こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(マタイ21:28-32)「ぶどう園」は考え直す人を成長させてくれる

2008-09-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/09/28(No.378)
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年間第26主日
(マタイ21:28-32)
「ぶどう園」は考え直す人を成長させてくれる
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今日の福音朗読に用いられたたとえ話の元になる古い伝承には二通りの記録があって、兄に勧めて兄は断り、あとで出かける、弟はその反対に返事は良かったけれども、実際は出かけなかったというものと、弟に勧めたら弟が断って、あとで思い直して出かけ、兄の方は頼まれたときに色好い返事をしたけれど、行かなかったという二つの伝承が残されているそうです。

ということは、必ずしも兄が誠実な人で弟が不誠実というのではなく、「あとで考え直して出かけた」(21・29)ことが物語の中心点ということがわかります。もちろん、先に声をかけられたとなっている「兄」には、背景があるわけですが、私たちの問題として考えようとするとき、ここで背景に置かれているものに触れなくても十分学びを得ることができると思います。

まず、あとで考え直した兄弟はどんなきっかけで考え直すことにしたのかを探ってみましょう。彼にぶどう園の仕事を頼んだのは父親でした。ぶどう園の主でもある父親には、きっと使用人もいただろうし、季節労働者を雇ってもよかったわけです。その父親が、息子に仕事を頼んでいる。本当に断っていいだろうか。まずはそう考えたのではないでしょうか。

また、一般的に父親は自分の息子が期待に応えてくれることを大いに喜ぶものです。これまでも父の喜ぶ顔を息子は見たことがあったはずです。「いやです」と言ったとき、父親の顔は曇ったのではないでしょうか。本当に父をがっかりさせたままでいいのだろうか。そんなことも、あとで考え直した息子の頭によぎったのではないでしょうか。

たとえ父の願いであっても、息子も人間ですから「いやです」と言うか「承知しました」と言うかの自由はあります。父親は、自分の意志で、父の望みに応えてくれることを期待しています。自由意志を働かせて、だれにも強制されずに、父の望みを果たして欲しいのです。息子は自分でよく考えて、「いやです」と言ったかも知れません。けれどもどこかに、「まだ考え直せる余地はあるのではないか」という思いに駆られ、最後にはぶどう園に行きました。

こう考えると、私たちが何かを決めたり選んだりするとき、父は喜んでくれるだろうか、父はどう思っているだろうか、そのことを忘れないようにして判断すべきです。もちろんここで言う「父」とは、「父なる神」のことです。私たちは「はい」と言う自由も「いやです」と言う自由も与えられていますが、どちらにしても「この返事で、父なる神は喜んでくれるだろうか」ということを考えなければ本当の意味で正しい判断はできないのです。

「この判断で、神さまは本当に喜んでくれるのだろうか」と考えるというのが1つの学びですが、もう1つは、たとえ話で言われている「ぶどう園」とはどこなのかということも考えると意味深いと思います。この点で私が思い出せる体験を1つ話してみたいと思います。例としては、以前聞いたことがあるかも知れません。

私は当時まだ駆け出しの司祭でした。3人の若い司祭で結婚講座を切り盛りしていましたが、あるカップルがずっと講座に出席していませんでした。結婚講座は全体で15回ありましたが、このままでは修了証を出すことはできないと思い、とうとう電話をかけて、その方の家に事情を尋ねたわけです。

電話には父親が出ました。本人がまだ戻ってきていなかったのかも知れません。そこで息子さんが結婚講座に来てなくて、このままでは修了証を出すわけにはいきませんと伝えますと、その父親は前に結婚させた子どもは○○神父さまが指導してくれた、その神父さまはそんな何回来なければ終了できないとか難しいことは言わなかった、お前はそれでも神父か、前の神父さまのようにどうして簡単に終われないのかと責めたれられまして、まいってしまいました。

私も多少ムキになっていたこともありますが、結婚講座は結婚するために必要ですから、そんな無茶を言われても困ります、どうしても来ることができない理由があれば聞かせてください云々と、こちらも義務の一点張りで引き下がろうとしなかったのです。その日は電話の出来事を先輩に相談もできず、腹も立つし眠れなくて、一日頭から離れませんでした。

