こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第4主日(マルコ1:21-28)人に何かをさせるには権威が必要です

2006-01-29 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/01/29(No.221)
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年間第4主日
(マルコ1:21-28)
人に何かをさせるには権威が必要です
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これは過去の経験なのですが、堅信組を受け持っていたときの保護者会の席での話です。ある人がその年の堅信組のお世話係になったのですが、お世話係になった人に信徒会長の方がこんなふうに声をかけました。

「堅信組のお世話係になって、大変だ、困ったどうしようと心配しないでください。お世話係は堅信組の保護者の中から選ばれて、これをお願いします、あれをお願いしますと他の保護者たちに仕事を割り振りするのが務めです。何もかも引き受ける係という意味ではありません」。

なるほどそう考えれば、係を引き受けるのは人を使うためであって、本来はその人が一人で責任をかぶるために引き受けるわけではないということが分かってきます。実際堅信組の保護者の中から選ばれたお世話係は、堅信式当日まで務めを果たし、必要な人を見つけてお願いをして、一つひとつ仕事を割り振っていきました。

ここで大切になってくることは二つです。一つは、お世話係には何かしらの権威が与えられていて、この権威を参加している皆が認める必要があるということです。もしもお世話係に与えられている権威を皆が認めるのでなければ、お世話係が仕事を依頼して割り振りしても、お願いされた人から断られてやる気が失せてしまいます。

もう一つの必要なことは、「わたしたちはあなたがお世話係になったので、大変でしょうから全面的に協力します」という気持ちを持つということです。これら二つの面、代表としてお世話する人の権威を認めてあげることと、代表のもとに集まる人たちが協力するということ。この二つがうまくかみ合って、活動は成り立っていくわけです。

そこで福音朗読ですが、今週の朗読は「権威」について明らかにしてくれます。イエスは安息日に会堂に入って教えます。会堂で教えを説く職業的な教師はこれまでもたくさんいたわけですが、イエスのやり方には「権威」がありました。汚れた霊さえも言うことを聴いたのです。イエスははっきり示してくださいました。教え、導くためには、皆が言うことを聴くだけの権威が必要なのです。それまでの律法学者たちには皆が言うことを聴くだけの権威が備わっていませんでしたが、イエスにはそれが備わっていたのです。

ところで権威は、その人が努力して身につけるようなものでしょうか。私は違うと思います。権威は、その人が何かの務めのために選ばれたとき、同時に与えてもらうもの、付与されるものだと思います。ですから、私は選ばれても権威がないからダメだとか、私は失敗ばかりするから権威がないとか、そういう心配はいらないと思います。権威は上から与えられるものなのです。

イエスは、父なる神から権威を与えられていました。人に対してだけでなく、汚れた霊に対しても、霊が言うことを聴くだけの権威が与えられていたのです。それと似たようなことが、教会活動の中にも言えると思います。教会のさまざまな活動を進めていくために長に選ばれた人には一定の権威が与えられるのです。小教区の中でその権威を与えるのは主任司祭です。主任司祭がそれぞれの活動の長に、権威を与えるのです。

権威と言っても、それは威張って回るための権威ではありません。そうではなくて、仕事を割り振りするために、お願いすることができるという権威です。そしてこの権威が成り立つためには、「長に選ばれた人から頼まれたら、嫌と言わない。協力する」という態度が必要です。この両方の態度がかみ合って、教会活動は進んでいくのです。

そこで私たちの小教区を考えてみると、残念ながら各部署の責任者がバッチリ決まっているわけではありません。はっきり言えば、典礼委員会すらも決まっていないというのが実情ではないでしょうか。

そこで、いよいよどうしても、小教区の活動に目で見てはっきり分かる委員会を立ち上げて、動いてもらう必要が出てきました。後ろに模造紙を貼りましたが、これはこれから一つずつ、委員会を立ち上げますという決意の表れです。そしてその委員会で長に選ばれた人は、責任を何もかも一人でかぶってしまう人ではなくて、人を選んでお願いすることができるようになります。そして、お願いされた人は協力をします。

念を押しておきますが、委員会がうまく回っていくため、また委員長に選ばれた人が務めをこなすためには、同時に皆が協力することが必要なのです。仕事の割り振りをするために委員長には権威が与えられ、お願いされた人は協力する。これからしっかりこの姿勢を守って、一つずつ委員会を立ち上げていきたいと思います。

まず真っ先に立ち上げなければいけないのは、典礼委員会です。この典礼委員会に与えられる権威は、全部ではありませんが、具体的な例を挙げると第一朗読・第二朗読をお願いしたり、パンとぶどう酒を後ろから運んでくる人を選んだりすることができます。お願いするためには権威が必要です。どうして自分がしなければいけないのか、と言われて断られたら、しょんぼりしてしまうからです。権威が成り立つためには、お願いされた人が協力すること。皆が協力してくれることが何より大切です。

