によっては新しい体制で教会の歩みが始まります。浜串小教区もそうです。浜串小教区が、新たな気持ちで復活の主を証しする教会家族となれるよう、ミサの中で共に恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
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ちょっとひとやすみ
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▼この復活の主日の時点では、引っ越しの荷造りはほぼ終わっていて、あとはあえて荷造りしなくても車に放り込んで車と一緒に引っ越せるものだけが残っている(ことになっている・・はず)。車で運ぶ物の中に釣り道具があって、これは最後まで手放せない。最後の一匹まで浜串の魚を釣って「さよなら」とあいさつして去っていくつもりだ。
▼今回の転勤は周りから「田平かぁ。いいなぁ」と言われる。引き継ぎを聞いた範囲では問題山積ということではなさそうだが、ただ「取り組むべきことが山積み」という感じはしている。だから「取り組むべきこと」を知った上で「いいなぁ」と言うのであれば、もしお望みであれば代わってもよい。代わらないだろうけど。
▼さまざまな公共機関を利用するチャンスが出てきそうだ。たとえば田平から佐世保市内にやってくるときに、第三セクター(だったと思うが)の松浦鉄道を利用する場面も出てきそうだ。あるいは西肥バスで行くことも。同じように、長崎市内に出るときも、電車、バスを乗り継いで行く場面もあると思っている。いろいろ調べるのは楽しいものだ。
▼ただ、故郷の新上五島町鯛之浦に出ていく時が問題だ。可能性としては、田平から佐世保港に出てきてフェリーに乗る方法。これからは高速船ではなく、フェリーにバイク(もしくは車)を乗せてのんびり出ようと思っている。
▼もう一つは、思い切って博多港に出て、そこから夜11時45分のフェリーで五島に渡る。遠回りだが、朝6時に五島に上陸するメリットは魅力的だ。一日釣り三昧で時間を使って、実家で刺身を分け合って食べて一晩過ごし、帰りは佐世保経由で帰るという手もあると思う。
▼復活の主日と全く関係のない話ばかりで申し訳ない。しかし復活の主が行きなさいと言ったところでまた働く。この繰り返しの旅の中で、いくらかでもお役に立って、人生を全うしたい。

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新企画今週の1枚
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第428回目。このシールが入った復活の卵はプレゼントがもらえる。結構喜ぶ。

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復活徹夜祭(ルカ24:1-12)朽ちていく者から朽ちない者へ

2016-03-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/03/26(No.820)
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復活徹夜祭
(ルカ24:1-12)
朽ちていく者から朽ちない者へ
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主の御復活おめでとうございます。浜串小教区の皆様と御復活のあいさつを交わすことができるのは今年が最後ということになります。今年の復活徹夜祭のメッセージから、浜串小教区の皆さんへの最後の呼びかけを見つけてみたいと思います。

ルカ福音書の復活の出来事の始まりは、婦人たちが連れ立ってイエスのご遺体が納められた墓に向かうところから始まります。ルカ福音記者は女性の活躍を前面に出していましたから、墓に向かった女性の数はほかの福音書とは違って大所帯となっています。

婦人たちが出かける理由ははっきりしていました。イエスはたしかに十字架の上でお亡くなりになり、墓に埋葬された。墓に納められたご遺体に香料を塗り、最後のお別れをしに行くためでした。婦人たちにできる最後のお世話をするために出かけようとしていたのは疑いようがありません。

ところが、墓には主イエスの遺体が見当たりません。途方に暮れていると輝く衣を着た二人の人がそばに現れ、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(24・5-7)と語りかけます。

婦人たちは何が起こっているかはわかりませんでしたが、とにかく十一人のもとへ一部始終を知らせに行きました。この時点では墓で出会った二人の人に言われるがままに行動していましたが、すでに婦人たちの行動は新しいものにすっかり変えられていました。それは、もはや準備した香料は必要なくなったということです。イエスを、朽ちていく人間がいる墓に探す必要がなくなったのです。

しかしまだ、婦人たちが起こっていることを理解するには時間が必要でした。使徒たちも同じことでした。彼らは婦人たちの言葉をたわ言としか受け止めていませんでした。それでもペトロは立ち上がって墓へ走ります。墓の中をのぞき込むと亜麻布しかありませんでした。ペトロも、出来事を十分には理解できませんでしたが、イエスは朽ちていく人間の一人ではなくなったのだと驚いたのです。

ルカ福音記者は、第24章全体を使ってイエスの復活を語るので空の墓の出来事にはイエスは登場しません。しかし少しずつ、イエスを信じ、イエスに従った人たちの考えは変わり始めています。

イエスは十字架の上で確かに亡くなられたが、朽ちていく人間の運命にはおられない。自分たちはこれまで亡くなった人間がどのようになっていくのかを考えて、朽ちていく運命を頭の中で描いて動いていた。けれども、もはや朽ちていくことに囚われてはいけないのです。

