こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第22主日(ルカ14:1,7-14)空の手で、報いを求めない

2010-08-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/08/29(No.491)
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年間第22主日
(ルカ14:1,7-14)
空の手で、報いを求めない
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今日の福音では、「へりくだる者は高められる」というのがポイントだと思います。まず身近なところで、「へりくだる」というのがうまくいった例と、失敗した例を挙げてみたいと思います。

まずは、「へりくだる」の成功例です。この夏の高校野球特別なドラマが待っていました。沖縄県代表の興南高校が、春夏連覇を果たしました。NHKの夜9時のニュースで、キャスターが我喜屋優監督にインタビューしたときの様子が流れていましたが、春に優勝した生徒たちをもう一度リセットして出発することがとても大変だったと語っていました。

そうだろうなぁと思います。春に優勝したチームに、初心に立ち返って練習しようと呼びかけても、「自分たちは春に優勝したんだ」という驕りとか心の油断とかがどうしても頭をもたげてくると思うのです。全部取り払ってやりなおそうとしたって、それは簡単ではないと思います。

「春は春だから」と頭では思っていても、「優勝したことがあるんだぞぉ」という気持ちを決して出さないというのは並大抵のことではなかったはずです。その点を監督の指導でうまく乗り越えて、春の優勝チームなのに、まったくの振り出しに戻って選手を鍛え上げることができた。その結果が、今回の優勝に結びついたのだと思いました。

次に、「へりくだる」の失敗例です。わたしは、前の前に赴任していた教会で恥ずかしい思いをしたことがあります。この教会は、わたしが初めて主任司祭となって赴任した教会でした。それから新しい辞令をもらい、前任地に転勤していったのですが、転勤して間もなく、前の前の教会の御婦人が亡くなって葬式のミサに出席することになりました。

その方は、長崎教区の神父さまのお母さんでもありました。ですから、葬儀ミサにはたくさんの神父さまが出席していて、わたしもその中の1人としてミサをささげていたのです。

亡くなった方や、司式をしておられた息子さんの神父さまには失礼な話ですが、「あー、ついこの前までここにいたんだなぁ。お、あの人も来てるなぁ。」そんなことを思ってずいぶん気を散らしながら、同席の神父さまと一緒にいたわけです。

ミサの途中、ちょっとした問題が発生しました。典礼の係の人に指示を出せば、すぐに対処できることでしたが、いっこうにその問題に対処する様子が見えませんでした。わたしは思わず、典礼係の人の名前を呼んだのです。「○○さん。ちょっと、対処してあげてよ。」

つい、声を出して言ってしまったのですが、言ってから気付きました。「あっ、わたしは数カ月前に、もうここの主任神父ではなくなっていたんだ。わたしが口を挟んではいけない。」けれども、もう後の祭りで、静まり返った聖堂に、前任者に過ぎないわたしの声が響いてしまったのでした。

とっさのことでしたが、今でもその時のことは思い出すと申し訳ないなぁと思います。わたしの後任でやって来た神父さまも、その教会で初めて主任司祭になったのでした。その神父さまを差し置いて、係りの人に指図したのですから、後任の神父さまに面目が立ちません。本当に恥ずかしいことをしたなぁと思います。

今週の福音朗読で、イエスは神の前にへりくだることの大切さを教えます。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(14・11)たとえ話の中では、婚宴に招待された時、末席に座れば、人々の前で面目を施すことになるではないか。だから、神の前にへりくだることは、神に高めてもらう何よりもよい方法だと促します。

しかも、見逃してはいけない小さな付け加えがあります。「だれでも」です。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のです。わたしは、前の前の教会の主任司祭でした。確かに数カ月前までは、そうでした。それでも、「ほら典礼係、何ばしよっとや」というような態度をとってはいけないのです。

きっと、数カ月前まで主任司祭だったのですから、わたしが指示を飛ばしたほうがすぐに解決するでしょう。けれどもそれは、踏み越えてはいけない部分だと思うのです。「だれでも」へりくだる必要があるのです。あの場面、どうしても典礼係に指示を出そうと思うなら、今の主任司祭にそっと伝えて、それから典礼係に動いてもらうべきだったと思います。

「へりくだる」ことの大切さがわかると、イエスのもう1つのたとえ、「お返しのできない人を、招待してあげなさい」も理解できるようになります。お返しをしていただくことは、報われるということです。報いを手に受けた人は、それ以上、報いを手にすることはできません。すでに、報いを手にしているからです。

いっぽうで、お返しのできない人を招いたとき、わたしたちの手は報いを受けないのですから、いつまでも手は空っぽのままです。それでいいと、イエスさまはおっしゃいます。その空の手に、イエスさまが最後の報いを用意してくださるからです。手が空いてる、空の手だからこそ、わたしたちは報いを手にできるのです。