その日の夜、布団の中で考えていました。むこうの言い分は筋が通っていないから自分が折れるのはいやでした。「納得できないのにその場を譲るのはいやです」。私は心の中で、神にそう言っていたのだと思います。けれども神は、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と声をかけて、もう一度考え直すきっかけをくださったのでした。

私としては、一歩も譲るつもりはなかったのですが、一晩考えてみて少し考えが変わりました。父である神は、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言ったのです。どちらが正しいかはっきりさせてきなさいと言ったのではなく、ましてや相手の間違いを指摘してきなさいと言ったのでもありません。「ぶどう園」、つまり、父なる神が示す場所に行って、問題解決のために働きなさいと言っていたのです。

私が問題を解決できるかどうか分かりません。ただ父なる神は、ご自分が働いて欲しい場所で、忠実に働いて欲しいのです。私が居座っている場所がぶどう園だとは限りません。全く不利な場所を指して、ここで働いてくれないかと求めてくるかも知れません。最初から不利な場所で働くのは誰でもいやです。それでも、考え直して、結果を気にせずに働くことが、父なる神の望みなのではないか。そういうことをぼんやりと思ったのでした。

当時は今話したようなことをはっきりと意識していませんでした。納得できないけれども電話で言い過ぎたかも知れないからと思って、その家庭を訪ねていきました。前の日のことを謝り、ぜひ結婚講座に来て欲しいと言うと、結婚する人の父親も分かってくれました。

自分に悪いところはないからと思って「いやです」と言い続けることもできたでしょう。けれども、父である神が示す場所が、私たちにとっての「ぶどう園」なのです。いやだと思っているその場所であっても、後で考え直し、心を決めて働くとき、神が喜んでくださいます。

駆け出しだった当時のことをふり返りながら、父なる神が「ぶどう園へ行って働きなさい」と呼びかけているその「ぶどう園」について、新たな発見をしました。私たちはいつも、神が示す「ぶどう園」で、できる働きを期待されているのだと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼最近「窓を閉めたかな」と確認に行くことが増えてきたが、とうとう行き着く所まで行き着いた。恥ずかしいことに、「社会の窓」を開けたまま、船で長崎に行ってきて、帰ってきたのである(念のために説明しておくと、「社会の窓」とはズボンのファスナーのこと)。その間一度もトイレに行かなかったらしく、司祭館に戻ってトイレに入った瞬間、すべてのことがよみがえってきた。
▼船に乗る時に行列に並び、親しい人と笑い話をした。カトリックセンターの広報室に行って、教区報の仕事をしてきた。帰る時に食事をしようとレストランに入った。ちょっと時間があったので、100円ショップをウロウロした。すべて公共の場に出かけたのに、だれにも何も言われなかった。何も言えない状況だったのか・・・。
▼日曜日、市内の中町教会で聖トマス西と15殉教者のミサの後、JRに乗り早岐に移動して、ある人の壮行会に参加する。その人は家具屋さんで、持っている技術を海外で教えてくるために海外青年協力隊に飛び込んでしばらく日本を離れることになっている。配偶者、子どもたちもよく背中を押してくれたなぁと驚いている。
▼この人との出会いは、以前いた地区で手話ミサをしていたことから関わりが始まった。手話のできる人ということで夫婦で手話の集まりにやって来て、ミサの手話通訳を手伝ってくれるようになった。そのうちに、配偶者の方は洗礼を受けたし、私は個人的に家具の仕事を依頼したこともあった。
▼その彼が、ある時海外に行くことを決意し、家族に打ち明けたそうだ。家族はびっくり、一度はもっと早い時期に出発することになっていたが、紆余曲折あって今回の壮行会となった。技術を習いたいと熱心に集まってくる人に、持てるすべてを注ぐのはたまらない快感だろう。ぜひ、思いのすべてを注入して、夢を実現してほしい。

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今週のワンショット
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第50回目。壮行会を受けている人は、海外青年協力隊で出かけます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
マタイ21:33-43
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年間第25主日(マタイ20:1-16)自分の思いを捨てて神の思いに触れる

2008-09-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/09/21(No.377)
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年間第25主日
(マタイ20:1-16)
自分の思いを捨てて神の思いに触れる
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先週十字架山に登ってきました。私と、大明寺教会の人が1人、馬込教会の人が1人、合計3人で登りました。登ってみると、先に誰かがやってきて草切りをしてくれていました。ありがたいなぁと思いました。

