こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第3主日(ルカ24:35-48)私たちの置かれている時間は「第三の時」です

2006-04-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/04/30(No.237)
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復活節第3主日
(ルカ24:35-48)
私たちの置かれている時間は「第三の時」です
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何かに書き残された出来事には、三つの時間があると思います。福音書に当てはめて考えてみましょう。今週の福音朗読は、復活したイエスが弟子たちに現れ、ご自分の手足の傷をお見せになり、焼いた魚を一切れ食べて、語りかけるという出来事でした。この出来事を考えるに当たって、三つの時間を押さえて読みたいのです。

まずは、出来事はあるときある場所で起こっています。弟子たちの見ている前で、出来事は確かに起こりました。「第一の時」は、「出来事が起こったその瞬間」ということです。本来は、この時間がもっとも大切な時間となります。出来事が今目の前で起こっていますから、その場にいなかった人は決して味わうことのできないすばらしい体験をしているわけです。

次に、起こった出来事が重大なものであれば、多くの場合それは人々に告げ知らされることになります。弟子たちの集まっている前で起こった出来事は、まず目撃者である弟子たちによって人々に伝えられました。弟子たちは目撃者ですから、目で見たことを生き生きと伝えることができます。「第二の時」は、「出来事を生き生きと告げ知らせる時間」です。ただし、弟子たちが直接告げ知らせている様子は、福音書の中にはありません。その様子がうかがえるのは弟子たちの活動が記録されている「使徒言行録」の中においてです。

ところで、直接目撃した弟子たちが生き生きと伝えていた時代もいつまでも続くわけではありません。できるだけその生きた場面を、のちの時代に長く伝える書き方で残すことが必要です。何人かの福音記者と呼ばれる人々が、その使命を引き受けました。私たちの時代にまでイエス・キリストの出来事が生き生きと伝えられているのは、この「第三の時」、「出来事をのちの時代のために書き残す時間」のおかげです。

こうして、私たちには「第三の時」「出来事をのちの時代のために書き残す時間」を通して当時の様子を学ぶことになります。誰も、直接見た人がいないのですから、「第一の時」までさかのぼることはできません。また、目撃者がいないということは、その目撃者に直接話を聞くという「第二の時」も経験することはできないことになります。あくまで、私たちが出来事を知りうるのは「第三の時」を通してということです。残念と言えば残念なことです。

それでも、ほとんどすべての人は、この「第三の時」の中でイエス・キリストを知り、信じるようになりました。ということは、出来事が目の前で起こり、それを生き生きと告げ知らせた頃の迫力が、書かれた書物の中に残っているということです。目の前で起こったときにはどんなにすばらしい体験ができただろうかと、十分うかがい知れるくらい生き生きと描かれているということです。

一例、挙げておきましょう。復活したイエスが弟子たちに現れて、「ここに何か食べ物があるか」と言われて、焼いた魚一切れを食べたとあります。出来事を三つの時間で切り取ってみると、焼いた魚を食べたというその瞬間が「第一の時」です。「第二の時」は、たとえば弟子たちが「イエス様はわたしたちの目の前で、焼いた魚をお食べになりました」と力強く話しかけている場面が「第二の時」です。焼いた魚を一切れ食べたのを目撃したと言いますが、冷静に考えると、果たしてそれは、今の時代にどのような意味があるのでしょうか。

もしも中田神父が、駅前に立って、「復活したイエスは弟子たちの前で焼いた魚一切れを食べました」と通りかかる人々に話しかけても、耳を傾けてはくれないと思います。なぜかというと、町を歩く人々に出来事のその瞬間はあまり関係がないからです。むしろ「第三の時」、のちの時代の人々に生き生きと伝わるように物語を書いた人が工夫した、その工夫を知らせなければ人々の心を打つことはないのです。

そこで私たちも、朗読されたルカ福音書の記者がどのような工夫をしているのかを読みとることにしましょう。イエスが焼いた魚を弟子たちの前で食べたというのは、そこにおられたイエスは弟子たちの思い込みでイエスの雰囲気を感じていただけではなくて、目で見、手で触れるような実体としてそこにおられたのだということを伝えようとしているのです。

私はちょっと前に人の服を間違って着ていた夢を見ましたが、間違って着ていた服を着替えたことまで実感があったのですから、てっきり「第一の時」だと思っていたのですが、それは夢でした。弟子たちの体験は夢ではないのです。イエスはそこに確かにいた。いたような気がするのではなく、食べ物を食べて一緒にいることを証明してくださったのです。

この体験が現在読み継がれているわけですが、私たちにとってはどのような意味があるのでしょうか。それは、イエスははっきりと分かる方法で、一緒にいるよと伝えてくださるということです。今日の朗読箇所を、1000年前の人も読み、聞きました。1500年前の人もそうです。どの時代にもイエスが焼いた魚を食べ、弟子たちに語りかけたことが意味を持つとしたら、イエスは今もいつも私たちのそばにいてくださり、そのことをはっきり分かる方法で伝えてくださるということです。

「第三の時」「出来事をのちの時代のために書き残す時間」がどれだけ必要かということが、これではっきりします。私たちがこれからも日ごと朗読されるイエスの出来事を生き生きとした姿で読みとり、イエスを身近に感じる努力を続けましょう。そして今感じられる喜びにより多くの人を引き寄せることができるように行動しましょう。またそのための勇気と知恵をこのミサの中で願っていくことにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼「ながさきさるく博覧会」が開幕している。その中のイベントとして、月末の土曜日に(メインは晩7時からの講演会)”市民セミナリヨ2006「長崎の宗教と文化」”というものがある。全体で7回、講演会とその内容に関係する場所の見学会、ミニコンサートという組み合わせとなっている。たいへん意欲的なイベントである。
▼この説明だけでは分からない方も多いと思うが、長崎さるく博の「さるく」は「歩いて回る」ということ。長崎の各名所を歩いて回って、長崎を楽しんでもらおうというコンセプトである。長崎県の観光課に宣伝をお願いされたわけではないが、当然教会関係は歩いて回るコースに組み込まれていて、10月の閉幕まではきっと賑やか(正直言うとうるさくなりそう)なのだろう。
▼さて初めに紹介した市民セミナリヨ2006だが、教区の新聞の編集長としては当然出席すべきイベントなのであるが、実際には土曜日の晩に行事を組まれても、とてもじゃないが取材はできない。高島教会のミサが終わって帰りの船に乗るのは晩の6時37分、それから大浦天主堂まで足を伸ばしたとしても完全に遅刻である。
▼取材しないわけにはいかないので、今月はもう一人の編集委員に出席してもらっているが、次回からは主催者側に記事をお願いしようと思う。その上で、できれば顔を出してみたいものだ。ちなみに29日(土)オープニングを飾るのは長崎教区の大司教であるが、出席してこちらの落ち度で失礼があってはいけないので、ある意味出席できなくて良かったと思っている。

