こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第3主日(マタイ4:12-23)イエスと出会うためにあなたは何を選ぶか

2014-01-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/01/26(No.691)
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年間第3主日
(マタイ4:12-23)
イエスと出会うためにあなたは何を選ぶか
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年間第3主日に入りました。灰の水曜日から始まる四旬節までの、短い年間の期間です。今週の福音朗読から、「イエスと出会うために、あなたは何をしますか」ということを考えてみたいと思います。

皆さんは方向感覚に自身はおありでしょうか。わたしは方向音痴のようで、全く自信がありません。高校卒業してすぐに佐世保の親戚の家に下宿し、自動車学校に通いましたが、自動車学校の入学手続きをしに行った初日に迷子になり、真夜中に親戚のおじさんおばさんに見つけてもらったことがありました。大変心配をかけました。

苦い経験から学んだことがあります。待ち合わせをするとき、相手とうまく合流できないこともあるでしょう。合流できないのは2つの場合が考えられます。その1つ、自分が場所を指定して相手がたどり着けない場合、相手の人に「動かずに待っていてください」とお願いします。

反対に、相手が場所を指定していて、わたしがそこにたどり着けないときは、わたしのいる場所を伝えてわたしが動かないことにします。こうすれば、時間はかかるかもしれませんが、きっと迷子の側は見つけてもらって、合流できるはずです。

さてイエスは、イスラエル北部のガリラヤからご自分の活動を開始されました。今日の朗読によると、ガリラヤ周辺の町は、「暗闇」とか「死の陰の地」と表現され、そこに住む人々もマイナスのイメージで受け止められていたようです。

そこへ、イエスが光として現れてくださいました。光であるイエスと出会うことで、「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」に光が射し込みました。イエスと出会うことがなければ、この地の民にいつまでも光は射し込まなかったでしょう。預言も実現しないままになります。

ですから、イエスと出会うことが、すべての始まりでした。それは、わたしたちも同じことなのだと思います。そして、イエスと出会うために、わたしたちは何かを選ばなければならないのです。この際、初めに考えた日常の体験が役に立つと思います。イエスと出会うために、わたしたちが行動に打って出るか、わたしたちの方はじっとしてイエスに見つけ出してもらうか、どちらかを選ぶということです。

宣教開始を語る今日の朗読箇所は、イエスが積極的に動いて回る様子が描かれています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4・17)と声を上げ、四人の漁師に声をかけるのもイエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられましたし、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(4・23)と結んでいます。積極的に動いて回って、見つけてもらわなければならない人々を見つけ出しているのです。

一方で、イエスはじっと待っていることもあります。サマリアの女が井戸に水を汲みに来て、イエスに声をかけられ、イエスとの出会いを手にした話(ヨハネによる福音書第4章)を、皆さんご存じかもしれません。この女性は、井戸に佇んでいるイエスに出会って、いのちの水をいただきました。

また、黙示録では「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙3・20)とあります。イエスはあるときは戸口に立って、心の扉を開いてくれるのをずっと待っています。

または、イエスが十字架にかけられ、いのちをささげる場面も、ご自身は全く動くことなく、すべての人を引き寄せて救いにあずからせようとします。百人隊長はこの十字架上のイエスの姿を見て、「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27・54)と言い残しました。

イエスは、わたしたちと出会うために、あらゆることをなさいます。ガリラヤで伝道を始め、四人の漁師を弟子にして、おびただしい病人をいやしました。あるときはこのように動き回ってわたしたちと出会おうとします。またあるときは、わたしたちが通るであろう道の途中に立って、じっとそのときを待ち、出会ってくださいます。

イエスはあらゆる手段を尽くしてくださいますが、わたしたちはどうでしょうか。イエスに出会うために、「動いてみよう」と考えるでしょうか。あるいは「じっと待とう」と考えるでしょうか。

