こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(マタイ21:28-32)父である神は二人の息子共に待っておられる

2014-09-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/09/28(No.730)
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年間第26主日
(マタイ21:28-32)
父である神は二人の息子共に待っておられる
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今週選ばれた福音朗読個所は、「二人の息子のたとえ」です。福音の学びとして、「父である神は、二人の息子共にぶどう園に戻る日を待っておられる」としたいと思います。

その前に、今年の司祭団ソフトボール大会が明後日30日(火)と迫ってきました。去年は高校球児並みに練習を積みましたが、今年はそこまでの練習はできませんでした。「練習は嘘をつかない」と言います。練習が少なかったので、けがに注意して、チームのために尽くしたいと思います。欲を言えば、ホームランをお土産に一本打って帰りたいです。

福音の学びに入りましょう。まず「二人の息子」に声をかけた父親の心境から考えてみましょう。父親は二人の息子の性格をよく知っていたはずです。ですから、二人の息子がどのように反応するか、そのあとでどのように行動するか、ある程度予想できたのではないでしょうか。

兄に「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」(21・28)と言った時、「いやです」と拒んだことに驚いたかというと、案外予想していたのではないかなと思っています。つまり、「この子は最初は自分の考えを通そうとするけれども、後で考え直してくれる子だ」と理解していたのではないでしょうか。

次に弟に同じように声をかけたとき、弟が「お父さん、承知しました」(21・30)と答えたときには「色よい返事だが、本当だろうか」と身構えたのではないかと思うのです。父親の目はそんなに節穴ではありません。何かを感じ取って、「悪い結果に終わらなければよいが」と心配していたと思うのです。

すると、このたとえは懐の広い神のご計画をたとえていることが分かります。「いやです」と最初は自分の主張を貫く人々がいます。そうした人々はいったん父である神に背を向けるわけですが、あとで父なる神に心を向け直すのです。

たとえ話の中では、出来事は「今日」になっていますが、このたとえが言い表している地上の世界では「いやです」と背を向ける期間は長いかもしれません。それでも、父なる神はこの人々が「後で考え直して」心を入れ替えてくれることを信じて待つのです。「いやです」と言った人々が立派だったから向き直ったのではなく、最後まで信じ続ける父なる神の思いがそうさせたのです。

いっぽうでこの世界には「お父さん、承知しました」と即座に返事する人々もいます。その中には悪意のない人々もいるでしょうが、明らかに父なる神の意に背いて返事をする人々もいるはずです。ですが父なる神は、同時にそのすべての人々が、御自分が命を与えたわが子であることを忘れないのです。

父なる神の期待などまるで意に介さない人であっても、その人に命を授けたのは父なる神です。その人が「お父さん、承知しました」と言ったことの重大さを知ってほしいと願っています。たとえ最後まで理解しなかったとしても、わが子として見守り続けるのです。

「いやです」と言ってはみたものの後で考え直した人々よりも時間がかかったとしても、最終的に時間切れとなったとしても、それでも父なる神は立ち返ることを待ち続けるのです。

最後にイエスは祭司長や長老たちを厳しく叱責していますが、これも彼らを裁こうとしているのではなく、どれだけ時間がかかっても心を開くのを待つ、父なる神の思いを知らせようとしているのです。

「お父さん、承知しました」と答えた弟は最終的にどうなったのでしょうか。父親はその息子をゆるしてあげたのだと思います。たとえのこの部分は、イエスの救いの御業と関係しています。愛深い父なる神に最後まで心を開こうとしない人々のために、イエスは十字架の上で命をささげ、神と人との絆を取り戻してくださったのでした。

今週の「二人の息子のたとえ」は、わたしには「二人の息子共にぶどう園に戻る日を待っておられる父なる神の姿」として映ります。「いやです」といったん断った人々は、人生のどこかで思い直して神に立ち返りました。それだけでも十分に待ってくださっていますが、神は「お父さん、承知しました」と言ったきりとうとう戻って来なかった人々さえもわが子として愛する道を探し続けたのです。ですからこのたとえ話は、現在進行中のたとえ話と言えるのではないでしょうか。

わたしたちではとても信じられない長い間神は待ち続け、すべての人がぶどう園に戻ることを願っておられます。わたしは今、ぶどう園の中にとどまっているでしょうか。「いやです」と拒んでいるのでしょうか。今日のみことばを、後で考え直す機会としてはいかがでしょうか。

