こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)「見ないのに信じる人」になるために(再)

2014-04-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/04/27(No.707)
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神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
「見ないのに信じる人」になるために
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今週は復活したイエスがトマスに現れる場面です。「見ないのに信じる人は幸いである」というイエスの言葉に耳を傾けたいと思います。

最近、玄関にオレンジの紙に「エホバの証人お断り」とメモを書いて貼り付けました。去年の流行語をもじって「お・こ・と・わ・り」と書いてみました。去年のご復活のころに訪ねてきたので、先回りです。

25日(金)に、今年の人事異動で旅立つ神父さまと、新しく来られる神父さまの見送り・出迎えをしました。旅立つ神父さまには「新しい任地で頑張って」と、お迎えする神父さまには「ようこそ、そして一緒に上五島の教会を盛り立てていきましょう」という気持ちになりました。

前任者とタイプの違う神父さまがやってくるたびに、司祭同士、司祭と信徒で、どんな化学反応が起こるか、楽しみでもあるし気にもなります。たいていは楽しみのほうが多いです。

直接の司牧には関係ないですが、ソフトボールのチーム編成で考えると、今年上五島に赴任してくる3人の神父さまのうち、2人はかなりの戦力補強ですが、1人はわたしの知る限り運動音痴です。まぁそれも含めて、違った化学反応を楽しみにしています。

さて福音朗読では、弟子たちのもとへ復活したイエスが現れて、大騒ぎになっていました。トマスはその場に居合わせなかったのですが、やはり出来事に乗り遅れたという感じがあったのではないでしょうか。

トマスは何か当てつけのように「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(20・25)と言い張ります。

そんな意地悪なことは言わず、すぐに信じたいという気持ちも彼の中にはあったかもしれません。けれども、トマスの心の中の何かが邪魔をして、弟子たちの喜びの輪の中に加われなかったのでした。

もし、このまま出来事が終わって、イエスがトマスに現れなかったとしたら、不幸な結末になっていたかもしれません。イエスの復活を信じられないまま、弟子たちの一団からも離脱していたかもしれません。

もはやだれも、トマスの心を開くことができなくなっていたところに、復活したイエスが再び現れてくださいます。イエスはトマスにいつくしみを示し、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(20・27)と諭してくださったのです。

トマスは「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)と答えました。わたしは、ここで話は終わっているのだと思っています。この時点でトマスは復活したイエスに心を開き、信じる人に変わっているからです。

すると、そのあとに続くイエスの言葉「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20・29)は、トマスにだけ向けられた言葉ではなく、後の人々、わたしたちも含めてイエスを信じようとするすべての人々のために向けられた言葉だと思うのです。

「見ないのに信じる人は、幸いである。」イエスは、何を「見ないで信じる」と言っておられるのでしょうか。もちろん、復活したイエスを見ないで信じるということがまずありますが、その意味だけでしたら、ほとんどの人が見ない人に含まれます。

すると、「見ないで信じる」という意味は、もう少し考える必要があるでしょう。朗読の中から、トマス自身にも、わたしたちにも当てはまりそうなものを拾ってみたいと思います。意外に思われるかもしれませんが、トマスは、彼がいない間にイエスが弟子たちに息を吹きかけながら言われた言葉の意味、これを見ていないのではないでしょうか。

「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(20・22-23)

これだけでは分かりづらいかもしれません。少し言葉を補うと、イエスが聖霊を送り、罪を赦す権能をお授けになると約束したのは、その場に居合わせた弟子たちだけを考えていたのではないということです。イエスは、トマスも含め、11人の使徒すべてに権能をお授けになったのです。トマスはそのことを見抜き、信じることができませんでした。

イエスは、確かにトマスも含めて、聖霊を受け、罪を赦す権能を受けることになるとお考えでした。それは例えて言えば、卒業式の日に、風邪を引いて欠席者がいるようなものです。学校の校長は卒業証書を手渡しながら、出席している人だけ卒業したと考えるでしょうか。むしろ、出席できなかった生徒を気遣いながら、式を進めていくと思うのです。

そのように、イエスはご自分がお選びになった弟子すべてが聖霊を受けることになる、罪の赦しを与える者となると考えておられたのです。トマスはそのことが信じられなかったので、もう一度トマスにも現れ、神のいつくしみを示されたのではないでしょうか。

復活したイエスは、ご自分の11人の使徒に対してだけでなく、イエスを信じるすべての人にも、同じ体験を用意しておられます。かつてイエスはニコデモに、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(3・5)と言われました。

