こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第4主日(ルカ4:21-30)イエスの語り掛けをもう少し考えてみる

2010-01-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/01/31(No.458)
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年間第4主日
(ルカ4:21-30)
イエスの語り掛けをもう少し考えてみる
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今週は、朗読箇所の「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(4・24)という箇所から学びを得て、生活に活かす糧を持ち帰ることにしましょう。郷里の人々は、イエスにこんな言葉を投げかけました。「この人はヨセフの子ではないか。」(4・22)

郷里の人々は、イエスのことを十分理解しているつもりでした。父親が誰で、母親が誰であるか、もしかしたら親類の人がだれであるかについてまで、詳しく知っていたわけです。イエスが何かを語るなら、イエスを取り巻く環境に影響された言葉を語るだろう。そんな予測を立てています。

ところが、イエスは予想もしない言葉を口にしたのです。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」予想の範囲を超えた言葉を口にしたので、郷里の人々は驚き怪しみ、理解できないだけでなくついには憤慨し始めます。もはや、郷里の人々の心は一歩も前に進むことはありません。冷静さを失ってしまい、考えることができないからです。

たしかにイエスの放った言葉は、郷里の人々には痛みを感じるほど強い言葉でした。ここで大切なことは、イエスがむやみにそんなきつい言葉を放つだろうかと、もう少しよく考える姿勢です。向けられた言葉を、もう少しよく考えてみる。そんなとらえ方が、必要でした。

イエスがきつい言葉を言うからには、それなりの理由があるはずです。優しく語り掛けることも知っている方が、あえて厳しい態度で臨むのですから、それは理由があってのことです。理由があるのだなと考えたなら、さらにもう少しその理由に迫ろうとしたことでしょう。ところが郷里の人々は、イエスの言葉を聞いた時、「何をー!」という反応を取ってしまったのです。

もう少しよく考えてみるというたとえになるかどうか、自信はありませんが、ついこの前NHKのプロフェッショナルという番組で小野次郎さんという寿司職人が取り上げられていました。この人の並々ならぬ努力を、ちょっと話してみたいと思います。

銀座の一等地に店を構え、今や押しも押されもしない名人芸でお客さんを唸らせる寿司職人ですが、彼はもともと不器用な人だったらしく、人の何倍も寿司を握る努力をして、ようやく自分の境地を切り開いたのだそうです。不器用だったので、どうやったら人並みになれるのかを必死に考えて、彼独特の寿司の握り方「次郎握り」というものを編み出したと紹介していました。

もし彼が、修業時代に「君は才能がないから伸びないよ」と言われて「何をー!」と怒っていたら、もうそれ以上前に進むことはなかったでしょう。業界紙から三つ星の店と認められるような未来もなかったかも知れません。

この寿司職人が並の人物でなかったことは、修業時代に取った態度で分かります。彼は自分の不器用さに「何をー!」と怒るのではなく、「何か、人並みになる方法があるはずだ」と、諦めなかったのです。

どんなに努力しても、親方が教えてくれる伝統的な握り方を習得できませんでした。それでも、「何か方法があるに違いない」と、必死に道を捜したのです。彼は「次郎握り」を考案し、親方が教えてくれた握り方ではありませんが、自分が納得できる寿司が出せるようになりました。

小野次郎さんは、現在82歳ですが、今も、「もっと上達する方法があるに違いない」と考え続けているそうです。この姿勢がなければ、今の年齢まで一流であり続けることはできなかったでしょう。番組を見ていて、すごいなぁと感心しました。

小野次郎さんを例に出したのは、もう少しよく考えれば、きっと道は開けるはずだということを知ってもらうためでした。イエスの郷里の人々も、イエスの言葉をもっとよく考えたら、道は開けたのだと思います。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」こう言われた時に、自分たちには何が足りないのだろうかと、真剣に考えたなら、違った道に導かれたのではないでしょうか。

そこで、わたしたちも当時のことを参考に自分の生活を見つめましょう。わたしたちが出会うさまざまな場面は、必ずしも人当たりの優しいものばかりではありません。どうしてこんな目に遭わなければならないのだろうかと感じることも多々あると思います。

わたしたちの予想もしない仕打ちを受ける時、「何をー!」と思ったら一歩も前に進みません。「これは何かあるに違いない」「もう少しよく考えれば、意味が分かるかも知れない」そう考える心の準備が必要です。やみくもに、困難や試練が置かれているはずはない。あの人が、何も考えなしにあんなことを言うはずがない。きっと、何かを教えてくれているはずだ。そんな受け止め方をしつこく繰り返していけば、道は開けるのではないでしょうか。

「きっと何かあるに違いない。」同じ聖書の箇所を何度も与えられて説教をする司祭は、この気持ちがなければ一歩も前に進むことはできません。もっと違う何かを教えてくれているに違いない。何か、新しい気づきを見つけて、信徒に分かち合いたい。その一心で、司祭は聖書の与えられた朗読箇所に向き合っています。

お一人お一人にも、何か行き詰まっていることがあるかも知れません。投げ出したくなるような十字架を抱えているかも知れません。それでも、イエスがむやみに今の困難を目の前に置いているとは思えないのです。何か、イエスのわたしへの思いを知らせようとして、今があるのではないでしょうか。

