こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(ルカ16:19-31)神の国のルールに沿って生きる

2010-09-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/09/26(No.495)
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年間第26主日
(ルカ16:19-31)
神の国のルールに沿って生きる
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いよいよ来週ミニバレーの日がやってきます。9月に入ってからはよく練習をやりました。日曜日、福見と高井旅のチームの練習、火曜日と金曜日は浜串チームの練習で、時々サボってはいましたが、いけるときはちゃんと参加して、おかげで体もずいぶん絞れて軽くなりました。

それ以前にも、転勤してからすぐに、ミニバレーの練習には参加していたのですが、今回のカトリック婦人会のミニバレーでは、普通のバレーの試合のルールとは違ったルールが用いられていて、最初ずいぶん戸惑いました。まず、味方同士で3回ボールを回すこと。これがなかなか身につかずに苦労しました。ほかにも、アタックは飛んではいけないし、サーブも必ずアンダーサーブを入れなければなりません。

面倒だなぁと思いますが、ルールがある以上、ルールを守らなければ試合を進めることはできませんし、ルールを守らないのであれば勝ち残ることはできません。これは当然のことです。ルールは初めから示されているのですから、「わたしたちは独自のルールで試合をします」と言っても通用しないわけです。

どんなことにも、ルールがあると言ってよいでしょう。そのルールが納得できるかどうかは別ですが、ルールを受け入れられなければ、その中に入れない、とどまっていることができません。実は、今週の福音朗読は、この「ルール」について考えると、学びが得られるのではないかと思っています。もっと言うと、「神の国のルール」についてです。

金持ちと、ラザロの物語。この物語についてはかなりの人たちが、話の内容を知っているだろうと思います。ラザロは死んで、神の国の宴席に招き入れられますが、金持ちは陰府でさいなまれながら苦しんでいます。先ほどの「ルール」ということを当てはめると、金持ちは神の国のルールに当てはまる生活をしなかったので、宴席に入ることができませんでしたが、できものだらけの貧しい人ラザロは、神の目から見て、神の国のルールに当てはまる人でした。

まず、ラザロが神の国のルールに当てはまっていたこと。この点から確認してみましょう。ラザロが、何かふさわしい善行をしていたから神の国のルールに当てはまったのではありません。彼は貧しい人で、誰からも報いを得ることなく地上で生きていたのです。

ただし、神の国には次のようなルールがあります。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(6・20)ラザロのように誰にも報いを得ることのできなかった人たちは、神が報いを与えるために神の国の宴席に招いてくださいます。神がそのようなお方だからです。神が探し求める人々の中に、ラザロは生きていたと言えるでしょう。

ところで、金持ちは神の国のルールに著しく外れていたのでしょうか。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。」(6・24)やはり、神の国のルールに外れていたのでしょう。富そのものは不幸でも不正でもありませんが、金持ちが神の国のルールに当てはまる人になるためには、富とまったく縁のない人、たとえば今日のラザロのような人とその富を使って友達になる必要があったのです。次のように書かれています。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(16・9)

今週の福音朗読では、ラザロは金持ちの門前に横たわっていたとあります。ここで言う「門」は、外の世界と自分たちの世界を出入りする場所のはずでした。門を出入りして、神の国のルールに当てはまる人になるために、積極的に与えられた富を外の人々に対して使う必要があったのです。

説教の初めにも言いましたように、ルールがあるからにはルールにのっとって行動する必要があります。神の国にもルールがあります。神は、弱い立場の人、しいたげられている人、圧迫されている人に手を差し伸べるお方です。神が助けなければいけない人と、神の考えに賛成できる人は、神の国の宴席に招かれます。反対に、神の考えに納得できない人は、神の国のルールを受け入れられないのですから、退場させられても仕方がありません。

ではわたしたちは、神の国のルールに当てはまる生活を心がけているでしょうか。「生きている間に悪いものをもらっている人々」を見て、手を差し伸べているでしょうか。門を行き来して、わたしの協力を必要としている人に近寄っているでしょうか。

