こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第3主日(ルカ13:1-9)いちじくの木に協力しない大地をかばう園丁

2016-02-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/02/28(No.814)
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四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
いちじくの木に協力しない大地をかばう園丁
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厳しかった冬の山場もようやく峠を越えた感じがします。今週四旬節第3主日は、2つの部分から成り立っていますが、後半の「『実のならないいちじくの木』のたとえ」について考えてみたいと思います。

黙想会、本当にご苦労様でした。参加した方々の中には、20日と21日の信徒発見劇で踏み絵を踏んでいた浦上キリシタンのように、「あーこれで一年の務めを果たした」そんな気持ちになっている人もいるかもしれません。その人たちも含めて、黙想会を通して生活の中で信仰に土台を置いて生きる必要性を確認し、再出発できたなら幸いです。

ところで信徒発見劇の観劇のために用意したバスでは、いろいろハプニングがあったと聞きました。中には夜6時半から劇が始まるのに、夜6時半に出発するのだと勘違いしていた人がいたり、整理券を家に置いてきたままバスに乗ろうとしたりした人がいたと聞いております。

ついでですが、貸し切りバスはかなりの費用が必要です。今回バス利用者があまりいなかったので効率の悪い貸し切りとなりました。場合によっては、バスを借りるのではなく、タクシーで乗り合わせて、あとでかかった費用を払い戻したほうが安くつくかもしれないと思いました。

話変わって、浜串教会の聖櫃ですが、本当に心配しております。聖櫃のために寄付してくださった方も気を揉んでおられるに違いありません。何とか御復活までにはと思っていましたが、現時点で御復活までに必ず新しい聖櫃が届くという保証はありません。大変心配しております。

さて「実のならないいちじくの木」ですが、黙想会で話したことと結びつけて考えてみたいと思います。ぶどう園の主人が、いちじくの木を植えておき、実を探しに来ました。しかし実は見つかりません。この状況に、神さまの救いの御計画を重ねてみました。

ぶどう園の主人を父なる神ととらえるのは問題ないと思いますが、御独り子イエス・キリストはどこで表されているかがカギになります。園丁ととらえるのが通常だと思います。いちじくの木は人間であり、3年間ありったけの努力をする園丁のとりなしにもかかわらず、いちじくの木は今にも切り倒されようとしています。

わたしは、今回違った考え方でとらえてみました。いちじくの木も園丁も、イエス・キリストを表していると考えたいのです。ぶどう園の主人に例えられる父なる神が、地上に御独り子イエス・キリストを植えてくださいました。しかし大地はいちじくの木に実をつけさせる協力を拒み、実をつけさせてくれないのです。

大地がいちじくの木を拒むので、園丁は木の周りを掘って、肥やしをやってみます。これは、イエス・キリストを拒む人類に代わって、イエス・キリスト自身が実をつけるためのあらゆる手を尽くしていると考えてみたのです。人間がどれだけイエスを拒もうとも、イエスは人間を救うためにできるすべてのことを尽くそうとします。

この部分は、黙想会の最初の講話で「蜘蛛の糸」という小説を引き合いに出したところを思い出してくださればと思います。わたしたちの信仰の理解では、小説の「蜘蛛の糸」とはイエス・キリストであり、神は差し出した救いの唯一の糸であるイエス・キリストを決して切ることはないという部分に重なってきます。

「来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」(13・9)イエスは最終的には切り倒されていけにえになる十字架の木なのです。そのことを、園丁といちじくの木の両方を合わせることで表すことができると思いました。

イエス・キリストといういちじくの木を父なる神が地上に植えてくださいましたが、人類を表す大地はいちじくの木に協力せず、実をつけさせてくれませんでした。

それでも神さまの側から木の周りを掘って、肥やしをやってみて、実をつけるあらゆる努力を試みます。それでも大地は神の努力に答えようとしないので、最後はいちじくの木は切り倒されてしまいます。神はわたしたち人間が実をつけるために、実をつけるいちじくの木であるイエス・キリストを植えて、わたしたちの協力を待ったのですが、それも無駄に終わりました。

