こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

王であるキリスト(ルカ23:35-43)わたしは今日キリストを王としていただく

2013-11-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/11/24(No.679)
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王であるキリスト
(ルカ23:35-43)
わたしは今日キリストを王としていただく
‥‥‥†‥‥‥‥

皆さんにもお知らせをしておりました通り、この説教の後に、○○さんの洗礼式と堅信式をおこないます。その時を待っているお父さんである○○さんにとっては、説教などどうでもよいから、早く緊張する瞬間から解放されたいという思いでいっぱいかもしれません。どうかしばらくのあいだ説教に耳を傾け、このあと行われる秘跡にふさわしく与れるよう、中田神父の説教を最後の準備にあてて欲しいと思います。

今週は年間の最後の主日、「王であるキリスト」の祭日です。わたしたちの生活が、主キリストを王として認める生活になっていたか、振り返る日曜日です。またこれまで主キリストを王として認める生活を心がけてきた人にとっては、王であるキリストに導かれて過ごした日々をあらためて感謝する日曜日と言ってもよいでしょう。

まずは選ばれた福音朗読から、イエスはわたしたちにとってどのようなお方であるかを確認しましょう。イエスがどのような方であるかを確認するなら、その姿にわたしたちがどのように応えようとしたかも明らかになります。1つ、取り上げたい言葉があります。それは、「自分を救ってみろ」という言葉です。

議員たちが十字架上のイエスをあざ笑って言います。「選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(23・35)また兵士たちが酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言います。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」(23・27)さらに十字架にかけられていた犯罪人の一人がののしりました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」(23・29)

わたしは、人々がイエスに言った言葉は、そのまま自分に返ってくると考えます。あざ笑い、侮辱し、ののしりながら「自分を救ってみろ」と言った人々。天に唾を吐く者は、自分に返ってくるのです。それと同じように、十字架上のイエスをあざ笑い、侮辱し、ののしる人は、「自分を救ってみろ」という言葉が自分に返ってくるのです。

あざ笑い、侮辱し、ののしる人が自分を救えるのでしょうか。これらの人々に罪がないと言えるでしょうか。この人たちは自分の罪を自分で清め、自らを救うことができるでしょうか。決して救えないのです。だからこそイエスは、自分で自分を救えないあわれな存在である人類を救うために、十字架上でいのちをささげてくださったのです。

王と呼ばれる人は国民のためにあらゆる努力を惜しまない人です。国民が救われるために、必要ならいのちさえも投げ出すはずです。イエスはすべての人の王として、すべての人のためにいのちを投げ出しました。たとえご自分をあざ笑い、侮辱し、ののしる人であっても、その人の救いのためにいのちを差し出したのです。十字架から降りるということは、これらイエスを憎む人々の救いを放棄することになるのです。

今日わたしたちは、イエスはわたしたちの王ですと言い表すためにこのミサに集っています。わたしのためにも、いのちをささげてくださり、わたしを王の民として呼び寄せてくださるイエスに、心から敬意を表そうと、このミサに集まっているのです。イエスはわたしたちの王ですから、わたしたちはイエスの心を曇らせるような言葉や態度を取りませんとあらためて決意するために、ここにいるのです。

長い長い時間をかけて、イエスを王として認め、受け入れた人が物語に登場しています。イエスと一緒に十字架にかけられていたもう一方の犯罪人です。イエスの右と左に十字架に付けられた人は、もはや十字架上で死ぬ以外に処罰のしようがない人たちでした。

つまり、この時まで罪を重ね、神にも背を向けてきた人たちです。けれども、この長い人生の締めくくりに、イエスが王であることを理解し、自分がもし王の国民になれるのであれば、思い出してほしいと願ったのです。

イエスはこの人に言いました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)イエスを王と認めたあなたは、たとえどんなに罪があっても、たとえどんなに長い間わたしから離れていたとしても、今日わたしの国民になった。イエスは、どんなに離れていた人でも、どんなに時間がかかった人でも、わたしを王として、救い主として認めたその日から、わたしの民であると言ってくださるのです。