委員会が立ち上がっても、何をすればよいのか分からないというのでは困りますので、各委員会ごとに勉強会も必要になってきます。これから立ち上げるすべての委員会を主任司祭が全部教育するとは限りませんが、各委員会ごとに勉強会の時間を持ちたいと思います。

さて、どうしても必要な委員会を立ち上げたら、委員会全体をまとめ上げる頭脳が必要になってきます。この頭脳が、「小教区評議会」です。主任司祭は、全体をまとめ上げるこの小教区評議会まで立ち上げて、ようやく両手両足が揃うことになります。ぜひここまでこぎ着けたいと思います。ちなみに、頭脳となる小教区評議会は、頭の固くなった方々よりも、柔らかい頭脳の方々が適しているかなあと思っています。

これから、困難な道が続くことになりますが、一つずつ、乗り越えていきましょう。去年まで見える形を持ってなかった委員会、小教区評議会を立ち上げて、何となく歩んでいた小教区から、目に見える形を付けて、前進していきましょう。

各委員会には、権威が必要です。そしてそれ以上に、権威を成り立たせるためには皆の協力が必要です。目で見てよく分かる歩みを、馬込小教区が続けていけるように、教え導くイエスの照らしを願うことにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼聖書を最低でも一日10章読めば、何日間でカトリック教会が認めている旧約聖書続編も含めて新旧の聖書を通読することができるだろうか?またそういった計算は、どのようにしてはじき出すのがいちばん正確なのだろうか?
▼単純素朴なこうじ神父の考えでは、「実際に実行すれば、何日で通読できるのか正確につかめるじゃん」という結論に至りまして、聖書の通読にはいることにしました。いつから入るのか、あるいはいつから入ったのかは教えません。聞きたくてたまらない人がうるさくかぎ回るので話せないのです。
▼なぜそんな決心に至ったのか。それは、「いのちのことば」というパンフレットに載っていた記事がきっかけでした。そこには、何と聖書の通読(おそらく旧約聖書続編を除いた66巻)を500回以上成し遂げた人からのアドバイスや、7日間で通読したという強者の体験談が載せられていたのです。
▼7日間で通読するとは、いったいどういったたぐいの人なのでしょうか?牧師先生でしょうか、一般信徒なのでしょうか。まあそれはさておき、実験を通して何日間で通読できるものなのか、読了したらご報告します。読み終えたら嬉しくて話さずにはいられないだろうけど。

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こうじ神父絵手紙
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第10回目。風邪を引いて、引きこもりになりそうです。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(マルコ1:29-39)
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年間第3主日(マルコ1:14-20)イエスは私にも悔い改めを促しています

2006-01-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/01/22(No.220)
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年間第3主日
(マルコ1:14-20)
イエスは私にも悔い改めを促しています
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先週までにバイクの教習に5回通いました。5回目までが最初の第一段階なのですが、この5回目は、第一段階から第二段階に進むことができるかどうかを見極める時間でもありました。ところがこの日の教習はまったくいいところがなくて、上り坂の途中でバイクを止めて、そこから発進するという課題を与えられたのですが、進むどころか後ろにずるずる下がってしまうのです。これには参りました。

何回やってもうまく坂を上れないものですから、しまいには先生が降りてきて私が乗っているバイクのハンドルにに手を掛けて、「アクセルでエンジンの回転を上げる、半クラッチにする、回転を落とさずに後輪のブレーキを離す。こうすればちゃんと上るんだ」とガミガミ言われました。

いやな予感がしたのですが、案の定その日の教習を終わったところで、「これでは第二段階に進めません。もう一度、今日の課題に取り組んでもらいます」と言われてしまいました。でもその先生は「車の坂道発進と変わりませんから、そのつもりで操作してください」と言っただけで、実演はしてくれなかったんです。坂道発進はこうするんだよと、実演をして欲しかったなあと思います。

なかなか学校に行けないからでしょうか、他の生徒さんがどんどん先に進んでいきます。本当は何も気にする必要はないのですが、同じ日に入校した一人の学生さんはその次に再会してみたらもう学校内をすいすいとバイクで乗り回していました。顔つきまですっかり変わって、「自分は第一段階を終了したんだ」という自信に満ちていました。

福音に移っていきましょう。イエスはガリラヤ湖のほとりで漁師に声をかけ、ご自分の弟子にします。「わたしについて来なさい」と声をかけられたシモンとその兄弟アンデレは、「すぐに網を捨てて従った」というのです。生活の糧を得ていた網をすぐに置いてイエスに従ったというのはにわかには信じがたいことですが、その時二人は、きっと顔つきががらっと変わったのではないかなと思います。

弟子たちは、イエスが直接声をかけ、そばに置いた人々でした。どうかすると私たちは、自分たちは弟子たちのように偉くはないからと、自分たちとは違う世界の話にしてしまうことがありますが、今日の福音をガリラヤで呼ばれた弟子たちだけの話で終わらせてしまうならば、今日の朗読箇所は私たちに何も実りをもたらしてくれません。おそらくそのような読み方で終わってしまう人は、一つのことを見落としているのだと思います。それは、今日の出来事はイエスがガリラヤで神の福音を宣べ伝えている中で起こったということです。