「もう少し考えてみよう」「何か、考えさせているに違いない」そんな姿勢を保って、イエスに従って歩みましょう。「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(4・30)とあります。立ち止まることなく、先へ進もうとされるイエスを見て、わたしたちも今日の一歩を進めることにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼NHKの「プロフェッショナル」はよく見させてもらっている。すべて鵜呑みにしてはいけないだろうが、こんなすごい人もいるんだなぁと感心する。説教に出て来た寿司職人は、好みはあると思う。ある人にとっては「愛想がない」と言われているのも確かだ。まぁ、無愛想はこうじ神父も変わらないので、これで説教の点数が下がるのであれば、それまでだと思うしかない。
▼今日の録音説教は、今日の内にはアップできないかも知れない。というのは、今日は主日のミサを3つ捧げた後、違う教会に行って葬儀ミサをしなければならない。実は土曜日から、「葬儀ミサ→命日祭のミサ→別の通夜」と過ごしてきている。この説教を書き上げたのも夜中だ。葬儀ミサから帰った頃はきっとクタクタで、当日の内には録音説教をアップできないかも知れない。
▼助けてあげたい、と思う人が今心に浮かんでいる。このメルマガにも目を通している人だ。わたしのありのままが、その人にどのように伝わるか分からないけれども、元気を出してくれればいいなぁと願うばかりである。なかなか、一匹の羊を捜して、九十九匹を残して行こうとしない。まことの羊飼いが実行した態度を、なかなかそのまま生きることができない。本当に弱い人間。いつも自分の弱さに打ちのめされる。
▼昨年末から楽しみが増えた。洗礼を希望して、2組の大人が訪ねてきて、勉強会が始まっている。洗礼を受けて、配偶者と同じ信仰を、共に歩んでいく決心をしている。たくさんの勉強は難しいかも知れないが、配偶者の協力を期待しながら、羽ばたけるようになる所まではお世話したいと思う。
▼念のため断っておくが、羽ばたけるまでのお世話しかできない、あとはわたしがいなくなると言っているわけではない。それは誰にも分からない。今日この時点で言えることは、誰も、何も、打診は来ていないということだ。2月に入るので、必要な人にはそういう通知が来るのだろう。そんな季節がやってきている。

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新企画今週の1枚
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第65回目。この人はいったい、何を訴えかけているのでしょう?

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(ルカ5:1-11)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第3主日(ルカ1:1-4;4:14-21)“霊”の力に満ちて語り、行動する

2010-01-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/01/24(No.457)
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年間第3主日
(ルカ1:1-4;4:14-21)
“霊”の力に満ちて語り、行動する
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今週与えられた福音朗読箇所は、ルカ福音書の2つの部分が組み合わされています。よく読むと分かるのですが、前半は、著者であるルカが、テオフィロという人物に向かって献呈のあいさつを述べている部分です。

後半は、イエスがガリラヤで伝道を始め、ついでナザレに移動される様子が描かれています。イエスの活動の始まりの部分に、献呈の言葉がどうして組み合わされているのか。この部分については、また3年後に考えを巡らせることができればいいなぁと思います。

その部分は横に置きまして、ガリラヤで始まったイエスの活動のくだりに注目したいと思います。この部分、もう少し前後を広く見渡すと、「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」(4・14)とあるのですが、「どこから」帰ってきたのか、これだけでは分かりません。

せっかくなら、この点も朗読に含めてくれればいいのに、と思ったのです。イエスが「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」とありますが、その直前で、イエスは荒れ野での40日間の誘惑をことごとく退けてからガリラヤに帰られたのです。

イエスが“霊”の力に満ちておられるのは、この40日間の誘惑に打ち勝ったことを踏まえて考えるべきだと思います。イエスは耐えがたい試練に、完全に打ち勝ちました。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」ときっぱり言い切る力にみなぎっています。力を蓄えたその姿が、ガリラヤに帰られたイエスにはあるわけです。

その、“霊”の力に満ちたイエスが、お育ちになったナザレにやって来ます。イエスはここでも、“霊”の力に満ち、その言葉には迷いがありません。のちに弟子たちに語る言葉ですが、「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(12・12)そんな思いで「安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちに」(4・16)なります。

イエスは“霊”の力に満ちています。荒れ野での誘惑を打ち破って、心に曇りのない状態にあります。そんな中で預言者イザヤの巻物が渡され、目に留まった箇所を朗読しました。会堂で聖書を朗読する人は、その与えられた朗読箇所について何かを語ることが期待されています。そこでイエスは、迷うことなく、心にある思いを打ち明けるのです。「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(12・12)

そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と話し始めました。思ったことを、思った通りに話しました。ここで朗読に選ばれていない部分があります。イエスが「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と話し始められた時、会堂にいる人々がどんな反応を示したかが紹介されていないのです。

実際には、「この人はヨセフの子ではないか。」(4・22)という反応でした。つまり、イエスに拒絶反応を示したのです。「なんだこいつは。自分を何様だと思っているのか」という反応を示したのです。

ここで、1人の人の言葉を思い出します。幼子イエスの両親がイエスを神殿に献げに来た時に現れたシメオンです。彼は“霊”に導かれてマリアにこう言いました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(2・34-35)

こういうことです。人が、“霊”の力に満たされ、“霊”に導かれて語る時、そこには大きな摩擦が生じるということです。イエスがきっぱりと「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)と話し始められた時、「この人はヨセフの子ではないか。」(4・22)という反応が返ってきました。非常に厳しい摩擦を生じました。それでも、イエスは語ることをためらわなかったのです。

ここでわたしたちの生活の糧を考えたいと思います。ある時わたしたちは、すべての人の目が注がれている中で、何かを語らなければならない時がやってきます。その時、「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(12・12)と信頼してよいのですが、言うべきことをためらってはいけないと思います。

