こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第21主日(ヨハネ6:60-69)永遠の命の言葉を語り続けるために

2012-08-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/08/26(No.607)
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年間第21主日
(ヨハネ6:60-69)
永遠の命の言葉を語り続けるために
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今年の夏休みが始まるにあたって、子供の休み中は、親子で早朝のミサにあずかる良い機会だから、参加しましょうと呼びかけたはずですが、とうとう誰も来ませんでした。残念です。

写真を説教台に貼り付けています。タイトルは、「グリーンランドナウ」です。佐世保市の大野教会の後輩神父さんが、fecebookにアップした写真をお借りしました。小学生、「グリーンランドいいなぁ」と思いますか?この写真には次のようなコメントが付いていました。

「これが最新のアトラクション、地上59メートル・天空の回転ブランコ『ゴクウ』です。毎朝がんばってミサに来た15名の子供と共に楽しんできました。」聞きましたか?毎朝がんばってミサに来た15名の子供たちだって。

来年あたりどうですか。朝の6時にミサに来て、そのままラジオ放送で体操をして、豪華な遠足。今週休暇を取るので朝のミサがありませんから、今となっては主任司祭の遠吠えでしかありません。

この主日のミサを終えましたら、夏休み休暇をいただきたいと思います。休暇中は放電して何もしないつもりです。実家にしばらく滞在することもそれなりに意味があるのかなぁと思っております。

休暇中、代わりの神父さまが居りませんので、皆さまにはご不便をおかけすることになると思います。司祭がいないということは、司祭でしかできないこと、司祭だけに委ねられている奉仕が受けられないということです。その点は申し訳なく思っております。ミサはこの期間お休みになりますが、釣りには行きたいと思っていますので、近くをウロウロするかもしれません。

今週は堅信組の中学生に叙階の秘跡について福音と結びつけながら話したいと思います。叙階の秘跡は、男性のカトリック信者を、神さまがご自分の使命を果たし続けるために選び、司祭とする秘跡です。12使徒がまず叙階の秘跡の恵みを受け、使徒の後継者である司教が続き、現在ではそれぞれの司教が、司教の協力者として司祭を叙階しています。

司教の協力者として、司教に叙階していただく司祭、いろんな協力のために派遣されていきますが、まずは小教区の司牧のために派遣されます。ほかにも、将来司祭を目指している神学生を育てる神学院とか、教区全体の活動を取り仕切る教区本部事務局に入るとか、結婚問題など法的な内容を取り扱う部署とか、中には大学の先生であったり留学させて勉強を積んでもらったり、ほかの教区を支えるために派遣されたり、カトリック中央協議会で全国的な働きをしたりします。これらすべてを司教さま一人で果たすことは不可能ですので、協力者である司祭を叙階し、教区を守り導いているわけです。

この、司教さまと司祭が一致して取り組んでいる働きは、「命を与える霊の働き」と言うことができると思います。今週の福音朗読に、「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたに話した言葉は霊であり、命である」(6・62-63)とあります。命を与えるイエスの霊の働きを、司教と司祭は世の終わりまで受け継いでいくのです。

「命を与える霊の働き」と言いました。それはどんなものでしょうか。それはわたしたちがどんなに素晴らしい存在かを明らかにする働きです。人間の命がどんなに素晴らしいか。それは洗礼によって一人ひとり聖なるものとする恵みが注がれるほどです。ほかの生き物には、聖とする恩恵「成聖の恩恵」は与えられません。

また、イエス・キリストがご自分の御体と御血を、食べ物として与えてくださるほど人間は尊い存在です。人間の救いのためにイエスはご自分の命をささげてくださいました。天使のためには命をささげませんでした。

さらに罪をゆるして清めてくださり、聖霊の七つのたまものを注いで強めてくださり、一組の男女を夫婦として祝福し、神の創造のわざに参加させてくださり、命の危険にさしかかった時は病人を訪ねていって励ましてくださいます。人間に注がれるありとあらゆる神の恵みが、人間はどれほど尊い存在かを明らかにしてくれるのです。

人間の尊さ、素晴らしさを証明するすべての恵みを、目に見える形で示すために必要なものは何でしょうか。それは叙階の秘跡を受けた司教・司祭の存在です。叙階の秘跡を受けた司教・司祭が、七つの秘跡を通して示される人間の素晴らしさを目に見える形にしてくださいます。

