こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(ルカ11:1-13)すべての方法で神に求め、神を探す

2010-07-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/07/25(No.486)
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年間第17主日
(ルカ11:1-13)
すべての方法で神に求め、神を探す
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今週の福音朗読はいくつかの材料が組み合わされています。まずイエスの弟子たちが、イエスに祈りを教えてくださいと願う場面です。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(11・1)

次に、旅人をもてなすためのパンを、友人にしつように頼み、手に入れる場面が入っています。ここでの要点は、「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」(11・8)です。

最後に、祈り求めることの大切さを教える結びの言葉をイエスが添えています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(11・9)

これらは別々のものが組み合わされているようにも見えますが、わたしは、すべてが1つの箇所に結びついていくと考えています。それは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」です。

朗読を順にたどってみましょう。弟子の一人がイエスに、「わたしたちにも祈りを教えてください」と願いました。洗礼者ヨハネとその弟子たちは、独自の祈りを持っていたので、他の人々とは区別されて、注目を浴びていました。イエスの弟子も、もしかしたら自分たちが独自の祈りを持つことで、自分たちはみんなと違ってイエスの弟子だ。そういう優越感を感じようとしていたかもしれません。

イエスは、弟子たちの思惑には一切構わず、主の祈りを示しました。今日は、主の祈りの解説みたいなことは省きますが、祈りによって、「求め、探し、門をたたく」という道を示してくださいました。

次に、旅行者をもてなすパンがどうしても必要になった時、真夜中に友人を訪ねてパンを分けてもらう話です。友人だからお願いに行ったのでしょうが、お願いに行くにはかなり無理な時間に訪ねていきました。お願いする本人も、そのことは十分承知でしょう。
けれども、背に腹は代えられず、お願いに来たのでした。彼の唯一の交渉手段は、「しつように頼む」ということでした。イエスは、このたとえを通して、しつような行動によって「求め、探し、門をたたく」という道を示してくれました。

朗読の最後は、何かをすることで「求め、探し、門をたたく」というのではなく、全面的に信頼する、希望し続けるという道です。イエスはこうおっしゃいました。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(11・13)

これは、希望し続ける人には必ず答えが返ってくることを教えています。子供は、まだ祈りで「求め、探し、門をたたく」ことも、しつような行動によって「求め、探し、門をたたく」こともできない弱い存在です。けれども、どんなに弱く小さい存在でも、全面的に信頼すること、希望を持ち続けることは可能なのです。この方法によっても、人は神に「求め、探し、門をたたく」ことができると、イエスは教えてくださいました。

まとめると、わたしたちが神に対して「求め、探し、門をたたく」方法は3つ考えられるということです。それは祈りによって、しつような行動によって、全面的な信頼によってです。3つの方法が示されましたが、3つの方法はわたしたちにどのように関わってくるのでしょうか。

わたしは、誰にとっても、3つの方法すべてが、神に対して「求め、探し、門をたたく」方法として必要ではないかと思っています。まずは祈ることによってですが、祈りによって「求め、探し、門をたたく」ことは、何を神に求めるかを教えてくれる大切な方法だと思います。

つまり、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言っても、むやみに求めなさいと勧めているわけではないのです。ほしいものがあって、それを買ってくださいと求めることは、あまりふさわしいとは言えません。「主の祈り」を唱えて、祈りを通して求めるなら、本当に求めるべきは何だろうかと、よく考えることができるでしょう。

次に、しつような行動によって「求め、探し、門をたたく」ことについてですが、たとえの中ではパンを必要としていて、しつように頼み、分けてもらいました。わたしはこの話で大切なことは、「親切心」を友人から引き出した、この点が大事なのだと思います。

イエスさまの生活の場であったパレスチナ地方は、親切心はとても大切な価値観で、親切心を欠いた人と呼ばれるのは非常に恥ずかしいことでした。たとえの中でパンをお願いする人は、相手が親切心をきっと示してくれると信じて、しつような行動に出ました。とった行動は相手に迷惑だったかもしれませんが、親切心をくすぐるしつような行動を、無視することはできなかったのです。

