こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

「聖家族」(ルカ2:41-52) 神との絆、家族の絆

2006-12-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/12/31(No.275)
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「聖家族」
(ルカ2:41-52)
神との絆、家族の絆
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今日は12月31日、日曜日で聖家族の祝日、明日は1月1日で神の母聖マリアの守るべき大祝日、まるで日曜日が2日続けてやって来るような感じです。今年のようなカレンダーの年は、説教をするわたしとしてはあまりやってきて欲しくありません。2日分の説教を続けて準備すると、ますます髪の毛はなくなってしまいます。

まず今年を振り返ってみて、どんな印象をお持ちでしょうか。個人的には、復活祭にもクリスマスにも洗礼式の恵みが与えられたので、本当に恵み多い年だったと思っています。皆さんお一人おひとりも、やはり神さまはいらっしゃるなと、神さまの働きや神さまの摂理を身近な出来事で体験できたとしたら、この一年は感謝できる一年と言えるのではないでしょうか。

今年は聖家族の祝日が日曜日と重なっています。マリアとイエスが語った言葉から、家族のあるべき姿と、自分自身が属している家族が歩んだ一年を振り返ってみましょう。マリアの次の言葉は、これまで考えたことのなかったひらめきを与えてくれました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(2・48)。

マリアは夫ヨセフのことをお父さんと言いました。聖家族の中でもヨセフはお父さんと慕われていたのでしょう。つまりイエスも、ふだんヨセフのことを「お父さん」と呼んでいた可能性が高いということです。皆さんの家庭でも、父親のことを夫婦と子供で同じ呼び方をする家庭が多いと思うのです。一方は「パパ」と呼び、もう一方は「お父さん」と呼んで使い分けをしている、そんな家庭はあまりないと思います。

そうであれば、イエスの返事は慎重に考える必要があります。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(2・49)。イエスは言葉遣いとして「自分の父」という呼び方をしました。「わたしのお父さん」とは言いませんでした。ということはこの言葉遣いは、ヨセフのことを言っているのではなく、父である神のことを言っているのだと考えるべきです。これは単に日本語に訳された聖書の言葉遣いの問題ではなくて、はっきり使い分けをしていると考えるべきだと思います。

ところが、「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」(2・50)となっています。ただし、母はのちになって当時のことを正確に理解したのでしょう。「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(2・51)。長い時間をかけてではありましたが、マリアは当時のイエスの言葉が父である神とわが子イエスとの関係をはっきり言っていることを悟り、福音書を書き残すことになるルカに「今になって考えればあのときのことはこういう意味だったに違いない」と打ち明け話をしたかも知れません。

さらに考えると、もう一つのことが見えてきます。イエスは私たち家族の本来あるべき姿についても、少年時代に教えてくださいました。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。神の子イエスが、父である神から決して離れない。私たち人間家族もまた、父である神から決して離れない生活が必要ですよと、少年イエスは教えているのではないでしょうか。

そうは言っても、私たちは誰もがこれまで考えた理想にたやすくたどり着くわけではありません。そこでもう一つ意味深い点に触れるなら、イエスと両親は、三日の後に神殿で再会したということです。仮に皆さんの家庭で子供が迷子になって三日間探し続けたとしたら、その時間はどれほど長く感じることでしょうか。気の遠くなるような時間かも知れません。三日間一睡もせずに捜すかも知れません。その長い時間が、イエスの語った言葉を十分に理解するためにおそらく必要です。

父なる神から離れない生活が大切だと、言われればなるほどそうだときっと思うでしょう。ですが、神を横に置いた生活、神を無視した生活を長く続けてしまうことがあります。表では熱心な信者の顔をしていても、カトリックでない方と交わるときには信仰の物差しに目を向けないこともあり得ます。今年一年を振り返っただけでも、頭では分かっていても、または実行できた場面で実行しなかったなどの反省はたくさん出てくると思うのです。

あるいは親子の絆についても、わが子の発する信号が読み取れずに、大事なときに救ってあげられなかったこともあるかも知れません。あの時わが子が伝えたかったのはこういうことではなかったのか、あとで気付くこともあります。イエスを三日後に見つけ出したマリアとヨセフ。不安の中に過ごした三日間を通してはっきりと、自分たちにとってイエスがどれだけ大切であるか、父なる神から離れないイエスが教えようとしている事柄がいかに重大であるか、身をもって経験したのだと思います。

この時期、子供たちが帰省したり、冬休みに入ったりして、親子で触れ合う時間も多いと思います。ぜひこうしたチャンスに、神と私たちの絆、また家族の絆を考えてみてはいかがでしょうか。互いに、信頼の絆を確かめ合うことができるよう、恵みを願っていくことにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼新年の挨拶は直後のメルマガでおこなうつもりだが、今年は忙しい一年となってしまった。自分で忙しくしている部分もあるが、忙しさを隠れ蓑に、しなかったこともたくさんあるので申し訳ない気持ちもある。
▼事務処理がずいぶん滞った。ひとえに私の怠慢である。隣に事務員を置きたい気持ちだが、「自分でしろ」と言われるのが関の山かも知れない。雪崩がいつ起きてもおかしくない書類の山の中で、ほんのわずか見えている机にキーボードを載せて、一年間そのまま仕事を続けた。年末年始で片付けてみるかな。片付けないだろうなあ。
▼本を読まなかった。本はぼちぼち買ったけれども、ざっと目を通して、そのままになってしまった本がたくさん積まれている。ざっと見ただけで忘れられる本もかわいそうだ。もう少し読書の時間を「取り分けて」作る必要を感じた。本を読まなければ私の頭は余計なことに時間を使おうとする。その戒めのためにも、読書はぜひ必要だ。
▼徹底的に祈った時間がなかった。知り合いの中には事実私たち以上に生活の中で祈っている人々がいる。正直、その姿勢は尊敬に値する。決められた時間以上はなかなか時間を作らない私などは、恥ずかしい限りだ。
▼健康診断をしなかった。人間ドックにも入らなかった。風邪も引かなかったが、お腹も引っ込まなかった。きっと何とかシンドロームだ。間違いない。先生に言わせるとそこまで放っておくほうがシンジラレナイ。この一年間、お世話になりました。