こんな聖歌を思い出しました。「空の手で、はだしのままで、ついて行きたいキリストに。ついて行きたいキリストに。」わたしたちは、手に報いを得ることばかりを目的にして奉仕すべきではありません。手に報いが得られない働きこそ、あなたにとって願ってもないチャンスです。誰も報いてくれないその働きに、イエスが報いを用意してくださいます。


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ちょっとひとやすみ
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▼ボートがようやく手に入った。ボートを所有していると聞けば、贅沢だと思われるかもしれない。まぁ、その辺はお任せしたい。慣らし運転にすぐに行ってみた。この日、前日から来ていた来客も、慣らし運転に付き合うように求めたので、同伴してくれた。8月21日の土曜日朝だったと思う。この日は問題なく出航できたのだが、その後は何回もトラブルに見舞われた。
▼慣らし運転2回目。この日は別の来客(五島住まい)に「ボートにきっと乗りたいでしょ。でしょ?」と無理やり誘って乗せた。走っているときは問題なかったのだが、帰ってきて港内に戻った瞬間に、エンジンが停止して船が流された。港内だったのですぐに救助してもらったが、港外に出ていたらどうなっていただろうかとぞっとする。
▼すぐに○○モータースに連絡。翌日点検をするも、「持ち帰らないと修理できないような故障のようです」ということで、慣らし運転はお預け。それでもすぐに原因が見つかり、翌日にはエンジンが無事に戻ってきた。戻ったところに2回目に乗った来客(五島住まい)がもう1度訪ねてきたので、今度は釣りをしてみないかと誘い、ファミリーフィッシング。
▼さすがにボートからの釣りには慣れていないのか、子供たちは大苦戦。わたしと保護者は五島生まれ。慣れたもので次々にそこそこの大きさと種類の魚を釣り上げ、経験の差を見せつけていた。風が少し強まり、島影に回ろうということになり、船を移動させる。この時点で、内心は「あー、もう魚釣りは終わり。」という感覚だったのだが、結果は意外なことに。
▼風の当たらない静かな場所に着き、「釣竿を入れるだけのつもり」で開始してしばらくすると、たいした魚も釣っていなかった子供が、突然大きく竿を曲げた。つい、本気になってしまい、「竿を立てて!」「糸を巻き続けて!竿を降ろしちゃダメ!」と真剣に指導してしまった。おかげで、30センチはあろうかというイサキを、子供が釣り上げた。
▼船頭としては、客に魚を釣ってもらったのだからこれに越したことはないのだが、内心は複雑である。同じ場所にいるのだから、同じイサキが釣りたい。しかし、欲の皮が突っ張っている大人には、なぜかイサキはかからなかった。天使のような子供だけが、幸運をつかんだ3回目の慣らし運転だった。

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新企画今週の1枚
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第98回目。夏休みの最後の思い出か。30センチのイサキを釣り上げて喜ぶ子供。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100829.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(ルカ14:25-33)
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年間第21主日(ルカ13:22-30)信仰の道は迷わず選ぶの繰り返し

2010-08-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/08/22(No.490)
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年間第21主日
(ルカ13:22-30)
信仰の道は迷わず選ぶの繰り返し
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今年の夏は、たくさん泳ぎました。最初のきっかけは、わたしが生活習慣病検診を6月30日に受診して、その結果高脂血症で、毎日散歩程度の運動が必要ですと言われたことでした。子供たちは子供たちなりに知恵を働かせて、これは夏休みになったら神父さまを水泳に誘ってあげなければならない、そういう結論に達したのでしょう。

おかげでこの夏は子供たちから何度もお誘いがかかり、一緒に泳ぐことができました。ただし、「泳ぎましょう」と誘っておいて、喜び勇んで出てきたら、「今日は泳いじゃダメって言われました」と言い出し、それにつられて「じゃぁあたしも泳がない」と手のひらを返され、1人寂しく泳いだこともありました。

その一方で、2人でわたしを誘っておいて、1人が泳ぎに来なかった時、1人残されて入りづらくなった子供をなだめて、一緒に泳いだこともありました。これは、取り残されたその子と触れあうための貴重な体験となりました。

たくさん泳ぐ機会を作ってもらった点は、子供たちに感謝したいと思います。確かに素晴らしい運動の機会になりましたので、夏の間の健康づくりには貢献してくれました。でも内心は、昼のど真ん中にピンポーンとお誘いを受けるわけですから、いろんな仕事も取りかかっている真っ最中ということが多いわけです。

「あー、ピンポーンと来たかぁ・・・どうしようかなぁ。」そう思いながら海に出て行ったことも2度や3度ではありませんでした。仕事は最初からやり直し、泳ぎから帰って来れば3時間は時間を取られる。ますますもってしなければならないことが追いつめられるわけです。