もしかしたら、わたしの生活の中に厳重な門があって、わたしの手を必要としている人を締め出し、決して外にも出て行かないというような態度を、門を理由にとり続けてはいないでしょうか。もしそうだとしたら、神の国のルールを受け入れられないのですから、神の国の宴席に連なることはできなくなります。わたしたちは、そのような最悪の結果だけは避けなければなりません。

「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」(16・19)「いつも」、そして「毎日」取るべき態度は別にあります。「いつも」門を出入りして外の様子に気を配ることがはるかに大切です。「毎日」わたしの協力を必要としている人は誰だろうかと考えることがはるかに大事です。

たとえば、「貧しい人々は、幸いである」「今飢えている人々は、幸いである」「今泣いている人々は、さいわいである」などのイエスの言葉から、神の国のルールを学びましょう。ルールがあれば、そのルールから外れた行動は認められません。また、ルールから外れている人々がいれば、「神の国のルールはこうではないでしょうか」とうながして、神の国のルールに従った生活を皆が意識するように働きかけましょう。

ルールに従って行動するとき、わたしたちは喜び、笑い、楽しむことができるというものです。

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ちょっとひとやすみ
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▼次の「ほしかげ」(教区報のコラムのようなもの)に関連することをふと思いついた。9月23日に司祭叙階50周年の金祝を迎えた2人の司祭を祝うミサがささげられた。なんと、1つの小教区から2人も、叙階50周年の司祭を輩出しているのである。
▼ちなみに、わたしは同期が3人いるが、いずれも別々の小教区出身である。わたしと同じ教会から修道会に1人いたが、その同級生は司祭になっていないので夢は叶わなかった。そう考えると、非常にまれなケースと言えると思う。
▼この2人の金祝の司祭を見てすぐに感じるのは、今も若々しいということだ。年齢は確かに重ねているが、「年寄りとして大事に扱って欲しい」という様子は微塵も見られない。むしろ、「これからも使ってくれよな」という積極性が溢れている。だから2人は老け込んでいないのだろう。
▼そこでわたしは声を大にして言いたい。年を重ねていく司祭を、隠居させて閉じ込めないで欲しい。できれば、教区の仕組みを抜本から変えて、若い司祭の下で協力司祭として共同生活をさせて欲しい。いろいろ、ご迷惑をかける部分もあるかもしれないが、若い司祭と話し合って、一つ屋根の下で働かせて欲しいのである。
▼若い司祭は、年配司祭の知恵を借りたいだろう。年配司祭は、年を重ねてから最前線に立つのはつらいだろう。そこで、若い司祭と協力し合って、年配司祭が引っ込まなくても済むような仕組みを作り上げて欲しいのである。
▼具体的な構想は持っていない。ただ、少なくともわたしは、引退する年齢になったら、若い主任司祭の下で働かせてもらうことを希望する。どこかの6階に入り、静かに余生を暮らすなど、頼まれても御免だ。

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新企画今週の1枚
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第102回目。こんな年配司祭になりたいものです。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100926.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日
(ルカ17:5-10)
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年間第25主日(ルカ16:1-13)敬老者は、神のぶどう園で現役です

2010-09-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/09/19(No.494)
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年間第25主日
(ルカ16:1-13)
敬老者は、神のぶどう園で現役です
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今日は、敬老者のためにお話をさせていただきます。この浜串小教区で敬老者とは、75歳以上の方々です。他の人のことじゃありませんよ。皆さんの話です。そして中田神父は、敬老者の方に教会でゆっくりしてくださいとは言いません。教会は敬老者の方にとって社会よりももっと活躍できる場所です。今日の話をよく聞いて、できることを教会家族のために取り入れて生きていってください。

今日の福音朗読は、管理人をやめさせられた人が、賢い振る舞いで運命を切り開いていくたとえ話が紹介されています。イエスはこのたとえを通して、その人その人の知恵を発揮して、自分の居場所を確保するように促しています。

