こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

洗礼者聖ヨハネの誕生(ルカ1:57-66,80)信仰者は見えないものに目を向ける

2007-06-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/06/24(No.304)
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洗礼者聖ヨハネの誕生
(ルカ1:57-66,80)
信仰者は見えないものに目を向ける
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今日は、6月24日の「洗礼者聖ヨハネの誕生」の祭日のミサがささげられています。「洗礼者聖ヨハネの誕生」の祭日は6月24日に固定されている祭日ですが、今年は日曜日に重なりました。先週の日曜日が年間第11主日で、来週が年間第13主日なのですから、本来今日は年間第12主日の典礼でミサをささげるのが普通かも知れません。

それでも、あえて6月24日の典礼を優先させました。そこまでして「洗礼者聖ヨハネの誕生」を優先させる意味を少し考えてから、朗読された福音に入っていくことにしましょう。

皆さんは6月24日と聞くと、何を連想するでしょうか。もちろん、「洗礼者聖ヨハネの誕生」の祭日だと前置きしたので、多くの方がそのことを考えていると思いますが、私はもう少し幅広く意味を探った方がよいと思っています。

ヒントは、「24日に、『誕生』を祝っている」というものです。キリスト教の祝いの中で、いちばん大切な誕生の祝いはいつでしょうか。言うまでもなく、12月24日、イエス・キリストの誕生を祝う日です。そして、今日6月24日は、その6ヶ月前で、イエスの誕生に先立って、洗礼者聖ヨハネの誕生を祝っていることをはっきり数字で表していると思います。イエスに先立つ人物で、欠くことのできない人物の誕生が今日の洗礼者聖ヨハネです。日曜日であっても、優先させようとした教会の思いをここに汲み取りたいと思います。

さて今日の福音ですが、周囲の人々がザカリアとエリザベトの夫婦に起こった出来事をどのように受け止めていったかを追いかけながら、今週の糧を得ることにしましょう。ザカリアとエリザベト夫婦は普通では考えられないような体験をしました。年老いた妻エリザベトはみごもり、男の子を産みました。まずは高齢であった夫婦に子供が授けられたことが不思議な体験です。

次に、当時の習慣に従って割礼を受け、名前を付けようというときに、妻は「息子にはヨハネと付けます」と言い張ります。周りの人たちは、「親戚にはそんな名前の人はいない」と考えましたが、口の利けない夫ザカリアも、書き板に「その名はヨハネ」と書いたのです。夫婦の間で声の会話ができないのに、どちらも子供の名前に「ヨハネ」を望んでいたことは、二つ目の驚きでした。

実はこれらの出来事には、目で見える部分と、目に見えない部分の両方の意味を探す必要があると思います。子供の誕生を目の当たりにしたとき、周囲の人々は「高齢の夫婦にも子供が授けられて良かったね」という接し方でした。これは人間として理解できる範囲の出来事でしたが、名前をヨハネとしなければならないと夫婦が答えたとき、人々は驚きました。「え?どうして?」そういう思いです。

この時人々にとってザカリアとエリザベトは、自分たちから遠く離れた人と感じるようになりました。いわば非常識な名前の選び方をするこの夫婦が、誰なのか理解できなくなっていたのです。そして、ザカリアの口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めたとき、理解できないと思っていたのが、全く理解できなくなったのです。「近所の人々は皆恐れを感じた」(1・65)とあります。見える部分では、ザカリアとエリザベトの夫婦は、「理解できる夫婦」から「理解できない夫婦」に変わり、最後は「全く理解できない夫婦」になっていきました。

ところが、見えない部分では周囲の人々に違う変化が起こっていたのです。この夫婦に神が深く関わっていることが、徐々に理解できるようになります。はじめは人々は神がそれほど深く関わっているとは思ってもいませんでしたが、名前をつけようとするときに何か違う働きが関わっていると気づき、最後には神がこの夫婦に深く関わっていることがはっきりと理解できるようになります。

つまり、見える部分だけを追いかけると、人々にとってザカリアとエリザベトはどんどん理解できない夫婦へと変わっていったのですが、見えない部分、神の深い働きかけを知ろうとしたとき、この夫婦のことがより深く理解できるようになったのです。人間の目では理解できない不思議な出来事を目の前にしたとき、見える部分ではなく、見えない部分に目を留めるなら、むしろ出来事は分かりやすくなるということです。