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こうじ神父絵手紙
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第23回目。この位置からの馬込教会の眺めが評判になっています。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:11-18)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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復活節第2主日(ヨハネ20:19-31)神のいつくしみは永遠に繰り返されます

2006-04-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/04/23(No.236)
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復活節第2主日
(ヨハネ20:19-31)
神のいつくしみは永遠に繰り返されます
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復活節第二主日、「神のいつくしみの主日」を迎えました。この日に特別に名付けられている「神のいつくしみ」について、今週あらためて考えることにいたしましょう。

朗読は復活した主がトマスを除く弟子たちに最初に現れる場面と、トマスも一緒にいるときに再び現れるという出来事です。朗読をどのように読み解くと、神のいつくしみが私たちにも感じられるようになるでしょうか。

私は、「週の初めの日に起こったこと」として朗読をまとめると、良いものが与えられるのではないかと考えました。毎日の福音朗読を解説してくださっている雨宮神父様の解説からヒントを得ました。さっそく、出来事を「週の初めの日」という切り口でまとめてみましょう。

週の初めの日の夕方、弟子たちは恐れの中で一軒の家の中に集まり、鍵をかけ息を潜めていました。彼らはこれからどうしようかと集まって考えていたのではなく、誰にも気づかれないように、見つからないように隠れていたのです。そこへイエスがおいでになります。素朴な弟子たちは、主を見て素直に喜んだのでした。

出現なさったイエスは、真っ先に「あなたがたに平和があるように」と言います。そしてこの言葉を重ねて言いました。当然、同じ言葉を繰り返すのは、念を押したりとか、強調したりするためです。

それから弟子たちに使命が与えられます。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(20章22節)。

実はこのあとのトマスが一緒にいた時に出現された様子も、同じような書き方がされています。ある意味で出来事は繰り返され、強調されているわけです。

ここまでいろいろと並べてみました。思い切ってまとめると、週の初めの日、皆が集まったところへ復活したイエスがおいでになり、「あなたがたに平和があるように」とまず仰います。次いで弟子たちになすべき事が伝えられます。この一連の動きが、週の初めの日に起こったのです。

賢い皆さんはここで一つのことに気づくはずです。週の初めの日とは日曜日のことです。日曜日、イエスを信じる弟子たちが一堂に集まった場所に復活した主がおいでになり、「あなた方に平和があるように」と声をかけ、なすべき使命をお授けになる。これは何も弟子たちだけに関わることではなくて、私たちの今の暮らしそのものなのです。

日曜日、私たちはミサに集まってきます。イエスを信じている兄弟姉妹として集まっています。そしてミサの初め、司祭はイエスの代理として集まった皆さんに言います。「平和が皆さんとともに」。きっと皆さんは「また司祭とともに」と答えることでしょう。そしてこの「平和が皆さんとともに」というあいさつは、ミサの大切なポイントで繰り返され、強調されます。

さらに、イエスは日曜日ごとに選ばれている福音朗読の中から私たちになすべき事を知らせます。私たちはその呼びかけを心にとめて、ミサが終わるときに「行きましょう。主の平和のうちに」という派遣の言葉を受けてもとの生活に送り出されていくわけです。

そうです。賢い皆さんはここではっきり気が付きました。日曜日、ミサに集まってみことばと聖体の祭儀を執り行う私たちの中に、復活の時の出来事が繰り返されているのです。あとはそのことをどれくらい理解するかということになります。

はっきりと、当時の出来事の中に私たちが参加している日曜日のミサの内容を読みとりましょう。弟子たちが集まっていたところに復活した主が現れました。私たちが日曜日にこうして集まるとき、復活した主はここにとどまってくださいます。ということは、私たちが日曜日にこの礼拝の場所に集まること。これがすべての出来事の出発点ということになります。あなたが日曜日に集まらなければ、復活した主との出会いも始まらないのです。

次に、主は弟子たちに「平和が皆さんとともに」と挨拶します。当時の弟子たちは恐れに捉えられていました。恐れを取り除き、主がともにいてくださることが何よりも安心につながることを教え諭します。

私たちはどうでしょうか。私たちも恐れに捉えられているかも知れません。もう続けていけないとか、もう我慢できないとか、いろんな限界にぶつかっているかも知れません。それなのに、今日こうして皆さんと一緒に集まることができました。

さまざまな悩みをいったん横に置いて、荷物を両手から離して、賛美のために集まりました。これまで苦労して抱えていた生活の重荷をささげものとして主は受け取ってくださり、代わりに平和をお与えになります。

私たちの恐れを受け止めて、代わりに平和で満たしてくださる。復活したイエスは、今もいつも、神のいつくしみを示し続けておられるのです。それは弟子たちにも、今の私たちにもです。

平和を告げた後に続けて主はなすべき事を示します。今日の朗読では、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と仰って罪の赦しに弟子たちを向かわせ、トマスには「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」というより個人的な呼びかけもなさいました。私たちも、日曜日ごとの福音朗読から今週なすべき事が示されるのです。