主人に雇われていた管理人は、だれかの告げ口があったために、管理人の仕事を取り上げられてしまいました。今日、敬老の日の呼びかけにこたえて、ミサにあずかっておられる皆さん、他人事と思わずにしっかり話を聞いてください。たとえ話の人は、仕事を取り上げられてしまいました。

また、この仕事を取り上げられそうになっている管理人は、こう話しています。「土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。」(16・3)あらためて仕事を探すのも難しいし、なりふり構わない生活もできない立場になっているのです。敬老者の皆さんにとっては、他人事とは思えないのではないでしょうか。

そこでたとえ話の管理人は、一つのことを思いつきます。管理の仕事をやめさせられても、周りの人々に迎え入れられるように準備をしたのです。それは、「わたしの主人にいくら借りがあるのか」と尋ねて回ることでした。「あなたは、いくら借りがあるのか。」そうして主人に仮のある人に恩を売って、主人にも収穫が入るように計らったのでした。

わたしは、ここに敬老者の皆さんが心がけてほしい姿があると思っています。たとえ話の管理人は、管理人の仕事を取り上げられそうになっています。普通であれば、仕事を取り上げようとしている自分の主人に、最後のご奉公をする理由はないかもしれません。

けれどもこの管理人は、「あなたは、主人にいくら借りがあるのか」と尋ねて回ったのです。わたしは、この姿には、神さまのために最後のご奉公をする素晴らしいお手本が示されていると思うのです。敬老者の皆さんが最後のご奉公として期待されているのは、「あなたは、神さまにいくら借りがあるのか」と、尋ねて回ることだと思います。

わたしは、教会の中では、すべての人が神さまに呼ばれた働き人だと思っています。教会というぶどう園の中で、どんなにわずかな働きであっても、神さまが報いを用意しておられる働き人だと思うのです。それは、今日お祝いを受ける敬老者もです。

もちろん、敬老者の皆さんは、高い所に登ったり、重たい物を持ち上げたり、夜遅くなるまでの仕事はできないかもしれません。けれども、教会家族の中にだれか神さまに対して貸し借りのある人があって、「あなたは、神さまにいくら借りがあるのか」と尋ねて回ることは、できると思うのです。

中には、たとえ話に出てくるような、大きな借りが神さまに対してある人もいるかもしれません。その時こそ、敬老者の皆さんの出番です。百の借りがある人を五十と書き直させて、主任司祭のもとに行かせるのです。できれば、敬老者の方が付き添いできてくださるのが一番効果的です。

そうすると、主任司祭はまだ小教区の事情を知りませんから、敬老者の皆さんがこの人の神さまに対する借りは百じゃなくて五十ですと言えば、間違いなく信じます。主任司祭は子供と敬老者のお願いには弱いんですよ。

そうして、神さまに百の借りのある人を五十と書き直しさせて連れて来れば、敬老者の皆さんは連れて来た人にも、神さまに対しても、相当恩を売ることになります。土を掘る力がなくても、なりふり構わず物乞いをしなくても、大きな働きを神さまのために果たして、神さまの前での居場所を確実にすることができます。

遠慮は何もいりません。「あなたは、神さまにいくら借りがあるのか。」気になる人を思い出したら、そう尋ねてください。そして、連れて来てください。百の借りがあっても、敬老者の皆さんが「この人の神さまに対する借りは五十です。」と言ってくだされば、わたしはそれを真に受けます。