同じくパンをお願いされた人も、断りたい事情が確かにありましたが、親切心を欠いた人と思われることは最大の恥でしたから、親切心を示したのです。ここから、「主の祈り」を通して神に何を求めるべきかが分かった人は、神の親切心を信じて、しつような行動に出るようになるのです。神が親切心を忘れることは決してない。これがわたしたちのしつような行動の力の源です。

そして最後に、自分が弱く小さな存在と感じるとき、全面的に信頼する、希望し続けることで「求め、探し、門をたたく」こともできます。わたしたちは誰もがしつように行動し続ける力や健康を与えられているわけではありません。祈りによって、何を求めるかがわかっていても、それを行動に移すことのできない弱いときもあります。そんなとき、この信頼の態度、希望する態度は、神に必要なことを求める賢い手段になります。

たとえばそれは、病気で床についている人、1日を終え、眠りに就く人などを考えることができます。行動の時ではありませんが、深い信頼によって、神のお世話に身を置くことができます。こうして、朗読に示された3つすべての姿が、わたしたちの「求め、探し、門をたたく」ための必要な道具になるはずです。

わたしたちに祈りを教えてくださった主は、祈り、行動し、深い信頼を寄せる、このすべてが「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(11・9)ということにつながると教えています。まずは祈ることから始めて、求めたことが与えられた、探したものが見つかった、門をたたいて開かれた、この体験を積むことにしましょう。わたしたちが積む経験は、信仰を深め、人に、証しを立てる力の源となっていきます。


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ちょっとひとやすみ
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▼ちいさな失望は、大きな希望をもたらす。「毎日、一緒に泳ぎましょう」と言われ、先週は昼に行ってみたが、誘った小学生はそこにはいなかった。船の整備をしていた大人たちがいて、「泳ぎですか」と言うので、小学生に誘われたが来ていないのだと事実を話した。帰るわけにも行かず、オヤジたちの視線を浴びながら、海に入った。
▼しづかな波一つない海で、気持ちよく泳ぐことができた。泳ぎは下手だが、まぁだましだまし、30分くらいの水泳になるように泳いだ。30メートルくらい泳いで折り返し、戻ると先のオヤジたちが、「子供たちは神父さまを誘っておいて、こなかったんだなぁ」と話していた。できれば、聞こえないように言ってくれぇ。
▼みごとに裏切られた感じで、泳ぎ疲れて帰り、シャワーを浴びた。この日は午後2時から納骨が入っていた。納骨の依頼者がお迎えに来て玄関に行くと、遠くに「泳ぎましょう」とお誘いをしたお嬢さんたちが座っているではないか。かなり打ちのめされて納骨から帰ると、意外な話を聞かされた。
▼実は子供たちは、わたしが午後2時に納骨があるから午後1時までしか泳げないよと行ったことで、及び腰になって海に行かなかったのだそうだ。午後1時から3時くらいが海水浴の時間に当てているそうで、時間が合わないのでその日泳げずに海のそばで座って眺めていたらしい。そうとも知らず、悪く思ったことを申し訳ないと感じた。
▼翌々日、チャンスが回ってきた。前日長崎に出張していたので昼の船で帰り、午後3時に海に行ってみると子供たちが泳いでいる。賄いのシスターが保護者代わりでそこにいた。その中の1人の子が、「神父さま、飛び込んでみて」と挑発している。わたしはその時点でスラックスにラフなシャツを着ていたが、ポケットの中のものをすべて賄いのシスターに預けると、そのままの格好で海に飛び込んだ。
▼もちろん、洗濯が大変になるし、シスターは飛び込んで欲しくなかったかもしれないが、子供には受けが良かったようで、ある意味、この日の飛び込みでわたしは子供の心にも飛び込めたのかもしれない。この日、何のわだかまりもなく子供たちと泳ぐことができた。誘ってくれた子とも、大はしゃぎで泳いだ。小さな失望を経て、この日大きな希望を手に入れた。