ですが、結論から言って、机に座って3時間を無為に過ごすよりも、はるかに仕事は進んだのでした。物理的に時間が取られてしまったのですから、もう他に選択肢はないわけで、しなければならないことと向き合わざるを得なかったからです。それまでは「昼に仕上がらなければ、夜に仕上げればいいさ」という調子でしたが、昼は泳いだのですから、「もう夜には、何が何でも書くぞ」と、迷わずに仕事をすることができたと思います。

今週の福音朗読でイエスは、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人に答えて、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(13・24)とおっしゃいました。これは、「救われる道の選択肢はそう多くはない」ということだと思います。

間口が広いあいだは、「あー、いつでも入れるさ」と思っていますが、実際には入れなくなることがあり得るのだから、狭い戸口であっても入れるうちに迷うことなく入りなさいとわたしたちに促しているわけです。あとになればいろんな方法が思いつくと高をくくってはいけないのです。選択肢が少なくても、道があるなら、ためらわずにその道を選ぶ必要があります。

考えてみれば、今年の夏はこのイエスの戒めをよくよく考えさせてもらう期間だったような気がします。この夏に、子供たちと触れ合うことがなければ、その後何年間この小教区にいても、目の前の子供たちと触れ合うことはできなかったでしょう。「来年触れ合えばいいさ」というのは幻想です。

同時に、泳いでいればだんだん時間も迫ってくるわけですから、自分に任せられた仕事、小教区の仕事であれ、「よきおとずれ」といった教区レベルの仕事であれ、あるいは全国レベルで読まれているカトリックの読み物の原稿依頼であれ、「迷わず取り掛かる、他に選択肢はない」そういう経験を積ませてもらいました。

つまり、案外「選択肢は少ない、狭い戸口しかない」ということなのです。皆さんがいちばんよく口にする言葉で、このことをさらに踏み込んで考えましょう。しばしば耳にする言葉ですが、「あとでゆっくりなったら、信仰はするさ。」あなたの周りにも、こういうことを言う人がいないでしょうか。本当に、信仰の歩みは人が言うほど間口が広いのでしょうか?

わたしは、信仰の歩みこそ、「狭い戸口から」入っていく必要があるのではないかと思っています。先ほどから何度も繰り返していますが、「狭い戸口から」と言うのは、「選択肢はそう多くはない」という意味です。今、ほんのわずかでも祈りを学ぶ時間があるなら、学ぶべきです。

今、聖書を読んでみようかなぁと思ったのなら、ためらわずに読み始めるべきです。そう言えば8月1日の説教で聖書を1ページずつ食事の前に読み続けましょうと勧めましたが、わたしのほうはもうすでに「マタイ福音書第13章」まで来ました。

他にもあります。先週は聖母の被昇天でしたが、長崎教区のカトリック信者の人たちは、聖母被昇天の前にはしばしばゆるしの秘跡を受けて、お祝い日のための準備をしていました。ゆるしの秘跡はしばしば億劫になりがちで、これもまた「狭い戸口から」入るべき秘跡です。後回しにすると、「入ろうとしても、入れない人が多い」ということになってしまいます。聖母被昇天に間に合わなかったかもしれませんが、来週でも全く問題ありません。思い立ったそのときに、行動を起こしましょう。

家庭で、仲たがいを起こしている人がいないでしょうか。「そのうちに、仲直りできるさ」と思っているかもしれませんが、本当に「そのうち」というチャンスは巡って来るのでしょうか。「チャンスが回ってこなかった」では、取り返しがつかなくなってしまいます。

しばしば、選択肢は多くはないのです。イエスが「狭い戸口から入るように努めなさい。」と言っているのは、本当のことなのです。実際には、もう一度チャンスが巡って来るかもしれません。けれどもわたしたちは、その「もう一度巡って来るかもしれないチャンス」を、自分で用意できないのです。

自分で作り出せないものを当てにできるはずがありません。むしろ、「今日できることなら、今日取り組む」「今できることなら、今取り組む」こういう姿勢で、信仰の歩みを積み重ねていきたいものです。