ある場合には、「これを言ったら摩擦が生じるなぁ」と予見できることもあります。あるいは、「わたしがこういう場に立ってこんなことを言うのは、まったくふさわしくないなぁ」と感じることがあります。けれども、人が、“霊”の力に満たされ、“霊”に導かれて語る時は、口を閉ざしてはいけないのです。

例を挙げましょう。わたしたちは今、礼拝の場に集っています。この場所で当てはまる例として、聖書朗読と、共同祈願が考えられます。聖書朗読は、上手な人が読めばいいと、敬遠している人が多いのではないでしょうか。そうではなくて、聖書朗読は、人が、“霊”の力に満たされ、“霊”に導かれて語る時、それも、またとない時だと思うのです。

聖書を読む時、わたしたちは人間の力だけで読んでいるのではないのです。むしろ、“霊”に導かれて読んでいるのです。ですから、自分の能力に問いかけて、語るのをやめてはいけないと思います。

共同祈願もそうです。共同祈願は聖書朗読に比べるとずいぶん短い役割です。「聖書朗読はできないけれども、共同祈願だったらできる」と言う人がいるかも知れません。わたしは、聖書朗読も、共同祈願も、人が、“霊”の力に満たされ、“霊”に導かれて語るのであって、どちらも自分の能力で語っているのではないと思っています。

これまでの自分の心がけを振り返ってみましょう。わたしは、能力を信じて聖書朗読や共同祈願の務めを引き受けていたかも知れません。わたしの声の力で、わたしの読み聞かせる力で、聖書朗読や共同祈願をしないことです。これからは、“霊”の力に満たされ、“霊”に導かれて語るのだと考えましょう。

人が、“霊”の力に満たされ、“霊”に導かれて語る時、摩擦があるかも知れません。人の反感を買ったり、妬みを買ったりすることがあるかも知れません。それでも恐れないようにしましょう。あなたは“霊”の力に満たされ、“霊”に導かれて語りました。結果は、主にお任せしましょう。恐れずに、信頼して務めを果たす時、神のことばはより多くの人に届けられ、響き渡ることになります。


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ちょっとひとやすみ
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▼この「ちょっとひとやすみ」の部分だけ、「Candles」(http://cand.jp/)というサイトに毎週アップしている。まさか反応があるとは思わず(最初はなしのつぶてだったので)、コメント書き込みの有無を気にせずに1年ほどアップし続けていた。
▼ところが、最近になってところどころコメントが書き込まれた日があることに気付いた。今さら、コメントに返事を書いても遅いのでどうにもならないが、返事もせず、申し訳ないことをしたなぁと思っている。
▼書き込みしているらしい人は数人で、わんさか盛り上がっている状況ではないが、生き生きとした声が届いていることは嬉しい限りだ。ちなみに「Candles」のわたしの日記の書き込み(つまり「ちょっとひとやすみ」のこと)に立ち寄っているらしい人は、かなりの人数いるようである。
▼かまってもらうというのは、本当に有り難いことだ。その人の周りには輪ができるという人も中にはいるのだろうが、わたしはまったくそういう人間ではない。それでも、かまってくれる人がいるおかげで、ここまで続けられたと思っている。加えて自分自身が置かれている環境が時々変わるので(転勤とか)、心機一転を計ることも出来、助けられている。
▼ほんとうに一匹狼という存在は、世の中そんなにいないのだろう。どんな人も、良き理解者を得て、その人に助けられて、一匹狼を主張できているのではないだろうか。それが正しいとすれば、自分もその例に漏れないと思っている。感謝したい。

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新企画今週の1枚
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第64回目。今年は、自主防災訓練を実施しました。登録文化財を守りましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第4主日
(ルカ4:21-30)
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年間第2主日(ヨハネ2:1-11)イエスは最初のしるしで喜びを届ける

2010-01-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/01/17(No.456)
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年間第2主日
(ヨハネ2:1-11)
イエスは最初のしるしで喜びを届ける
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今週の福音朗読に選ばれた「カナでの婚礼」の物語は、朗読の最後にあるように、イエスにとっての「最初のしるし」となるものでした。イエスが公の面前で、最初におこなった奇跡です。わたしはこの、「最初におこなった」という点に注目して、今週の糧を探ってみたいと思います。

イエスにとって、最初に取りかかった事柄というものをいくつか指摘できます。まず、公の宣教活動に入るに当たって、第一声というものがあります。最近は長崎では県知事選も話題になっていますし、それぞれの候補が第一声をメディアに向かって発表しています。

そのように、イエスにとっても最初に何を仰るのかは注目してよいわけです。ちなみに、イエスの第一声と思われる言葉は、マルコ福音書によれば、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)というものです。心を神に向け直すことが、第一声の中で求められていると言ってよいでしょう。

では最初の活動はどんなものだったでしょう。それは、「弟子を選ぶ」ということでした。もちろんイエスは、荒れ野での四十日の試練を経ていますが(マタイ4・1-11)、それは最初の活動というよりも、活動に入る前の準備です。

ですから、最初の活動と言えるのは、やはり弟子をお選びになることでした。その意味では、どんな奇跡よりも、信頼できる弟子を選び、育てることが、イエスにとっては何より大切だったのだなぁと考えることができます。

もしかしたらそれは、わたしたちの教会活動にも通じるのかも知れません。つまり、華々しいわざを展開するよりも前に、教会に寛大に奉仕してくれる弟子を育てることが、何よりも大事なのかも知れません。