わたしたちは頭をまず、朽ちていく考えから切り替えて、復活して生きておられるイエスに向けていく必要があるのです。万物はいつか滅びていきます。わたしたちの頭は、どこかでこの「すべてのものが滅びる」という考えの中で物事を考えてきました。けれども今は、逆らいようのない自然の摂理に立ちはだかる必要があるのです。

すべてが滅びる中で、滅びないものがあることを、イエスが教えようとしておられるからです。今年の復活徹夜祭の学びは、ここにあると思っています。すべてが滅びます。けれどもわたしたちは、滅びないものを一つ信じることができるのです。それはイエス・キリストです。

この社会の急速な変化は、永遠に続くものなどないかのようです。子供がたくさんいた時代は去り、数えるほどしか子供はいなくなりました。その土地にあった作物を収穫し、そこそこの生計が成り立っていました。今は買ってきたほうが安く感じているかもしれません。

海は取り尽くせないほどの恵みをもたらしてくれていましたが、もはや獲り尽くしてしまいました。かつてのキリシタンは外海地方から五島へと夢を抱いて移住しました。今は多くの若者が五島を出ていきます。

たくさんの思い出が、今や昔話です。けれどもイエスの復活は、滅びないものがあることをもう一度呼び覚ましてくれるのです。滅びるものにすがりついて現状を打破しようとしても、足元をすくわれるだけでしょう。むしろ、滅びないものを一つだけ知っているのですから、ここに望みを託して、生活全体を切り替えていく必要があるのではないでしょうか。

主任司祭も変わります。人事という、この世の仕組みだからです。けれども、イエス・キリストという一人の羊飼いのもとに、イエス・キリストの代理として民を導く主任司祭が与えられます。ここは変わらない真実です。

行き詰って、にっちもさっちもいかないという時、どうか皆さん、滅びぬものは何かを思い出してください。復活し、滅びぬものとなられたイエス・キリストはどのように前に進んでほしいと願っているか、考えてみてください。ここに、進むべき道は開けてくると思います。

墓で出会った二人の人は、婦人たちにこう言いました。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」(24・6)わたしたちが仮に倒れ、失望しても、思い出すべきなのはイエス・キリストなのです。イエス・キリスト、復活して、滅びぬものがここにあると招くこのお方に、探すべき答えがあるのです。

幼い頃語り継がれた信仰、親となって子に語り聞かせた信仰。祖父母になり、孫たちに語り、孫たちが教会から聞いてきたことに耳を傾ける素朴な信仰。ここに、思い出すべきものがあるのではないでしょうか。

いまわたしたちの心には復活の灯であるイエス・キリストの光がともされています。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」(24・6)自分自身に言い聞かせ、また人々にも語る勇気のたまものを、復活した主に願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼復活の出来事は「空の墓」から始まった。そこで「空っぽ」の話を。転勤に伴う引っ越し作業でみるみるうちに部屋の中から荷物が、物が消えていく。机の上が見渡せるようになった時に「こんなに広かったんだぁ」と感動する。机の引き出しも空っぽになった。
▼引き出しが空になったのはよかったが、思わぬ落とし穴が待ち構えていた。ゆうちょ銀行の通帳、親和銀行の通帳、十八銀行の通帳などを無造作に箱に投げ込んだらしいのである。引き継ぎの通帳を後任の司祭が入った時にすぐ目に付くところに置こうと考えていた時、「はて、個人の通帳はどこに行った?」と不安になった。
▼いろいろ考えた挙句、どうやら別に取り分けたわけではなく、箱に投げ込んだらしいという結論になった。しかたなく、机の物をまとめて入れた箱を開けてみたら、本当に放り込まれていた。おそらく机を空にする作業中、集中力が切れてしまったのだろう。机を空にすることだけが頭にあって、大事なものを取り分けることまで頭が回らなかった。
▼もし通帳を発見できなかったら、すべての窓口に行って再発行を願わなければならなかったかもしれない。見つかって事なきを得たが、見つけた通帳を眺めながらゾッとした。
▼片付けと荷造りの中で、少なくとも2万円ほどの現金が見つかった。片づけを手伝ってくれる人たちに何か差し入れをしよう。足りないと言われるかな(笑)

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新企画今週の1枚
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第427回目。最後に残るものは信仰?わたしはパソコンとテレビかも(泣)

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聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)イエスは自らの意志で十字架を選ばれた

2016-03-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/03/25(No.819)
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聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
イエスは自らの意志で十字架を選ばれた
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聖金曜日、主イエスがわたしたちのために十字架で命をささげてくださいました。主の受難の神秘を、わたしたちが確信をもって証しできる、そのためのきっかけを見つけたいと思います。

わたしたちは、心のどこかで、「イエスさまは十字架にかけられたのであって、みずから十字架にのぼられ、命をささげたとは言えないのではないか」と思っているかもしれません。

イエスさまが十字架を通って救いを成し遂げられたと信じていても、十字架にかけられたのはやはり悪意を持った人間たちから強いられたのではないか。その思いは拭えないのではないでしょうか。