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新企画今週の1枚
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第93回目。お忍びでハウステンボスへ。スリラーシアターミュージアム。綺麗。
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詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(ルカ12:13-21)
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年間第16主日(ルカ10:38-42)良い木は良い実を結ぶ

2010-07-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/07/18(No.485)
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年間第16主日
(ルカ10:38-42)
良い木は良い実を結ぶ
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主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(10・41-42)今週朗読されているマルタとマリアの姉妹の物語の中で、イエスが出来事に意味を与えるために語った結びの言葉です。

わたしはこれまで、どうしてもマルタとマリアを比較して、マルタのかいがいしい奉仕と、マリアの静かにイエスの言葉に耳を傾ける姿と、どちらが優れているでしょうかという視点に縛られてしまって、この朗読箇所を考えてしまっていました。もちろんそのこともあるのでしょうが、違った視点が与えられないと、この問題は永遠に答えが出ないのではないかと思います。

わたしは今年、少し違った視点を皆さんに示すことができればいいなぁと思っています。それは、「マルタとマリアの行動が、何を生み出すか」に注目しようというものです。マルタのような行動を取ると、マルタからは何が生み出されるのか。マリアのような行動を取ると、マリアからは何が生み出されるのか。そこに注目することが、イエスの結びの言葉を理解する鍵ではないかと思いました。

「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」マリアが良い方を選んだと、イエスははっきり仰いました。出来事だけを追うなら、マリアがイエスの足元に座り、じっと話を聞いたことを、「良い方を選んだ」と取ることもできます。ただし、それでは、本当に限られた態度だけをイエスが「良い方」として指摘されたことになります。本当にそうなのでしょうか。

わたしは、もう少しイエスの言葉には広がりがあるのではないかと思っています。つまり、「良い方を選んだ」とは、その人がとった態度が生み出すものが、良い実りであるなら、その人の選んだ態度は、イエスの望みにかなった「良い方」なのではないか、そう思っているのです。イエスの足元に座って話を聞くことだけを言っているのではなく、「良い実りを生み出すあらゆる態度」が、イエスの言われる「良い方を選んだ」ということになるのではないでしょうか。

マルタの態度にも目を向けてみましょう。マルタがイエスと弟子たちを喜ばせようとしたことに疑いの余地はありません。ただし、マルタの取った態度が何を生み出すか、ということを考えると、もしかしたら、十分とは言えないかも知れません。マルタの行動が生み出す実りと、マリアの行動が生み出す実りには、明らかに違いがあるように思うのです。

マルタの行動が生み出すもの、それは満足感や達成感、誇らしさや名誉でしょう。マルタの行動の実りは、マルタにのみ意味のあるもので、他者に分け与えるようなものはないのかもしれません。それに対しマリアの行動が生み出すものは、イエスへの深い信頼、イエスに導かれることの深い喜び、イエスと共にいる深い安らぎなどです。マリアの中で生み出されたものは、人に分け与えることもでき、周りの人を豊かにします。

この、「良い実りを生み出す態度」が、イエスの仰る「良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」につながるのであれば、わたしたちの生活にマルタとマリアの物語は無関係ではなくなります。わたしの取る態度が、良い実りを生み出し、周りの人をも豊かにするのであれば、それは、「良い方を選んだ」とイエスに認められるのです。反対に、自分だけの実りしか生み出さないような態度を取る人は、イエスに認めてもらえないことになります。

わたしたちの生活はどうでしょうか。わたしが選んだ決断、わたしが選んだ時間の使い方、そうしたものが、「良い実りをもたらす態度」につながっているでしょうか。もしそうであれば、わたしたちはイエスから、「あなたは良い方を選んだ。それをなくさないようにしなさい」と声をかけてもらえるのではないでしょうか。

もし、わたしの選んだ決断が、わたしにとっては喜びであっても、人に分け与えることもできず、自分だけにとどまるのであれば、それは本当に「良い方を選んだ」と言えるかどうか、考えてみる必要があると思います。あなたの決断、時間の使い方が、イエスへの信頼、イエスから来る喜び、イエスと共にいる安らぎにつながらないのなら、考え直すことも必要かもしれません。