さて本題に入りますが、イエスの最初のしるしは、今日の出来事にある「カナでの婚礼で水をぶどう酒に変える奇跡」でした。この奇跡が、婚礼に招かれた人びとに伝えようとしていることが2つあると思います。1つは、ご自分が神であるということ、もう1つは、イエスが最初に取り組んだ奇跡は、「喜びを届ける」という奇跡だったということです。

それぞれについて押さえていきましょう。イエスは、水をぶどう酒に変えてくださいました。水は、どんなに手を加えてもぶどう酒になり得ません。ぶどう酒がなくなって、どうしても調達できなくなった場面で、ぶどう酒を与えることができるのは神だけなのです。この出来事を通して、神がここにおられること、神がともにいてくださる(インマヌエル)ことを、お示しになったのです。

もう1つの点は、イエスはこの「最初のしるし」を通して、「喜びを届ける方」であることを示します。イエスが水をぶどう酒に変えたことで、集まっていた人々の顔は喜びで満たされます。婚礼の世話役の言葉が、そのことを如実に物語っています。

(世話役は花婿を呼んで、言った)「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(ヨハネ2・10)

もしかしたら、イエスの奇跡のことを、婚礼の客は気付いてなかったかも知れません。奇跡に気付かなかったとすれば、イエスが神であることに気付くチャンスも失ったのかも知れません。もし、奇跡を目撃しなかったとしても、奇跡の結果は残りました。すなわち、ぶどう酒は婚礼の客すべてが味わい、楽しんだのです。イエスが神であることには気付かなかったかも知れませんが、人々は喜びに満たされたのです。

この出来事から、今週の糧をわたしたち燃えることにしましょう。今年は、できるだけ同じことを繰り返して、説教を進めています。与えられた福音朗読から、もっとも心に響いたみことばをじっくり味わい、そのみことばがわたしたちに何を呼び掛けていて、それにどのように答えるのかを考える。この訓練を1年続けます。

今週の福音朗読にこの手順を当てはめてみましょう。中田神父は、水をぶどう酒に変えるイエスの奇跡が「最初のしるし」であることに目を留めました。そこからイエスが呼び掛けていることは、(1)ご自分がだれであるかを示すこと、(2)この奇跡は「喜びを届ける」ものであったということでした。

ここからわたしたちも考えましょう。わたしたちも、生活の中で2つの点を世に対して示すのです。その2つとは、(1)自分が何者であるか、そして(2)喜びを届けることが、わたしたちの「最初のしるし」なのだということです。

もう少し、説明が必要かも知れません。(1)の、自分が何者であるかということですが、わたしたちはイエスによって神の家族に加えられたものです。まずはこのことを証しします。家族ですから、家族のことを隠すべきではないのです。イエスによって救われた者として、顔を上げる必要があります。

そして、何よりも生活の中で「喜びを届ける者」となることが必要です。圧力を与えるのではありません。人を悲しませる者であってもいけません。何よりもまず、「喜びを届ける者」であるべきです。こうしてわたしたちは、イエスが婚礼の席で示した証しを受け継いで、現代にあって証しし続けます。

かつて、イエスがご自分が誰であるかを示し、何よりも喜びを届ける方であったように、わたしたちも同じ姿をたどることで、イエスの働きを今の世に示すのです。イエスは今も生きている。イエスは今も、わたしたちを通して世に働きかけている。そのことを、わたしたちの生きざまで示しましょう。

肉体労働をしている人も、机に向かって事務の仕事をしている人も、誰でもイエスのわざを今に引き継ぐことができます。イエスの存在を人々に感じさせる。その思いで、今週一週間を過ごすことにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼長崎南山高校3年4組の同窓会。個性的なメンバーが集まった。当時、こんなに面白い人間が集まったクラスだったとは見抜けなかった。集まりの幹事を務めてくれたK君は、自己紹介の時に、「僕は、54人のクラスの中で成績は52番でした。でも、こうしてみんなの集まりの幹事を務めることができました。誇りに思います」とあいさつした。
▼夜6時の集合だったが、15分遅れで部屋に通されると、あー、懐かしいなぁという顔ぶれが集まっていた。2人、もと神学生も参加していた。そこに入った時、わたしはみんなに「わい、誰や?」とはっきり言われた。「中田やけど・・・」「中田?卒業写真のどれや?」「真ん中」「わから~ん。わからんぞ。だいたいお前、神父になるのを諦めたはずだぞ(実際そうです・・・)」と、ずいぶん手厳しい歓迎を受けた。
▼担任だったN先生。当時28歳で担任になり、30歳でわたしたちを卒業させてくれたのだが、先生はまったく変わってなくて、むしろ若さを保つ秘訣を、教えてもらいたいくらいだった。「いやー、中身はずいぶん変わったんだよ」とは仰っていたが、少なくとも集まった卒業生の2人(K君とY君。特にY君はつるっぱげ)のほうが、担任の先生よりも老けて見えた。
▼ほとんどが結婚していたが、O君は今にいたっても1度も結婚していないという。どちらかというと、色男で、いくらでも女性が言い寄ってきそうな顔立ちだったが、結婚していないとは意外だった。一方で、H君は2度離婚し、今は1人だそうだ。きっと波乱に満ちた歩みだったのだろう。
▼同級生の中には、時々連絡を取り合っていた連中もいたようだが、わたしはほとんどの人と25年ものあいだ、1度も会っていなかった。会話が弾んでいる頃に、隣の席の人に向かって「もしかして、N君?」と恐る恐る聞いてみると、「1時間しゃべって、今気付いたとや?」あまりの記憶のなさに、申し訳ない気持ちになった。こちらは相手のことを覚えてなかったが、当時のわたしを鮮明に覚えてくれていた人が1人いて、思いがけない優しさに触れて、感激した。
▼高校の同窓会は、絶対に成立しないと、勝手に思っていたが、意外や意外、最初に成立したのが高校の同窓会。幹事のK君は「これから2・3年後の同窓会には、全員呼び出したいです。必ずなし遂げます」と、心から3年4組を愛していたことが伝わってきた。友だちって、いいなぁ。高校3年4組、万歳!