実はわたしも、その疑問に明快に答えることができないでいました。しかし、先週の金曜日にその疑問が解けました。いくつかのことを重ね合わせて、わたしなりに「イエスは確かにみずから十字架で命をささげることをお選びになったのだ」と断言できると思ったのです。

先週金曜日の朗読は敵意を持ったユダヤ人たちがイエスを取り囲んでいる場面でした。彼らはイエスを石で打ち殺そうとして、石を取り上げました(ヨハネ10・31参照)。しかし実際には実行されませんでした。イエスは何度も捕らえられそうになったり、崖から突き落とされそうになったり、殺されそうになったのですが、一度も実現しませんでした。これは、しるしだと思うのです。つまり、人間は誰も、イエスを捕らえ、殺すことはできない。その確かな証拠なのではないでしょうか。

ですから、最期の場面でイエスがはりつけにされている場面も、わたしはこう思ったのです。「人間が何度もイエスの命を狙い、殺そうとしても成功しなかったのに、一度だけそれが成功したというのは考えにくい」と。最期の場面も、実はイエスが十字架にのぼられることをお望みにならなければ、実現しなかったのです。

今は、確信をもって言うことができます。イエスの十字架上でのいけにえは、イエスが望まれたから実現したのです。御父の望みにイエスが「はい」と答えてくださったから、イエスは十字架上で命をささげてくださったのです。誰かの強制ではなく、イエスが望まれた。わたしたちはこの点を、確信をもって証しすべきです。

今までは、十字架にかけられたイエスさまのご像を、教会を訪ねてきた人に自信を持って語ることができなかったかもしれません。復活のイエスが教会のシンボルの御像ならよかったのにと思っていたかもしれません。でも今日からは、堂々と十字架にかけられたイエスを証しできる人になってください。わたしたちのために十字架にのぼられたイエスは、おんみずから十字架をお選びになって、御自分の意志で、十字架の上で救いのわざを完成してくださったのです。

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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(ルカ24:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼聖金曜日、イエス・キリストはわたしたちのためにいのちをささげてくださった。説教でも話したが、キリスト者のどこかに「十字架のキリストを敬遠する」そんな意識があると思っている。それは教会を訪ねてきた人の中に「どうして十字架にはりつけにされているのですか」と尋ねる人が少なくないことからも伺える。
▼ここで自信をもって、「十字架のキリストは敗者ではなくて勝利者なのです。誰もイエスを死に追いやることはできませんでした。イエスは自ら進んで、すべての人の救いのために、十字架を受け取られたのです。」まぁこんな説明ができれば、中には心を動かされてもっと話を聞いてくれる人もいるのではないかと思う。
▼わたしたちが十字架のキリストを告げ知らせることにためらいがあるなら、十字架のキリスト像を怖がっている人に説明できるはずがない。そこを乗り越えることができずに、宣教が行き詰っているのではないだろうか。
▼今日は断食の日でもある。イエスがお亡くなりになったことを、断食を通して思い起こす。お腹が空くのはかなりこたえる。その空腹感の中で、イエスの苦しみ、犠牲をしのぶ。わたしたちもいつか死ぬ。その時に、イエスの死に倣うことができるように、聖金曜日の断食は遠い準備と言えるかもしれない。

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新企画今週の1枚
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第426回目。だんだん物が減る(これでも減った)。新任地への思いが増す。

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聖木曜日(ヨハネ13:1-15)感謝の祭儀と司祭職の制定、兄弟愛

2016-03-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/03/24(No.818)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
感謝の祭儀と司祭職の制定、兄弟愛
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聖なる三日間が始まります。聖木曜日はその始まりの日です。これから起こることをすべてご存知でおられるイエスにとって、この三日間は弟子たちへの遺言の日々であり、すでに十字架上の苦しみを覚悟する日々であり、復活して御父に栄光を帰する日々でもありました。

聖木曜日は感謝の祭儀と司祭職の制定、兄弟愛について説教する日です。司祭職について考えさせられた大神学院時代の体験を分かち合いたいと思います。わたしたちの頃の大神学院では予科生を終えると本科生になり、スータンを身につけます。本科生の4年間はイエスについて行く、人の救いのために自分の生涯を明け渡す学びが始まる期間です。覚悟をある程度決めたここからが、本当の意味で迷いが生じるのです。

福岡での8年間に2度召命をためらうことがありました。最初のものは、「司祭になんてなりたくない」という気持ちから生まれたためらいでした。ほとんど、それは身勝手から生まれたものです。しかし2度目の、スータンを着用してから訪れた迷いは、これまでとはまったく違った迷いでした。

それは「このまま留まってもよいのだろうか」という迷いです。もしかしたら、このまま留まっていれば司祭になってしまうかも知れませんが、はたして自分がこの使命を引き受けても良いものだろうか?最終的にこのような思いで心が揺れるのです。

