こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第3主日(ルカ1:1-4;4:14-21)私たちもイエスのことばの証言者になれる

2019-01-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
19/01/27 (No.985)
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年間第3主日
(ルカ1:1-4;4:14-21)
私たちもイエスのことばの証言者になれる
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年間第3主日C年です。イエスが会堂で係の者から渡された聖書の巻物はイザヤ書でした。預言者が預言した出来事が、今目の前にある。これが今週のメッセージだと思います。

教皇フランシスコがはっきりと11月下旬の訪日を言葉にしました。10ヶ月くらいの期間しかありませんが、いよいよ待望の教皇様来日が実現します。38年前に直接お目にかかった人も、事情があってお目にかかれなかった人も、今回はその機会を逃さないようにしましょう。

私たちは教皇様をどのように意識するでしょうか。ほとんど意識しないかも知れません。もちろん、ミサの中では毎日名前を呼んでいますので、賢い方々はそこで意識するでしょう。そのほかには、教皇様を身近に感じるのはいつでしょうか。

そうなると答えるのが難しいかも知れません。いくつか様子をうかがえるものを紹介します。教皇様は毎週何かしらのメッセージをバチカンの広場で発しておられます。それが伝わってくるのは「カトリック新聞」という全国紙です。カトリック新聞は毎週発行されていて、よく教皇様の声を取り上げています。いつでも申込は受け付けます。声をかけてください。

また、教皇様は全世界に重要な指針を示すために、さまざまな文書を発表します。なかでも使徒的勧告や回勅は、その一言が世界全体に考えさせたり行動を促したりするので重要です。これまでに「福音の喜び」とか「ラウダート・シ(ともに暮らす家を大切に)」さらに「愛の喜び」新しいのでは「喜びに喜べ」などです。どれも温かみあふれる、今の時代に必要とされるメッセージです。日本語訳は案内所にも置いてありますから、手に取ってみたら良いと思います。

前任者で名誉教皇となられたベネディクト16世に、皆さんあまり親近感がないかも知れません。けれども教皇文書は光るものがありました。今もその輝きは失っていません。「毎日のミサ」という書物を注文している人はよくご存じでしょう。

このように現代において、教皇様が身近に感じられる場所は、まずは使徒的勧告や回勅からです。なぜなら、教皇様にはまずお目にかかれることがないためです。文書ですら、圧倒的な存在感を示す方が、目の前においでになったらどうでしょう。私たちは運良くその瞬間を目にするのです。

与えられた福音朗読は同じことを述べています。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」

これが当時会堂に集まった民衆にとってどんなに恵み深い言葉であったか、推して知ることができるでしょう。巻物に記された神のことばだけでも喜びの知らせですが、この喜びの知らせが実現したと目の前で語るイエスを見ているのです。

イエスはこの日の出来事を皮切りに、有言実行します。捕らわれている人に解放を告げます。法に背き、見える牢屋に入れられている人だけではありません。見えない牢屋に捕らわれている人にも、イエスは解放を告げるのです。目の見えない人もそうです。「見える」と言っている人も、この世の価値観で目が曇り、神の前に価値あるものが見えなくなっている人もいるのです。イエスだけが、これらの人に視力の回復を与えることができます。

現代社会で圧迫されている人は、さらに複雑、巧妙に圧迫を受けていることでしょう。見えない方法で、隠れた仕方で圧迫されている人にも、巻物の文字だけではなく、イエスの存在が、「あなたはわたしを信じてくれた。だからあなたは今、この時から自由になった」と理解するのです。聖書の文字、読み上げられた言葉だけでなく、今ここにおられるイエスが、恵みの保証となってくださるのです。

私たちも、証言者となる必要があります。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」イエスが私たちのうちにおられて、このように語ってくださった。私たちはイエスの約束を土台にして生きています。このように、証言する人になって欲しいのです。

罪に縛られ、捕らわれている人が、赦しの秘跡を受けて解放されます。自分の命を自分で救えない私たちに、洗礼の秘跡は永遠の命を、神の子の身分を保障してくださり、見えない未来を見えるようにしてくださいます。

聖体の秘跡という神の子羊の食卓に招かれ、どんな圧迫の中でも一人ひとりが大切にされることを体験します。私たちが秘跡に養われて生きていることを土台にしているなら、だれもがイエスのことばの証言者になれるのです。