今日洗礼をお受けになる○○さん、今日に至るまでの道のりを少し聞かせていただきました。結婚される以前、独身時代に、個人的に洗礼のための勉強をお受けになったそうです。それから何十年時間が経ったでしょうか。神さまは長い時間を経て、もう一度声を掛けてくださいました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒にいる」イエスは○○さんを、神の民として受け入れてくださったのです。

洗礼を受けるに当たって、もしかしたら○○さんには不安に思うことがあるかも知れません。けれども、イエスはその不安を十字架上で担ってくださいます。担いきれないと思えるような重荷を担い、救ってくださるために、イエスは今日という日を用意してくださったのです。信頼を寄せて、これから行う洗礼式・堅信式に臨みましょう。

そして、イエスは今日から早速、神の民を養う食べ物を与えてくださいます。王であるキリストは、民を常に養い、育て、導きます。今日秘跡の恵みにあずかることで、ご自身を王であるキリストに委ねましょう。王であるキリストの導きを受け入れますと態度で表しましょう。

これからは、ここに集まった皆さんが家族であり、兄弟であり、姉妹です。唯一の王をいただいている神の民として、互いに神への賛美と感謝を日々忘れないようにしましょう。

これから洗礼式と堅信式に移ります。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(マタイ24:37-44)
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ちょっとひとやすみ
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▼さまざまなものが、「自分で手に入れた」と思った瞬間に、手からこぼれ落ちていく。もともと、自分のものでないから、こぼれていくことをそれほど悲しむ必要は無いのだけれども、つい自分が手に入れるはずのもの、自分に当然権利があると思ってしまうから、しばしば失ったことを悲しみ、嘆く。
▼洗礼を受けることになったお父さんはすでに後期高齢者である。若いときにキリスト教を学ぶ機会があり、もう少しで洗礼を受けられる所まで来ていたのに、手からすり抜けていった。それから縁があって結婚することになり、その時にも違う司祭から結婚のための準備講座を受けたが、その当時の主任司祭を通しても洗礼の恵みにあずかることはできなかった。
▼チャンスを2度も逃してしまうと、たいていの場合は「自分には向いてないのかもしれない」とか「自分にはふさわしくないのかもしれない」と考えてしまうのではないだろうか。よくぞ、半世紀以上経過してからもう1度教会の門を叩いてくれたと思う。心から感謝したい。
▼わたしも、このお父さんのことは赴任直後から耳にしていたので、神さまの大きな愛で、この方の心に何かきっかけを与えてくださいますようにと願っていた。何がきっかけになったのか、年齢を重ねる中での心境の変化なのか、はたまた福見教会百周年なのか、とにかく何かがあったのでこの日を迎えることができたのだと思う。
▼主任司祭にとっても本当に感謝である。半世紀以上のためらいの中で、4年前でなく、4年後でもなく、今洗礼を受けようと希望してくださったから、わたしがその場に立ち会うことになった。仮にわたしの赴任時代に洗礼を受けなくても喜ばしいことに変わりはないが、やはりその場に立ち会うのがいちばん嬉しい。
▼本人が気に病んでいることが1つあるようだが、何も心配は要らない。心配を取り除いてくれる人たちがこの福見教会にはたくさんいる。神の家族として力を貸してくれる。どうか、この人生を福見で生きてよかったと言える日々を過ごしてほしい。

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今週の1枚
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第286回目。忘れていなければ、福見教会での洗礼式の様子。

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年間第33主日(ルカ21:5-19)苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む(2)

2013-11-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/11/17(No.678)
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年間第33主日
(ルカ21:5-19)
苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む(2)
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皆さんはNHKの連続テレビ小説、続けてご覧になっているでしょうか。ただ今放送されている「ごちそうさん」のここ数日の放送分、わたしはまともに観ることができず、つい感情的になって観ています。