私たちはどうでしょうか。何か、理解に苦しむ出来事が生活の中で起こっているでしょうか。どうしても理解できないというとき、もしかしたら私たちは目に見える部分だけに気を取られているかもしれません。そんな時こそ、見えない部分で何かが起こっているのではないだろうかと、考えてみることが必要だと思います。洗礼者聖ヨハネの誕生は、つい見える部分だけで物事を考え、答えを出そうとする私たちに、見えない部分をもっとよく考えなさいと促していると思います。しばしば、見えない部分にこそ大切な意味が込められているのです。

見えない部分に目を留める一つの方法を紹介しておきます。意外なことですが、生活の中に沈黙の時間を作ってみると、見えない部分に目を留めることができるようになると思います。沈黙とは、周りの音をいっさい遮って、自分と向き合うことです。何も音がしない静けさを意識して作り出すと、どんなにかすかな音でも聞き取れるようになります。

かすかな音も聞き逃さない。こんな静けさを一日の中でちょっとだけ作ると、今まで聞き逃していたものを捉えることができるようになりますし、同じように、今まで見えていなかったものが見える、つまり、目の前のことだけではなくて、その奥にあるものを見ようとする力が付いてくると思います。初めから、見えないものを見ようとしてもできないかも知れませんが、生活の中に沈黙の時間を設けると、次の段階、見えないものを見ようとする力が身についてくるはずです。

実は、沈黙の時間を作ることは、神さまの思いに触れる近道でもあります。神は、つねに沈黙を守っておられる方です。それは、沈黙の状態こそ、どんなにかすかな音にも敏感になれる状態だからです。私たち人間の、声にならない声、かすかな叫びにも耳を傾け、願いを聞き届けるために、神は沈黙の中につねにおられるのです。

私たちが生活の中で沈黙の時間を少しだけ用意すると、次第に沈黙を守っておられる神に近づくことにもなります。この沈黙の中におられる神が、洗礼者聖ヨハネの誕生の出来事を通して、見えないものにこそ目を向けなさいと呼びかけているのです。

見えない部分を見ようとする努力が、今週は求められています。見えないものを見ようとするとき、私たちはこの世の生活をもっと信仰に照らして歩くことができるようになるのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼伊王島の馬込教会が、多くの人から慕われていることが今週はっきり分かった。火曜日に、翌日の水曜日11時に教会を訪問したいという連絡をほぼ同時刻に電話で受けた。まったく別々の場所から電話が入ったが、電話のかかってきた時間はほぼ同時刻だった。
▼ちなみに、そのうちの1組は若い夫婦で、横浜からの巡礼者だった。それも、7年前に太田尾教会にも訪ねてきたことがあるらしく、7年越しに、2つの教会でバッタリ会ったことになる。別れ際に、「次はまたどこかで、3度目の再会をしましょう」と言われた。そういうことがあるかも知れない。その時は、夫婦2人くらいだったら司祭館に泊まっていいので、晩ご飯を司祭館で一緒に食べましょう。
▼金曜日には、都合3組の教会訪問者を迎えた。もちろん、一般の観光客はもっとたくさんきているわけだが、その中でも時間を打ち合わせて来ている人たちが別にいる。この日は1組は夏休みに小学生キャンプに来る予定があって、その下見に来て島をいっしょに回った。残りは勉強会のような形で教会に来て、成り行きで教会の説明をすることになった。
▼そうそう、月曜日にもとある修道院のシスターご一行がやって来た。このシスターたちは浅からぬ縁があって、いろいろ話に花が咲き、お土産ももらって(ほかの一行にももらったりもしたが、真っ先に思い出したので書いた)そうとう満喫して帰っていった。考えてみると、伊王島は住んでいる自分たちが考えるよりも、はるかに魅力的なのかも知れない。

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こうじ神父絵手紙
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第85回目。これ、「ちょっとひとやすみ」を入れて限定10冊個人出版した本です。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第13主日
(ルカ9:51-62)
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年間第11主日(ルカ7:36-8:3)イエスに愛されている、それだけで十分です