今日のたとえ話も私たちがよく知っているたとえ話の一つだと思います。ただ、どれほど黙想してみたかということになると、あまり黙想したことはないかも知れません。それは次の2つの事情が絡んでいるのではないでしょうか。

1つは、今日のたとえ話が自分とどのように関わっているのか、思いつかないということです。このぶどう園の主人は、日が暮れる前の1時間しか働かなかった人たちにもちゃんと賃金を与えてくれた。とても寛大な主人だなぁ。それは分かるけれども、いったいそのことが、私とどう関わっているのだろうか。よく分からない。そう思っているかもしれません。

もう1つは、私たちの感覚で言う「まじめさ」が、たとえ話で伝えたいことを見えなくしているのかも知れません。「まじめだと、たとえ話の要点が分からない」というのはどういうことでしょうか。

こういうことです。今日こうしてミサに集まっているたいていの人は、根がまじめな人たちなので、「朝の6時から雇われて、夕方の6時まで働き続けた人」に、知らず知らずのうちに自分を当てはめているのだと思います。9時頃とか、昼頃までゆっくりしている人、3時までぶらぶらしている人、ましてや、夕方5時まで何もしないで一日中立っている人に、自分を重ねたりはしないのです。

そうするとどういうことが起きるか。きっと、朝から晩まで働き続けた人の立場でたとえ話を考えてしまうでしょう。「最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」(20:12)。この人たちの言葉に、つい「そうだそうだ。あんまりだ」と同情するのではないでしょうか。

それでも、たとえ話を語って聞かせたイエスが、ぶどう園の主人の思いを学ぶよう求めているのは明らかです。不平を言う労働者に、主人は「わたしの気前のよさをねたむのか」と言っていますが、これをもとの言葉にできるだけ近い日本語に直すと、「わたしが気前がよいので、あなたの目が悪いのか」となるそうです。不平を言っている労働者は、自分の思いにとらわれてしまって、主人の思いが見えなくなっているのです。

たとえ話の主人の態度ははっきりしています。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(20:14)と言っています。この主人の思いを知り、理解するためには、自分で当然だと思っている立場を捨てなければなりません。当然だと思っていることをいったん横に置くのは至難の業です。ここは強制的に、立場を捨てるのです。

強制的に自分がこだわっている立場を捨てるきっかけを提供しましょう。以前紹介した、あいりん地区で働いている神父さまの話を思い出しました。あいりん地区では労働者のために炊き出しが用意されています。炊き出しにあずかろうと、労働者の長い行列ができます。そんな中で、いちばん後ろに並んでいる人は、大きな鍋の底をかするような音がすると、不安な顔をするそうです。

自分までちゃんと炊き出しが回るかなあ、もしかしたら直前の人で、炊き出しが終わるんじゃないか。実はイエスは、そんな不安の中にいる人のそばにおられると教えられたと言っていました。早くから炊き出しにあずかれる、列の先頭に立っている人ではなくて、自分の分が残っているか心配になっている列の最後にいる人のそばにイエスはおられ、大丈夫、あなたの分もあるよと言ってくださる。それが神の心なんだと教えられたのだそうです。

同じことは、今日のたとえ話にも通じます。朝から働いた人は当然賃金をもらえる人たちです。最後に雇われた人は、賃金をもらえるか不安に思っている人たちです。この、賃金をもらえるか不安に思っている人のそばに神はおられ、心配いらないよ、あなたの賃金から先に払ってあげましょうと安心させてくださる。それが神の思いなのです。

この神の思いを学ばなければ、私たちに天の国は開かれません。賃金をもらえるか不安に思っている人に、「大丈夫。あなたにも賃金が払われますよ」と声をかけてあげられるほどその人の近くに行きましょう。すると、今日のぶどう園の主人の思いが理解できるようになります。

「わたしのような人間が生きていていいのだろうか。いっそいなくなった方がいいのではないか」。そんな絶望の中にある人のそばに行って手を貸してあげましょう。「大丈夫。あなたにもみんなと同じ1日が与えられますよ」。このように声をかけるとき、不安の中にいる人や、弱い立場にある人のそばに神はおられるということが理解できるのではないでしょうか。