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」私たちにその気があれば、イエスは現代においても私たちという巻物を人々の前で開いて、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と証明することができるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第4主日(ルカ4:21-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼いよいよ司祭団マラソン大会だ。厳しい天気が予想されるが、スタートラインに着く自分の姿は思い描くことができる。たいした練習は積んでないが、正月からほぼ毎日、40分ほどの練習をした。順位争いのレースはできないが、楽しく走って帰りたい。
▼教会報の「瀬戸山の風」に「それでもマラソンに行く『おかしな』理由」として記事を書いた。辛い思いをして、納得していない順位を走る姿に「頑張れ」と声をかけてもらう。自分でも変人だと思う。それでもよい。苦しい思いをして年の初めを乗り切れば、一年の苦労などたいした苦労ではなくなるはず。
▼しかも今年は、司祭団マラソン大会を終えた後も、ルームランナーに乗っている自分を思い描くことができる。今年の収穫はこれかも知れない。司祭団マラソン大会も、かなり長い「毎日の練習」の一環。そういうイメージを描けているので、ことしこそもたついた身体とおさらばだ。
▼金曜日の中学生の教会学校で、「毎日続けることは英雄的行為だよ」と話した。毎日ルームランナーに乗る(およそ150キロカロリーを消費)のを「英雄的行為」とは決して思わないが、またいつか中学生に「英雄的行為」に触れる時に、毎日続けていたら自信を持って「たとえ」として紹介できる。

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今週の1枚
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第592回目。庭に植えたいくらい好きな柑橘。金柑があれば他はいらない。

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年間第2主日(ヨハネ2:1-11)世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした

2019-01-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
19/01/20 (No.984)
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年間第2主日
(ヨハネ2:1-11)
世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした
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降誕節が終わり、年間の季節が始まって一週間が過ぎました。今週は年間第2主日です。与えられた福音朗読は「カナでの婚礼」で、イエスが水をぶどう酒に変える驚くべきしるしが取り上げられました。

イエスが出来事に関わってくださると、危機的状況が予想もできない豊かさを生み出す場に変わります。最終的にカナの婚礼は、十字架上のイエスという悲劇的状況から全人類を豊かに満たすぶどう酒が湧き出ることの象徴でした。

先週は先輩橋口朝光神父様を神様のもとに送ることになり、本当に悲しい思いをしました。大先輩たちであれば、「全うしたなぁ」と納得できたかも知れません。けれども64歳、佐世保地区の地区長としてまだまだ教区の大切な働き手を失ったことが、残念でなりませんでした。

私は、橋口神父様に謝っても謝りきれないことをしたので、それも悔やんでいます。一度橋口神父様の額をバットで殴ったことがあるのです。私がまだ新米司祭の頃、司祭団ソフトボール大会でのことでした。

当時長崎教区の若手・中堅司祭はゴロゴロいたので、ソフトボールも出番あればベストを尽くす、それだけでした。その年は打席で活躍し、ちょい役ではなくレギュラーで使ってもらっていたのです。試合が続く中で、「よっしゃ、次もヒットを打ってやるか」そんな気持ちで自分で持ち込んだバットで素振りをしながら試合会場を移動していたのです。

自分の後方で「ゴキッ!」という鈍い音がしました。そして後ろにいる司祭たちが「大丈夫か?」と言っているのです。振り向くと、移動しながら素振りをしていた私のバットで、どうやら橋口神父様の額を思いっきり殴ったみたいなのです。大変なことをしてしまったと思い、謝っていると橋口神父様から「周りを見たのか?お前だけがここにいるわけではないことを考えなかったのか?」と、大目玉を食らったのでした。

私は先輩に怪我をさせてしまった申し訳なさであとの試合は打って変わって結果を出せなくなり、あえなく控えに回されました。あの試合以来、怪我をさせてしまった橋口神父様のことが頭から離れなくなりました。13日にお亡くなりになった、という一報を聞いた時、すぐに「バット事件」を思い出したのでした。

話は前後しますが、橋口神父様からは長崎の小神学院時代、鯛ノ浦教会助任として赴任してきた私の大神学院時代、浜串教会時代と、事あるごとにご指導いただいたのでした。今、お亡くなりになって思うことは、一人の司祭がどれほど貴重であるか、ということです。