2007-06-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/06/17(No.303)
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年間第11主日
(ルカ7:36-8:3)
イエスに愛されている、それだけで十分です
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教区司祭の黙想会に参加してきました。黙想指導をしてくださったのは教皇庁の移住移動者司牧評議会の議長を務めていた濱尾枢機卿さまでした。説教の中で、ミサについて常々思っていることと、移住移動者への配慮が本当はとても大切なことだということがよく伝わってきました。

枢機卿さまがミサについていつも思っていることは、ミサは、「全世界の平和と救いのために捧げられている」ので、どんなに参加する人が少なくても、たとえ司祭一人でミサを捧げても、「全世界の平和と救いのために捧げられている」ことを意識してほしいというものでした。

中田神父は、枢機卿さまのこの指摘を考えながら、パンとぶどう酒を聖別してキリストのおんからだとおん血に変化させる聖変化の言葉の中に、全世界のためという意味合いが込められていると気づきました。このように唱えます。「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である」。

「あなたがたと多くの人のために流されて」。これは枢機卿さまが指摘した「全世界の平和と救いのため」に通じる部分だと思います。私たちの教会で、島民皆がミサに参加しても人数は限られています。100人にも満たなくても(数百人でも)、今ここで捧げられているミサは、「全世界の平和と救い」に貢献しているのです。ミサを捧げている司祭も、ミサにいっしょに参加している信徒の皆さんも、今この時に、「全世界の平和と救いのために」貢献しているのです。これはすばらしい指摘だと思いました。

次に、枢機卿さまが長く関わってきた移住移動者への配慮について印象に残ったことを分かち合います。この任務は、教皇ヨハネパウロ2世から依頼されたものでしたが、教皇さまはその時に「移住移動者への配慮は大切な任務です。なぜなら、ヨセフとマリア、幼子イエスの聖家族もヘロデに命を狙われてエジプトに避難していたとき移住者(避難民)だったのです」と励まされたそうです。

そう考えれば、たしかに移住移動者への配慮は特別な使命であることが分かります。政治的な理由や、民族の違いや宗教などである人は命を狙われ、亡命しています。この人たちは、かつて命を狙われてエジプトへ避難した聖家族なのです。今もたくさんの人々が命の危険を感じて国を追われています。それはつまり、エジプトへ避難した幼子イエスがたくさんいるということであり、心を込めてお世話してあげる必要があるということなのです。今年も、いろんなヒントをいただいて帰ることができました。

今週の福音からは、一点に絞って話したいと思います。今週は、一人の女性がイエスに示した「愛の大きさ」(7・47)について考えてみました。一人の罪深い女性は、あふれる想いを愛情に変えてイエスに奉仕しました。ところが食事に招いたファリサイ派の人には彼女の態度が理解できず、常識外れの行動に思えました。ところがイエスには「大きな愛の証し」と感じられたのでした。

本来、まことの愛は、報いを当てにしないものだと思います。単なる貸し借りではなく、また「愛してくれる人を愛する」(ルカ6・32)というものでもなく、自分を捨てて相手を喜ばせることです。イエスに近づいた女性には、この「報いを期待しない姿」「自分を捨てて相手を喜ばせる姿」がじゅうぶん表れていました。

イエスがファリサイ派の人のような態度に出ようと思えば、次のような言葉を女性にかけたかも知れません。「何をしてほしいのか」(ルカ18・41)。こんなことをするからには、きっと何かを当てにしているに違いない。大事な人と食事をしているときにこの人はなぜ私を煩わせるのか。イエスがファリサイ派の人と同種の人物であれば、きっとこんなことを思ったことでしょう。

実際のイエスはまことの愛にとても敏感な方でした。この女性は自分がどのような扱いをされるか、そんなことさえも計算せずに、自分にできるお世話でみずからをイエスに与え尽くしたのです。彼女の取った行動がイエスやイエスを招待した人々に理解されるかどうか、それさえ当てはありませんでした。まったく何も当てにしないで、ありのままの自分をイエスにさらけ出したのです。

何も当てにしない彼女の行動を、イエスは受け止めてくださいました。彼女はゆるされるにふさわしい。過去に何があったか、イエスはもはや気にしません。彼女の真実の愛に、イエスもまた愛をもって応え、いっさいの罪をゆるしてくださったのです。