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ちょっとひとやすみ
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▼五島に転勤して、五島のことはよく知っているつもりだったが、知らないことがたくさんあることを思い知らされる。五島では、しばしばカトリック信者と仏教徒はお互いに摩擦を起こさないために別々の集落を形成して住んでいた。そのため、同じ五島に住んでいながら、言葉が微妙に違ったりしていた。
▼当然、別々の集落を形成すれば、頻繁には交流しないわけで、それぞれの中で習慣や伝統が成り立つことになる。その1つを、8月15日に目にした。浜串の集落から福見の集落に移動する際、途中に岩瀬浦地区がある。大まか、岩瀬浦地区は仏教徒の住む集落である。8月14日に聖母被昇天の前晩のミサを終えての夜の帰り道、目を見張る光景に出合った。
▼お墓に、都会の夜景のように煌々と明かりが灯されていたのである。詳しいことは知らないが、おそらく、先祖の魂をお迎えするために、たくさんの明かりを灯しているのだろう。あるいは、そこにいる先祖の魂が寂しくないように、明かりが灯されているのかもしれない。
▼とにかく、1基のお墓に対して10個から20個の電球が飾られていた。わたしの知っている限り、カトリック信者の墓地では、8月15日のためにそのような飾りを墓地に施すという習慣は聞いたことがない。これまで8月15日を、仏教徒の集落の伝統に沿って過ごしたことがなかったための無知である。それにしても、電球に飾られた墓地は、見事な光景だった。
▼赴任した小教区についての新しい知識。高井旅教会のある一帯の集落は、今から70年ほど前に、集団改宗をして、カトリック信者になったことを知った。それはおそらく教会の歴史を紐解けば明らかになるわけだが、今回は思いがけないことで集団改宗の話を聞くことができた。
▼木曜日に病人を訪問して御聖体を授けて回っているが、病院に入院している高井旅の信者の方が、自分は18歳の時に集団改宗を経験した、今は89歳だとおっしゃっていた。病人なので、詳しい話は聞けなかったが、あとでじっくり聞きたい興味深い話だった。また、この話は機会があれば触れてみたい。

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新企画今週の1枚
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第97回目。海水浴。別名、子供のお守。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100822.jpg

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‥次の説教は‥‥
年間第22主日
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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)主がおっしゃったことは必ず実現する

2010-08-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/08/15(No.489)
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聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
主がおっしゃったことは必ず実現する
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聖母の被昇天の祭日が、日曜日、主日と重なりました。とても珍しいことだと思います。クリスマスが日曜日に重なるのも珍しいと思いますが、司祭にとっては、聖母の被昇天、クリスマスが日曜日に重なっている年は、最高の祝い日です。理由は1つ。説教を余計にしなくて済むからです。

皆さんの家庭では、この聖母の被昇天の祝いに合わせて、ふくれ餅を作ったりしているでしょうか。まさか、「ふくれ餅とは何ぞや」という人は五島にはいないと思いますが、写真が手元にありますので、ごらんになって思い出してください。このふくれ餅、鯛ノ浦の実家でもよく作ってお祝いしてもらったものです。小さいころからごちそうの少なかった家庭ですから、こうして祝い日に作ってもらったふくれ餅は、懐かしいごちそうの味の1つです。

皆さんの家庭にも、こうした習慣があればいいなぁと思います。必ずしも、ふくれ餅を作る必要はないのですが、8月15日、聖母の被昇天のお祝い日には、わが家はこういう料理で祝うのだ。そうした習慣が定着すればいいなぁと思います。ぜひ、取り組んでみてください。

福音朗読の学びに入りましょう。マリアが、エリザベトを訪ねる場面から始まっています。マリアの挨拶を受けたエリザベトは、喜び、声高らかに言いました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」(1・42)

日本語ではあまり意識しないかもしれませんが、「祝福された方」という表現は、「誰かに祝福された」ということが必ず背後にあります。誰に祝福されているか。それは言うまでもなく、神によって祝福されているということです。

神の祝福を受けて、人は幸いを得ます。神の祝福が、その人のものの考え方、行動の仕方に影響を与えます。エリザベトはマリアを次のようにたたえました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1・45)マリアの心には、神の祝福を受けた結果、「主がおっしゃったことは必ず実現する」との思いが、芽生えていたのです。

朗読の後半は、「マリアの賛歌」と呼ばれる部分ですが、わたしは、このマリアの賛歌は、「主がおっしゃったことは必ず実現する」との思いを具体的に言い表したものではないかなぁと思いました。

マリアはご自身のことをこう歌います。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」(1・48-49)

マリアも、救い主の到来を待ち望んでいたわけですが、マリア自身を通してその期待が実現しようとしています。ここにすでに、「主がおっしゃったことは必ず実現する」との思いが表されています。

マリアも、マリアが訪ねていったエリザベトも、人間の目には低いと考えられていたもの、取るに足りないと思われていた者たちです。マリアは、だれも見向きもしないガリラヤの町ナザレの出身でした。エリザベトは「結婚していながら子を産まない女性」として見られていました。

神は人間の目に高いとみられている者たちを通り過ぎて、マリア、またエリザベトのもとにおいでになったのです。人間の目に低いとみられている者、取るに足りないと見られている者に、神はおいでになる。その光景を、マリアはわたしたちに見せてくださいました。

51節から53節の、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」という部分も、マリアがわたしたちに示してくれた、「主がおっしゃったことは必ず実現する」光景です。