または「お父さん、承知しました」と言って、それっきりでしょうか。もしかしたらぶどう園の中にいるけれども、「お父さん、承知しました」と色よい返事だけを返して何もしないで立っていないでしょうか。何もしないまま、人生が終わっても、「お父さん、承知しました」と返事をした責任は残ると考えるべきです。いつ責任を果たすのでしょうか。

イエスのたとえ話がまだ進行中のたとえ話であれば、わたしたちは一刻も早く、神のぶどう園で働き始める必要があります。子どもは子どもなりに、大人は大人の身分で、収穫の手伝いをして、父なる神と喜びを共にする必要があります。

一人ひとり、「わたしはあなたのぶどう園でどんな働きができますか」と問いかけてみましょう。すべての人が現状を考え直して一歩を踏み出す時、このたとえ話は完成し、神の国は見える形で実現するのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(マタイ21:33-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼月額使用料を払って利用しているサービスの1つを解約してでも利用したくなったサービスが見つかったので、そちらを解約して新しいサービスを追加した。「Radico.jp」というサービスを有料版に切り替えるためだ。
▼現在iPhone5Sを利用しているが、この「Radico.jp」は「らじる★らじる」と並んで重宝している。無料版のRadikoは、地域が限定されていて、長崎県内であれば民放ラジオ1局と、民放FMラジオ1局、ラジオ日経、放送大学までしか聞くことができない。
▼プロ野球のペナントレースがいよいよ終盤になり、この前秋分の日に広島カープのデーゲームを迎えていたのだが、テレビのチャンネルどこを回しても広島の試合を中継していない。何と試合終盤で6対0になっていた。ネットで途中経過を見ることはできるが、それでは辛抱できなくなった。
▼そこへRadikoの有料版の出番。月額350円を払うと全国のさまざまな放送が聴けるらしい。早速これまで利用料を払っていたあるサービスを解約し(残念だが)、Radikoの有料版にグレードアップしてRCC放送を聴く。試合は6対1になっていた。
▼ラジオの解説によると、神宮球場でありながら3分の2はカープファンで埋まっている。まぁ、このままスタジアムの雰囲気を楽しむことができれば上出来だと思っていたその時、「エルドレッド打った!ライナーでスタンドに飛び込んだ!第36号ホームラン!」結果広島が大勝。350円払った甲斐があった。

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今週の1枚
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第337回目。残念!巨人が優勝してしまった。だがCSで最後の意地を見せる!

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年間第25主日(マタイ20:1-16)まことの主人であるイエスの気前の良さを学ぶ

2014-09-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/09/21(No.729)
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年間第25主日
(マタイ20:1-16)
まことの主人であるイエスの気前の良さを学ぶ
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年間第25主日は「ぶどう園の労働者のたとえ」が選ばれました。「ぶどう園の主人のもとで一日を過ごす喜び」について考えてみたいと思います。

果物を栽培する農家が、収穫時期にどれくらい忙しいのか、詳しいことは分かりませんが、いくらか想像することはできます。果物の収穫時期は一瞬も遅らせることができず、農園が広ければ広いほど、それこそ猫の手も借りたいほどの忙しさになるのだと思います。

そんな中で、たとえ話のぶどう園の主人は労働者を雇いに広場に出かけました。夜明けと、九時ごろ、十二時ごろと三時ごろ、最終的には五時ごろにも労働者を雇いに行きました。電気のある時代ではありませんから、夕暮れになれば作業ができなくなるので、残り一時間でも働いてくれる人はありがたかったのでしょう。

もちろんこのたとえ話は、「労働時間と適正な賃金」という問題を取り扱うたとえ話ではありません。むしろ、「ぶどう園で一日過ごすことができた、ぶどう園の主人のもとで今日一日過ごせた。そのことを喜んでいるかどうか」この点が問われているのだと思います。

最初に雇われた人たちの中には、「労働時間に対する適正な賃金」を求めてぶどう園の主人に不平を言う者がいました。しかし、この人たちもぶどう園の主人が雇ってくれなければ働けなかったはずです。この日広場で雇ってもらったすべての人が、主人に雇われたから、ぶどう園で過ごすことができたのです。