どうぞ、神さまに、「あなたは賢い働き方をするね」とほめてもらえる敬老者であってください。これからも、そして命のある限り、神さまと若い人々をつなぐ管理人の働きをしてください。「あなたは、神さまにいくら借りがあるのか。」なかなか、若者には言えないこの言葉を活かして、神さまにほめられる人生をまっとうしていただきたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼9月13日に、「まちづくり」を専門に研究している先生と偶然食事の機会に恵まれた。わたしが招待されたのは、おそらく「広報委員会」ということがあるのだと思うが、それにしても話は相当面白い話で聞きごたえがあった。
▼名前も知らず、面識もなかったのだが、長崎県西海市の「旧長崎オランダ村」また「長崎バイオパーク」、さらに「ハウステンボス」などの設計にかかわった人で、話が全く飽きさせない。こんなに楽しい人の話なら、どこでも引っ張りだこだろうなと思った。
▼この先生は、連れて来た人たちに請われて新上五島町の「まちづくり」に力になりたいと立ち上がってくださった。もちろん1人の力で何かをしようというのではなくて、町民をうまく動かして、本当に住みたくなる町、ずっととどまることのできる町になるように、アイディアや提案を考えるために来てくださっている。
▼ぜひ、故郷でもあるし、この企画が成功してほしいと願う。だれでも自分の故郷は大切に思っているが、故郷を離れなければ暮らしが成り立たない人もいる。故郷に生まれた人が、故郷で生き続けることができる。これがあるべき姿だと思う。
▼教会サイドから、ちょっとした提案を求められたが、わたしの意見はあまり説得力がなかったかもしれない。けれども14日にも別の司祭と懇親会を持っているので、もしかしたらそちらの方で何かヒントが得られたかもしれない。誇れる町になることを願っている。

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新企画今週の1枚
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第101回目。敬老会に出席。太鼓たたいて、園児が敬老者に元気のプレゼント。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100919.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(ルカ16:19-31)
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年間第24主日(ルカ15:1-32)一緒に喜ぶことを学ぶ

2010-09-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/09/12(No.493)
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年間第24主日
(ルカ15:1-32)
一緒に喜ぶことを学ぶ
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今週は、有名な「放蕩息子のたとえ」を含む3つの「あわれみのたとえ」が福音朗読に選ばれています。その中で今年の説教の材料として、「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」を取り上げてみたいと思います。

本日、浜串教会では永久礼拝の当番となっています。信徒の皆さんは永久礼拝まであって大変だなぁと思っていることでしょう。けれどもわたしは、午前中永久礼拝を済ませて、昼からは上五島地区のシスターたち全員を対象にしたミニ黙想会を指導することになっています。

そうなると、今話しているこの説教と、永久礼拝での短い話と、シスターたちへの45分の講話と、3つをこなさなければなりません。そのことを考えれば、皆さんはまだ、永久礼拝で終わりなのですから、ましなほうだと思ってください。もしかしたらシスターたちが、1日に3回もわたしの話を聞かされて、いちばんの犠牲者かもしれません。

今年取り上げようと考えた2つのたとえの中で、特に目立っている言葉は、「一緒に」という言葉です。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(15・2)とイエスに不平を言う場面、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」(15・6)と言っている場面、「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」(15・9)と言っている場面です。

どの場面も、喜びを分け合う場面です。イエスは、徴税人や罪人と神の国について語り合い、喜びを分け合います。いなくなった羊を見つけた人も、大きな喜びを友達や近所の人々と分け合います。銀貨を見つけ出した女性も、友達や近所の女性を呼び集めて喜び合うのです。

大事なのは、一緒に喜び合うことです。もしわたしが、「喜んでください」と言っている人の気持ちを喜べないなら、大きな喜びに加わることができません。神の国の喜びを知るためには、どうしても、「悔い改める一人の罪人を喜ぶ気持ち」が必要となるのです。

ところで、たとえにされている話を思い出すと、そんなに大げさに喜ぶことだろうかと疑問を感じる人もいるでしょう。百匹の中の一匹ですから。あるいは、家の中で銀貨が一枚行方不明になったに過ぎないのですから。そんなに驚くことだろうかと思うのも無理はありません。

けれども、1人の人の回心や、神の家族に加わる出来事などは、たった1人でもかけがえのない1人なのではないでしょうか。たとえば、わたしたちの教会で大人の洗礼が1人与えられたとしましょう。それは、50分の1の出来事かもしれないし、100分の1の出来事かもしれません。