マリアがこの賛歌を歌ったとき、ほかの人にはこの低くされた人が高くされ、飢えた者が良い物で満たされる光景は見えていなかったかもしれません。ですが、神の祝福に照らされたマリアの目には、将来実現される姿として、はっきり見えている光景なのです。

マリアが指し示した光景を、わたしたちも眺めることにしましょう。人間の目に低いとみられている者、取るに足りないと見られている者に、今もまだ神の憐れみと祝福は届いていないと感じるかもしれません。

また世界平和に目を向けた時、まだまだ低くされた人が高くされ、飢えた者が良い物で満たされる光景は実現していないと感じるでしょう。なぜこれほど知識人がいながら、世界に真の平和は訪れないのか。希望を失いかけることもあるでしょう。

けれども、マリアが歌い上げた光景は、「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じて歌い上げた光景です。わたしたちは、マリアを通して、神が必ず実現する世界を信じましょう。

マリアは、最後まで神への信頼を失わずに、最後には神によって天に上げられました。わたしたちもマリアに倣うことで、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」という称賛を受けることができます。


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ちょっとひとやすみ
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▼NHKの連続テレビ小説を見ている。妖怪漫画で一世を風靡した漫画家を取り上げている。今観ている場面では、締め切りに追われ、忙しくて「妖怪いそがし」がとりついているという話が展開されていた。
▼この話の落ちは、土曜日なのでまだ予断はできないが、漫画家の女房が、「妖怪いそがしにとりつかれていたのは、自分のほうかもしれない」と振り返るシーンがある。長女が学校で「漫画家の娘だ」「妖怪の仲間だ」などと言われてつらい思いをしていたのを、母親として気付いてあげられなかったことを反省していた。
▼今週に限っては、ドラマとしてではなく、自分のこととして眺めていた。「妖怪いそがし」がいるかどうかは知らないが、忙しくて本来の人間的な温かい交わりや、思いやりが欠けてきていたのではないかと反省させられた。お手紙の返事、暑中見舞いのお礼。本当に申し訳なく思っている。
▼今年はよく泳いでいる。この原稿を書いた週も、子供に引っ張り出されては泳ぎに行った。おかげで、五島生まれでありながら泳ぎが苦手だったわたしが、人命救助まではできないまでも、泳ぎ続けることができるところまで来ている。沖に出たり戻ったり、物につかまらずに泳いでいるのだから我ながら感心する。
▼8月1日の球技大会に向けて練習していた時、右の太ももを痛めたのだが、今は泳いでいても何も感じなくなった。痛めた太ももをクールダウンしながら、ジワリジワリ今日まで回復させることができたのかもしれない。だが、この話をお医者さんに聞かせれば、完治する前に泳ぐなんてとんでもない、と叱られるかもしれないが。
▼教区の新聞コラム欄に、平和について思うところを述べてみた。かわいい子には旅をさせよと言うが、今の日本では、それこそ海外での旅でもしないと、平和の尊さ、ありがたさを実感できないのかもしれない。平和を保つ人は、平和に向かって行動している。何もしないで平和が訪れるなんてことは、実際にはないのではないか。

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新企画今週の1枚
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第96回目。大学生(先週の)と記念写真。車内での2人の会話に付いていけず。
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‥次の説教は‥‥
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年間第19主日(ルカ12:32-48)目を覚ましている僕であり続ける

2010-08-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/08/08(No.488)
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年間第19主日
(ルカ12:32-48)
目を覚ましている僕であり続ける
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説教もずっと作り続けていますが、いつ準備しても何かしら新しい発見があります。新しい発見があるのか、わたしの勉強不足でまだ知らないことがあるのか分かりませんが、今週の福音朗読箇所について、今年は新しい発見がありました。

与えられた朗読箇所ルカ12章の、35節から40節の部分に、「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」という言い方が2回繰り返されています。2か所とも引用しておきましょう。

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」(12・37)

「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」(12・38)

わたしはこの個所を読むといつも、「主人に使ってもらっている僕なのだから、目を覚ましていることに不平不満はないけれども、いったいいつ眠りにつけばよいのかなぁ」という疑問を持っていました。「主人が帰って来たとき」目を覚ましている。「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、」目を覚ましている。これはなかなか大変だなぁと思っていたわけです。

ここで取り上げている「目を覚ましている」という姿は、キリスト者にとって大切だと考えられていた姿勢でした。教会の始まりのころをよく伝えてくれる聖パウロも、テサロニケの信徒への手紙の中で、「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(一テサ5・5-6)と述べています。

さて、わたしたちが一般的に目を覚ましているのは、一日のどの時間でしょうか。ふつうに考えると、わたしたちが目を覚ましているのは「日中」です。日中とは、どんな状態の時間でしょうか。それは、太陽に照らされた、昼の時間のことです。