「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」わたしたち一人一人が、イエスにこのように言われる選択を続けて生きることができるよう、恵みと照らしをこのミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼えこひいきするわけではないが、赴任した小教区に愛着がわくと、その小教区が持っている一番良い部分が見えてくる。もちろん、前任者の尽力によってそうなった部分もあるだろうが、客観的に見て、ここは感心するなぁという点を見つけることがある。
▼ぐうたらなわたしへの発奮材料となった、小さな出来事があった。6月30日に受けた生活習慣病健診で、運動不足と過食が原因と見られる症状を先生に突きつけられ、6ヵ月後に再度健診をして、数値が下がっていなければ生涯にわたって薬から逃れられませんと脅かされて毎日有酸素運動をしている。「半年後に薬漬けになって欲しくない」と、わたしをそのまま受け入れてくれた小学生の話。
▼ちっちゃな子が3人4人で、よく台所側から司祭館をのぞき、賄いシスターとわたしに近づこうとしてやって来る。その中の年長の子が、わたしにこう言った。「神父さま、夏休みになったらぼくたちと毎日泳ぎましょう。」まだ、わたしも二言三言しか会話したことないのに、この子供たちは臆することなく、わたしに挑戦を仕掛けてきた。
▼人を恐れずぶつかっていくこの子供たちの態度は、浜串の子供たち、ひいては上五島の子供たちの優れた点ではないだろうか。転勤してしばらくは、とにかく前任者と比べられてしまうものだが、この子は前任者と比較してではなく、いきなりわたしにまっすぐに体当たりして来た。「前の神父さまはこうだったよ」そういってくる子も確かにいるが、今回は前置きもなく、勝負を仕掛けてきたのである。
▼望むところだ、と言いたいが、毎日はちとつらいかもしれない。毎日出ていては、わたしの頭の皿は、真水がなくなって干からびてしまうかもしれない。できる範囲で、このやんちゃで曇りのない子供たちの相手をしてあげたい。子供のいないオジサン神父への、思いがけない果たし状。今年の夏は相当に面白くなりそうである。


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新企画今週の1枚
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第92回目。福見保育園から、「夏祭り」に招待されました。
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詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(ルカ11:1-13)
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年間第15主日(ルカ10:25-37)何と書かれているか、それをどう読んでいるか

2010-07-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/07/11(No.484)
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年間第15主日
(ルカ10:25-37)
何と書かれているか、それをどう読んでいるか
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2つの用事で、長崎に出ました。1つは、8月1日に浜串小教区の子供たちを佐世保地区主催のドッヂボール大会に連れて行こうと計画しているのですが、1日が日曜日なので、ピンチヒッターに直接交渉に行くためでした。もう1つは、選挙のことです。まだ転勤して3か月経っていないので投票用紙が来ていません。伊王島に期日投票しに行くことを思い立ちました。

8月1日(日)のピンチヒッターをお願いしたのは長崎コレジオの神父さまです。幸いに、引き受けてくださったので、長崎まで来た甲斐があったのですが、生徒たちを預かる神父さま方のご苦労を聞くにつれ、本当に大変な仕事だと感じました。

さて福音は、「善いサマリア人」のたとえです。わたしには次のイエスの言葉が響いてきます。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(10・26)律法に書かれていることは、律法の専門家であればよく知っているに違いない。だが、それをどう読んでいるのか知りたいと、イエスは求めています。

たとえ話に、3人が半殺しの目に遭っている人の前を通ります。「隣人を自分のように愛しなさい」との勧めは知っていますが、それを実際の場面で、「どう読んでいるか」が問われています。祭司とレビ人は道の向こう側を通っていきました。教えについて、頭の上での理解でしかなかったのです。

ところが、旅をしていたあるサマリア人は、その人を見て憐れに思い、近寄ったのです。このサマリア人は、生活の中で掟を実践すべきだと、行動に出たのです。サマリア人は、「教えは実行して初めて意味がある」と理解していたのです。