それでも、わたしたちの教会を喜びで満たすのには十分な出来事ではないでしょうか。その1人の人が教会家族に加えられることは、すでに教会家族である50人100人に十分刺激となる出来事のはずです。「誰それが、洗礼を受けたからって、それがどうしたの」こんな受け止め方をする人はまずいないと思いますが、もしいるとしたら、一緒に喜ぶことを学ぶ必要があると思います。

そこで、わたしたちもイエスのたとえ話をもっと身近に感じる努力をしてみましょう。わたしたちはほとんどがカトリック信者という集落の中に生きていますが、それでも、1人の人が教会家族に加わるとか、1組のカップルが結婚するという場面は残されているはずです。そこでまず思い浮かぶのは、「あー、あの人は事情があるから、教会に近づくことはまずない」こんなことかもしれません。

けれども、その1人を「無理」と決めてしまうのではなく、大きな喜びを一緒に分け合う1人と考えるなら、努力のし甲斐があるのではないでしょうか。たとえ話では、羊も、無くした銀貨も、自分からはこちらにやって来ることはありません。探しに行って、見つかるまで探さないと、喜びの輪に加わることはできないのです。

一緒に喜ぶために、その1人のために、どれだけ苦労しなければならないことでしょう。けれども、イエスはその苦労を厭わないようにと促しているのです。一緒に喜びを分け合うため、大きな喜びを味わうためにです。

「今集まっている人だけで続けていけばよいではないか。」そう考える人もいるかもしれません。けれども、もっと大きな喜びを分け合うためには、あと1人に、声をかけ、促す必要があると思います。今のままでも結構ですが、イエスがあと1人、あと1人と一緒に喜び合う人を探して行ったのですから、わたしたちも目をそむけてはいけないと思います。

ファリサイ派の人々や律法学者たちは、一緒に喜ぶことを学びませんでした。イエスが示す「大きな喜び」の中に入ることができなかったのです。「あんな人と歩調を合わせたくない。」自分よりも低く思っている人々の中にイエスは入って行き、喜びを分け合います。

あとはわたしたちが、イエスのなさりかたに賛成して、「喜んでください」と言っておられるイエスと共に喜ぶことができるかどうかです。わたしたちはファリサイ派の人々や律法学者たちの過ちを繰り返さず、イエスの中に行動の基本を見続けるようにしましょう。イエスについていけなくなった時、わたしたちは一緒に喜び合う輪から、外れてしまうのですから。


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ちょっとひとやすみ
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▼先週は台風でずいぶん振り回された。火曜日の夕方に出発する予定で仕事を入れていたが、火曜日は丸一日台風の影響で船が欠航になり、仕方なく水曜日に日帰りをする羽目になった。日帰りでも可能な仕事ではあるが、実際には帰って来てからぐったりと疲れてしまい、あとの予定を何もこなすことができなかった。
▼水曜日の予定はマリア文庫。これまでも何度か紹介をしたかもしれないが、マリア文庫の代表に来年4月納まることになっていて、まぁその挨拶をしているような仕事内容だった。
▼午前中は市立図書館で音訳者(録音でさまざまな情報を提供する人)養成講座の見学と、1時間の講話。昼食をはさんで、マリア文庫の代表者会議。午後3時半まで出席して、4時半の船で日帰り。
▼無事に予定を終えてきたが、折り返し船で五島に帰りつくと、心も体もへとへとになっていた。40代を過ぎたら、五島と長崎間、または五島と佐世保間を船で日帰りするものではないと、つくづく思った。
▼時間は無限にはない。必ず、1日は24時間で、1週間は7日しかない。よくよくそのことを考えさせられた1週間だった。

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新企画今週の1枚
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第100回目。この記念すべき号を飾るにふさわしい、にぎやかな面々です。
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‥次の説教は‥‥
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年間第23主日(ルカ14:25-33)神のために放棄し、与え返してもらう