わたしはこのたとえ話を読み返しながら、羊飼いと羊の関係と重ねて考えてみました。羊は、方向感覚がとても弱い動物だそうです。ですからすぐに道に迷い、ほかの羊からはぐれ、見失う危険があります。広場で雇ってもらおうと待っていた人々というのは、雇ってもらわないと自分では働き口を得られない人々なのですから、自分一人では本来いるべき場所にとどまれない羊のようなものではないでしょうか。

そこへぶどう園の主人がやって来て、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」(20・4,7)と声をかけるのです。主人の招きは、迷い出た羊を連れ戻す羊飼いと同じ働きではないでしょうか。自分では働き口を得られず広場にいる人々を、ぶどう園の主人が本来いるべき場所に置いてくれるのです。

すると、最初に雇われた人たちが不平を言っているのは筋違いであることがよくわかります。ぶどう園の主人は、朝早くから広場に行って、この人たちが本来いるべき場所に招いてくれたのです。

そして主人は時間を変えて何度でも、自分ではあるべき姿にたち帰れない人々を招いて、主人と共に過ごすチャンスを、最後の最後まで与えようとしているのです。長く本来の場所にいること、長く主人と共に過ごせていることを、感謝こそすれ、不平を言うのは主人の思いを誤解しているのです。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちも、早くから本来あるべき場所に置かれていながら、不平不満を述べていないでしょうか。ある身分に置かれている人、たとえば司祭とか、修道者とか、それぞれ一定の身分に置かれている人々です。その身分に置かれている時間が長くなっていくうちに、不平や不満が増して来ていないでしょうか。

本来は、イエスによって早くからこれらの身分に置かれていることを喜ぶ必要があるのに、「まる一日、暑い中を辛抱して働いている」そのことを声高に叫んではいないでしょうか。早くから、主人のもとで一緒に過ごしていることへの感謝は、どこへ行ってしまったのでしょうか。

同じようなことは、信徒の中でも起こりえます。長く信仰生活を続けている中で、感謝の気持ちよりも不平不満を口にすることが増えているとすれば、もう一度生活を見つめ直す時だと思います。早くから永遠の命の中に置いてもらい、早くから秘跡の恵みに養われてきたのです。もっと、イエスが喜ぶ言葉をたくさん思い浮かべることにしましょう。

わたしたちは、神の計らいによって置かれている身分があります。神が招いてくださったからそこに置いてもらった身分です。決して自分ではそこへたどり着けなかった身分です。神の計らいに早くから身を置かせてもらったことを、今まで以上に有難くいただきましょう。

もし神の招きにあずかって日が浅い人々を見て、良くない思いが湧いてきたとしたら、わたしが思うべきこと、口にすべきことはほかにあると考えましょう。わたしたちのまことの主人であるイエスの気前の良さを深く学ぶことができるように、ミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(マタイ21:28-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼「ビデオリサーチ社」というところから個人で引いている電話に電話がかかってきた。個人で引いた電話にはめったに電話はかかってこない。かかってくるのはほぼ2通りである。1つは、この電話番号が船会社の電話番号によく似ているものだから、ときおり船の予約が入ることがある。
▼「もしもし、船の予約をお願いします。」「予約を引き受けてもいいけど、船の切符は受け取れないかもしれませんよ。」「そちらは船会社じゃないのですか?」「ぜんぜん違います」船会社と間違って駆けて来た時は、たいていこうやってイタズラしている。
▼また、以前この電話番号を「オオタニ」という人が所有していた可能性があって、「オオタニさんですか?」という電話がかかってくる。わたしがここ浜串に引っ越してきた当初はしょっちゅう「オオタニさんですか?」とかかってきた。「オオタニだったら何の用ですか?」と返すと、「間違いました」と引き下がる。どんな人だったのだろうか。
▼「ビデオリサーチ社」だが、アンケートに協力してほしいという内容だった。珍しく船会社と間違えての電話でも、オオタニと間違えての電話でもないので、協力することにした。新聞をふだんどれくらい読んでいるかのアンケートだそうだ。だが電話アンケートだと思って話を聞き続けていたら、もっと込み入った内容だった。
▼「後でアンケート用紙が届きます。届いたアンケート用紙に、一週間にわたって質問にお答えください。」これは厄介な協力を引き受けたものだ。もう少し早めに断ればよかったと思ったが、途中では「もうどうでもいいや」という気持ちになっていて、「ハイハイ」と生返事をしていた。
▼どうでもいいやという心境になる、そこに至るまでの今日一日の過ごし方に問題があるだろう。一日を終えるまで投げやりな心境にならない、そんな過ごし方をしていれば、もっと結果は違っていただろう。もう一度、日常を見直す必要がある。