人間の価値、人間の尊さをイエスはご自分が語る永遠の命の言葉で極みまで証明してくださいました。イエスに耳を貸さず、イエスから離れていった人々もいました。けれどもすべてを捨てて従い、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(6・68-69)と立派に答えた弟子も必ずいたのです。

イエスが、わたしたちの素晴らしさを永遠の価値にまで引き上げてくださいました。その働きを、叙階の秘跡を受けた司教・司祭は受け継いでいきます。司祭を目指してから司祭に叙階されるまで、中学生からだと16年もかかります。けれどもイエスさまの働きを受け継ぐ司祭の働きは、その1つひとつに永遠の価値があります。

ぜひ子供たちの中に、青少年の中に、日本の社会が与えることのできない価値を人に与える司祭を目指す人が生まれることを願います。イエスが与え続ける永遠の命の言葉を、受け継いで語る司祭が1人でも2人でも与えられますように、今日のミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第22主日
(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼わたしが小学生の頃、さまざまなヒーローアニメがあったが、その中に「科学忍者隊ガッチャマン」という番組があった。ヒーローものだから、「正義は勝つ」の論理があり、悪の組織「ギャラクター」は科学忍者隊にやられてしまうというパターンだった(ネットで検索すると、ギャラクターが勝利したり、作戦は失敗するも一つの都市を壊滅させたりしたこともあったらしい)。
▼ところが最近民放(最近マスコット犬が熱中症で死んだあの番組)を観ていて気付いたのだが、6時56分頃から約1分間、登場人物は変えずに「ゆる~いガッチャマン」が放送されていることに気付いた。自分としてはこんな科学忍者隊も悪の組織ギャラクターも認めたくはないが、まったく別物として観れば観られなくもない。
▼毎日くだらないと思いつつも観ているが、その中で次のような回があった。(ギャラクター)「これまでにギャラクターのアジトがいくつも科学忍者隊によって壊滅させられている。この本部だけは絶対に悟られてはならない。」(NHK受信料徴収担当)「すみませーん。NHKです。こちら受信料の支払いがお済みでないようですね。」(ギ)「ここは悪の組織だから、受信料なんか払いません。」(NHK)「平清盛って、そんなに映像よごれてますか。」(ギ)「あれはリアリティーを出すためだから」(NHK)「しっかりご覧になってますね」(ギ)「観てません!週刊誌に書いてあったのをたまたま見ただけだから」
▼この手のやり取りが続き、ついに悪の組織ギャラクターの本部がNHK受信料を払うことに同意する。くだらないと言えばくだらないのだが、今回は自分も反省する所があった。ツイッター、facebookに「今週はプール遠足で金・土にまたがって出かけるので、木曜日にメルマガを出します。高校野球決勝は録画を観ることになります」と書いたのだが、誘惑に負けてライブで観てしまった。
▼だれかに「見逃し三振で1回表終わっちゃったね」と聞かれたら、ついつい「見逃しはないよなぁ。そういう調子だから1回裏、3回裏は満塁のピンチになるし、先制されることになるんだよ」と答えてしまいそうである。ちなみに、NHK受信料はここ浜串は共同アンテナなので自動的に徴収されて不払いになる可能性はない。

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今週の1枚
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第214回目。プール遠足に来て大はしゃぎの小学生たち(の予定)。

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年間第20主日(ヨハネ6:51-58)イエスはご自身を与え、人を永遠に生かす

2012-08-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/08/19(No.606)
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年間第20主日
(ヨハネ6:51-58)
イエスはご自身を与え、人を永遠に生かす
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今週の福音朗読を味わいながら、堅信組に結婚の秘跡について話したいと思います。結婚の秘跡は七つの秘跡の中でこの秘跡だけが持っている特徴があります。それは、洗礼を受けたカトリック信者同士が、互いに誓い合うことで、結婚の秘跡を授けるというものです。

他の六つの秘跡は、授ける人と受ける人が別々の人です。洗礼を授ける人と、洗礼を受ける人は別です。その他も同じです。ですが、結婚の秘跡では、司祭は必ずその場に立ち会い、式を進めていきますが、秘跡を授けるのは結婚する一組の男女です。互いが、互いに秘跡を授ける、ただ一つの秘跡なのです。

この、互いに秘跡を授け合う姿から結婚生活の特徴も見えてきます。それは、互いが、互いを与え合うということです。結婚して夫婦となり、夫と妻が、互いに持っている知恵や力を与え合い、日々を過ごしていきます。