先の長崎コレジオの話をもう一度思い出して欲しいのですが、長崎教区の司祭で、今の時代に司祭が減少していることを知らない司祭は誰もいないと思います。それに伴って神学生の養成がどれほど緊急の課題か、知らない人はいないはずなのです。

それなのに、たとえばわたしが大司教さまから「君、神学校に行ってくれないか」と言われたら、「とんでもない」と、言ってしまうのです。どれだけ神学生の教育が大事かを痛いほど知っているのに、現実には道の向こう側を通ろうとするのです。

けれども、今実際に神学生の養成にたずさわっている神父さま方は、神学生を見て、心を揺さぶられ、近寄ってお世話をしている人々なのです。ですから、わたしたちの何倍も、神学校の神父さま方は善いサマリア人なのだと思っています。

考えても見てください。神学校にはギャルもいませんし、黄色い声をあげる女性もいません。ミサの依頼が神学生からあるわけでもないし、小教区の司祭とは大違いなのです。そういう身ぐるみはがされた状態の中に、逢えて近寄ってくださる神父さま方は、どれだけ尊いことでしょう。

そこで、わたしたち自身も、イエスのたとえ話と、土曜日に持ち帰ったばかりの神学生養成にたずさわる神父さま方の話を、わたしたち自身に当てはめて欲しいのです。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」ということです。

律法の専門家に、「律法には何と書いてあるか」と問うのは、毎日律法と向き合っている人に尋ねているのですから、日常生活そのものだとも言えます。ですから、イエスがわたしたちに問うているのは、「あなたは、目の前の生活をどう見て、どう理解しているのか」と問うているのではないでしょうか。

これに対し、たとえに登場したサマリア人は、今必要なお世話を施した上に、完全にケガが治るまでのこれからの時間にまで配慮してくれています。言わば通りすがりの人なのに、自分のことのように心を痛めることができました。目の前の現実を見て、どう読み取ったかの違いがはっきり現れています。

わたしたちは、現実の生活があります。この生活の中に、神に対して人に対して、守るべきことがあるわけです。そして、こうした守るべきこと、実行すべきことが見えた時に、あなたはそれをどう形にしているのかと、問われているのではないでしょうか。

神学生の養成、司祭の召命の増加。これらがどれほど緊急の課題であるかを理解していながら、神学校という直接の場所に対して道の向こう側を通るようではいけません。どんな無理難題でも、わたしにできることがあれば、神学生のために手を差し伸べる。それが今のわたしの課題です。

これはわたし自身の反省ですが、お一人お一人、実際の生活の中で、「それをどう見て、どう理解しているのか」と自問して欲しいと思います。生活のただ中で、わたしたちが何かを見た時に、心を動かされて行動に出る。そういう信仰者となることができるよう、今週一週間、恵みを願うことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼6月22日を語る、最終回。地域によって葬儀の流れもさまざま。ここ上五島では、葬儀・告別を終えて火葬し、その日のうちに納骨して、晩には親しい人を集めて食事をふるまってもてなすしきたりになっている。火曜日から水曜日にかけて、伊王島の人が訪ねてきていたので、本来ならこの日の夕食は伊王島の人たちとなのだが、まずは遺族の招待した席に出てから、伊王島の皆さんの食事会に出ることにした。
▼遺族が設けてくれた食事の席は、おいしい魚がずらりと並んだ魅力的なものだった。話はすぐに「歌う後継者」の話に移り、そこでにぎやかな会話になり、さらに「故人が楽しんできた釣り船をどう処理するか」にも関心が向いた。わたしは身を乗り出し、「その話は興味あるなぁ」と、ぜひ自分に、その船を譲ってもらいたい旨を伝えてみた。
▼すると、船は世話してくれている○○モータースに、譲渡しようという話でほぼ固まっているという。「今、○○モータースって言いました?そことはたまたま、他人じゃないよ。その業者だったら話が早い。明日にでも相談に行っていいですか?」亡くなったご主人の船が、主任司祭によって活かされるわけだから、二つ返事で話はまとまった。
▼これは面白くなりそうだ。どうにかしてボートを手に入れたいなぁと思っていたところだったので、これこそ、「渡りに船」である。故人が眠る棺を囲んで、わたしはこんなににぎやかな話をしてしまい、故人に「まいったなぁ」と思われているだろうか。いや、わたしはそうは思わない。きっと、喜んでこの場を眺めてくれていると思っている。
▼後日談だが、○○モータースとも話がスムーズに進み、実際の船も下見をしてきた。ちょっと、細部ではイメージと違っている部分もあるが、楽しみが増えたことには変わりない。また、地域の人には心配かけると思うが、これで思う存分、上五島ライフが楽しめそうである。8月12日に、船の検査がパスすれば使えるようになる。