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今週の1枚
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第336回目。雨でなければこの日は小中学校の合同運動会。様子を後で掲載。
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十字架称賛(ヨハネ3:13-17)十字架を背負って、生き方でイエスを称える

2014-09-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/09/14(No.728)
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十字架称賛
(ヨハネ3:13-17)
十字架を背負って、生き方でイエスを称える
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今週は9月14日の「十字架称賛の祝日」が日曜日と重なったため優先して祝っています。イエス・キリストの祝祭日と、その他の重要な祝祭日の場合は、日曜日であっても優先されることになっています。聖人の記念日ではほとんど日曜日のほうが優先され、その年の典礼暦から消えてお休みになります。ただし、ある場合は日曜日に重なってしまう祝日を、月曜日に繰り越して祝うこともあります。

わたしは、十字架称賛の祝日で忘れられない思い出があります。前任地の伊王島で、「遠見岳(「遠く」を「見る」と書きます)」と呼ばれる山の頂上にある個人の土地に、馬込教会信徒の力を借りて十字架を建ててもらい、祝福したのです。浦上教会に所属する辻地区にも、十字架山と呼ばれる場所がありますが、同じような場所を伊王島に設置することができて、深い喜びを味わったのでした。

当時は、遠見山の頂上まで登る山道は大変険しく、人通りも少なかったのです。けれども十字架を設置しようという計画が本決まりになったことで、滑りやすかった山道は歩きやすくなり、周囲の草払いも進み、立派な十字架も信徒の協力で制作され、十字架称賛の祝日に合わせて土地と十字架を祝福したのでした。

十字架を設置した当初は、長崎の大波止と伊王島港の間を船で行き来するときに遠見岳頂上に十字架が見えて、たいへん誇らしかったのを覚えています。もし、馬込教会の信徒がこの説教をメルマガかブログで読まれたら、今の様子を聞かせてほしいなぁと思っています。

さて、十字架称賛の祝日にあたり、福音の学びを「十字架を背負って、生き方でイエスを称える」としたいと思います。十字架称賛の祝日は、イエスが磔にされた十字架を思う日ですが、それは当然、十字架上で最期を遂げられたイエスの生き方を思う日でもあります。

選ばれた朗読個所の「天から下って来た者」(3・13)に目を向けてみました。十字架の姿と重ね合わせて考えることができると思います。十字架が、地面にしっかり立つためには、十字架の縦の木が地面に深く下ろされる必要があります。ただ単に十字架を立てるわけではなく、人が磔にされた上でしっかり立つためには、深く穴を掘り、地面に埋める必要があるからです。

イエスは、ご自身が言われている通り「天から下って来た者」です。天から下って、人となられ、この世界に深く根を下ろしました。仮住まいではなく、完全な人として、人間が体験するすべてを体験されたのです。この、世界に深く根を下ろした姿が、イエスのご生涯の始まり、出発点になります。

そしてイエスは、ご自分の使命を完成させます。「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」(3・15)という使命です。これは、十字架の横木に当たるのではないでしょうか。神が御子を世に遣わし、御子は天から下って来て、御自分を信じる者に永遠の命を得させてくださいました。しかもこの救いのわざは、十字架の上で完成されました。わたしたちはこの十字架を今日称えているのです。

イエスの十字架を称えることは、十字架によってご自分の計画を完成されたイエスのご生涯を称えることでもあります。その生き方とは、この世に深く根を下ろし、御自分を信じる者に永遠の命を得させるという生き方でした。

そこでわたしたちも、イエスの生き方に倣い、この世に深く根を下ろし、イエスを信じるものに永遠の命を得させるための働きかけをしましょう。きっとわたしたちは、この世に深く根を下ろすことについては教会で何も言われなくても十分に実行できていると思います。それを、十字架の縦の木として、出会う人々にキリスト者としての証しをすれば、わたしたちが担う自分の十字架は完成です。