人がイエスと出会うためにどちらを選ぶかは、その人の向き不向きや、置かれた生活に左右されます。わたしはどんなに準備をしても迷子になったり失敗するので、じっと待った方がイエスに出会えるかもしれないと思っています。じっと待っているといっても、何もしないのではなく、自分の生活を続けながら、心に響く声に深く耳を傾けて、語りかける声を拾うと言ったらよいでしょうか。

ある人は、積極的に打って出ることでイエスと出会えるかもしれません。大胆に、イエスのことを人々に話して聞かせる中で、イエスがそばにいてくれて、自分を力づけたり、励ましたりしてくれるのを感じる場面があるかもしれません。こんな人は、動き出すことでイエスと出会える人だと思います。

どちらの場合も、イエスと出会うことは何より大切なことになります。イエスと出会うことで、わたしたちは光に触れ、光を感じ、光に照らされるからです。イエスという光がわたしたちに射し込むことで、わたしたちは照らされて生きる光の子になれます。

イエスはいよいよ、人々と出会い、救いを告げ知らせる宣教に打って出ました。わたしたちも自分にできる行動に打って出ましょう。心静かに待つことを選んだ人は、毎日の生活を重ねながら、「主よ来て語りかけてください」と願いましょう。活動の場に飛び込もうと決めた人は、そこで待っておられるイエスと出会わせてくださいと願いましょう。わたしたちの生活はいつも、イエスと出会うことで輝きを増すのです。

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‥次の説教は‥‥
主の奉献
(ルカ2:22-40)
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ちょっとひとやすみ
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▼うーん、パソコンでしくじった(泣)今年初めからパソコンの動作が不安定になっていて、困っていた。症状としては、パソコンを立ち上げてWindowsのロゴが表示された状態で固まってしまい、全く動かないという状況だった。
▼まぁ、たまにそういうことはあるので、通常の手順でリカバリーを試みた。電源ボタンを長押しして強制的にパソコンの電源を落とし、再度電源を入れる。すると「異常終了をしているから(1)修復するか(2)通常起動させるか」という指示が出る。
▼ここで(1)の修復を選ぶと、Windowsのロゴの表示までたどり着かずに真っ暗な画面のまま固まってしまう。ちなみに(2)を選択すると、たまにうまく起動することもあるが、Windowsのロゴで固まることが多い。
▼そうなると、別の方法を探ることになる。Windowsロゴが表示される前にF8ボタンを押すと、さらに条件を絞ってパソコンが起動できる。「(3)セーフモードでの立ち上げ(4)セーフモードとネットワークの立ち上げ」
▼ここで(3)を選択して、いったんパソコンを終了し、再度立ち上げると問題が解決していることもある。だが(3)も(4)も試して再度立ち上げても、パソコンが固まるようになった。
▼ここで、冷静さを失った。ネット上で十分情報を集めてから作業をするべきだったのだが、次のような結論を勝手に出した。「Windows7に見切りをつけて、Windows8にアップグレードしよう。」勝手にOSのせいにして、お金で解決しようとしたのである。
▼十分な予備知識なしに実行した付けがすぐに返ってきた。すんなりWindows8.1にアップグレードできたのだが、これまで使用していたソフトが一切見つからない。どういうことだ?唖然としていろいろネットで調べたら、どうやら「データ」は引き継いでも「ソフト」は引き継がないらしい。
▼パソコンは安定して動くようになった。だが代償として、かなりのソフトが葬られてしまった。パソコン内で動くソフトもそうだが、メールソフトとメールソフトが保管していたアドレス帳も消え去った。今後は相手からいったんメールが届かない限り、もはや誰とも連絡は取れない。ダメ押しになったのは、同じマイクロソフトのくせに、MSオフィスまで使えなくしてしまわれた。仲間まで見捨てる。さすがというか、呆れてしまった。
▼調べてあとで分かったのだが、OSのアップグレードのときもいわゆる「引っ越しソフト」は役に立つらしい。体験のない方のために、「引っ越しソフト」は次のような場合に使うソフトである。(a)既にお持ちのパソコンから新しいパソコンへの移行(b)同じパソコン上で旧OSからアップグレードした新OSへの移行(c)取り外したハードディスクから別のパソコンへ移行。
▼今回は(b)に該当する。上記の「引っ越しソフト」を前もって手に入れておけば、何も問題なかったはずだった。失ったソフト(動かなくなったソフト)は、実物があるものは再インストールすれば済むが、無いものは・・・無料の代替ソフトか、新規購入しかない。
▼今まで通りの環境に戻すのに、パソコンを買い直すくらいの費用がこれからかかりそうである。特にホームページビルダーはパッケージソフトを買っておくべきだった。今後2週間はホームページの更新はできなくなる。バカなことをした(号泣)