ここまで話せば、賢い方々はお気づきでしょう。わたしたちキリスト者が目を覚ましている「日中」は、キリストに照らされて過ごす時間のことです。キリストが太陽として、わたしたちの心を照らしておられる。その時間が、照らされて目を覚ましている時間なのです。

さらに考えてみましょう。目を覚ましている「日中」という時間帯は、何時から何時までと、決まっているのでしょうか。時計で刻む時間であれば、何時から何時までと時間を区切ることができるでしょうが、ここまで考えてきたように、キリストに照らされている時間が「日中」なのであれば、何時から何時までと時間を区切ることなく、あらゆる時間が、キリストに照らされて「日中」となりうるのではないでしょうか。

体験談を一つ紹介します。ある夫婦の話です。この夫婦は、結婚するとき、奥さんがカトリック信者で、ご主人がカトリックでない方でした。男性は、女性側の親族から洗礼を受けて結婚するようにそうとう強く言われたそうですが、実現しませんでした。当時は、カトリック信者同士でなければ結婚は難しい時代でしたので、この夫婦は教会での結婚式を挙げずに結婚生活に入りました。

長い長い結婚生活も晩年を迎えた時、奥さんに異変が生じました。この夫婦は自営業を営んでいましたが、異変を感じた奥さんが健康診断を受けたところ、病はすでに手の施しようのない状態になっていました。ご主人はそのことを奥さんには知らせず、知り合いの教会信徒に連れられてまずわたしのところにやって来たのです。

ご主人はこう言いました。「神父さん。わたしは縁があってカトリック信者の妻と結婚しましたが、洗礼を受けることにどうしても抵抗があって、そのため教会での結婚式もしないままここまで来てしまいました。

ところが、妻に異変が生じ、診断の結果は余命いくばくもないというものだったのです。わたしは妻に何不自由ない生活をさせてきたつもりですが、カトリック信者の妻に対しては、たくさんの迷惑をかけてきたと思うのです。

そこで、今さらのようですが、お勉強させてもらって洗礼を受け、結婚式をさせてもらえないでしょうか?妻が、教会での結婚式をしないまま旅立ってしまうなら、わたしは死んでも死にきれません。」ご主人はわたしの前で、男泣きに泣いたのでした。

すぐに勉強が始まりました。わたしの提案で、洗礼名は「聖ヨアキム」としました。奥さんの洗礼名が「聖アンナ」だったからです。みなさんよくご存じと思いますが、ヨアキムとアンナは、聖マリアの両親の名前です。

無事、ご主人は洗礼を受けました。そしていよいよ、教会での結婚式を挙げる日がやって来ました。誰も、この日を予想できませんでした。奥さんでさえも、この日が来るとは思っていなかったでしょう。けれども神さまは、これらのすばらしい日々を、このご夫婦のために用意してくださっていたのです。

奥さんがまだ歩くことのできるうちに、夢が叶い、ご主人は最後の日々、けんめいに奥さんを介護してくれました。その後奥さんは寝たきりになり、お腹に水がたまり、最後のその日を迎えて旅立ちました。

わたしは、イエスの言葉を重ね合わせて考えるのです。「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」夜昼寝起きして、いつ結婚したご主人が洗礼を受けてくれても、喜んで迎えることができるように、奥さんは目を覚まして用意していたのではないでしょうか。

一睡もしないという意味ではありません。実際には何十年もあとにやってきたご主人の喜びの日を、今日やって来ても、何十年後にやって来てもよいように夜昼寝起きしながら待ってくれていた。こういう姿を、イエスはわたしたちに期待しているのではないでしょうか。

目を覚まして用意している人への報いを、イエスはこう述べています。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」(12・37)お話しした奥さんのご主人は、最後の最後の日まで帯を締めて、奥さんのためにすべての給仕をしてくれました。

神も、わたしたちが目を覚まして用意する僕のように人生を全うした暁に、わたしたちのために神の国の宴会に招いてくださり、わたしたちを食事の席に着かせ、そばに来てあらゆる給仕をしてくれることでしょう。