そこで神は、みずから植えたイエス・キリストを切り倒して人類の忘恩をイエス・キリストによって償いとしてささげさせたのです。神の愛は、人間が実をつける手段として与えてもらったイエス・キリストを拒んでもなお、人類への愛を諦めなかったのです。どんなに愛深いお方なのでしょうか。

わたしたちが神の期待に応え、いつもいちじくの木であるイエス・キリストに協力して実を結ばせるなら、父である神の心配はなくなるはずですが、わたしたちは神様の期待に十分応えられないのです。十字架の神秘は、とうとうわたしたち人間が神さまの愛に応えられず、神さま自身が命をささげた神秘です。神の愛に感謝することしか、わたしたちにできることはないのだと思います。

黙想会を通して、また今週の福音朗読を通して、神の愛がどこまでもわたしたち弱い人間を覆っていることを考えました。わたしたちは弱いながらも、神さまに繋がってこれからも日々を生きていきましょう。

いちじくの木に、十分実をつけさせるほどの力はないにしても、せめていちじくの木に繋がる大地であり続けましょう。神が人間の大地に植えてくださったイエス・キリストは、わたしたちの弱さをよくご存知で、ぶどう園の園丁のように、今も、いつも、父である神にとりなしてくださいます。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ルカ15:1-3,11-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会を終えて一安心。6年間この小教区に赴任し、思うところもあるので黙想会は自分にとっても話す良い機会となった。黙想会を受ける多くの人に、「黙想会は新たな出発をするきっかけです。しっかりあずかりましょう」と促した。「エクゾドス」「出発」の良い機会となればと思っている。
▼黙想会中は午後の時間が空いている。だから心置きなく釣りに出かけようと早くから計画していた。黙想会の原稿を準備し始めた頃からずっと、「昼の時間には毎日魚を釣って、刺身を食べるぞ」と思っていたのだが、実際には精も根も尽き果て、昼間はずっと昼寝していた。布団に潜り込みながら、「こんなはずではないのに・・・」と思いつつ。
▼話すという作業は、意外に体力を使うもので、ささっと話を終えて釣りに・・・と思っていても体は正直である。「無理だよ。夜の部の体力を温存しないと、浜串→福見→高井旅の連続黙想会はもたないよ」とブレーキがかかるのである。50を目前に、体の声には逆らえなくなってきたことを実感した。
▼信徒発見劇上五島公演に出演させてもらい、多くの方から声をかけてもらうようになった。中にはわたしの知らない人からも、「与作は神父様が演じていたんですね。とても素晴らしい演技でしたよ」とお褒めの言葉をいただいた。大変ありがたいことである。
▼演技に大切なことは、「その役柄に入り込むこと」だと思う。演技がうまい下手だというのは二の次で、その人柄に入り込めば、観ている人は「その登場人物はこんな人柄なのだろう」と皆が受け止めてくれる。わたしはその意味では役に入り込めたのでひとまず成功だろう。
▼ただ悔しいことに、練習で一度も失敗しなかったのに、本番初日のセリフは間違ってしまった。「フランス寺(大浦天主堂)見物に行った人たちの間では、もっぱらの評判でござります」と言うべきところを、「長崎見物に行った人たちの間では、もっぱらの評判でござります」と言ってしまった。痛恨の極みである。

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新企画今週の1枚
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第421回目。的鯛とカサゴを釣ったので、煮つけとみそ汁を作った。80点の出来。

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四旬節第2主日(ルカ9:28b-36)イエスの「エクソドス」「出発」について行く

2016-02-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/02/21(No.813)
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四旬節第2主日(ルカ9:28b-36)イエスの「エクソドス」「出発」について行く
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「『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。」(9・35-36)声が聞こえて、イエスだけがおられたのは弟子たちへの合図です。合図を見逃さないようにして、今週の学びを得たいと思います。

今週は珍しく三つすべての教会の主日のミサを日曜日に果たしました。いつも土曜日に前晩のミサとして主日のミサにあずかっている高井旅の皆さんには、日曜日に受けるミサは新鮮だったかもしれません。

すでに信徒発見劇をご覧になったと思いますが、わたしが劇のどの辺で登場したか、お分かりになったでしょうか?「旦那様」「いえ、旦那様」「お許しください、旦那様」「へい、旦那様」圧倒的な演技力に、皆さん大喜びだったことだと思います。