橋口神父様は10人兄弟の第一子長男であったと聞いています。兄弟姉妹全員を代表する人を、橋口神父様のご両親は司祭職にささげてくださいました。ご両親が、10人のお子さんを立派に育て、社会に送り出すのももちろん並大抵のことではありませんが、社会人の一人となるはずの人を司祭職におささげするのはもっと大変なことだと思ったのです。

司祭職は資格や条件で与えられるものではありません。十分な資格があっても、選ばれないこともあります。社会の物差しでは測れない部分があるわけです。水をぶどう酒に変えて、その場にいるすべての人に悲嘆や絶望の中から喜びを与えるイエスにしか為し得ない、秘跡の恵みがそこにはあります。条件や資格で言えば、同級生皆と何ら変わらない一人を、水がぶどう酒に変えられていったように、イエスは叙階の恵みで司祭に変えてくださるのです。

橋口神父様も、水がぶどう酒に変えられる体験をした一人でした。そして、受けた恵みが自分のためでなく人のためにあることを十分理解していました。ぶどう酒がぶどう酒であるのは自分のためではないように、橋口神父様も自分を人のために差し出して人生を終えたのでした。

ある時は、神学院で学生を育てる仕事です。期待に胸を膨らませて司祭になった、まずは教会に配属されることを望むはずです。それを、大司教様の望みに答えて自分の思いではなく神様のために自らを差し出しました。神学院での奉仕は6年にわたりました。これだけ長かったのですから、小教区の主任に任命されてもおかしくありませんでした。

それなのに、次の辞令は助任司祭でした。本心は分かりませんが、思いとは違ったかも知れません。それでも橋口神父様は、自分の中の水が、ぶどう酒に変わって人々のお役に立てるように、自分の思いではなく神の望みに忠実であろうとしたのです。

最後は佐世保相浦教会の主任と、地区長の重責を背負いつつ、志半ばで旅立つことになりました。神様に不平の一つや二つ言いたかったはずです。けれども自分の思いが水をぶどう酒に変えるイエスのわざの妨げとなるなら手放すのだ。そうしてすべてを委ねて旅立ったのです。

人間の力では、どう転んでも水をぶどう酒に変えることはできません。それができるのは神の子イエス・キリストだけです。イエスはそのことをカナの婚礼でしるしとして見せたのですが、最終的には十字架の上で見せてくださったのです。人が十字架の上で死ぬことを、誰が恵みに変えることができるでしょうか?イエス・キリストだけが、十字架上での死を、全人類の救いの恵みに変えることができたのです。

水を、ぶどう酒に変えることのできるお方。十字架上の死を、全人類の救いに変えることのできるお方。そのイエス・キリストに生涯尽くした橋口神父様に、今週の福音朗読を重ねて考えてみました。

小学生中学生の男の子たちは、ぜひ考えてみてください。どんな一流大学を出ても結局は社会人にしかなれませんが、イエスに従うなら、あっと驚くぶどう酒に変えてもらえるのです。そして、イエス様からぶどう酒に変えてもらった司祭たちは、パンとぶどう酒をイエス様の御体と御血に変えるわざを、今も祭壇の上で繰り返し続けているのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(ルカ1:1-4;4:14-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼とうとうトレーニングはルームランナーばっかりになってしまった。外を走りに行くとそれなりの格好をしなければならないし、寒い上に日焼けする。ルームランナーだと30分のトレーニングを30分でこなせるが、外に出るとそうはいかない。まぁ、簡単に言えば怠けているのだ。
▼始めてルームランナーの斜度を利用してみた。1.5度、3度の傾斜をつけることができて、3度の傾斜で使用している。たかが3度だが侮るなかれ。これまでのフラットな状態でのトレーニングより30%くらい負荷がかかっているように感じる。なかなかいいぞ。
▼外を走ると「土曜日は説教を考える時間が欲しいから休み」と簡単に口実を見つけていたが、ルームランナーは短い時間でもトレーニングできるから言い訳はできない。やるか、やらないか。それだけだ。カレンダーにもトレーニングした時間の「30」という書き込みをすることにした。
▼世の中、ブログは掃いて捨てるほどある。最近またブログを追加した。AmebaブログとLineブログ。何かどこかで目にとまる人が、日常生活をいったん足を止めて心を神に向ける場所になれば。説教の原稿は拙いが、理想は高い。
▼水が、ぶどう酒に変わる。平凡な人間が、神の指のわざを届ける道具に変わる。人間は弱くて、間違いも犯すし何者かであるかのような勘違いもする。そんな「ガラクタ」を、神は辛抱強くご自身の道具として使ってくださる。常に、取り扱うことの重さを、忘れない、自分に言い聞かせる、そんな積み重ねで日々を過ごしたいものだ。

