こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(ヨハネ6:1-15)私たちもイエスのパンを分け与える弟子

2018-07-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/7/29(No.955)
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年間第17主日
(ヨハネ6:1-15)
私たちもイエスのパンを分け与える弟子
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年間第17主日は典礼暦B年の福音朗読の流れから外れていますが、ペトロの信仰告白に至るまでの奇跡物語の一つとして捉えてみたいと思います。選ばれたのは「五千人に食べ物を与える」奇跡です。単にパンを増やした奇跡としてではなく、「いかにして五千人に食べ物を与えるか」このことに焦点を当てて考えることにしましょう。

与えられた朗読をざっと見渡して、物語全体に味をつけているのはどこでしょうか。イエスが言われた言葉や行動が、物語全体に味付けをしている、出来事に意味を与えているわけですが、どの言葉でしょうか。どのような行動でしょうか。

私はこう考えます。イエスがフィリポにかけた言葉が、これから起こること全体に関わる味付けしていると思っています。それは6章5節「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」ここだと思います。

すると、その後に起こる出来事は初めの言葉と比べれば、その次になるような重みの出来事かもしれません。たとえばパンが増えたことをことさら強調していないのも、ヨハネが何を重視しているかを暗に示しています。

「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」イエスは明らかに、群衆に食べ物を与えようとしておられます。さらに「どこでパンを買えばよいだろうか」この言葉も気になります。パンを買う場所が、いくつもあるとは考えにくいです。

小店とか、郊外にあるショッピングセンターとか、専門店とか、そういう店の区別ではなく、「この人たちに食べさせるパンを与えることができるのはイエスただ一人である」ということを、どうすれば気づかせることができるだろうか。そういう意味ではないでしょうか。

イエスは弟子たちに買い出しに行くよう命じることもなく、その場で大群衆にパンを与えます。しかも、有り余るほど与えました。こうして、「イエスこそ、まことのパンを与える方である」ということを示したのですが、弟子たちは理解が及ばなかったかもしれません。ただ弟子たちはのちにはっきりと理解することになります。

「こう言ったのはフィリポを試みるため(であった)」何を試そうとしたのでしょうか。何が試されているのでしょうか。参考ですが、フィリポは弟子たちの中で抜きん出た存在ではなかったようです。ヨハネ福音書の別の箇所で次のようにイエスに言われています。

「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」(ヨハネ14・9)このフィリポに私はとても親しみを感じます。フィリポが試されていた事柄は、私たちが試されている事柄かもしれません。どんなことでしょうか。

私が考えたのはこうです。「イエス・キリストを与えなければ、この人たちに食べさせることはできない。」この答えにたどり着くかどうかを、フィリポはじめ弟子たちは試されていたのではないでしょうか。同じように私たちも、この人たちに食べさせるには、イエス・キリストを与えなければならないのです。

ところで「この人たち」はどこにいるのでしょうか。福音朗読ではイエスのもとに集まった大群衆でした。私たちにとっての「この人たち」は誰なのでしょうか。私は、「イエス・キリストを必要としている人々」だと思います。

ミサをささげる司祭にとって、「イエス・キリストを必要としている人々」とは皆さんのことです。説教によって神の言葉のパンを分け与え、聖体の秘跡によっていのちのパンを分け与えます。司祭が人々の中に分け入った時は、イエス・キリスト抜きで生きていけると思っている人々すべてが「この人たち」です。この人たちにもパンを与えなければなりません。パンは詰まる所イエス・キリストですから、司祭の生き方、接し方、声のかけ方で何千人もの人にイエス・キリストというパンを与えるよう召されているのです。

ただ司祭だけが、この使命に召されているのではありません。皆さんはミサを通して、みことばのパンと、いのちのパンを頂いたのです。それはまず、あなたのためのパンですが、弟子たちが差し出した五つのパンでもあるのです。人々と分け合う時、数えきれない人々が食べて満たされるほどの豊かさを持つパンなのです。

近くに、いのちのパンを分け合える人がいないでしょうか。同じ屋根の下に暮らしながら、いのちのパンに触れたことのない人がいないでしょうか。聖体のパンはまだ分け合うことができなくとも、みことばのパンをその人と分け合えるのではないでしょうか。

