こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

王であるキリスト(ヨハネ18:33b-37)王にすべてを従わせて生きる

2012-11-25 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/121125.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/11/25(No.620)
‥‥‥†‥‥‥‥
王であるキリスト
(ヨハネ18:33b-37)
王にすべてを従わせて生きる
‥‥‥†‥‥‥‥

先週金曜日、浜串教会出身で聖母の騎士修道会の神父さま叙階25周年銀祝の感謝ミサが長崎市のカトリック本河内教会でささげられ、同じ修道会の先輩後輩の神父さまと、浜串教会の歴代の主任神父さまが出席して、盛大に執り行われました。

感謝ミサでは、聖母の騎士の修道会会員としての誓願50周年の方が2人、そして司祭として25年を迎えた方が2人お祝いの対象になっていました。お祝いの対象者が複数いらっしゃる時は決まってそうですが、ミサの司式はこの人が、ミサ中の説教はこの人が、祝賀式の挨拶はこの人が、といった感じで役割分担をすることになります。浜串教会出身の神父さまはミサの司式を担当しました。

説教を担当したのはもう1人の司祭叙階25周年銀祝を迎えた神父さまでした。わたしの予想では説教も浜串の神父さまがするものと思っていたのでちょっと拍子抜けしたのですが、予想していない神父さまではあっても、25年を司祭として務めてきた方の話ですから、聞いていてとても参考になりました。

また、ミサの後の祝賀会の中で、修道士として50年間、修道会の誓願を守ってきた方のあいさつがありました。修道士ですので、表に立つことは少ない方だと思いますが、披露されたその半生は心を打ちました。

さて今週は、先週予告しておいたとおり年間最後の主日「王であるキリスト」を迎えています。この王であるキリストの週を終えると、来週からは待降節、イエスの誕生を準備する季節です。年間の主日を終わる今週、イエスの「王」としての姿に注目して学びを得ることにしましょう。

まずわたしは、「この世の王」と「王であるキリスト」の違いについて考えてみました。決定的な違いは、この世の王は限られた国の王であり、全人類の王であるキリストとは一線を画す存在だということです。いくら全世界の覇権をもくろむ王であっても、地上の王の権威が及ぶ範囲は限られています。地上の王の権威が及ばない場所があるのです。

これに対して、王であるキリストの権威は、すべての人、すべての場所、すべての時代に及びます。実際に、イエス・キリストは2千年たった今でも、多くの人、多くの場所、あらゆる時代に王として認められているのです。

また、この地上の王と王であるキリストの決定的な違いとして、地上の王は生まれた時は王ではなく、いつか王になる人ですが、イエス・キリストは、生まれたその時から変わらない王でした。地上の王は、仮に王の世継ぎとして生まれたとしても、現在の王が亡くなったり、引退しなければいつまでたっても王にはなれません。ところがイエス・キリストは、宿屋がなくて家畜小屋で生まれたその時でも、王として占星術の学者たちから礼拝と贈り物を受けたのです。

今週選ばれた福音朗読も、ピラトがイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問しています。ちなみにこの2人の対決は、表面上はピラトがイエスを尋問しているように見えますが、中身はイエスが一つ答えるたびにピラトは困惑し、追い詰められています。ですからイエスは裁判の被告に立たされていながら、真理を明らかにすることによってピラトを尋問しているのです。

ピラトは真理の前に身をかがめ、イエスに聞き従う直前までいったのですが、残念ながら彼は自分の身分が邪魔をして、真理であるイエスに聞き従うことはできませんでした。このピラトの姿に、今週わたしたちが学ぶべき点が見えてきます。すなわち、わたしは、イエス・キリストを王として認めているだろうか、ということです。

すでに、王であるキリストの特徴として2つのことを確認しました。1つはイエス・キリストはすべての人、すべての場所、すべての時代を超えて王であるということでした。わたしの生活の中で、イエス・キリストを二の次にするような場面が、だれに対しても、どんな場所でも、どんなタイミングでもあってはいけません。その点、揺るぎない信念をもって守ってきたでしょうか。

もう1つ、イエスはある時から王となられた方ではなく、初めから王であり、生涯のどの場面を取っても王であり続けました。わたしたちは、イエスのさまざまな場面を思い出し、イエスを王として認め、受け入れてきたでしょうか。