2010-09-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/09/05(No.492)
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年間第23主日
(ルカ14:25-33)
神のために放棄し、与え返してもらう
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ついこの前、スチールの本棚を大量に買い込みまして、あるだけの本を広げてみました。4月にこちらに来てから9月まで、まったくと言っていいほど本を開けずに過ごしていたのですが、ようやく開いてみる気になったわけです。ざっと1週間ほどで開いてしまいましたので、早くに取り掛かればこんなことにはならなかったのにと思っております。

本を開いてみると、いくつかのことが見えてきました。まず、使いもしない本がずいぶん含まれていて、これについては処分しようと心に決めました。次に、開いただけでは本の山の中で迷子になってしまいますから、関連する本は近くに並べて、使える本棚にしなければならないということです。

そして最後に、「この本を、よく取っておいたなぁ」という種類のものが出てきたのです。本に限らず、資料とか、メモとか、そのたぐいのものです。そしてその中に、なぜか知りませんが、鯛ノ浦教会での地区集会に参加して熱心にメモをとったと思われる、父親の手書きのノートが見つかりました。

父親はわりと几帳面な人だったようで、地区集会の中で当時の主任神父さまが熱心に聖書の解説をしているのを、真剣にメモを取っている様子がうかがえました。考えすぎかもしれませんが、いつかは、わたしが地区集会で聖書の話をして、それを熱心に聞いてメモを取るというようなことを夢見ていたのかなぁと、貴重な手書きのメモを読みながら思いました。

今週、福音朗読は弟子の条件についてイエスが話しておられる部分です。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(14・26-27)

非常に厳しい要求ですが、イエスはこの要求を引き下げるつもりはないようです。わたしも、イエスの要求は非常に厳しいと感じますが、考えようによっては、これくらいの要求があっても不思議ではないと言えます。

おそらく、皆さんがいちばん引っかかっているのは、次の部分でしょう。「~であろうとも、これを憎まないならば、わたしの弟子ではありえない。」「憎む」という部分は、相当引っかかるだろうと思います。この部分をどう理解するかが、今週の福音朗読を理解する鍵でしょう。

わたしはこの「憎む」という態度を、「淡い期待を一切放棄する」というふうに考えてみました。だれかがイエスについて行くと決めた時、イエスに期待することとあわせて、家族にもいろんな期待をすることが考えられます。家族だから支えてくれるだろうとか、家族には甘えながらイエスについて行きたいとかです。

けれども、家族につい期待してしまいそうな部分を、「一切放棄する」これが、イエスの求める「憎む」ということかなぁと思いました。本来であれば、家族はどんなときにも味方になってくれる存在ですが、味方になってくれることを期待しながら、イエスについて行くのではどこまでも付いていくことはできないのです。イエスに最後までついていくためには、イエスのほかにだれも味方になってくれない。だから必死にイエスについて行く。その覚悟が必要なのです。

一方で、家族もイエスの弟子になろうとする者をおささげしなければなりません。家族としてとどまっていれば、大変心強い存在だったはずです。その頼もしい存在を、イエスのために手放します。イエスにささげてしまえば、それは自分たち家族のものではなくなるのです。

わたしも、ひょっこり出てきた父親の地区集会でのメモを通して、父親がわたしを神さまにささげて手放したのだということをしみじみ感じました。ただ、ささげて手放しましたが、神のために手放したものは、神によって返してもらうのではないかとも思います。

旧約聖書の中では、アブラハムが一人息子イサクを神さまの命令に従って手放しましたが、手放したことで神からイサクを返していただきました。わたしたちの中では、何よりもまず司祭・修道者になるために子供たちを手放すことが、この福音の勧めを考える近道だと思います。

一人息子とか、一人娘とか、いろんな形があるでしょうが、神さまのために手放す人は、神さまからその子を与え返してもらうのだと思います。手放したのですから、両親の思い通りにはいかないと思いますが、神の望む姿に造りかえられてもう一度取り戻すわけです。神さまにおささげして手放したものは、決して失うことがありません。