イエスは弟子たちが「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(6・9)と言った元手を使って、数えきれない人をご自分のもとに引き寄せ、満たしてくださいました。ここにいる二百人がそれぞれ二人とみことばのパンを分け合ったら、四百人の人が同じパンに触れることになります。その積み重ねがあれば、私たちも五千人にイエスのパンを分け与える人なのではないでしょうか。


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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(ヨハネ6:24-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼世の中にはサボる人間とサボらない人間がいると思う。それは「プロセスが大事だ」と考える人と「結果が出ればプロセスは問わない」と考える人がいるのと同じだ。私はサボる人間で、「結果オーライ」の人間である。
▼だから、サボらない人、プロセスを重視する人とは合わなかったりぶつかったりする。まぁでもぶつかることで磨かれたり危険な角が取れたりするのだから、違う考えの人は大切な人、出会うべき人だと思う。「そう思えるようになった」というのが正しいか。
▼もはや締め切りも目の前に迫り、一歩も引けなくなってようやく仕事に取り掛かる。もっと計画的に、少なくとも締め切りを気にしない時期に、依頼されていることを果たせばよいのに。分かってはいてもそうできないのがありのままの姿だ。
▼「釣り」と「畑仕事」の比較に似ているかもしれない。本業にしている方々には「そんなことはない」と言われるかもしれないが、「釣り」は一日中真面目に釣っていても釣れない時は釣れない。魚は食べたいときしか口を動かさないからだ。
▼ところが畑仕事は、やろうと思えば一日中することが見つかると思う。ゴーヤの苗を植えてもらい、日々成長する姿に驚くが、苗は「そろそろ帳尻を合わせるために成長するか」などという計算をしない。日々、寝起きする間に成長していく。だから畑仕事をする人は、休まず働いても楽しいのだと思う。
▼結果が大事なこともあり、過程が大切なこともある。両方に目を配る。それが本当の上に立つ人、多くの人に仕えるために選ばれた人の取るべき態度だ。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第562回目。種はひとりでに成長し、花が咲き、いよいよ小さな実を付けた。

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年間第16主日(マルコ6:30-34)休まずに教え、諭すイエス

2018-07-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/7/22(No.954)
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年間第16主日
(マルコ6:30-34)
休まずに教え、諭すイエス
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「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」(6・30)今週年間第16主日の福音朗読はこのように始まっています。先週どのような指示を受けて出かけていったのかが語られていました。一週間も経つと、なかなか思い出せないかもしれません。今週は先週の流れを思い出すところから出発しましょう。

大阪の前田枢機卿様による補佐司教叙階式に参列してきました。司教座聖堂はエアコンのない聖堂でした。もし私たちがこのミサをエアコン切って挙行したら、逃げ出す人が出てくるかもしれません。そんな暑さと戦いながら、前田枢機卿様は立派にご自身の二人の補佐司教を叙階して、喜びあうことができました。

ところで前田枢機卿様には、私たち田平小教区からのお祝いを届けることになっていたので、忙しくなる前にと思い、ミサの1時間前に大司教館を訪ねたのです。すると受付の人がいたので、お祝いを渡したいと伝えると、「おつなぎできません」とあっさり断られました。「そんな~」と思ったのですが、別の先輩から「前もってアポイント取らなきゃ」と諭されました。私たちの考えが甘かったのですが、叙階式後に無事にお渡ししてきました。

司教様は本当に大切な牧者です。司教様の務めは教会法の中に関連する法令が55項目ありました。その中には、たとえば教区司教の務めがありまして、教区司教は教区民をこのように導かなければならないとか、教区内の司祭たちをこのように導かなければならない、そういう項目もあります。

司教様は司祭と教区民を導かなければならないわけですが、教会法の中で書かれていることは法律の面から見た務めで、司教様は教会法によって教区民や司祭に、牧者として教え導き、励まし、時には忠告したり罰を与えたりもするわけです。それは父親が子供に対して教え導き、時には叱ったりするのと同じことです。

親しくさせていただいた神父様が、このような重い務めを引き受け、補佐司教様になった姿を見て、大変だなぁと改めて思いました。あの暑さの中で司教に叙階されたことで、火で精錬された鉄のようになったのかもしれないと思いました。

さて福音朗読ですが、先週十二人がイエスに派遣される場面では、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(6・12-13)と結ばれていました。