これは洗礼を暗示していますが、わたしたちにも同じことを言っているはずです。そこで問われているのは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20・29)ということなのです。

わたしたちも、トマスと同じように、自分のためにも約束してくれた、そういう恵みを信じることが求められていると思います。最後の晩餐でご自分をお与えになると約束しましたが、今イエスは復活なさって、わたしたちにもご自分を与えてくださるのです。わたしたちはそこで、「見ないのに信じる」という信仰のわざが求められています。

「見ないのに信じる人は、幸いである。」イエスの約束に、わたしたちを加えてくださいと、このミサの中で願うことにいたしましょう。


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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:13-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼書こうと思ったことを巡回教会で思い付き、忘れないうちに書いておこうと思って浜串教会に戻って机に座ったのに、何を書こうと思っていたのか思い出せない。情けないやら悔しいやら。タイムリーな内容を思いついたような気がしたが、消えてしまった。
▼広島カープ。首位にいるというのは本当に気持ちのいいものだ。テレビを見ていてスポーツコーナーに「首位の広島は・・・」と必ず大きく取り上げてもらえる。先日は野村謙二郎監督が二塁塁審に食ってかかり、遅延行為を働いたとして退場になった。
▼あの物静かな監督が飛び出したのだから、判定に明らかなミスがあったのだろう。ニュースダイジェストでしか見ることができなかったが、サンスポの興奮した監督の写真を見ていてこちらが興奮した。広島はかつてブラウン監督という名物監督もいたことだし、今年は大いに観客を沸かせてほしい。
▼広島のドラフト1位大瀬良大地投手が4月24日の登板で2勝目を挙げた。楽天のゴールデンルーキー松井は23日の登板も振るわず、1軍登録を抹消され、代わりに1軍登録された2年目の森投手が初勝利。楽天よ調子を上げてくれ。日本シリーズを広島と楽天でやろうじゃないか。
▼オバマ大統領が来日した。長崎は被ばく者との面会や、長崎訪問を期待していたが、厳しい日程のためか実現しなかった。わたしも、アメリカ大統領はいつか長崎・広島を訪問してほしいと思う。核兵器を持つということは、過去にも責任を持たなければならないと思う。

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今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第314回目。鯛ラバーでの釣りに誘ってもらい、初挑戦だったが大漁だった。

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復活の主日(日中)(ヨハネ20:1-9)イエスの復活は人を新しい見方に導く

2014-04-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/04/20(No.706)
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復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
イエスの復活は人を新しい見方に導く
‥‥‥†‥‥‥‥

あらためて主の復活おめでとうございます。今年の聖週間、いちばん悔やまれるのは聖火曜日です。前もって聖週間のミサ日程を配って、聖火曜日に浦上での聖香油ミサに参加するので浜串の朝ミサは休みにしていました。

今年は聖木曜日を福見教会で行いましたが、ミサができた日を数えると、福見教会は月曜日、木曜日、復活徹夜祭で、浜串教会は聖火曜日を休みにした関係で水曜日と復活徹夜祭しかミサができませんでした。

今年のような典礼当番の年は、聖火曜日は絶対に休まないほうがいいと思いました。次回以降の反省として、活かしていきたいと思います。もちろん、その時までわたしが居れば、という条件付きです。

では福音朗読に移りましょう。今年の学びを得るために、「見る」という動作について考えてみたいと思います。3つ取り上げます。マグダラのマリアが、「墓から石が取りのけてあるのを見た」(20・1)これが1つ、次にシモン・ペトロが「墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た」(20・6)という場合、そして最後にイエスが愛しておられたもう一人の弟子も墓に「入って来て、見て、信じた」(20・8)この3つを振り返りましょう。

マグダラのマリアが墓から石が取りのけてあったのを見たのは、遠目から見て、あまりにもびっくりして引き返したと想像できます。彼女は慌てていて、よく考えると墓の中は見なかったのに「主が墓から取り去られました」(20・2)と言ったのかもしれません。

次にペトロは、墓に入り、亜麻布を見ました。亜麻布はイエスのご遺体を包んでいたものですから、何かが起こったことを予感させます。けれども、まだこの時点でペトロはイエスの復活に思い至りませんでした。

最後に、イエスが愛しておられたもう一人の弟子は、「入って来て、見て、信じた」のでした。ここで見落としてはいけないのが、「何を見たのか」が書かれていないということです。状況からして、墓の様子を見て、信じたということでしょうが、ヨハネ福音記者はわざと、「何を見たのか」を示さず、最後の場面は特別な「見る」であったことを読者に考えさせているわけです。