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こうじ神父絵手紙
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第58回目。ある仕事に関連して、すでに来年11月と12月の予定ができています。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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主の降誕(早朝)(ルカ2:15-20)幼子がそばにいる暮らし

2006-12-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/12/25(No.274)
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主の降誕(早朝)
(ルカ2:15-20)
幼子がそばにいる暮らし
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皆さんあらためて、クリスマスおめでとうございます。朗読は「聖書と典礼」に印刷されたものではなく、あえて「早朝」にあわせて用意されたものを使いました。朗読の中で、羊飼いが目立っています。「さあ、ベツレヘムへ行こう」と語り合う羊飼いたちは、救い主を「確かめたい」その一心で幼子を訪ね回ります。

羊飼いたちは天使たちが離れ去ってから、時を置かずにイエスを拝みに来たと思われます。救い主が生まれてから何日後に到着したか、それは定かではありませんが、考えるに幼子イエスと両親とがいつまでも馬小屋に留まったとは考えにくいので、あまり日をおかずに羊飼いたちは拝みに来たのではないでしょうか。

実は私たちも、昨晩の礼拝に続いてこうして幼子の前に集まっています。これは意味深いと思います。羊飼いたちは日をおかずに礼拝に来て喜びに満たされました。私たちも、日をおかずにこうして礼拝に集まっているのですから、羊飼いたちが受けたに違いない深い喜び・神が羊飼いに過ぎない私たちにも救いを知らせてくださるのだという確かな希望は、今日ここにいる私たちにも注がれているのだと思います。

次に、羊飼いたちと私たちのことを重ねてみましょう。幼子を確かめた羊飼いたちは、自分たちが見たことを人々に知らせに行きます。だれかにその喜びを聞いてもらいたくて、誰かと喜びを分け合いたくて、羊飼いたちはお生まれになった救い主を知らせにいくことを優先させたのでした。

救い主を人々に知らせることが、私たちにとっての優先事項であるなら、何とすばらしい生き方でしょう。具体的にそれは、何かを始めるときにまずお祈りをして始めるとか、布団をかぶってさあ眠るぞというその前に、とにかく何かの祈りをして目を閉じるとか、そういった小さなことの積み重ねだと思います。

イエスの母マリアの取った態度も見逃すことはできません。マリアは、イエスの誕生と、羊飼いが拝みに来たことを心に留めて、深く思い巡らします。お産をした場所のそばには、きっと宿屋があったはずです。けれども宿屋の誰も、この物語に登場しません。不思議です。

それでもある人々は、イエスを拝みに来ました。神の救いを必要と感じている人は、探し求め、導かれて救い主のいる場所にたどり着くのだと思います。羊飼いたちの礼拝、のちにおいでになる占星術の学者たちの訪問を見て、マリア様はこの子がすべての人にとって必要な方なのだと、確信したことでしょう。どんな身分の人にも、どんな困難に置かれている人にも、救い主との出会いは必要なのです。

最後に、羊飼いは「神をあがめ、賛美しながら」帰って行きます。「賛美しながら」とは、賛美し続けて帰ったということです。神をあがめ、賛美し続けた。この羊飼いの態度は、私たちを日々の祈りに向かわせるのではないでしょうか。私の暮らしは、賛美しながらの暮らしでしょうか。あらためて考えてみたいものです。

今日ここに集まっている私たちは、救い主の誕生が私の生活に必要ですと態度で表しておられる方々です。イエスも、ご自分のもとに集まったお一人おひとりの生活に、人生全体に、これから関わってくださいます。幼子を心にお迎えする。幼子の眠るゆりかごが心の中にあるかのように、新たな一日を始めることにしましょう。あたかもイエスのそばに留まるマリアとヨセフのように、イエスと共なる生活を目指すよう、ミサの中で祈っていきましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼クリスマスの実感。いつもこの日になるとそんなことを思います。どの時間に、あるいはどんな状況で、クリスマスが来たなと喜ぶことができるのでしょうか。今年も答えが見えずにこの日を終えようとしていました。
▼もちろんこの文章を書いているのは午後5時だったので、まだ一日が終わっているわけではないけれども、書いている時点で、「終わったなあ」とは思っていました。けれども一つだけ、「クリスマスが来たかな」と感じた瞬間がありました。
▼懐かしい、浦上教会時代の主任神父様、初めてお仕えした主任神父様から電話がかかってきたのです。そう言えば、「誰かクリスマス頃に海の幸を送ってあげたい人はいませんか」と信徒に言われて、「一人いるよ。○○神父様。送ってくれる?」と言ったらすぐに準備してくれたようです。
▼「クリスマスのご馳走の来たばい」。懐かしい声でした。少し、声が細くなっているような気もしましたが、かつての主任神父様の声に間違いありません。そしてその会話は、短くても共に寝起きをし働いたた者にしか分からない喜びがあるのです。誰にも理解できないかも知れませんが、この一瞬はクリスマスの喜びを分け合えたのかも知れません。

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こうじ神父絵手紙
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絵手紙休みます。