ご覧になってない方のために、夫のもとに嫁いできたヒロインがやって来た家には、人当たりがとてもきついお姉さんが居座っていました。ことあるごとに嫁に難癖を付け、覚えているだけでも2回、泣きながら「こんな家、出て行ってやる!」と家を飛び出しました。これはドラマで、作り話だと思ってはいますが、お姉さんのことを心の中で「ひどいやっちゃなぁ」と思ってしまい、観ていられません。

テレビを観ていて思ったのですが、苦しみと言いますか、迫害というものは、案外近くにあるのかも知れません。最近小さな迫害を感じていまして、高井旅のミサで、マイクのスイッチが入ってなくて、侍者に「マイク、マイク」と伝えたのです。身振り手振りまで交え、そのうちわたしは頭に血が上ってきました。ところがその侍者は「え?何ですか?」とポカンとしています。わざとなのかとすら思いました。

また、堅信式直後の浜串中学生のけいこで、堅信の秘跡を受けてどう感じたか、本人に感想を聞いて後輩の1年生にも来年への楽しみを繋いでもらおうと思ったのです。けれども聖堂は真っ暗で電気が付いていません。どういうことだと玄関の電気を付けたら、堅信をこの前受けた2年生が真面目に来てくれていて、「1年生はどうした?」と聞くと「明日から試験なので、来てないんですかね」と言います。ボイコットです。

前もって「来ることができません」と連絡があって、「明日から試験なら、今日は休もうか」ということでしたら分かりますが、最初から決めつけてボイコットするのです。わたしはやる気を失い、その日のけいこを休んでしまいました。これもちょっとした迫害であります。

ほかにも、「毎回使う物なのに、なぜ用意されていたり用意されていなかったりするの?」とか、「いくら何でも無くなったら無くなったと言うでしょう」というようなことがありまして、まさに連続テレビ小説よろしく「きっついなぁ」と感じてしまうことがあります。何か機会があったときに言ったりもしますが、これは現代の迫害なのだと思うと、「忍耐するしかない」と諦めにも似た気持ちになるのです。

今週の福音は、「苦難があり、そこで忍耐を学ぶなら、希望が開ける」こんなことを学ばせようとしているかのようです。イエスは話の結びとして、次のように仰います。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(21:19)。忍耐について学ぶなら、わたしたちの未来には希望が待っています。今週、忍耐について学ぶことにいたしましょう。今週の説教の内容は、2004年のものを参考にしています。

きっと皆さんは、弱音を吐いているわたしなど及びもつかないような忍耐を、ふだんの生活の中で経験しているに違いありません。夫婦で一つ屋根の下にいれば、いろんなことでどちらか一方は我慢している、忍耐しているということがたくさんあるのだと思います。夫婦と言いましたが、それは親と同居している場合にもあるでしょうし、子どもと暮らすなかでも気持ちよく過ごせる日ばかりではないと思います。忍耐することは数えきれず、中田神父の弱音なんてたかが知れていると感じている方もいらっしゃるでしょう。

それ程多くの場面で忍耐を強いられているのですが、わたしたちは果たして忍耐から何かを学んでいるのでしょうか。ある意味、いちばん多く積み上げてきている徳であるにもかかわらず、そこから学ぶことがあまりにも少ないのではないでしょうか。そこで今週は、忍耐がわたしたちキリスト信者をどこまでたどり着かせてくれるのか、見極めたいと思っています。

忍耐と言っても、これまでの経験から思い知らされているように、何も学べずに終わる忍耐もあり得ます。憎しみを心に抱いたまま、我慢し続けている。それも忍耐なのでしょうが、おそらくそのような忍耐は不毛なのだと思います。忍耐することで何かをいただく、イエスに少しでも触れることができるように、要点を押さえてみましょう。

イエスの言葉から確かに言えることは、忍耐する人は、命をかち取るということです。どんな命でしょうか。「中には殺される者もいる」(16節参照)と仰ったのです。殺されてもなおかち取ることのできる命、それは神が与えてくださる永遠の命です。滅びることのない、だれからも取り上げられることのない神の命です。わたしたちは忍耐によって神の命をかち取るのです。永遠の命を得るのであれば、それはわたしたちが神と出会っていることと何ら変わりません。忍耐によって、わたしたちは神と触れ合うことになるのです。