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今週の1枚
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第591回目。かなり雑な記録。マラソン大会以後も、2月3月と続けたいものだ。

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主の洗礼(ルカ3:15-16,21-22)イエスに倣い、人々の架け橋となる

2019-01-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
19/01/13 (No.983)
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主の洗礼
(ルカ3:15-16,21-22)
イエスに倣い、人々の架け橋となる
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主の洗礼の祝日を迎えました。主の降誕に続く降誕節は今日までです。イスラエル巡礼をした時、私が訪問した御公現後も、ベツレヘムとかあちこちで馬小屋が飾られていました。私もかつて、馬小屋のセットを残して、そこに洗礼者ヨハネとイエスの御像を置いて、イエスの洗礼はこんな雰囲気だったかなぁと当時の教会の皆さんと思い巡らしたことがあります。

子供達はお年玉はいっぱいもらったのでしょうか。私も評議会から過分なお年玉をもらいました。また個人的にもいただきました。子供達はお年玉はどんなふうに使いますか?私はメガネを買うことにしました。5年以上このメガネを掛けていますが、疲れている時に文字がダブったりして、お説教を考える時に気になるようになりました。

もちろん一個人の中田輝次が一月に何を買おうが、一月に何をしようが、知ったことではないと思うでしょう。ただ主任司祭の中田輝次神父がメガネを買い直すとなると、「よりよい仕事ができるようにつなげてくれるのかな」と考えてくれるのかなと思って、日常のことをちょっと挟んで話しております。

さて与えられた福音朗読の、イエスが洗礼を受ける場面は、イエス一人を注目させていると言うよりも、イエス以前の群衆とのつながりに目を向けさせているように思います。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」(3・21-22)イエスの洗礼だけを描くのではなく、イエス以前に洗礼を受けた人も同時に描いているからです。

洗礼者ヨハネが授けていた洗礼は、「悔い改めの洗礼」でした。後にイエスが授ける「聖霊による洗礼」の前触れと言ってもよいでしょう。すると、前触れの意味合いがあるヨハネの洗礼は、いよいよ始まる聖霊による洗礼によって、過去のものとされてしまうわけです。ではヨハネの洗礼を受けた人々も、イエスによって過去の人とされてしまうのでしょうか。

ある意味、そうなるかも知れません。けれどもイエスは、ヨハネの洗礼を受けることで、イエス以前のすべての民を受け入れたのです。私たち今の時代の人々は、父と子と聖霊による洗礼を受けて神の子とされますが、イエス以前の人々はそうではありません。そのため、イエスが彼以前のすべての民を受け入れるしるしとして、ヨハネの洗礼をお受けになったのではないでしょうか。

それはたとえて言うなら、川を隔てて分かれていた場所をつなぐ橋のようなものです。それまでつながりを持っていなかった両岸の人々が、橋のおかげでつながります。人と人とを結ぶ絆もそうです。イエスは彼以前のすべての民と、イエス以後のすべての民を、人としてつないでくださったのです。

イエスが受けた洗礼を、これまでの人々とこれからの人との架け橋、絆と考えるなら、イエスを模範とする私たちが今週学ぶべきことも見えてきます。私たち一人一人が、「これまで通りでずっと行こう」という姿勢に留まるなら、これからの人々との架け橋になることはできません。イエスは「私が架け橋となった。私が模範を残した。あなたがたも同じようにしなさい」と呼びかけておられます。

大人になって洗礼を受ける人は、幼い頃から洗礼を受けた人が体に染みついて覚えていることがどうしても難しいと思います。幼い頃からロザリオの祈りを唱えてきたこととか、大人になって洗礼を受けた人にはなかなか入っていけないと思うのです。

その際「見よう見まねで覚えなさい。私たちもそうだったのだから」という態度は、架け橋になる人の態度ではないと思うのです。どこがなじめないのか、どうしたらなじめるのか、あと一歩踏み込んで手伝ってください。その努力が、イエスに倣って架け橋になろうとする姿だと思います。

