こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活の主日(ヨハネ20:1-9)イエスは復活し、愛を残してくださった

2011-04-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/04/24(No.531)
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復活の主日
(ヨハネ20:1-9)
イエスは復活し、愛を残してくださった
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あらためて、主の御復活おめでとうございます。高井旅教会の皆さんにとっては、いよいよ待ちに待った復活の喜びの日です。昨晩の復活徹夜祭でも話しましたが、イエスの死と復活は人間に解放を告げるというのが今年の説教の主眼点ですが、今日の福音朗読にもそのことは表われています。

マグダラのマリアが墓に行きました。「朝早く、まだ暗いうちに」(20・1)とありますが、「暗闇」は、実際の時間帯と同時に、マグダラのマリアの心の状態も表していると思います。彼女は、イエスが十字架の上で亡くなったことで、恐れにとらえられていたのです。墓から石が取りのけてありましたが、それを遠くから眺めるだけで、近づく勇気は持てなかったのでしょう。すぐに弟子たちのもとへ報告に戻ります。

シモン・ペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子は、マリアの知らせにすぐに応じて墓へ急ぎました。身をかがめて中をのぞき、亜麻布が置いてあるのを見つけました。それでも、もう一人の弟子は墓に入ろうとはしませんでした。墓に入ることが怖かったのではないでしょうか。墓に入り、遺体を確認すれば、あらためてイエスが死んでもういないのだと打ちのめされることになります。また、墓に入る様子を他人に知られたら、自分たちの身も危険にさらされると考えたかもしれません。

シモン・ペトロは恐れを振り払って、墓の中に入りました。「墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」(20・6-7)となっています。

この場面について、つい先日、長崎で貴重な写真展と講演を聞くことができました。イタリアのトリノには、「聖骸布」というものが存在します。この布は、イエスのご遺体を包んだ布だと考えられています。この布について50年以上研究しているサレジオ会のコンプリ神父さまが、長崎で聖骸布を撮影した写真の展示と講演会をしておられたのです。18日(月)に、参加しました。

この聖骸布が、確かにイエスのご遺体を包んだ布であると、だれも証明することはできませんが、たくさんのデータがこの布から出ているそうです。背中の部分には100発以上の鞭打ちの跡が残っていますし、手首と足首に釘跡が残っています。また、膝や、鼻の部分に、倒れて付着したと思われる土が発見されていますが、この土はエルサレムの土と成分が同じなのだそうです。いろんなデータがあって、大いに興味をかき立てました。

その中で、最も興味を引いたのは、アメリカのNASAがある時期調査をして、この聖骸布から立体的な輪郭を描き出したという研究です。もしも、人間の遺体を包んだ布が、遺体が腐敗したあとも包んでいたとすれば、布に残された痕跡から、立体的な輪郭は描けなかっただろうと思ったのです。腐敗する前の状態を包んで、その痕跡が残ったので、聖骸布から立体的な姿を描くことができたのだろうなぁと思いました。

コンプリ神父さまは、日本語の新共同訳聖書が、この場面での大切な言葉をうまく訳しきれていないと残念がっていました。「亜麻布が置いてあるのを見た」(20・6)となっているのですが、もとの言葉は「横たえる」という意味があるそうです。亜麻布が置いてあるだけでは、遺体を誰かが盗みに来て、亜麻布はそこに置いて帰ることも可能でしょう。

けれども、横たえられていたというのは、第三者が意図的にできるものではないのです。その場を動かさず、横たえた状態のままであった。その点が、墓に入って確かめた弟子たちに、イエスの復活を感じさせたのではないでしょうか。

布についての興味深い話も含めて、シモン・ペトロとヨハネが思い切って墓の中に入った時、彼らはイエスの復活を信じることができました。恐れのために、墓を遠くからしか眺めなかったマグダラのマリア。墓をのぞいてみたけれども、中には入らなかった弟子。恐れにとらえられていた人間が、ありのままの墓の中を見た時に恐れから解放されたのです。

恐れを解き放ったのは、そこに残された亜麻布でしょうか。そうではないと思います。亜麻布が横たえられていた、その状態で残してくださった方が布の向こうにおられるのです。横たえられていた亜麻布を通して、弟子たちの心を解き放ち、本来思い出すべきこと、イエスが亡くなられる前に残してくださった言葉に導いてくださったのです。

弟子たちは、イエスの復活に気付き、恐れから解放されたときに何を思ったでしょうか。わたしは、聖木曜日のことを思ったのではないかと考えました。つまり、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13・1)この場面です。

イエスは、復活なさって、自分たちをこの上なく愛し抜かれたことを証明してくださった。十字架上の死は、自分たちを見捨てたのではなく、この上なく愛しておられた証しだった。弟子たちはイエスの深い愛を、思い出していたのではないでしょうか。

もしそうであるなら、わたしたちもイエスの復活を喜びながら、わたしたちを愛し抜かれたことを思い出す必要があります。イエスの復活は、弟子たちにも、わたしたちにも、名誉も権力も財産も何も残しませんでした。ただ一つ残してくださったのは、罪から逃れられないわたしたち一人一人を、この上なく愛し抜かれた、その愛です。