ところで次回予定されている4月9日(土)10日(日)の長崎ブリックホール公演にもぜひという声があるのですが、辞退させてもらいます。桐出身の与作という役柄ですから、長崎公演では桐の神父様が出演なさるのが理想的だと思うのですが、いかがでしょうか。

福音朗読に戻りましょう。イエスの姿が変わる場面が朗読されました。そこにはイエスと、ほかにモーセとエリヤとがイエスのエルサレムで遂げようとしていた最期について語り合っていたとあります。日本語で「最期」と訳されているギリシャ語は「エクソドス」という単語で、英語でもそのまま「エクソダス」と訳しています。

この単語ですぐお気づきかと思いますが、「出エジプト記」という旧約の書物が「エクソドス」と呼ばれます。そうすると今回は「最期」と訳されていますが、出エジプト記からも容易に連想できますが、もともとは「(エジプトの隷属状態からの)脱出」「出発」という意味です。

そこで今回は、「イエスの最期について話していた」という部分を、「イエスのエクソドスについて話していた」と理解して学びを得たいと思っています。つまり、「イエスがエルサレムで遂げようとしている『出発』について話していた」言葉のもともとの意味で学びを得たいのです。

すると、イエスがエルサレムで遂げようとしていることの意味ももっとダイナミックな印象に変わります。イエスが遂げようとしていた最期についてという理解であれば、そこですべてが止まってしまうような印象になります。

一方の「イエスが遂げようとしておられる出発について話していた」と読むと、イエスがエルサレムで成し遂げようとしているのはより良い方向への出発なのです。イエスがエルサレムで成し遂げることとはもちろん十字架上での出来事ですが、それは死んで終わりというようなものではなく、十字架上の死によって、復活という栄光へ向かう出発が始まるのです。

このダイナミックな動きを、わたしは今回の信徒発見劇を通して学ぶことができました。杉本ゆりは大浦に天主堂が建ち、そこに司祭がいるに違いないという胸の高鳴りを覚え、やむにやまれず訪ねて行ってプチジャン神父と感動的な出会いをしました。

浦上のキリシタンたちは、本当は誰もが大浦の天主堂に待ち焦がれた司祭がいるのではないかと思っていたのですが、命を危険にさらしてまで訪ねていく勇気がどうしても出てこなかったのです。

そんな中、杉本ゆりと仲間たちは、今週の福音朗読にある「エクソドス」を実行したのでした。それは、役人に見つかって命を落とすという「最期」を迎えるかもしれない危険を冒してでも、信仰をひた隠しにして生きる現状から、よりよい未来に向かっての「出発」だったのです。

杉本ゆりが、「エクソドス」「出発」を実行に移さなかったら、浦上キリシタンたちとプチジャン神父との出会いはさらに何年もあとに延びていたかもしれません。ここには大きな教訓があると思うのです。つまり、人はある場面では「エクソドス」「出発」を決意することでよりよい状態に移ることができるということです。

今の状態を維持することも、一つの生き方でしょう。信仰をひた隠しにしてきた人の中には、浦上キリシタンが150年前に司祭に出会った後も、自分たちの様式に従って信仰を守り続け、隠れキリシタンとして生きています。ある場面で「エクソドス」「出発」を経験する人たちと経験できなかった人たちとでは、その後に大きな違いが生じたわけです。

イエスは、御自分がエルサレムで遂げようとしておられる「エクソドス」「出発」について弟子たちに予告し、御父はその予告の後に「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(9・35)と呼びかけます。弟子たちにもイエスに聞き従い、イエスと同じ「エクソドス」「出発」を体験するように招いているのです。

同じことはわたしたちにも向けられています。築き上げた生活や安定しいた待遇、それらが心地よくなった時、わたしたちには誘惑が忍び寄ってきているのです。ここまで成し遂げてきた。今のわたしならこの石にパンになるように命じてもそうなるかもしれない。望むだけの権力と繁栄が手に入るかもしれない。高いところから飛び降りても怪我などしないかもしれない。ここまでわたしが築き上げてきたものは、誘惑になりうるのです。