信仰生活の架け橋になってお役に立てる人は、もしかしたらそれ以前にもう一つ心がけている人かも知れません。日常生活です。日常生活で「どこがなじめないのか、どうしたらなじめるのか」あと一歩踏み込んで手伝ってくださったおかけで信頼を得て、「信仰の面でも教えていただこう」という気持ちになり、日常生活と信仰生活の両面で架け橋になれるのだと思います。日常生活と信仰生活は、切っても切り離せないのです。

「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」人口減少や少子化、都市と地方の格差、さまざま聞こえてくることは私たちの心を塞ぎ、ため息の元となることばかりです。けれどもイエスの模範に倣い、架け橋となるわざを根気強く続けましょう。

天が開ける。聖霊が降る。これは現代でも起こります。イエスがすべての人の架け橋となってくださったのですから、私たちの教会にもしるしを与えてくださることを信じて、私はどの場所で架け橋となれるのか、探し求めることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ2:1-11)
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ちょっとひとやすみ
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▼カトリック教会の典礼用の聖書は、新共同訳聖書が使われている。カトリック教会にはフランシスコ会訳聖書という立派な聖書があるが、未だ典礼用の聖書に採用されていない。新共同訳聖書の使用が長くなってきたので、切り替えるのはさらに難しそうだ。
▼長く同じ聖書を朗読していると、その聖書の引用句を覚えてしまう。新共同訳聖書とフランシスコ会訳聖書とではニュアンスの違いがあると思うのだが、私が思い出せるのは新共同訳聖書だけになってしまった。フランシスコ会訳聖書を親しく読む努力が足りない。
▼そう言えば、中学生の勉強の始めは、天主の十戒を唱えさせている。「初めの祈り」でない理由は二つあって、「初めの祈り」はもう練習する必要がないだろうということと、この子たちが頻繁に天主の十戒を唱えて、覚えて欲しいからだ。堅信組の祈りの試験の遠い準備でもある。
▼似たようなことだが、私もふだんの聖書朗読に、フランシスコ会訳聖書を読むのが良いかも知れない。新共同訳聖書の朗読はもう十分やってきたのだから、フランシスコ会が心血注いで完成させた日本語訳聖書を体に覚えさせるために、今すぐ取りかからないと間に合わなくなる。
▼自分がどうこうできる問題ではないが、フランシスコ会のこれだけの大作を、日本の司教団はどう根付かせるのだろうか。ちなみに昨年末に「聖書協会共同訳」というのが出版された。新共同訳聖書のようなものだと思うが、今後この聖書がカトリック教会の典礼用聖書として採用されれば、ますますフランシスコ会訳聖書の典礼採用は遠のくのだろうか。

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今週の1枚
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第590回目。腐っていた縁側を作り直してもらった。昼寝すると気持ちいい。

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主の公現(マタイ2:1-12)学者たちとともに幼子の前に跪こう

2019-01-05 | Weblog
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19/01/06 (No.982)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
学者たちとともに幼子の前に跪こう
‥‥‥†‥‥‥‥

主の公現の祝日を迎えました。占星術の学者たちは幼子イエスを礼拝し、「ヘロデのもとへ帰るな」と夢でお告げを受け、別の道を通って自分たちの国へ帰りました。占星術の学者たちのように、私たちも「ヘロデのもとへ帰るな」この意味についても考えることにしましょう。

今年は元日が仕事始めになりました。正月一日の夜6時、平戸ザビエル教会の神父様から、「今すぐ北松中央病院に行って欲しいんだけど、行けるか?」と電話がかかりました。先輩は神の母聖マリアのミサをささげてすぐ休暇を取り、実家の飽ノ浦に帰っていたそうです。所属する信者さんが危篤で連絡が入ったがあいにくすぐに行けない。お前行けるか?ということでした。

私はすぐ「はい。大丈夫です」と返事しました。でも下心もありました。「これで恩を売ったなぁ」ということです。まぁそれはたいしたことではありませんが、初日から司祭の務めを果たせる、初日からかけがえのない奉仕に関わることができる。何と素晴らしい生き方だろう。小中高校生、青年の皆さんいかがですかとその時思いました。