十二人はイエスの権能を授かって恵みを届けることと、「悔い改めさせる」ためにも出かけました。教え導くだけではなく、時には戒めたり警告したりもしたのです。これはまさに、現代の教会法が司教様に求めている務めに通じるなぁと思いました。

今週の朗読は、その十二人が戻ってからの話です。彼らは精神的にも肉体的にもそうとう疲れて帰ってきたのだと思います。イエスは彼らに休みを取らせます。肉体的な休み、たとえば横になって体を休めるというよりは、精神的な休みを取るように勧めています。

宣教活動は人々の悩み苦しみに寄り添って手を差し伸べることが多いので、精神的な疲れがあるとどうしても続けられません。「人里離れた所」は、イエスが父なる神と語り合うために好んで選ばれた場所ですから、弟子たちにも父なる神に自分を委ねることで力を取り戻してもらいたかったのだと思います。

ところで、弟子たちに休みを与えている間も、悩み苦しむ人々は救いを求めて集まってきます。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(6・34)

イエスのこのような姿は、文字通りの働きを表していると同時に、弟子たちが休んでいる間も、イエスが悩み苦しむ人々のために休まず働いてくださるから、休む時は信頼を寄せて休みなさいと言われているのだと考えました。司教も司祭も、どこかで休みが必要になります。

その間も絶えず悩み苦しむ人が救いを求めてくるわけですが、イエスは休まず働いて、司教や司祭の足りないところを満たしてくださるのです。教会は、見える姿だけではなく、見えない姿もあって、絶えず宣教し、絶えず人々の苦しみに寄り添っているのだと思います。

教え、励まし、時には戒めてくださるイエスが、弟子たちを通して、枢機卿様、司教様、司祭を通して働き、彼らが休んでいるときも、羊のために休まずイエスがお世話してくださる。この姿を今週は持ち帰りたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(ヨハネ6:1-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼あんなに大阪は暑いのかと、甲子園球児のことまで考えた叙階式だった。なんとか無事に叙階式を見届けたが、叙階式をあの暑さでやり抜く枢機卿様と被選司教様2人の気力がまずすばらしい。
▼炎に焼かれても信仰を守り抜いた殉教者の心境はあのようなものだったのかもしれない。驚嘆すべき信仰を見ることができた。これは現地で体験した人しかわからない話だが、自分は叙階式のあとあべのハルカスに見物に行ったのだが、そこまで電車に乗っている時の話。
▼一組は新しい補佐司教の本を小脇に抱えた夫婦。関西の言葉だったのだが、内容的には「司教様のご本にたくさんのひとが殺到して、大変だったわよ」と言いつつ、自分は本を手に入れたのだとご満悦の様子。
▼もう一組は、「枢機卿というのは、日本全体に目配りするお方だから、忙しくなるに違いない」とこれまた枢機卿の任務について配偶者に得意げに話している。私が感心したのは、電車という公共の場で、離れた私にも聞こえるように大阪の人が信仰体験を語っておられたということだ。
▼私には偏見があった。大阪や東京の人は、信仰の話を電車のような公共の場で一切話したりはしないものだと思っていたわけだ。それがどうだろう。堂々と、私が司祭のシャツを身に着けていなければ「どんな話ですか」と会話の輪の中に入りたいくらいだった。
▼補佐司教の一人が「神さまはいつも人を驚かせることができる」といった挨拶をしておられたが、私にとっては都会の人が電車の中でその日起こった信仰の偉大な伝承を語り継いでいることが「力ある不思議なわざ」だった。

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今週の1枚
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第561回目。評議会議長と、その末っ子と枢機卿を囲んで。小教区報にも使いたい。

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年間第15主日(マルコ6:7-13)すべてにイエスを拠り所として

2018-07-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/7/15(No.953)
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年間第15主日
(マルコ6:7-13)
すべてにイエスを拠り所として
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マルコ福音書を中心に日曜日の福音朗読を組み立てるのがABC年三年周期のB年です。B年の年間第15主日は、弟子たちが十二人呼び寄せられ、派遣されていきます。私たちが日曜日にこの聖堂に呼び寄せられ、派遣されていく姿を思い描きながら、今週の糧をいただくことにしましょう。