「こんな姿のイエスさまを王として受け入れられない」わたしたちの心が揺れていて、そんな時がいつか起こるかも知れません。今日の「王であるキリスト」の祭日を機会に、次の一年間は、イエス・キリストをどんなときにも王として迎える生活をする、その覚悟を新たにすることにしましょう。

わたしたちは、地上の国に属していない王を持っている国民です。王の喜ぶ生き方を、日々積み重ねましょう。また王であるキリストの生き方を、より多くの人に伝え、王の国民である「囲いに入っていないほかの羊」(ヨハネ10・16)が、王であるキリストをはっきり意識することができるように、働きかけを続けましょう。

イエス・キリストをみずからの王とし、また王であるキリストの生き方だけを徹底して証ししている人の50年、また25年の節目を祝う式典に参加して、自分自身の歩き方をもう一度見つめる良い機会を与えてもらいました。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(ルカ21:25-28,34-36)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼25周年の司祭が司式をした感謝ミサに一緒に参加してミサをささげた。多くの感謝の言葉を聞いた。自分のために祈ってくれた人、自分を影になり日向になり支えてくれた人。その感謝の言葉を繰り返し聞きながら、わたしはあと5年もすればやって来る25周年に、どんな言葉を絞り出すのか考えてみた。
▼25年を迎えるためには、そのスタートがあったわけだが、司祭に叙階されるまで福岡の大神学院で育ててくれた司祭がこんなことを尋ねた。「なぜあなたは(何のためにあなたは)司祭になるのですか。」いろいろなことを答えたが(教区のためとか、キリストをまだ知らない人のためとか)、それでも指導司祭は問い続け、「なぜあなたは司祭になるのですか」とわたしを追い詰めた。
▼最後に彼はこう続けた。「自分自身のために司祭になるのではありませんか。この人生、すばらしかったと言えるために、司祭の道を選ぶのでなければ、司祭への道を選ぶべきではありません。」今でもこの言葉はわたしの中で問い続けている。「なぜ司祭になったのか。」
▼もちろんわたしの努力で司祭になれるわけでもないし、司祭職を何かほかの選択肢と天秤に掛けて選んだわけでもない。だからこの道しか自分にはないと思っているが、今すでに20年この道を曲がりなりにも歩いてきて、「なぜ司祭になったのか、何のために司祭になったのか」と自問自答する。
▼それなりに、決して忘れられない体験もしている。記憶に残る出会いもある。それでも、「なぜ司祭になったのか」この問いに十分に答えることができていない気がする。たとえば、ここ数日体調がすぐれないが、もしも病気だったらどうしよう・・・と考えてしまうのである。今の生き方に迷いがないのであれば、病気になっても迷いはないはず。それが実際はそうでもない。
▼だから、「なぜ司祭になったのか」と真剣に考えたら、「うーん」と返事に困ってしまう。そこそこ何かを果たしてきたけれども、その「そこそこの人生」のために司祭職を選んだのだろうか。特にここ数日の体調不良の日々の中で考えた。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第227回目。記念祝賀会。中央の花束を持った司祭が浜串出身の銀祝司祭

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第33主日(マルコ13:24-32)千年を一日のように過ごす

2012-11-18 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/121118.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/11/18(No.619)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第33主日
(マルコ13:24-32)
千年を一日のように過ごす
‥‥‥†‥‥‥‥

年間第33主日を迎えました。年間の季節は、来週の「王であるキリスト」の週で最後になります。この年間の季節の終わりを利用して、教会は「終末」について考えさせようとしています。

「終末」は、どちらかというと言葉の響きに「終わってしまう」という感じがあります。医療でも「終末医療」「終末期医療」と言うと「重い病気の末期で不治と判断されたとき、治療よりも患者の心身の苦痛を和らげ、穏やかに日々を過ごせるように配慮する療養法」という特別なお世話を意味しています。

イエスが今週の福音で語ろうとする「終末」は、どのようなものでしょうか。天体に異変が起きて、人の子が大いなる力を栄光を帯びて雲に乗って来ると仰います。その瞬間を想像するのは難しいですが、そこに人々が居合わせた時、どんな態度を取ることになるかは想像できます。2通りの人々、1つは恐れに囚われる人々、もう1つは希望に満ちてその時を迎える人々です。