自分自身の生活をふり返るとき、今週の朗読と説教とを総合すると、私は今週こんな事に目を向けるべきだ。はじめは難しいかも知れませんが、今週私に向けられた呼びかけは何だろうと、毎週毎週考え続けるならば、しだいにその答えをいただけるようになります。

こうして考えると、週の初めにミサに参加するたびに、当時の弟子たちが復活した主との間で経験したことは、今も繰り返されているのだと分かります。私たちも復活した主と出会い、「平和が皆さんとともに」という言葉を聞き、なすべき事が示されて生活の中に送り出されています。神のいつくしみは、復活したイエスを通して永遠に続くのです。

今参加しているミサ、今目の前で行われていることを私たちがよく理解すれば、ミサはイエスが復活された当時を再現するものだと、「見ないで信じる」ことができるのではないでしょうか。そこまで出来事を読み解くことができたなら、その時こそ私たちは「幸いな人」と呼ぶにふさわしいのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼永沢まことさんという画家の本が目に留まった。線画(ペンでのスケッチ)を何より大切にし、絵の具はその線画にお化粧をする程度なのだと書かれてあった。今の自分のレベルとは比較のしようもないが、心惹かれて買い求めた。
▼これからの絵手紙の参考にと思っているが、とても参考にと言えるレベルではなく、ただただため息をつきながらパラパラとめくっている。それにしても水彩画がこんなにすばらしいものなのかとあらためて考えさせられた。
▼なるほどなるほどと、うなずくことがたくさんあってどこから紹介してよいか分からないが、とにかく良い本と出会ったと思う。本との出会いは人との出会いだ。その人と実際に会わなくても、本にその人のすべてが読み取れる。掲載されている一枚一枚を食い入るように眺めながら、自分の絵手紙を先へ進めていきたい。
▼締め切りのある原稿を一つ思い出した。どうしよう?すでに一週間も締め切りを過ぎている。それに、本当の締め切りが明明後日のものまで近づいてきた。あー、締め切りよ。どうして君はそんなに冷酷で同情の余地がないのか。けれども君がいないと世の中の多くの人間はしなければならないことをしないんだよね。

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こうじ神父絵手紙
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第22回目。線画をしばらく勉強します。今回は菓子を観察しました。

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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:35-48)
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復活の主日(ヨハネ20:1-9)行動を起こすことで復活の主に触れます

2006-04-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/04/16(No.235)
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復活の主日
(ヨハネ20:1-9)
行動を起こすことで復活の主に触れます
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あらためてご復活おめでとうございます。昨晩の徹夜祭からそれほど時間も経っていませんが、今日の朗読箇所に選ばれているヨハネ福音書から、昨日とは違った点を取り上げてみましょう。今日の朗読では、実際には復活した主と出会ってはいませんが、弟子の一人が最後にはイエスの復活を信じました。復活を理解するようになったきっかけを、今日は考えてみましょう。

弟子たちは初め行動を起こそうとしませんでした。彼らはイエスをお納めした墓の場所を知っています。どのような納め方をしたかも知っていたでしょう。これ以上新しいことは何も起こりそうにないと思っていたのに、マグダラのマリアの報告によると、実際には驚くべきことが起こっていました。墓を閉じた石が取りのけられ、体を巻いていたはずの亜麻布が置いてあり、頭を包んでいたおおいも離れた場所に見つけたのです。考えてもいなかったことが、実際には起こったのです。

これら一連の体験にあずかることができたのはなぜでしょうか?それは、「墓を訪ねたこと」ここから出発するのです。何も起こらない、墓に行っても仕方ないと思っていたなら、誰も墓を訪ねなかったかも知れません。けれどもマグダラのマリアは、とにかく墓へ行ったのです。何も変わらないと半分諦めていたかも知れません。けれども、とにかく行動を起こそう。彼女はそう心に決めたわけです。

神さまの計画は動き始めていました。イエスはマグダラのマリアが墓に着いたとき、すでに復活しておられたのです。マグダラのマリアは「墓から取り去られた」(20章2節参照)と勘違いをしたのですが、イエスの復活という神のご計画はすでに動き始めていたのです。

もしも、誰も墓に行く人がいなかったら、復活の出来事を知ることもなく、イエスに従った人たちは散らされて歴史は変わっていたかも知れません。それが、勇気ある女性の行動、結果を先に決めてしまうのではなく、とにかく動いてみようという思いによって、人々を復活の出来事に向かわせました。ヨハネ福音書では空の墓だけが伝えられていますが、これは出来事の始まりであり、神さまの計画が動き出したというその出来事の最初に過ぎないのです。

誰かが墓に行かなければ、墓での出来事を確かめることはできません。墓で何かが起こったのだと感じ取るためには、「どうせ出かけて行っても、墓の石は置かれたままだし、何も変わったことはない」と先に決めてしまってはいけないのです。勇気を出して、動いてみること。そうすれば、変わらないものが変わる。そういう大きな変化が起こるのです。

最近中田神父は旧約聖書と新約聖書を全部読み上げるためにはどれくらい時間がかかるのだろうかとふと思って、計算するのではなくて実際に読んでみればいいじゃないかと、動くことにしました。ただでさえいろいろ抱えている身ですが、司祭が司祭生活の中で聖書を全部読んだことがないのでは話になりません。

忙しくなくなったら読みましょうといつまでも動かなければ、その日はいつになってもやって来ないでしょう。ちなみに、1月26日から始めた聖書の通読は、今現在新約聖書は27書すべて、旧約聖書39書読み上げて、残りは旧約聖書続編の15書というところまで来ています。動かなければ、何も始まりませんが、いったん心に決めて動き始めると、変わらないと思っていたことも変わります。

いままで動こうとしなかった人が動き出したときに復活したキリストに出会うことになりました。今年、みなさんが信仰の面で何か動き出したなら、きっと復活したキリストに出会い、信者であることはすばらしいのだとあらためて気付くことができるでしょう。