チャンスがあって、あることを調べて分かったことがあり、皆さんと分かち合いたいと思います。それは、一般のカレンダーに見られる「六曜」についてです。ご存知のかたもおられると思いますが、「六曜」とは「日の吉凶に関しての陰陽(おんよう)道や民間信仰で、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口(しゃっく)の六種の日」のことです。

勘の鋭い方は私が何を言いたいのかすでにお分かりのことでしょう。これは「陰陽道や民間信仰」であって、仏教の教えではない、ということです。カトリック教会の神父がわざわざ説教で言うことでないかもしれません。けれども皆さんの家庭でも、仏教の信仰の方と結婚した方もいらっしゃることでしょう。そうであればなおさらですが、仏教は仏教の教えを大切にし、キリスト教はキリスト教の教えを大切にすべきだと思うのです。

なぜ日本人は、「大安」や「友引」に神経を遣うのでしょうか。キリスト教徒は、「大安」や「友引」をあまり気にしませんが、仏教徒が、仏教の教えではない「大安」や「友引」を気にするのは、間違っていると思うのです。仏教の教えであれば仏教徒が大切にするのは当然です。なぜ陰陽道の考え方なのに、仏教徒が振り回されるのですか。私はそう言いたいのです。

確認のために、「六曜」の中から二つ紹介します。一つは「友引」です。明治時代までは共通という意味の「共」に「引く」と書いていました。意味は、「勝負がつかない引き分けの日」です。しかも、「大安」の次に日取りが良いとされています。

もう一つは、「仏滅」です。これは「何をするにも悪い日」だそうで、明治時代までは「物」を「失いやすい日」として「物」の「ぶつ」に「滅」と書いていたのです。人によっては「仏すらも滅びる縁起の悪い日」と解釈していたようです。

ここまで知れば、私たちが何となく考えていた理解が曖昧であったことが分かります。「六曜」は陰陽道の教えであって、仏教の教えではないのです。それでも納得行かない人は、お寺のお坊さんに「友引は仏教の教えですか」「仏滅は仏教の教えですか」と尋ねてください。

私たちはカトリック教会の信者ですから、カトリックの教えを大切にしなければなりません。福音朗読では十二人の弟子たちが二人ずつ組にして遣わされていきます。ここでも、弟子たちに本当に必要なことは一つです。それは、「イエスの弟子だから、イエスの教えを何より大切にする」ということです。

イエスは弟子たちを派遣するにあたり、指示を与えました。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」(6・8)とあります。この指示は、イエスの教えを何より大切にするという考えが背景にあります。

実際には予備のためのパンを備えておくと、何かと便利でしょう。寄付をしてもらうための献金袋を持っておくことも、いざというとき助けになるでしょう。けれどもそれは、「イエスの教えを何より大切にする」という原則に外れるのです。イエスの教えに行き詰まったとき、すがるものがほかにある。これでイエスに全幅の信頼を置けるでしょうか。

「この場面ではイエスの教えを拠り所にしましょう。ここは民間信仰を拠り所にしましょう。」私たちキリスト者には、そのような使い分けは許されていないのです。すべてがキリストを拠り所にして組み立てられたものでなければならないのです。

私たちの命はどのようにして与えられたのですか。私たちは死ぬとどのようになるのですか。キリスト者は皆、子供であろうが大人であろうが、命の始まりから死、そして復活の希望まで、イエスの教えを拠り所にして説明すべきなのです。

あえてもう一度触れておきます。なぜこの世の旅立ちについて、仏教徒が陰陽道を拠り所にして日取りを決めるのですか?私たちキリスト者は陰陽道を気にして旅立ちの日を決めたりしません。仏教徒も、仏教の教えに沿って旅立ちの準備をすべきではないのでしょうか?

私たちキリスト者は、命の始まりから終わりまで、復活のキリストに希望を置いて人生を全うします。イエスから派遣された弟子たち、朗読では教えについて細かな指示はありませんが、派遣された場所で彼らの一挙手一投足が、人々に「この人はイエスの教えを拠り所に生きている」と感じさせたのです。最後は教えがどうのこうのではありません。生き方が、「この人はイエス・キリストを心底信じて生きている」と伝われば、それが何よりの宣教、証なのです。

日本人の多くは「今日は日が悪いから」と言って行動を控えたりします。その中には仏教徒もいるでしょう。仏教が教えもしない「友引」や「仏滅」に右往左往していては、「私は仏教の教えを拠り所にして生きている」とどうして言えるのでしょうか。