天地が過ぎ去り、人の子が力と栄光を帯びて現れる。これは、この世のものがすべて意味を持たなくなり、人の子がすべての人にとってすべてとなることを意味しています。ですから、もしもこれまでの生活がこの世に頼り切って、神の子イエスへの信頼を持たずに生きていたなら、終末のその日がやって来ると、恐れに囚われることになるでしょう。

一方、この世はいつか過ぎ去ると知って、過ぎ去らないもの、神の子イエスへの信仰に生きてきた人々にとっては、この世のすべてが過ぎ去って神の子イエスがすべてとなったその時は、希望に満ちた場面となるはずです。わたしたちは、この世の終わり、終末がいつになるか分からなくても、それがいつやって来ても今の暮らし方次第で恐れおののく日になるのか、希望に満ちて迎えることになるのかが決まってくるわけです。

そうであるなら、終末を考える場合、それがいつになるのかを推理するよりも、今をどのように過ごすかのほうがよほど大切であるということが分かってきます。終末は千年後かもしれませんし、すぐそこまで来ているのかもしれません。

いずれにしても、わたしたちが今を、過ぎ去るこの世に絶対の信頼を置くのではなく、決して過ぎ去らない神の子イエスへの信仰に土台を置いて生きる。この生き方さえ変えなければ、恐れるものは何も無いのです。

では、神への信頼を置いて生きる姿を、もう少し具体的に考えてみましょう。先週中学2年生の6人は、堅信の秘跡を受けました。大司教さまの前に1人ずつ出て、聖香油を額に塗ってもらい、「主の平和」と肩をポンと叩いてもらったのを覚えているでしょう。

ちなみに、昔の堅振の秘跡では、「主の平和」と声を掛ける時は、司教さまが受堅者の頬を平手打ちしていたそうです。強い信仰を持っているかどうかを確かめる儀式だったのかもしれません。

わたしは、この堅信の秘跡を受けた1日のような過ごし方を、毎日の生活の中で繰り返して欲しいと思っています。大司教さまに毎日会いに行くという意味ではなくて、大司教さまを迎えるために、朝からどんな過ごし方をしただろうか、1時間前にはどんな気持ちで待っただろうか、ミサの間は、どんな心で過ごしただろうか。実際に秘跡を受けてから、どれくらいの喜びを感じただろうか。そんなことを思い出して、毎日の生活に活かして欲しいのです。

堅信式のミサの時、皆さんは今までの中でいちばん気を引き締めてミサに参加したはずです。堅信式のミサでご聖体拝領をした時、いちばん緊張して拝領したはずです。その気持ちを忘れずに、ふだんの教会のミサに参加し、聖体を拝領しましょう。

司教さまがささげておられるミサも、主任司祭がささげているミサも、同じ緊張感で参加しているなら、いつ終末の時がやって来ても恐れる必要はありません。ご聖体を司教さまから授かった時と同じ気持ちでいつもの日曜日に聖体を拝領するなら、終末の日を、希望に満ちて迎えることができるはずです。

堅信を受けた中学生を例に取りましたが、すべての人にとって、今を信仰に固く根ざして生きるコツがあります。それをことばで言い表すと「千年を一日のように過ごす」ということです。

ペトロの手紙2の3章8節に次のような言葉があります。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」

あと1日しかなかったらどのように過ごすか、千年続けてもかまわない生き方があるとしたらどのような過ごし方か。この機会に考えてみましょう。すべての人にとってそれは、「神の子イエスへの信仰に根ざした生き方」のはずです。