そこでイエスはご自分の「エクソドス」「出発」を示して、御自分に聞き従うように招きます。今まで築き上げたもののうちから、何かを困っている人のために手放したり、自分よりも経験の浅い人に上に立つ仕事を任せ、自分は支える側に回ったり、何かの形で「エクソドス」「出発」を求められているのです。

これまで築き上げたものに安住せず、今一度両手を空にしてイエスの「エクソドス」「出発」に聞き従う。ここにわたしたちの信仰の成長があるのだと思います。わたしも含め、すべてのキリスト者がイエスの求めに聞き従って、救いの道を歩き続けるのです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼「母と暮らせば」という映画を観た。長崎で原爆に遭った人々と、長崎の原爆で運命が変わった人々のドラマが取り扱われていたと受け止めた。主人公とその母親がほとんどの場面を構成していたが、映画が終わって疑問が残った。
▼「母と暮らせば、どうなるというのだろう?」この疑問が解決しないで映画館を出てきた。「母と暮らせば、母の悲しみを少しでもいやすことができる」ということなのだろうか。「母と暮らせば、母の考えがより深く理解できるようになった」ということなのだろうか。よく分からなかった。
▼映画のタイトルと映画がうまく重なると、「あー、だからこの映画のタイトルだったのか」と合点がいく。しかし今回の映画はそういうすっきりした答えが得られずに帰ってきた。わたしの頭が悪いのだとつくづく思った。
▼実はわたしも「こうじ」という名前である。映画の間、ずっと主演女優の吉永小百合さんが「こうじ」「こうちゃん」と言っていたのでくすぐったかったが、それにしても母と暮らせば何があるのか、よく分からなかった。
▼ここ6年ほど、母親と同じ上五島に住んだ。それは言ってみれば「母と暮らせば」という場面設定である。母と暮らせば、何が見えるのだろうか。何を感じることができるのだろうか。わたしがこの6年で感じたことと言えば、「わたしはこの母の子なのだなぁ」ということくらいだ。
▼今週は大変忙しい週になる。20日(土)と21日(日)が上五島石油備蓄記念会館で演劇、21日(日)夜から25日(木)までの黙想会。演技は全力でこなし、黙想会の指導は体をいたわりながらすることにしよう。

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新企画今週の1枚
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第420回目。映画のチケットの半分。今回はクーポンの利用で1200円で鑑賞した

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四旬節第1主日(ルカ4:1-13)イエスに信頼する人に悪魔の誘惑は何もできない

2016-02-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/02/14(No.812)
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四旬節第1主日
(ルカ4:1-13)
イエスに信頼する人に悪魔の誘惑は何もできない
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「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」(4・1-2)誘惑を受けるイエスの置かれている状況がここに描かれています。「聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった」イエスが「悪魔から誘惑を受けられた」この点について考えてみたいと思います。

10日(水)は四旬節が始まる「灰の水曜日」でした。浜串教会で灰の式を行い、小学生も来てくれました。朝のミサでしたが、ふだんの水曜日に朝のミサに変更しても侍者の子供しか来ないのですが、灰の水曜日には侍者以外の小学生も来ていました。家族の理解と、本人の努力が伝わってきました。

11日(木)建国記念日でしたが、前の週4日(木)に福見の小学生のミサで予告した通り、夕方のミサで灰の式をしました。小学生が1人来ていまして、おー感心感心と褒めました。この子供たちにも、灰の水曜日の習慣が長く長く記憶されたらいいなぁと願うばかりです。

イエスは宣教活動に入る前に、荒れ野での体験を通られました。イエスが荒れ野に入られたのは「聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった」状態でのことでした。悪魔からのどのような誘惑があるにせよ、イエスはたった一人なのではなく、父なる神と共にいて、聖霊に満ち満ちた状態で誘惑と向き合うことができました。

ですからイエスの荒れ野での体験は、わたしたちの教育という面もある出来事です。試みに遭う時どのように向き合ったらよいのかを教えてくれているのです。あえて悪魔の誘惑に身を置いて、わたしたち人間に、試みに遭う時どのように向き合うべきか、模範を残されたのです。