つまりこういうことです。イエスはガリラヤで、「弟子になりたい人はいませんか」と声をかけて回ったのではなくて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言いながら、途中で弟子を集めた、ということです。イエスは神の福音を宣べ伝え、その中の一つの活動として、十二人の弟子を集めたということなのです。

どこがどう違うのでしょうか?もしイエスが「弟子になりたい人はいませんか」と声をかけて回っていたとすれば、それは弟子として選ばれた人だけに関わりのある活動ということになります。ところが実際は、「悔い改めて福音を信じなさい」という招きはすべての人に向けられていて、そのうちのある人々には弟子になるように呼びかけたということなのです。

ではどう考えたらよいのでしょうか。こう考えると良いと思います。すなわち、「悔い改めて福音を信じなさい」という呼びかけに応える務めはすべての人にあるのであって、私たちも例外ではないということです。十二人の弟子として呼ばれることはすべての人に求められていませんが、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という招きに、それぞれ工夫して応えているか考える必要があるのです。

そこであらためて考えましょう。「神の国は近づいた」とはどういうことなのでしょう。ここが分からないと、「悔い改める」「福音を信じる」ということも始まりません。どういう言葉に置き換えたらよいでしょうか?

イエスの第一声としてマルコ福音書が記した「時は満ち、神の国は近づいた」とは、「イエスがおいでになって、すべての人に正義と平和がもたらされる時が満ちた」ということです。そうすると「悔い改めて福音を信じる」とは、「すべての人に正義と平和を行き渡らせるイエスを信じ、このイエスに希望を置いて生きる」ということになります。

私は、すべての人に正義と平和を行き渡らせるイエスを信じているでしょうか。どんなときにもイエスに希望を置いて生きていると言えるでしょうか。そもそも自分自身がイエスから求められている生き方に当てはまっているかをどのようにして確かめたらよいのでしょうか。

いちばん分かりやすい点は、生活の中で祈っているだろうかということです。それも、私のためだけではなく、誰かのために祈っているだろうか、ということです。そう言われて、自分は誰かのために祈ったことがないのではないかと考えている人が多いのではないでしょうか。

よく考えると、自分のためには祈っていたけれども、人のために祈ったことはなかった。もしそうでしたら、私たちは誰かのために今からお祈りしますというのではなく、誰かと出会う時、誰かのために何かお世話しなければならない時、そのついでとして、ちょっとした祈りを込めたほうがお手軽なのではないかと思います。

誰かのためと言いましたが、例えば家族のためでも良いでしょう。あなたが母親として、妻として、家族のために料理を作ったり洗濯したりしています。この食べ物を一緒にいただく時に、家族みながイエス様のために働く力を得ることができますようにとか、洗濯したこの洋服を着るたびに、家族がイエス様の喜ぶことをしますようにとか、祈りを込めてあげるということです。

もしも家族の中でけんかが絶えない、心配事もめ事が絶えないとしましょう。どうかイエス様、私の家族が食事を一緒にする時に、あなたの平和に満たされますようにとか、イエスの正義と平和が行き渡りますようにとその場その場で祈ることが、いちばん手っ取り早いのではないかと思います。

これまで、実践できてなかったとしたら、すぐに取り入れましょう。私たちがあえて他の人のために祈っているなら、イエスの正義と平和を行き渡らせようとしているのですから、確かに「悔い改めて福音を信じている人」です。忙しい毎日の中で人のために祈る時間を探すのは難しい。そこで思い切って、その人と出会うまさにその時に祈ってあげるようにしましょう。人のために祈ることで、私も神の国をこの世界に行き渡らせる協力者となりましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼やったことのないことはできるはずがない。坂道発進をやってみなさいと言われても、やっぱり無理。だから先生一度でいいからお手本を見せてからそれからはいどうぞと言って欲しいのよ。そうしないとできないままお金を払った授業時間を無駄にしちゃうわけ。ある意味、先生のおかげで授業時間が無駄になったんだからね。
▼やったことのないものは思い浮かばない。人のために祈ってあげたらどうですかと言いながら、自分がいかに人のために具体的な祈りをしてこなかったかがよく分かる。この原稿を書いているのが夜中の2時過ぎ、本来なら布団でぐっすり眠っているはずの時間まで説教が書けなかったのは、実際に祈ったことがないから原稿としてまとまらないのだ。
▼最近あらためて「親分はイエス様」という証しのビデオを観た。「主人は悪いことしてないと言っていますが絶対悪いことしています。だからイエス様、この洗濯物を着るたびに悪いことしたくなくなるようにしてください」「主人が今からコップの水を飲みます。イエス様!この水と一緒にあなたが主人の心を潤してください」熱烈な祈りによって変えられた人の体験に身震いがした。
▼「ミッション・バラバ、あの活動はちょっと・・・」という方もおられるだろうが、内容云々を論じる前に、彼らほど私たちは祈ったことがあるだろうかと真剣に反省させられる。闇の世界にいる主人をイエスの証し人にするために祈り明かして朝になった、涙ながらに祈って朝を迎えた経験が、私たちに何度あるというのだろうか?そう言いながら、もう眠いのでメルマガ配信が終わったら布団に潜ります。