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新企画今週の1枚
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第63回目。ピンぼけしていて残念ですが、洗礼を受けるイエスの像です。

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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
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主の洗礼(ルカ3:15-16,21-22)天の父の心に適う生活を探し求める

2010-01-10 | Weblog
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こうじ神父
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10/01/10(No.455)
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主の洗礼
(ルカ3:15-16,21-22)
天の父の心に適う生活を探し求める
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主の洗礼の祭日を迎えました。今までずっとこの箇所を読んできたのでしょうに、今年になって初めて、気付いた点があります。ヨハネが民衆に語っている言葉です。

「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(3・16)

よく読み返すと、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、(中略)その方は、聖霊と火であなたちに洗礼をお授けになる」と言っています。同じ1人の人が、2回も洗礼を受けるものなのでしょうか。

洗礼者ヨハネは、自分の授ける洗礼と、「その方」と呼んでいるイエスによる洗礼とを、はっきり区別していたと思います。ヨハネが授ける洗礼は、徹底的な悔い改めのしるしで、道徳的な清さに人を招くものでした。水は、この世の物質であり、この水で人を変化させるのは、道徳的な部分に限られていたのです。ヨハネはそのことを十分理解していたはずです。

ところが、ヨハネが予告する「聖霊と火による洗礼」は、道徳的な悔い改めをもたらすものとはまったく次元の異なる何かを言い表そうとしていました。ヨハネ自身は、「聖霊と火による洗礼」を、「裁きをもらたす力をもった清め」と考えていたようですが(3・17参照)、いずれにしても、イエスが授ける洗礼は、人をこの世の清さに結び付けるものではなく、神がもたらす清めに人を結び付けるものだと理解していたのです。

ヨハネは、イエスが授ける洗礼を、ヨハネ自身が授ける洗礼とはまったく違うものであると理解していました。同じ物の繰り返しであるなら、2度授ける必要はありませんし、2度授けるべきではないでしょう。

七つの秘跡のことを考えてみましょう。わたしたちは堅信を2度受けることはあり得ません。ところが、叙階は、助祭叙階を受けた人が司祭叙階を受けますし、神がお望みになれば、司祭叙階を受けた人が司教叙階を受けることもあるわけです。「叙階の秘跡」は、7つの秘跡の中のただ1つの秘跡ですが、司教叙階を受けた聖職者は、叙階の秘跡の充満の度合いが違うわけです。

「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」(3・21-22)イエスがヨハネから洗礼を受けた時、水で洗礼を受けたことでこの世と結び合わされました。

イエスが清めを受ける必要は一切ありませんでしたが、この世の一切のけがれに死んだのです。そして、「聖霊がイエスの上に降って来た」ことで、天の父と結ばれている姿も示しました。これからは、信じる人がイエスの授ける洗礼によって、イエスが受けた両方の姿、この世のけがれに死に、神のいのちに結ばれて生きることになります。

さて、祭壇脇には、皆さんが初めて実物を見る「イエスの洗礼」を表現した御像があります。「中田ザビエル工房」で制作してもらった御像です。昨年は、まだ着色しないままの段階での写真をお見せしたと思います。今年は、無事に完成し、皆さんにお披露目となりました。

この御像を見ながら、もう一度イエスの洗礼の意味合いを確認してください。イエスは、この世のけがれに死に、聖霊が注がれたことで天の父との固い絆を人々に示したのです。今週は、このイエスの洗礼の姿から、わたしたちの生き方の模範を学必要があると思います。

つまり、ヨハネが予告したように、水を使った洗礼を受けた人はこの世の清めに結ばれるけれども、聖霊と火による洗礼は、人を天上のものに結び付けるのです。イエスの中に、その両方の姿が示されました。

そして、わたしたちの生活にどのように結びつくのかを探ると、天から聞こえた声が、教えてくれると思います。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3・22)イエスの姿に、天の父の心に適う姿があるわけです。それは、この世のけがれに死に、神のいのちに生きることです。

もちろん、イエスの姿を完全に写し取ることはできません。そのようなことを天の父の声が命じているのでもないでしょう。それでも、わたしたちは繰り返し、天からの声を自分に言い聞かせることができます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

わたしたちの生活には、知りながら、自分の意志でおこなう決断があります。間違いもあるでしょう。けれども、繰り返し、天からの声を心に響かせて考えるわけです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」わたしの決断は、この天からの声に沿うものだろうか。あえて、天からの声に背くようなことをしなかっただろうか。この点に注意を向けながら生活するなら、わたしたちはイエスと同じ姿を、人々に証しすることができると思います。

大きな証しでなくても構いません。よくわたしが例えに出す、食前食後の祈りでよいのです。食事の時に、人前であっても、祈りによって天に結ばれている姿を証しして欲しいのです。人前だから、祈りを隠す。それは、この世に縛られています。この世の誘惑、けがれに死ぬため、人前でも祈りをするのは立派な証しになると思います。

今週、イエスの洗礼の姿を通して、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という生き方があることを学びました。ぜひ、わたしの生活に、生かしましょう。