一つだけ、ヒントをあげましょう。みなさんの誕生日に、神さまがいちばん喜ぶことをする。そう考えてみてください。私たちはみな、神さまに誕生日をいただきました。神さまが私に命を預けてくださったのですから、一年に一度のこの大切な日に、神さまがいちばん喜びそうなことを実行してみるのです。

動き出せば、何かが変わる。先に何も変わらないと決めてしまっては何も起こりません。とにかく動き出すことで、マグダラのマリアや弟子たちのように復活の主に私たちは出会うことができるのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼主の復活おめでとうございます。今年は洗礼式を伴う徹夜祭でしたので、本当にお祝いといった感じでした。けれども浮かれてばかりもいられないニュースも入ってきました。五島のF教会では8名の方が洗礼を受け、長崎本土のN教会では16名の方が洗礼を受けたということです。
▼洗礼式を伴う復活徹夜祭は、夜の9時から開始してたっぷり1時間45分かかりました。洗礼をお受けになる方は、この長い長い典礼の中に沈められ、そして取り上げられ、そうしてみなさんの仲間入りをしたのかも知れません。長かったなあ。
▼今年の典礼を振り返りながら、あらためて典礼学を教えてくださったL教授の言葉がよみがえりました。「典礼は、どれだけ準備をしてもその通りにならない。それが典礼というものです」。
▼うーん。当たってます。あれだけ準備したのに、そこを間違える。確認したのに本番では道具が出ていない。タイミングを確認したのに、主任神父がそのタイミングを忘れていた。でもそんなドジばっかりの教会にも、主は復活しておいでくださいます。あらためて、「主のご復活おめでとうございます」。

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こうじ神父絵手紙
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第21回目。こんな感じで聖金曜日には十字架の道行きをしました(写真)。

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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
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復活徹夜祭(マルコ16:1-7)光を信じ、光に向かって歩もう

2006-04-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/04/15(No.234)
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復活徹夜祭
(マルコ16:1-7)
光を信じ、光に向かって歩もう
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主のご復活、おめでとうございます。今日、一人の方が洗礼と堅信の秘跡をお受けになり、私たちの教会に新しい家族が加わります。たいへん明るい話題です。明るい話題と言いましたが、明るさはどこから来るのでしょうか。それは、光のおかげです。この教会に一筋の光が差したような明るい話題です。そこで、今年の復活徹夜祭の説教として、喜びの源である光について話したいと思います。

今日のミサは、復活を喜ぶ特別な儀式を伴って始まりました。公の礼拝のための儀式を典礼と言いますが、今日のミサの典礼の始まりに、電気を消した中でキリストの復活のシンボルである光をともす儀式を行いました。本来、今日ここにお集まりのすべての人にとって、喜びの源はイエス・キリストの復活です。そのキリストの復活が、暗闇を照らす光として私たちに示されたのです。

私たちはどれほど光の恩恵を受けていることでしょう。私たちがふだん目にしているものは、光のおかげで景色として見えています。青い空、青い海、山の深い緑、目を楽しませるたくさんの花、これらはすべて、光のおかげで私たちの目に景色として映っているのです。光がなければ、私たちはいっさいの色を目で見ることはできないのです。

この、暮らしの中で誰もが経験していることが、信仰の中でも当てはまるのだと、今日のミサの始まりで行った光の祭儀は教えてくれます。私たちの暮らしに光が欠かせないように、光であるキリストは私たちが神を知り、信じるために欠かせないのです。私たちは光を通して毎日の生活を楽しんでいますが、神を信じる信仰にも、キリストという光がなくてはならないのです。

また、今日の光の典礼に、私たちはローソクを使いました。キリストの復活とローソクに必然的なつながりはありませんが、ローソクの自然な光とキリストの復活とは十分関わりがあると思います。自然な光の特徴は何でしょうか。それは、明るさを届けるだけではなく、暖かさも届けるということです。

自然な光が家の中に届くと、家の中は明るくなります。それだけではなく、柔らかい暖かな日差しは、家の中を暖かくします。家の中だけではありません。家に住むすべての人をも、暖かく包んでくれるのです。

今日の復活の祝いにローソクの光をともしました。ローソクの光も自然な光です。明るさを届けるだけではなく、暖かさも届けてくれます。そのように、復活したキリストは、神を信じて真剣に生きようとする私たちを明るく照らすだけではなく、私たちの心を温め、やさしく包む光として心の中に届くのです。復活したキリストは、まさにローソクの自然な光と同じく、私たちの心を照らすとともに、これからも温かく見守り、優しく包んでくださる方なのです。

ぜひ、今日のミサの一つひとつを、しっかり心に刻んでいただきたいと思います。自然な光に暗闇が照らされた。信仰の目でものを見るなら、キリストという光がなければこの世界は暗闇なのです。キリストこそが、信じる私たちの唯一の光です。

また、説教の後に続く洗礼式・堅信式の中で、洗礼を受ける方はもちろんですが、ここにお集まりのすべての方も、悪を退け、キリストへの信仰を新たにいたします。最後に、キリストを信じて生きていきますという固い約束を交わした後、聖体拝領をしてキリストの体を受けます。みなが同じ一つのパンを受けることで、私たちは信仰の仲間、神の家族となります。家族はお互いに助け合い、協力し合うものです。こうしてミサの一つひとつから、私たちはキリスト信者としての基本的な生き方を日曜日ごとに学んで帰るのです。

今年の復活祭、光であるキリストを心に留めてミサを続けていきましょう。私の心に光がなければ、私のすべては何も見えない暗闇です。光を受けたなら、光を失わないように、光であるキリストに向かって歩いていく信仰を保ち続けて歩きましょう。