イエスはその復活によって、わたしたちも解放します。イエスの愛を、あなたを愛し抜いたその愛を、人々に知らせに行きなさい。見捨てられている人、孤独にある人、ちょっと周りの人から外れている人。だれにでも、イエスが愛してくださったことを知らせに行く。イエスはわたしたちの心を解き放って、証しを立てる人へと変えようとしています。

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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年も、聖週間の説教と「ちょっとひとやすみ」を一つにまとめ、パンフレットにして信徒に配った。紙がもったいないと思う人もいるかもしれないが、聖週間の説教を通して、次の聖週間まで神の救いの計画と、イエスの愛に、少しでも触れることができればと思ってのことである。
▼それにしても今年は時間が足りなかった。出張が重なって、どうしても腰を据えて説教に取り組めなかった。ある時は新幹線の中で、ある時は船の中で、ある時は宿泊先で、四苦八苦して考えた。考えてばかりでは頭だけのようだが、福音朗読から何か聞こえてこないかと、何度もテキストを読み、耳をすませた。
▼パンフレットは、当然一人の手では作れない。いつもだれか協力を仰いでいるのだが、今年はだれに頼もうかと考えあぐねていたが、いいメンバーを思い出した。中学生だ。確か6人はいたと思うので、お願いしてみよう。できれば、このパンフレットを真っ先に中学生に読んでほしいところだが、はたして興味を持ってくれるだろうか。
▼昨日のワインは甘すぎた。調べた範囲で銘柄を紹介すると、フランスワインで、ヴァル・オーリス バニュルス グラン・クリュ Banyuls Grand Cru 1966年物。1966年物というのは、つまり自分の生まれ年ワインということである。
▼ちょっと飲むのはおいしいけれども、グイグイ飲むには甘すぎると思う。ミサワインも、かなり甘いが、それ以上だったかもしれない。とにかく、一度に空けてしまうほどお酒に強くもないし、あの甘いワインではお酒に強くても飲み干せないのではなかろうか。
▼昨日の「ちょっとひとやすみ」を読み返すと、「キリストの声」を思い巡らすと書いてあったが、ワインを一杯飲んだ時点で、その計画はボトルの中に沈んで消えてしまった。キリストの声は、これからもずっと追い続けよう。もしチャンスがあれば、十年に一度開かれるキリストの受難劇を観て、そこでも考えてみたいと思う。

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新企画今週の1枚
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第138回目。復活祭の卵。全体のうち、6個「当たり」が入っている。
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復活徹夜祭(マタイ28:1-10)イエスがわたしたちの行く手に立っておられる

2011-04-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/04/23(No.530)
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復活徹夜祭
(マタイ28:1-10)
イエスがわたしたちの行く手に立っておられる
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皆さん主の復活、おめでとうございます。今年の聖週間を貫くテーマは、復活は死からの解放であり、神は信頼に足る解放者であるということでした。枝の主日から聖木曜日・聖金曜日・復活徹夜祭と連続して典礼にあずかった人は、そのことに気づいたでしょう。

すべてに参加できなかった人のためにも、この一週間の説教を一冊にまとめたプリントを入り口に置いていますので、どうぞ持ち帰って、この一週間の豊かな典礼の補いにしてください。

今年の復活の喜びを黙想するために、わたしは婦人たちと復活したイエスがどのようにして出会ったかを振り返りたいと思います。マタイ福音記者は、「マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(28・1)と記しています。

婦人たちが墓で出会ったのは、主の天使でした。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」(28・3)番兵たちが、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになる。表現のしようのない光景だったのでしょう。

それでも、婦人たちはイエスと出会うことはありませんでした。いかに主の天使の登場が驚きであっても、婦人たちの心を満たすものではなかったのです。

けれども、主の天使の言葉は婦人たちを少しずつ動かします。お会いしたいただ一人のお方、イエスに、主の天使の言葉が導いていくからです。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」(28・5-7)

婦人たちは、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」とあります。お会いしたいお方のところに、心も体も動き出しました。まだイエスにはお会いできていません。けれども、ガリラヤに行けば、弟子たちと一緒にイエスに会えるだろうと思って、動き出したのです。

そのとき婦人たちはイエスと出会います。「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」(28・9)ここでようやく、婦人たちは会いたいと思っていたただ一人のお方に会えたのです。

婦人たちが復活したイエスに会ったのは、どの時点だったのでしょうか。墓に出向いたときではありません。主の天使が言った「イエスは復活なさった」「弟子たちにイエスが復活したこと、ガリラヤでお目にかかれると告げなさい」という言葉を信じ、動き出した。その時点で、婦人たちは復活したイエスにお会いしたのでした。

この一連の流れは、弟子たちにも当てはまります。弟子たちも、婦人たちの言葉を信じ、ガリラヤに行くことで復活したイエスに会うことになります。続く物語でこのように書かれています。「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。」(28・16-17)

同じことは、弟子たちだけに留まらず、わたしたちにも当てはまります。わたしたちも、四旬節を通して準備をととのえ、今復活したイエスに会いたいと願っています。わたしたちが復活したイエスに会えるとすれば、それは、わたしたちに告げられるメッセージを信じ、行動を起こしたそのときなのです。