今日の聖体拝領、司教さまから授けてもらっているつもりで拝領してみましょう。一つ一つのことに、いちばん心を込めた時のことを思い出して、今日を過ごしましょう。その積み重ねの先にもし終末のその日がやって来ても、わたしたちは希望に満ちあふれてその日を迎えることができるはずです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(ヨハネ18:33b-37)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼先週の堅信式、上五島地区の中学2年生57人と、成人信徒2人の合計59人が、大司教から堅信の秘跡を受けた。堅信式当日は、午後2時の開始に向けて12時半からリハーサル、1時から歌の練習をしてその時を待った。
▼例年であれば、大司教の到着を受堅者一同で迎えるのだが、今年はそのセレモニーは省かれていた。大司教が断るはずはないので、どこかで「省きましょう」という話し合いがなされたのだろう。緊張感を持って堅信式のミサに参加するためには、大司教を整列してお出迎えするセレモニーはあったほうがよいと思うのだが。
▼堅信式から3日たって、教会での要理の勉強の時間に感想文を書かせてみた。感想文は、課題を与える側になって初めて気がついたのだが、対象となる出来事をどの程度理解し、どのように受け止めていたのか、その出来事にたどり着くまでにどのような困難を乗り越えたのか、その出来事から何を学び、これからに活かしていくのか、それらを総合的に把握するためにとても参考になる。
▼今年の受堅者たちも、さまざまな受け止め方と活かし方を披露してくれた。どんなことに着目して作文を書けばよいのかは教えたが、何を書きなさいまでは指示せず書かせてみた。実に豊かな反応が返ってきた。もう少し、気付いて欲しいなぁと思う作文もあったが、それでも真剣に向き合って書いてくれたのだから良しとしよう。
▼堅信式当日の説教で、「これからは聖霊の七つのたまものを受けた人として接し、意見に耳を傾け、尊重してあげたい」と公言したが、確かに聖霊の恵みは、子供たちに働いたようである。見違えるように、「聞くに値する意見」「聞いていてなるほどと思う意見」を出すようになってきた。
▼以前の子供っぽい意見は卒業した。信仰年を過ごしている子供たちが、堅信の秘跡で頂いた聖霊の七つのたまものにこれからも信頼して、大きく羽ばたいていって欲しい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第226回目。地域触れあいミニバレーリーグ戦。何と7戦全勝優勝です。ブイ!

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第32主日(マルコ12:38-44)どれだけ行いに愛を込めることができるか

2012-11-11 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/121111.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/11/11(No.618)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第32主日
(マルコ12:38-44)
どれだけ行いに愛を込めることができるか
‥‥‥†‥‥‥‥

先週からようやく、来年1月の司祭団マラソン大会のトレーニングを開始しました。46歳にもなると、練習を開始する決心をすることがまず大変です。「外は寒いだろうなぁ」と思っただけで練習を明日に延ばしてしまいます。実際外に出てみると思ったほど寒くはないのですが。

浜串教会バス停からマリアさまの手前まで6往復しようと思って走り始めますが、最初はその6往復ができないのです。6往復で8キロ走ったことになるのですが、頭が「6往復し終わった時には相当疲れるだろうなぁ」と考えてしまうと、4往復5往復した頃に「いやー、今日はよそう。次回あらためて6往復しよう」と、脳が諦めてしまうのです。

大会当日は10キロのコースが予定されていますから、8キロくらいはふだんからどんな状態であっても走れないと結果は出せません。「今日はやめとこうぜ」と誘惑する脳を何とかだましだまし、練習を積み上げようとしている所です。

わたしはもともと運動音痴なので、この司祭団マラソンくらいしか安定して良い結果を出せるスポーツがありません。まぐれで結果の出るスポーツはあるかも知れませんが、マラソンは、練習さえ積めばきっちり結果を出すことができます。

ですから、この司祭団マラソン大会に賭ける思いは大きいのです。それは、今週の福音朗読でイエスがやもめの献金を見て仰った言葉に通じます。「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(12・44)

朗読された福音書に登場する大勢の金持ちと貧しいやもめ、両方の献金にどれほど開きがあったか、そのことも記されています。「皆は有り余る中から入れた」ここには、お金をいくらぐらい入れたかが描かれていませんが、それは裏を返せば、いくらにもならないお金だったということです。手放しても気にならないほど、微々たる額だったのです。

これに対し、貧しいやもめが手放したお金は、覚悟を決めてささげたお金でした。「自分の持っている物をすべて、生活費を全部」献金箱に入れた。この世で生きるためのすべをささげ、神にすべてを頼って今日を生きる。その覚悟をもって、すべてを入れたのです。

マザー・テレサは、愛の行いの心構えとして次のように語りました。「大切なことはどれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心を込めてしたかです。」金持ちが投げ入れた献金と、貧しいやもめが入れた生活費全部とでは、どれだけ心を込めてしたかに大きな開きがあります。イエスがとらえていた貧しいやもめの心構えを、マザー・テレサも見事にとらえていたということです。