これから、洗礼式と堅信式に移ります。


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ちょっとひとやすみ
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▼ミサをささげる司祭のそばで、手伝ってくれる人を「侍者(じしゃ)」と言うが、小学生の時はいつも問題なく来てくれていたのに、中学1年生になったとたんに来ることができなくなった。聖木曜日・聖金曜日の典礼は夜7時だというのに、どうしてくることができないのだろうか?
▼原因は2つあるかも知れない。一つは、中学生になって部活に拘束されているということ。6時半まで平気で部活をしているので、必ず来なさいと言うのも酷な気がする。もう一つは、中学生はお腹がすく。部活から帰ってすぐに食事をするとなると、おそらく教会での典礼のことは思い出せないに違いない。
▼原因はもう一つあるかも知れない。もう一つなのか、根本原因なのか分からないが、宗教的な配慮の重大さを家庭・家族がどう捉えているかだ。この三日間に関しては、6時までに家に帰してもらって、6時半までにご飯を食べ、7時に教会に送り届ける。ここまで配慮してあげるのが親の務めだと、保護者が固く心に決めていれば、結果は別なものになるのかも知れない。
▼日本中で、徹夜祭の中で洗礼式が行われる。大人の洗礼を受ける方の中には、子供を抱えた方もいらっしゃるに違いない。ぜひ、信仰が生活の底を流れる人になってほしい。信仰が生活の表面的なもの(人の目を気にするとか、優先順位は最下位であるとか)にならずに、まっすぐにキリストに向かって歩み続ける日々を送って欲しいと願う。

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こうじ神父絵手紙
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省略します。三日も四日も続けて絵を描けません。

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‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
‥‥‥†‥‥‥‥
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聖金曜日(ヨハネ18:1~19:42)死ななければならないイエスの思いに触れよう

2006-04-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/04/14(No.233)
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聖金曜日
(ヨハネ18:1~19:42)
死ななければならないイエスの思いに触れよう
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今日聖金曜日は、世界中でミサが行われない日です。ミサが成り立つためには、パンとぶどう酒がイエス・キリストの御体と御血に変化しなければなりません。「みな、これを取って食べなさい」「みな、これを受けて飲みなさい」この聖変化の言葉を唱える部分がなければ、ミサは成り立ちません。

今日、ここで行われている典礼の儀式の中で、聖変化の言葉は唱えません。つまり、今日の典礼ではミサは行われないのです。もう少し詳しく言うと、金曜日から、土曜日の日没までは、ミサを行ってはいけないことになっています。

このような決まりがあるのはなぜでしょうか。それは、ミサを行わないことで、意識してイエス・キリストのご死去をしのぶためです。キリストが亡くなられ、全世界が喪に服しているのです。世界中で、毎日途切れることなくミサのいけにえがささげられていますが、今日のこの一日だけは、すべての動きが止まるのです。

ここまでいっさいの動きを止めて今日ここに集まっているのですから、私たちはイエスがなぜこうまでして亡くならなければならなかったのかをしっかり考えることにしましょう。人間はそれぞれの寿命を全うすれば必ず死んでいきます。ですがイエスの死は、寿命を全うしたのではなく、死ななければならなかったので死んだのです。

では、なぜ死ななければならなかったのでしょうか。それは、すべての人に救いを届けるためでした。今年、一つの例を考えてみましょう。私たちは誰もが死を迎えますが、なかにはなぜこんなにも早く死ななければならなかったのか、なぜ見ず知らずの人が起こした事件の犠牲者にならなければならないのか、いろんな理由で出来事を受け入れられない場合があります。いろんな受け入れられない人間の最後を、神が受け止めて、報いてくださるために、イエスは今日こうして亡くなったのではないでしょうか。

私たちはみながみな、十分納得できる形で最後を迎えるわけではありません。この世に未練があったり、悔しさが残っていたり、無念さがあったりする人もいます。こんな方々は後の世に救ってくださる方がいなければ、この人生は何だったのだろうかと悲嘆に暮れることでしょう。いろんな事情を抱えてこの世を去る人は、イエス・キリストが自分の救いのために死んでくださらなかったら、この人生報われないということになってしまいます。

イエスは、当時の宗教指導者のねたみと憎しみのために死に追いやられました。けれどもイエスの死は、当時の人々のためだけではありませんでした。憎しみに駆られて人の命を奪ってしまう人はどの時代にもいます。その犠牲になる人も残念ですが出てきます。イエスの時代だけではない、すべての不条理な死を救ってあげるために、イエスはご自分の命を差し出されたのです。イエスの命によって、すべての人の死は報われることになったのです。

イエスは、不条理な死にも報いがあることを身をもって示してくださいました。もちろん今年は一つの例に当てはめて考えましたが、すべての人の最期に当てはまるわけではありません。私たちみなが考えるべきことは、イエスの死は復活への希望であるということです。みなが抱えている不安を、イエスはご自分の死と復活を通して希望に変えてくださるのです。

私たちはぼんやりとではあっても、死んだときにどうなるのだろうかという不安を抱えています。イエスはご自分の死と復活を通して、この不安を取り除いてくださいます。イエスに信頼を寄せる人は、イエスと同じように復活にあずかることになるのです。私たちはその最初の出来事、イエスが亡くなられたことを、今はただ静かに見守っています。

今日、イエスがお亡くなりになったことを見届けました。私たちは亡くなられたイエスが必ず復活すると信じています。この信仰を決して手放さないようにしましょう。イエスが死んで復活するなら、私はたとえ死んでも恐れることはありません。この固い信仰を今日の典礼のなかで新たにし、静かに復活までのひとときを待つことにいたしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖金曜日の典礼は午後3時頃に行うというのが理想だが、現実はそうも行かない。ほとんどが夜に行っていると思う。けれども、午後3時に十字架の道行きをしている教会はたくさんあるだろう。私たちの馬込教会もしかり。
▼十字架の道行きは、たいていの場合聖堂内で行うところが多いと思うが、私の知っているいくつかの教会には十字架の道行きのコースが教会の敷地内にあったり、広い土地を提供してもらって散策コースのように道行きの各留を設定している教会もある。
▼馬込教会はそんな立派なものはないけれども、試みに教会の地域をコースに見立てて十字架の道行きを行ってみた。一定の間隔で家庭の前に十字架とローソクを準備してもらい、それを道行きの各留に見立てて教会まで上がっていく。聖堂内でも道行きの後半部分を唱えて聖堂内で道行きが終了した。
▼階段の上り下りもあることだし、どれくらいの参加が見込まれるか見当もつかなかったが、開始時間に開始場所に行ってみると、ちょっとオーバーかも知れないが黒山の人だかりになっていた。こんなにたくさんの人が理解と協力を示してくれて、参加してくれるのかと思うと胸が熱くなった。