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新企画今週の1枚
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第91回目。初めて、長崎コレジオを訪問。ここは、旧大司教館です。
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詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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年間第16主日
(ルカ10:38-42)
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年間第14主日(ルカ10:1-12,17-20)宣教者とは身をもって神の働きを示す人

2010-07-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/07/04(No.483)
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年間第14主日
(ルカ10:1-12,17-20)
宣教者とは身をもって神の働きを示す人
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人間は面白いもので、最初に習った人、その人から習ったことなどをとても大切にする傾向があります。わたしは初聖体の勉強を、自分が通っていたお告げのマリア経営の保育所の、園長先生から習いました。わたしの中では、この初聖体の準備をさせてくれたシスターが「シスターの鏡」であり、「マリアさまもきっとこういう人に違いない」と思っていたものです。

大人になり、司祭になって、初聖体の準備をさせてくれたシスターと再会しました。白髪交じりのおばちゃんになっていました。わたしはその時こう思ったのです。「初聖体の時に教えてくれたシスターは、マリアさまのようにステキだったのに。」記憶の中のシスターがずいぶん変わっていたのでびっくりしたのです。20年ぶりに再会したのですから、無理もありません。

話が面白いのはここからで、それでも、今でも、わたしにとってマリアさまはこんな人に違いないというのは、今はおばあちゃんになっているそのシスターなのです。永遠に、シスターの鏡はシスターの鏡で、変わらないのです。ここが不思議だなぁと思います。

30年以上経った今になって思うことは、わたしは幸いに初聖体のけいこを受けながら、シスターを見ていたのではなくて、シスターの中に何かを見ていたのだろうということです。だから、実際のシスターが年齢を重ねても、シスターの中に何かを見る態度が変わらないので、今でもステキなシスターであり続けるということです。

ただ、その人の中にも、何かがなければ、見ることができないのも確かです。わたしが、その人を見ているのではなくて、その人の中にある何かを見ると言っても、その「何ものか」が備わっていない人には、見ようと思っても見ることはできないわけです。

今週の福音は、イエスが七十二人という大勢の弟子を、町や村に二人ずつ派遣し、その結果報告を聞いて、また次の準備をさせるという内容です。その、二人ずつ派遣する場面で、目に留まった部分があります。2つ取り上げると、1つは、「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。」(10・4)との命令があります。

「それでは、何を持って行けというのだろうか。」皆さん疑問に思うことでしょう。それがわたしが最初に例を挙げた「何かを」持っていく、ということです。財布や、袋や、履物ではなくて、イエスの弟子である、イエスに派遣されているという何かの証しを、持って行きなさい。それこそが、あなたが人々の前に証しをする道具になります、ということなのです。

もう1つは、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」(10・5)という命令です。これは単なる挨拶ではなくて、「神の国が、遣わされた弟子たちを通して、もうそこまで来ていますよ」というよい知らせのことです。遣わされた弟子たちが神の国を与えてくれるのではありません。遣わされた弟子たちの中に、イエスから受け取った「何か」があるので、神の国の喜びが人々に届くのです。

そこで、わたしたち自身に当てはめて考えましょう。わたしたちがどこかへ出かけるとき、出かけた先で証しができるかどうかは、わたしが「イエスから託された何か」を持っている人かどうかにかかっています。イエスの弟子として、「イエスの何か」を持っている人かどうか。例を2つ挙げておきましょう。