誰も、「このままでいいよ」とも「このままじゃいけない」とも言ってくれません。大神学生を指導するために指導司祭がついていましたが、指導司祭も本人の心の中までは知りませんから、指導司祭の目で見て、本人が希望すれば司祭への階段を確実に昇っていくわけです。「本当はまだ準備ができていないのだけれども」とか、「わたしは怖い」中には「しめしめ」と思っていても、それを口に出して自分で司祭への階段を降りなければ、レールの上を進む列車は止まらないのです。

用事があって聖堂に行くと、たくさんのスータンを来た先輩たちが、神学院聖堂で跪いている姿を見ました。決められた祈りの時間ではありません。それは自分との闘いの姿だったのだと思います。「わたしはスータンを身につけているが、このまま道を進んでよいのだろうか。身を引くべきではなかろうか」。なりたくなくてのためらいではありません。司祭になりたい人が、ためらって跪いて闘っているわけです。

わたし自身も同じ道をたどりました。指導司祭にも腹を割って相談しました。これこれの弱さを抱えたまま司祭になったとして、それでも大丈夫なのでしょうか。正直に指導司祭に指導を仰ぎました。わたしが気にかけていた問題の解決のために、指導司祭といっしょに半年間取り組みました。その時の体験は本当に得難い体験であり、今でも大きな支えとなっています。

最後の晩餐の場面から始まるイエスと弟子たちの三日間も、弟子たちのためらいと、イエスの愛による励ましとが折り重なった濃密な三日間だったのだろうと思います。食事の途中に立ち上がって自分たちの足を洗うイエスを見て、ここまで身を低くするイエスに自分たちは最後までついて行けるだろうかとためらったはずです。

のちに十字架の場面では弟子たちの多くが散り散りに逃げ去ってしまいました。イエスはそのことも予見しながら、今は深い愛で、過ちを犯しても立ち返るだけの愛を、いのちの糧である御聖体と共に与えてくださるのです。

弟子たちは、イエスが差し出そうとする聖体の秘跡と愛の奉仕のわざの前に、受け取るにはあまりにも不完全な存在です。それでもイエスは弟子たちを招いて、「皆、これを取って食べなさい」と仰るのです。

触れることもふさわしくない御体と御血を与えてくださいました。感謝の祭儀をこれからも執り行うための司祭職の恵みを与えてくださいました。兄弟愛の模範を与えてくださいました。どれ一つとして、受けるわたしたちがふさわしくないにもかかわらず、惜しみなく与えてくだり、「取って食べなさい」と仰るのです。

ためらっても、イエスはわたしたちを愛してくださいます。裏切っても、わたしたちにすべてを与え、赦してくださいます。この豊かさが、最後の晩餐の豊かさ、感謝の祭儀・ミサの豊かさです。ここにとどまることができるわたしたちを幸いと呼ばずに、誰を幸いと呼ぶでしょうか。

それぞれ、感謝の祭儀に招かれたことを感謝する一日にしましょう。信徒の皆さんは、自分たちが日常生活で寛大になれないにもかかわらずご自分のすべてを与えてくださったお方に感謝しましょう。

奉献生活にある方々は、至らなさを日々感じる自分をいつまでもそばにおいてくださる寛大な主に感謝しましょう。司祭は信徒の感謝と奉献生活者の感謝に加えて、執り行う祭儀に対して、あまりにも身分不相応な存在を召し出してくださったことに感謝したいと思います。

聖体祭儀に、わたしたちが感謝すべき宝が溢れています。一人ひとり、感謝のうちに持ち帰りましょう。聖体祭儀の後の聖体賛美式にもあずかって、ふだんじっくり向き合えない御聖体と向き合って、感謝の気持ちをおささげしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖木曜日のわたしの忘れられない思い出は、病人に御聖体を運んだことだ。病人にはいつでも聖体を運ぶことが許されている。たとえ聖金曜日でもそれは変わらない。聖木曜日だということは病人本人は忘れていたが、「今日は聖木曜日です」と説明したら、「聖木曜日に御聖体を運んでもらえるなんて」と深く感謝された。
▼聖木曜日に兄弟愛を実践することは、福音的で素晴らしいことだと思う。何も病人訪問に限らなくても、施しをすることであったり、家族の中での助け合いだったり、近くにいる人に身の回りのお世話をしに行ったり、いろんなことで兄弟愛の実践をして、イエスが弟子たちを深く愛してくれた模範を人に示すなら、もっとカトリックの信仰は容易に広まるだろう。
▼今年は、病人訪問には行かないかもしれない。残念ながら、兄弟愛の実践は、目の前の引っ越しの荷物片付けによって脇に追いやられてしまっている。まぁこれも、後任の司祭へ気持ちよく引き継いでもらうための「兄弟愛」だと言えるかもしれないが。
▼気がかりなのは、病者の塗油を授けた人たちである。ここ数日で、病状が悪化したりするとわたしの片づけはストップするわけだから、それはちょっと困る。かと言って後任の司祭に丸投げというのも気が引ける。悩ましいところだ。できれば命の危険を脱して、健康を取り戻してほしい。