特別な「見る」とはどういうものでしょうか。それは例えば、人が人に「眼で合図をする」そういう場合に似ています。「こちらに来なさい」とか、「次はあなたの番だ」とか、相手に目を遣るだけで、相手が理解することがあります。お互いに目が合った時、目に何かが書いてあるわけではありませんが、相手はその意図を汲み取るのです。

それは、「見る」ということが「理解する」ということと同じ働きをしているとも言えます。イエスが愛しておられたもう一人の弟子の「見て、信じた」というさまは、「すべてを理解し、そして信じることができるようになった」ということだったのです。

イエスは復活し、墓から出て行かれました。墓に向かった人々は、イエスを見ませんでした。けれども空の墓を通して、復活したイエスはこの人たちを「ちらっと見る」段階から「よくよく見る」段階へ、そして最終的に「すべてを理解し、信じる」段階まで導いてくださるのです。

それはわたしたちにとっても同じことです。イエスの復活は、わたしたちの生活に起こる出来事を、「なんとなく見る」状態から「よく見つめ直す」状態へ、そして最後に「出来事の意味を理解し、その出来事を通してイエスを信じる」ところまで導いてくださるのです。

わたしたちには、簡単には理解できないことがいろいろ生じます。家族を失うこと、人生の大きな挫折を味わうこと、取り返しのつかない失敗などです。こうした深い闇、悩みを、「見る、さらによく見る、そして意味を理解し、イエスに感謝できる」そこまで、復活したイエスは導いてくださるのです。

ここまで導いてくださる復活したイエスが、わたしにとって大切な方であるなら、自分ひとりにとどめず、イエスを知らない人に告げ知らせるべきです。出来事の意味を見いだせず、途方に暮れている人に、意味を理解させてくださるのは復活したイエスだと知らせに行きましょう。イエスの復活は、わたしたちを行動へと駆り立てるものなのです。

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‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
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ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖週間の火曜日、この日は浜串教会のミサの日で、ミサの時間は朝6時。前日、実家に帰り、夜中の1時に浜串に帰り着いた。それから準備をしてベッドに入ったのだが、朝とんでもないことになっていた。朝目覚めたのは6時9分だったのである。
▼驚いてパジャマのまま祭服を着替える「香部屋」という部屋に向かった。だが信者が集まっているわけでもなく、ミサの準備もなされていない。どういうことだろうと頭が混乱しながらも、ひとまず着替えてもう一度香部屋を覗きに行った。やはり誰もいないし、その後司祭館のチャイムを鳴らす人もいなかった。
▼キツネに包まれた状態でフェリーターミナルに向かい、朝8時のジェットフォイルで長崎へ。長崎では聖香油のミサに参加し、年齢の近い司祭にこの日のことを話すと、「そりゃぁきっと、ぐっすり寝ているお前に遠慮して、声をかけなかったんだろう」と言う。
▼しかし、わたしの印象ではミサ前の教会の鐘も聞こえなかったし、ミサが始まる前の祈りも聞こえなかった。聖香油のミサを終え、夕方に浜串の司祭館に帰り着くと、まだ賄いのシスターが残っていたので、恐る恐る「今朝、何が起こったの?」と尋ねてみた。
▼するとシスターは、「わたしたちは福見修道院からミサのために浜串教会に来たんです。けれども、教会の電気はついてなかったし、祭壇もミサの準備はなされていませんでした。『火曜日の朝ミサはお休みです』って言ってたかもしれないなぁと思いつつ帰りましたよ」と答えてくれた。
▼最後の最後に思い出した。「聖週間のミサ日程」というのを早くに配布していた。よく見ると、「火曜日、聖香油のミサで長崎行き。浜串の朝ミサ休み」と書いてある。ようやく合点がいった。配布した日程表からまた変更になったことを知らせなかったから、日程表の通りに浜串教会の信者さんは休んだのである。朝ミサは可能だったので、大事な聖週間に、1日分のミサを取り上げてしまい、申し訳ないことをしたと思っている。

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今週の1枚
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第313回目。30人ほどの小さな小さな復活の主日。高井旅教会にて。

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復活徹夜祭(マタイ28:1-10)暗闇を打ち破られた主を、夜を昼にして祝いましょう