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‥次の説教は‥‥
「聖家族」
(ルカ2:41-52)
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主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)主の天使が羊飼いを導いた

2006-12-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/12/24(No.273)
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主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
主の天使が羊飼いを導いた
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主の降誕おめでとうございます。待降節を通して待ち望んだこの喜びの日を、「生まれた」というその場面に特に注目して考えてみたいと思います。

救い主が、マリアからお生まれになりました。「生まれること」それ自体が神秘的な出来事です。お産が始まる直前まで、マリアの胎内の命はマリアとだけつながっていました。生まれた瞬間であっても、へその緒を通してマリアとだけつながっていると言っても良いでしょう。

ところがへその緒が切り離されたとき、新しい命は母親一人とのつながりではなくなります。周りに集まっている父親、また親戚たちとのつながりがこの時から始まります。マリアから生まれた幼子には、養父ヨセフとのつながりが始まりました。

親戚は周囲にいませんでした。親戚筋の人がいたかも知れませんが、出産の時には近くにいませんでした。代わりに、主の天使に促されて羊飼いたちが出来事を確かめに来ます。もしも主の天使の言葉がなければ、羊飼いが見るのは一人の夫婦に授けられた幼い命に過ぎなかったはずです。また、もしも生まれた幼子が救い主でなければ、私たちが今見ているのは「マリアとヨセフの子」を見ているだけなのです。

事実はそうではありません。布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされている幼子は、紛れもなく救い主なのです。一組の夫婦の子供であるだけではなくて、皆さん一人ひとりに関わりのある方を、今馬小屋に見つけたのです。私たちは例外なく神からの救いを必要としています。ですから今お生まれになった救い主は、私たちにとってなくてはならない方なのです。

羊飼いは、主の天使の説明を聞き、導かれて幼子を探し当てます。今日私たちの教会では説教の後に子供の洗礼式が控えています。この子も、今日主の天使に導かれて馬小屋にいるイエス・キリストを拝みに来たのです。今日皆さんの前で洗礼を受けて、これから神さまの子供、イエスさまの仲間に加えてもらいます。

見えない形では、今日のこの日を迎えるまで主の天使が導いてくれたと言って良いでしょう。見える形では、今日洗礼を受けること同じ小学校の友だちが、今年の四月から積極的に教会学校に誘ってくれました。どの子と限定することはできなくて、ここに来ているすべての小学生中学生が、新しい仲間を連れてきたのです。救い主誕生の出来事に主の使いが大きな働きをしていたように、今日の洗礼の出来事に一緒に参加している小学生中学生は大きな働きをしてくれたのです。

始まりは突然にやってきました。いつも教会学校に来る子供たちが私の知らない子供を連れてきてこう言いました。「神父様、新しい子を連れてきたけん。この子のお父さんもキリスト教ばい。勉強させて、洗礼ばさずけてくれんね」。何を偉そうにと思いましたが、中田神父が訪ね歩いて見つけてきたわけではないので、ここは教会学校に誘ってくれた小学生に逆らうこともできません。

それじゃあ祈りを3つ、「主の祈り」「聖母マリアへの祈り」「詠唱」を覚えることから始めようかと声をかけますと、小学生の一人が今から勉強が始まるこの子にこう言うのです。「最初は祈りが速くて言いきらんけども、すぐ慣れるけん安心せろよ。何回も練習すればこれくらい速く言えるようになるけんな。天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。み心が天に行われるとおり地にも行われますように」。

三年前はお前もろくに言いきらんやったくせに、よくまぁ大口たたいてと内心は思ったのですが、自分にできる範囲のことを精いっぱいお世話している様子を見ていると、宣教活動って大人だからできるとか子供だからできないとかそういうものでは決してなくて、とにかく教会に連れてくること、とにかく司祭に紹介すること。それができればその人は大人だろうが子供だろうが立派な宣教の担い手なのだと感じたのです。

恥ずかしながら中田神父も一年に何人も教会に導くことができないでいる中、大胆な行動を目の前の子供が成し遂げているのを見て可笑しくもあり感心もするしで、今年のクリスマスまでの期間は子供たちに本当に頭が下がりました。

今日この子は洗礼を受けて、イエスのまことの友だちになります。教会に来て皆と一緒に祈り、聖書の言葉を聞き、ほかの小学生に言わせると漫才のような主任司祭の説教を聞き、キリストのからだを食べ物としていただくのです。これまでは祭壇に近づいても祝福のために頭に手を置いてもらうだけでしたが、これからは堂々と聖体拝領もすることができるようになります。

まだ勉強が十分とは言えませんが、羊飼いを救い主のもとに導いた主の天使のような働きをしてくれる友だちが周りにいるので、これからも一緒に少しずつ神さまのことを学び、成長してくれるはずです。

巡り合わせが良かったと言うこともあるかも知れません。けれども、導く人がいなければ、羊飼いはイエスを探し当てることはできませんでした。三人の博士も、星の導きがなければイエスを拝むことはできませんでした。私たちの教会にも、導く人がいれば洗礼を受けて神の子供、イエスの友だちになれる大人や子供がまだいるのではないでしょうか。