‥‥‥†‥‥‥
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‥‥‥†‥‥‥
第425回目。箱には番号を振ってある。このあと箱の写真を印刷して貼り付ける

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受難の主日(ルカ23:1-49)枝を手に持って、主キリストを喜び迎えよう

2016-03-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/03/20(No.817)
‥‥‥†‥‥‥‥
受難の主日
(ルカ23:1-49)
枝を手に持って、主キリストを喜び迎えよう
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受難の主日、イエスが弟子たちと過ごす最後の一週間をたどっていきます。わたしたちも、イエスが弟子たちに最後まで示される愛と模範を確かめるために、イエスの後について行きましょう。

今年の受難の主日は、わたしもみなさんとの最後の聖なる一週間ということになります。主任司祭として、最後まで任せられた信徒に精一杯真心を示し、模範を示すことができるよう心掛けたいと思います。

今日の受難の主日は、駆け足で聖週間をおさらいするようなものです。イエスは歓呼の叫びの中をエルサレムに入られますが、その同じ群衆によって「十字架につけろ」と叫ばれます。

しかし、イエスは最後まで勝利者としてふるまわれます。十字架につけられたイエスはひとことも不平を口にしませんでした。人々のあざけりを「今に後悔させてやる」と恨むこともしませんでした。なぜならイエスは、敗者として十字架につけられたのではないからです。

ではどこに、勝利者としてのイエスを見ることができるのでしょうか。わたしは、十字架につけられたイエスの「釘打たれた手」が、勝利者のしるしではないかと考えました。イエスははりつけにされるとき、十字架に釘づけにされました。当然、イエスの手を無理やり開いて、釘を打ったことでしょう。

開かれた手は、何を意味しているのでしょうか。わたしは、「与える姿」を示していると思います。わたしたちは物をつかむとき必ず手を握りしめます。手を開いていては、物をつかめないからです。つまり、手を開いている状態は、物を握りしめている姿ではなくて物を手放す姿、それはある場合には物を与える姿なのではないでしょうか。

ですから、イエスが十字架にはりつけにされて釘打たれた手は、わたしたちに最後まで何かを与え続ける姿なのだと思います。イエスの右に十字架につけられた犯罪人に対して、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)と言われました。これはイエスが犯罪人に楽園を与えているということです。

またイエスの最後の言葉は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(23・46)でした。これもみずからを与えつくす姿ではないでしょうか。イエスは最後まで与えるお方として十字架の上におられます。疑いもなく、与えることのできる方は、敗者ではなく勝利者です。

イエスは勝利者です。十字架の上で与えることのできるお方です。勝利者であるイエスの完全な姿は、言うまでもなく復活の姿です。イエスの復活のその時まで、イエスについて行きましょう。罪によって離れてしまう弱く貧しい者ですが、わたしたちを十字架で救ってくださるイエスに信頼を寄せてこの一週間を過ごしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼聖週間が始まった。わたしの中では、始まった時点で終わっている。それはこの日までに、復活の主日(日中)までの説教が出来上がっているからだ(の予定だったが間に合わなかった)。例年通り、プリントを作ろうと思えば、受難の主日の今日には「聖週間の説教」という冊子を作ることができるのだが、今年は引っ越しのドタバタでそこまでの時間はない。
▼一応、ネット上には冊子になった時の状態の物をアップしている(予定だったが)。それが今年せめてものイースタープレゼント。必要があれば、プリントアウトしてご利用あれ。そんなもの好きな人がいるの?と思っているけれども、18日(金)の時点では非常に有難い声をいただいている。
▼「中田神父の説教を毎週楽しみに福見教会に来ていたのに、今度からはどうなるのだろうか?」有難い言葉だが、今度からの主任司祭もきっとみことばの食卓から食べさせてくださるに違いない。わたしは聞く人の力に応じて、聖霊が説教者の話を理解させてくれると思っている。
▼聖週間とは直接関係がないが、引っ越し準備で司祭館はてんやわんやである。大事故・災害などで同時に多数の患者が出た時に、手当ての緊急度に従って優先順をつけることを「トリアージ」と言うらしいが、まさに司祭館全域で「これは残す。これは捨てる。これは手放す。これは持って行く」と選択をしているところだ。
▼何とまぁ、どうでもよいものを持ち続けていたものか。どうでもよいものはすぐに処分できるが、「どっちにするか。救うか、救わないか?」この当落線上にあるものは初めのうちは「残す」にしていたが、途中から「ここで一線を引こう」という気持ちになり、「残さない。処分!」と方針を変えた。
▼たぶん、持っておけば存在価値はあると思う。しかし、存在価値を「残す残さない・救う救わない」の基準にすれば、かなりのものをまた持ち続けることになる。ここはひとつ、多少困るくらいの分量にしてから、再出発をしようということに決めた。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
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第424回目。トリアージの現場。ここでまた何かを「残し」、何かを「捨てる」