自分が当然だと思っている立場を強制的に捨てなければ、神の思いを知り、理解することはできません。私たちは自分のまじめさや勤勉さ、正直さを絶対の物差しにしてしまって、知らず知らずのうちに神の思いが見えなくなっていたかも知れません。

自分の正しさを物差しにすれば、私は「先を行く者」であり、神によって後ろに回されます。一方で、何人の人に先を越されてもしかたない、いちばん最後でも神に信頼するしか道がないと思っておびえている「後にいる者」が、神のあわれみによって「先に喜びにあずかる」ことになります。

不安でいっぱいのまま後ろにいる者を先に取り立ててくださる神の思いは、おびえたまま後ろにいる人のそばに行ってみなければ、そうした人々の声に耳を傾けなければ、理解できないのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼敬老会の話。敬老会の招待者には福引きの賞品がもれなく当たることになっていた。その中に特別賞が混じっていて、今年も「主任神父さまが魚を釣ってきて、プレゼントしてくれます」という目録が入っていた。今年は目録の中に、「馬込の自治会長も釣ってきてくれます」というひとことも加わっていた。さらにボリュームアップということか。
▼そこで○曜日に、約束を果たすべく、午前中の会議を終えて戻ってきてから釣りに出かけた。その日の朝食時に、賄いさんに「会議戻って昼から特別賞の景品の魚を釣りに行くけど、手伝いに行かない?」と聞いてみたら、「行きます」ということだったので戻って準備して2人で出発した。
▼出かけてみると、型は小さいけれど、そこそこイトヨリも釣れ、シロサバフグ(長崎地方では「金ブク」とか、「カナト」と言う)も混じって、これなら持って行けるねという釣果になった。あと30分もしたら戻ろうかなぁ、と思っていた矢先、賄いさんの竿が突然海の中に突き刺さった。
▼「あっ!大きいのがかかりました」。見ればすぐ分かる状況だったが、漫才をしている暇はないので、竿が折れないように竿を立ててあげる手伝いだけして、リールは賄いさんに巻くように指示。すると35cmのマアジが上がってきて大喜びしたが、そのあと私がこう言った。「これ、どうする?これも賞品にしなくちゃいけないかな・・・」
▼話し合いの結果こうなった。「見なかったことにしよう。だれも釣らなかった。そして、司祭館に持って行こう」。そこまではよかったのだが、場所を移動してまた次の1投目に、竿が勢いよく海中に曲がって突き刺さった。今度は「3段引き」というマダイ独特の引きをしている。姿を見る前からマダイだと分かる。取り込んでまた2人で顔を見合わせ、「どうする?」
▼こんどは賄いさんがこう言った。「特別賞にはこう書いてありました。『主任神父さまが釣った魚をプレゼントします』と。これはどちらも私が釣ったのですから、差し障りはないはずです」。ごもっとも。今回に限って頭の回転が速く、特別賞の方には「35cmのマアジなし・38cmのマダイなしのお魚詰め合わせ」を持って行き、喜んでもらった。司祭館も、その日は宴会をした。

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今週のセンテンス
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第49回目。動物に色が分かるのでしょうか。分からないのでしょうか。

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十字架称賛(ヨハネ3:13-17)十字架の向こうに思いを向けよう

2008-09-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/09/14(No.376)
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十字架称賛
(ヨハネ3:13-17)
十字架の向こうに思いを向けよう
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今年は9月14日が日曜日に当たりました。今日は十字架称賛の祝日です。たいてい日曜日に聖人の記念日などが重なると日曜日が優先されて聖人の記念日はお休みということになるのですが、9月14日十字架称賛の祝い日は、「記念日」ではなくさらに重要な日である「祝日」であるということと、「聖人に関する祝いでなく、主イエスに関する祝いである」という2重の理由で日曜日にもかかわらずそのまま祝日として祝われています。

まず、私たちが目にする「十字架」ということから話したいと思います。今でも覚えていますが、慶応大学の夏期講習の時期に、東京都内の教会巡りを日曜日ごとにしていました。初めの年は先輩にくっついて教会巡りをしていたのですが、2年目だったか、自分一人で行ったことのない教会でミサに参加しようと思い、田園調布の教会を訪ねていったのです。