今日の福音朗読で、つぶやくユダヤ人たちがイエスにこう言いました。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」(6・52)。互いが互いに与え合うということは、イエスがわたしたちにご自分を食べ物として与えてくださる姿に似ています。夫婦が、互いを与え合うならば、それは自分を相手に食べ物として与えることになります。

自分を相手に与えるということは、相手を生かすことになります。結婚している相手が、疲れていたり思い悩んでいたりする時、もう一方の相手が自分を与えるなら、それは相手を元気づけ、相談することもできるようになり、相手を生かすことになります。

また、ふだん口から入る食べ物は、一度食べて、一度栄養になって終わりですが、結婚した夫婦が互いを与え合うのは、一度だけ相手を生かすのではなく、繰り返し生かすことができます。結婚した夫婦は生涯にわたって相手に自分を与えるのですから、互いをずっと生かし続けることができます。

これは、イエスがわたしたちの食べ物となり、永遠に生きるものとしてくださるのに似ています。イエスが与えてくださるご自分の肉と血は、わたしたちを永遠の命に導くからです。夫婦が与え合う姿は、永遠とまではいかないけれども、25年の銀婚式を祝ったり、50年の金婚式を祝ったりするのですから、地上の生活の中で最も長く互いを与え合う姿だと思います。

さらに、イエスはこうも言いました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6・56)イエスのこの言葉も、互いが互いを与え合う夫婦の姿に通じると思います。「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」夫婦でなければ、相手の内にいることはできないでしょう。それは、互いを与え合い、生かす者同士だからできるわざなのです。

そこで、今週堅信組の中学生に考えてもらいたいことは次のことです。結婚の秘跡は、自分を相手に与えるすばらしさ、自分を与えて、相手を生かすすばらしさを体験する秘跡です。ですから、できるだけ多くの人が、結婚の秘跡に心を開いて、結婚することを人生の一つの目標にしてほしいと思います。それは同時に、イエスがご自分を与えて人々を永遠に生きるものにしてくださる姿に似る生き方だからです。

ところで、結婚の秘跡の恵みを願うとき、一組の男女が互いに秘跡を授け合うと言いましたが、そこには必ず司祭が立ち会わなければなりません。儀式としては証人も立ち会う必要がありますが、とにかく司祭がそこにいなければ、2人で勝手に教会にやって来て誓いの言葉を交わしても、結婚の秘跡は成り立たないのです。

そうなると、多くの人に結婚の秘跡を願い求めて欲しいですが、その人たちの祝福に立ち会う人も、1人か2人は必要になります。ですから、結婚の秘跡の恵みに多くの人があずかれるように、男子のだれかは司祭になってほしいと思います。どんなに時代が進んでも、男女のカップルだけで結婚の秘跡を有効に授けることはできませんので、だれか、司祭になって祝福してほしいと思います。

イエスはご自分を完全に、粉々に砕いて食べ物となってくださり、わたしたちを永遠に生きるものとしてくださいます。その恵みは聖体の秘跡となって今わたしたちに与えられました。人に自分を与えて、相手を生かす生き方をする人は、イエスがご自分を与え尽くす姿に倣う人です。それは結婚の秘跡の中ではっきりと現れます。

これから先、いつか結婚する堅信組の中学生も、結婚の秘跡の恵みがとても深い生き方に導くことを今日学んで帰りましょう。そして、すでに結婚の秘跡の恵みに生きてきた両親、先輩方をあらためて思い出して、素晴らしい恵みの中にいるのだなぁと理解してほしいと思います。堅信の秘跡を受けるなら、結婚の秘跡の恵みのすばらしさもよく理解できるようになります。信頼して、11月の堅信の秘跡を待つことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(ヨハネ6:60-69)
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ちょっとひとやすみ
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▼最近USBメモリーに音楽を入れて、それを車内で聞いている。昔からあったUSBトランスミッターが近頃はUSBメモリーやSDカードに対応して新たに販売されていて、お安いのを買ってシガーソケットに差し込み、FMの電波で飛ばして車内に流す仕組み。この説明では分かりづらいが、実際の仕掛けを一度見たら、あーそういうことかとすぐに分かると思う。
▼好みの音楽をUSBメモリーに入れて再生させるわけだが、並び順というか、再生したい順番がある。いろんなCDの寄せ集めだから、好みの順番で再生できるようにと、フォルダにも頭に01(アルバム名)、02(アルバム名)とか機械的な順番をつけて、強制的に数字の順番に再生させる予定だった。
▼だが実際に再生しているのを確認してみると、思い通りに再生できない。なぜだ?アルバム01の次にアルバム05、その次はアルバム50、さらにその次はアルバム40である。どういう順番なのだ?理解できない。
▼もし、USBメモリーに思い通りの順番で再生させるのに適したフォルダ名の付け方をご存知の方がいたら、教えてほしい。もしかしたら、数字だけのフォルダにしてしまった方が機械は正しく読み込んでくれるのだろうか。試してみよう。
▼突然の悲劇で弟さんを亡くした知り合いがいる。お祈りしてほしい。誰にも予想できず、時間を戻すことはできないが、悲しみの淵にいるこの知り合いを、祈りで支えて欲しい。メルマガ読者450人、ブログの閲覧者100人の祈りがあれば、悲しみの淵にあっても支えを感じることができるかもしれない。