お一人お一人が根をおろしている場所は、一つとして同じ場所はないと思います。司祭は、ここに集まっているお一人お一人ともまた違った場所に根をおろしているわけです。

わたしが置かれている場所を痛感した出来事がありました。先週の月曜日、上五島地区の司祭たちと浦桑のお店で食事を共にしていました。わたしの携帯に、知らない電話番号で電話がかかり、ワイワイ騒いでいる中で電話を取ってみると、もうこれ以上生きていけないといった深刻な電話でした。決して死んではいけない、今日一日、明日一日がんばれば十分だからと返事をしました。

わたしの携帯電話の番号をどうやって知ったのか分かりません。教会の留守番電話には、緊急の時に携帯にかけるようにと番号が録音されているので、そこから知ったのかもしれません。けれども、ふだんの生活の中にあって、生きるか死ぬかの瀬戸際の電話がかかる。そういう場所に自分は根をおろしていることを痛感したのです。

イエスは御自分の救いの計画を十字架の上で完成されました。わたしたちは、生き方でイエスの十字架を称えましょう。生活に深く根を下ろす中で、自分にできる証しをしましょう。証しを見た人が、証しの向こうにあるイエス・キリストに導かれるように、このミサの中で願い求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(マタイ20:1-16)
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ちょっとひとやすみ
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▼同じことかもしれないが、一つのことを同じようにずっと続ける。それは忍耐力とか、力とかいろんな要素を必要とすると思う。人によってはそこから何かの自信を身につけ、ほかのことにも挑戦する力のもとになるかもしれない。
▼同じことを長く続けていると、ほんのわずかの変化でも気付くことがある。向き合っているこの人が今必要としているものは何か、この人にどんな声をかけてあげれば立ち直れるのか、必要なことに気づくことができるのか、何か感じるものがあって声をかける。
▼携帯電話の主は、誰だったのだろうか。残念ながら声では特定できなかったが、後で考えると「あの人だったのかな」と思う人が複数いる。だが、その時に頭に浮かばなかったので、悔いが残っている。
▼その後どうなったのだろうか。島内の人の場合、もっとできることがあったのではないか。島外の人であれば、また連絡しておいでとか、そういうフォローができたのではないか。この一週間、思い出したり忘れたりしながら時間を過ごしている。

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今週の1枚
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第335回目。あきらめず、同じ場所に通い続けての釣果。海の状況が好転したか。

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年間第23主日(マタイ18:15-20)迷い出た一匹の羊に接するように

2014-09-07 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/09/07(No.727)
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年間第23主日
(マタイ18:15-20)
迷い出た一匹の羊に接するように
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年間第23主日は、相手に対して忠告するときの心構えを説いています。実は今週の朗読個所の直前には、「迷い出た羊のたとえ」が取り上げられていまして、百匹の羊のうち迷い出た一匹に接する心やさしい羊飼いのように、兄弟に忠告しなさいと促しているのだと思います。

もしかしたら、朗読を聞いた皆さんは、忠告がより厳しくなることに気を取られたかもしれません。二人だけで忠告して、聞き入れなければほかに仲間を連れて行って忠告して、それでも聞き入れなければ教会の権威に訴えて忠告してもらって、教会の言うことも聞き入れないなら、切り離すといった受け取り方です。

忠告がだんだん厳しくなって、相手を裁こうとしているのか、あらゆる形の忠告を使って、その人を教会の交わりに連れ戻そうとしているのか、用いる忠告は同じでも、忠告するときの心構えが違えば、願い求めていることは全く違ってきます。イエスが促す忠告はあくまでも、迷い出た一匹を捜しまわるためのものなのです。

ちなみに教会内部のことを調べてみました。現代の教会でも忠告が必要になった場面があったようです。一つは、教会の高位聖職者に問題行動が生じ、教皇さまが何とか教会内にとどまらせようと努力したケースがあります。しかし、教皇の個人的な説得も教会の公式な忠告も聞き入れませんでした。