この説教の後に続く洗礼式を通して、導く人がいれば、こんな大きな喜びが教会に与えられるのだということを実感しましょう。あなたが導く人になって欲しい、私のもとに新しい友だちを連れてきて欲しいと、馬小屋のイエスは私たちに声をかけていると思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼主の降誕おめでとうございます。今年のクリスマスでいちばんの喜びは小学生が一人洗礼を受けたことです。900人ほどの島で何かが起こると、それは島全体でのちょっとした話題になります。馬込教会からの小さなさざ波が、それこそ「波及」してより多くの島民に及ぶといいなあと思っています。
▼ちなみに、すでに復活祭に向けて洗礼の勉強をしている方もいます。この方はある人の奥さんです。まだまだ勉強に来ても緊張から解放されず、コチコチになって話を聞いています。どうしたら緊張を解いてあげることができるのでしょうか。
▼実は、まだ洗礼を受けてくれそうな人が一人二人いますが、ちょっと声をかける機会に恵まれません。おそらく神の計画しておられる時が満ちて初めて、物事は動くものなのでしょう。誕生されたイエスが確実に社会を導いてくださることを信じて時を待ちたいと思います。
▼ところでビスケット1枚のカロリーを消費するためには25分歩かなければならないそうです。そうすると、夜遅く執筆中にかじったチョコレートや、書き上げたので乾杯、といったことを繰り返した場合、カロリーを消費するためにはいったいどれくらい歩かなければならないのでしょうか。あくまでも仮に、ということでかじったとか今お腹をさすっているということではありません。

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こうじ神父絵手紙
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絵手紙休みます。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(早朝)
(ルカ2:15-20)
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待降節第4主日(ルカ1:39-45)主がおっしゃったことは必ず実現します

2006-12-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/12/24(No.272)
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待降節第4主日
(ルカ1:39-45)
主がおっしゃったことは必ず実現します
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今日の福音で、マリアの挨拶を受けたエリザベトに目を注いでみましょう。エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに言いました。「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(1・44-45)。救い主を宿したマリアがそばにいる時に、聖霊はエリザベトに働きかけ、彼女はマリアを高らかにたたえたのでした。

私たちは、約四週間のあいだ、イエスの誕生を待ち望んで、内的にも外的にも準備をしてまいりました。日曜日ごとに、降誕が近づいていることを感じさせる朗読が読まれました。馬小屋の飾り付けも済みました。赦しの秘跡を受けた方もいらっしゃるでしょう。馬込教会の子供たちはクリスマスミサに向けてセレモニーの練習を積み上げてきました。

こうして着々と準備し、いよいよ「今日・明日」というところまでやって来ました。残る僅かな時間を、どのように待てばよいのでしょうか。エリザベトがそれを教えてくださいます。彼女は、わが子の誕生のその日を待ちながら、心を神に向けていたのです。エリザベットの次の言葉から、彼女が心を神に向けていることが伝わってきます。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(1・45)。

ひたすら、心を神に向けること。これが、あと半日に迫った降誕祭を迎える私たちの準備です。エリザベットにとってそれはわが子の誕生です。神の使いが夫のザカリアに「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」(1・13)と告げました。完全な信頼を寄せることはできなかったかも知れませんが、胎内の子が喜んでおどった、この時期までお腹の子が成長してくると、「主がおっしゃったことは必ず実現する」という言葉は確信に変わってきたことでしょう。

もはや、後戻りはない。神が与えてくださった喜びの日は、確実に近づいている。だから、エリザベットは心を神に向けて、神の言葉が現実になるその時を待つのです。彼女にとって、わが子である洗礼者ヨハネが生まれるその日は、自分たち夫婦の喜びの日として、いやそれ以上に、神に感謝を捧げる日として、はっきり目の前に思い描くことができたのではないでしょうか。私たちにも、もうすぐそこまで来ている喜びを思って神に心を向けなさいと、エリザベットは促しているのです。

神に心を向けたとき、人は何を思うのでしょうか。もっと言うと、神に心を向けたとき、人は何を思うべきなのでしょうか。この点についてもエリザベトは答えてくれます。それは、祝福と賛美、神への感謝ではなかったでしょうか。聖霊に満たされたエリザベトは、自分の心の中にあるものをすべて、あますところなく現したのです。

私たちも、これまでいろいろな方法で、イエスの誕生に向けて準備をしてまいりました。すべての備えが、きっと心のこもった、素晴らしい準備だと思います。今は、私たちの心を聖霊で満たしていただき、祝福と賛美、神への感謝の形で表現していただきたいのです。

エリザベトが聖霊に満たされて、心の中をすべてうち明けたように、私たちも聖霊で満たしていただき、神への思いが溢れ出るようにしていただくことにいたしましょう。聖霊よ、私の心をいっぱいに満たしてください。そうすれば、私は、あなたの助けによって、心の中にある賛美と感謝を神に打ち明けることができるでしょう。心の中の喜びを、じゅうぶん形に現すことができるように、どうか私の心を満たしてくださいと、イブのミサまでの時間、繰り返し願っていくことにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼運転免許試験場のこと。受かっている人の話を聞いてみると、どうやら○○教習所でみっちり練習して受験しているらしい。手にしていたコース表に、さりげなく○○教習所の印鑑を発見した。受験○回目、またもや不合格になったその足で○○教習所に相談に行った。
▼「試験官は何か言いましたか」そこで正直に「一本橋がわずかに時間が足りてません、スラロームはわずかですが時間が超過していました。ほかにもカーブでふらつきが見られます。進路変更のときに合図を出しながらすでに車体が動き始めています、などを言われました」
▼「あー、それだけ指摘されるようだったら回数重ねても合格は難しいですね。ほぼ完璧に乗りこなせてないとダメですから」ときっぱり。「うちで5回くらい練習されてから受験なさるといいですよ」とも。そーんなに難しいのか。何より致命的だったのは、試験官から「うまく乗れてますよー」と言われた挙げ句に落とされたということだ。
▼これで、年内の合格は遠のいてしまった。それに、そもそも試験場で合格する理由さえも怪しくなってきた。どうしても乗りたいものもない。ただ単に「免許持ってるよ」という資格オタクに過ぎない。だったら十分練習させてくれる学校に行って、素直に卒業まで指導を仰いだ方がよいのではないか。そうかもね~。

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こうじ神父絵手紙
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第57回目。絵手紙どうしたの?クリスマスケーキ描いてみる?