キリスト者は「日が良くても悪くても」福音を宣教します。パウロが弟子のテモテへの手紙で述べた通りです。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(2テモテ4・2)

派遣された人は、福音を携えて行きます。私たちも今日、この聖堂から派遣されていくのです。「大安」の日も「友引」の日も「仏滅」の日も、私たちがすることはたった一つ、イエスを拠り所にして日々を生きる。これです。この一つを携えて、今週の生活に戻っていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(マルコ6:30-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼写真の掲載が間に合わなかった週が何度かあり、それを繰り返すうちにテーマの重複さえ起こってしまった。5月13日以降の写真が閲覧できるようになったのでお知らせ。長く放置してしまい、大変申し訳なく思っている。
▼今週の「六曜」の由来は大変勉強になった。お寺の坊さんに聞いても「友引」が仏教の教えでないことは明白である。陰陽道とか民間信仰を信じることと、自分が所属する宗教を信じることと両立できるか、考える場を作ることができた。
▼カトリックは陰陽道とか民間信仰を受け入れながらのキリスト教信仰を両立させたりはしない。カトリック信者はカトリックの教えに立って生きる。それだけである。そこをハッキリさせることができてよかった。そして、誰もが宣教できるパズルの一つを持つことができた。これまで埋めることができずにいた部分を、確実に埋めるピースの一枚だと思っている。
▼今週は涼しい場所を見つけた猫の写真を掲載するが、本当はゴーヤの竹垣をすぐにも見せたい。花が咲き、「もうすぐ」と知らせてくれている。猛烈な日差しの中で、青々と茂るゴーヤの葉は、それだけで涼しさを感じさせている。
▼大阪にはいつ以来だろうか。天国に行った人たちと結びつく事情で大阪に行ったとき以来か。あまりはしゃいで行くわけではないが、大阪はなかなか足を運ばない場所なので、楽しみにしている。特に補佐司教に叙階される被選司教は、大のタイガースファン。舌戦でこれからも阪神-広島戦わせたい。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第560回目。あまりに気持ちよく眠っていて、私が近づいても飛び退かなかった。

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年間第14主日(マルコ6:1-6)問い続け、納得して受け入れる

2018-07-07 | Weblog
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こうじ神父
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2018/7/8(No.952)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第14主日
(マルコ6:1-6)
問い続け、納得して受け入れる
‥‥‥†‥‥‥‥

まず、この度の台風被害に心からお見舞い申し上げます。「なぜこんなことが」と言いたくなるような災害でした。慰めと、励ましをイエスに願いたいと思います。

今週の福音朗読箇所は、故郷のナザレでイエスが受け入れられない現実を弟子たちが見ることになります。日本では「故郷に錦を飾る」と言ったりしますので、弟子たちはイエスの活動を、故郷の人々が手放しで歓迎するだろうと思っていたかもしれません。

ところが、事実は正反対でした。「誰それの息子が、何を偉そうに」そんな反応だったのです。イエスの働きぶりを、故郷の人々は自分たちの知っている知識と結びつけました。人々の驚く姿は今週の朗読の大切な鍵なのですが、驚きが信仰には結びつかず、かえって疑いを生む結果となりました。

先週、一連の奇跡はペトロの信仰告白に繋がる出来事として見ることもできると言いました。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(6・5-6)今週の出来事は、弟子たちを失望させ、なかでもペトロの信仰を挫く危険もあったと思います。

ペトロは今日の出来事でも信仰を失わなかったのでしょうか。期待をくじかれるとき、人はだれでも自身を失い、失望するものです。私だってそう考えます。けれどもペトロは、故郷で冷たくあしらわれたイエスに、従い続けたようです。

最近二つの貴重な体験をしました。改めてカトリックの信仰は素晴らしいと思いました。一人の御婦人は、楽しみにしていた日を迎えようとしていましたが、その日を延期されてしまいました。ふつうであれば、落胆し、恨みに思うかもしれません。けれどもその人は、「わたしの償いが足りないので、延ばされたのでしょう」と事もなげに答えました。

その人の様子は逐一聞いていたので、いよいよその日が来ると思っていたのです。「がっかりしているだろうから、慰めてあげよう。」そんな気持ちでしたが、その御婦人はむしろ、延期されたことを神さまのお考えに違いないと結びつけたのです。こんな人と出会うことで、私たちは信仰を深めてもらうのではないでしょうか。割り切って考えることの多い私も、その受け止め方に頭が下がりました。