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こうじ神父絵手紙
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省略します。三日も四日も続けて絵を描けません。

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‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1~19:42)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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聖木曜日(ヨハネ13:1-15)聖体の制定は司祭職の制定でもあります

2006-04-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/04/13(No.232)
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聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
聖体の制定は司祭職の制定でもあります
‥‥‥†‥‥‥‥

今年の聖木曜日は、司祭職の制定について話したいと思います。聖体の秘跡を定められた最後の晩さんの出来事は、同時に司祭職を制定された日でもあります。司祭職と言いましたが、司祭職の中には三つの務めが含まれています。それは、「祭司職」「王職」「預言職」の三つです。

「祭司職」は礼拝を執り行う職務、「王職」は民を治め、平和に導く職務、「預言職」は神の民を教え導き、神の言葉を告げ知らせる職務です。信徒にも実は礼拝を司り(祭司職)、治め保ち(王職)、神の言葉を告げる職務(預言職)がありますが、司祭にはそれがさらにはっきりと与えられているのです。

司祭に委ねられている三つの職務を考える前に、まず「司祭」と「祭司」という言葉について使い方をはっきりさせましょう。「司祭」とは、信徒のみなさんと区別するときの言葉遣いです。「主任司祭」と言いますが、「主任祭司」とは言いません。信者から選ばれて、叙階の秘跡を受けて聖職者となった方々を「司祭」と呼びます。まずはこの点を確認して、三つの職務について考えてみましょう。

はじめに「祭司職」についてです。祭司は礼拝を司る人、礼拝を取り仕切る人のことです。祭司の務めは旧約聖書の時代は「レビ人」という一部族が担っていました。私たちの時代、祭司の務め「祭司職」は、ある礼拝の中では司祭でなく信徒が務めを果たすことがあります。例えば、十字架の道行きは、信徒の人でも礼拝を司ることができます。この場合、祭司職を果たしているのは信徒の人です。

もちろん司祭に委ねられた祭司職と信徒に委ねられた祭司職には違いがあります。礼拝を司ると言っても、信徒がミサを司ることはできません。今日の典礼は、聖体の秘跡に感謝すると同時に聖体の秘跡を取り扱う司祭の祭司職にも感謝する日なのです。

次に、司祭には民を治め、平和に導く「王職」が委ねられています。教会全体が神の導きに従って平和な社会を保つために、司祭は教会の民を治め保つ務めがあるのです。教会の中に争いがあり、平和が失われていれば、主任司祭は王職を全うしていないことになります。

最後に、司祭は神の言葉を告げ知らせる預言職を忠実に果たします。ミサの中での説教は預言職の分かりやすい例です。福音書を読み、ミサの中で説教するのは信徒ではなく司祭です。司祭は日曜日ごとの説教を通して、よく教え導かなければなりません。自慢話ばかりしていたり、分かりやすく教えることを怠ったり、信徒のやる気を萎えさせたりする司祭は、預言職を果たしていないのです。

祭司職・王職・預言職を適切に果たしているか、今日の聖木曜日を迎えるたびによく自分自身を振り返りたいと思います。司祭が果たす礼拝の務め(祭司職)を見て、信徒は生活の中に自分なりの礼拝の務め(祭司職)を果たすのですから、司祭がどのような姿を見せるかは大変重要な問題です。

同じように、教会の中に平和を保ち、神の望みに従って歩む姿を先頭に立って示さなければ、信徒も家庭の中で王の導きに家庭を委ねる(王職)ことができませんし、神の言葉を忠実に告げ知らせる司祭を見て、信徒も神の言葉をより多くの人に届けることになります。

一つひとつが、司祭の祭司職・王職・預言職にかかっているとも言えることを肝に銘じて、委ねられた使命を忠実に果たしていけるよう、このミサの中で照らしと導きを願いたいと思います。ここにお集まりのみなさんも、すべての司祭が忠実に職務を全うすることができるように、あわせてお祈りください。


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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼メルマガの号数は、あらかじめ一年間を通して番号を振っているのだが、聖木曜日の説教を書いていざ配信しようとしたところ、聖木曜日・聖金曜日・聖土曜日の分については番号が割り振られていなかった。
▼ということは、メルマガを配信していなかったのだろうかと思って去年の分を見てみると、ちゃんと番号が振られている。一瞬「メルマガ出さなくても良かったのに、準備し始めて損した」と思ったのだが、去年に倣って発行する方向で微調整。
▼年間を通して振り分けたメルマガの通し番号も、これから修正しなければならない。無料メルマガの分(4紙)、有料メルマガの分(1紙)、ブログの記述などはHTMLの記述なのでさらにややこしい。音声ファイルを動かすメモも修正が必要だ。
▼ちょっとずれると全部修正するというのは、昔のワープロでよくやっていたことだが、パソコンに移行してからもこのような繁雑な作業に付き合わされることになるとは思いもしなかった。今週は多くの方々には洗礼の恵みや復活祭の喜びといった恵み深い一週間であるが、舞台裏の裏方である司祭にとっては過酷な一週間となりそうだ。

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こうじ神父絵手紙
‥‥‥†‥‥‥

省略します。三日も四日も続けて絵を描けません。

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‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1~19:42)
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受難の主日(マルコ15:1-39)天に属するものを与える方が神です

2006-04-09 | Weblog
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週のお説教」
06/04/09(No.231)
‥‥‥†‥‥‥‥
受難の主日
(マルコ15:1-39)
天に属するものを与える方が神です
‥‥‥†‥‥‥‥

今日私たちは、主のエルサレム入りをミサの始めに取り入れました。人々の期待の中でエルサレムに入ったのに、福音朗読の中ではイエスは不正な裁判にかけられ、十字架の上で息を引き取りました。