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
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待降節第3主日(ルカ3:10-18)決まったことを継続していくのも偉大な業です

2006-12-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/12/17(No.271)
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待降節第3主日
(ルカ3:10-18)
決まったことを継続していくのも偉大な業です
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今週の朗読で、荒れ野にいる洗礼者ヨハネのもとに群衆が集まり、それぞれ、自分の置かれた立場で何をすれば悔い改めにふさわしい実を結ぶことができるのか尋ねています。その中で、徴税人が洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたとき洗礼者ヨハネが「規定以上のものは取り立てるな」と答えました。あたりまえのことをあたりまえにしなさいということです。今日は洗礼者ヨハネのこの言葉から出発したいと思います。

私は、洗礼者ヨハネが言った「規定以上のものは取り立てるな」という言葉を聞いて、ふと小神学校時代のことを思い出しました。小神学校で習い覚えた言葉の中に、こんな言葉がありました。「決まった時間に、決まった場所で、決まったことを、忠実に」。

それが何を教え込むために言われたものか、今となっては思い出せませんが、おそらく「神学生の本分」を説く言葉だったのではないかと思います。当時はこの言葉を小馬鹿にしていまして、からかい半分で言っていたものです。ところが、当たり前すぎるこの言葉、実際は当たり前にできないのです。

決まった時間に、決まったことがあります。私自身のことで言えば、毎日決められた務めがありますし、一週間という中では日曜日のミサのお説教があります。あるいは月単位では教区の新聞「よきおとずれ」、目の見えない人のために準備する持ち時間15分の宗教コーナーの録音、子ども向けの全国版の雑誌「こじか」の原稿などがあります。決まっているもの、必ずやってくるわけですから、いくらぼやいてもやってきますし、いくら文句を言ってもなくなるものではありません。

それなのに、毎度毎度、はあきっつぁよとか、何で自分かなぁとか、ブーブー文句を言っている自分がいます。あたりまえのことをあたりまえにすることがどんなに大事なことか当時の神学校の神父様は経験から分かっていて、教えてくれていたということがよく分かります。今「決まったことを忠実にできない」者が、司祭になってできるはずがないのです。その時は「あーやかまっさよ」と思っていましたが、洗礼者ヨハネの言葉は、今も生きているのです。あたりまえのことを、あたりまえにおこなうことが基本なのです。

今年6月頃だったか、修道者の生活について一つのひらめきがありました。修道会も大きく二つのグループがあります。一つは社会に対して活動を通して関わっていく修道会です。純心聖母会は教育を通して社会に関わっている修道会です。私が考えていたいのは、観想修道会と言って、社会活動はしないで、修道院の中にとどまってひたすら神を礼拝することに集中する修道会です。カルメル会とかトラピスト会とか、レデンプトリスチン修道会とかです。

ある意味社会と縁を切って神さまを礼拝することだけに向かう観想修道会のことを考えていて、ずっと変わらず同じ礼拝を繰り返している修道者たちに対する見方がちょっと変わったのです。毎日の生活には変化がありません。それこそ、「決まった時間に、決まった場所で、決まったことを、忠実に」です。けれども実はそれが、神が永遠に存在すること、今も昔も変わらず働き続けておられること、神の救いの業がずっと継続していることの証しになるのではないかと思ったのです。

観想修道会の皆さんが毎日少しも変わらない時間割で礼拝を続けているということは、裏を返せば、神の働きが今も昔も変わらずに続いているから礼拝し続けているということです。神の永遠の働きを永遠に変わらずたたえるために、今日も明日も観想修道会の修道者たちは礼拝し続けているのだと思うようになったわけです。

今日、皆さんが持ち帰っていただきたい言葉を、もう一度繰り返します。「決まった時間に、決まった場所で、決まったことを、忠実に」。これです。あったり前、もう分かっとる、そう思うかも知れませんが、お一人お一人の生活の中で、本当にその通りにしているか、忠実に行うことができるように、神様に助けを求めているか、振り返っていただきたいのです。

馬小屋の飾り付けを見ながら、私は先の言葉をかみしめておりました。毎年クリスマスの飾り付けをします。馬小屋の飾り付けをする。この決まったことを、忠実に果たしていく。毎年その繰り返しです。同じことをしているようですが、材料を少しずつ継ぎ足す必要がありますし、手伝ってくださる人は毎年お願いしないと集まらないでしょう。この当たり前に見える作業が、子供たちにとっては毎年新鮮な喜びとなってくれるわけです。今年も子供たちは、大人たちの飾り付けにワクワクするのです。

当たり前にこなすことが、いかに大変で、大切なことか、本当に考えさせられます。親が、子供に信仰の大切さを教えること。これは当たり前のことです。子供が、自分がこんなに勉強や部活に集中できるのは親のおかげだと知って感謝すること。ごく当たり前のことです。一人ひとり、イエスがおいでになるまでの一週間「決まった時間に、決まった場所で、決まったことを、忠実に」過ごしていきたいものです。イエスもまた、今年の私たちのために、「決まった時間に、決まった場所で、決まったことを、忠実に」成し遂げてくださいます。