すでにわたしたちは、一つの行動を起こしています。普段よりもさらに遅い時間に、聖堂に集まりました。聖書の朗読を5つ聞きました。神の言葉を信じて行動を起こした者にイエスは現れることも学びました。

わたしたちは行動を起こしたのですから、必ず復活したイエスに会うことができます。まずは聖体の中のイエスさまを通して、さらに、あなたの生活を支え、導く力となって、そして、イエスの言葉を信じる人々に注がれる聖霊を通して、復活のイエスは出会ってくださいます。

神の言葉を信じ、行動する人に復活したイエスは現れます。イエスの存在は恐れや不安を解放する力です。イエスを信じてこの信仰に留まって、あるときは肩身の狭い思いをしている人もいるかもしれません。信仰だけは捨てないと頑張って、気持ちが張り詰めていた人がいるかもしれません。

そんなあなたに、復活したイエスは先回りして、必ず会ってくださいます。だれにも言えない恐れや不安を、解放する方として、今出会ってくださいます。恐れながらも大いに喜んだ婦人たちのように、今日のミサを終えて家路につくとき、喜びつつ帰りましょう。わたしたちの行く手には、必ず復活したイエスが先回りして、恐れや不安を解放するために立っておられるのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活の主日
(ヨハネ20:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼御復活おめでとうございます。今年は洗礼式も準備できず、司祭としては働きが足りなかったと感じている。証しが足りなかった、そのことに尽きる。洗礼に導くことだけが証しではないだろうが、それぞれの家庭の信仰生活に、もっと司祭が手をさしのべることができたはずである。次の復活祭までには、そういう報告ができるようにしたい。
▼今週、2度、福音を役割分担して朗読した。司祭と、語り手(C)と、群衆(S)と、他の登場人物(A)である。ちなみにC・S・Aのうち、Cは福音史家の語り(celeriter、速やかに)の頭文字、Sは群衆のせりふ(sursum、高く)だそうだ。Aも、きっと受難音楽のラテン語の指示の頭文字なのだろう。詳しい人がいたら、返事ください。
▼その受難朗読だが、本来の「速やかに」「高く」など、もっと積極的に取り入れた方がよいと思う。今回の朗読では、思い入れがあるのか、かなり抑揚を付け、声を変えたりして朗読している担当者がいたが、そこまでの指示はなされていない。
▼一般的にそうだが、朗読にことさら感情移入してしまうと、聞いている者は抵抗を感じるものだ。声を変えてまで聖書朗読する必要を、わたしは感じない。演劇であればその必要もあるだろうが、聖書朗読はあくまで神のみことばの朗読だと思う。
▼話し方の講師が、「笑いを誘う話をするときに、本人が笑いながら話してもうまく伝わりません」と言っていた。そうだろうと思う。あくまで、聞き手が笑うためにそのような話に触れるのであって、本人が笑っていては聞き手は引いてしまう。
▼あまり出番の来ないキリスト役を務めながら、「キリストの声」とはどんなものだろうかと考えた。受難音楽上は、T(tenere、ゆっくり)という指示があるそうだ。キリストの声、いろいろ考えが巡る。このミサの後、45年物のワインを飲みながら、考えてみるか。もっとも、ワインが回れば、考えることもできないだろうが。


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新企画今週の1枚
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第137回目。今年仕入れた45年物。年齢と同じワインを、毎年1本だけ買っている。
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聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)十字架はすべての人にいのちをもたらす

2011-04-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/04/22(No.529)
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聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
十字架はすべての人にいのちをもたらす
‥‥‥†‥‥‥‥

わたしたちの救いのために、わたしたちを罪から解き放つために、イエスはこの日、死に渡されました。今年の聖金曜日は、息を引き取るときにそばにいた人々に注目して、黙想してみたいと思います。

ヨハネ福音書によれば、十字架上のイエスのそばにいてイエスの最期を見守った人々の中に、「イエスの母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(18・)とあります。また、イエスの愛する弟子が、そばにいたとあります。この、母マリアと愛する弟子が十字架のそばにいたことに、注目したいと思います。

イエスは確かに苦しんでお亡くなりになりました。そのイエスのそばに、母と愛する弟子とがいたことには意味があります。母は、子を産む苦しみとその後の喜びを現わす姿です。ですからイエスの十字架上の死は、新たないのちを産む苦しみであると、イエスのそばにいるマリアを通して現わそうとしているのです。

また、愛する弟子が母マリアのそばにいました。イエスが母マリアに、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」(19・26)と示した通り、この愛する弟子はイエスが十字架を通して生み出した新たないのち、苦しみの後に生まれた喜びです。

こうしてイエスは、十字架上の出来事が、息絶えてすべてが消える滅びの出来事ではなく、新たないのちをもたらす、豊かさを秘めた出来事であると身をもって示したのです。
かつて見たことがあるでしょうか。死ぬことが、いのちをもたらすということを。いのちをもたらす死など、だれも説明できませんでした。それをイエスは、十字架のもとにたたずむ人々の目の前で、証明したのです。

わたしたちはこの出来事を前にして、何が必要でしょうか。それはただ、イエスがもたらすいのちを受け取る。その準備だけだと思います。イエスが十字架の上で死に、新たないのちをもたらすことを、感謝してそのまま受け取ることです。