年が明けてから寒くて、トレーニングは外を走らずルームランナーで適当に済ませています。三日まではたしかに寒かったですが、週末になると日焼けしそうなぽかぽか陽気で外に出てトレーニングできたはずです。でも怠けて、ここ数日ルームランナーばっかりです。時速5キロ、6キロ、7キロと三段階速度が上がって、それを3セット繰り返すパターンを利用しています。まぁ、全くやらないよりはましか、と自分を慰めています。

福音朗読に移りましょう。今年2019年の説教は、「瀬戸山の風」に書いた通り、「あと一歩前に出る神の民となれますように」この年間テーマを踏まえて話そうと思っています。また、説教を聞く皆さんも、そのつもりで必要なことを聞いて持ち帰ってください。

いよいよ占星術の学者たちが、幼子イエスを礼拝しに来ました。彼らは一般常識に倣って、ヘロデ王の支配する国に入るのだから、まずはヘロデ王に挨拶してから「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を拝みに行こうとします。21世紀であってでも、国によってはどんな活動をするのか届け出ておかないと、スパイ活動をしていると決めつけられてひどい目に遭わされることもあるので、ひとまずヘロデ王に挨拶に行くことは賢明な判断でした。

ところがヘロデは占星術の学者たちが入国した理由を聞いて、良くない考えを巡らせました。対立する王が現れた。力を蓄える前に葬ってしまおう。これももしかしたら、一般常識かも知れません。挨拶を終え、再び星の導きで新しく生まれた王を訪ねる学者たちを見送りながら、すでにヘロデは部下に尾行させた可能性もあります。

たとえ背後に危険が迫っていても、占星術の学者たちは星の導きを信じて幼子のもとに急ぎました。彼らが見たものは、家と呼べるか分からないような場所に母マリアと共におられた幼子でした。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(2・11)

占星術の学者たちは全く疑うことなく幼子に礼拝を献げ、贈り物を献げたのでしょうか。ヘロデ王が邪心を持ってもなお「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と挨拶で述べたのですから、全く疑いを持っていなかったのでしょう。

彼ら占星術の学者たちが礼拝し、贈り物を献げた幼子イエスは、学者たちがひれ伏すような圧倒的なものを持っていたのでしょうか。幼子イエスを見る前から、彼らにとって幼子は「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」だったのですが、そのお方が家畜小屋で飼い葉桶に寝かされていること、これはすでに学者たちを圧倒する出来事だったかも知れません。

彼らが想像していたのは、一般常識で考えられる王子の誕生の場面だったでしょう。彼らは想像を完全に覆されました。予想を覆された時、人間ができることは、目を背けることか、自分の予想をあっさり横に置くことか、いずれかです。これから自分たちの国に帰って、目で見たことを告げ知らせる彼らは、予想を完全に覆す圧倒的なお方を心に納めて帰ったのです。

私たちはどうでしょうか。占星術の学者たちと同じように、家畜小屋で飼い葉桶に寝かされている幼子の前に、膝をかがめることができるでしょうか。無力に見えて、全能であるお方を、思い込みを捨てて礼拝することができるでしょうか。

幼子イエスに跪くことができる人は、聖金曜日に十字架上のイエスに跪くこともできます。「こんな方が人類を救えるはずがない」と言うなら、十字架上で命を終え、命を父なる神にお返しになるイエスにも「こんな方が人類を救えるはずがない」と言うのでしょう。

今日、主の公現に学者たちとともに跪く人は、イエスを信じる信仰を土台に生きる人です。半信半疑の人は、あなたが作り上げた信仰を信じる人です。私たちも占星術の学者とともに、自分が正しいと思っている殻を破り、一歩前に出て、幼子イエスに跪きましょう。「ここが座り心地が良い」と考えている場所を越えて飼い葉桶に眠る幼子の前に行かなければ、イエス・キリストを信じる本物のキリスト者にはなれないのです。