イエスが受けたとされる3つの誘惑は、イエスの十字架上の出来事を暗示しているように思えます。最初の誘惑である「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(4・3)は、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(ルカ23・37)を思い起こさせます。目の前の苦しみから自分を救うために、力を使えばよいではないかと誘惑しているのです。イエスはきっぱりと拒否します。

イエスは石をパンにすることも、十字架から降りることもしませんでした。イエスはこの誘惑を通して、人は苦しみを必ず受けるけれども、苦しみを取り除くために神がおられるのではなく、苦しみに際してわたしたちを支え続けるためにおられることを教えようとします。

苦しみから逃れたい一心でこの世のものに手を出すことは、一時の対処法にはなるかもしれませんが、根本的な対処法ではありません。苦しみの中で片時も離れず神が支え続けてくださることを、パンの誘惑の中でイエスは教えようとされるのです。神が支えてくださる中で経験する苦しみは、決して無駄ではありません。むしろ尊いものです。

次に悪魔は、「一切の権力と繁栄」をちらつかせて、自分を拝むことを要求しました。この世での権力と繁栄の象徴は金銭でしょう。ユダはこの世での権力と繁栄の象徴である金銭を受け取って、イエスを引き渡し、イエスは十字架にかけられることになります。

ユダはもしかしたらイエスが最終的には十字架から逃れる方法を思いつくだろうと高をくくっていたのかもしれません。けれどもイエスは権力と繁栄の誘惑を退けて、十字架に磔になったのでした。

悪魔の2度目の誘惑も、イエスははねのけました。イエスは権力と繁栄を手にして、人に仕えられるためにおいでになったのではなく、仕えるためにおいでになりました。十字架を降りなかったのも、御自分の命を与えるために、あえて降りようとされなかったのです。

権力と繁栄の誘惑は、神がいつもそばにいてくださることを忘れさせてしまいます。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」(申命記6・13)神がわたしたちから離れてしまったら、権力と繁栄はむなしいと教えているのです。

最後に悪魔は、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(4・9)と挑みます。十字架の場面、議員たちのあざけりを思い出します。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(ルカ23・35)

十字架から飛び降りるなら、議員たちのあざけりを黙らせることができたでしょう。けれどもイエスは、すべての人々を罪の束縛から解放するために、御父の計画に従順に従うことを選びました。人生の中で生じるあらゆる苦しみを引き受ける力を、イエスは最後の誘惑の場面で示してくださるのです。

イエスが荒れ野での誘惑を退けて示してくださる模範は、イエスの十字架の場面の象徴であり、わたしたちの死を覚悟させるような苦しみの場面で神がそばにいて支えてくださるという約束でもあります。

だからこそ、イエスに従おうとするわたしたちは、苦しみを逃れたい一心でこの世の誘惑に手を出すことをしません。権力と繁栄に心を売り渡したりしません。苦しみから逃れようと人生を投げ出したりしません。イエスが聖霊に満たされて荒れ野での試みを退けたように、誘惑の時に神はそばで支え続けてくださいます。