忍耐のすばらしさをいろんな面から確かめることにしましょう。3つ取り上げてみたいと思います。その1つ、まことの忍耐は、愛を現します。誰かの介護をしている人がいるとして、お世話している人の着替えを手伝うこと一つ取り上げても、しばしば忍耐を求められます。まことの忍耐を積む人は、お世話しているその人に、わたしの心の中の愛を現しているのです。あるいは食事の介助をしている時でも、まことの忍耐を積むことで目の前の相手に、またその相手を通して神に、わたしの心の愛を現すことになります。

忍耐が愛を現すことが分かれば、そこから次のことも考えるに違いありません。わたしはこれまで介護に携わってきたけれども、愛を現すチャンスに変えてこなかった。忍耐していたけれども、わたしは苦しい思いだけを積み上げてきた。今日から、愛を現す忍耐へと気持ちを向けていきましょう。すぐにはそうならないかも知れませんが、まことの忍耐は、人間を救うためにあらゆることを忍耐された神の業に、参加するまたとない機会なのです。

次に、忍耐はわたしに与えられた生き方を完成させるものです。結婚生活に置かれている人、修道生活に召されている人、司祭に召された人、いろんな生き方に神はわたしたちを置いてくださっていますが、いずれの生き方(召命)についても、忍耐なくしてはそれぞれの道を全うすることは叶いません。キリストはそのことを身をもって示してくださいました。イエス・キリストは「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ち、愛をもって互いに忍耐する」(エフェソ4:2)模範を残してくださったのです。こうして、人としての一生を全うして、わたしに倣いなさいと招いておられるのです。

忍耐せずに置かれた生き方を全うできるならどれほど楽でしょう。現実は、そんなに簡単なものではありません。どんな生き方に召されていても、たとえ他人からは暢気に暮らしているように見えても、完成するためには忍耐が必要なのです。忍耐する覚悟を持たずに逃げようとすれば、完成できずに人生を終えることになるのです。

さらに、忍耐することでわたしたちは真の神の子らとなります。神は人間を愛し赦し救うためにあらゆる忍耐を通ってこられたのですが、わたしたちがまことの忍耐を積むなら、そのままわたしたちは神に似る者となります。同時に忍耐する人は、心の柔和・謙遜なイエスの弟子となることができるのです。

これほどの高みに、忍耐はわたしたちを運んでくれるのです。以前もわたしたちは数多くのことを忍耐してきました。場合によっては我慢ならないことすら耐え忍んできたのです。ですが、なかなかそのことがわたしを清め、キリストに似る者となる機会に結びついていませんでした。

今は違います。忍耐する時、わたしは一歩ずつ真の神の子、イエスの真の弟子に近づいているのです。苦難は忍耐を生み、忍耐する人はイエスによって希望を手に入れるのです。

最後に、聖書の中でいちばん忍耐について話してくれた聖パウロの言葉を紹介しておきます。コリントの信徒への手紙二の引用です。少し長いですが、彼の心の叫びに耳を傾けましょう。

「だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。

苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。

しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(IIコリント11:21-27)。

先にこれほどの忍耐を積んだ人が、忍耐によってわたしたちをどこまで運んでくれるか、教えてくださっているのではないでしょうか。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(ルカ23:35-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週の上五島地区堅信式。受堅者代表挨拶をしたのは●教会の受堅者だった。ほぼ100%原稿を手に持って読み上げるものと思っていたが、その中学生は原稿を手に持っていなかった。堂々と、自分の言葉で、大司教へのお礼の言葉を述べた。
▼わたしは大いに感心した。なかなか自分の言葉でこうした挨拶を述べる人はいない。最近社会では謝罪会見ですら原稿を読み上げ、深々とお辞儀をしているが、そういうのは謝っている気持ちが伝わらない。そんな風潮にあって素朴な言葉でいいから、自分の言葉で言い切った今回の受堅者代表挨拶に敬意を表したい。
▼子供たちを含め、信徒の信仰教育に重大な責任を持っている司祭は、洗礼者ヨハネのようであるべきだというのがわたしの持論である。ヨハネ福音書3章29節に「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」とある。
▼いつでも主人公は信徒であるはずだ。信徒にスポットライトが当たるように立ち回る。信徒にキリストの光が当たるように振る舞う。それが司祭の仕事だ。何か遠回しに主任司祭に光が当たるように仕向けるとか、主任司祭がちやほやされないと虫の居所が悪いというのは、どこの世界にもありがちだが、司祭にあってはそういう話は聞きたくない。
▼これだけ言ったのだから、「いろいろ言っておいて、お前も同じか」と言われないように、よくよく気をつけようと思う。洗礼者ヨハネは、徹底して洗礼者ヨハネでなければならない。花婿であるイエスに常に信徒を近く留まらせる。司祭にそれ以外のことは要らない。
▼おまけ。2004年の原稿を参考にしたところ、2004年の原稿に誤変換していた箇所を見つけた。(誤)「苦しい重いだけを積み上げてきた」は(正)「苦しい思いだけを積み上げてきた」とするべきだが、誤変換した原文のほうも、よく読めば味わいがある(笑)

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今週の1枚
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第285回目。上五島地区堅信式。聖香油の塗油。遠慮して、違う小教区の写真。

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年間第32主日(ルカ20:27-38)復活への希望に人生を賭ける

2013-11-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/11/10(No.677)
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年間第32主日
(ルカ20:27-38)
復活への希望に人生を賭ける
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昨日は大司教さまが小教区を公式訪問してくださいました。大司教さまは午後3時に浜串入りしましたが、ミサが始まるまでの1時間半ほど、主任司祭から浜串教会の現状について報告をしまして、また大司教さまからの質問を受けたりして時間を過ごしました。

大司教さまは小教区を公式訪問されると、決まって教会の台帳に目を通し、署名をなさることになっています。わたしも最新の状態に更新された台帳を提出し、署名してもらいました。2010年4月からの4年間で、洗礼を受けた子供が4人、初聖体を受けた子供が5人、堅信を受けた子供が18人、結婚式が1組、亡くなった方が31人です。

台帳に目を通していただく間に、秘跡を受ける人は目に見えて少なくなり、亡くなる方が目に見えて増えていることを大司教さまに正直に報告しました。こうして大司教さまは、小教区の主任司祭が何を心配しているのか、直に話を聞いていただくことで実感できるのだと思います。

いよいよ、小教区の2人の中学2年生が堅信の秘跡を受けます。堅信の秘跡を受けるにふさわしい信仰の理解を持っているか、試験もしました。200点満点の試験で、口頭試験が50点、筆記試験が150点の200点満点です。実際は、もしかしたら試験で苦しむ人がいるかも知れないという親心で、筆記試験には160点分くらいの問題が埋め込まれています。ですからすべてを完璧に答えることができれば210点ということになりますが、仮に完璧な答案でも、本人には200点と伝えております。

今回も試験は楽々クリアしました。これで、午後2時からの青方教会での堅信式に、安心して臨むことができます。堅信の秘跡を受けた2人には、これからは大人の仲間入りをしたカトリック信者として、主任司祭は要求もするし、期待もするということです。

今週の福音朗読は、「復活についての問答」です。イエスの時代、人が死んだのち復活するかどうかは、意見が分かれていました。サドカイ派の人々はモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)に明確な復活の記述がないことから、復活を否定していました。

ですが当時の人々の中には、人は死んで復活するのではないか、と考えている人もかなりいました。そこでサドカイ派の人々は復活についてイエスに問いかけるわけです。彼らは復活があるとしたら混乱することになるような難問を用意して、これに答えられるかと迫ったのでした。

この世では、全くもって不条理なことがたくさんあります。選ばれた朗読福音の、長男が子を残さずに死に、その長男の跡継ぎを残すために次々に長男の妻をめとったにもかかわらず子を残さずに死んでいく。本当にかわいそうな話だと思います。