だいたいの下調べをして田園調布駅で電車を降り、教会が見えたので入りました。すると生まれて初めて、イエスさまの像が付いていない十字架が正面に据え付けてあるのを見たのです。予定ではこれからすぐにミサが始まるはずなのに、誰もいませんでした。そこで司祭館らしき建物を探し当て、チャイムを押すと、背広を着た方が現れたのです。牧師さんでした。

「あの、ミサにあずかりに来たんですが」
「あなたたち、カトリックの人?ここはカトリック教会じゃないよ」
「すみません。間違いました」。

間違いにはすぐに気づいたのですが、初めてプロテスタント教会に入ってみて、違う雰囲気の中で戸惑うという経験をしました。何より、十字架にイエスさまが付いていないのにはビックリしました。もちろん、プロテスタント教会の信者さんは、十字架にイエスさまが付いていることのほうがビックリするだろうと思いますが。

よく尋ねられることですが、「なぜプロテスタント教会では十字架にイエス像はなくて、カトリック教会の十字架にはイエス像があるのですか」と聞かれます。これだという自信はありませんが、おそらく十字架にはりつけになったイエスに対する認識の違いではないかと思います。

カトリック教会とプロテスタント教会が共通に理解していることから出発しましょう。「イエスは確かに十字架に付けられた。そのイエスは、3日目に復活した」。この事実には両方の教会とも疑問の余地がありません。ここからが問題なのですが、プロテスタント教会は「イエスは復活し、もはや十字架にとどまってはいない」という理解でイエス像を置かないのではないでしょうか。

一方カトリック教会は、十字架上のイエスの向こうに復活を見ていて、イエス像を置いているということでしょうか。つまりプロテスタント教会は復活に力点を置いて十字架を眺めているのに対し、カトリック教会は十字架に付けられたことも、3日目に復活したことも両方共に大切にしていると言えるかも知れません。

いずれにしても、私たちは十字架の向こうにある復活の出来事を目の前の十字架から見て取る必要があると思います。そのことで最近、カトリック教会の聖堂では「第3の形」を見ることができます。十字架上に両手を高くかかげたり、または手を下げた状態で両手を開いたイエス像が置かれているケースです。大明寺教会はまさにその例に当てはまっています。十字架の向こうにある復活を読み取りなさいと言うだけではなくて、具体的に、「復活のキリスト」をイメージさせるキリスト像を十字架と組み合わせているデザインとなっています。見える形でも、復活のイエスを十字架上に読み取るように促しているわけです。

これは1つの大きな流れかもしれません。十字架上のキリスト像を見て、かつては次のような教育が施されていました。「ごらんなさい。イエスは手に釘を打たれ、わたしたちのために苦しんだのです。わたしたちはイエスの苦しみで救われたのですから、もうイエスを苦しめるような罪を犯してはいけません」。

ほらこんなに苦しんでいらっしゃる。かつてはそんな教育でしたが、現代のカトリック教会では十字架上のイエスを強調するのではなく、その向こうにある復活を強調しています。聖堂内の十字架を仰ぐ時、現代は別の視点が必要でしょう。「イエスは十字架の苦しみを経て復活の栄光に入られた。わたしたちはその栄光をたたえます」。はりつけにされたイエスという、目の前に見えるものだけをとらえるのではなく、その向こうにあるものを見る目が、現代求められているということです。

伊王島には、十字架山という場所があります。皆さんよくご存じの通りです。2年前だったと思いますが、ここに新しく十字架を設置しました。その際馬込教会の人で山登りをして、完成を祝ったのでした。あれから2年、私はその後1度も山に登っていないのです。ずっと気にはなっていたのですが、ちょうど十字架称賛の日が巡ってきましたので、山に登って少し祈ってみたいと思います。

これはついでの話ですが、もちろんまじめに祈りもしてきますが、せっかくの山登りなので、缶ビールの1本くらいは持って行こうかなぁと思っています。この十字架にはイエス像も何も付けられていません。それでも、私は立派な十字架だと思っています。私は久しぶりに十字架を据えた場所にたって、十字架の向こうにある何かを学んできたいと思っています。何も妨げがなければ、11時に登り始める予定です。