イエスに理解され、愛されていると知った人は、何も当てにしません。食事の席に飛び込んでいった一人の女性がそうでしたし、何人かの婦人たちが立ち上がり、自分たちの持ち物を出し合って、一行に奉仕します(8・3)。彼女たちは、イエスに愛されていること以外何も要らないのです。

私たちは、仕事ぶりを理解してもらいたいとか、この世に期待していることがあまりにもたくさんあります。イエスに愛されていること、それさえあれば十分です。この世の評価を追いかけず、イエスが必ず報いてくださることを確信して、日々の務めを着実に果たしていきたいものです。


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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会とは、あらためて指摘を受けることがこんなに大切なことなのかということを学ぶ場なのかも知れない。「全世界の平和と救いのためになりますように」とどれだけ唱えてきたか分からないのに、指摘を受けるとなるほど、とうなずくことになる。現場をいったん離れてみると、指摘に素直になれるということだろうか。
▼黙想会期間中にまじめな本を読んでいた。「沈黙を聴く」というタイトルで、市販されてはいないが示唆に富む内容だった。人は心から溢れるものを詩に書き留めたり絵にしたりして表現するわけだが、この溢れ出る源となっている心は、「沈黙」の状態であるときもっとも豊かなのだと知った。
▼この話を読んでいる人は疑問に思うかも知れない。なぜ沈黙の心から、音楽や文学や絵画が溢れ出てくるのか。実は私もまだ答えにたどり着いていないのだが、「沈黙」の中に自分を置かなければ、本当は何も聞こえてこないということが何となく分かったのである。そしてまた、いかにふだんの生活で「沈黙を聴く」ことができていないかということにも気付かされた。
▼また、現場に戻ってきた。現場に戻ってから最初に私の心に入ってきた「言葉」は、「高知県は四国だったんですか」だった。せっかく黙想会を終えてきたのだから、せめて「そうそう。高知県は四国にあるんだよ」くらいは言ってあげようと思う。「高知が四国になければ、いったいどこにあるんじゃ」とは、たとえ喉まで出かかっても飲み込むことにしよう。

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こうじ神父絵手紙
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第84回目。黙想会後、横浜から訪ねてきた人とオフラインミーティングの一コマ。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
洗礼者聖ヨハネの誕生
(ルカ1:57-66,80)
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キリストの聖体(ルカ9:11b-17)二千年間与え続けるという奇跡

2007-06-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/06/10(No.302)
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キリストの聖体
(ルカ9:11b-17)
二千年間与え続けるという奇跡
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今日は、キリストの聖体をたたえる日曜日です。聖体にとどまっておられるイエスは、信じるすべての人を養い育てます。この実感を、今日のミサの中で味わうことにいたしましょう。

まず、朗読されたルカ福音書9章は、「五千人に食べ物を与える」という奇跡の物語でした。この、「五千人に食べ物を与える」という奇跡は、イエスの物語を書き残した四つの書物、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ福音書すべてで取り扱われています。まずはこの点から考えていきましょう。

すべての福音記者がこの奇跡を取り上げているということには、どんな意味が含まれているのでしょうか。私は、2つの意味が込められていると思っています。1つは、「五千人に食べ物を与える」という奇跡が、間違いなく起こった、ということです。四つの福音書は、どの物語を取り入れて、どの物語を外すか、それぞれに任されているわけですが、その中で今回の「五千人に食べ物を与える」という奇跡は、だれも外すことなく採用しました。これはつまり、出来事は真実であるということの確かな証明になるのではないでしょうか。

私は、もう1つ、この奇跡物語が伝えようとしていることがあると思います。それは、この奇跡物語を後世に語り継いで欲しいという強い思いです。

過去に、五千人に食べ物を与える奇跡が起こったということは、それはそれですばらしいことだと思います。けれども、もしも過去に起こったことそれだけの意味であれば、単なる昔話に過ぎません。奇跡の物語ですから昔話と言い切っては問題がありますが、昔そういう奇跡が起こった、ということだけを伝えるのでは、記憶を引き継ぐことだけになってしまいます。

私は、福音記者がそろってこの奇跡物語を残し、後世に語り継いで欲しいと願った理由は別のところにあると思っています。それは、イエスがのちの時代にも信じる人々に食物を与え続けているということを知ってもらうために、この物語を書き残したということです。つまり、イエスはこの奇跡物語で起きているような奇跡を、今も続けている。私たちには希望のもてないような場に、イエスは奇跡を起こして食物を与え続けていると言いたいのではないでしょうか。