今日のミサの典礼は、いわば今週一週間をまとめて体験するための日曜日です。というのは、馬込教会で午後7時に行われる聖木曜日・聖金曜日の典礼に、すべての人が参加するのは難しいからです。

すべての人が参加してほしいですが、日曜日ではないために参加できない人も出て来ます。そこで、今日の日曜日に前もって、この一週間のまとめとなるエルサレム入りから十字架上での最後の場面までを典礼に盛り込んでいるのです。

この一連の出来事の中から、私たちもぜひ百人隊長が今日の福音朗読の最後に残した「本当に、この人は神の子だった」という言葉を確認して新たな一週間に入っていくことにしましょう。私たちからは、今日の出来事のどこを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言えるのでしょうか。

今日の朗読からはっきり分かることが一つあります。この最後の最後の場面に、イエスは自分のために何の奇跡も行わなかったということです。何らこれといったこともお話になりませんし、二度までも「十字架から降りてこい」と言われながらも、ひとことも反論しなかったのです。

もしかすると、これが今週の朗読からイエス・キリストを知るための大切な鍵なのかも知れません。逆説的なのですが、イエスがこの世のものを何もお与えにならなかったことでご自分がこの世に属している者ではないこと、天に属している者であり、神の子であることを証明しているのではないでしょうか。

人々はしきりにイエスからこの世に属するものを引き出そうとしています。「お前がユダヤ人の王なのか。」イエスは何もお答えになりませんでした。「十字架から降りて自分を救ってみろ。」イエスは決して降りようとなさいませんでした。

何ら、この世に属している人間の要求に応えませんでした。確かにこの事実からイエスはこの世に属していないと言えるかも知れません。ですがそれだけではイエスが天に属しているということの証明にはなりません。

イエスは天に属する者として天からのものをお与えになるのでしょうか。天からのものを与えてくださる方こそ、天に属する者です。私たちはイエスの何を見て、今日百人隊長と一緒に「本当に、この人は神の子だった。」と信仰告白することができるでしょうか。

これまでイエスがこの世に属するものを何一つ与えてくれなかったことを確かめましたが、反対に、一つだけ与えてくださったこともはっきりしています。イエスは、ご自分の命を私たちに与えてくださったということです。大声を出して息を引き取られた。その時イエスは、ご自分の命を私たちに与えてくださったのです。

たった一つ与えてくださったもの。イエスご自身の命はどこから来たものでしょうか。それは、天からの命です。神が人間に与えてくださった、天に属する命です。神がご自分の独り子を通して、神の命を与えてくださいました。命を与えるためには死ななければなりません。そのため神は人となり、十字架にかかって、神の命を人類に与えてくださったのです。

今日私たちは、この世に属するものを何も与えず、ただ一つご自分の命をお与えくださったイエスを確かめて帰りましょう。神の命を与えることで神であることを証明してくださった十字架上のイエス・キリストを心に抱いて、復活へと過ぎ越していく今週一週間を歩き始めることにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖週間を迎えるに当たり、心の面で準備になる経験ができた。平戸ザビエル記念教会で「ザビエル生誕記念ミサ」にあずかったこと。朝の9時半に伊王島を出発して、昼の2時頃に平戸に到着。
▼平戸は確かにフランシスコ・ザビエルが宣教に訪れた場所。この平戸で宣教に命をかけたイエズス会士を思い出し、感謝をささげた。こんかいは「よきおとずれ」の取材だったのでミサをささげなかったが、ミサにあずかったという滅多にない体験になった。
▼始めは一人で出かける予定だったため、平戸までの100キロの道をバイクで行こうと思ったのだが、婦人会の方が2名一緒に行きたいということになり、バイクはいっさい乗らずに巡礼することになった。車中での会話もかなり面白かったが、ココでは割愛。
▼あとで考えると、平戸までバイクで行くなんて自殺行為である。大型バイクで行くならまだしも、小型で行けば帰ってきたときにはもう説教の準備どころではなかっただろう。せめて車の場所までバイクで行きたかったが、同伴の方がいるのでそれも遠慮した。正解だったと思う。

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こうじ神父絵手紙
‥‥‥†‥‥‥
第20回目。平戸ザビエル教会と平戸大橋に見えてください。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)この世に死ぬことがなければ、永遠の命もありません

2006-04-02 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/04/02(No.230)
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四旬節第5主日
(ヨハネ12:20-33)
この世に死ぬことがなければ、永遠の命もありません
‥‥‥†‥‥‥‥

複雑に絡み合っているものを解きほぐすことは、なかなか根気のいるものです。中田神父のふるさとで、糸が絡んでどうにもならなくなった状態を「もとぐれる」と言っていましたが、たとえば荷造り紐がもとぐれると、どちらから引っ張っても出てこない状態になってしまいます。辛抱の足りない人はあきらめて捨ててしまうか、適当にハサミで切ってつないで使うかも知れません。

ところが、どうしても辛抱して絡んだ糸をほどいて使わないといけないこともあります。たとえばそれは釣りをしているときです。リールの糸が絡まったり、手釣りの糸が絡んだりしたときに、ほかに代わるものがなければあきらめるわけにはいきません。また、我慢が足りずに糸を切ってつないでしまうと、釣りの経験者はご存知の通り、その場はしのぐことができるかも知れませんが、あとではいつもそこで絡んでしまうことになって結局使い物にならないのです。

釣りでは、絡んだ糸はどんなに気の短い人でも辛抱して糸のもつれを解くのが遠回りのようで実はいちばん確実な道です。釣りの話をしていたらだんだん釣りに行きたくなりました。そろそろ天気も良くなってくるので、魚も待っているかも知れませんね。

さて、辛抱強く糸のもつれを解きほぐすということですが、この作業を何度か経験したことのある人は分かると思いますが、糸のもつれは一度にたくさん解くことはできません。気の遠くなるような作業ですが、一つずつ進めていくものです。そして、最初のうちの苦労は、そのあとのもつれを解くときにすべて役に立って、次々と前に進んでいくことができます。