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今週の1枚
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第213回目。iPad対応キーボード。これって、ノートパソコン持ってるのと同じ?

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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)主の僕・主のはしためとなる

2012-08-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/08/15(No.605)
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聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
主の僕・主のはしためとなる
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聖母の被昇天のお祝い日を迎えました。今年は、堅信組の皆さんに病者の塗油の秘跡を考えるきっかけを今日の福音朗読から拾いたいと思います。今日の説教で、七つの秘跡のうち4つを取り上げたことになります。

さて、病者の塗油の秘跡は、まだある人々には十分理解されていない秘跡だと思います。かつては「終油の秘跡」と言われ、危篤の状態にある人に、1度だけ授けるものでした。

それが、今から50年くらい前に全世界から司教さまを集めて行われた会議、「第二バチカン公会議」で、「『終油』は、むしろ『病者の塗油』ともいうべきもので、危篤の状態にある人のためだけのものではない。したがって、信者が病気や老齢のために死の危険にある場合、この秘跡を受けるに適した時が来ていることはたしかである」(典礼憲章73)とはっきり言っています。

病者の塗油は、多くの場合、命の危険が考えられる人に授けます。病気であったり、老齢であったり、1度この秘跡を受けた人でも再び容態が悪化した場合、あるいは同じ病気が長引いて容態がいっそう悪化した場合、繰り返して秘跡を受けることができます。

だから、多くの場合急いで司祭は病人のもとに向かいます。この秘跡は、病人に聖霊の恵みを与えて、救いに関連して人間全体を助け、神への信頼を深めさせ、悪霊の誘惑と死の恐怖に対して抵抗力を強め、また病苦に耐えるだけでなく、これと戦う力を与え、さらに霊的な救いに役立つ場合は、体の健康を回復させ、また必要な場合は罪のゆるしをもたらし、全生涯の回心を全うさせる効力を持っています。決して、病人に終わりを宣告し、恐がらせるものではないのです。

そこから考えると、司祭も病者の塗油を授ける心構えを正しく持たなければならないかも知れません。司祭が、病者の塗油をいよいよこの人も最期だなぁという思いで授けるのは間違いだということです。もっと、病人に病気に耐える勇気と希望を与えるような授け方、心構えが司祭には必要だと思います。

今日の聖母被昇天に与えられた朗読は、マリアがエリザベトを訪問する場面から始まっています。マリアさまの行動に、わたしは病者の塗油を授ける司祭の姿を見つけました。マリアは出かけて、「急いで山里に向かい、ユダの町に行った」(1・39)とあります。

最終的に「マリアは、三か月ほどエリザベトのところに滞在してから、自分の家に帰った」(1・56)のですから、急いでエリザベトのもとに向かう必要はなかったと思うのです。それなのに、マリアが急いだのは、彼女が神の恵みを運んでいたからではないでしょうか。神の恵みを早くエリザベトと喜び合いたい。そんな思いから、先を急いだのだと思います。

病者の塗油の秘跡も、急いで出かけて授けに行きます。それは、マリアと同じ理由からです。神の恵みを運んでいるから、神の恵みを、病人と喜び合うために、急いで行くのです。

マリアの訪問を、エリザベトは喜びました。「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」(1・43)病者の塗油の秘跡も、授けてもらった人と秘跡の恵みを喜び合うことができるのが、本来の姿だと思います。

マリアが運んだ神の恵みは、エリザベトのお腹の赤ちゃんにも働きかけました。「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。」(1・44)病者の塗油の秘跡も、病人の心と体のすべてを喜ばせる力を持っています。病者の塗油の秘跡は、何よりもまずイエスが病人を訪ねてくれている。この点を理解して欲しいと思います。