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今週の1枚
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第298回目。先輩にいただいた今村信徒発見のPDF資料(一部訂正、加筆)
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年間第2主日(ヨハネ1:29-34)「見よ」と証しされた方に聞き従う

2014-01-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/01/19(No.690)
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年間第2主日
(ヨハネ1:29-34)
「見よ」と証しされた方に聞き従う
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主の洗礼の祝日を終えると、教会の暦はしばらく年間の主日に移ります。教会の暦の仕組み、なかなか把握するのは難しいと思いますが、暦の始まりは待降節で、御降誕とそれに伴う祝祭日、年間を少し挟んで四旬節、聖週間があって復活節、聖霊降臨以降の一連の祝日、そして王であるキリストまで続く年間の季節と移っていきます。

季節を感じながら生活すると、生活にリズムができます。一度覚えてみることをお勧めします。参考のために、典礼暦を図で示したプリントを少し置いてますので、興味のある方は持ち帰ってください。

ただ今、黙想会の説教師を交渉しているところです。若手の神父さまに日程を2通り示して相談しています。まずは主任神父さまに相談をと思って、お願いのFAXを10日前に送ってみたのですが、うまく連絡が届いていなかったようでまだはっきりした返事をもらえていません。これ以上遅くなってから他の神父さまにお願いするのは難しいので、もし交渉が上手くいかなかったら、中田神父が自前で黙想会をすることになります。違う神父さまの話が聞きたいでしょうから、自前でするのは避けたいと思っています。

そんなことを考え考え説教を準備していると、ちょうどお願いしていた教会の主任神父さまから電話が入りまして、「助任司祭を説教師に派遣するのでよろしく」ということでした。これで心配事が一つ減りました。日程は3月中旬になると思います。

福音の学びに入りましょう。今週の学びを短くまとめると、「『見よ』と証しされた方に聞き従う」ということになります。当時洗礼者ヨハネの証しを受け入れた群衆がいたように、わたしたちもヨハネの証しした方に向きを合わせて、聞き従うのです。

洗礼者ヨハネは、たった一つの使命のために命を削っていました。それは、「神の子、イエス・キリスト」の到来に人々を準備させるということでした。水で洗礼を授けていたのも、「聖霊によって洗礼を授ける人」(1・33)を指し示すためです。

そして、その時がやって来ました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(1・29)洗礼者ヨハネが指し示すお方はイエスただ一人です。その方は自分よりまさっている方、自分よりも先におられた方です。「神の小羊」という言い方は、わたしたちのふだんの生活では使わない言葉ですが、三つの意味合いが込められています。

一つは、黙示録にある(7・17、7・14)終わりの日にこの世を裁く小羊という意味、一つは旧約のイザヤ書53章で羊の姿で描かれる「苦しむ僕」で、人間の救いのために苦しみを受ける方。もう一つは、過越祭にほふられる羊の意味で、来たるべき方もほふられる羊となる方です。

このような姿を合わせ持つ方が、目の前に現れました。そこで洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったのです。ところで洗礼者ヨハネはイエスを「この方こそ神の子であると証しした」(1・34)わけですが、ヨハネが人々に「見よ」と言い、「この方こそ神の子である」と証ししたのはなぜでしょうか。

もちろん、人々の心をイエスに向けさせ、イエスの声に聞き従うように促すためです。わたしたちにも、洗礼者ヨハネの「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という声が、「この方こそ神の子であると証しした」という声が、響いているでしょうか。