どこを切り取っても、主であるイエスに信頼を置いて生きること。それが、イエスの言う「目を覚ましている僕」の姿だと思いました。起きているときも眠っているときも、神への信頼が土台になっているだろうか。今一度、生活を振り返ることにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼佐世保地区主催のドッヂボール大会に参加してきた。オープン参加と前もって釘刺されて出場したのだが、ブロックごとに優勝を決めるルールの中で、Aブロックの決勝にまで登りつめ、準優勝をもぎ取った。それでも結果発表の時には順位を付けてもらえず、3位のチームが準優勝となり、4位が3位になって表彰を受けた。
▼大人げないわたしは、わざと聞こえる声で「なんでぇ~!」言ったら、参加者全員から白い目で見られてしまった(笑)。まあ、ちょっとしたパフォーマンスです。これでは子どもたちも浮かばれないと思い、帰ったら表彰状でも作ってやるかと思ったら、最後の最後に「特別賞」なるものをいただいた。それを知っていたら、あんな恥ずかしいことしなかったのに。
▼大会を通して、まず上五島の別の小教区と連合チームを組むことで、触れ合いのチャンスを持つことができた。さらに、試合の中で、ボールを怖がっていた低学年の子供も、向かっていく勇気が育った。失敗したくないという後ろ向きな気持から、失敗を怖がらない子供に変貌した。
▼ほかにもいろいろあるが、これらをこの子たちが受けた黙想会のテーマと重ねるなら、ペトロがイエスに促されて水の上を歩く経験をしたことに似ているかもしれない。人間の力では水の上を歩くことは不可能だが、イエスに信頼し、イエスに導かれて、はじめて水の上を歩く。そのように、自分たちの力では無理だったことが、大会の中でイエスに信頼し、イエスに導かれて、できるようになった。そんな大きな成長を見た一日だった。
▼長崎から懐かしい人が友達と2人でやって来た。中学3年生だった子が、大学2年生になっていた。どおりで見違えるわけだ。あちこちの教会を案内してあげた。張り切りすぎて、翌日おじさんのわたしはぐったりだった。大学生は翌日張り切って海水浴に行ったようだ。おじさんでなければ、一緒に泳いで夏物語を満喫していたかもしれないが。

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新企画今週の1枚
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第95回目。誇らしげです。本当は、ブロック準優勝ですが、特別賞でピース。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100808.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第18主日(ルカ12:13-21)現代も、神の前に豊かな生活は必要

2010-08-01 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/100801.mp3

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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
10/08/01(No.487)
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年間第18主日
(ルカ12:13-21)
現代も、神の前に豊かな生活は必要
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8月になりました。暑い盛りに、今日の福音朗読はよく選び抜かれているなぁと思います。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(12・21)こんなに暑いと仕事にならない。じゃあエアコンをつけよう、こんなに不便では仕事にならない。ではあれを買い直そうこれを買い足そう。わたしもこちらに来てからちょこちょこ物を買い直したり買い足したりしました。

けれども、これらは、自分のために富を積んでいるだけの話です。これではいっこうにイエスの説く「豊かさ」には近づかないわけです。「神の前に豊かになる」このことが必要ですが、皆さんお一人お一人、「神の前に豊かになる」お手本のような人はいらっしゃるでしょうか。

わたしにとっては、母方の祖母が、「神の前に豊かな人」のお手本でした。わたしは土曜日になると山をひとつ越えて母方の祖母の家に泊まりに行かされていました。感覚としては、浜串から福見に泊まりに行かされているような感覚です。

祖母の家には白黒テレビが1台ありましたが、それはプロレスを見るためだけのテレビだったらしく、他にはテレビがついていたのを見たことがありませんでした。冷蔵庫もなく、炊飯器もなかったように記憶しています。そんな祖母の家に泊まって、孫のわたしに楽しむものがあるはずがありません。

ところが、わたしは祖母の家に泊まりに行くのを嫌がる様子もなく、よく言いつけを守っていたようです。祖母の家で待っているのは、決まって長い長い祈りと、信仰にまつわる様々な話でした。元気を出して歩くために、一歩踏み出すたびに「天に、まします、我らの、父よ、願わくは、御名の、尊まれん、ことを」と唱えながら歩いていました。

ある意味、がばいばあちゃんのようなばあちゃんでした。何にも持っていませんでしたが、信仰の話、祈る量についてはとてつもなく豊かでした。昔の小学校上がりで、カタカナしか読めない祖母でしたが、祈りは何でもすらすら唱えていました。わたしにとって、「神の前に豊かな人」のお手本は、まずは母方の祖母なのです。この祖母が、わたしの信仰を鍛え上げてくれたのだと思っています。

ついこの前、中学生と小学生の黙想会が終わりました。中学生は黙想の学びを、インターネットブログに掲載するところまでを取り組んでみました。玄関口の掲示板に、「浜串小教区中学生ブログ」のURLを掲示していますので、よかったら自宅に戻って覗いてみてください。小学生は、「ペトロはこたえます」という聖歌を材料に、学びを得ました。教会入口に黙想で得た学びを絵で表現していますので、ごらんください。

わたしは、この子供たちが、これから先どうやって、「神の前に豊かになる」という経験を積んでいくのかなぁと思うことがあります。今、目の前にいる子供たちの祖父母の方々は、まだ、何かしらの仕事をして、忙しく活躍しているのではないでしょうか。とても、祈りに明け暮れる日々というような生活ではないと思います。

ではご両親に期待をかけられるかというと、わたしが幼いころでも食べるために両親が精一杯働いていた時代でしたから、今はなおさら、夜遅くまで仕事をしているに違いありません。そうなると、いったいどこで、「神の前に豊かになる」経験を積むのでしょうか。