1つは、人生で上向きの時期に考えてほしいことです。充実して、何不自由ないと感じていても、「イエスの何か」を備えているとは限りません。イエスが充実して、満ち満ちているときに何をしたか考えてみましょう。イエスは父なる神に感謝しました。たとえば、食事をするとき、御父に感謝の祈りを唱えてから、パンとぶどう酒を弟子たちに分け与えました。

こんな場面もあります。親戚のラザロが死んでしまったとき、墓の石をとりのけさせて、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」(ヨハネ11・41)と言ってから、ラザロをよみがえらせたのです。どんなことにも、神に感謝できる。この心がけを持っている人は、確かに「イエスの何か」を持っている人で、どこにいてもイエスを証しできる人だと思います。

もう1つ、すべてをはぎ取られ、不安のうちにある時期に考えてほしいことです。そんな中でも、「イエスの何か」を持っている人は、証しをする人になれます。例えば、病院に入院しているときは、すべてをはぎ取られ、不安の中にいるはずです。そんなときでも、「祈り」を忘れない人は、たとえベッドに張り付けになっていても、イエスに遣わされた立派な証し人だと思います。

わたしは、お見舞いをした時、病人の枕もとに祈祷書が置いてあるのを見ると、とても慰められ、また勇気づけられます。「あー、この人は、このベッドから離れられないけれども、イエスの弟子として、立派に証しをしている人だなぁ」と、大いに励まされるのです。

毎日大声で祈ってなくてもかまいません。ページをめくり、静かに心を神に向ける。その姿が、同じ病室の人、勤務している人、ときには医者に対しても、証しをすることになるのです。

2つ、例を挙げました。殉教にあっても、逆境にあっても、わたしたちはイエスの弟子として、自分のいるその場所で証しを立てましょう。そのためには、「イエスに託された何か」を、保ち続ける必要があります。日々の暮らしで、イエスのどんな部分を、わたしは受け取って保ち続けようか。保ち続けることができそうなものは何だろうか。考えておきましょう。

今日、霊名のお祝いを皆さんがしてくださるということで、本当に感謝の心でいっぱいです。わたしも、「これだけはイエスに託されたタレントだから、失わないようにして証しを続けたい」そう言える部分に磨きをかけていきたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼6月22日を語る、その2。お弁当を食べた家で、「思ったことを、思ったまま言ってしまって、大丈夫だったかなぁ」と水を向けると、「それがですね、神父さま。亡くなった人の聖歌が、音が外れていると言ったでしょ。歌うと音が外れる、その後継ぎがちゃんといるんですよ」とのこと。
▼「それは興味深いねぇ。」わたしは身を乗り出して、その話を聞いた。話をしていたら、話している当人が家にやって来るではないか。「あー、この人なんだなぁ」その時はそう思っただけだった。
▼火葬が終わり、納骨のために墓地に移動する時間が来た。山の非常に高い場所に設けられた墓地まで、歩いて登る。距離の感覚で言うと、高島教会の、教会下のバス停から、階段をひたすら登って共同墓地に行くような感覚だろうか。
▼滞りなく納骨の儀が進む。聖歌が流れる。その時だった。「かみともにいまして、ゆく道を守り、あめのみかてもて、力を与えませ。また会う日まで、また会う日まで。神の守り、汝が身を離れざれ。」とてつもなく音を外し、気持ちよく歌う1人の男性を見たのだ。
▼わたしはその人の顔を何度もこっそり眺め、確認した。そうだ。この男性だったら、故人の後継ぎになれる。音が外れて、それでも気持ちよく歌える人はそうたやすくは見つからない。こんなに身近に、後継者がいるではないか。わたしは感心しながら、その人が心地よく歌っているのを聞いたのだった(次週に続く)

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新企画今週の1枚
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第90回目。霊名のお祝いで、こんな絵を描いてもらいました。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100704.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(ルカ10:25-37)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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