もし、今日の出来事を自分にも向けられていると受け止めて、洗礼者ヨハネの「見よ」という声、「この方こそ神の子である」という声に耳を傾けているなら、今の社会にあってどのようにこの招きに答えたらよいだろうかと考える必要があります。

なぜなら、わたしたちは「見よ」というその方を見ることができませんし、「この方こそ神の子である」というその方とじかに接することもできません。何かの形で、似たような体験を積む必要があります。

わたしには、自分に向けられた声で今も思い出される声がいくつかあります。以前もそのような話をしたことがあるかも知れません。その一つに、滑石教会の助任をしていたときの体験があります。滑石教会は、ふくれあがった信徒数に対して教会堂が手狭になり、信徒数に見合った教会堂を建てる必要が生じていました。

わたしが奉仕していた時代にも真剣にそのことが話し合われていましたが、実現したのはそれから10年経ってからでした。当時の主任神父さまは口酸っぱく、次のようにわたしに話していました。「教会はどうやって建てるか分かるか?教会は、祈らなければ建たないんだぞ。」

実際には方言丸出しだったのですが、その声は今でもわたしの中で響いています。あの時からすでに16年が経過していますが、当時の主任神父さまの声は、今もはっきりと聞こえ、わたしに何かを実行させようとするときに聞こえてくるのです。「その計画のために、あなたはどれだけ祈っているか?またその教会の信徒はどれだけ祈っているか?」と。

ですから、わたしたちが洗礼者ヨハネの「見よ」と指さした場所はどこだろうかと真剣に考えるならば、その指さした場所にきっと気がつくと思います。その場所にはイエス・キリストがおられ、そこで「わたしについてきなさい」という招きを見つけるのではないでしょうか。

たとえばそれは、黙想会の機会かも知れません。黙想会に参加することで、「見よ」という方向をしっかり示していただけるかも知れません。わたしでなくても、家族が気付いて、何をすればよいのか理解するかも知れません。すると、今の時代にもヨハネの声は響いていて、イエス・キリストの方向を向くことができるし、イエスに聞き従うことができるということす。

洗礼者ヨハネが指し示した方はただ一人、イエス・キリストです。わたしたちが聞き従うべきも、イエス・キリストただ一人です。この基準に生活を合わせていきましょう。そのために必要な知恵を、ミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(マタイ4:12-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼継続が認知されての嬉しい結果。gooブログで作成している「こうじ神父今週の説教」(http://blog.goo.ne.jp/knkouji)が、瞬間的にすべてのgooブログ(1974652ブログ)中、9976位になった。
▼ときどき訪問者数をチェックしていたが、1月11日(土)に重複なしで188人が訪問してくれていた。この訪問者のおかげで、一気に順位が跳ね上がり、ずっと破れなかった5桁の壁を破った。訪問者の皆さん、どうもありがとう。
▼体の強さは、いくつになっても助けになるものだ。何回か20kmを越える徒歩に出かけているが、次の日極端な痛みや体のだるさはない。丈夫な体を与えてもらったことにとても感謝している。
▼長距離の徒歩を支えてくれている最大の要因は、今回購入したジョギングシューズだ。20kmを歩いても疲れない。たまに、靴擦れを起こしたりしているが、それでも靴に守られているという実感がある。今回のシューズ選びで本当に良い靴にめぐり会ったと思う。
▼1月5日賞味期限の牛乳を温めて飲んだ。開封したものだから、もしかしたら昨年末から開封したままだったのかも知れない。1時間後に、トイレに直行する羽目に。おかげで、と言ってよいのか分からないが、お腹の中は空っぽになった。わたしのお腹はとても敏感だ。
▼成人の日、毎年恒例の「誓願式」。女性のどんなイベントよりも心洗われる儀式だと思う。正確に記憶していないが、誓願式の後の会食で近くに座った大先輩が、「シスターの貞潔の誓願は、匂い立つ清さがある」と言っておられた。たしかに、終生誓願を宣立する修道女を清さが包んでいると思った。

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今週の1枚
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第297回目。誓願式の写真を取り損ねた(泣)浜串教会から船隠教会へ歩いてみた

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主の洗礼(マタイ3:13-17)水の中から上がり、天に向かって歩く

2014-01-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/01/12(No.689)
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主の洗礼
(マタイ3:13-17)
水の中から上がり、天に向かって歩く
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主の洗礼の祝日を迎えました。イエスが洗礼を受ける姿から、わたしたちがいただいている洗礼の恵みをもう一度振り返る機会といたしましょう。さらに振り返りにとどまらず、洗礼を受けていない人に洗礼を呼び掛けるきっかけにもしていきましょう。

今週、大曽小教区の跡次教会でも主日のミサをささげました。確か跡次教会でのミサは初めてのことだと思います。ただ、大曽小教区の黙想会をずいぶん昔に務めたことがあって、その時黙想会に参加した人にとっては、およそ20年ぶりに一緒にミサをささげる機会となりました。

主の洗礼の祝日の説教をまとめると、「水の中から上がり、天に向かって歩く」ということになります。イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けると、すぐに水の中から上がられました。これから宣教生活を始めるためです。そして、イエスに向かって天が開きました。イエスは天の御父に向かう道のりをまっすぐに歩き始めます。これらはそのまま、わたしたちに生き方を示すものでもありました。

当時の洗礼の儀式は、水に体を沈めておこなっていました。教会はこれを、これまでの罪に染まった生き方に死に、死んだ自分を神によって引き上げられて、新しい神のいのちに生きるしるしと考えています。わたしたちキリスト者が今生きているのは、罪に染まった生き方に生きているのではなく、洗礼を通して与えられたいのちに生きているのです。

イエスは、洗礼を受けて生き方を改める必要はありませんでしたが、人として、わたしたちの生き方を指し示すために洗礼をお受けになりました。わたしたちキリスト者にとって、イエスの前に道はなく、イエスが歩いたあとに、わたしたちの歩むべき道が開かれるのです。イエスは、人が歩むべき道のりのその最初の一歩からわたしたちに模範を示し、「わたしについてきなさい」と招いているのです。

私事ですが、上五島地区の5人の神父さまが、2月に計画している大浦教会から福岡県の今村教会までの徒歩巡礼のために、現在自主トレを続けております。つい最近の1月7日にも、わたしが卒業した東浦小学校から、江ノ浜の龍馬像を設置している公園まで、歩いて往復してきました。24kmくらいあったと思います。

歩くという移動手段は、最も遅い移動手段です。自転車、バイク、車、お金に糸目を付けないなら、空を飛ぶ乗り物で移動するならもっと早いでしょう。最も遅い移動手段ではありますが、移動する区間の情報を最も手に入れることができるのは歩くということだと思います。

鳥の鳴き声、草むらに潜む動物の音、途中通過していく集落に住む人々の何気ない会話、これらすべてを体験出来るのは、歩くという移動手段だけです。わたしもこの前の長時間の徒歩訓練で実感しました。

イエスも、道を歩いて移動しました。ご自分に託された救いの道を最後まで歩き通しました。十字架にはりつけにされるその場所へも、三度倒れながらも歩いて行きました。それは、歩くという手段が、人間の思いのすべてを受け止める最高の手段だったからだと思います。イエスを愛している人の思いも、イエスを憎んでいる人の思いも受け止め、ゆるして救いに導くために、道を最後まで歩き抜かれたのでした。

イエスが取った行動は、わたしたちが受けたものを振り返る物差しであり、わたしたちへの生き方の模範です。イエスはあえて洗礼をお受けになりました。人が、罪な生き方を捨てて、神のいのちに生きることを教えるためです。わたしたちは洗礼を受けていますから、わたしの生き方は今どうなっているだろうかと考える必要があります。わたしたちが恵みに感謝することもなく、神の招く方向を気にも留めないで生きているとしたら、それはいまだに罪な生き方をしているのです。