マリアはエリザベトの訪問でさらに救い主である神を喜びたたえる気持ちになりました。神はマリアを「女の中で祝福された方」としてくださいました。マリアがエリザベトを訪問したのは、神にお使いを頼まれたようなものです。お使いに行くのは身分の高い人ではなく、身分の低い人です。

けれども、身分の低い人の務めを引き受けたマリアを、神は今や高く引き上げてくださいました。神がマリアを、天まで引き上げてくださったので、マリアは今、ユダの町にいるエリザベトにだけでなく、神の恵みを届ける必要のある人すべてに働くことができます。天に上げられたことで、お使いに出るという、主の僕・主のはしための務めを、いつでも、どこにでも果たすことができるようになりました。

わたしたちも、からだも魂も天に上げられた聖母マリアを仰ぎ見て、マリアの姿に倣うべきです。マリアは、喜んで神の恵みを届けるお使いを果たしました。わたしたちも、お使いを喜んで引き受けましょう。病者の塗油の秘跡は、司祭にできるお使いの1つです。洗礼を受けたすべての人、とくに堅信組は、病者の塗油の秘跡を必要としている人のために、司祭のところに行って秘跡をお願いすることができます。それは、堅信組の皆さんにできる立派なお使いです。

マリアは今神の大きな計らいで、全世界の人に、喜んで神の恵みを運び、人々と神の恵みを喜び合う方に変えられました。マリアの姿に、わたしたちも進むべき道を重ねましょう。マリアに倣って、急いで神の恵みを運び、共に喜ぶ人になることを望みましょう。あわせて、戦争のない、平和な世界を全世界の人が目指して生きるように、ミサの中で聖母の取り次ぎを願って祈りましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(ヨハネ6:51-58)
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ちょっとひとやすみ
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▼思い出した。「夏の祈り」の話だった。「夏の祈り」という映画が8月4日から上映されていて、ちょうど取材で長崎本土に出かけるから、ついでに見に行こうと思っていたのだった。取材の前日、8日午後5時半からの上映に間に合うようにと、早めに出かけた。
▼実際には1時間前に到着し、「早かったか」と思ったのだが、入館しようとした時、手元に携帯電話がないことに気付き、どうしようか迷った挙げ句、宿泊先の大司教館にバスで戻ることにした。
▼1時間で確実に戻ってくる自信はなかったが、携帯電話が手元にないと、いろんな連絡が入った時に3時間以上連絡が遅れるので、それよりはと思い、取りに行った次第。戻るために中央橋バス停に行ってみると、県営バスが待機していたので、すぐに乗った。
▼バスは順調に進み、帰りのバスにも首尾良く乗れて、ちょうど1時間で映画館に戻ってきた。映画のチケットを「大人1枚」と窓口に告げると、先に割引のチラシが渡され、「これを持っていると300円引きになります」と言われ、1500円のチケットを渡された。よく意味が分からなかったが、とにかく1800円が1500円になった。
▼映画は、三ツ山の「長崎原爆ホーム」に入所している1人の被爆者を中心に撮り下ろしたドキュメンタリー映画だった。たんたんと、被爆者の日常生活が描かれ、生活の中に溶け込んでいる祈りが映画全体を貫いていた。
▼ほかにも、平和を願う人々の祈りが映画の中に織り込まれていた。8月9日の平和祈願祭ミサの中で祈る人や、平和公園で行われる記念式典で祈る人なども取り上げられていた。途中、名前の分かる人があちこちで登場したが、驚いたことに、ここ浜串にいる中学2年生がずらり映っているではないか。
▼顔つきは小学生の頃だが、どういう事情で映画に出演していたのか分からなかった。あとで分かったことだが、小学校の修学旅行で、平和学習の流れで浦上教会を訪ねていたところ、撮影に来ていた場面にちょうど重なったらしい。懐かしい子供に会いに来た前任者の司祭もそこに居合わせて、バッチリ祈っている様子が映った。

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今週の1枚
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第212回目。聖母被昇天とは結びつきませんが、教会の目の前の海で泳ぐ子供たち。

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年間第19主日(ヨハネ6:41-51)あなたの命は神から来ている