わたしたちは他にも、この貧しいやもめと同じようにどれだけ心を込めて愛のわざをおこなうことが大切であるか、教えてくれるお手本を持っています。

皆さんは幼きイエスの聖テレジアという聖人をご存じでしょう。彼女は、幼くしてカルメル会という観想修道会に入りましたが、彼女には他にも姉がいまして、そのすべてが修道女になり、しかも1人をのぞいて全員がリジューという土地の同じ修道院に入ったのだそうです。ですから姉たちは目の前で妹の修道生活を見て生活したことになります。

妹テレジアは、亡くなってから28年という異例の速さで列聖されました。その時のことを、姉のシスターが「妹がなぜ列聖されるのか分からない」と言ったのだそうです。幼きイエスの聖テレジアの偉大さは、どれだけ神への愛に燃えて修道生活を送ったかを、「右の手のしていることを左の手に知らせない」(マタイ6・3参照)ほど、隠れた主にのみ仕えて暮らしたということです。

今週の福音でわたしたちに求められていることは、今の自分に持てる愛情のすべてを込めて、目の前の一つ一つのことを果たしなさいということだと思います。何かの行事に参加するにしても、ある人はあふれんばかりの健康に恵まれています。ある人は、その場に参加するだけで精一杯という人もいます。どんな状態であれ、どれだけ心を込めて愛のわざを行うかが、問われているのではないでしょうか。

今日、午後2時から、浜串小教区の6人の中学生が堅信式に臨みます。堅信の秘跡を受けて、大人の信者の仲間入りをします。準備は、それなりに整えてきたわけですが、本人がどれくらいの思いで、堅信の秘跡を受けたいと願っているのかが大事です。

堅信の秘跡を受けると大人の信者の仲間入りをするのですから、これからカトリック信者として、責任を引き受けるということを意味します。自分の人生を、カトリックの信仰を土台にしてしっかり歩いて行くこと。教会の公の礼拝であるミサに、これからも積極的に参加すること。今週の朗読のように、献金箱に入れる献金も、親から渡されたからそれを投げ入れるのではなくて、この献金が、神の国の完成のためによりよく使われますように、そういう思いを込めてささげること。大人にはそういう姿が期待されています。

また、これからさらに高い教育を受けるために進学し、自分で働き、一緒に生活していく相手を見つけ、自分で国の政治家を選んだりします。教会の教えがもっとよく理解できる人になりたいとか、イエスの教えがより人々に広がっていくお手伝いをしたいとか、そういう気持ちを持って、堅信の秘跡を受けてもらえたらと心から願っています。

大人の信者と言われるには、中学2年生はまだまだ頼りないかもしれません。けれども、堅信式で聖霊の七つのたまものは確実に注がれます。わたしは、聖霊の七つのたまものが注がれた人として、これから彼らの意見に耳を傾け、尊重してあげたいと思います。

堅信を受ける受堅者が、これからの信仰生活、すべてを神に託して前に進む人になれるように、皆さんで一緒に祈ってあげましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(マルコ13:24-32)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼本来ここでは堅信式後の様子を紹介できれば、新鮮な話題で盛り上がるのだが、それは来週に。まったく話題が逸(そ)れてしまうが、最近のパソコン関連のネタを。3年間中身をいじることなく使っていたパソコンを、今回いじることにした。
▼周辺機器を2つ取り替えた。パソコンの中身を取り替えているのに「周辺機器」というのも変な話だと思うが、そのままこの言葉は使わせてもらう。1つはハードディスクの交換。もう1つはDVDドライブの交換。
▼ハードディスクは、3年前に今のパソコンに移行する際、「SSDドライブ」を採用していた。「非接触型」のハードディスクで、高速かつ低消費電力ということで飛びついた。当時は80GBで十分と思っていたが、3年経ってみるとアップアップとなり、特に映像や音楽の録画・編集作業に支障を来していた。
▼今回2倍以上の容量を持つ180GBのSSDに換装する。久しぶりにパソコンの分解をしたので少々手こずったが、従来のHDDと比べるとSSDがいかにコンパクトになっているかがよく分かった。例えると、従来のHDDはポッキーくらいの大きさで、SSDはカセットテープくらいの大きさだ。
▼80GBのSSDのデータをそっくり180GBのSSDに引っ越して換装し(作業内容は割愛)、パソコンを立ち上げる。パソコンは何事もなかったかのように立ち上がり、プロパティを開くと180GBの容量で75GBの使用、100GBほどが空きスペースとしてちゃんと表示された。
▼次に、DVDドライブの換装。こういう時、SSDとDVDを一気に換装しないほうがよい。もしも認識しないなどのトラブルがあると、面倒である。手間は掛かるが、1パーツずつ換装することをお勧めする。DVDドライブも、地デジを録画したDVDディスク、ブルーレイディスクを再生できるものに置き換わった。2つの周辺機器は合計で19000円。
▼もしこれらの換装を業者にお願いすると、部品代に加えて技術料を最低でも1万円は請求される。自己責任という不安はあるが、1万円を払うほどの作業だとは思わないので、自分で換装した。まったくトラブルなく動いている。
▼周辺機器ではないが、最近手に入れた便利グッズをもう1つ。皆さんはエクスプローラーで自分のパソコンの中に入っているデータ(文書・音楽・画像・動画)などの一覧表をエクセルデータとして持っておきたいと思うことはないだろうか。
▼わたしは何百何千というファイルを保管しているので、いつかそのリストを用意したいと思っていたが、一覧をいちいち手入力する気力はない。そこで何か便利なソフトはないものかと思っていたら、あるところにはあるものだ。ファイル一覧をエクセルデータに変換してくれるフリーソフトを見つけた。
▼大変重宝している。最近わたしは書籍を業者に送ってPDF化しているのだが、変換した書籍も数百冊になってきて、管理が大変になっていた。今回ファイル一覧をエクセルデータにできるようになって、どんな蔵書があるのか、どんな分野の蔵書があるのかないのか、そういうことが一目で分かるようになった。ある大先輩に、ぜひこのソフトは紹介したいと思っている。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第225回目。チャンスがあれば、上五島地区堅信式の様子。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/121111.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年間第31主日(マルコ12:28b-34)隣人はいつも自分の目の前にいる