この説教の後に、十字架の礼拝をいたします。十字架を礼拝するのは、イエスが十字架の上で死に渡されて、わたしたちにいのちをもたらしてくださったからです。ぜひ、この十字架の礼拝の時に、「わたしたちに救いのいのちを与えてくださるイエスに、感謝します。」その気持ちで十字架の前に立ちましょう。

礼拝は二人一組で行います。イエスが苦しみと死を通して与えてくださるいのちを全身で受け止めるために、きちんと動きを止めて礼拝いたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(マタイ28:1-10)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼受難の主日の説教の時、原稿の誤変換に気がついた。配信してから気づいても遅いのだが、少なくとも2箇所、パソコンを信じすぎて誤変換していた。「十字架に貼り付けにされている」これは、パソコンの「コピーして貼り付け」という感覚だ。イエスさまがコピーして貼り付けでは、薄っぺらいものになってしまう。
▼同じ段落に、「向き合わなければ鳴りません」これも誤変換である。土曜日の前晩のミサから、都合4回もこの誤変換を見て説教をしたが、本当に嫌気がさしてしまった。ミスに気づかないわたしに責任があるのだが、だんだんミスに気づかないようになっているのかもしれない。悲しいことだ。
▼聖香油のミサに参加した。このミサの後、司祭の集いも開かれ、25周年、50周年、60周年、そして司教に叙階されることになった被選司教さまがお祝いされた。この先輩方を見ながら、長くこの務めを果たすために、健康にはくれぐれも気をつけなければならないと感じた。
▼いくら何でも25周年は迎えることができるだろうが、50周年はよほど健康に留意しないと、お祝いしてはもらえないだろう。ギリギリそこまでたどり着けるかもしれないが、今年は60周年の対象者もいる。立派だなと思う。
▼矛盾しているかもしれないが、ある意味「この世」に死ななければ、長生きできないのではないかと思った。「この世」は命を縮める要因に溢れている。タバコ(受動喫煙も含めて)、パチンコその他のギャンブル、食べ物の好き嫌い、過度の飲酒、生活習慣。数えればきりがない。
▼それら「この世」に死ぬことが、この世でも生きることにつながるのではないだろうか。予測できないことは仕方がないとしても、みずから望んで不安要因を抱えて生きる必要はどこにもない。十字架上のイエスが、「わたしに従いなさい。」と呼びかけている。

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新企画今週の1枚
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第136回目。聖金曜日。司祭が床に伏す(ひざまづく)場面から始まる。
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聖木曜日(ヨハネ13:1-15)弟子をすべて、愛し抜かれた

2011-04-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/04/21(No.528)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
弟子をすべて、愛し抜かれた
‥‥‥†‥‥‥‥

今日は聖木曜日、主の晩餐を祝う日です。イエスは2つの奉仕をなさいます。食事を用意してくださることと、弟子たちの足を洗うことです。どちらも、今日の朗読の冒頭に書かれている弟子たちへの愛が、根底にあります。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13・1)

イエスによる食事の用意は、御自分を与え尽くす愛です。食事は、パンとぶどう酒のごくありふれた食べ物を通して、イエスの御体と御血を、弟子たちに与えます。イエスはこれまでに数々の教えを与えてくださいましたが、この場面ではイエスご自身を、すべて余すところなくお与えになるのです。

そして、一人一人弟子たちの足を洗います。足を洗う仕事は、奴隷の仕事とされていましたが、その奴隷の仕事の中でも、最も低い身分の奴隷にあてがわれていた仕事なのだそうです。自分がかわいければ、この仕事を最も低い奴隷に代わって引き受けることは決してできません。イエスは、弟子たちを深く愛して、最も低い身分に与えられる務めを引き受けたのでした。

今日、わたしもこの出来事に倣って洗足式をいたしますが、あらためて、洗足式の心構えを考えさせられました。イエスが、最下層の奴隷の身分にまで降りていった。そこに自分も留まる。そういう覚悟を新たにしています。

イエスの、食事を通して示された「与え尽くす愛」、弟子たちの足を洗うことで示された「愛し抜く姿」を、イエスを信じるわたしたちも受け取りましょう。わたしたちの身の回りでも、「与え尽くす愛」「愛し抜く姿」を求められている場面があるのではないでしょうか。

今日までは相手をゆるすけれども、明日になったらもうゆるすことはできない。今日までは愛情を示すつもりがあるけれども、それももうおしまい、あすからは決して愛すつもりはない。そんな困難な場面にも、イエスは御自分の模範を示そうとします。「わたしに倣いなさい」と。

最大限努力して、世話をしてきたけれども、疲れ果ててその場を投げ出したい、その場から逃げ出したい。そんなあなたを、イエスは呼び寄せて、聖体の秘跡で養い、あなたの足を洗って困難な場面から救い出してくださいます。

ある人は、「わたしの足など、決して洗わないでください」(13・8)と言うかもしれません。「教会に行っても前に座れるような人間ではないのです」と、考えている人がいるかもしれません。

けれども、イエスは今日の夕食の席で、だれも裁いたりはしないのです。全員を愛し抜こうとしておられるのです。ですから足を洗わないでくださいと拒んでいるあなたも、イエスは愛し抜こうとしておられるのです。