「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」(4・13)悪魔のあらゆる誘惑が無駄であったことが印象的です。誘惑は避けられないとしても、神がそばにいてくださると信頼して日々を歩み続けましょう。神がそばにいてくださるなら、わたしたちにも悪魔の誘惑は無駄に終わるのです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(ルカ9:28b-36)
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ちょっとひとやすみ
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▼どんな環境でもぐっすり眠れるというのは特別な恵みだと思う。かつては睡眠をとるのに苦労はなかったが、最近は眠れないこともある。それでも最終的には眠っているからまだ大丈夫だとは思うが、いまいち目覚めが良くない日をときおり迎える。年齢が関係しているのだろうか。
▼一方で、90分くらいで8時間も9時間も眠ったような感覚になるときがある。すぐに寝付いて、あーよく寝たと思ったら90分くらいしか経過していない。そんな時はなんだか得をした気分である。残りの時間はボーナスをもらったような睡眠時間だから、仮に眠れなくても朝はまだ数時間後だ。
▼眠りというのはとても複雑だなと思う。長い時間横になっても眠った気がしない時もあるが、短い時間で長く眠った感じになることもある。不思議だがわたしはどちらかというと一定の時間を使って眠りたい。この頃は長く起きているのも楽しく感じないのだ。
▼今までは考えもしなかったことだが、これからは起きている時間どのように過ごそうか、その場その場で考えながら選ぶようにしたいと思う。かつては無為に過ごす時間もそれはそれでありだったが、今は無為に過ごす時間があると、「今の時間は何だったのだろうか」と悔やむことが多くなっている。
▼無為に過ごす時間を回避するために、いくつかの選択肢を持っておこう。1時間失うことは昔も今も変わらないから、これは対象外として、2時間でできること、3時間でできること。この2種類があれば時間の使い方で悔やまなくて済むかもしれない。
▼2時間でできることと3時間でできること。何があるだろうか。場所にもよる。今なら3時間あればお魚を釣ってきて晩の刺身くらいは確保できるが、場所によっては同じことはできなくなるだろう。着替えて現地に向かい、帰ってきて自分の体を洗い、魚の下処理をする。そこまで3時間でできるのは目の前に海がある場所に限られてくる。
▼2時間の場合と3時間の場合の、いろんな選択肢を考えておこう。あと1ヶ月ほどで50歳になるから、おおよそ残りの時間は25年だ。その中で後半の人生の歴史を刻むことになる。若い頃はそうでもないが、これからは無為に過ごす時間はもったいない。

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新企画今週の1枚
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第419回目。こちらに来て6年目で初めて、小学生がチョコを持ってきた(の予定)。

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年間第5主日(ルカ5:1-11)イエスが見せるしるしに勇気づけられ従う

2016-02-07 | Weblog
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年間第5主日
(ルカ5:1-11)
イエスが見せるしるしに勇気づけられ従う
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年間第5主日、水曜日からは灰の水曜日で四旬節になります。四旬節前の最後の年間主日に、「イエスがときおり見せる圧倒的なしるしに勇気づけられ、従う」こういう内容で黙想してみたいと思います。

信徒発見劇の練習が大詰めになってまいりました。これからは代わりの利かない配役の人たちは健康にも注意を払って過ごす必要があります。わたしも代わりが利かないと言えば利かない役ですが、「はい旦那様、いえ旦那様、へい旦那様」ですからその場で誰かが代わってもできるかもしれません。先日の大雪で体調を崩し、鼻水を垂らしながら聖体拝領をさせていましたが、これからは劇も黙想会もあるので、よくよく注意したいと思います。

信徒発見劇のチケットが手に入りました。会場の座席数900に対して、2月1日に行われた司祭会議では870席近い申し込みがあっていまして、わたしが申し込みを締め切った時点での申し込みのチケットは71席分でした。

ところが「申込用紙に書いてなかった人々」が現れまして、「残り30席くらいしかないから、無理だと思う」と念を押した上で恐る恐る鯛之浦教会に問い合わせたところ、新たな追加分も分けてもらえることになり、胸を撫で下ろしています。何週にもわたって呼び掛けているわけですから、今後は締め切りギリギリまで待たずに申し込んでください。

福音朗読に移りましょう。漁師を弟子にする場面が朗読されました。イエスがシモンの舟に乗り、群衆に神の言葉を語っています。そして話し終わったときに、シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(5・4)と言われたわけです。

イエスの言葉は、何も難しいものではありませんでした。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言っているだけですから、漁師にとって造作もないことです。しかし、シモンはイエスの言葉に素直に従うことができませんでした。自分たちの経験や知識が、「失敗するに違いない」という疑いを起こさせ、ためらってしまったのです。

イエスの言葉はシモンのためらいを振り払ってしまうほど毅然としていました。シモン・ペトロはイエスに従います。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5・5)結果はシモンの知るところではありません。イエスの言葉に従ってみることが、今は何より大切なことでした。

すると、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(5・6)のです。シモンの疑いを吹き飛ばす、圧倒的な結果でした。すると今度は、イエスに対する恐れを感じ始めます。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(5・8)イエスの言葉を受け取って、それをそのまま実行する。ただそれだけのことでしたが、人間はそれすらふさわしくないことを、イエスが示した圧倒的なしるしを見て理解したのです。