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‥次の説教は‥‥
主の洗礼
(ルカ3:15-16,21-22)
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ちょっとひとやすみ
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▼銀祝の祝いに佐世保の親戚から贈ってもらった「黄金」。ではなく「ルームランナー」。一昨年はみっちり使ったが、去年の司祭団マラソン大会を終了したらパタッと使わなくなった。申し訳ないと思いつつ、もう一度使うきっかけがなかなか来なかった。結局今年のマラソン大会に向けて、一年ぶりに使う羽目に。
▼いろいろ細かな設定はないが、10分、20分、30分の設定タイムがあり、4種類の運動メニューがある。これだけあれば、自分のレベルなら十分である。もし使い続けて故障したら、十分使ったということで報告して、その時点でさらに上級の機械を買ってもよい。
▼寒い時期にトレーニングすると、お風呂が困る。お湯をためておくにも、自動で止まらないので見に行かなければならない。20分でお湯がたまるが、トレーニングは40分、できれば50分続けたい。すると20分使ってお湯をために行き、戻って20分続け、お湯を止めに行ってさらに戻って10分。この行ったり来たりがどうも。
▼快適に暮らすために住まいの改築をする人もいると思う。幸いに風呂場は文化財に含まれない。改築して快適なお風呂環境を利用できる期間は限られているが、私の時代にしたことで恩恵を受ける人たちがまだまだいる。そういうことだ。

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今週の1枚
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第589回目。ルームランナー。後ろのバランスボールも写ってしまったか。

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† 神に感謝 †
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神の母聖マリア(ルカ2:16-21)打ち明けたいものは母マリアに

2019-01-01 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/190101.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
19/01/01(No.981)
‥‥‥†‥‥‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
打ち明けたいものは母マリアに
‥‥‥†‥‥‥‥

皆さん明けましておめでとうございます。新しい年も、よろしくお願いいたします。皆さんといっしょに、今年も信仰の道を歩んでいきたいと思います。

新年のあいさつ、この場を借りてごあいさつに代えさせていただきます。今日神の母聖マリアの祭日は守るべき大祝日であり、あいさつの必要な方は必ずここに集まってくださっているはずです。あらかじめ、念を押しておきたいと思います。

さて、教会は年の初めを神の母聖マリアに託しましょうと呼びかけます。マリアは、今日の朗読にありますように、「出来事をすべて心に納めて、思い巡らしてくださる方」(19節参照)です。私たち一人ひとりのことも含めて、母として心に留めてくださるのですから、この一年を実りあるものとするために、初日に自分を託すというのは大変賢いことです。マリアはこれからの一年を見守ってくださり、必要があれば神に取りなしをしてくださることでしょう。

この心に留めてくださる母の姿を、さらに掘り下げてみたいと思います。神の母となってくださった聖マリアは、洗礼によって神の子とされた私たちすべての母となってくださいますが、子供と母親の関係は、父親との関係とはまた違った面を持っているのではないでしょうか。

スポーツを例に考えてみたいと思います。子供はしばしば、親の期待に応えようと努力するわけですが、一般に子供は、親には良いところを見せたい、また心配をかけたくないという考えが働くのではないでしょうか。

たとえば、何かの代表選手に選ばれると、親の期待を感じているその子は結果を出そうと努力するものです。たとえ練習中に怪我をしても、試合の当日に体調を崩していても、何とか結果を出して喜ばせようと、抱えている不安を隠そうとするのではないでしょうか。

問題はここからなのですが、そうは言ってもやはり、体の不調や怪我、試合を前にしての不安などは必ずついて回るものです。そんな不安を、子供はどちらに打ち明けるのでしょうか。父親に、不安を打ち明けるのでしょうか。母親にでしょうか。

私は、ほぼ間違いなく母親に打ち明けるのだと思います。私の経験で言えば、父親に心の不安や、怪我してしまったことを打ち明けたとしても、自分で乗り越えなさいと言われるだけで、心配も同情もしてもらえないと思います。少なくとも、父親は表面上は心配してくれるそぶりを見せないと思うのです。

ところが母親は、子供たちの弱さを自分のことのように心にかけてくれます。怪我を抱えている、内心は不安だらけでおびえている。そんな弱さに、母親はしばしば寄り添ってくれるものなのです。

この、母親に特に見られる心配りに、私たちは目を向けたいと思います。父親には「元気で頑張っている、何も問題はない」と言ってはいても、母親にさらに尋ねられると、「実はこんなことで困っている」とか、「こんな病気になっている」とか、弱さを打ち明けたくなるのではないでしょうか。

もしかしたら、父親はこうしたことを理解しないかも知れません。「そんな弱い子供に育てた覚えはない」と、突き放されるかも知れない。そう思うとますます、子供は心配をかけてはいけないと思って、父親の前では無理をしたり頑張りすぎたりするわけですが、それでも母親には、弱い面を打ち明けて聞いてもらいたいと思うものなのです。