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こうじ神父絵手紙
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第9回目。だから仁王立ちになってガミガミ言っても、分かんないんだって。

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‥次の説教は‥‥
年間第4主日
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年間第2主日(ヨハネ1:35-42)来なさい。そうすれば分かる

2006-01-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/01/15(No.219)
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年間第2主日
(ヨハネ1:35-42)
来なさい。そうすれば分かる
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最近自動二輪の免許を取るために自動車学校に通い始めました。簡単に言うとバイクの免許です。このバイクの免許は小型限定・普通・大型とあるのですが、そのうちの小型限定の免許を取ることにしました。小型限定を選んだ理由は、交通船に乗せることのできるバイクが小型限定のバイクしか積めないからです。今月いっぱい自動車学校に通いまして、晴れて免許を取得したら、バイクを新調して乗ってみようと思っております。

自動二輪の講習を受けてみて、学校に行かないと体験できないことがいろいろ分かってきました。私が講習を受けている小型のバイクですが、始めに先生が「自分が講習を受けるバイクを押して、コースの真ん中まで来てください」と指示をしたんですね。それで125ccのバイクを押して指示された場所に行こうとしたら、意外とこのバイクが重たかったのです。小型のバイクなのにそんな大げさなと思われるかも知れませんが、私が考えていたよりは重くてビックリしました。

また、講習を受けているバイクは車のようにギヤが付いています。1速から4速までギヤがあって、徐々に速度を上げていく仕組みになっていますが、その1速で、しかもアクセルを回さずに発進と停止の練習をするのが最初の講習でした。このいちばん遅い速度で構内をぐるぐる回るわけですが、私はこんなに遅くては倒れてしまうに違いないと思って、ずっと片足を地面に付けながら走らせていたのです。

すると担当の先生から「中田さん。足を地面に付けてはいけません。ちゃんと地面から離してください」と指示されました。無理無理、と思っていたのですが、膝をしっかり内側にしめておけば、実際は倒れないのだということも、乗ってみて、指示されてみて、初めて分かりました。これは面白そうだなと、次の講習が楽しみになったのでした。

今日の福音に入りましょう。洗礼者ヨハネの弟子であった二人の人が、ヨハネに促されてイエスのもとに行き、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねると、イエスが「来なさい。そうすれば分かる」と言われ、その日二人の弟子はイエスのもとに泊まったという様子が描かれています。このやりとりの中で「来なさい。そうすれば分かる」というイエスの言葉を、今週取り上げてみましょう。

洗礼者ヨハネは自分を慕って弟子入りした二人の弟子に、「あの方こそ神の子羊、あの方こそ付いていくべきお方だ」とイエスを示して二人の弟子を送り出しました。二人の弟子がイエスに「先生どこに泊まっておられるのですか」と尋ねたわけですが、これまでずっと私は、この二人はなんておかしな質問をするんだろうかと思っていたのです。

もっと気の利いた質問、たとえば「先生はどんなお考えの持ち主ですか」とか「将来の計画を教えてください」など、聞き方があるだろうにと思っていたのですが、今回あらためて考え直してみたとき、彼らが最初に尋ねたことは、もっともな質問だったんだなあということが、ようやく理解できました。

なぜ二人の弟子が「先生どこに泊まっておられるのですか」と尋ねたのか。それは、彼らはこれまで洗礼者ヨハネの弟子として、おそらく洗礼者ヨハネと生活を共にして、洗礼者ヨハネのもとに泊まったりしていたのではないでしょうか。そうであるならば、二人の弟子がイエスのもとに来たのは、イエスを新しい先生として認め、イエスのもとに泊まり、生活を共にしようという決意があったので、「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねたのでしょう。

彼らはイエスがどこに泊まっておられるかを見て、自分たちもこれから一緒に暮らして、イエスの弟子として歩いていこうと心に誓ったのだと思います。そう考えれば、「どこに泊まっておられるのですか」という質問は、「わたしたちはあなたの弟子になって、生活を共にしたい」という意味に取ることができます。これで二人の弟子の質問も納得できました。

「どこに泊まっておられるのですか」という二人の質問に、イエスは「来なさい。そうすれば分かる」とお答えになります。来て、一緒に泊まり、同じ時間を過ごせば、私が誰だか分かるはずだ。そんな呼びかけだったのではないでしょうか。

私は、イエス様が仰った「来なさい。そうすれば分かる」という言葉は、先週から通い始めた自動車学校の教習を受けながら思い出しました。自分が乗る予定のバイクのことを、始めはたいしたことはないと思っていました。けれども、実際に教習に入ってみると、小型のバイクなのに思ったよりも重たくて驚きました。先生からも、「甘く見ているとバイクもろとも飛ばされて病院送りになりますよ」と注意を受けました。

小さなことですが、免許を取りに行ってみると教習を受けるバイクの重さや、油断するとケガをすることや、あんなに重たいものでも指示通りに走れば倒れないということなど、教習を受けて初めて分かることがいろいろありました。この体験が、イエス様が二人の弟子に呼びかけた「来なさい。そうすれば分かる」という言葉を思い出させたのです。自分が今体験しているその場で、聖書の言葉が思い浮かぶ。こんなに幸せなことはありません。

ところで皆さんもまた、今日のイエス様の言葉を生活の中で体験することになるでしょう。今から話すような場面に皆さんが立ち会うならば、きっと「来なさい。そうすれば分かる」と、イエス様の言葉を繰り返すに違いありません。いったいそれは、どういう場面・どういった場所でしょうか。

次のような事情の人を、皆さんはご存じないでしょうか。教会にしばらくご無沙汰している人で、理由がはっきりしている人です。教会内での人間関係で失望し、教会に背をそむけてしまったとか、何かの計画を立てたが、そのやり方に納得がいかず、離れてしまったなど、理由がはっきりしている人です。

こうした人に出会って、教会の話になると、その人はいろんな事情を述べてもう教会に行きたくない、関わりたくないと仰るだろうと思います。皆さんはその時何と答えますか?そうだねぇ。それも仕方ないよねぇと答えるでしょうか。

私は、今だったら皆さんはイエス様の言葉を繰り返すことができるのではないかと思っています。つまり「来なさい。そうすれば分かる」ということです。教会と関わりたくないと仰っているその人が考えている雰囲気が、今も続いているかどうか、来てみれば分かります。人間関係に疲れて、もう教会で疲れたくないと仰っていた人も、今の教会でも同じように感じるのか、来てみればいいのになあと思います。来て、一度でもいいから日曜日のミサに参加すれば、何かを感じるに違いありません。

ただし、いろんな家庭の人や生活のただ中にある人々の細やかな事情を知っているのは皆さんお一人おひとりです。つまり、皆さんが「来なさい。そうすれば分かる」という言葉をかけてあげる大切な人材なのです。今来ないでいつ来るのですか、と言えば言い過ぎかも知れませんが、きっと、教会に疲れてしまった人も、今ならそんなことはないだろうと思っています。少なくとも、今ここにお集まりの皆さんは、教会にガマンしてガマンして座っている人は一人もいないのではないでしょうか。

もし、楽しくてたまらないとまでは行かなくとも、教会で疲れることはないよと自分で分かっているのでしたら、教会に嫌気がさしたり、教会のせいで疲れたという人に、皆さんお一人おひとりは出番が来ていることになります。今こそ、その疲れている人に声を掛けるときです。「来なさい。そうすれば分かる」。

どうぞ、イエス様のいる場所に、教会に疲れて日曜日の礼拝を投げ出している人を呼び戻してください。イエス様の言葉「来なさい。そうすれば分かる」とのみことばを、あなたのそばにいる人にかけてあげてください。あなたが日曜日に教会に行って少しでも力を得て帰っているのでしたら、教会に行って疲れることなんてないよと声をかけて欲しいのです。

イエスに従った二人のうちの一人アンデレは、兄弟シモン・ペトロを誘いました。わたしたちも、先ずは兄弟姉妹といった身近な人に、「来なさい。そうすれば分かる」という声をかけてあげましょう。声をかけることに及び腰だった人も、これまでの自分を今年は一つ乗り越えていくことにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼実際の自動二輪研修が始まった。バイクは100kg以上ありそうで、押して八の字をかいてくださいと言われて回り終えたときには疲れてしまった。あと10回くらいは教習があるようだ。送迎バスに乗せてもらって大波止のバス停留所近くで降ろしてもらう。すると足下に100円が落ちていて拾った。ここからがこの日の運の始まり。
▼夕方4時に生まれて初めてとある会社に苦情のメールを入れた。修理に商品を預けたところ2ヶ月経っても何の連絡もない。そこで「修理はいらないから返してくれ」とメールを入れたところ、電話が5時にかかってきた。「申し訳ありません。商品が宅配の手違いで業者に止まっておりました。これからわたくしどものところに届けさせ、それからの修理になります」。
▼「時間はかかっても構いません。どうなっているか心配していました」「申し訳ございません。2ヶ月も経過してしまいまして、お客様に修理代をお願いすることはとんでもないことですので、わたくしどもで処理させていただきます」「そうですか。ではお願いします」「ご心配をおかけいたしました。これからもよろしくお願いいたします」
▼これからもどうよろしいのか分からないが、100円拾ったあげくに修理代までタダになって、今年は交渉ごとがうまく行く年かも知れない。見落としているものをよく見ることで何かを拾うかも知れない。あるいは、まるまる相手持ちで、何かの事業の恩恵を受けるのだろうか?バイクの教習はいいことずくめだ。

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こうじ神父絵手紙
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第8回目。最近乗ってみたけど、乗りこなせませんでした。くやしー!

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‥次の説教は‥‥
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主の公現(マタイ2:1-12)神に栄光を帰す「よーし」の心

2006-01-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
06/01/08(No.218)
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主の公現
(マタイ2:1-12)
神に栄光を帰す「よーし」の心
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先週お知らせしました通り、ふるさと新上五島町鯛ノ浦教会に里帰りしてきました。2泊3日、ほとんどこたつの留守番をしに行ったような休みでしたが、両親も元気でしたし、兄弟姉妹もそれぞれ元気でした。変わったことがあったと言えば、実家から教会までの距離が約1キロあるのですが、途中の国道で改良工事の手が加えられていまして、小学校時代お世話になった文具店は立ち退きをさせられて新しい場所に移っておりました。

また鯛ノ浦教会でのミサを主任神父様と一緒に捧げさせてもらいましたが、ミサに参加する方の顔ぶれが少しずつ変わっていまして、平日に来る子どもたちはどうやら中田神父の名前も知らなそうにしておりました。もはや郷里の顔とは言えなくなってきているのだなあと実感した次第です。

今週の「主の公現の祭日」ですが、御降誕のミサの時に約束した通り、「降誕祭のミサと御公現のミサとは密接な関係がある」ということから入りたいと思っているのですが、主の降誕日中のミサの聖書と典礼に掲載されていた記事を参考にすればすぐにまとまると思っていたところ、実際にまとめようとしたら七転八倒しまして、どう説明してあげれば分かりやすく伝えることができるか、たいへん頭を悩ましました。今週ほど、人の書き物をまねするのに困難を感じたことはありません。

その七転八倒したあげく、これだけは伝えられるかなあと消化できた内容は、主の降誕も公現も「神の栄光の現れ・神の顕現を記念するものである」ということです。一方は誕生の出来事を通して神の栄光がこの世界に現れましたよと知らせますし、今日の典礼は幼子が東方からはるばるやってきた外国人にも礼拝されたことを通して神の栄光が世界中に示されましたと知らせる、どちらも神の栄光の現れを記念するという点で密接に関わっているということです。

ではどちらも神の栄光の現れを祝うのであれば形を変えて繰り返しているだけなのかと思われるかも知れません。あえて「主の公現」で強調されている点を取り上げるとすれば、「占星術の学者たちが東方からイエスを拝みに来た」という点にあると思います。つまり、「神の秘義が現れた→この神のみわざに対して→神に栄光を帰す(礼拝する)」という態度を強く打ち出しているわけです。

そこで今週の典礼が私たちに呼びかけていることをまとめると、「神の秘義は現れました。わたしたちは神のみわざに栄光を帰しましょう」ということになります。何だかたいへん難しく聞こえるかも知れませんので、皆さんが必ず体験したことのある例を当てはめて、「神のみわざに栄光を帰す」ということを今日覚えて帰りましょう。

皆さんが大波止ターミナルから船で伊王島・高島に帰ってくるとき、何か荷物を持っているとしましょう。船が桟橋に近づいたときに皆さんは自然と荷物を持つ手に力が入るのではないでしょうか。「さあ、これから船に乗るぞ」そういう気持ちになって、あらためて荷物を持ち直したりするのではないでしょうか。

私は、五島から帰ってくるときにそのことを意識しました。実は五島からの帰り、高速船を当てにしていたのですが海上がしけていたために欠航となり、仕方なくフェリーに変更して帰ってきました。高速船であればとっくに長崎に到着している時間、まだフェリーは港に入港していませんで、長く待ったあげくにようやくフェリーが姿を現しました。その時私は、「あー、これでようやく帰れるなあ。よーし」とはっきり意識して荷物を抱えたのです。

普通に考えれば、フェリーはいつもどおりに運行していることは分かっているわけですから、何も「よーし」なんて考える必要はないはずです。けれども、フェリーが現れた、姿を見せたときに無意識のうちに「よーし」と思ったのです。そのことに意識的に気が付いたのです。

皆さんもきっとそうでしょう。コバルトクイーン号が姿を現したときに、たとえ荷物を持っていなくても、心の中で「よーし」と思って握りこぶしを握っているのではないでしょうか。船が来るかどうか分からないというわけでもないのに、船の姿が見えると無意識に心の手綱を締める。そういう経験をしているはずです。

実はこの経験が、「神のみわざに栄光を帰すことのはじまり」なのです。東方から来た占星術の学者たちが宝の箱を開けて黄金・乳香・没薬を贈り物として捧げましたが、彼らもまた荷物を持ってやってきた人々であり、ようやく幼子を見つけたその時に、心の中で「よーし、やっとここまでこぎ着けた」と、その手に力が入ったのではないかと思います。いよいよその時が近づいて、学者たちも心の中で「よーし」と思ったのです。

私が、交通船がいよいよ近づいたときに心の中で「よーし」と思うならば、その体験をそのまま日曜日のミサに当てはめてください。日曜日に目覚めた。ミサの始まる時間がいよいよ近づいた。「よーし行こう」これが私たちの神に栄光を帰す最初の一歩です。船が近づいて「よーし乗るぞ」と思った人が間違いなく船に乗るように、私たちが日曜日のミサの時間を前にしたとき「よーし」と思ったなら、それをそのまま行動に移して欲しいのです。そこから、神に栄光を帰す私たちの活動が始まるのです。

中には、事情があって教会まで来ることのできない人もいるでしょう。けれどもそんな方でも、ミサの時間を意識して「よーし」と思ったその場所で何かができるはずです。その場にいて心を合わせてお祈りするとか、お友達にその日の聖書と典礼をもらってきてその日の聖書を読む、または読んでもらうとか、あなたが「よーし」と思ったことを教会の中ではなくても果たすことができるはずです。それが、教会に来ることのできないその人にとっての「神に栄光を帰す」やり方になります。

東方からやってきた占星術の学者たち。星を見て、「よーし」と思いました。幼子を目の前にして、その気持ちはさらに強まりました。私たちも神さまがより身近に感じられるこのミサの時間に、「よーし」という気持ちを高めることにいたしましょう。そして、心の中で力を込めたその手を、賛美の祈り・礼拝の祈りのために使いましょう。神は私たちがご自分に栄光を帰すことを、今か今かと待っておられます。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼小型自動二輪の免許を取得するために、あ●ご自動車学校に入校した。ここで書いたこと以上のことはないので追って質問は受け付けないが(しつこいのがいるんだこれが・・・)、学校には高校生や大学生とおぼしき連中がうようよしていて、もうすぐ40歳の人間にはちょっと場違いな気がした。
▼それでも乗ってみたいと思っている125ccのヤマハのスクーターで女神大橋を渡ったりしたくて、寒い中視線を感じる中入校式に行ってきた。なぜ125ccなのかと言うと、伊王島までの交通船は、125ccまでしか積んでくれないからだ。
▼もう一つ小型免許を取りに行く理由がある。最近やたらとスーパーカブがパンクする。加えて冬の暴風にさらされると簡単にこけてしまって、ミラーが割れたりご近所に迷惑を掛けたりでいらいらが募っていた。そういう事情もある。
▼いろいろ調べてみると、125cc以下は継続車検が不要などメンテナンスで有利らしい。100ccでは何となく頼りない気がするので、125ccをチョイスしようと思っている。どれくらい乗り回すかちょっと疑問だが、春に向けて楽しみが一つ増えた。

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こうじ神父絵手紙
‥‥‥†‥‥‥
第7回目。あ●ご自動車学校で転倒しまくります。トリプルアクセル?

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ1:35-42)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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神の母聖マリア(ルカ2:16-21)今年は2005年を乗り越えよう

2006-01-01 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/60101.asx

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週のお説教」
06/01/01(No.217)
‥‥‥†‥‥‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
今年は2005年を乗り越えよう
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皆さん新年明けましておめでとうございます。年賀状を中田神父のために準備してくださった方がいらっしゃるかも知れませんが、この場を借りてご挨拶に代えさせていただき、あらためて年賀状はお出しいたしませんので、ご理解願いたいと思います。

さて、教会は1月1日を神の母聖マリアの大祝日として祝っています。この大祝日には毎年同じ箇所が福音朗読として使われます。それは、羊飼いたちが出かけていってマリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てる場面です。

このあと羊飼いたちは幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせ、また神をあがめ、賛美しながら帰っていきます。マリアは、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(19節)とあります。私たちも、マリアの模範を通して、2006年の方向付けになる照らしをいただきたいと思います。

昨年2005年を振り返ると、成し遂げたこととやり残したことが思い浮かびます。司祭館の落成は決して忘れない出来事ですが、一度限りのことではなくて、これからずっと信徒の皆さんに恵みをもたらすことをあえて一つ取り上げたいと思います。それは、「伊勢エビ大漁祈願祭」です。馬込教会の信徒の暮らしに、神さまはそばにいて見守ってくださるということを、見える形で示すことができたと思っています。

ところで、やり残したことですが、昨年は故ヨハネパウロ2世によって「聖体の年」と定められていましたが、この聖体の年に、もう少し見える形で聖体への崇敬を表すべきだったと反省しています。そしてこの聖体の年に、まさに私たちにもできた聖体の行事が、佐世保地区で行われました。それは、ご聖体を漁船に迎えての「海上聖体行列」です。

この「海上聖体行列」は残念でした。何が残念だったか。それは、漁師の皆さんの協力を得てできた「大漁祈願祭」と、「海上聖体行列」は、そんなに縁遠いものではなかった、もう少し知恵を絞ればきっと実現できたということです。どうして同じ漁船にかかわることなのに、思い至らなかったかなあと思うと、今年こそは見ておれよと、そういう気持ちになります。

この「できた」「できなかった」のちょっとの差はどこで生まれるのでしょうか?私は、今日の福音でマリアによって示された「出来事をすべて心に納めて、思い巡らした」この態度にあるのではないかと思います。つまり、マリアの態度に徹底的に習うとき、神は前に進むための具体的な道筋を示してくださるということです。

運良く、「大漁祈願祭」は思い付きましたが、もっとよく考えれば、自分たちの生活に欠かせない道具でご聖体をたたえる「海上聖体行列」も、きっと思い浮かんだに違いないのです。マリアに習い、心の中で深く思い巡らせば、聖体の年をさらに実りあるものにすることができたのにと思います。もちろん、その思いは今年こそはという思いに今は切り替わっています。

一つのまとめとして、次のように言い表してみたいと思います。今年、2006年の進み方は、「2005年を乗り越える」と言うことです。やってみたらできるということが、まだ残されているのです。じっくり暖めて、この程度のものだという思い込みを乗り越える一年にいたしましょう。

マリアは、じっくり思い巡らすとき、出来事の深い意味に気付かせてくれると教えてくれています。つまり、「心に納めて、思い巡らす」人は、ありきたりの意味を突き抜けて、もっと深い意味にたどり着くのです。手をつけなくてもよいという例外を設けずに、教会活動にかかわるすべてのことを心に納めて、思い巡らしてみましょう。きっと、思い切った方法や工夫に気付いて、活動に弾みがつくと思います。

なぜ、思い巡らす必要があるのでしょうか?マリアもまた、羊飼いのように急いで出かけていき、人々に知らせようとは思わなかったのでしょうか。羊飼いは外に出て知らせました。同じ出来事を目の前にして、マリアは心の深い場所にとどまったのです。この二つの態度は、まったく違う態度だったのでしょうか。

私は、マリアがすべてを心に納めて思い巡らしたというのは、実は羊飼いが出かけていって人々に出来事を知らせるのと変わらないくらい活動的な働きだと思っています。マリアは心の中で、いろんなことを思い巡らしたのです。例えば私たちの教会活動で言えば、なぜ私たちの活動はこのような仕方で進められているのだろうか、どうしてそうなったのだろうか、他のやり方はなかったのだろうか、他のやり方が一度も試されなかったとしたら、何が原因なのだろうか。

こうしたことを深く思い巡らして一つの答えにたどり着いたとすれば、その教会活動は大きく動き出すことでしょう。効果的な活動であればさらに確信を持ってこれからも続けることができますし、ある場合はこれまでのやり方をいったん横に置いて違ったやり方に思い切って梶を切ったりと、いずれにしても動き出すと思います。動かないことはよどみにつながっていきます。マリアのようにだれかが、例えばそれは主任司祭が、出来事をすべて心に納めて思い巡らし、出来事の深い意味を探し求めるとき、大きく動き出すことが可能なのです。

マリアは活動しない人ではありません。マリアの姿に倣って教会がそのときどきに起こる出来事を心に納めて思い巡らし、その深い意味を探り続けるとき、教会は大きく動き出すことになります。動かなかったものを動かすために、今年はマリアに倣って出来事を心に納め、思い巡らすことにいたしましょう。マリアの模範を仰ぎながら、今年2006年は2005年を乗り越える、その目標に向かって力を合わせて進みましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼説教を3時間で書き直した。事情は話さないが、「書いてみたいこと」を書くのではなくて、「結果として伝えたいことを書くことができればよいではないか」ということである。説教は目の前の信徒あっての務め。目の前の信徒がどう思うだろうかということも頭の一方になければならない。
▼別にご機嫌を取るということではない。言わなければならないことは言う。けれども、なりふり構わず言うと、結局は聞いてもらえない。言いたい放題言っても理解してもらえなければそれは一方通行になる。聞いてもらえるように言うことは、始めは不本意と感じるかも知れないが、「心に納めて、思い巡らす」中で昇華されていくものだ。
▼12月31日は、「年の晩」と言うらしい。20代の頃はその一年を振り返って思いつくことを12月のカレンダーの裏に書き付けて一年間大事にしまっておいたのだった。最近はとんとそんな約束事もしていないが、2006年は40歳に突入する年でもあるので、もう一度原点に返って何かを書き付けてみようかな。
▼自分は飽きっぽいのが欠点だと思うが、それでも27年間机にのっかっている鉛筆削りもあるし、13年前に司祭になったときに書いた決心のメモもまだ残っている。そういう意味では律儀な面もあるわけで、何か一つでも二つでも、長続きするものを持ちたいと思っている。今大切にしたいものが一つあって、もうすぐすると一年になる。長く保ちたい。

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こうじ神父絵手紙
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第6回目。来年のクリスマスにこんな飾り付けをしようと思います。内緒。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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