イエスの招きに、すべてをゆだねましょう。イエスが愛し抜いた人は、変えられていきます。イエスの愛によって変えてもらい、この世の罪な生き方に死んで、命に満ちた生き方に生まれ変わることができるように、主に願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
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ちょっとひとやすみ
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▼受難の主日の説教をメールマガジンで配信した直後、いろんな人からメールでお便りをいただいた。メールマガジンが役に立っているのだと、あらためて実感する一コマである。
▼身近な人に役に立てる人になることはだれにでもチャンスが巡ってくるが、見ず知らずの人にも役に立つということはそうチャンスがあるわけではないので、わたしにとってはかけがえのない仕事だと感じる。
▼最近長崎でインターネットを使ってメッセージを発信している人を知らないかと聞かれたことがあるが、わたしは把握していない。確かなことは言えないが、司祭がみずからメッセージを発信している例はないのではないかと思う。寂しい限りである。
▼長崎教区でインターネットを使ってメッセージを発信しているサイトを検索するが、同業者を見つけることができない。違う教区の司祭はあちこちでサイトを立ち上げている。どこかに立ち上げているのかもしれないが、一時間探してみたが、見つからなかった。
▼あちこちサイトが立ち上がっているのは心強いのだが、長崎教区には45歳のわたしよりも後輩が36人もいる。何かが立ち上がっていてもおかしくないのだが、わたしはそれを聞いたことがないし、見たことがない。
▼どういう事情かは分からないが、後輩たちが一日も早く、ネット上での活動に着手して、経験を積んでほしい。長崎教区からの発信がいろいろ出ることで、今までとは違った交流や、関心を持ってもらえるはずだ。わたしがこの活動を継続できるのも、せいぜいあと30年なのだから。

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新企画今週の1枚
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第135回目。写真中央下に、市議会議員選挙掲示板。カトリック信徒もいます。
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受難の主日(マタイ27:11-54)今は恵みの時、今は救いの日

2011-04-17 | Weblog
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「今週の説教」
11/04/17(No.527)
‥‥‥†‥‥‥‥
受難の主日
(マタイ27:11-54)
今は恵みの時、今は救いの日
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今日、受難の主日のために、福音書が2度朗読されました。最初の朗読は、エルサレム入城記念です。イエスは、最後の日々をエルサレムで迎えるために、お入りになります。預言者の言葉が引き合いに出されています。その中で、王であるイエスは華やかな王ではなく、「柔和な方」です。

また、「荷を負うろばの子、子ろばに乗って」とあります。「荷を負う」のは、今も昔も変わらないかもしれませんが、身分のある人、王の務めではありません。王の僕が、通常であれば荷を負うはずです。荷を負う仕事は、苦しみを伴う仕事だからです。

するとイエスは、柔和な方であり、荷を負う方であり、荷を負うことで苦しむ方であるということになります。その決意のもとに、エルサレムに入られるのです。このことを踏まえて、二度目の福音朗読を考えてみましょう。

朗読はマタイが描く受難の場面です。イエスはほとんど口を開きません。弁明をしない姿は、最後まで柔和を保った姿です。十字架に磔(はりつけ)にされている姿は、荷を負う姿、苦しむメシアの姿です。わたしたちは、十字架の上から問いかけているイエスと、向き合わなければなりません。

イエスを取り囲む群衆がいます。彼らの態度は真っ二つに分かれています。柔和な姿、荷を負う姿、苦しむメシアの姿をしたイエスを見て、心をかたくなにする人々と、心を開き、イエスにより頼もうとする人々です。

イエスは問いかけています。あなたは、わたしのこのような姿を見て、心をかたくなにするのですか、心を開き、わたしにより頼もうとしますか。最後まで柔和に、荷を負い、苦しむイエスはわたしたちの救い主ですと、今まさにより頼むことができるでしょうか。

イエスに倣って、わたしたちも生活の中で柔和を保ち、進んで荷を負い、苦しみを逃げませんと、正面向いて答えることができるでしょうか。今日はそのことが問われていると思います。イエスに倣って生きますと答える人に、イエスはまことの自由、まことの解放をお与えくださいます。

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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼過ぎた一週間は外に出てばかり。広報誌の割り付け、音訳養成者の講座で講話、鹿児島で九州視覚障害者情報提供施設の大会、広報誌の校正と、ほとんど教会を留守にしていた。
▼先週の熊本とあわせ、今週もまた新幹線「さくら」に乗った。静かで、早い。ただ今回の鹿児島行の新幹線では、悲しいことに切符を失くしてしまい、どうしても見つからなかったので買い直す羽目になった。
▼どうして無くしたのか、思い出せない。自動改札を通過したし、何両目のどの席まで、切符を見て確認し、車両に乗ったのに、座席に座る前に切符を確認してから座ろうと思ったら、切符が見当たらなかった。
▼ショックで、鹿児島で過ごした時間はわたしの中では遠い思い出のようになっている。どこかで切符を手放したのだと思うが、数十メートルのどこかで落としたのであれば、周囲の人も「落としましたよ」と言ってくれそうなものだ。本当にわからない。
▼ショックを受けたと言えば、月曜日にもガッカリする出来事があった。長崎の大波止ターミナルで、五島産業汽船の窓口に帰りの切符の引換券を差し出したところ、窓口の女性が「鯛ノ浦には車を置いて長崎に出ましたか?」と尋ねられた。
▼はいと答えると、車種を聞いてきたので、「ホンダの・・・」とそこまでは出たのだが車の名前が出て来ない。「えーっと、ナンバーは228、紺色です・・・名前・・・思い出せません。」とうとうその場で名前が出ずに、正式な切符と引き換えた後、待合所で車の名前を思い出そうと真剣に悩んだ。
▼頭の中で、車が出て来た。しばらくしてようやく、「あっ、SM-Xだった」とようやく思い出し、恥ずかしかったが窓口に戻って「車の名前、思い出しました」と告げた。「中田さんですね。SM-Xでしたか。到着時に駐車場に回しておきます。」と答えてくれた。きっと、「この人認知症だわ」と思ったに違いない。