他にも、幼くして死んでいく命や、事件や事故、戦争や権力者の犠牲になる弱い立場の人々もいます。本当にやりきれない思いになります。わたしよりも若い人の葬儀をしなければならない時がありましたが、どうやってご家族に信頼と希望を持ってもらうか、大変悩みました。

こうした不条理を目の当たりにする時、人の一生がこの世だけで終わるということは、受け入れられないのです。この難問に、イエスは答えてくださいました。人にはみな復活への希望があって、復活にふさわしいとされた人々の在り方は、この世の在り方とは違うということです。

この世では、次の世代に命を繋ぐことが大切です。結婚も、いのちを次の世代につなぐ大切な役割があります。ですが、復活にあずかる人は、もはやその思いに縛られる必要が無いのです。イエスが言うように、「めとることも嫁ぐこともない」兄弟姉妹のような生き方となるのです。

ただし、興味は尽きません。この世に生きている間、祖父母や父母を天国に送り出した人もいます。自分たちがいよいよ旅立つ時がやって来て、祖父母や父母を、どのように実感するのでしょうか。会話のできる年齢にも届かず、幼くして旅立った子どもたちがいる場合、その幼い赤ちゃんと、復活の時どのように出会うのでしょうか。興味は尽きませんが、そこまでは示されていません。

いずれにしても、復活を否定する人々に、イエスは復活が必ずあることを明言し、ご自身が復活なさって、復活した人の在り方がこの世の在り方とは違うことを弟子たちに証明なさいました。復活したイエスは家の戸の鍵を閉めていた部屋の中においでになりましたし、弟子たちの見ている前で天に上って行かれました。

最後に今週の学びを得ることにしましょう。わたしたちはこれから、どのような生き方が必要になるでしょうか。それは、復活への希望を証しする生き方です。参考として3つのことを示しておきます。

まずは、復活への希望の源であるキリストに、生活の一部を用いることです。ミサに参加することや、教会の行事、婦人会の行事、上五島地区全体の行事などに参加することは、自分たちが復活したイエスに希望を置いていることを証しするよい方法です。それを見て、他の多くの人も復活への希望に生きる意義を考えることができます。

次に、今月は死者の月です。すでに亡くなった方を墓地に訪ねて行って、復活への希望を語りかけてみましょう。わたしたちは生きて復活への希望を抱いていますが、墓に眠る人々は、少し在り方は違いますが、復活への希望のうちに神のもとで生きています。復活への希望をともに語り合うなら、キリスト教でない人々に必ず影響を及ぼすでしょう。

最後に、可能なら、めとることも嫁ぐこともなく、神によって生きる生き方に人生を賭けてみましょう。復活の希望を持たない人には、この生き方は無意味です。けれども、復活の希望を持つ人にとっては、人生をかけることができるほどの賭です。わたしはこの人生を賭けた証しに生きてみたいと思っています。