やはりそれは、教会が主催している行事や、集いなどではないでしょうか。5月と10月、ロザリオを唱えることが大いに進められていますが、今は教会でのロザリオの信心に参加しなければ、家庭でロザリオを唱えることはないかもしれません。

もしかしたら、朝の祈り、晩の祈りを決して欠かさずに唱えている家庭ももう見つからないのかもしれません。祈りの中には、「聖マリアの連祷」など、かつてはどこの家でも唱えていた祈りもありましたが、今ではこの連祷を唱えることも、教会でしか行わないかもしれません。

そうなると、今まで以上に教会での取り組みは大きなものになってきます。かつては、教会でしか味わえないものは、ミサとか、洗礼式結婚式、あるいは葬儀など、特に教会という場所がかかわって来る祭儀に限られていました。そのほかのほとんどのことは、家庭の中で経験できていたのですが、残念ながらそうはいかなくなりました。

それでも、みことばの重みは何ら変わりません。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」神の前に豊かになる経験が、どうしても家庭で不足してきたとすれば、神の前での豊かさを得るために、積極的に教会を利用すべきだと思います。こんなこと、あんなことを教会で体験させることができないか。主任司祭ももっと考える必要がありますし、信徒の皆さんも、積極的に申し出てほしいです。

ここまで触れてきませんでしたが、現代の忙しい中でも、神の前に豊かになるために、ぜひ考えてほしいことがあります。それは、「聖書に親しむ」ということです。祈りによる豊かさが、かつては大きな部分を占めていました。けれども現代は、聖書のみことばに親しんで、聖書を通して神の前に豊かになることが、もっと大切になってきていると思います。

長崎教区では、聖書マラソンという取り組みを熱心にしていますが、聖書マラソンも本当に読んでいる人のためになっているのかは疑問があります。義務的に、次の人に渡すために読んでいるというのでは神の前に豊かにはなれません。

わたしがお勧めしたいのは、新約聖書から読み始めるとして、食事の前に、1ページ読んでから食事を始める、そういう取り組みをしたらいいのではないかなぁと思っています。実はこの勧めは、前任地の教会から言い続けていることなのですが、だいたい新約聖書のページ数が500ページを切るくらいです。

1年が365日あるわけですから、朝食をいただく前に、1ページか、2ページ、区切りのいいところまで読むと、1年で確実に新約聖書を読みあげると思います。聖書は確かふりがなが振ってありますから、小学校の高学年から、確実に実行できる取り組みです。仮に5年生から始めたとして、小学校を卒業するまでに、2回は新約聖書を読み終えることになるでしょう。

これこそ、現代にあって幼い時から神の前に豊かになる方法ではないでしょうか。人にばかり言いっぱなしではいけませんので、さっそく、わたしも今日から食事の前に1ページ読んで、食事に入りたいと思います。朝食の時に、読むことにします。1年後、あるいはもっと早くに、読み終わったら皆さんに報告します。


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ちょっとひとやすみ
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▼ちっちゃな子から、おっきな子まで並べて、小学生の黙想会をした。1年生が興味を持つように話していると、6年生は大きなあくびをしている。6年生になるほどと言わせようとすると、1年生は閉じていた目を必死に開けようとしている。6学年を一度に並べて話をするのは、無理なのではないかと今回感じた。
▼ずっとアイディアを練っていた割には、結局最後まで具体的なプランをお手伝いしてくれるシスターに提示することができなかった。何をやってるんだろう。これまた、頭で温め続けるということと、具体的に紙に書いたりして提示することとは、まったく違うのだということが分かった。紙に書いて、提出できなければ、ただの絵に描いた餅だ。
▼みっともない話だが、ドッヂボールの練習に付き合っていて、右太ももの裏を痛めてしまった。体操をした後、ダッシュを何本かするわけだが、その1本目、小学生に負けじとスタートで思いっきり蹴って飛び出したら、あたたぁ、となった。こんなときに、何を考えているのだろうか。
▼これから先のことを考えると、司祭団のソフトボール大会、婦人会のミニバレー、壮年会のソフトボールと、秋に向けての交流行事が目白押しなのに、こんなことになってしまうとは。年齢を考えずに、調子に乗ってダッシュするなんて、バカじゃないだろうか。
▼このメルマガを出しているのは土曜日朝、佐世保に出発するのは日曜日の朝。練習は3回積んだ。さて、結果はどうなるだろうか。予選で3試合こなすが、決勝リーグに残ってほしい。やっぱり、自分の教会の子供が一番。

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新企画今週の1枚
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第94回目。木曜日夕方は、保育園児もミサに参加します。こうじ神父張り切る。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100801.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(ルカ12:32-48)
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