かつてイエスは、パンを増やして五千人に食べさせてくださいました。今イエスは、ご自身を多くの人の食べ物として用意してくださいます。奇跡物語の中のパンは、普通のパンが増えたに過ぎません。けれども今私たちが集まって祝っているミサの中では、集まった参加者に、ただのパンではなくてイエス・キリストが与えられているのです。また、日曜日に準備されたキリストの御体は、平日にミサに集まるすべての人にも与えられます。

さらに、遠く離れた人々、それは病院に入院しているために遠く離れている人とか、信仰の面で遠く離れている人にも、もう一度聖体を拝領できるように準備をしてから与えられていきます。日曜日に集まった人たちの前で準備されたキリストの御体が、平日の人々、病気の人々、信仰を遠ざかっていた人々にまで与えられていくこと。これもまた、かつて五千人にイエスが食べ物を与えたのに劣らない、まことの奇跡なのではないでしょうか。

先週の水曜日、私は2つの病院を訪ねて御聖体を運んで行きました。1人は、成人病センターに入院していました。1人は、整形外科に入院していました。病院が違えば症状も違います。一方は病気、他方は怪我と言ってもよいでしょう。その2人に聖体拝領をさせる予定でしたが、先に訪ねた成人病センターで御聖体の器を開いたとき、1枚しか御聖体が入っていませんでした。どうしようかなと考えた末に、御聖体を半分にして、2人で分け合うことにしました。

私は、過ぎた一週間の中ではこの出来事が大変印象深く心に残りました。状況はまさに、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(9・13)というものでした。あと1人病人がいる、なのに御聖体は1枚しかない。どうしようもない中で、御聖体を半分に分割して与えようと考えたのは、私と言うよりは、イエスの指示でした。イエスが、成人病センターの人にも整形外科の人にも食べ物となってくださる。どのようにしてなのかはその時まで気がつきませんでしたが、イエスがご自分で2人の病人に食べ物となる方法を示してくださったのだと思っています。イエスが「みな、これを取って食べなさい」とおっしゃって、どんな場面でもご自身を与え続けてくださるのです。

今日私たちは、キリストの聖体の祭日を迎え、「五千人に食べ物を与える」奇跡物語を朗読しました。この朗読が語り継がれる中で、イエスは今も、私たちに食べ物を与え続けておられることを学びました。日曜日にこうしてミサに集まるたびに、聖書の言葉と聖体拝領で私たちに豊かに食べ物を与え続けているという、このイエスのみわざを、十分味わって生活に戻っていくことにしましょう。

最後に、最近新しく祈祷書に挟み込まれました祈りを思い出して結びとしたいと思います。島本大司教がお作りになった「宣教する教会をめざして」という祈りです。この祈りの最後にこう書かれています。「私たちが、御子の聖体に養われ、主の平和のうちにこの世界へとつかわされ、また祭壇へと帰っていく、生き生きとした信仰生活を送ることができますように」。

生きた信仰生活の力の源は、主の聖体に養われ、主の祭壇に帰っていくことにあります。今もご自分を与え続けておられるイエスに日曜日ごとに出会い、イエスが今も働き続けておられることを告げ知らせに行きましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼いつか書いたかも知れないが、世の中に「絶対」ということはない。一度も失敗したことがないから、一度も失敗しないと言い切れない。「9日の10時に納骨」と記憶していたので、共同墓地で10時に待っていたけれども、11時になっても本人たちが来ない。
▼どうもおかしいなあと思って司祭館に戻り、ホワイトボードを見たらちゃんと9日10時納骨と書いてある。やっぱり今日だよなー、そう思うけれども本人たちが来ないので電話してみたら、「16日の10時で約束しております。どうかしましたか」と言われた。「そうかー。来週だったんだね。今週とばかり思って、間違ってたよ」そういうのが精いっぱい。本当はがっくり力が抜けて、何かに当たりたい気分だった。
▼ある人から、「スケジュール帳、ちゃんと活用してるの?」と言われ、自分としては結構書き込んでいるんだけどねと答えたけれども、どうも致命的な欠陥があるような気がしてきた。別のある人のスケジュール帳の使い方と比べると、まるでなってないと感じたからだ。手帳をこまめに記入するその人は、「すぐに書く」ということが決定的に違っていた。
▼そう言われれば、自分は思い出したときに書いていた。思い出したときでは、記憶違いもあるに違いない。すぐに書けば正確に記録できるのは当然である。そうだ。手帳というのは、「手に書く」代わりの品物なのだから、すぐに書かなければ効果は上がらないのだ。そんなことも気が付かなかったのか。その程度で自分の仕事を果たしてきたと思い込んでいたのだろうか。

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こうじ神父絵手紙
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第83回目。司祭黙想会に行ってきます。これ、黙想会の必需品?