「イエスよ、今年もわたしたちの心においでください」。そんな期待を持ちながら、この一週間を過ごしてまいりましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼寒気がやってきた。吹き付ける風が海を荒れさせ、日常の足となっている交通船はジェットコースター並みに揺れ出す。ふだんは少々の波であれば興奮する自分なのだが、この地にやってきて冬の海に毎週繰り出してみると、ワクワクどころではないのがよく分かる。学校に通っている高校生などは、毎日この荒波に通っているわけだから、頭が下がる。下がるけれども、教会に来てくれないからぜひ来てくれ。頼む。
▼「英文法・語法のトレーニング 必修編」という本を買った。もう一冊「戦略編」というのも次のために準備しているが、必修編で初めて英文法が「そういう仕組みだったのか」と分かった気がした。25年前には分からなかったので丸暗記して試験を受けていたのだが、文法はどの言葉の文法でも「仕組み」であって理解して適用させるもののはずである。それが、この歳になってようやく理解できた。これで、また英語の勉強をやろうという気になった。
▼ずいぶん駆け足ではあったけれども、ようやく聖書の通読の目処が立った。通読し始めてから7ヶ月とちょっとということになる。本当は、まだ読み残しがあるので威張ることはできないが、今月いっぱいですべて読み終えることになりそうだ。かなり努力して読めば、8ヶ月で新約聖書、旧約聖書、旧約の続編も含めて読み終えることができると分かった。また、次のマラソンに向けて体調を整え、スタートを切りたい。ブログは途中大幅にサボってしまったけれども、読み終えたことは間違いないのでご心配なく。心配かな。
▼そう言えば大型自動二輪を試験場で受験している話はどうなった?実は3度目の挑戦も失敗に終わった。ありえない話だが、今回はエンストを2度もしてしまった。自分としてはありえない失敗だった。だが現実は受け止めなければならない。この分だと大型自動二輪免許取得は年を越しそうだ。4回受験してダメなら教習所で自信を付けてから試験場に行ってみようかな。年末年始、本来は挨拶状を出すところですが、今年は霊的な父と慕っていた中田武次郎神父様が亡くなったので、喪に服し、年賀状の挨拶は控えさせていただきます。皆様はよいクリスマスと新年をお迎えください。

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こうじ神父絵手紙
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第56回目。気が変わったので違う食べ物を描いてみますか。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:39-45)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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待降節第2主日(ルカ3:1-6)命の大切さになぞらえて考える

2006-12-10 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/61210.asx

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/12/10(No.270)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第2主日
(ルカ3:1-6)
命の大切さになぞらえて考える
‥‥‥†‥‥‥‥

今日の福音は、洗礼者ヨハネの登場と、イザヤの言葉の引用で、私たちにクリスマスの準備を促しています。これからの一週間、私たちの心の準備に当てていく何かをつかむことにいたしましょう。

この福音書を書いたルカは、最初のところで、二つの動きを紹介しています。一方は、この世の権力者の名前を挙げて、この世がどれほど権力を欲しがっている世の中だったかを描き、もう一方では、荒れ野という、この世の権力争いとは無縁の場所で、神の言葉が伝えられていく様です。

神の言葉は、権力と支配がすべてという場所に降ることなく、しかしそれと同じ時代に、神の言葉はヨハネが活動の場に選んだ荒れ野に降ったのです。権力は何と魅力的なことか、神を信じることに、どれほどの意味があるだろうか。権力者が力を見せびらかしていたその時に、権力争いから離れた場所で神の言葉が降り、活動し始めるのです。

あるいはそれは、ほかのいろいろな疑いを持っている時代に、神の言葉が降ったと言ってもいいでしょう。たとえば、命は、大切だろうか、命の大切さをいったい誰が、どこで教えてくれるだろうか。そう疑っている現代にも神の言葉は降る。そう言い直しても構いません。

政治がよくなれば、日本は良くなると考えている人がたくさんいます。それはそうかも知れませんが、政治家が世の中を動かして、たとえばゆとりのある教育を押し進めたとしても、命の大切さを、本当に教えることができるようになったかと言ったら、そうでもないのです。神の言葉が降って、神の言葉を受けた人が、神の思いを忠実に伝えなければ、たとえば命の大切さも、本当の意味では伝わらないのです。

学校では、特定の神を取り上げることはできません。ですから、「いのちは神が与えてくださったものだから、大切なんだ」という、この一言を言いたくても言えないのです。「かけがえのない命」とは言えても、神が造られたから命は大切なんだ。たったこれだけのことが言えないのです。

だからこそ、神の言葉はザカリアの子ヨハネに降り、伝えよと言われたことをそのまま伝えます。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。(中略)人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と。残念ながら、政治の舞台も教育の現場も、神の言葉を神の言葉として語れないのです。そんな行き詰まりの中にある社会に、宗教だけが、神を信じる集いだけが、神の言葉を神の言葉として聞き、学び、伝えて回ることができるのです。そしてその神の言葉が、まもなく人となっておいでになるのです。今私たちはその日を待ち、喜び迎えようとしているのです。そう思って、一日一日を過ごしていただきたいのです。


次に、洗礼者ヨハネの口を通して語られた、イザヤ預言者の言葉をもう少し考えてみましょう。引用された言葉に共通するのは、「~される」という言い回しです。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らに(「される」ということでしょう)なり」。

洗礼者ヨハネの呼びかけを聞いて、あーそうだ、私たちは救い主をお迎えするために、あわただしい生活のなかに、落ち着いた場所を用意しないといけない。そう感じた人たちが、呼びかけに答えて神に立ち直るとき、時間に追われ、落ち着きを失っている私たちにも、神様が宿る場所、平らな場所が与えられるわけです。

それは、呼びかけに答える私たちと、実際にその歩みを完成してくださる神様との、共同の働きです。神が、谷を埋め、山と丘を低くし、曲がった道をまっすぐにしてくださるのです。こうして、イエスを迎える準備の時から、神が私たちの準備を助け、完成してくださると気付いていただきたいのです。