2012-11-04 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/121104.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
12/11/04(No.617)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第31主日
(マルコ12:28b-34)
隣人はいつも自分の目の前にいる
‥‥‥†‥‥‥‥

最近一人のシスターを上五島病院に見舞っています。浜串小教区では名前を言っても良いと思いますが、○○○○シスターです。足が弱くなって入院されたのかなぁと思っています。詳しいことは分かりません。

この前見舞いに行った時は、ちょうどリハビリの時間でした。戻るまで待とうかなぁと思ったのですが、看護士のかたが「リハビリ室は一階です。どうぞ」と言うので、リハビリ室に行ってご聖体を授けることにしました。皆さんは見たことがないかも知れませんが、病院服を着て、指示通りのリハビリをしていました。たくさん話をしたわけではないのですが、一言ひとことが、心にしみこんでくるようでした。

病人見舞いをしていると、心が洗われる時があります。シスターのお見舞いも、その一人です。本来なら、修道服を着て修道院で暮らしているはずなのに、今病院で、支給された服を着て、一緒に過ごしたりしないたくさんの知らない人と一緒に暮らしている。もうそれだけで、シスター偉いなぁと思うし、謙虚な気持ちになるのです。

わたしは病人訪問と、隣人愛について深く考えさせられました。まさに今日の福音朗読です。律法学者がイエスに尋ねます。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」(12・28)それに対してイエスは、次のように答えました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(12・30-31)

イエスの答えは、第一の掟と第二の掟として示されましたが、その答えを聞いた律法学者は、「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」(12・32-33)と答えました。第一の掟と第二の掟をくっつけて理解したのです。そして、イエスは律法学者の返事は適切であると褒めました。

律法学者が答えたように、第一の掟と第二の掟は、くっつけて理解するのが適切な理解なのでしょう。つまり、神を愛するということと隣人を自分のように愛するということとは、いわば紙の表と裏のように、切り離せないものなのです。

病院に入院しているシスターがどんな過ごし方をしているか、わたしは見たわけではないのですが、隣人を自分のように愛する日々を過ごしているのだろうなぁと思っています。シスターと同じ部屋にいる人は、実際には知らない人です。けれども、シスターはその相部屋の人を、隣人として受け入れ、共に病気の苦しみを耐え、嬉しいことがあれば一緒に喜んであげ、修道院にいれば経験しないで済むような会話を耳にしたり態度を目にしたり、忍耐しなければならないことはそれはもうたくさんあって、それらを黙って、忍耐しておられるのではないかと思います。その姿は、「隣人を、自分のように愛しなさい」というイエスの招きに、全身全霊で答えようとするものだと感じました。