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‥次の説教は‥‥
年間第11主日
(ルカ7:36-8:3)
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三位一体の主日(ヨハネ16:12-15)三位一体の神はいつも具体的な対話をします

2007-06-03 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/06/03(No.301)
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三位一体の主日
(ヨハネ16:12-15)
三位一体の神はいつも具体的な対話をします
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先週の27日日曜日、パリ外国宣教会のローランド神父様が伊王島を訪問してくださいました。26日土曜日とあわせて外海と長崎南地区を訪問したのですが、皆さん喜んでください。伊王島での歓迎にいちばん感動したと言っていました。

27日は午後3時から中町教会で講演会と感謝のミサを捧げ、その後場所を移して懇親会をしたのですが、名指しで、馬込小教区での歓迎がいちばん心に残ったと言ってくださいました。これも全て、信徒の皆さんのおかげです。伊王島のおもてなしの心が本当にすばらしいということを証明してくれました。ありがとうございました。

188殉教者の列福がいよいよ本決まりになりました。日程と場所はまだ決まっていませんが、近いうちに日本の司教団が訪問団を結成してバチカンに赴き、日程と場所を決めてくることになると思います。私も行ってこようと思います。うそです。

さて、三位一体の主日を迎えました。名前の付く祭日が連続していることは、もう覚えてくれたでしょうか。ご昇天・聖霊降臨・三位一体・キリストの聖体・イエスのみ心、ここまでは連続してやって来る祭日ですので、ひとまとめにして覚えるときっとためになります。

三位一体の主日を考えるために、すごーく身近な話を取り上げます。皆さんの中に、親しい人と話をするときにほとんど「あれ」「それ」「これ」で話をしている人がいると思います。私は、歳を取るにつれてだんだん「あれ」「それ」「これ」と言うようになるのだろうと、身近な人々を見ながら思っていたのですが、もしかしたら原因は年齢だけではないのかも知れないと思うようになってきました。

こういうことです。本当に親しい間柄の人と話すときは、「昨日の話、考えてくれた?」と言えば、昨日の話が何なのかはっきり分かっていると思います。もっと省略して、「昨日のあれ、考えてくれた?」と言っても話は通じると思います。

ところが、親しい人同士の会話に、もう1人加わったらどうなるでしょうか。3人目の人は、おそらく、初めての話題に付いていけないか、じっと聞きながら話を補うことでしょう。つまり、「あれ」「それ」「これ」は、2人の間では成り立ちますが、3人、またそれ以上になると成り立たない、と言うことです。

振り返って考えてください。「あれ」「それ」「これ」ばっかり言っている人は、何人もの人を相手にして話すときに「あれ」「それ」「これ」と言っているのではなく、親しい相手1人に向かって話しているときに、「あれ」「それ」「これ」と言っているのではないでしょうか。そんな人はなぜか、3人で話すと「あれ」「それ」「これ」言わないんですよね。私の3年間の研究の成果です。

実は三位一体の神も、父と子と聖霊で対話しています。父と子の二者ではありません。父と子と聖霊の三者です。3人と言っては間違いになりますが、三者ですから、「あれそれこれ」という対話は通じないはずです。父と子と聖霊の間では、2人の間だけで使うような「あれそれこれ」ではなく、いつも具体的な言葉で対話しているに違いありません。その証拠に、イエスは決して弟子たちに「あれそれこれ」と言いませんでした。人間に対して、神は2人きりの時のように「あれそれこれ」と言わなかったのです。父と子と聖霊の三者が人間に語りかける。それはいつも、3人以上に話しかける、具体的な言葉を使ってくださったのです。