神が、人となっておいでくださる。権力争い、支配欲などでドロドロになっている世の中であっても、神は伝えたいことがたくさんあって、おいでくださる。命がなおざりにされ、物とか力で他人を支配しようとする世の中に、神は命の大切さをみずから知らせにおいでになるのです。

国や政治、あるいは法律が、命の大切さを決めるでしょうか。今宿ったこの命は守り育てるけれども、あの命は事情があって守ってあげられない。現に法律がそれを許しているのだからと考える人がいますが、日本の法律はなぜすべての命を大切にしてくれないのでしょうか。あの人はまだ生きていて良いが、この人はかわいそうだから、国の定めた条件に合えば死んでよい、とでも言うのでしょうか。

神だけが、命の尊さ、生きる意味について正しく教えてくださいます。そのことをはっきり教えるために、神がまもなく、人となっておいでくださるのです。ある国で安楽死の法律が決まっても、いのちに権限を持っておられるのは神です。その国にとっても、イエスの誕生は、まことの命の意味を知るために必要なのです。

神だけが知っておられ、神のみが教えることのできる真理を、私たちは必要としています。そういう思いで今年も主の降誕を待つことにしましょう。教会にみなで集まってイエスを待ち、生活にあっては祈りの時間を持つことで、この社会にイエスがおいでくださる必要があるということを証ししていきましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼葬儀が1日2回も続いた。朝、船の中で見かけたおばあちゃんが、その日の昼には容態が急変してその日のうちに亡くなった。同じ日、十日間くらい「今日か明日か」と気になっていたおじいちゃんが亡くなってしまった。
▼その日の夜9時、先におばあちゃんが亡くなったという電話が入った。「亡くなりましたか。通夜と葬儀の時間を明日にでも話し合いましょう」。そう言って電話を切ってから1時間もしないうちにおじいちゃんが亡くなったという電話が入った。「えー。2人亡くなっちゃったなあ。落ち着いて聞いてね。2つの巡回教会で死者が出てしまったから、通夜と葬儀はそれぞれこういう時間でないと組めません。だから、都合もあるでしょうが、こういう時間帯で進めていきましょう」。
▼すぐに、両方の遺族たちに折り返し電話を入れた。木曜日、夜6時から1つめの通夜。6時37分の船で移動し、7時半に2つめの通夜。最終便の船に乗り、司祭館に戻る。金曜日は9時57分の船に乗り11時から1つめの葬儀ミサ・告別式。火葬の祈りまで済ませて12時40分の船に乗って移動し、13時半から2つめの葬儀ミサ・告別式。火葬の祈りを済ませて15時半の船に乗って司祭館に戻る。
▼船も便利なこともある。渋滞がないのでほぼ定刻に島から島に移動することができる。だが一日中船に揺られてそれが二日連続となるとちょっと体ももたない。絶対に口を付けない栄養ドリンクとかサプリメントと言われるものを、使ってみようかなという誘惑に駆られる。サプリメントって、使うの抵抗ありませんか。

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こうじ神父絵手紙
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第55回目。こうじ神父はメロンパン大好きです。たぶん来週も描きます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ルカ3:10-18)
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待降節第1主日(ルカ21:25-28,34-36)信じる人には解放を告げるしるし

2006-12-03 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/12/03(No.269)
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待降節第1主日
(ルカ21:25-28,34-36)
信じる人には解放を告げるしるし
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今日は、年間の最後の日曜日、「王であるキリスト」をお祝いしています。朗読された箇所の中心点は、「イエスはわたしたちの王です。わたしたちはどうやって王であるキリストを意識しますか」ということになります。過ぎた一年を振り返りながら、私たちが態度でもイエスを王として認めてきたか、この点も考えていくことにいたしましょう。

イエスは、ピラトに尋問されています。ピラトは、政治的な王であれば、イエスを容赦なく裁こうと考えていますが、イエスの答えからは、政治的な臭いは伝わってきません。いわゆる権力者という格好をしているわけでもないので、なぜこの人が裁かれているのか、不思議に思っています。

イエスのほうは、最初から立場は一貫しています。イエスはこの世の国の王ではなく、神の国の王なのです。「わたしの国は、この世には属していない。」イエスが治め、導かれる国があります。そこにはイエスに導かれる国民が集います。ですが、それらはすべて、この世で興ったり滅んだりする国とは違うのです。この世の国々を越えたところに、イエスが治める「神の国」はあるのです。

イエスは、この神の国を知らせるために、この世においでになりました。「わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。」すでに来週からは、教会の暦は新しい一年に入ります。教会の典礼暦は、神がご自分の国の到来を伝えるためにおいでになるできごと、イエスの降誕から始まるのです。この典礼暦の中では、イエスの宣教活動、受難と死、復活の出来事が織り込まれながら、今日の王であるキリストの日曜日で締めくくられるというサイクルになっています。

こうしてみると、一年の始まりの待降節・降誕節は、「神の国を知らせる決定的な出来事の始まり」であり、一年の終わりの今日、「王であるキリスト」の日曜日は、その、神の国がこの世にも充満し、すべての人が神の国の国民となることを願うことで終わるという、実にすっきりした形になっていることが分かります。あとは、私たちが、その一年の暦の中で、神の国を示してくださったイエスに、心から「はい」と答えてきたか、私たちの生活を、神の国に住む者としてふさわしく調えてきたかという問題が残ります。