2012-08-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
12/08/12(No.604)
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年間第19主日
(ヨハネ6:41-51)
あなたの命は神から来ている
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先週行われたドッヂボール大会の結果は、優勝・準優勝・第3位まで、去年と同じ教会でした。先週冗談で「優勝浜串教会」と印刷したと言いましたが、去年と同じ教会名で印刷しておけば、手書きの部分がなくてきれいに出来上がったのになぁと思いました。
皆さんは浜串教会チームの成績が気になるでしょうからいちおうお知らせしておきます。全体で14チームが出場しまして、予選を2つのパート、AパートとBパートで繰り広げました。そして浜串チームは、Aパートの3位に入りました。
ただ、最終的にすべての順位を確定する試合、全体5位になるか6位になるかの試合に、残念ながら負けてしまいました。ですから最終順位は○○位ということになります。もうこれ以上は説明要らないと思います。
さて今週の福音からは、洗礼の秘跡について堅信組に語り掛けたいと思います。ユダヤ人たちがイエスについてつぶやき始めます。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」(6・42)これは、イエスがどこからやって来たのかについてのつぶやきです。
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」(6・41)と言ったのに、それを横に置いてぶつぶつつぶやいています。中田神父に当てはめて考えると、中田神父は叙階の秘跡によって司祭にしてもらいました。だから、神さまからやって来たものがわたしの中にはあります。
けれども、生まれたのは浜串から車で30分くらいしか離れていない鯛ノ浦で生まれました。鯛ノ浦のことを知っている人から見れば、父親母親がだれで、お金持ちか貧乏か、小さい頃はどんな子供だったか、いろんなことを知っているわけです。
イエスは、天からやって来た部分が大事で、そこに目を向けて自分を信じて欲しい、理解して欲しいと願っています。けれども、つぶやいているユダヤ人たちは、「天から降って来た」とイエスが話すのを一切無視してしまいました。
わたしたち皆に当てはめてみましょう。わたしたちには、天からやって来た部分と、この世に属している部分とがあります。わたしはどこからやって来たかと考える時、父親母親の名前を言える人もいるでしょう。けれども、父親母親が全く分からない人もいます。この世のつながりは、絶対的ではないのです。
ですが、もう一つのこと、わたしたちには天からやって来た部分があります。わたしたちの命は、神から与えられたものだからです。堅信組の皆さんに命を与えてくれたのは、天の父です。そして、命が天からやって来たことをすべての人に証明するために、洗礼を受けています。洗礼の恵みは、人を神の子どもとし、原罪とすべての自罪をゆるし、成聖の恩恵を与え、神の家族としますが、これらはすべて、あなたが天からやって来た部分を持っている、そこから出てくる恵みなのです。
たとえ父親母親がはっきり分かっていても、神の子どもと呼べるわけではありません。天からやって来た部分があるから、すべての人は神の子、神の命をいただいているのです。洗礼の秘跡は、この天からやって来た部分を人々に証明する秘跡と言えます。
すべての人に、天からやって来た部分があります。ですから、洗礼を受けているすべての人、とくに堅信の秘跡を受けようとしている堅信組は、出会う人に、「あなたにも、天からやって来ている部分がある」と話し掛けて欲しいのです。天からやって来ている部分に相手が気付いたら、洗礼の恵みに導いてあげることができます。
今週の朗読でイエスはユダヤ人にもう1つの語り掛けをしました。最初は、「イエスがどこからやって来たか」についてでしたが、今度は「イエスは誰なのか」に目を向けさせようとしています。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(6・51)
わたしたちには、天からやって来た部分があると言いました。けれどもすべての人がそれを理解し、受け入れてくれるわけではありません。天からやって来た部分があると理解してくれたとしても、洗礼を受けてくれるかどうかは分かりません。
洗礼は、天からやって来た部分があることを公に言い表すことですから、信じることが必要になります。そこで、「イエスが誰であるか」をあわせて伝えることができれば、もっと多くの人に、洗礼の恵みに触れてもらうことができるはずです。
「イエスが誰であるか」いろんな説明ができると思いますが、今週の朗読から分かることは、イエスはすべての人の中にある天からやって来た部分を生かすパンであるということです。天からやって来た部分を生かすパンであるイエスを信じること。それが、人を洗礼に導く大きなきっかけになります。
わたしたちには皆、天からやって来た部分があります。洗礼を受けた人は、それを人々の前で公に言い表している人です。七つの秘跡の恵みは、洗礼の恵みを受けなければ先に進めません。豊かな恵みに養われる入口に、1人でも多くの人を導きましょう。そのための勇気と力を、このミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
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ちょっとひとやすみ
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▼どうしてこんなにメモを取らないのだろうか。メモを取ればきっとこのコーナーに書き切れないほどの出来事が一週間のうちにあると思うのだが。今回も何かあったような気がするが、またも思い出せず口をとがらせている。
▼インド料理を出す店に入った。基本的にはナンとカレーだが、チキンとかも付いて1600円程度のメニューを注文した。辛さは1から10まで選べて、3がマイルドと表示されている。わたしは最近はいつも辛さ5倍をお願いしている。コースメニューの名前がおもしろい。「ミサセット」という名前だ。
▼だがご飯にサラダにナン、グリーンカレーなどがセットになっているので、あれではミサはできない。なぜミサセットという名前になっているのだろうか。そうとうお近づきになったら、メニューの名前の由来を聞いてもいいと思っている。
▼今年も、平和祈願祭ミサと翌日のミサを浦上教会でささげることができた。浦上教会は長崎教区の司祭にとって思い入れのある教会だ。だからたまにミサに共同司式で参加すると、いろんなことが思いを巡る。こまごましたことは説明を省くが、浦上は長崎教区の司祭にとって入口でもあり、出口でもあるのだ。
▼その浦上のミサで、ことしも黄色い声の少年に会えた。その子は母親からいわゆる「ミサ祭服」「ミサ道具」を手作りしてもらっていて、教会の侍者で覚えてきては、家庭でままごとのミサをしているらしい。将来はもちろん司祭になりたいと言っている。中にはこういう子供もいてよいと思う。こういう憧れを持たせた司祭は、その報いを一生失わないだろう。