さらに、イエスの取られた行動は、わたしたちを新しい取り組みへと促します。罪な生き方を捨てて、恵みに感謝し、神の招きに信頼して生きる。こんな新しい生き方があるよと、周りの人にも知らせに行くことです。わたしたちが自分を振り返るところで考えた、罪な生き方を何も気付かずに続けている人が何と多いことでしょうか。

イエスが示す生き方をまったく理解しない人にとって、最後に生き方を決めるのは自分自身ということになります。わたしの判断はそんなに信頼できるのでしょうか。人は皆、開かれた天に向かって歩いているのですが、この世に生まれたときから人生の最期を迎えるまで、自分自身の判断だけで開かれた天に向かって歩を進める力があるのでしょうか。

わたしは、イエスが示された道を歩むのが正しい生き方だと思います。最後を自分で決めるのではなく、イエスに委ねて生きる。この生き方を、自分自身も貫くし、イエスを知らない人にも示してあげる。それが、イエスの洗礼の姿がわたしたちに教えていることだと思います。

歩みが遅く感じられる人もいるでしょう。イエスの模範もいただいたし、わたしたちの進むべき方向も分かった。それなのになぜこの人は前に進もうとしないのか。遠回りをしたり、本来の歩むべき道を逃げ回ったりするのか。そのように見える人もいるかも知れません。

もちろんそのような人は心配だと思いますが、「歩みの遅い人はたくさんの情報を手に入れる」という体験から学んだことを思い出しましょう。心配している相手が投げやりな人でなく、壁に当たってもがいている人であるなら、きっとその人は貴重な学びを得ながら、遠回りに見える道を歩いているのだと思います。いつかその人も、ゴルゴタの丘まで十字架を担いで歩いたイエスにたどり着き、追い付くことでしょう。

洗礼を受けるという最初の一歩から始め、十字架上での最期の時まで歩き続けたイエスが、わたしたちの人生の歩み、信仰の歩みの模範です。歩くのをやめないでください。どんなに遅くてもいいから、歩き続けてください。まだたくさんの、歩かないと気付けない体験が待っています。前を歩くイエスを見つめながら、これからも開かれた天に向かって歩を進めていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ1:29-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼1月7日、これまでで最長の距離を歩いた。母校の東浦小学校から、江ノ浜というところにある「祈りの龍馬像」までを往復した。体が慣れてきたのか、往復24kmの道のりもスムーズにクリアできた。
▼1つ失敗だったのは、水分補給の認識不足という点だ。出発前、ポケットに150円入れて出発したが、飲み物2本分、300円持って行くべきだった。この日は暖かく、風もほとんど感じないほどだったが、次第に喉が乾き、水分補給に迫られた。小一時間歩いた頃に自動販売機を見つけ、スポーツドリンクを買った。
▼もうお金がないいことは分かっていたが、ドリンク1本で最後までもたないだろうかという甘い認識だった。2時間ちょっとで折り返し地点の銅像前まで来たが、ペットボトルの中身は3分の1しか残ってなかった。片道で半分減ったのだから、最低でも半分残っていなければ、当然足りない。
▼延べ時間が4時間に近づいた頃に有川港周辺まで来て、お金もないのにスーパーに入った。箱を開けただけの、冷やしていないスポーツドリンクが、89円で置いていた。ふだんは自動販売機で150円で売っているのに、89円でも利益が出るのか。今考えるようなことではないが、そんなことまで浮かんだ。
▼しかし、100円さえも手元にはなかった。しかたなく有川港のトイレまで引き返し、手洗いの水を飲み、トイレを済ませて出発地点の小学校前に帰り着いた。4時間40分、本当に長い特訓だったが、さまざまなことを学んだ実りある特訓だった。
▼こんな収穫があったと思う。4時間以上も苦手なことに時間を費やせたこと。ハーフマラソンくらいの距離を、4時間で完走できると分かったこと。これならフルマラソンの距離も、10時間もあれば完走できるかも知れない、そんな希望を持てたこと。
▼ほかにも、1日の時間のうち、4時間歩いてもまだ時間があると分かったこと。いろんな収穫があった。次も、本番に繋がるような徒歩訓練に挑戦するつもりだ。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第296回目。新上五島町江ノ浜郷にある「祈りの龍馬像」。背景に友住港も。