今日、十字架称賛の日に、私たちは自分の救いについてあらためて考えることにしましょう。私たちはイエスが十字架にかかってくださったことで救われた者です。イエスが奇跡を行い、神の国は近づいたと言っただけでは、救いは完成しなかったのです。十字架にかかってくださり、3日目に復活したことを、自分にできる精一杯の態度で感謝し、賛美することにしましょう。今日一日の中で、イエスが私たちの罪を十字架として担ってくださったことを思い、私たちも他人をゆるし、自分の十字架を背負う決意を新たにしたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼今日本語の本でまじめに読み続けているのは「ローマ教皇歴代誌」という本。まじめに読んじゃいられないほど俗っぽい歴史だけれども(言い過ぎていたら申し訳ありません)、264代の歴史はいちおう目を通しておいたほうがいいだろうということで読み始めている。ただ今東西の教会が決定的な分裂を生じた1054年あたりを読んでいる。
▼ローマ側はレオ9世、コンスタンティノープル総大司教はミカエル・ケルラリオス。どちらも頑固で、まったく妥協しようとしなかったとある。「そして、1054年7月16日、ついにローマ側はコンスタンティノープル総大司教とその一派を破門にし、その代わりに相手からも破門を宣告された」(「ローマ教皇歴代誌」1999年初版、105頁)。
▼使徒座に就いた正統教皇のなかで聖人の列に加えられた教皇は78人、福者教皇8人、対立教皇の中からも2人が聖人に加えられている(同293頁)。そんな「パパ様」に忠実を誓い、イエスのために命をささげた殉教者が無数にいて、その中の188人が11月24日に列福されるのである。真剣にカトリック教会とは何なのか、カトリックの信仰とは何なのか、考えざるを得ない。
▼今週は十字架称賛の祝日に当たっている。十字架と言えば、伊王島のいちばん高い場所に金属製の大十字架が設置されている。2年前に、信徒で協力して山頂に運び上げ、設置後にみんなで祈りを唱えて喜び合った。昔からその山は「十字架山」と呼ばれているらしく、以前から記念の十字架を設置したいという声を聞いていた。
▼せっかくの祝日だから、この日に合わせて山登りをしてみようと思っている。設置した時はみんなで手分けして草刈りをし、参道を作り、きれいにしたのだったが、この2年でまた荒れてしまっているかも知れない。チャンスがあれば、信徒にも声をかけて、一緒に登ってみよう。十字架をたたえるためにカルワリオの山を登るつもりで登れば、何か見えなかったものが見えるかも知れない。

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今週のセンテンス
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第48回目。生物工学は人類の進歩のためにすでに役立っています。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日
マタイ20:1-16
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年間第23主日(マタイ18:15-20)天の父はその願いをかなえてくださる

2008-09-07 | Weblog
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こうじ神父
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08/09/07(No.375)
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年間第23主日
(マタイ18:15-20)
天の父はその願いをかなえてくださる
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昨日、1人の方に洗礼を授けました。病院で授けました。私はこの時の洗礼式に、神さまの恵みが特別に働いているなぁと感じました。もちろん洗礼式は神さまの特別の恵みですが、恵みを祈り求めるなら、天の父はその願いをかなえてくださるんだなぁということを感じたのです。

今日の福音朗読の後半で、イエスは次のように仰せになりました。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(18:19)。

私たちは神さまにいろんなことを願い求めることができますし、実際に願うわけですが、救いに関わる恵みを願うこと以上に大きな願い事はないと思います。たとえ、1千万円くださいと願ってかなえられたとしても、救いの恵みをいただくことに比べたらたいしたことではありません。ですから、洗礼の恵みを病院で、危険な病状にあってかなえていただいたということは、特別大きな恵みだったと思うのです。

私は、その人が洗礼という救いに関わる重大な恵みをいただく橋渡しをしました。洗礼の恵みは、秘跡を授ける人を通してイエスが働き、本人に与えられるものです。イエスは恵みを願う人々の中で働きます。次のように書いてあります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(18:20)。

この日、病院で洗礼を受けた人は、返事ができるわけでも、こちらを見て目を合わせることができるわけでもありませんでした。ですから、私たちはこの人の中で何が起こったかを確かめることはできません。けれども、2人、また3人が集まった中におられたイエスが、この人を洗礼を受けた神の子、神の家族に変えてくれました。私は、イエスが仰った言葉によって、目の前にいる人が変えられたのだと信じています。