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新企画今週の1枚
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第134回目。鹿児島まで行ったのに、こんな写真しかないのか・・・
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四旬節第5主日(ヨハネ11:1-45)人の死の場面でも、神は寄り添ってくださる

2011-04-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/04/10(No.526)
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四旬節第5主日
(ヨハネ11:1-45)
人の死の場面でも、神は寄り添ってくださる
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四旬節もいよいよ大詰め、来週は受難の主日を迎え、ご復活へと進んでいきます。福音朗読は、ラザロを生き返らせる場面でした。これはいわゆる「奇跡」の物語なのですが、ヨハネ福音書が取り上げている奇跡は6つあります。覚えておくとためになりますので、取り上げている順に並べてみたいと思います。

まず、カナの婚礼で、水をぶどう酒に変える奇跡です。次いで、役人の息子をいやす奇跡、ベトザタの池で病人をいやす奇跡と続き、五千人に食べ物を与える奇跡があって、先週朗読した生まれつき目の不自由な人をいやす奇跡と、今週のラザロを生き返らせる奇跡です。

人間の苦しみに無関心でいられない神は、さまざまな奇跡を通して人間に深くかかわり、神の栄光を現わします。ヨハネ福音書が取り上げた6つの奇跡は、神が人間により深くかかわる様子が順を追って描かれているように思います。

カナの婚礼で水をぶどう酒に変える場面では、マリアに「ぶどう酒がなくなりました」(2・3)と声をかけた時、「わたしとどんなかかわりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」(2・4)と答えて、かかわり方はそれほど深くないように思われます。

役人の息子をいやす時にも、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(4・48)と仰るし、直接出向くことはなくてイエスの言葉を信じて帰ると、奇跡が起こって役人の息子は元気になりました。

ベトザタの池で病人をいやす時には、イエスはこの病人が三十八年間という長い間病気であることを知って、一人の人生全体にかかわろうとしています。さらに、五千人に食べ物を与える奇跡は、数え切れないほど多くの人の苦しみを放っておけない神の姿が現れました。

生まれつき目の不自由な人のいやしの場面では、いやされる人は生まれてくるときからの障害のため、本人が罪を犯したからとか、両親が罪を犯したからとか、いわれのない非難を浴びて、苦しみを抱えて生きて来たのでした。この物語では、障害に加え、いわれのない罪まで背負わされた深い悲しみに、神が寄り添う姿を現しています。

そして、今週のラザロの生き返りの場面です。周囲の人々はこんなことを言っていました。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(11・37)この言葉は、たとえイエスであっても、死という絶望を味わうような人間の場面では、寄り添うことはできないだろうという考えです。

イエスは、人間の絶望的な場面こそ、神が深くかかわることを証明します。大声で叫びました。「ラザロ、出て来なさい。」(11・43)こうして、ヨハネ福音書が書き記した6つの奇跡の場面は、限られた中でのかかわりから始まって、絶望的な場面にも、神が深くかかわるということを順を追って説明しているのです。

ヨハネ福音書が6つの奇跡で示そうとした人の苦しみに無関心でいられない神の姿は、だれのためのものでしょうか。直接には、ヨハネが福音書を書いた当時の共同体のためだったでしょう。けれども、当時の共同体のためだけであれば、書物に書き残す必要はありません。

書物に書き残したということは、後の時代の人々に、イエスが人の苦しみに無関心でいられない神を生き生きと示しているのだと伝えたかったのではないでしょうか。後の時代の人々、すなわち、ヨハネ福音書を読むすべての人に、神はどんなお方であるかを示そうとするイエスを告げるためにも、書き残しているということです。

当然、ヨハネ福音書を読むすべての人の中には、わたしたちも含まれています。四旬節の大詰めを迎える今日、イエスはラザロの生き返りを通して、わたしたちにも「絶望的な状況にあっても、神はあなたのそばにいて寄り添ってくださる」と語りかけているのです。

イエスはラザロを生き返らせた後、ベタニヤで香油を注がれ、エルサレムで人々の歓迎を受けます。エルサレムでは、「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。」(12・17)とありますから、イエスをたたえる群衆の中には、ラザロの生き返りを目の当たりにした人々も加わっていたのでしょう。