皆さんは見知らぬ土地で、思いがけずカトリック信者の方と出会って、親しみを覚えるというようなことはないでしょうか。旅行先とか、あるいは病院、学校、そういったところで、「へぇー、あなたも信者?あー、嬉しい」とホッとする体験はないでしょうか。わたしは、そういう話をときどき聞きます。私たちは、見ず知らずの人でありながら、同じ信仰、同じ神を信じているということで、言葉では説明できないけれども、信者というだけでホッとするものなのです。

さらに、そうした不思議な縁を機会に、お互いが住んでいるところの教会の話とか、家族の話をすると、もっと親近感を持つことができると思います。あなたが持っているその感覚、そのセンスが、実は神の国の市民、神の民であることの確かな証なのです。そこには、北と南、先進国と途上国、政治信条、すべてのものを越えてつながる力があります。これが、神を王としていただいている私たちに与えられたすばらしさなのです。イエスを王としていただいて、導きをいただいている恩典なのです。

私たちは、神に導かれて日々を過ごすというこの中心線を、きちんと据えてこの一年を過ごしてきたでしょうか。家族で助け合う、兄弟仲良くする、親戚や、近所同士で協力する、教会の一員として、教会運営に参加する。これらはすべて、「わたしもあなたも、神の民だから」この基本線に沿って続けられるものです。

心にゆとりがあるからできるとか、経済的にある程度ゆとりがあり、仕事も楽になったので、愛に満ちた生活が営めるのではないと思います。イエスが、愛をもって私たちを治め、導いてくださっている。その喜びを形にしていこう。幼子となって現れ、多くのたとえで解き明かし、最後は命をかけて救ってくださった王が、今私たちに、神の国の国民として歩きなさい、イエスの愛を受けた人として生きなさいと招いているのです。

神を王としていただいています。イエスの言葉、行いにもっと関心を持ちましょう。イエスが最後までゆるし続けたのなら、私たち国民も人を最後までゆるしましょう。イエスが虐げられている人を守られたのですから、私たちも弱い立場の人々に目を向けましょう。こうして、一人ひとりがイエスの望みを生きるなら、王であるキリストは誉れを受けるのです。

私たちはこの一年間、王の喜びとなる国民だったでしょうか。この一年を振り返りながら、続けてミサにあずかってまいりましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼先週の「ちょっとひとやすみ」に大型自動二輪を受けて落ちた話を書いたら、それが引き金になって中年女性とこんな会話になった。「えー、それじゃバツイチじゃないですか」。「バツイチって、意味分かって言ってるの?この場面で使う言葉じゃないと思うけど。それじゃ2回落ちたらバツ2になるわけ?」自分で言っておいて自分で大笑いしていた。
▼運転免許試験場は毎度試験官が違っていたり前回はクリアできていた課題をしくじったりするので簡単ではない。合格したら正々堂々と報告するし、その時は免許証の絵手紙でも書くから、今しばしお待ちを。今日は過ぎた一週間でいちばんの笑い話を紹介。
▼冬になると高島の巡回教会は前日の土曜夕方ではなく日曜日にミサをしている。理由は、冬の荒天にミサをしに行くと、出かけた時間帯には船が出ても、帰りの夜の船は欠航になることがあるからだ。高島で足止めを食ってしまうと、翌朝の大明寺教会、馬込教会のミサができなくなってしまう。
▼そこで、天気が落ち着く日曜日の昼前にミサをして、昼食をご馳走になって帰ることにしている。先週はイカ刺しと、カワハギのフライを食べてアサヒスーパードライを1本飲んだ。のどを潤したそのあとに、眠気が襲ってくることになる。12時30分に高島ターミナルで船に乗った。この時間帯、出発はいつも12時40分である。そのうちにうっかり眠ってしまい、事件は起こった。
▼「キンコンカンコン。本日はコバルトクイーンにご乗船いただき、誠にありがとうございます」。船内放送を聞いて飛び起きた私は、寝ぼけてとんでもない行動に出た。船室から飛び出して昇降口に行き、船員に「降ろしてください」と言ったのだ。船員は、「ダメです。もう船は動き出してるから。教会の先生、本当に降りるんですか?」「寝過ごしてしまったんです」「降ろすことはできません」。
▼私の頭の中では、「高島を出発→伊王島に到着→伊王島を出発する際のアナウンスが聞こえた」という感覚だった。降ろしてくれないというのでしかたなく船室に戻って大明寺教会の役員に電話をかける。この日は戻ってすぐに納骨の約束をしていたからだ。納骨は午後1時。「伊王島乗り過ごし→長崎の大波止→伊王島に逆戻り」となると2時18分になるから、「寝過ごしたので納骨は2時半に変更」と正直に船の中で電話。
▼船が動き出して10分。見慣れた島が目に飛び込んできた。伊王島だ。なぜ伊王島が見えてくる?そこから慌てて電話をかけ直した。「○○さん、ゴメン。さっきの連絡取り消し。予定通り1時から納骨です。寝ぼけてたみたい」。ここは正直に話したほうが面白い。伊王島で船を降りるとき、「さっきは船がまだ動き出してなかったのですね」と船員に言ったら、「だから先生がどうして降りるって言うのか、分からなかったんですよ」。
▼そりゃあそうだ。もしも高島で降りていたら、2時半では済まされず、さらに30分以上遅らせなければならなかっただろう。そんなことにでもなれば昼に楽しみにしていた「ジャパンカップ」でのディープインパクトの雄姿も見損ねていたかも知れない。あんなに強い馬なのに今年限りで引退、しかも残りは有馬記念1レースのみというのは実にもったいない話だ。今後語り継がれる1頭であることは間違いない。おっと、コースを外れてしまった。これで「バツ2」か。

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こうじ神父絵手紙
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第54回目。一筆書きです。これ、何だか分かりますか?コース図です。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(ルカ3:1-6)
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