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今週の1枚
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第211回目。平和祈願祭、たいまつ行列の様子。写真を分けてもらいました。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第18主日(ヨハネ6:24-35)聖霊のたまものがイエスを信じさせてくれる

2012-08-05 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/120805.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
12/08/05(No.603)
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年間第18主日
(ヨハネ6:24-35)
聖霊のたまものがイエスを信じさせてくれる
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曽根教会の体の大きな神父さま。7月下旬に脳出血を発症してヘリコプターで大村に運ばれ、緊急手術を受けました。聞く所によると右半身に麻痺が出て、言語障害もあるそうです。心配しておりますが、何もない人が脳出血を起こすはずはないのですから、ふだんの生活に問題があったのだと思いますし、わたし自身も気をつけようと思っています。

いきなり主任司祭が1人いなくなったわけですから、大なり小なりわたしたちにも負担が回ってきます。ある先輩は、堅信組の中学生の準備を、いなくなった司祭の代わりにしてあげないといけないなぁと言っておりました。

曽根から遠いわたしにも、神父さまが倒れたのでドッヂボール大会の賞状を代わりに作ってくれと大会を主催する神父さまから頼まれました。わたしはただで引き受けるのはつまらないと思ったので、主催する神父さまをちょっとからかってやろうと思いました。

賞状を印刷したあと、大曽の神父さまに電話しまして、「賞状は印刷したけど、『優勝 浜串教会』ともう印刷しましたからね」と言おうと喉まで出かかったのですが、生真面目な神父さまなのでカンカンに怒るだろうなぁと思ってそれはやめときました。とにかく、ちょっとの体調不良は心配しますが、明らかな病気は心配するだけでなく何が原因ですかとそちらに考えが向かいます。この際司祭は生活を見直すべきです。

今週の福音朗読から堅信組の中学生に伝えたいことは、堅信の秘跡で受ける聖霊の七つのたまものです。1学期の終わりに堅信の秘跡とは何かをお話ししましたが、堅信の秘跡は聖霊の七つのたまものを受堅者に注ぎます。七つのたまものとは、「知恵・理解・判断・勇気・神を知る恵み・神を愛する恵み・神を敬う心」です。

今週の福音朗読には文章に工夫がなされています。それは、「群衆とイエスとが同じことばを繰り返しながら話は進むのに、群衆はちっともイエスの理解が深まらない」そういう様子が描かれているのです。もとのギリシャ語では、はっきり言葉のキャッチボールが見られます。

例として、「捜す」(1)群衆は満腹したからイエスを「捜す」。だがイエスはしるしの意味に気付いて「捜し」てほしい。「神の業」(2)群衆は自分たちで「神の業」をおこなうことができると考えているが、イエスは「神の業」を行うには神がお遣わしになったイエスを信じる以外にないと強調する。「信じる」(3)イエスを「信じる」ことは、イエスを救い主と信じること。だが群衆はイエスの言っている言葉を「信じる」だけで救い主という信仰に深まらない。