頭で分かっているだけでは足りません。だれかの生活に当てはまっているだけでも足りません。他の誰でもない、わたしの生活に当てはめていく。そのための力を、天の父に願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼正月休みを取って五島の新上五島町鯛ノ浦に帰省した。小教区の主任司祭にお許しをもらい、福音朗読のあとに短い説教をした(1度、長く話してしまった)。その中でついでに話したことだが、えらくシスターに受けたのでここで書いておきたい。
▼五島産業汽船に乗る前にもっとも頭を悩ますのは、当地の主任司祭と修道女たちにどんなお土産を買って帰るかである。ほかには悩みはないと言ってもよいくらいだ。今回は、あまり季節感はないけれども、ハウステンボスの福袋を買って帰った。
▼長崎から帰るのに佐世保のハウステンボスのお土産というのはいかにも変だが、「わざわざ買ったのよ」みたいな雰囲気はあると思ったのでそう決めた。中身は、ソーセージとか、チーズとか、お菓子の詰め合わせだったと思う。個人的には、福袋そのものが、ハウステンボスオリジナルのトートバッグなので、役に立つと思って買ったつもり。
▼お土産も買い込み、ようやくこの日1便だけ出航した最終16時の便に乗り込む。すると自分の目の前に、違う小教区の若い主任司祭が座っている。「よぉ」と言うと「おぉ」と答える。先輩風吹かせるのは、こんな時だけだなぁ。
▼鯛ノ浦に到着すると、シスターがターミナルに立っていた。おー、渡りに船ということで、声をかけてお土産を預ける。「しすたー、修道院に戻るよね。これ、お土産。」白いベールのシスターだった。これで仕事が1つ減った。主任司祭の分は明日のミサの時でもいいか。そういうことで自宅に直行した。
▼翌朝、眠い目をこすりながら、ミサに行く。もちろん主任司祭へのお土産も忘れない。手渡しして祭服に着替え、いざ祭壇に出てシスターたちに目を遣る。そこでわたしは凍りついた。誰も、白いベールなどかぶってないではないか!ではあのお土産を受け取ったのは、どの修道院のシスターだったのか?
▼唖然として、説教でも何をしゃべったのか思い出せないくらいだったが、ミサが終わって祭壇の片付けをしに来たシスターに、恐る恐る尋ねる。「シスター。修道院に、お土産とか来てなかった?」
▼尋ねたシスターがビックリしたように答えた。「神父さま、受け取ったのはわたしですよ。確かにいただきました(笑)」脅かすなよ~。でも白いベールの謎は?そのことも聞いてみると、「養護施設では、看護士みたいな全身白い修道服を着るのですよ。」そっかぁ。
▼そんなオチを、翌日の説教の枕に話したら、シスターたちが笑い転げていた。この手の話が面白いのだとしたら、わたしは笑いのツボを押さえていないに違いない。そんな話は馬込教会ではしないからだ。それとも、笑いは土地によって違うのだろうか。


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新企画今週の1枚
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第62回目。実家に帰りました。わが家のアイドル。雌なのに「イチロー」。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ2:1-11)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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主の公現(マタイ2:1-12)あなたの贈り物は、あなた自身です

2010-01-03 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/100103.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
10/01/03(No.454)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
あなたの贈り物は、あなた自身です
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今日は、「主の公現」の祭日です。占星術の学者たちが幼子を見つけ、ひれ伏して幼子を拝み、贈り物をささげました。わたしたちも、学者たちの心がけを学んで、生活に取り入れることにしましょう。

王の誕生を知らせる星を見つけた占星術の学者たちは、エルサレムへ来てヘロデ王に挨拶をします。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2・2)

学者たちは、ヘロデ王が柔和で謙遜な王だと思っていたでしょうか。それはわかりませんが、学者たちの大胆な行動にまず驚きます。目の前にいるヘロデは、曲がりなりにも現在王である人物です。目の前の王に贈り物もしないで、新しい王の居場所を教えてもらおうとしているのです。

ヘロデが残虐な性格の持ち主だと知っていたら、挨拶には行かなかったかも知れません。あるいは、ヘロデ王がお生まれになった幼子のことを知らなかったことで、これは大変な過ちを犯してしまったと感じたかも知れません。

いずれにしても、学者たちはヘロデのもとを去って、再び星の導きを受けます。この、占星術の学者たちを導いた星ですが、これは神の導きのしるしと考えるとよいと思います。星が現れて、こちらですよ、あちらですよと導いたと考えることもできますが、星は神の導きのしるしで、神が、最初から最後まで、ユダヤ人の王としてお生まれになった方のもとに、学者たちを導いたと考えるほうがすっきり説明できると思います。

ですから学者たちは、神の導きを信頼して、お生まれになった王を探し、ついに探し当てました。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とあります。イエスは、王でありますから、黄金を献げます。

イエスは、祭司ですから、祭司が礼拝の務めで用いる薫り高い乳香を献げます。イエスはさらに預言者です。これまでのすべての預言者は、預言を受け入れない人々によって命を奪われて来ました。将来、埋葬されることになる預言者に、没薬を献げました。学者たちが献げた3つの贈り物は、このように説明が可能です。

わたしは今年、少し違った説明の仕方も示したいと思います。占星術の学者たちが献げた贈り物は、彼ら自身でもあったのではないでしょうか。学者たちは幼子を礼拝した後に、自分たちの国へ帰って行きました。学者たちのその後のことは何も語られていませんが、学者たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」に自分のすべてを委ねて、それぞれのその後の生活を送ったのではないでしょうか。

ここに、わたしたちが今週注目すべき点があると思います。学者たちは、幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。そして自分たちの国へ帰って行きました。まず、この学者たちに注意深く目を注ぎます。