また、家族が神さまにささげて手放したその子供は、いつかイエスにまっすぐに従うために家族からの期待を一切放棄することになります。お母さんにかわいがってもらったことも、お父さんに大切にしてもらったことも、イエスにすべてを期待する生き方に切り替わる時が来ます。

けれども、家族からの淡い期待を一切放棄したその子は、イエスにまっすぐに従う中で、家族をイエスから与え返してもらうのではないでしょうか。わたしのほんの少しの体験ですが、父親がいよいよ最期を迎えようとしていた時、週に一度見舞いに行って、病室でミサをささげることができました。

年に一度か二度、家に帰ればよい方だったわたしが、父親との時間を頻繁に与えてもらうことができたのは、先に家族からの淡い期待を一切放棄した結果だったと思うのです。もしわたしにも家族があって、家族と家族付き合いしていたなら、むしろ父親との大切な時間は、与えてもらえなかったかもしれません。

弟子の条件として、司祭や修道者に少し焦点を当てて考えてみました。弟子になるために、家族から期待できることすべてを放棄します。それも、小学6年生とか、中学3年生で、おぼろげながらその覚悟を持つことになります。長い長い時間、イエスにまっすぐに従って家族をおささげしますが、弟子になれば、今度はイエスによって家族を与え返してもらうことになります。

家族も、イエスにまっすぐに従う子供を、寛大に神さまにおささげします。子供を手放しますが、神さまにささげた子供は、神さまに与え返してもらうのです。きっと、イエスのために他のすべての期待を放棄する人は、どのような形でイエスの弟子になるにせよ、いつかイエスを通して放棄したものを与え返してもらうのです。

この世の淡い期待を憎みつつ、イエスにまっすぐに従おうと自分の十字架を背負う人は、失うことを恐れません。イエスが与え返してくださるからです。


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ちょっとひとやすみ
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▼夏休みが終わった。十分、休ませてもらった。実家が近くなったわりには、実家に顔を出していないので、涼しくなってからでも顔を出そう。家に帰って何かをするわけでもないが、家に帰ればそこにいるというだけでも意味がある。両親のために買ったはずのマッサージチェアもだれも使わないので、使いに行くという理由もあるし。
▼9月になると、いろんなことが途端に始動する。教会学校、地区婦人会のミニバレー、司祭団のソフトボール大会、上五島地区修道女への静修(修養)、運動会に、締め切りを抱えた原稿などなど、考えていたらきりがない。新しくマリア文庫の出勤もあるし、いつも通りの教区報の仕事もある。とにかく、順に片付ける以外にない。
▼そんな中で、10月に予定している2人の知人との面会が楽しみだ。1人は、大学の先生、1人は、同級生で修道会の司祭。どちらも、遠い五島まで海を渡って会いに来てくれる。まぁ無理してでもおいでといったような気もするが、この2人に安心して面会するためにも、確実に仕事を消費しておきたい。
▼頭の仕事と、体を使う仕事。ミニバレー、ソフトボールなどの練習で体をいっぱいに使って、例えば今日の土曜日の朝。眠くて、この「ちょっとひとやすみ」を書いている間にもうとうと眠り込んでしまう。大丈夫だろうか。頭と体は、連動していると実感した。
▼説教でも触れたが、本を片っ端から開いてみた。開いてみて、頭の中に何が詰め込まれているかがよくわかった。かなり、偏った知識が詰め込まれている。整理して、もっと本の数を減らして、頭の中も軽くしておきたい。
▼上五島地区にあるこの小教区に来て、自分が学ぶべきことはほかにもたくさんあると感じた。学んで吸収するために、スペースを確保しなければならない。広めのスペースを確保していないと、物事はうまくはかどらない。机の上も、本棚も、頭の中も、心も。

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新企画今週の1枚
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第99回目。気が付いたらこんな回数まで写真を並べてきた。夏の一番の思い出。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/100905.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(ルカ15:1-32)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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