私たちのこうした経験は、実はマリアにも期待してよい部分ではないでしょうか。社会生活であれ、信仰の歩みにおいてであれ、人間は失敗もせず弱りもせず、何も問題ない、すべてはうまくいっていると言えるような道のりを辿れるものではありません。しばしば道を外れ、弱り果て、歩くことに疲れて座り込むのです。そんなとき、親に心配かけてはいけないという思いと、自分のありのままを聞いて欲しい知って欲しいという両方の思いに、板挟みになるのではないでしょうか。

社会生活の中では、実際の母親か、配偶者、あるいは信頼できる誰かが、あなたの弱さを聞いてくれることでしょう。ですが、信仰の面では、なかなかそういった頼れる人を持つことができないかも知れません。

マリアはそんな弱さを抱える私たちの母です。信仰の面でも何も問題ない、いつも順調だと言い張るあなたは、心のどこかで罪を抱えているかも知れません。人に言えず、弱さを見せることもできず、強がっているかも知れません。ですが、人間はそんなに強くはないのです。信仰生活を、「私に問題はない」と言って一生を終われるほど立派ではないのです。

そんなとき、自分の弱さ、足りなさを素直に打ち明けるのは、母である聖マリアではないかと思うのです。父なる神の前に立たされると、「私は信仰上の問題は何もありません」と言い張っていますが、マリアがどんな弱さでも打ち明けてみなさいと言ってくれるなら、実際はいろんな弱さを打ち明けたいのではないでしょうか。

教会に何年も足を運んでいないのに、「私はまだ弱っていません」と言い張っています。人間関係で神様に心配かけていても、心配かけたくないあまり「自分のことは自分でします」とつい言ってしまう。マリアは、神の母として、神の子供である私たちの母として、強がっている私たちに手を差し伸べてくださるのだと思います。

いろんな事情で、信仰面に問題があるのを、ありませんと言い続けているのであれば、心の中をマリアに打ち明けましょう。マリアは母として、弱さも含めてわたしたちを受け入れてくださいます。誰にも言えない弱さも、母はそのまま受け止めてくださいます。母の思いやりを今日あらためて認め、この一年をマリアに託して始めることにいたしましょう。

私たちはマリアを通って、この一年を始めます。幼子イエスの成長とともに、母の暖かいまなざしの中で私たちも信仰を成長させていくことができるように、続けてミサの中で願うことにいたしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼新年明けましておめでとうございます。カトリック新聞に前田万葉枢機卿様のインタビュー記事が載っていた。予想はしていたが、大司教の時よりも激務のようだ。お体に十分留意してください。健康のために短いお祈りをささげます。
▼12月29日から教会敷地内に設置されている「案内所」が年末年始の業務を閉めている。年に一度、「はい、田平教会です。1月3日まで拝観を停止しております。外観のみ見学ください」と案内をする時期だ。もちろん主任司祭が案内する。
▼12月29日、この記事を書いている時点で案内業務の電話がかかったのは一本。今境内内で歩いて回っている家族?が一組。この家族の子供は公園か何かと混同しているのか、すごくはしゃいだ声だ。誰も声をかけない期間だから、公園と見間違えてくる人もいるのかも知れない。
▼これからすぐに黙想会が始まる。1月2日は、帰省者のための黙想会が田平教会の恒例行事だ。初めは「毎年黙想会をするのか~」とため息をついていたが、ものは考えようで、ここで話したことがあとで実になることもあるだろうから、黙って引き受ける。ちなみに今回話す内容の半分は、佐世保地区でも講師として話すことになっている。
▼自分の中では、今年は「献堂百周年を受けて、一歩前に出る田平教会信者になりましょう」というテーマを持っている。私たちが受け継いだ信仰の宝物を、「守る」姿勢で接するよりも、「一歩前に出て、人々に示す」姿勢で接して欲しいからだ。
▼そういうつもりで、来月の教会新聞「瀬戸山の風」には書こうと思っている。思いついたことを書く。何度か読み返してみて、「これで行こう」と思ったらテーマと言うよりも思ったことを書く。「いきなり書いた」「相談して欲しかった」そう思う人は、動きが一歩遅いのではないだろうか。

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今週の1枚
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第588回目。まあ静かなものだ。静かな時間が、次の行動を掘り下げてくれる。

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ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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