イエスの返事はシモンの恐れをいやし、力を取り戻させる言葉でした。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(5・10)この出来事は、神の言葉を受けてそれを実行するのに、十分な資格を持った人など誰もいないことを教えているのです。

信徒発見劇の練習に加わって、一つ感じたことがあります。この劇の上演は、観る人に宣教への熱を呼び起こさせる大きなチャンスだと思いました。2月の上五島公演をご覧になれば分かることですが、信徒発見劇は圧倒的な迫力です。同じカトリックの信仰を持っていればなおさらのことですが、カトリックの信仰を持っていない人でも、主人公の杉本ユリほか大浦のプチジャン神父を訪ねていく場面は、わたしたちの心に感動を与えてくれると思います。

圧倒的な迫力と感動が伝わった時、一種の恐れすら感じるかもしれません。「わたしたちはここまで信仰のために人生を賭けることはできない。」そんな恐れすら、感じさせるかもしれません。しかしそんなわたしたちにも、イエスは同じ言葉をかけてくださると思うのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

イエスの言葉を聞き、それを実行する。漁師が「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と声をかけられ、それをそのまま実行する。簡単なようですが、神の言葉をそのまま実行するのにふさわしい人は誰もいないのです。

けれども、そのわたしたちをイエスさまは圧倒的なみわざでいやし、力づけてくださいます。250年間司祭が不在だった時も、信仰を次の世代に受け継がせてくださったのは、人間がそれにふさわしかったからではなく、イエスさまがその250年の間も圧倒的なみわざでいやし、力づけてくださっていたからだと思っています。

劇の練習を通して、わたしはそのことを感じましたし、みなさんも今回の上演を観ることで、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」この言葉を感じることができると思います。

イエスは今もこれからも、御自分の言葉を告げ知らせる働き手を必要としていますが、本来それにふさわしい人はいないのです。けれども、どこかで圧倒的なしるしを見せてわたしたちを呼び寄せ、協力者としてくださるのだと思います。

この世の価値観と違うイエスの福音を告げ知らせるために、神さまはときおり、圧倒的なしるしを見せてくださいます。迫害の250年間司祭が一人もいないのに信仰を誤りなく伝えさせました。わたしの司祭生活の間では病者の塗油の秘跡で余命わずかの人が健康を回復したこともありました。

これからもわたしたちは、神がときおり見せるしるしに勇気づけられて、この世にあって永遠に価値あるものを告げ知らせる弟子となっていきたいものです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(ルカ4:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼上五島地区で上演が予定されている信徒発見劇の出演者に選ばれ、練習に参加させてもらった。まずは、当時の浦上キリシタンが大浦のプチジャン神父に会うまでのいきさつを、よく頭に覚えこませることから始まる。
▼150年前、何が起こったのだろうか。どんな気持ちだっただろうか。思い巡らせることで「信仰の過去を知る」努力をした。役作りが始まると、配役になりきろうと考える。150年前の人物を、全身で表現して生き生きとよみがえらせたいと当然思う。
▼練習を重ねるうち、登場人物が劇を観に来てくれる信徒たちに共感できる人物となっていく。「この人たちは悩みながらも懸命に生きている自分たちと同じだ」そう思えるようになってくる。「信仰を現在化する」働きがそこにはある
▼ついに信徒発見劇を観終わった会衆が、「わたしたちが受け継いだ信仰は、次の世代に伝えなければならない。先祖が伝えてくれた信仰は、未来に遺してあげるだけの価値がある」と納得し、生活に戻っていく。自然な流れで「信仰を未来へ遺す」この気持ちが内から湧いてくる
▼練習に参加して感じたことは、「信徒発見劇は信仰の過去を振り返ることだけでなく、現在の信仰を刺激し、未来の信仰へと繋いでいく力を持っている」ということだ。その一つの形として、各地で上演した信徒発見劇を観た子供たちの中から、司祭修道者の召命が芽生えてくれればと願っている。

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新企画今週の1枚
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第418回目。信徒発見劇の練習風景。大司教館の体育館に適度な緊張がみなぎる。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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