わたしたちも、受難とご死去、ご復活につながっていくエルサレムに、イエスと共に向かいましょう。今週ラザロの生き返りから「絶望的な状況にあっても、神は寄り添ってくださる」ことを学びました。今週の学びは、わたしたちにも人々に証しする機会を与えてくれます。わたしにも、証しを立てようとしているあの人にも、神は寄り添ってくださる。そのことを、多くの人に知らせましょう。

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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(マタイ27:11-54)
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ちょっとひとやすみ
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▼最近、趣味の釣りに2週連続で行った。「うちの主任司祭は全然運動しない」と、心配をしてもらっているが、ケータイに付属のウォーキングカウンターがある日1万2千歩を記録してびっくりした。その日、その時間に歩いた覚えはない。よく考えると、ボートの上で2メートル近い波と格闘していた時だ。3時間、大きな波に揺られていたのが、どうやらカウントされたらしい。
▼その後、長崎本土に出かける日があり、翌朝、滞在した大司教館から船に乗るターミナルまで、朝の6時に起きて歩いて向かった。この日も9千歩を超えていた。これで、今月分の運動は終わり。あとは、週2回のミニバレーと、月3回くらいのテニス。これくらいか。ひどい日は、1階の食堂と、2階の執務室と、トイレに行くだけで、数百歩しか歩かない日もある。総合検診はきっと赤信号だろう。
▼ミサのお手伝いをしてくれる侍者に、新人3人が加わった。女の子ばかりだが、2年生の子がよく1年生の面倒を見てくれて、うまくローテーションは回りそうである。まだ戸惑っている侍者に、こちらが動きを合わせて、侍者デビューの日はなんとか無事に終えた。
▼マリア文庫(視覚障害者のためのボランティア)の関係で、熊本の国立ハンセン病施設を訪問した。わたしは事情があって現地で合流。会員の皆さんはタクシー会社のマイクロバスで先に訪問地に入っていた。わたしは特急と新幹線、さらに私鉄を乗り継いで現地に入った。おかげで、九州新幹線に一足先に乗ることができた。早い。静か。
▼最近、長崎の行き帰りが相当体に堪えている。帰って来るとぐったりとなって、何かをしようという気になれない。こんな生活いやだなぁと思っていたのだが、通勤2時間という人は都心にはざらにいるのだろうから、それを考えたら五島-長崎の往復は変わらないかもしれない。そう思うようにして、これからも頑張ろうと思う。

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新企画今週の1枚
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四旬節第4主日(ヨハネ9:1-41)だれもがイエスに種蒔かれ、呼び戻されている

2011-04-03 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/04/03(No.525)
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四旬節第4主日
(ヨハネ9:1-41)
だれもがイエスに種蒔かれ、呼び戻されている
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3月31日と4月1日で、上五島地区の神父さまがずらっと入れ替わりました。あと1人、地区長となる青方の主任神父さまが8日に赴任してきますが、思いっきり若返りました。11人の司祭のうち、30歳代と40歳代が8人になりました。

あと3人は、先輩とはいえ70歳にはとても見えないダンディーな神父さまと50代の神父さま2人ですから、最強のメンバー構成と言ってもよいかもしれません。大司教さまも若手をたくさん上五島に配置してくださって、気前がいいですね。

今回おいでになった神父さま全員が、上五島に赴任することを手放しで喜んでいるか、わたしは分かりませんが、上五島の神父さまの団結力や絆を知ったときに、あー、この地区に赴任してよかったなぁときっと思ってくれると思います。

新しく入ってこられた神父さま方が、上五島に魅力を感じてもらえるように、転勤のなかった浜串・鯛ノ浦・土井ノ浦・真手ノ浦の4人の司祭は、上五島地区の魅力を示す必要があるでしょう。

さて、今週の福音朗読は、生まれつき目の不自由な人がいやされる場面が選ばれています。この人が身に受けている障害は、イエスの言葉の通り、「神の業がこの人に現れるため」(9・3)でした。イエスは、人々が神の働きを知り、神をたたえるためにこの人を使っておられるということになります。神は、いろんな場面で人を使います。

まず、朗読箇所を大きく見渡すために、ヨハネが組み込んだ仕掛けを読みとりましょう。この物語に、ヨハネは3つの場面を組み込んでいます。第1の場面は、生まれつき目の不自由な人とイエスが出会う場面です。イエスは奇跡をおこなって、目が見えるようにしてくださいました。

第2の場面は、ファリサイ派の人々が、いやされた人と、ここでは省略されていますが、その両親を問い詰める場面です。当時の宗教指導者であったファリサイ派の人々は、奇跡によって心の目も開かれ、イエスを信じ始めている人を完全に否定しようとします。そしていやされたその人は、町の外に追い出されてしまいます。

第3の場面は、再びイエスと出会う場面です。「あなたは人の子を信じるか」(9・35)とイエスが語りかけると、いやされた人はその場でイエスを救い主と信じ、イエスにひざまずきました。

この3つの場面は、ヨハネが物語に組み込んだ「仕掛け」として働いています。かいつまんで話すと、「ある人にイエスとの出会いがあり、イエスを信じ始めたその人は迫害を受け、町の外に追い出されるが、イエスと再び出会い、イエスへの信仰を固めてもらう」というものです。