全部で8回言葉のキャッチボールが繰り返されたのに、心のキャッチボールはまったく深まりませんでした。言葉だけを投げかけたり投げ返したりして、思いは届かなかったのです。

何が足りなかったのでしょうか。たまものが、足りなかったのだと思います。イエスのことを、神から遣わされた救い主と信じるためには、神が聖霊を通して注いでくださる賜物が必要なのです。

そのたまものこそ、堅信の秘跡で受ける聖霊の七つのたまものです。群衆はイエスと言葉のキャッチボールをするあいだに、イエスの言葉に「知恵」があると「判断」し、「理解」します。イエスの言葉を心を開いて受け入れるには「勇気」が必要です。

イエスの知恵ある言葉が、イエスがだれであるかに群衆を導きます。そしてはっきりとイエスを信じるために、「神を知り、神を愛し、神を敬う」賜物が必要になります。これら聖霊の七つのたまものが、堅信を受ける人に注がれて、イエスとの言葉のキャッチボールを通して、イエスをより深く信じ、イエスに従って生きる人になる力を注いでくれるのです。

もう一度、イエスと言葉のキャッチボールをする群衆を思い出しましょう。イエスが神から遣わされた救い主だと理解して信じるための言葉が繰り返し使われても、群衆はイエスを救い主と信じることができません。それは、今の時代でも同じです。

考えてみましょう。イエスが人間の救いのために十字架にはりつけにされて命をささげ、復活しました。聖書を読んだことのある人はみな、文字では知ることができます。けれども、聖書を読んだすべての人がイエスを信じ、礼拝するわけではありません。わたしたちはほぼ確実に日曜日に集まり、約1時間の礼拝をささげていますが、それは、聖霊のたまものが、イエスをより深く知り、愛し、敬うように促しているからなのです。

イエスとの言葉のキャッチボールは、今の時代にも交わされています。イエスが直接キャッチボールの相手でなくても、ミサに行くように促す両親との言葉のキャッチボール、教会の行事や、教会学校、家庭で祈りをするようにと言う家族との言葉のキャッチボールなど、言葉だけやり取りする人はイエスに近づくことはできません。言い訳したり、反抗したりして、イエスのもとに行こうとしないでしょう。

けれども、キャッチボールをするあいだに、聖霊のたまものが言葉の向こうにある大切なものを理解させるなら、イエスのところに向かう力をもらいます。聖霊のたまものは、イエスをこれからも救い主と信じてイエスに近づくための力を与えてくれるのです。

堅信組の皆さん、言葉のキャッチボールだけで終わらないようにしましょう。祈りとかミサとか、言葉だけやり取りしていたらイエスから遠く離れてしまいます。祈りやミサが、救い主に近づく確かな道なのです。堅信をすでに受けた人は、そのことを態度で教えてくれています。堅信の秘跡で受ける七つのたまものが、よりイエスを知り、愛し、敬う力を与えてくれるように、このミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(ヨハネ6:41-51)
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ちょっとひとやすみ
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▼オリンピック。4年に1度の祭典。この一瞬にすべてをかける。「オリンピックの借りはオリンピックでしか返せない」という声もある。体操の個人総合で金メダルを取った内村選手は、「だれがいちばん強いか」を証明したのだと思う。
▼オリンピックはトップレベルの選手がその力を発揮するわけだが、一般の人にも多くのことを教えてくれると思う。かつて「山下泰裕」という柔道家がいた。1980年のモスクワオリンピックを日本がボイコット(ソビエト連邦がアフガニスタンに侵攻したことに抗議して)して出場を逃し、涙を流したのは今でも忘れない。4年後1984年のロサンゼルスオリンピックで、彼は世界一強いことを証明した。
▼彼ほどその力を証明するチャンスを待たされた人はいないだろう。聞けば、モスクワオリンピックで代表に選出された選手のうち、ロサンゼルスオリンピックに再び出場したのは山下選手だけだったらしい。さらに4年待って、強さを証明できたのは山下選手だけだったということになる。
▼「待つ」ことで、彼は強さを証明した。だったら、だれかを愛して待つことができる人は、「最もその人を愛している人」ではないだろうか。また、だれかをゆるすために、長い時間待つことができる人も、「最もその人を愛している人」ではないだろうか。
▼だれよりも長く待てる人は、だれかを最も愛していたり、だれかを最も理解していたりするものだ。オリンピックの競技者は、自分が最もその競技を極めていることを、4年に1度証明しに来ているのである。

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今週の1枚
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第210回目。遅くなると思いますが、ドッヂボール大会の様子。

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