すると、学者たちが表そうとしている態度に気付きます。学者たちは、自分の持つ最高のものを贈り物として献げた、ということです。彼らが献げることのできる最高の物、それは自分自身です。黄金や乳香や没薬は、努力すればもう一度買い求めることができるでしょう。

そうではなく、これらの贈り物で示そうとしたのは、幼子の前に、自分自身を献げようとする態度です。お金では買えない、自分自身のすべてを、お生まれになった救い主に委ねたのです。

では最後に、わたしたちは学者の態度を見て、どのように答えて生きてゆけばよいでしょうか。それは、わたしたちも、救い主である幼子に、自分自身を委ねて生きる決心をするということです。わたしの生き方はわたしが決める。それは立派なことですが、そこに、救い主イエスの導きを受け入れて生きる態度が必要です。

学者たちは自分たちの国に帰りました。二度と、ひれ伏して拝んだ幼子を見ることはないでしょう。けれども、学者たちはその後の人生を、幼子イエスに委ねて生きたに違いありません。

わたしたちにも同じことが求められています。わたしたちも、今日幼子を礼拝すれば、また自分たちの生活に帰っていきます。そこで、救い主イエスの導きを願いながら暮らすことを目指しましょう。何かを選ばなければならない。お生まれになった救い主に喜んでもらえる決断を選びましょう。

何かしら、声をかけて上げなければならない。その時、イエスに喜んでもらえるような言葉を選んで、必要としている人に声をかける。このような工夫を取り入れましょう。何かを買う時、誰かと込み入った話を付ける時、いろんな場面で導きを願いながら事を運んでいきましょう。

わたしたちが、今日幼子を礼拝しに来たのは、学者たちの態度を見倣うためです。学者たちは全財産とも言える黄金・乳香・没薬を幼子に献げて自分の国に帰りました。わたしはどうこれに答えるべきでしょうか。

わたしたちも、イエスの前に自分自身を洗いざらい委ね、これからの生活で、あらゆる場面で、イエスの導きを受け入れることができるよう、恵みを願うことにしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼最近、「自分へのご褒美」という言葉をよく聞くようになった。初めて聞いた時は、「おかしなこと言うなぁ」と思ったものだが、これまで自分が買い求めてきた物が、「自分へのご褒美」ではなかったかと思うと愕然とする。誰かにプレゼントを頂くことはあっても、誰かにプレゼントすることはほとんど無い。
▼それなのに、年間を通してみると実にたくさんの買い物をする。買い物も、よく考えて大切に遣う者は少なくて、試しに買ってみるものが何と多いことか。買ってはみたけど、開けてもいない物さえある。これを読んでいる人は、腹を立てている人もいるかも知れない。
▼そんな中でも、「役立ったなぁ」と思う物もある。1つ例を挙げると、「CD-Rの空ディスク」だろう。最近は、50枚入った「ケーキ型」のCD-Rディスクが、1000円位で売られている。1枚にすると、50円。この50円のディスクで、いろんなものをプレゼントすることができた。誰かにプレゼントすることはほとんど無いと言ったが、撤回。
▼日曜日のミサの収録。目の不自由な人が、毎週20人聞いてミサの補いとしているそうだ。ミサの説教だけの収録。メルマガの読者や、説教集「取って食べなさい」の読者に、声のプレゼント。黙想会の説教。さまざまな機会での写真。かなりの物が、CD-Rディスクが安価になったおかげでやり取りできるようになった。これはどれだけ買っても無駄にはならなかった1つだろう。
▼さんざん、浪費癖について自戒の念を込めて書いたわけだが、それでも浪費癖は直りそうにない。今年はノートパソコンを買い換えたいと思っている。今持っているノートパソコン、能力的に不満を感じていて、ストレスを感じることが多くなった。現在のパソコンはどうなるかというと、再就職が濃厚。再就職先は、ノートパソコンを買いたくても買えない人を考えている。
▼今年は、数字のおもしろい瞬間に少し関心を持ってみたい。平成22年。すると、22年2月22日2時22分22秒という瞬間が成立する。この時間に起きているのか疑問だが、ほかにも何かのキリ番があれば、このコラムにでも拾ってみたい。


‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
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第61回目。あくまで予定ですが、馬込教会の集合写真を。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
主日
(朗読箇所)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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神の母聖マリア(ルカ2:16-21)マリアは神の呼び掛けに答える姿の模範

2010-01-01 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/100101.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
10/01/01(No.453)
‥‥‥†‥‥‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
マリアは神の呼び掛けに答える姿の模範
‥‥‥†‥‥‥‥

新年、明けましておめでとうございます。年賀状を中田神父のために用意してくださったかたがたにも、この場を借りて新年のご挨拶とさせていただきたいと思います。さて信仰の面で今年は、神の声に耳を傾け、神の呼び掛けに返事をする年でありたいと思います。

長崎教区長の見三明大司教様は、毎年新年には年頭教書、御復活には復活教書を発表しておられますが、昨年と今年の年頭教書は、聖書に親しむよう、教区民の心に語り掛けるものでした。

特に今年は、昨年の「聖書を読んで神の言葉に親しもう」という年頭教書をさらに踏み込んで、「あなたの御言葉がわたしのものとなるために」という教書を発表しておられます。「神のことば」である聖書が、わたしたちの中で実を結び、呼び掛けに答えることが今年の目標です。

そこで、わたしたちは呼び掛けを聞いて、どのように行動に移っていくのか、順を追って考えたいと思います。まずは、神の呼び掛けに真剣に耳を傾けることです。いちばんお勧めしたいことは、聖書を朗読して、聖書のみことばに耳を傾けることです。