これがなぜ「仕掛け」なのかと言うと、この物語の登場人物、「生まれつき目の不自由な人」だけが、イエスとこのような出会いを果たすのではなく、イエスを信じるすべての人が、同じ道を通る。そういうことを考えさせるために、物語の中に仕込まれているからです。

つまり、「ある人にイエスとの出会いがあり、イエスを信じ始めたその人は迫害を受け、町の外に追い出されるが、イエスと再び出会い、イエスへの信仰を固めてもらう」この一連の流れは、わたしたちにも起こりうる物語だということです。神は、このわたしの人生の中にも、今週の福音朗読の登場人物と同じ「仕掛け」を、組み込んでおられるのではないでしょうか。

たとえば、限られた地域では次のようなことがあるかもしれません。教会活動に熱心だった人が、ある時から教会に寄り付かなくなって、何年も姿を見せなくなるというようなことです。

教会に寄り付かなくなった原因はいろいろでしょうが、特に主任司祭と折り合いが悪くなって、教会に近づかなくなるということはよくあるのだと思います。本当に、この点では司祭は反省をしなければならないはずです。わたしも含め、信徒の方への応対がまずかったために、救えるはずの人を救えなかったり、信徒のやる気を失わせたりするのです。

恐らく今日が上五島での最初の説教をしている神父さまもいるでしょう。お互い、過ちを犯す可能性があること、それが、信徒に対して躓きになってしまったときに、信徒はもう教会を信頼できなくなって離れていってしまうことを、肝に銘じたいと思います。

何らかの理由で歩んできた信仰が試練に遭い、教会の外に出てしまい、自分で戻ることができないくらい教会との距離を感じてしまったとしましょう。こんな時、まずは司祭がしっかり手を打たなければなりませんが、司祭が、問題の原因であれば、教会の信徒も間に入ってあげるのは難しいかもしれません。

そうなったとき、その信徒はどうなるのでしょうか。イエスは、こんな厳しい場面に立たされた信徒を、探し出してくださいます。信仰の歩みを1歩ずつ歩み始めていたのに、じゃまもの扱いされたり、迷惑がられたり、熱心さがかえって妬まれたりして、教会に居場所がなくなって遠ざかってしまう。

そんな人を、イエスはもう一度探し出して、「あなたは人の子を信じるか」(9・35)と言われるのです。イエスはあなたがどこにいても、必ず探し出して、もう一度教会の家族につなぎとめてくださいます。

すべての人が、イエスによって信仰を種蒔かれたのだから、迫害や、試練や、信仰にむなしさを感じて一時期離れていても、最初に種蒔いてくださったイエスが、もう一度探し出して連れ帰ってくださるのです。

そうして教会家族に呼び戻されたら、恐れずに信仰を表してほしいと思います。しばらくの試練を乗り越えたあなたは、イエスに呼び戻された人なのですから、もはや何も恐れる必要はありません。生まれつきの障害を乗り越えた今日の登場人物のように、日々言葉と行いで「主よ、信じます」と信仰を証ししていきましょう。そのための力と恵みを、このミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ11:1-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼ある日の朝の、漁協の案内放送。「ただ今、浜串漁協センター前にて、アジ1キロ200円にて販売しております。ご利用の方はお早めにお買い求めください。繰り返し・・・」この集落では、アジは1キロで200円らしい。
▼このアジを買い求めて、朝からアジの刺身を食べている。もっと言うと、あえて買わなくても、「神父さまに食べさせてあげて」と、わざわざ買ってきてくれる人がいるので、最近は買わずに待っている。すると、「果報は寝て待て」ということで、ちゃんと手に入る。
▼アジの刺身は、読者の皆さんはしょう油で食べるのだろうか。わたしはもっぱら、「ヌタ(酢ミソ)」で食べる。それも、酢がきつめのほうがお好み。元来は酸っぱいものは嫌いなのだが、酸っぱい「ヌタ」が幼いころの味なので、これでないと落ち着かないのである。
▼こうして朝からモリモリ食べるので、運動不足になる。「『~になる』で落ちを付けずに、運動したらどうだ?」と言われそうだが、週2回2時間ずつのミニバレーと、たまのテニスと、たまの魚釣り以外は、今のところ積極的に運動はしていない。もちろん宣言したとおり来年の司祭団マラソンは1時間を切るつもりだが、練習にはまだ気持ちが乗らない。
▼転勤でやって来た司祭たちは、ちょっと緊張気味だった。上五島での司祭生活は、きっと忘れられない思い出になるだろう。上五島でしか味わえないことを、いろいろ味わって、1日1日を積み上げてほしい。いろんな出会い、純粋な子どもたち、熱心な信徒、かけがえのないこれからの日々にエールを送りたい。
▼そう言えば、気になっている人と話をする機会があった。電動シニアカーで移動するおじさんと、ようやく話をした。移動は電動カーなのに、船に乗り、アラカブ釣りに欠かさず出ているおじさん。「おとうさん釣れてる?」「昨日はあまり釣れとらん。一昨日は23匹釣れた。いつも同じ場所にしか行かない」これだけだった。おじさんにしてみれば、緊張していて、ようやくこれだけの言葉を絞り出したのだろう。1年分の会話。貴重な会話だった。

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新企画今週の1枚
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第132回目。釣れた魚と、転勤してきた司祭たちが含まれている1コマ。
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