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

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四旬節第5主日(ヨハネ8:1-11)イエスによってしか命は守られなかった

2016-03-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/03/13(No.816)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ8:1-11)
イエスによってしか命は守られなかった
‥‥‥†‥‥‥‥

今週四旬節第5主日の福音朗読として、姦通の現場で捕らえられた女性をイエスが救ってくださる場面が選ばれました。律法の目で見れば、もはや逃れようのない罪ある女性でしたが、イエスは思いがけない方法で彼女を救います。わたしたちも神から思いもかけない方法で救われています。イエスの声に耳を傾け、今週の学びを得ることにしましょう。

個人的なお知らせですが、わたしは大司教様から異動の辞令をいただきまして、ここ浜串小教区から県北の田平小教区に赴任することとなりました。平戸地区には今まで一度も赴任したことがありませんので全くの素人ですが、大司教様の意向に沿えるように、新しい場所でも力を尽くしたいと思います。

なお後任の浜串小教区の主任神父様は現在太田尾小教区を司牧しておられる汐留神父様です。わたし同様に変わらぬ暖かさで接してほしいと思います。そのほかのことは、ミサの終わりにお知らせしたいと思います。

律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女性をイエスのもとに連れてきました。モーセの律法によれば、共同体を汚す罪を犯す者は、取り除かなければなりませんでした。律法学者たちの言う通り、姦通の罪を犯した女性は、石打の刑に処せられるのでした。なんとも残酷な刑ですが、手を汚さずにというのが、さらに冷酷さを印象付けます。

ただこの場面には罠がかけられていました。ユダヤの国はすでにローマ帝国に支配され、さまざまな権限もはく奪されていたはずです。たとえば人を死刑にする権限も、ローマ側にあったでしょう。すると、権限のないまま死刑を黙認すれば、ローマに訴える格好の口実になりました。

一方で、女性の罪を見逃せば、イエスは律法を無視していると騒ぎ立てたでしょう。律法学者とファリサイ派の人々は、どちらに転んでもよいようにして、手ぐすね引いて待っていたのです。宗教指導者たちの罠は、悪意がどこまで人間をおとしめるかを示しているようにも見えます。

イエスは思いもかけない方法で、死ぬしか道の残されていない女性に近づいていきます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(8・7)共同体から罪を取り除かなければならないのは確かだが、あなたたちの中ではどうなのか。罪を取り除く努力を怠っていないか。自分のことを棚に上げて、この女性を罪ある女として共同体から排除できようか。そのように考えさせたのです。

唯一、この女性に石を投げることのできる方がいました。イエス・キリストです。罪に定めることのできるお方が、彼女を罪に定めませんでした。ここに、わたしたちが耳を傾ける必要があります。

わたしたちはついこの前黙想会を終わったばかりです。黙想会は再出発のきっかけでした。「イエスから始めてみる」その取り組みの再出発となるものでした。

今週の福音朗読も、わたしたちにイエスから始める再出発を促していると思います。すなわち、罪に定めることのできるお方が、人を罪に定めなかった。わたしたちはこのイエスの姿勢から学び、人に接するべきだということです。

イエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」こう問い直した時、「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(8・9)のでした。わたしたちは自分の罪すら取り除けない。そのことを年長者は誰よりよく知っていたはずです。このあとイエスの取られた態度を最後まで見届けることもせず、一人残らず立ち去ったのです。その場にいた誰一人、イエスから再出発する道を選ばず、去っていきました。

わたしたちは、イエスから再出発する道を探す必要があります。今週与えられた福音朗読で、イエスによってしか命は守られなかったことを確かめました。物語の女性はどこにも逃れようのない立場に立たされていましたが、イエスが思いもかけない方法で救ってくださいました。

わたしたちは誰に対しても、命を取り上げることは許されていません。命を守ることだけが、わたしたちに許されている態度です。それなのにわたしたちの力不足で命を守れない時があります。わたしたちはそんな場面で、どうかこの人の命を守ってくださいと、イエスに委ねるのです。

よくよく考えると、わたしたちも罪ある生活から逃れることができなかったのを、イエスの十字架という思いがけない方法で救われた者のはずです。ですから、「わたしたちはイエスによって再出発します。どうかこの人にもあなたによって再出発する道を与えてください。」誰に対してもそういう接し方をしたいと思います。


‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
受難の主日
(ルカ23:1-49)
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ちょっとひとやすみ
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▼というわけで転勤となった。わたしの中では「マンションに住む」と言い聞かせている。マンションの名前は「リベルタ・ビラ(Liberta Villa)312号室」。分かる人は分かると思うが、分からない人は分からないまま放置しておこう。最近、分からない人のフォローをすることに少し疲れたので。
▼木鉢教会の黙想会は素晴らしい環境の中で行わせてもらった。金曜日の夜には、「大変お世話になりました」と、お礼のはがきを一枚用意し、土曜日に投函した。皆さんよく話を聞いてくれたし、ふだんすべりまくっているおじさんギャグも上々の反応だった。
▼何より、主任司祭の人柄が理解できたことが良かった。わたしと木鉢教会の主任司祭の接点と言っても、実際にはそんなに思い当たることがなかったのだが、黙想会中の食事のたびに、夜の部を終えたあとに、じっくり話を聞いたり質問に答えてもらったりした。気配りにも感心した。
▼バイクを処分することにした。ボートも、名義を変更して面倒を見てもらうことにした。新聞も今月いっぱいで止めるつもりだ。ほかにも、転勤にまつわるさまざまな案件を処理しなければならない。3月いっぱいで荷造りをして、引っ越し単身パックで引っ越しだ。
▼新しい任地で、どんなことが待っているだろうか。あちらが待っていることと、こちらが続けたいこととがある。よく考えながらということだろうが、いずれにしても環境を変えてもらうので、もう一度ねじを巻きなおしたい。移動するすべての人が、今同じことを思い、同じことをしているのだと思う。今年4月、上五島では3司祭の異動がある。

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新企画今週の1枚
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第423回目。3月12日、50歳の誕生日を迎えた。子供たちに祝ってもらった。

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3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
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四旬節第4主日(ルカ15:1-3,11-32)父のところでは有り余るほどパンがある

2016-03-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/03/06(No.815)
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四旬節第4主日
(ルカ15:1-3,11-32)
父のところでは有り余るほどパンがある
‥‥‥†‥‥‥‥

今週の福音朗読は、弟が我に返って反省している場面から学びを得たいと思います。弟は次の言葉をつぶやきました。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」(15・17)父のところと、自分が今いる場所とのあまりの落差にハッとして、弟は取るべき態度が理解できたのでした。

先週、水曜日の午前中に釣りに行きましたら、型の良いアラカブが釣れまして、久しぶりにワクワクする釣りでした。これが釣り大会当日だったらどれだけ良かっただろうか、と思いました。今日の小教区釣り大会は一体どういう展開になるでしょうか。去年同様、磯から狙う方々に分があるでしょうか。

1週間のうちにリハーサルと本番、2回も大きなアラカブを釣るのは奇跡に近いです。ですから今日は目標を立てず、参加した皆さんと大会を楽しめばそれでよいと思います。磯を歩きながら釣りをする方もいらっしゃるでしょうから、十分安全に配慮して釣りをしてください。自分の身は、自分で守る。ぜひ、お願いします。

福音朗読に戻りましょう。財産を無駄遣いしてしまった弟の判断は責められても仕方がありません。しかし弟の言葉には、光るものがあると思います。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」(15・17)弟は、父の家では雇い人であっても有り余るほど幸せがあることを思い出したのです。それに比べれば、父の家以外はすべて、「飢え死に」だと、気付いたのです。

最終的に弟は、「豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかった」(15・16)と考えます。ユダヤ人にとって豚は、宗教上食べてはいけない動物でした。宗教上禁じられていた動物は当然宗教上の汚れをもたらします。何より気にしていた宗教上の汚れを引き起こす動物にまですがらなければならない。そのみじめさは、どれほどだったでしょうか。

もはや、迷っている場合ではありません。たとえ雇い人の一人として扱われても、父のもとで味わった豊かさ、宗教上も日常でも味わっていたあの豊かさに戻ろう。弟はすっかり生まれ変わりました。

ところで兄は、その父親のもとを離れずに生活していました。ですから父の家にいて、父のそばにいることが豊かな生活であり、父のところ以外はすべて飢え死にと変わらないことを理解していなければなりませんでした。「この通り、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに」(15・29)兄はまだ不満があるのでした。

兄はここで2つの過ちを犯したと思います。1つは、弟が飢え死にの状態から豊かさを取り戻せる父のところに帰ってきたことを喜べなかったこと。もう1つは、自分が父の家を離れず、宗教上も日常生活も、これ以上ない豊かさにあずかっていたのを感じ取っていなかったことです。それと比べると、弟は1つの過ちだったのです。父のところ以外は飢え死にと同じだということを理解していませんでしたが、父のところがあんなに豊かであったことは一度も忘れたことはなかったのです。

わたしたちも、この兄弟の取った行動を自分に当てはめ、考えることにしましょう。わたしたちにとって、父の家とはどこでしょうか。わたしたちが常に立ち帰るべき父の家とは、教会ではないでしょうか。

「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」(15・17)神の家であるカトリック教会の豊かさと比べたら、それ以外の場所はどれもみな飢え死にしそうな場所なのです。たとえお金を湯水のように使う生活であっても、父なる神が用意してくださる洗礼や聖体やゆるしの恵みに比べれば、何を食べようが何を飲もうが、喉の渇きも空腹も終わらないのです。