あなたにとって、復活への希望を証しする生き方はどのような形になるでしょうか。自分なりの証しの生き方を持ちながら、同じ復活への希望を知らない人々にも生き方を示すことができるよう、今日のミサの中で恵みを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(ルカ21:5-19)
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ちょっとひとやすみ
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▼11月9日には大司教の小教区公式訪問があり、10日には上五島地区堅信式があるのだが、この原稿を書いている金曜日時点では(最終的には土曜日の夜中に書き上げたが)どんなことが起こるか分からないので、4日に実施された「土井ノ浦キリシタン洞窟ミサ」について少し書いてみたい。
▼上五島の教会に赴任してから4年になるが、土井ノ浦小教区ではいつの頃からか毎年「キリシタン洞窟ミサ」を実施するようになっている。「キリシタン洞窟」とは、五島でのキリシタン迫害時代に、迫害を逃れてキリシタンが隠れ住んだと言われる洞窟があり、その洞窟のある無人島に上陸してミサをささげ、先祖の信仰を思い起こし、自分たちの信仰を確認するものである。
▼無人島で、しかも10月11月は季節風が吹き、予定を組んでもその日に上陸できないこともある。そのため、4年間で2回しか、実際に上陸してミサをすることは実現していない。あとの2回は、現地の近くまで船を出し、場所を見てから土井ノ浦教会に戻ってミサをしている。
▼幸いに、今年の洞窟ミサに参加することが出来、実際に上陸してミサをささげた。参加した信徒は100人を超えていた。上五島地区のほとんどの司祭も参列し、迫害を逃れて信仰を守ることを選んだ先祖たちの強い気持ちをミサの中で思い巡らした。
▼100人以上のミサを無人島で実施するために、土井ノ浦小教区の主任司祭はじめ、信徒の皆さんは本当に苦労されていると思う。そのご苦労を心からねぎらいたい。祭壇として使用するテーブル、司祭のためのパイプ椅子、電子オルガン、簡易放送施設、その他の道具、またミサが終わったらその場で立派な食事も振る舞われた。
▼食事は、五島では昔からお祝い事に用意されているまんじゅう(ふくれ餅)、現地でさっとゆがいて用意するそーめん、さらにブリの刺身。刺身は鮮度を維持するため氷をびっしり敷き詰めた発泡スチロールの箱が用意され、さらに身が低温やけどをしないようにビニールを敷いてその上に美しく盛りつけされていた。美味しいはずである。
▼ただ心配事もあった。一つの小教区が準備する行事としては経費の負担が大きすぎるという点だ。上陸するために海上タクシーもチャーターしている。何か、重い負担にならないような工夫があればいいと思った。

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今週の1枚
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第284回目。土井ノ浦キリシタン洞窟、ミサの様子。

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年間第31主日(ルカ19:1-10)わたしたちは何倍神に返すべきでしょう

2013-11-03 | Weblog
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ありがとうございます。急に依頼が増えたため、C年が切れて
しまいました。現在A年とB年のみ取り扱っております。
A年800円です。B年700円です。

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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/11/03(No.676)
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年間第31主日
(ルカ19:1-10)
わたしたちは何倍神に返すべきでしょう
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最近半沢直樹というテレビドラマが話題になりました。この主人公の信念が「やられたらやり返す。倍返しだ。」というものです。あちこちでこのセリフが使われましたので、皆さんの多くもこのセリフはご存知でしょう。

ところで、倍返しの考え方は今に始まったことではなく、聖書の中にも登場します。旧約聖書の中には14箇所も出てきまして、その中でぴったり当てはまると思われる用法が3箇所見つかりました。どれも、「他人の持ち物に損害を与えた場合、その人は二倍にして償わなければならない」というものです。

例として出エジプト記22章3節には「もし、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗まれたものが生きたままで彼の手もとに見つかった場合は、二倍にして償わなければならない。」とあります。「損害を与えた場合の償いは倍返し」というのが、旧約時代から適用されていたのです。

さて倍返しの話はこれくらいにして、今週の福音朗読では「四倍返し」の話が登場します。ザアカイはイエスから「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19・5)と言われて、喜んでイエスを招待し、もてなしました。その席上でザアカイはこう言ったのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(19・8)

ザアカイは何となく、「四倍にして返します」と言ったのでしょうか。「二倍にして返します」という言い方も可能だったはずです。ザアカイは徴税人の頭でしたが、聖書の知識があったかも知れません。そこで「四倍にして返す」という表現が旧約聖書の中に出て来ないか、調べてみました。すると1箇所だけ見つかりまして、しかも場面にうってつけの箇所でした。

該当箇所は、サムエル記下の12章5節から6節です。これだけではピンと来ないかもしれませんが、ダビデ王がウリヤの妻を奪った話と言えば思い出す人もいるでしょう。王の過ちを咎めに来た預言者ナタンが、ある金持ちが友人をもてなす時に、自分の家畜を料理に回すのを惜しんで、家畜を一匹しか持たない貧しい人から取り上げたというたとえを話しました。

それを聞いたダビデ王が激怒してこう言うのです。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」これに対して預言者ナタンは王に答えました。「その男はあなただ。」旧約聖書にはこの1箇所だけ、「四倍」に関連する引用があります。