ちなみに、「あれそれこれ」症候群の方々に中田神父が考えたリハビリの方法をお教えしましょう。あなたの会話に、あと1人加わえて、話をしてみてください。もう1人、違う人を加えて日頃から話す訓練をすれば、すっかり「あれそれこれ」の癖は無くなると思います。お試しください。費用は一切かかりません。

もう一つは、手紙を書いてみることです。文章を書こうとすれば、どうしても言いたいことをはっきり言葉に表す必要が出てきます。「昨日あれが届きました」とか「あれが畑で取れたので送ります」と言っても相手には決して通じません。文章を書くという習慣は、「あれそれこれ」症候群になるのを防ぐとても良い習慣です。これも、費用はわずかです。お試しください。

手紙を書く一連の流れ、ここにも三位一体の神を考えるヒントがあるように思います。3つの働きが同時に働きます。「何について書けばよいか」が分かっているとします。すると残るのは「どう書くか」という頭の働きと、「結果を出す(文章化する)」ための手の働き、あわせて3つです。

ほとんどの人が、「何について書けばよいのか」が分かっていればすぐに取り組むことができます。簡単な手紙ならすぐに書き上げることもあります。けれども気を遣う相手に手紙を書くときは、「何について書けばよいか」が分かっているのに頭は働かない、手も動かない、金縛り状態になってしまいます。こんな時は頭も手もバラバラで、まるで自分のものでないような気さえします。

もうお気づきかと思いますが、「三位一体の神」の姿は、あなたが手紙を書くときの、すべてがまったく一つであるようなすばらしい精神状態と健康状態の時のようなのです。「何について書けばよいか」「どう書くか」「結果を出す」ということにほとんど差は生じません。三位一体の神には、私たちがすらすらと手紙を書くときのような完全な一致が見られるのではないでしょうか。

父と子と聖霊の完全な一致は、人間を救う働きにおいて見事に活かされます。「この世界と人類について何をすればよいか(『父が持っておられるものは』)」「どのように実現するか(『すべてわたしのものである』)」「実際に結果を出す(『わたしのものを受けて、あなたがたに告げる』)」この3つに遅れは生じません。父と子と聖霊の完全な一致の状態にあって、世界と人類に愛を注ごうとお考えになったときにはすでに計画の青写真も明確に描かれていて、その上すぐに実行されている。そんなすばらしい状態が、三位一体の神の中に実現していて、歴史の初めから人類に注がれていたのです。

「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16・13)。三者の対話においては、「あれそれこれ」とは言わない。いつも具体的に、思いを言葉に表し、思いが救いのわざとして形になる。今年、三位一体の神についてこんな黙想をしてみました。


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ちょっとひとやすみ
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▼先週はいつの間にか300号に達していたのですねー。この一週間で大きな動きがありました。188殉教者の列福がいよいよ本決まりになったことです。まだ日程と場所は未定ですが、年内開催の可能性もこれで残ったということです。十分な準備が最優先で、それが無理なら実りあるものにするためには来年になってもいいと思っています。
▼300号で価値のあるものにはどんなものがあるでしょうか。プロ野球選手の300勝、300号ホームラン。これらは価値ある数字です。でもプロ野球選手の記録と比べるには差がありすぎます。創刊した雑誌の300号。これはどうだろう。雑誌にもよりけりだけれども、意味はあるでしょう。比較するとしたら、雑誌300号くらいかな。
▼ま、それでも通過点です。すでに今回301号ですし。あれっ?って感じで300号来たのですから、まだまだまだまだ。メルマガはかるく300号まで来るのに、ダイエットのためのエクササイズはどうしてずっと続けられないんだろう。3日続けてちょっと休み。4日続けてまた休み。続くものと続かないものの違いはどこに?
▼遅ればせながら、最近結婚式のラッシュです。その中で、カトリックではないけれども真剣にカトリック教会での結婚を望んで相談してきているカップルがいます。感心だなぁと思うと同時に、こんなに教会での結婚に魅力があるのに、そこから信仰生活に導かれていくカップルは皆無に近いのはなぜだろうと思い悩みます。カトリック教会の結婚観を伝える中で、信仰に導かれる人が現れないかしら。そう思うこの頃です。

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こうじ神父絵手紙
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第82回目。何年も、机の上で出番がありません。出番がないのに転がってます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(ルカ9:11b-17)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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