毎週の、聖書と典礼のプリントを持ち帰り、新約聖書の同じ場所をめくって、自分の声で読んでみましょう。自分の声で読むと、自分に向けて語り掛けている神のことばに、より耳を澄ませることができると思います。

今日1月1日、「神の母聖マリア」の祭日用の「聖書と典礼」を実際に使って練習しましょう。第2朗読、「使徒パウロのガラテヤの教会への手紙」を自分で読んでみます。すると、例として、いちばん最後の部分「ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(4・7)が心に響いたとしましょう。この心に響いた言葉を、繰り返し声に出したりしてみるわけです。

神の語り掛けに注意を向け、心に響く言葉にたどり着いたなら、次はその聖書の言葉から思い浮かぶものを並べてみます。あなたの目に留まったということは、何か訴えかけるものがあったはずです。小さなことでも構わないので、並べてみましょう。

先ほどの聖パウロの手紙であれば、「相続人」という言葉が興味を引いたのかも知れません。あなたは、神によって相続人に加えられています。いったいどんな物が相続の対象なのでしょうか。

均等に、相続できるのでしょうか。相続の権利は、消えたりしないのでしょうか。相続人であるのに、声をかけてもらえず、相続から外されることは絶対にないのでしょうか。こうしたことが、どんどん浮かぶことでしょう。

聖書のみことばに耳を澄ませ、ある聖書の箇所に目が留まり、繰り返し言い聞かせてみました。たくさんの気づきが生まれてきました。そこで最後に、わたしたちはどんな態度を取るべきか考えます。

先ほどの「相続人」ということで考えると、わたしたちから相続の権利を放棄するようなことはしてはいけません。特に、相続人と認めてもらったのに、相続人の立場を捨てて、奴隷に成り下がってはいけないのです。そして、相続人にふさわしいと思えるような態度を選ぶ必要があります。

こうした、聖書の中の神のことばが呼び掛けていることに、わたしたちがどんな態度を取るべきか考えて、それを実行する年に、今年を向けたいと思っています。難しいと感じるかも知れませんが、(1)目を留めた聖書の箇所が、(2)どんな呼び掛けをわたしたちに向けていて、(3)その呼び掛けにどう答えるか、この一連の流れは、中田神父が説教の中で6年間言い続けてきたことです。きっと実行できるようになります。

実は、今年取り組みたい目標が、マリアの中ですでに実現されています。マリアの模範を持ち帰り、今年一年の大きな道しるべとしたいと思います。マリアに関する次の箇所が、手掛かりとなります。「マリアはこれらすべての出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(2・10)

「出来事」と日本語に訳されている言葉は、ギリシャ語の「レーマ」という言葉だそうです。「レーマ」をあえて生かして説明を続けると、羊飼いは「主が知らせてくださったそのレーマを見ようではないか」(2・15)と言ってベツレヘムに出かけました。人々は、「羊飼いたちの話を不思議に思った」(2・18)というのですが、この中に「レーマ」は抜け落ちています。ところがマリアは、「マリアは、これらのレーマすべてを心に留めて、思い巡らしていた」(2・19)とされています。

人々は、羊飼いが語ったはずの「レーマ」に目が留まらなかったので、呼び掛けに気付くことができず、呼び掛けに答えることができませんでした。しかしマリアは、羊飼いが語った「レーマすべて」に目を留め、その呼び掛けを読み取り、「思い巡らす」という態度で、呼び掛けに答えたのでした。

マリアの中にみごとに、(1)目を留め、(2)呼び掛けを読み取り、(3)呼び掛けに答えるという、わたしたちが今年目標とする姿が実現されています。しっかり、マリアのお手本を持ち帰りましょう。中田神父も、皆さんが聖書を通して示される神の呼び掛けに皆さんがどう答えていけばよいのかに目が向くように、これまで以上に工夫をして今年1年説教を準備したいと思います。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼今年も、長いお付き合いになりますが、どうかよろしくお願いいたします。昨年のちょっとひとやすみで1度書いたが、ケガをしないような体づくりを考えないといけないとつくづく思っている。
▼特に、腰に不安を感じた昨年だったので、今年は腰の筋肉強化が課題だ。素人なので何をどうすればということは見当付かないが、少し負荷をかけながら、1ヶ月ずつ故障なしで過ごし、その継続が1年になればいい。
▼昨年、仕事を遅らせないということを目標に取り組んだ気がするが、今年も同じ目標で行こうと思う。つまり、昨年うまく目標をクリアできなかったということだ。1年でクリアできる目標でもないが、もう1年取り組んで、失敗を繰り返さないようにしたい。
▼今年は、思いがけないことで同窓会が組まれている。高校の同窓会だ。高校の同窓会が、すべての同窓会の中でいちばん可能性が低いと思っていたので、驚いている。同級生で、元神学生のM氏が、まめに連絡を取ってくれて、まとめてくれた。
▼この同窓会には高校の担任だったN先生が来ることになっている。英語の先生だ。この先生の影響で英語を真剣に学ぶことができた。そういう話ができるのかどうか知らないが、楽しみにしている。自分1人だけの思い出なので、賑やかな場では無理か。
▼同級生は有り難い。こちらがそれほどの付き合いだと思っていなくても、向こうが声をかけてくれる。人は、1人では生きていないとしみじみ思った。自分も、誰かからそう思ってもらえる人になりたい。

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新企画今週の1枚
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第60回目。少し後で掲載しますが、年始交歓会での1コマ。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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