もしかしたら、徴税人ザアカイは、ダビデ王の過ちを預言者ナタンが叱責するこの箇所を知っていたのかもしれません。無慈悲なことをした人に対して四倍の償いを要求するダビデ言葉を自分に当てはめ、たとえ自分が無慈悲なことをしていないとしても、仲間の徴税人が無慈悲なことをしたかもしれない。ザアカイは徴税人の頭として、仲間の過ちにも責任を感じ、自分が四倍にして返すと、答えたのではないでしょうか。

「四倍にして返す」とは、どういう意味があるのでしょうか。一般的な損害の賠償でしたら、二倍で十分償いができるかもしれません。しかし人のいのちに関わる賠償でしたら、何倍あっても償いきれないはずです。

もし、ザアカイの知らないところで徴税人の仲間が無慈悲な取り立てをして、人のいのちを危険にさらしていたとしたらどうでしょう。彼は責任を感じて、かつてダビデ王が「小羊の償いに四倍の価を払うべきだ」と言ったことに倣って、「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのかもしれません。

彼は今、「すべての人のいのちに無関心でいられない方、イエス」を前にしているのですから、徴税人の頭という立場で負い目があるかも知れないので、心から悔い改め、イエスによる救いを求めていたのだと思います。

わたしたちは神に何倍返す必要があるでしょうか。人と人との間で発生する損害は、十分に配慮して、必要な賠償や償いを果たしているだろうと思います。同じことを、わたしたちと神との間で配慮して生活しているでしょうか。

わたしたちが神に背負わせてしまっている欠点・不足・罪を、日々の生活の中で、ミサに参加する中で、償っているでしょうか。人と人との損害は、いのちに関わるものはそう多くはないと思いますが、神に背く罪の中には、わたしたちの救い、永遠のいのちに関わる重大な罪もあり得るのです。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(19・10)ザアカイは、自分が本来あるべき場所から失われたものであり、イエスに捜し出してもらわなければ、救われないことを理解していました。

わたしたちも、本来あるべき場所から迷い出た者であり、自分で元の場所に戻ることができない存在なのです。そのことをなかなかわたしたちは認めることができません。ほんのわずかでも高い木に登って、「わたしはあの人とは違う」「あの人よりはましだ」と考えようとするのです。

実際は、だれ一人、自分で救われることはできないのです。人とは違うと言い張っているその場所から降りて来なければ、わたしたちはイエスと出会うことができないのです。
神からすべてを請求されるなら、わたしたちは本来償いきれないいのちです。日々自分自身を神に委ねる謙虚さを保って生活しましょう。つねにイエスに捜し出してもらえるように、「わたしはここにいます」と祈りの声を上げることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(ルカ20:27-38)
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ちょっとひとやすみ
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▼10月31日、夕方の福見教会のミサで、子どもたちに問いかけた。「今日は何の日ですか。」すぐに子供の1人が手を挙げて、「ハロウィンです」と答えた。100%、わたしからお菓子をせしめるために答えた答えなのだが、わたしはそれだけでお菓子を巻き上げられるのは面白くないので、続きの質問をした。
▼「では明日は何の日ですか。」途端にだれも手を挙げなくなった。11月1日の「諸聖人の祭日」がなければ、「ハロウィン」も何も意味がなくなるのに、まったく諸聖人の祭日は無視された。説明をして、「諸聖人があるから、ハロウィンがあるんだよ」と話す。
▼更に、「では11月2日は何の日ですか。ここまで答えられないとお菓子はあげられないなぁ。」すると子どもたちはがぜん真剣に考えるようになり、「だれか答えて!」とお互いに目配せするようになる。
▼奇跡的にだれかが、「死者の月」と答えた。「それは、11月全体の教会の呼び名だねぇ。そこまで分かっていたら答えられるよ。11月2日は何の日でしょうか。」何とか死者の日と言ったような気がしたので、ハロウィンの仮装がなくても楽しい子どもたちに、お菓子をあとで配ってあげた。

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今週の1枚
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第283回目。11月4日、土井ノ浦小教区主催のキリシタン洞窟ミサを掲載予定。

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