司祭はしばしば、昨日の病院での洗礼式のように、非常に重大な恵みの場に立ち会う機会が与えられています。こうした場面に立ち会うたびに、司祭が果たす役割の重さを感じます。そのことについても、今日イエスは仰いました。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18:18)。

病院で洗礼を受けた人は、私と、家族1人と、代親(代父母)1人の3人が祈る中で恵みをいただきました。私は神さまに与えられた権限によって、目の前にいる人を地上でつなぎ、天上でもこの人はつながれました。取るに足りない人間である中田神父の動作で、神さまはこの人を天の国とつないでくださいました。私は、これまでにも増して洗礼の恵みのすばらしさや尊さを、病院の出来事を通して学んだ気がします。

恵みの体験は、人から人へ広がっていく力を持っています。2人の人が地上で心を1つにして求めたことで、1人の人が救いの恵みにあずかりました。私たちも、それを1つの出来事としてただ聞くだけではなくて、私もその体験にあずかろうという気持ちになっていただければなぁと思います。

私たちの暮らしの中にも、救いに関わる重大な恵みを必要としている人がいらっしゃるのではないでしょうか。そのような人のために、私たちはどれほど祈ってみたのでしょうか。

「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(18:19)。あのイエスのみことばは、単なるもののたとえだったのでしょうか。

そうではないはずです。ぜひ、私たちも家族、身の回りで出会う人のために、心を1つにして祈ってあげましょう。もうすでに、救いに関わる恵みを必要としているだれかが心に思い浮かんでいるかも知れません。私たちがその人を変えるわけではありませんが、私たちが心を1つにして求めるなら、天の父はその願いをかなえてくださいます。

中田神父にも、最近の出会いの中で、救いの恵みが届くようにと願う人々のリストがあります。イエスは100匹の羊のうち、迷い出た1匹のために特別に骨折りました。「心を1つにして」というのがいったいどれくらいの熱意を表しているか分かりませんが、少なくとも、昨日の洗礼式のために祈った時の熱意くらいは必要なのだと思います。

ぜひ私たちも、今日のイエスのみことばを自分たちで体験するようにしましょう。イエスのみことば「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(18:19)このみことばは確かですと人々に体験として語ることができる信者になれるよう、ミサの中で心を1つにして願い求めましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼以前励んでいた「なわとび」は膝が持ちこたえられず、中断してしまった。それに変わって今楽しみながら続けているのはWii Fitというゲーム機。要するに任天堂のWiiと組み合わせたFitnessのゲームソフトである。そのまんまの説明だが。
▼どんなものだろうとまずは小学生を連れて五島に帰省した時に一緒に楽しんでみたのだが、さすがに全世界でゲーム機を売り上げているメーカーだけあって、飽きさせない作りになっている。フィットネス効果がどれほどかは疑問だが、楽しみながら続けられそうである。
▼秋らしい風になってきた。そして季節の変化は、188殉教者の列福式がもうそこまで来ていることのしるしでもある。広報部として列福式実行委員会の責任の一端を担っている者として、身の引き締まる思いである。広報部のスタッフのご苦労も、責任者としては頭の下がる思いである。
▼月に一度病人訪問をして聖体を運んでいるが、一ヶ月があっという間にやってくる。歳を取ったか?すぐにやってくるけれども、各人の病状は刻一刻と変化し、中には先月祈りが言えたのに今月は一緒に言えなくなっているとか、先月はベッドから起き上がってくれたのに今月は起きられないとか、さまざまに変化する。できるだけ一人ひとりの状態を覚えて、次の変化に備えたい。
▼秋はスポーツの秋。また、食欲の秋。運動もしないくせに食欲旺盛な私は、次に何を釣ろうかとたまに行く釣りのことを考えている。秋は海上が穏やかな時は陸上よりも涼しい季節風が吹き抜け、気持ちがいい。さらに竿が曲がる瞬間があれば、言うことはない。また、魚との知恵比べを楽しみたい。

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今週のセンテンス
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第47回目。省力化の製品手に入れて、得られた余暇はどう使われているのでしょう。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
十字架称賛
(ヨハネ3:13-17)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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