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主の公現(マタイ2:1-12)イエスを指し示す星は、すべての人に輝いている

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こうじ神父
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14/01/05(No.688)
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主の公現
(マタイ2:1-12)
イエスを指し示す星は、すべての人に輝いている
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主の公現の祭日を迎えました。馬小屋をご覧ください。占星術の学者たちが幼子の元に到着しています。子供たち、馬小屋に学者たちが置かれているのを見たら、「イエスさまがすべての人にご自分を現す日がやってきた」と知って欲しいと思います。

今週の説教の要点は、「イエスを指し示す星は、すべての人に輝いている」というものです。これからわたしの主日の説教は要点を先に示してから始めたいと思います。

徒歩巡礼に向けて、今年の初練習をこなしてきました。昨年末、浜串から神ノ浦の往復に続き、鯛ノ浦港から有川港までを往復してみたのですが、今回さらに距離を伸ばして、「浜串入り口」バス停から、「奈良尾港ターミナル」までを往復しました。距離は18km、かなり疲れました。

何人か顔見知りの人と会いました。まず子供連れの家族に会いました。次に奈良尾港を折り返し、奈良尾病院前で20代のギャル4人組に会いました。実は彼女たちの前でしょうもない嘘をついてしまいました。ギャルに会ったときは5時までに帰り着こうという計画がずれ込み、ちょっとだけ走って時間を稼ごうとしていた矢先だったのです。

4人組のうちの1人は浜串教会の目の前に住んでいる人でした。「神父さま。浜串から走ってきたんですか?」と言われ、そこでつい「うん」と言ってしまったのです。本当に浜串から走ってきていたら、折り返せるはずがありません。それなのに、ギャルの手前嘘を言ったのです。

バカだなぁと思いつつ、彼女たちの姿が完全に見えなくなるまでしばらく走り続けました。そのせいで、国道に出る頃には完全に息切れして、座り込んでしまいました。正直に「歩いてきたんだよ」と言って、ペースを乱さずに歩き続けたらどれだけ楽だったでしょう。

復路、高井旅でシスターに会いました。名前は伏せておきますが、そのシスターが「送りましょうか?」と誘ってくるのです。乗りたいのは山山ですが、誘惑に負けたら訓練が台無しになります。心を鬼にして申し出を辞退し、何とか出発地点のバス停まで帰り着きました。

あの日、わたしの心の中には、わたしを動かすいくつもの動機が生まれていました。「奈良尾まで歩いて往復します」と宣言したこと。「浜串から走ってきたんだ」と調子に乗ってしまったこと。「訓練ですから」と申し出を断ったこと。こうした心の支えがあったから、18kmの道のりを歩き通せたのだと思います。

18kmもの距離を何となく歩くというのは不可能です。少なくともわたしはそう思います。何か、自分を支える目標がなければ、自分を鼓舞する動機がなければ、足は前に進まないのではないでしょうか。

今回わたしの体験は、占星術の学者たちが東の国からはるばるやって来てイエスを礼拝したことを黙想するのに役立ちました。彼らにとってユダヤの国までの旅を決断させる重要な意味を持つ星が現れた。だから占星術の学者たちははるばる「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(2・2)を拝みに来たのです。

危険を伴い、それ相応の費用を負担して、しかも非常に高価な贈り物を携えて旅をするのですから、それに見合う重大な動機が必要です。占星術の学者たちは、現れた星が、どんな困難を押してでもそれ以上に価値がある、そして贈り物を届けに行く価値があると理解しました。

星は、ユダヤに入ってヘロデ王にあいさつに行くと一旦見えなくなっています。しかしまたしばらくして、「当方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」(2・9)とあります。それは、自分の人生の旅を導いてくれる星に出会い、いったんはその星を見失うことがあっても、再び星は現れて、人生の最後まで導いてくれる。そのことを教える出来事となりました。