もう一人は、先週出血の止まらない女性を説教に取り上げましたが、そのミサの帰りに私のスータンの裾に触れて帰った御婦人がいたのです。「あの人は、どうしてあんなことしたのだろう」と、さっき朗読した出血の止まらない女性の箇所と御婦人の行動とを結びつけることができませんでした。しかしこの御婦人は、私のスータンの裾に触れて、「神さまがきっと良くしてくださる」と信じ、黙って帰っていったのです。

驚くべきことが起こりました。調子が良くなったと、後日御礼を述べに御婦人が司祭館に来たのです。調子の悪かった人が司祭館にまで御礼に来るのはよほど嬉しかったのでしょう。私は先週裾に触れた理由がやっとわかり、私も御婦人の調子が良くなったのを喜び合いました。私を道具として、イエスの力が御婦人に届いたのだと思います。

イエスの故郷ナザレで、人々はイエスを驚きをもって迎えました。驚きは、大切に温めると信仰に向かっていきますが、粗末に扱うと疑いのもとになります。故郷の人々は自分たちが感じた驚きを粗末に扱ってしまい、イエスを疑いの目で見たのです。しかし弟子たちは、イエスの驚くべきわざを大切に温めました。

私たちがわからなくても、きっとそこには何かが込められているに違いない。私の体験談で話した二人の人も、自分の身に降りかかっていることを身の回りにある答えで片付けようとせず、もっと大切な意味が込められていると考えたので、神さまが答えてくださいました。

「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(6・3)故郷の人々は簡単な答えに結びつけたために、イエスを見誤りました。弟子たちはその場ではわからなくても、答えがわかるまで驚きを温め続けたのです。そのおかげで、ペトロはイエスへの信仰を告白できたのでした。

私たちの周りにも、「なぜそうなるのか」と驚き怪しむことがあるかもしれません。「神さまはおられるのか」とさえ思うかもしれません。簡単な答えにすがろうとすれば、私たちはほんとうの意味を見つけることなく、失望したり恨みに思ったりするのです。

神さまが私たちに見せているのは、「知恵の輪」のようなものではないでしょうか。答えは確かにあるのですが、簡単な答えに結びつけようとしても決して解けないのです。「こうに違いない」と思ったことすら横に置いて、神さまが示そうとする答えにたどり着かなければなりません。神さまの示そうとする答えを知るまで待てない人は、知恵の輪を無理やりこじ開けて勝手な答えを出すでしょう。

そうではなく、神さまが示そうとする答えはかならずあるのだから、納得して神さまの答えを受け入れる準備が整うまで待ちましょう。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」(6・2)問い続けるなら、神さまが示そうとする答えに私たちもたどり着き、納得してその答えを受け入れることができると思います。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(マルコ6:7-13)
‥‥‥†‥‥‥‥

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼サルテリオの演奏はとても良かった。良いものに触れると、良いものが生まれてくるのかもしれない。終わりのあいさつのときに、「この教会は100年の歴史を刻んできました。1日も欠かさずこの聖堂は起こった出来事を記録して100年を迎えました。今日のこの日も、この聖堂は素晴らしい楽器を、その音色を記憶したと信じています」と言った。
▼このあいさつは、自画自賛になるが、準備して出てくるものではないと思う。良いものに触れて、生まれたものだと信じている。説教で触れた人も、「神さまが引き合わせてくれた人」「必ず出会うことになっている人」だと思う。
▼人との出会いが人を育てる。出会った人のことを記憶し、体に刻んで人は成長していく。人生は無制限に長くはない。出会う人は限られている。出会う人に育ててもらうためには、その人の前に身をかがめるべきだと思う。耳を傾けるべきだと思う。
▼韓国語で最近はちょっとしたことが言えるようになった。「今日は長崎に出かけます」「今から病院に(銀行に)行きます」韓国語で用件を言われた相手は目をまん丸くしているが、それを見るのも楽しい。ゆくゆくは、韓国語のミサの共同司式に並びたいものだ


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今週の1枚
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第559回目。奉納演奏者との写真をと思ったが許可を得ていない。許可が出てから。

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