わたしが仮に入院することになれば、こうはいかないと思います。どうして相部屋に入院しなければならないのだと不平を言ったり、どうして周りの人のどうでもよいような会話を聞かなきゃならないんだとこぼしたり、生活上のいろんな制約を嘆いたり、とても隣人を自分のように愛するといったお手本にはなれないと思うのです。

シスターは違います。「ご聖体を授けに来たよ。お祈りして拝領しような」と言ったら喜んで、わたしが祈りを唱える箇所までシスターが唱えて祈ってくれました。聖体拝領のこの日をどんなに待っていたか。それはちょっとの間の訪問でも痛いほど分かります。「あー今日はご聖体を運んできてくれる日だったか」という人と、ご聖体を一日千秋の思いで待っている人は、それは一緒に過ごしている短い間だけでも分かります。

神さまを肉眼で見ることはできないわけですが、隣人を心から受け入れて愛する人は、隣人の向こうに、神さまを見ている人だと思います。入院生活という思い通りにいかない時間にも、相部屋になった隣人を愛せる人は、当然元気になってからも隣人を愛せる人でしょうし、病の中で隣人の向こうに神さまを見ることのできる人は、普段の生活ではなおさら、隣人を愛することで神を深く愛せる人なのではないでしょうか。

隣人を自分のように愛すること。そのチャンスは遠い場所で起こるのではありません。目の前で、自分のそばで起こります。隣人を愛することと神を愛することとは一体です。隣人を深く愛する人は、すでに神を深く愛しているのです。

イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。わたしたちも、「あなたは神の国から遠くない」と言われたいものです。その近道は、生活の中にあります。

頭で考えるのではありません。生活の中で、実行して理解するものです。これが正解というものは無いと思いますが、「神の国から遠くない」という生活はあるはずです。その、「遠くない生活」「限りなく近い生活」を喜んで生きていくことができるように、導きを願いましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(マルコ12:38-44)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼いつか見つかればいいなぁと思っていたものがひょっこり見つかった。見つかったということは、裏を返せば、家捜し(やさがし)をしたということであり、果てしなく無駄に時間を使ったという意味でもある。それは横に置いといて。
▼見つかったのは「系図表」。限られた部分しか取り扱われていないが、この系図をたどっていくと、6人の神父にたどり着く。自分以外に、ということだから、自分の系図の中に神父が合計7人存在することになる。「ほんまかいな?」ということで、これから系図をたどる旅をしたい。
▼わたしの父方の祖父は、中田七右衛門と言う。その兄弟に中田倉吉がいて、倉吉は中田イトと結婚した(中田倉吉については、「鯛ノ浦六人切り」というテーマでいつか別に話したい)。倉吉の子供から、中田武次郎神父が出た。ちなみに、お告げのマリア修道会の谷中フジノ(のちに会長を務めたと思う)も倉吉の子供である。これで1人。
▼中田七右衛門は、中田寅吉と島田チヨの子供である。島田チヨには兄弟がいて、それがのちに島田喜蔵神父になる。これで2人。ちなみに、中田七右衛門は自分の息子の一人に喜蔵という名前をもらって付けた。その中田喜蔵はわたしの洗礼の代父で、わたしは中田喜蔵から霊名トマスをもらっている。
▼島田喜蔵神父の父は島田文作、母は自勢(ジセ)。このあたりからは確実に調査ができていないが、下五島浦頭(うらがしら)の出身であったジセの祖父が山本伊五郎となっている。その山本伊五郎の妻シモのいとこ(兄弟の子供)が、ブラジルに渡った中村長八神父である。これで3人。
▼前に戻って、中田倉吉の妻イトは、中田幸右衛門とミヨの子供である。中田幸右衛門の兄弟に卯之助という人がいて、卯之助の子にのちに神父になる中田藤吉がいる。これで4人。中田藤吉神父の兄弟市右衛門はキヨという人と結婚し、その子にのちに神父になる中田藤太郎がいる。これで5人。
▼あと1人、山口福太郎神父も、中田幸右衛門をたどっていくと見つかる。だがわたしにはそれを証明するすべがないので、いるということだけ触れておきたい。もちろんだれを中心に見るかで見え方は違うが、とてつもない重い物を背負ったような気分である。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第224回目。系図の一部。証言を得て、確認しないと分からない部分もあり。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする