こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

神の母聖マリア(ルカ2:16-21)見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだった

2015-12-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/01/01(No.805)
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神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだった
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みなさん新年あけましておめでとうございます。神の母聖マリアの守るべき大祝日です。日本の多くの人が新年をどこか祈りの場所に詣でて出発しています。わたしたちは真っ先に教会に来て、新しい年が祝福に満ちた年であるように祈ります。特に、神の母聖マリアの取次ぎを願いたいと思います。

わたしが出した年賀状には、「桃栗三年浜串六年。本年もよろしくお願いいたします」と書きました。小教区の皆さんにはこのミサであいさつしますので特にはお出ししませんが、もう6年も経過したのだなぁと思います。司祭は6年経つと何が起こっても不思議ではありませんので、置かれた場所で咲くように精いっぱい努力したいと思います。

2015年わたしが思い出すのは3月17日の「信徒発見150周年」に向けて積み重ねてきた教区シノドスが「父の家に帰ろう、そして出かけよう」という提言案にまとめられ、公布されるという恵みがありました。そして12月8日には「いつくしみの特別聖年」も開かれるという年でした。また小教区でもみなさまのたくさんの支えによって、何とか務めてまいりました。2016年、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ところでミサの説教は、時に難しいと思うことがあります。いちばん難しいのは、同じテーマで違う説教を用意することです。神の母聖マリアの大祝日を始め、主の降誕、御復活などは同じテーマです。たいていの福音朗読は、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書を順に使用するので全く同じテーマにはなりません。

神の母聖マリアの大祝日は違います。テーマが同じですから、わたしは23年同じテーマと向き合って違う説教を考えているわけです。これはなかなか大変なことです。一字一句違えずに同じことを話しても気付かれないかもしれません。それでいいじゃないですかと思うかもしれませんが、同じ話を毎年話してくださいとみなさんが言われたらきっと辛いと感じることでしょう。わたしも同じことです。そういう苦労を味わいながらの元旦の説教であります。

神の母聖マリアの大祝日にあたり、まず羊飼いたちの思いに分け入りたいと思います。羊飼いたちが見聞きしたこと、それは主の降誕夜半の福音朗読にある通りです。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(2・12)今日の福音朗読にも同じことが書かれています。

もしかしたら、羊飼いたちは天使の言っていることを文字通りには受け取っていなかったかもしれません。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(2・11)このメッセージは良いとしても、あとに続く言葉に羊飼いたちは顔を見合せたのではないでしょうか。「救い主」が、「主メシア」と呼ばれる方が、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ているだろうか。半信半疑でいたとしても不思議ではありません。

羊飼いたちは「急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」(2・16)羊飼いたちは、すべて天使の話したとおりの光景を見ました。羊飼いたちが半信半疑でいたとすれば、目の前の光景は最初の疑念を吹き飛ばすのに十分だったでしょう。見事に、貧しくみすぼらしい光景。救い主が、主メシアが、布にくるまって飼い葉桶に寝ていたのです。

ではなぜ羊飼いたちは、「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(2・20)のでしょうか。そこにはマリアとヨセフが大きく関係していると思います。

マリアとヨセフが、わが子を喜んで抱いていた。たとえ布切れにくるんで飼い葉桶に寝かせなければならなかったとしても、そこに神の計画を汲み取ろうとし、使命に忠実に従い、約束された救い主を迎えることができて本当に喜んでいる。この姿が、羊飼いたちにとってすべてを納得させる決め手になったのではないでしょうか。

羊飼いたちは最初半信半疑だったかもしれませんが、ヨセフとマリアが少しの疑いもなく、目の前にいるわが子を約束された救い主として受け入れておられた。特にマリアは、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(2・19)のでした。これが羊飼いたちに勇気を与え、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせ、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったのです。

羊飼いたちはヨセフとマリアの少しも動じない姿を見て、目の前にいる乳飲み子が救い主、主メシアであると理解し、人々に告げ知らせる力を得たのでした。これはわたしたちが取り組むべきお手本だと思います。

わたしたちもこれから新たな年に向かって歩み始めます。カトリックの信仰に自信をもって生きるため、神がいつもわたしたちのそばにいて守り導いてくださることに自信をもって生きるために、神の母聖マリアの動じぬ姿を一人ひとりの心に写し取って帰りたいと思います。

わたしたちは神の手の中で生きていると証するために、誕生にまつわるすべてを包み隠さず示しておられる神の母聖マリアに信頼を寄せて今年一年を過ごしていきましょう。あわせて今年一年が平和な年であることを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。今年はなんと、50歳になる年です。3月12日です。年が明け、3月の誕生日はあれよあれよと言ううちにやってくるでしょう。20歳の時、50歳は印象として「おじいさん」でした。「おじさん」は40代まで。いよいよ「おじいさん」の領域へ突入です。
▼あと4年もするとメルマガは1000号に到達する。「気が早い」と思われるかもしれないが、1000号はもう目の前の出来事、現実味を帯びてきたと思っている。それはメルマガ配信準備の型紙と、説教案を準備するMS-Wordのファイルを1000号ちょっとまで用意したことによるものだ。
▼1000号の配信予定日は、2019年4月28日になる。目印になる祝日は神のいつくしみの主日。目を皿のようにして連番に間違いがないか調べて、あくまでも現時点で番号を振り続けた結果だ。計算違いがあったり、臨時で特別号を出すかもしれない。
▼さて問題は、そのときどこにいるか、ということだ。その2年前、2017年には司祭叙階25年、銀祝を迎える。このこととも関係するが、どこにいるかは結構大きな問題だと思う。1000号については予想が立っても、2017年と2019年にどこにいるかは誰も知らない。ささやかでもお祝いできる場所にいたいと願うばかりである。
▼2015年は食事のお世話をしてくださるシスターが居ない年で、自炊には苦労させられた。最初はどの料理も作りすぎて無駄にしてしまった。肉じゃがを作るときにジャガイモを4個使い、できたのはいいが最後には見るのも嫌になり、食べなかったことも。お一人さまの肉じゃがにはジャガイモ2個で十分である。
▼野菜を食べるために、「水炊きもどき」も何度か作った。これも最初は作りすぎた。2リットルの水を鍋に用意していた。当然最後は食べるのも嫌になる。お一人さまの鍋に入れる水は、1リットル。それでも多いかもしれない。分量が分かってきて、水炊きそのままで食べるのがつらくなると、最後は味噌を入れて味噌汁にして食べたっけ。
▼自炊も悪くはない。しかし衛生面も問題だし、バランスの問題もある。やはり食事はサポートしてもらうのが一番だと思う。2016年はどうなっているだろうか。

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新企画今週の1枚
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第412回目。新上五島町は成人式を1月3日にする。教会は元日にする予定だが。

ホームページもご覧ください。
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聖家族(ルカ2:41-52)わたしたちにとってのエルサレムへの道

2015-12-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/12/27(No.804)
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聖家族
(ルカ2:41-52)
わたしたちにとってのエルサレムへの道
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聖家族の祝日、与えられた福音は神殿での少年イエスの物語です。両親と少年イエスがエルサレムへ旅をして、いったん両親がイエスを見失い、再会するまでに三日間を要しました。この「両親と離れていた三日間」について、思いを巡らせたいと思います。

子どもの成長には目を見張るものがあります。6年間子どもを見てきまして、小学3年生で侍者を始めた子にある時「だめじゃないか」と叱ったところ、しくしく泣いていたのが、今は立派な中学生です。

上五島地区の教会対抗ドッヂボール大会、ある年はブロックの準優勝の栄誉に輝きましたが、子どもたちが一戦一戦たくましくなり、一日のうちに成長が手に取るように分かりました。ときには小学生に過ぎないと思うこともありますが、驚くような速さで成長するものです。

少年イエスについても、同じことが言えるのではないかと思いました。両親が少年イエスを見失った三日間、この時間は少年イエスにとって急激に心の成長を遂げた時間だったのではないかと思いました。イエスには神の独り子としての使命が待っています。十二歳の時に鞭打たれて十字架に磔にされる必要はありませんが、近い将来、重い使命が待ち受けていることは確かです。

物語の描き方をよく注意して読み返すと、両親のヨセフとマリアがどのような気持ちでエルサレムに上ったかがわかります。2章42節に「両親は祭りの慣習に従って都に上った」とあるのです。両親にとってはエルサレムへの旅は、見倣うべき慣習としての意味合いだったようです。

少年イエスはどうだったでしょうか。イエスにとってエルサレムへの旅は、御自分の使命を自覚する旅だったと思います。エルサレム神殿には特別な場所があり、そこには神がとどまっておられると両親から教えられていたことでしょう。するとエルサレム神殿を目指す旅は、父である神に会いに行く旅でもあったわけです。

実はルカ福音書全体が、救いのわざを完成させるエルサレムへの旅と言ってもよいのですが、いよいよエルサレムに来たとき、もっと父である神と親しく語りたい、御父の御心を知りたいという思いに駆られたのではないでしょうか。

当然、祭りの慣習としてエルサレムに上ってきた両親と、御父と親しく語りたいという思いが増した少年イエスとでは、別の道を歩み始めることになったわけです。両親はナザレに帰るという道を選び、少年イエスは御父のもとにとどまるという道を選びました。

道が違っていれば、どちらかが他方の道に合流しなければ相手を見つけることはできません。両親はもと来た道を歩いてエルサレムに戻り、少年イエスが選んだ道に合流したのです。しかしそれでもなお、イエスがこの三日間で選んだ道がどのような道なのかは理解できなかったのでした。

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(2・48)両親は少年イエスを、自分たちが歩いている道の途中にいるものだと探しました。祭りの慣習に従ってエルサレムに上る、慣習を果たせばナザレに戻る。その道の上に少年イエスはおられなかったのです。

少年イエスは、三日間で御父の御心を歩むという道をはっきり自覚したのだと思います。どんな苦難が待ち受けているかは別として、御自分が歩くのは両親が歩く道から、御父が示される道へと一段階上がったということです。三日間で、そこまで少年イエスは成長したのだと思います。

「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。」(2・50)今は分からなくても、マリアはのちにイエスが歩く道を理解します。イエスが歩いている道に合流します。それはエルサレムへの道で、しかも十字架へと続く道でした。たとえ今は理解できなくても、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(2・51)のです。

わたしたちも、聖家族がたどった道をたどる者です。両親が自分たちの道連れの中にイエスがいるものと思っていたように、イエスを自分たちの道の途中に探そうとしますが見つからないことも体験するでしょう。そのとき驚き慌てるかもしれませんが、イエスを探すためには、イエスが歩いている道、イエスがたどっている道にわたしたちが合流しなければならないのです。

少年イエスはエルサレムでの三日間で、御自分の道を理解しました。もしわたしたちが道に迷っているとしたら、イエスが見つけられずに迷っているとしたら、わたしたちは道を選びなおす必要があります。今歩いている道を放棄して、今の生活を放棄して道を選び直すのではなく、わたしの生活の中のどこかに、きっとイエスが歩いている道がある。その道に合流するように、生活を整えるのです。

最近の車には道案内をする道具が用意されています。道を逸れると、何度も計算し直して別の道を示してくれます。わたしたちの人生もそのようなものです。イエスが歩いている道に、何度も計算し直して合流する。その積み重ねが、わたしたちにとってのエルサレムへの道だと思います。

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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼上五島地区の後輩司祭から急な電話がケータイに入った。「先輩、保存せずに終了したワードのデータを復旧する方法を知りませんか?」電話の内容を聞いて、急ぎでなければ様子を見に行ってもよいがと考えていたら、今晩の降誕夜半のミサの説教だと言う。
▼こちらも手いっぱいで、今駆けつけるのはちょっと、とためらってしまった。一般的な「バックアップ設定」がなされていれば問題ないのだろうが、電話の内容ではバックアップファイルを探すという用件ではなさそうである。「少し調べて返事する」と答えて電話を切った。
▼最近のマイクロソフトオフィス製品は保存しなかったファイルに関しても復旧できる道があることが分かった。わたしがネットで参照したのはワード2013の標準仕様として、一時ファイルを保管していることが分かり、すぐ電話を折り返してそのことを伝えた。
▼「あの~、自分のはワード2007なんです。」一瞬、言葉を飲み込んでしまった。当然古いバージョンを使い続けている人もいるわけで、そのことには思い至らなかった。「残念ですけど、また書き直します。」わたしも力及ばずで申し訳なかった。念のため、何か方法がないかと調べ、それらしい情報を見つけたのでメールで流したのだが、「うまくいきませんでした」とだけ返事が来た。本当にお気の毒である。
▼次に会った時は、念のためバックアップファイルを5分ごとにとるような設定を勧めておこうと思う。わたしはそういう設定は煩わしいのでお断りだが、今回の後輩はそういう設定にしておけば助けになるかもしれない。

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今週の1枚
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第411回目。クリスマスの夜に、女子修道会からの差し入れ。美味しかった。

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主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)わたしたちは皆、恵みの上に、更に恵みを受けた

2015-12-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/12/25(No.803)
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主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
わたしたちは皆、恵みの上に、更に恵みを受けた
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あらためて主の降誕おめでとうございます。夜半のミサの朗読を一枚の絵と表現するなら、日中のミサの朗読はその一枚の絵の解説のようなものかもしれません。今年のご降誕日中の福音朗読から、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(1・16)に注目したいと思います。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1・14)救い主誕生の場面は、「恵みと真理とに満ちていた」のです。どれくらい満ちていたのでしょうか。それは、全人類の救いを成し遂げて余りあるほどだったのです。

わたしたち人間社会は、あちこちで戦争や暴動が繰り返されています。そうした大がかりな揉め事でなくても、事件や事故があり、身の回りでも心が滅入ってしまうような話題に事欠きません。

神が人となってくださったという驚くべきわざは、それらすべてのことを超越する恵みと真理に満ちているのです。どんなに闇が暗くても、どんなに谷が深くても、闇を照らし、谷を埋めることのできる恵みと真理が救い主の誕生にはあるのです。

しかしこの世は、みことばを認めませんでした。自分の民のところへ来たのに、民は受け入れませんでした。神が御子をお与えになるという最大の愛を示してくださったとき、神が見たこの世は、これ以上ない暗い闇に見えたことでしょう。

それでも神はこの世を見捨てませんでした。世の闇がどれほど暗くても、闇に光をもたらし、すべての人を照らします。神が独り子をお与えくださったと信じるわたしたちは、先に神に照らされた人です。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」ヨハネ福音記者の証言の通りです。

わたしたちは神が与えてくださった計り知れない恵みを、人々に届けに行く使命があると思います。人々に語りかけてください。「抱えている闇はいったい何ですか。突き落とされ、もがいている谷は何ですか。」そして解決の糸口は御子イエス・キリストですと告げ知らせてください。神は独り子をお与えくださいました。イエス・キリストは、どんなに暗い闇をも照らし、どんなに深い谷も埋めて平らにしてくださるのです。

わたしたちも、さまざまな暗闇を見たかもしれない、深い谷底でもがいたかもしれない。わたしたちはそのたびに教会に来て恵みにあずかり、闇を照らし谷を埋める方に触れてきました。この体験を、一人でも多くの人に届けに行きましょう。イエスはわたしたちが届けに行きやすいように、小さな姿で、幼子の姿でおいでくださいました。

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‥次の説教は‥‥
聖家族
(ルカ2:41-52)
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ちょっとひとやすみ
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▼「窮地に追い込まれると本性が出る。」ドラマ「下町ロケット」でサヤマ製作所の椎名(小泉孝太郎)が言ってたっけ。今回のドラマは最終回を何度も観た。繰り返し繰り返し観た。おかげでまず21日(月)の朝に寝坊した。それでも月曜日も火曜日も何度も観て、そうしていたら巡回教会高井旅の会計の人から「○○さんが亡くなりました。通夜と葬儀ミサの日程はどうしましょうか」と連絡が入った。
▼最初に浮かんだのは亡くなられた方のことではなかった。「うー、クリスマスの説教を考える時間が無くなる。どうしよう」だった。その次に浮かんだのが「クリスマスには葬儀ミサは避けたいなぁ。規則の問題というより、体がきついから」だった。窮地に追い込まれて、わたしが考えたことは自分の都合のことだった。これが本性なのだと思った。
▼しかし、結果的に、葬儀が入ったことで時間の制約が明確になり、「何としても残り時間で説教を準備しなければ」というスイッチが入った。プラスに考えることは大切だ。それでも考え方を変えてようやくできたというだけの話であって、自分の本性が変わったわけではない。理想としては、最初に「あ、これはピンチじゃなくてチャンスだ」と感じるような人間になることだ。
▼今年のクリスマス説教は、日中のミサの説教から書き上げ、あとで夜半のミサ(クリスマスイブ)の説教を書いた。最初からこの計画だったわけではない。最初は時間順に夜半のミサの説教に取り掛かったのだが行き詰まり、そのままにしておいて日中のミサの説教に取り掛かったのだった。
▼すると意外にも日中のミサの説教が先に出来上がったので、残りの時間で夜半のミサ説教を書くことができた。この経験で学んだことは、「行き詰ったら、無理に続けようとしない」ということだ。この意見には賛成できない人もいると思うが、わたしにはこの考えが合っているように思った。

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今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第410回目。ことしも、救いのメッセージを届けてくださり、感謝します。

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主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)これがあなたがたへのしるしである

2015-12-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/12/24(No.802)
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主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
これがあなたがたへのしるしである
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主の降誕おめでとうございます。今年のクリスマス、「しるし」として示された幼子イエスについて思い巡らすことにしましょう。与えられた朗読に「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(2・12)とあり、乳飲み子が主の天使によって羊飼いたちに「しるし」として示されたのでした。

父である神はさまざまなしるしで、人間にご自分の愛をお示しになりました。年老いたアブラハムとサラ夫婦に、息子イサクを与えて生涯忠実に生きたアブラハムをいつくしんでくださいました。のちにイスラエルと呼ばれたイサクの子ヤコブの子孫たちは、モーセを通してエジプトから約束の地に導かれ、イスラエルの民が契約に不忠実になってもあわれみをお忘れになりませんでした。

数々のしるしの中で最後に現れた最大のしるしは、人間に父なる神の愛を完全に証するイエス・キリスト自身でした。幼子イエスは、父なる神が人間を愛しておられる確かなしるしなのです。人を仲介して神の愛のしるしを示したのではなく、神ご自身が決定的なしるしとなってくださったのです。

飼い葉桶に眠る幼子は、聖霊が降り、恵みに満たされていたマリアからお生まれになりました。ここに三位一体の働きも見ることができます。聖霊の働き、父なる神の愛、そしてしるしとなってくださった御子イエス・キリストです。人間の救いに無関心でいられない三位一体の神の神秘が明らかになりました。

羊飼いたちは「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というしるしを見ましたが、もう少し踏み込んで考えてみましょう。「乳飲み子」というしるしは何を指し示しているのでしょうか。

父なる神はさまざまなしるしで人間に対する愛を示してこられたと話しましたが、目の前にいる乳飲み子は、神ご自身が声を上げてくださったというしるしではないでしょうか。幼子の泣き声は、きっと静かな場所でも響き渡るに違いありません。そのように、人間の救いに無関心でいられない神が、いよいよご自分で声を上げられたということです。

誰の目もはばからずに泣く乳飲み子。これが羊飼いの見た「しるし」だったのだと思います。人々から遠ざけられた誕生でした。産着もありませんでした。心地よいベッドもありませんでした。どんな悲惨な誕生であっても躊躇せず、人間の救いに声を上げてくださった。これが羊飼いに示された人間に対する神の愛の答えだったのだと思います。

では、わたしたちにとって馬小屋に眠る幼子はどんなしるしとなってくださったのでしょうか。それは、「必ずわたしたちを救う」というしるしだと思います。どん底に置かれている人も、お先真っ暗の闇にある人も、必ず救う。その声を今、大声で上げてくださっているのです。

救い主の誕生に、この世はほとんど何の準備もしていませんでした。それでも父なる神はやむにやまれぬ思いで独り子を与えてくださいました。「人間の救いに無関心でいられない」と、救い主は声を上げてくださいました。

わたしたちは近づいて、その声を聞きましょう。そして救い主の「必ずわたしたちを救う」という声をより多くの人に届けましょう。クリスマスを通して、神がどれほど人間を愛してくださったか、すべての人が理解できるように、このミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼ご降誕のお喜びを申し上げます。12月21日(月)朝、わたしはこの世とこの世でない世界をさまよっていた。どちらかというとこの世でない世界にいたのだが、6時1分に現実世界に呼び戻された。スマートフォンに電話がかかったからである。「神父さま、もう6時になってます。すぐ福見教会に来てミサをしてください。」
▼「ごめん。寝過ごした。今から向かいます。」それから着替え、眠い目をこすりながら車を飛ばして福見教会についた時には6時20分。申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになりながら、20分以上待っていたシスター、信徒のためにミサをささげた。
▼この世とこの世でない世界との境目はそんなにはっきりしないと思った。この世でない世界にいる間も、少しこの世の音や声が聞こえる。それに反応できなければ、この世とおさらばだし、幸いに反応できればまだこの世に居続けることができるわけだ。
▼火の中水の中をくぐり抜けてとか、川を渡ってとか言うが、体験がわたしに教えてくれたのは、この世とこの世でない世界は距離はないということだ。三次元と違う世界を四次元と表現する人もいる。もし三次元と四次元が接しているのなら、この世でない世界は四次元と言えるかもしれない。
▼降誕の夜半はいつも一人。一人ケーキ、一人ワイン、一人フライドチキン。一人でローソクをともして電気を消し、一人でハッピバースデーを歌い、一人でローソクを消す。静かな食堂でケーキを頬張りながら、一人で夜更かし。さいわい降誕の日中のミサは浜串教会朝7時なので、仮に寝坊しても何とかなる。
▼こんなクリスマスをもう20年以上続けている。ただクリスマスおめでとうのメールも来るし、夜半のミサの振り返りもたくさんある。いずれにしても49歳の体はもう20年前の体ではないから、ほどほどにして、寝ることにしよう。メリークリスマス。

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今週の1枚
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第409回目。予定では、高校生のクリスマス募金活動と中学生のクッキー配り。

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待降節第4主日(ルカ1:39-45)エリサベトは声高らかに祝福した

2015-12-20 | Weblog
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こうじ神父
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15/12/20(No.801)
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待降節第4主日
(ルカ1:39-45)
エリサベトは声高らかに祝福した
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待降節第4主日、ご降誕もいよいよ間近に迫りました。与えられた福音朗読はマリアがエリサベトを訪問する場面です。この中に出てくる「挨拶」について考え、ご降誕の直前の準備に充てたいと思います。

来年2月20日(土)の夜と21日(日)の昼に上演される信徒発見劇の舞台稽古がいよいよ始まりました。台本を12月初めにいただいて、「よーしセリフを覚えるぞ」と意気込んで台本を確かめました。セリフが5つ用意されていました。

「旦那様」「いえ、旦那様」「お許しください、旦那様」「はい、旦那様」「へい、旦那様」です。厳密には旦那様の後に続くセリフもあるのですが、ざっくり言えばこの5つのセリフということになります。今この5つのセリフを言う場面の、血のにじむような猛練習をしているところです。

まぁ大げさな、と思うかもしれませんが、わたしの出番はほかにないわけですから、ここにすべてをかけてやっています。テレビドラマでは一言のセリフもない通行人もいます。前方からやってくる通行人と、後方からやってくる通行人とでは、顔が見えるか見えないかで別扱いだと聞いたことがあります。そこからすれば「旦那様」と5回言うだけでもたいしたものです。小教区の皆さんが、すべての予定を横に置いて劇を観に来るだけの価値があります。たぶん。

福音朗読に戻りましょう。わたしたちは聖書を日本語で読むので、どうしても日本語で出来事を理解しようとします。けれども、聖書の出来事を日本語で理解しようとすると内容を理解し損ねることもあるのです。もちろん聖書が書かれたもともとの言語であるギリシャ語で理解できれば出来事を正確に理解することができるでしょうが、一般の日本人にはとても無理です。

そこで、今回の朗読個所に出てくる「挨拶」という言葉が、聖書のほかの個所ではどのように使われているのか、そういうことも確認しながら出来事を理解しようとするなら、日本語の聖書であっても、より実際の出来事に近づく理解にたどり着けると思います。

聖書の挨拶ですぐに思いつくのは天使がマリアに神の計画を告げる場面(ルカ1章26節から29節)です。「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」

マリアは「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(ルカ1・29)とあります。この例と、今週の朗読個所を重ね合わせると、聖書の中での「挨拶」というのは、単なる儀礼ではなく、相手に対する「祝福」が込められているようです。ですから今週の朗読個所でも、「挨拶」という言葉を「祝福」という言葉に置き換えて考えてもよいかもしれません。つまり1章39節を「そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに『祝福』した。」そう読み替えてもいいかもしれません。

そうすると、マリアはエリサベトを祝福し、エリサベトはマリアを祝福し、たがいに祝福し合っている姿が浮かびます。「挨拶」と訳されてはいますが、日本の挨拶ではこのように祝福し合う様子を思い浮かべることはないのですから、聖書の世界の「挨拶」をわたしたち日本人の「挨拶」と受け取らないほうがよさそうです。

もう一つ、聖書の世界の「挨拶」に「聖霊の働き」を見ることができます。祝福は人が人を祝福するわけではなく、ある人が別の人に神の祝福を願うものです。ですから人が挨拶に祝福を込めているとき、そこには神の愛である聖霊が働いているわけです。聖霊の働きに満たされてマリアは神の計画を受け入れ、エリサベトは間近に迫っている救い主の到来をほめたたえました。

わたしはこう考えました。わたしたちが聖書の世界の「挨拶」を積極的に取り入れるなら、救い主の到来はより多くの人に知られ、より多くの人に救いをもたらすのではないでしょうか。わたしたちが人に祝福があるようにと願う挨拶を交わすなら、挨拶を送る相手も聖霊の働きに触れて、御子イエスを送ってくださった神に心を開くようになるのではないでしょうか。

それぞれ、何ができるかを考えてみましょう。子供たちの世代に、教会から遠くなってしまった人々が身近にいるかもしれません。その人たちのために、わたしたちは祝福を願う挨拶ができるのではないでしょうか。結婚をしてはみたが、結婚相手を教会に近づけるどころか、カトリック信者のほうが教会から疎遠になっているかもしれません。そのような子供たちに、祝福を願う挨拶ができるのではないでしょうか。

聖書の世界の「挨拶」を交わす人々の上に聖霊は必ず働き、神の意志を分からせてくださいます。わたしたちが人を立ち返らせることは難しいかもしれませんが、祝福を願う挨拶を交わすことは必ずできるはずです。わたしたちもエリサベトに倣い、声高らかに言いましょう。人間を救う神の御計画は、すぐそこまで来ているのです。

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‥次の説教は‥‥
主の降誕(夜半)
(ルカ2:1-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼カレンダーが必要な時期になってきた。カレンダーと言えば、亡くなったあるシスターがよくカレンダーを分けてくれていた。わたしは第一子長男なので、姉がいない。姉がいる人を見ると羨ましいと思う。自分にとっては姉のようによく面倒を見てくれたシスターだった。
▼前回のメルマガで通算800号。368号でCD3枚に収めて用意したようだ。おおよそそれ以降の分をCDに焼いて提供するなら、1000円で提供できそうである。もし説教の録音CDに興味があれば、郵便番号、住所、氏名を書いたメモと、82円切手12枚(984円)を同封して中田神父のところまで連絡(メール)を。中田神父の住所は「〒853-3102 長崎県南松浦郡新上五島町岩瀬浦郷724番地 カトリック浜串教会」。
▼メルマガ800号記念に当たる、先週の説教案は「いつくしみの特別聖年」に合わせて考えた説教だった。実は、午後1時からの上五島地区の特別聖年開年ミサの説教も頼まれていた。普通に考えれば、1日に2度目的の違う違うミサで説教するのだから2通り用意しなければならないわけだ。
▼とは言えわたしも超人ではない。だから同じ説教が使えるようにと、地区行事の開年ミサ用説教を、小教区の信徒にも聞かせた。どちらにも使えるように用意したのではなく、明らかに地区行事を意識して用意した説教案を、小教区の信徒にも聞いてもらったということである。
▼小教区の信徒は別段違和感もなかったかもしれない。しかしわたしには、よそ行きの説教のようでかなり違和感を感じながら小教区では説教していた。だがおかげで、上五島地区の特別聖年開年ミサの時点では同じ話をするのが4回目になっていたので、難しさを一切感じることなく説教を務めることができた。

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今週の1枚
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第408回目。福見の園クリスマス会での保育園児の聖劇。今回は撮影した?

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待降節第3主日(ルカ3:10-18)わたしたちはどうすればよいのですか

2015-12-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/12/13(No.800)
‥‥‥†‥‥‥‥
待降節第3主日
(ルカ3:10-18)
わたしたちはどうすればよいのですか
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「群衆は、『では、わたしたちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ』と答えた。」(ルカ3・10-11)今日わたしたちは2つの意味で、「わたしたちはどうすればよいのですか」と声を上げる必要があります。

1つは、「この待降節中に、わたしたちはどうすればよいのですか」ということであり、もう1つは、「いつくしみの特別聖年が始まりました。わたしたちはどうすればよいのですか」ということです。

ただし、答えを2つ探す必要はないと思います。今年の待降節中に、「いつくしみの特別聖年」が開年したのですから、わたしたちはただ1つの答えを見つけ出せばよいのではないでしょうか。

「わたしたちはどうすればよいのですか。」洗礼者ヨハネが「群衆・徴税人・兵士」という3つのグループに勧めを与えたように、わたしも今ここで、3つの例を示したいと思います。まずその前に、洗礼者ヨハネが示した3つの勧めをおさらいしましょう。

ヨハネが示した勧めは、どれも「悔い改めにふさわしい実を結べ」という共通の目標を形にしたものです。そして3つのグループを「一般の人々」「特殊な任務にある人々」「一般の人々にも特殊な任務の人々にも安心安全な生活を保障する任務にある人々」と考えるなら、そのままわたしたちにも当てはまってきます。

ではわたしたちの共通の目標とは何でしょうか。それは「いつくしみの特別聖年」のモットーである「御父のようにいつくしみ深くなりなさい」です。このモットーを、3つのグループ「一般の人々」「特殊な任務にある人々」「一般の人々にも特殊な任務の人々にも安心安全な生活を保障する任務にある人々」に当てはめてみたいのです。

ところで、モットーの「御父のようにいつくしみ深くなりなさい」ですが、御父はどれほどいつくしみ深い方なのでしょうか。それは、御自分の独り子を、人類に渡されるほどです。しかも二度もです。一度目は誕生の神秘において、二度目は十字架上の神秘においてです。

わたしたちが信じる神は全能ですから、不可能などありませんが、ただ一つ人間の心情で考えた時、わが子を明け渡すこと、これだけは不可能なことではないでしょうか。それを父なる神は二度も、最終的には十字架上で明け渡してくださったのです。この「あわれみの神秘」によって、神の全能が示されました。

ですから「御父のようにいつくしみ深くなりなさい」というのは、「全能の神が心を引き裂かれるほどの思いで示したいつくしみの模範に倣いなさい」ということではないでしょうか。この模範に倣うことがたやすくないことは、だれがどう考えても明らかです。

わたしたちが御父に倣っていつくしみを示そうとするとき、何の努力も骨折りもせずに果たせるなどと思ってはなりません。御父のいつくしみをその誕生の瞬間から示してくださったキリストは、温かい産着にくるまっていつくしみを示したのではありません。布切れに包まれ、飼い葉おけに寝かされた姿で示したのです。人類の罪を赦すといういつくしみを、華々しい舞台で示したのではなく、十字架の上で示したのです。「どんな困難にあっても、わたしたちは御父に倣っていつくしみを示します。」そういう覚悟が必要でしょう。

そこで3つのグループのためにいつくしみのわざの例を示したいと思います。一般信徒の皆さんは、自分を傷つけた相手をゆるすことで、いつくしみを示してください。「ゆるせないと思うことが幾度もあることでしょう。けれどもゆるしとは、心の平安を得るために、わたしたちの弱い手に与えられた道具なのです。」(「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」9)

一般に「シスターや修道士」と言われる奉献生活にある人々は、「特殊な任務にある人々」です。イエスの「わたしに従いなさい」とのみことばにより深くとどまる生き方です。期間中、奉献生活にある方々には、「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)このみことばにじっくり耳を傾けてください。「いつくしみがもてるよう、神のことばをまずじっくりと聴かなければなりません。」(「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」13)

神のことばをじっくり聴くには、十分な沈黙の時間が必要です。与えられたみことばに対して、まるで氷山の沈んでいる部分のような、一見不釣り合いとも思える沈黙の時間が必要なのです。幸い奉献生活者には生活に適度な沈黙の時間が組まれているので、より一層神のことばに潜心することができます。

奉献生活者の沈黙の時間は、教会共同体を動かすエンジンです。沈黙の中で神のことばに照らされ、温められたエンジンはいつくしみを世に示す教会共同体の働きを力強く前に推し進めてくれます。これまで以上に、神のことばに温められ、その熱をさまざまな歯車に伝えてください。

司祭にも、「御父のようにいつくしみ深くなりなさい」との呼びかけに自らを差し出すまたとない機会が与えられました。それはゆるしの秘跡においてです。「聴罪司祭であることは、イエスと同じ使命に参与すること、そして、ゆるしを与え救いをもたらす神の愛が、途切れることなく続いていることを示す具体的なしるしとなる(からです。)」(「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」17)

司祭は、痛悔者それぞれの心の中にある、救いを求める神への祈りと罪のゆるしの願いを、たちどころに理解する」(同17)者でなければなりません。「要するに聴罪司祭は、いつでも、どこでも、どんな状況でも、何があろうとも、いつくしみの第一のしるしであることを求められているのです。」(同17)

「わたしたちはどうすればよいのですか。」いつくしみの特別聖年期間中、一人ひとりが神のいつくしみを映し出す鏡になってください。イエス・キリストが御父のいつくしみのみ顔であったように、わたしたちも置かれた場所で、神のいつくしみを映し出す者となりたいと思います。

「あなたのいつくしみはどこから来るのですか。あなたはなぜ、何も当てにしないでいつくしみを示すことができるのですか。」もしこのように人々が問いかけてきたなら、あなたは最高に自分の使命を果たしている人です。そのとき人々は、あなたを通していつくしみ深い父を、またイエス・キリストを眺めることになるからです。

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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:39-45)
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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼先週の「ちょっとひとやすみ」のお詫び。「放縦」が「放銃」と誤変換されていたという部分。「放銃」とは、わたしが考えていた意味ではなく、専門的な意味があるというご指摘をいただいた。これは失礼しました。誤変換された漢字が意味を持たない誤変換だったのか、意味のある誤変換なのかを今一度チェックする慎重さが必要だった。
▼わたしはGoogle Chromeというブラウザを使っている。好みの問題だが、FirefoxとInternetExplorerを使い比べて、Google Chromeに落ち着いた。だがこのブラウザでブックマークをそっくり失ってしまい、危うく気を失いそうになった。
▼発端は眠ったままのノートパソコンを試しにWindows10に更新しようとしたことからだった。いちばんサイズの小さなB5サイズのノートパソコン、標準的なA5ノートパソコン、さらに眠っていた旧型のデスクトップと、片っ端からOSのアップデートを行った。
▼トラブルの原因になったのはB5ノートだった。このノートパソコンもChromeがメインのブラウザになっているが、作業を終えて(と言っても結局Win10に更新するところまでいかなかったが)メインのデスクトップパソコンに戻ってみると、ブックマークが重複している。
▼どうやらB5ノートのブックマークが統合されて、二重になってしまっているらしい。そこで何となく片っ端からブックマークを削除してしまったのだが、途中で大切なブックマークも勢いで削ってしまった。買い物のサイトとか、ネットバンキングのサイトとかだ。
▼後先考えずに削ってしまい、どうやって元に戻せばよいのだろうかと目の前が真っ白に。ネット上の書き込みを見てみると復元できると書かれていたが、最初の方法は全く役に立たず。幸いにブックマーク情報を保管しているファイルをあるサイトでhtml形式に変換し、Chromeにインポートしたところ、何とか元に戻って胸をなでおろした。
▼今回のメルマガで通算800号。368号でCD3枚に収めて用意したようだ。おおよそそれ以降の分をCDに焼いて提供するなら、1000円で提供できそうである。もし説教の録音CDに興味があれば、郵便番号、住所、氏名を書いたメモと、82円切手12枚(984円)を同封して中田神父のところまで連絡(メール)を。中田神父の住所は「〒853-3102 長崎県南松浦郡新上五島町岩瀬浦郷724番地 カトリック浜串教会」。

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今週の1枚
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第407回目。小教区の教会以外で説教するのはいつ以来だろうか。緊張した。

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待降節第2主日(ルカ3:1-6)主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ

2015-12-06 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
15/12/06(No.799)
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待降節第2主日
(ルカ3:1-6)
主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ
‥‥‥†‥‥‥‥

待降節第2主日は洗礼者ヨハネが現れる場面が福音に選ばれます。6年も同じことを言っているので、さすがに覚えてくれていると思いますが、「洗礼者ヨハネ」と聞くと「悔い改め」を思い出してほしいと思います。今年の待降節、洗礼者ヨハネが悔い改めについて何を求めているのか、確認することにしましょう。

司祭黙想会の5月下旬頃でしたか、浜串教会祭壇の聖櫃を新調しようと思って典礼用品を扱う修道会に依頼をして半年が過ぎました。今年のクリスマスまでに、と思って注文した品物が届くのを楽しみに待っていましたら、どうやら注文した聖櫃は制作できないとお詫びの連絡が入りまして、12月8日に再度注文し直すこととなりました。この聖櫃のために、寄付をくださった方もいました。ですから少しでも早く、聖櫃を新調して、喜んでもらいたいと思っているわけです。

本当に首を長くして待っていますが、相手がある話なので、わたしがどんなに願っても願った通りになるわけではありません。もう一度注文すれば年内はもう諦めなければならないと思いますが、遅くとも復活祭までには、新しい聖櫃を聖堂に設置して、安心して浜串教会でのミサをささげたいと思っています。ご寄付くださった方々も、今しばらく辛抱して待っていてほしいと思います。

12月3日、日本宣教の保護者聖フランシスコ・ザビエル司祭の祝日でした。わたしたちの小教区では福見教会が献げられた教会で、夕方でしたが福見教会のためにもミサをささげました。

直前の日曜日に、「福見の聖堂のお祝い日とも言える日ですので、都合をつけて参加してください」と呼びかけていたのですが、木曜日の夕方5時15分のミサではとても参加は難しいかなと思っていました。

ところが、都合をつけて参加してくださった方を見つけて、大きな慰めをいただきました。人数の多い少ないではなく、呼びかけを真剣に受け止めてくれたということですから、呼びかけは間違いなく届いたのだと思い、力づけられました。ありがとうございました。

さて福音に戻りましょう。洗礼者ヨハネが荒れ野で活動を始めます。神の言葉が、ヨハネの活動を方向付けます。預言者イザヤの書に書いてある活動です。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

これはイザヤ40章3節から5節の引用です。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」

イザヤの時代には、「呼びかける声」の方向に生き方を変えることが、「呼びかける声」に答える道でした。イザヤの時代には必ずしも具体的ではなかったかもしれませんが、洗礼者ヨハネの時代にいよいよ声の主である神が、人となってわたしたちに現れたのです。この時から悔い改めは、具体的なものとなりました。

「呼びかける声に答えること」それは、イエス・キリストへと向きを変えて生きることです。呼びかける声、それはイエス・キリストであり、わたしたちはこの待降節に、おいでになる主に生き方を向け、イエス・キリストが向かうようにわたしたちも生き方を向けますと表明することを求められているのです。

どのような生き方を求められているか。3年前の説教を参考に示したいと思います。わたしたちに期待されているのは、イエス・キリストなしには物事が始まらない、そういう生き方です。朝、目が覚めた時にイエス・キリストなしに今日一日が始まらないと考えるなら、わずかでもいいから祈りをして一日を始めるはずです。

食事をしようというときに、イエス・キリストなしにこの食事は始まらないと考えるなら、食事の前に祈るはずです。こうして、イエス・キリストなしに物事は始まらないと考える人に、神の言葉が降るのです。

洗礼者ヨハネは、まだ見ぬ救い主キリストに率先して向きを変え、ヨルダン川に集まった人々にも同じ生き方を求めました。現代のわたしたちもまた、イエス・キリストなしには物事は始まらない。そのような生活を心がけるなら、社会に対してしるしとなることができます。そしてわたしたちを見て、だれかが主の道を知り、その道を歩き出すのです。

皆さんは、「主の道を備えよ」という聖歌をご存じでしょう。できればこの聖歌を覚えて持ち帰り、日々心の中で歌い続けましょう。わたしも、周りの多くの人も、イエス・キリストに向きを変え、イエス・キリストなしに物事は始まらないと、言葉でも態度でも表明して生活しましょう。

わたしの生活は、主よ、あなたなしには始まりません。その思いを待降節中毎日この聖堂でささげながら、降誕の日を喜び迎えることができるよう、ミサの中で照らしを願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ルカ3:10-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週郷里の先輩司祭の叙階25周年記念ミサに出席し、その後の祝賀会にも出たが、写真を撮らなかった(>
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