実はこのもつれた糸を解く作業は、今週の朗読でイエスが語った次の言葉を考えるのに大変役に立つと思います。イエスの次の言葉です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(12章24-25節)。

まずこのイエスの言葉を解きほぐしてみましょう。きっと、この努力がその先の神秘を解き明かしてくれます。さらにそのまた次の神秘へと私たちを準備してくれるでしょう。イエスが言われた「一粒の麦」のたとえでは、麦の一粒が死ななければ実りはやって来ないことをはっきり教えています。麦の粒は、そのままでも生きている種です。ということは、そのままであれば今の目の前の命に生きていることになります。

しかし、実りを得るためには死ななければなりません。今の命のままではいけないのです。今の命に死んで、次の命に移り変わっていく必要があるのです。もし今の命に執着すれば、何も新しいものは生まれません。けれどもその麦の一粒が死んで、次の世界の命に目を向ければすばらしい実りを得るのです。

私たちは、出来事そのものはいつでも見ることができます。野菜の種を畑にまいた経験は誰にでもあることでしょう。中田神父にだって、野菜ではありませんがアサガオの種をまいて、そこから蔓が伸び、またきれいなアサガオを楽しむことができることくらいは知っています。アサガオの種が、目の前の命を投げ出して次の世界の命にかけてみたとき、初めてすばらしい体験ができるわけです。

一粒の麦についてここまで十分に考えました。そしてこのたとえ話の豊かさが解き明かされました。この努力はイエスが示すその先の出来事につながっていきます。一粒の麦とは、単に穀物のことだけに終わりません。イエスはご自身を、一粒の麦としてたとえておられるのです。イエスはご自分がこの世の命に死ななければならないことを、一粒の麦にたとえて話されたのです。

イエスはご自分の心の動きを素直に表してくださいました。「今、わたしは心騒ぐ」(27節)。問題は穀物の種から確かにイエスご自身に移っています。ご自身の置かれている困難な場面を解きほぐす必要があります。解きほぐさずに、「わたしをこの時から救ってください」と言いたくなります。

けれどもイエスはご自分でこの複雑に絡み合ったもつれを解いて、今この世の命に死んで、天の国の命、復活の命によって多くの実を結ぶ決意をなさいました。そして天から声が聞こえます。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」(28節)。イエスはご自分の運命に関わる複雑な糸のもつれを解いて、この世の執着を捨てて後の世の命に自分を委ねるという答えを示してくださったのです。

イエスが解いてくださった糸のもつれは、私たちが抱えている問題の解決に導いてくださいます。一粒の麦の謎を解き、イエスがなぜ死ななければならないかを考えたことで、私たち自身の問題にも絡んだ糸を解きほぐす力が与えられました。私たちの頭から離れない問題、複雑に絡んでいて解けないと思っている問題は何でしょうか。

おそらくそれは、「信仰を続けても何になるのか」ということではないでしょうか。ある人は教会に足を運ぶことをすっかり放棄してしまいました。教会では会いませんが、ターミナルではしょっちゅう会うという人がいるかも知れません。ちなみに中田神父は、教会に来るべき人で明らかに教会をお休みしている人とターミナルで会うと、こちらのほうがいたたまれなく、胸が痛くなります。はたして、相手の人に届いているのでしょうか。

それはいったん横に置いて、「信仰しても何になるのか」ということに答えを見つけ出しましょう。私たちは自分で決めれば、食べて体を休める時間以外はすべて自分のために使うことができると思います。深夜まで時間を作ることもできるかも知れません。ある人にとっては、それがいちばん充実した生活だと思っていることでしょう。

ところが、私の過ごしている時間に本当の意味と価値を与えるのは私でしょうか?私が有意義に過ごしさえすれば、手に入れた時間の価値を最高に高めることができるのでしょうか。私は違うと思います。私に与えられた時間に意味と価値を与えるのは、私に生きる時間を与えてくださった神なのです。

そして、神が私に与えてくださった時間を価値あるものにする具体的な方法は、言うまでもなく神に感謝と賛美をささげることではないでしょうか。自分のためでなく、神さまのために使うこの礼拝の時間が、私の活動時間に意味と価値を与えます。それはつまり、私が与えられている時間のうち、いくらかの時間は死ななければならないということです。自分のためにいっさい使わず、この礼拝のために時間を放棄する。そうして初めて、新しい時間に本当の価値を与えるのです。

私は、与えられた時間のうち、いくらかの時間あたかも死んだかのように、神さまのために時間を放棄しているでしょうか。朝夕の祈りと、ミサの時間は、ある意味で私が今日神さまのために死ぬ時間です。そうして神さまのために今をささげる時、まことの命を私たちは確実に手に入れることになるのです。


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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼伊王島には「遠見山」という見晴らしのよい山がある。けれども地元の人にとっては「十字架山」と呼ぶほうがよく知られている。この2年間、興味はあったが一度も訪ねたことがなかったのだが、きっかけを得て現地を見に行った
▼伊王島にもこんな高い場所があったのかと思うが、長崎本土の「稲佐山」とほとんど変わらない高さにその場所があった。畳8畳ほどのスペースだろうか。今では古びてしまった柱が一本、その場所に立てられていた。
▼「これは十字架の縦の木です」同伴した信徒がそう言った。日蘭友好400周年を記念して、この場所に信仰のしるしを立てたのだという。そして今年、馬込教会の信徒は立ち上がってもう一度十字架を立てることにした。
▼今回は長くこの場所を守るつもりがあるのだろう。鉄製の相当高さのある十字架を作って海岸で組み立てをしていた。もう一度ばらして現地に運び、あらためて「十字架山」として整備するのだという。今年は信徒を引っ張っていくのではなく、どうやら信徒に引っ張られていくのかも知れない。

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こうじ神父絵手紙
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第19回目。十字架山に担ぐ十字架を撮影してみました。絵じゃなくてスマン。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(マルコ15:1-39)
‥‥‥†‥‥‥‥
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