占星術の学者たちは、幼子イエスに黄金、乳香、没薬を贈り物として献げます。彼らの人生を照らす偉大な星に出会って、どんなに高価な贈り物を献げても惜しくないと考えたからです。また彼らは、ヘロデのもとへは立ち寄らず、「別の道を通って」(2・12)自分たちの国へ帰って行きました。もはやヘロデは自分の人生に必要な人ではなくなっていたのです。自分の人生のすべてを照らす星に出会ったので、ヘロデに別れを告げ、救い主に照らされて生きるという別の人生を歩み始めました。

占星術の学者たちは、わたしたちにさまざまなことを教えてくれます。王としてお生まれになった方の星は、わたしたち皆に現れたのです。わたしたちの人生全体を照らす価値ある星です。わたしたちはある時期その星を見失うかも知れません。けれども再び人生を照らす星を探し求めるなら、星は人生の歩みに先立ち、イエス・キリストを土台として生きるように指し示してくれるのです。

人生を最後の最後まで照らし、導いてくれる星に出会った人は、道を逸れる必要を感じません。経済優先の社会、国の秘密が個人よりも優先されると思わせる社会、いざとなったら武器を手にして自衛すると声高に主張している今の日本社会にあって、別の道を通って歩くカトリック信者がいることを、わたしたちは生き方で示せると思っています。

巡礼のためのトレーニングは、今のところいろんな人の声に後押しされていますが、本番では誰も知っている人とは会いません。大浦教会から今村教会までの巡礼の道を照らすのは、最後はやはりイエス・キリストという星だと思います。もちろん練習中も忘れないでいたいと思います。

「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(2・12)占星術の学者たちはそれぞれ自分たちの国、自分たちの生活に帰りました。自分たちのもとの生活に戻っても、星は輝き続けています。わたしたちはどうでしょうか。ミサに集い、星の輝きを確かめて生活に帰りますが、星は輝き続けているでしょうか。その星があなたの生活を照らし、導いてくれているでしょうか。またヘロデのもとへ戻ったりはしていないでしょうか。まっすぐに、星が照らす道を歩いて行きたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
主の洗礼
(マタイ3:13-17)
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ちょっとひとやすみ
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▼年が改まり、早速今年一年どんな年になるのだろうかと考える。去年を漢字一字で表すと「輪」ということだそうだが、今年はどんな漢字が当てはまる年になるのだろうか。言った者勝ちということで早くも予想すると、「歌」というのはどうだろうか。
▼別に根拠も何も無いが、歌を歌いたくなるような晴れやかな一年であって欲しいと思っている。政府は国民と少しも向き合わず、「憲法改正」「秘密保護法制定」「消費税増税」など、国民がガッカリするもののオンパレードだ。その中でも「秘密保護法」は、あれだけ多くの反対集会が開かれたのに、なぜ強行するのだろうか。
▼今のところ、軽やかに歌を歌える状況は見えてこない。だからこそ、歌って喜びを表せる社会にしたい。歌わない人も歌う。そんな社会に変わったなら、どんなにすばらしいことだろう。わたしもふだん、歌ったりはしない一人だ。
▼去年は、福見教会百周年を記念する歌を作詞した。今も、福見教会で折々に歌ってくれる。気恥ずかしい思いもあるが、歌い継がれていくかも知れないと思うと、誇らしい思いもある。なかなか引き継がれていくものをかたちにするのは難しいから、それはそれで大きな仕事をなし遂げたと思う。
▼今年、歌を歌うとしたら、どんな歌を歌うだろうか。「喜びの歌」か。「悲しみの歌」か。「感謝の歌」か「賛美の歌」か。人から借りた歌ではなくて、わたしの心の中から、腹の底からわき出てくる歌を、今年歌ってみたい。

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今週の1枚
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第295回目。徐々に、距離を伸ばしていく。浜串入り口から、奈良尾ターミナル。

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