わたしたちが、兄のように2つの過ちを犯しているのなら、いずれの過ちも認め、父なる神にゆるしが必要です。教会の豊かなお世話を受けながら父なる神に感謝の祈りも日々捧げていない。父なる神からの豊かさに比べれば他のものにあふれていても飢え死にと同じなのだといまだに感じていない。もしそうであるなら、わたしたちこそ回心が必要です。

もしわたしたちが、1つの過ちだけであるなら、立ち返って出直しましょう。父の家があんなに豊かであることは分かっていたのに父の家を離れてしまった。その人は立ち返りさえすれば、父の家であるカトリック教会は迎えてくださいます。

一つ問題があります。父の家の豊かさをもう一度思い出し、誰かが立ち返ってきたとき、わたしたちは例外なくその人を「よく帰ってきた。もう今までのことは水に流そう」と言って迎えるだろうか、ということです。わたしたちの心の広さが問われていると思います。もう一度出直して、父の家であるカトリック教会のお世話になろうとする人を、温かく迎える広い心が必要です。いざとなったら「立ち返ってくれてよかった。ありがとう」と声をかけるのだと自分に言い聞かせましょう。

人間は弱いので、過ちを犯します。また、過ちを犯した人をゆるせない弱さもあります。父なる神はそんなわたしたちに声をかけ、なだめ、皆が父なる神の豊かさにあずかれる方法を示してくださいます。それは環境を変えてあげることだったり、目標を明確に与えてあげることだったり、きっと神はそれぞれの神の家であるカトリック教会を「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがある」そんな状態に保ち続けてくださいます。

父なる神の導きに全面的に信頼し、これからの日々を委ねてまいりましょう。どんな人も、父の家であるカトリック教会があんなに豊かであると忘れないならば、立ち返りのチャンスはなくならないのです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ8:1-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼長崎県は南北に長い県である。その長崎県内で長崎教区は統計上72の小教区を持ち、修道会と教区司祭とで司牧が続けられている。わたしもすべての小教区を訪ねたわけではないが、子供たちには長崎教区の広さ、多様さについて少し知ってもらいたいと思い、長崎県地図を持ち出して次の条件下で長崎教区全体を見渡すことにした。
▼その条件というのは、現在住んでいる南松浦郡新上五島町から、朝出発して何とか夜に帰り着く。その条件の下で長崎教区のどの小教区まで訪ねて行けるだろうか。こういう条件設定である。言うまでもなく新上五島町は五島列島の旧五ヶ町が合併した地域である。
▼まず、意外に思われるかもしれないが、上五島から下五島(五島市)を巡るのは結構難しい。この下五島だけを先に紹介すると、五島旅客船という船会社が運航している五島域内を巡る船に土井ノ浦港から乗船し、五島市内の各教会巡りが可能だ。最後は同じ船の最終便に乗って土井ノ浦港で下船し、自宅に戻る。このコースがまずある。
▼次に長崎県本土の小教区巡るコースだが、長崎本土には九州商船が奈良尾港から長崎へ、また有川港から佐世保へ運航している。同じように五島産業汽船が鯛之浦港から長崎へ、また有川港から佐世保へ運航しているが、ここでは九州商船の高速船で日帰り可能な場所、そして奈良尾港から長崎にわたってからの日帰り巡礼という設定に絞ってみる。
▼奈良尾港から長崎に向かういちばん早い便は午前8時5分。この時間の高速船が9時20分に長崎の大波止港に到着する。長崎本土に渡ると、すぐに移動するためレンタカーが必要である。まぁ適当な会社からお借りしたとして、およそ10時から出発。帰りの高速船でいちばん遅いのは16時30分。長崎の大波止港に16時に到着するとして、10時から16時までの6時間で回れる地域・訪ねていくことのできる小教区を考える。
▼じっくり巡礼地の教会で祈ることはできないが、島原半島の教会をさっと見て帰って来ることは可能だと思う。また、大村湾を囲むように一周し、周辺の小教区をチラ見して帰って来ることは可能だと思う。また佐世保市内の教会なら途中高速道路を利用すれば、いくつかに絞って巡礼可能だ。
▼問題は県北の教会である。わたしの計算では、平戸大橋を渡ったその向こうの小教区には、上五島からの日帰り巡礼は難しそうだ。16時30分の便に間に合わなければ他の方法がないのだから、平戸島、生月島は日帰り巡礼からは除外となる。そうすると県北の小教区巡りは、ギリギリ平戸大橋手前の小教区巡りまで、ということになるだろう。
▼子供たちと、このような話をしながら、君たちが大きくなった時、または家族で、日帰りの教会巡礼を計画したら、今日の話を参考にして最大限長崎教区のいろんな小教区に興味関心を持ってほしいと、教会学校でこういう話をした手前、なんとなく長崎教区の学びになるようなオチを付けて話を終わった。

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新企画今週の1枚
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第422回目。ミサの時書見台がどうしても必要と感じ、とある教会のものを拝見

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