もう一つ、第二バチカン公会議の方向性を拒否し、その後ヨハネ・パウロ2世教皇の説得を聞き入れなかった高位聖職者のケースがあります。どちらも、きっと個人的な忠告から始まり、公の使いを送って忠告したり、教会の公式な声明によって忠告したのです。それはじわじわと教会から追放するためではなくて、どうにかして、迷い出た状態から教会の交わりに連れ戻そうとする長い長い努力の積み重ねだったのです。

わたしたちも、忠告をしたり忠告を受けたりすることがあるでしょう。それはだれにでも起こりうることです。わたしたち人間は弱さがあって、迷い出る一匹の羊と同じで自分一人で今いる場所から戻れなくなることがあるのです。もしかしたらこの世の知恵が豊かな立場の人ほど、引き返せなくなるものかもしれません。

そんなとき、何とかして教会の交わりに戻ってほしいと動いてくれる人がいるのは幸せなことだと思います。迷い出てしまうことは不幸なことですが、迷い出ている期間が生涯のすべてではないはずです。

もしだれかが、個人的にか、二人または三人でか、あるいは教会の権威に依ってか、いずれかの方法で心から忠告して、教会の交わりに戻れるように手を差し伸べるなら、不幸な時間を乗り越えて、その人の人生全体は幸せになるのではないでしょうか。

今日わたしたちは、敬老者のためのミサをささげています。長い年月を重ねて、教会の交わりにとどまることの大切さも十分知っておられます。もし、できますなら、これからの与えられた時間の中で、迷い出た一匹の羊のような信徒をご存知でしたら、教会の力になっていただきたいと思います。

個人的に忠告して、教会の交わりに呼び戻せる人を、もし御存じでしたら、働きかけていただきたいのです。教会との絆を取り戻すのにさらに力が必要でしたら、協力者を教会役員で見つけてお手伝いしたいと思います。もし、それ以上の大きな働きが必要でしたら、教会のあらゆる権限を用いて、教会の交わりに戻れるように主任司祭も力を貸したいと思います。

今日お祝いを受けている敬老者の皆さんは、「行って二人だけのところで忠告しなさい」(18・15)というイエスの招きに、年齢も経験も最もふさわしい方々だと思います。どうか、信仰に土台を置いて生きる今だからできるイエスの協力者に名乗り出てほしいと思います。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(18・21)迷い出た一匹の羊を教会の交わりに連れ戻すことは、今日お祝いを受けている高齢者をはじめ、すべての信徒にできる尊い働きです。教会の交わりにすべての人が結ばれるよう、わたしたちの中におられるイエスの力に依り頼みましょう。ミサを通して、わたしたちをイエスの手足としていただけるよう願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
十字架称賛
(ヨハネ3:13-17)
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ちょっとひとやすみ
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▼九州視覚障害者情報提供施設(略して「九視情協」)の年に一度の大会が今年は9月4日5日の2日間、北九州市で行われた。会場は全体会に470人の参加者を収容できる会場という条件があるため、今年はリーがロイヤルホテル小倉が会場に選ばれた。
▼研修は、視覚障害者の事情に精通している講師が毎年選ばれている。本人が視覚障害者であったり、長年視覚障害者のために働いている人であったりするが、大会の運営を去年体験して分かったことは、講師選びもだんだん新しい人を捜すのが難しくなっているということだった。
▼専門的な知識や経験を分かち合える人にも高齢化の波が押し寄せてきているのである。そういう中で、今回講師を引き受けてくださった方はわたしと同じくらいかなと思う年代だったので、話もとても身近に感じた。
▼この年に一回の集まりは、研修であると同時に再会を喜び合う場ともなっている。九州一円のボランティア従事者が顔を合わせるから、それはもう賑やかである。懇親会が初日の最後に組まれているが、わたしは懇親会が終わるのを楽しみにしているタイプだが、ほとんどのご婦人がたは懇親会ではじけていた。
▼懇親会は毎年その開催地の特色が出る。今年も小倉で名の通った太鼓のグループが出演していた。またわたしは馴染みがなかったが、カントリーソングのファミリーバンドも盛り上げてくれた。
▼来年は持ち回りの順番では沖縄になっている。研修以上に沖縄に行くことが目的になるかもしれない。一度だけ行ったことがあるが、あちこち思い出の再確認もよいかもしれない。

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今週の1枚
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第334回目。大会初日の懇親会。最後に「炭坑節」を踊った様子。

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