2014-04-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/04/19(No.705)
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復活徹夜祭
(マタイ28:1-10)
暗闇を打ち破られた主を、夜を昼にして祝いましょう
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主のご復活、おめでとうございます。今年の復活のメッセージとして、「確かに、あなたがたに伝えました」という天使の言葉を選びたいと思います。

イエスが埋葬された墓のわきに現れた天使は、婦人たちに弟子たちへの伝言を残しました。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」(28・7)

「確かに、あなたがたに伝えました。」この言葉から、2つのことを拾いたいと思います。1つは、天使の言葉の向こうには、さらにそれを伝えるように命じた神がおられるということです。神から託された言葉なので、「伝えました」という言い方になりました。

このことは、次の反応を引き出します。つまり、出来事の向こうにおられる神の働きを信じるかどうか、ということです。今目にしている出来事の向こうに、神が働いておられると直感した人には、次の段階が用意されています。しかし、神の働きを信じることができなければ、その人はもはやさらに踏み込んだ神との関わりには招かれないのです。

イエスの墓のそばで、主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座りました。この様子を墓の番人として命じられた番兵たちと、墓を見に来た婦人たちの両方が目撃しました。ところが番兵たちは、目の前で起こっている驚きの出来事の向こうに神が働いておられると、信じることができなかったのです。彼らは目の前の出来事に恐れをなし、死人のようになってしまいました。

婦人たちは、幸いに目の前の出来事だけに振り回されずに、その向こうに神の働きを見たので、天使の言葉を信じることができました。天使の言葉を信じた彼女たちは、同じ天使の言葉で次の段階に進みます。

「確かに、あなたがたに伝えました」天使の言葉はもう1つ、婦人たちに行動を起こすよう期待しています。行動を起こして、イエスの復活の証人になること。天使の言葉を信じた人が行動を起こすことで、さらに踏み込んだ神との関わりが用意されます。

「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って」(28・8)行きました。すると間もなく、その行く手にイエスが立っていて、「おはよう」と言われたのです。天使の言葉を信じ、行動を起こした彼女たちは、もはや叶わないと思っていたイエスとの再会を果たしました。しかも、復活したイエスです。

墓に眠っているイエスしか想像していなかった彼女たちには、大きな恵みとなりました。死の暗闇に置かれていたイエスは、今暗闇を打ち破り、この世の光として婦人たちの前に現れます。イエスはご自分弟子の暗闇を打ち払われますが、婦人たちの心にあった暗闇も取り去り、婦人たちを解放してくださったのです。イエスの復活は、死の暗闇からの解放です。イエスご自身のためだけではなく、出来事の向こうにある神の働きを信じた婦人たちの心も、暗闇から解放してくださいました。

婦人たちが体験したことは、復活を信じるすべての人も体験可能な出来事です。わたしたちは復活徹夜祭の光の祭儀で暗闇から光への「過越し」を目撃しました。この祭儀の向こうに、イエスを復活させた神の働きがあると信じました。

さらにわたしたちがこの驚くべきわざを告げ知らせる証人となるなら、証しするたびに、復活したイエスに出会うことができるのです。人間の死は、イエスの復活に飲み込まれた。イエスが暗闇を打ち破り、まことの光をもたらしてくださったと証言するなら、そこにイエスは現れてくださるのです。

最後に、行動を起こす人、復活の証人になるために、1つのことを付け加えたいと思います。今日のミサは、徹夜祭と呼ばれます。夜を徹して祝えと呼びかけています。文字通りに寝ないで祝うことも含まれていると思いますが、わたしたちにとっての「夜の部分」「眠っている部分」を見直すことも可能だと思います。

わたしたちの活動している時間の中で、自分がイエスの復活を信じるキリスト者であると人々に証しする時間はどれくらいあるでしょうか。全くないとしたら、わたしたちは復活の承認としてずっと眠っているのに等しいのではないでしょうか。

その、「眠っている時間」「夜に等しい時間」を、「起きている時間」「証しする時間」に変えなさいと、復活徹夜祭は呼びかけているのだと思います。もし、これまでの数十年が、復活したイエスを証しする時間となってなかったとしたら、これから、夜を昼に変えて、イエスは復活し、わたしたちに復活の希望を与えてくださったと、証言したいと思います。

「イエスの復活を証言する人」は、自分の生活の一部を充てる人と、自分の生活のすべてを充てる人がいます。多くの人は、生活のある部分を用いて、イエスの復活と、自分自身も復活の希望を持っていることを証しします。

一方で、生活のすべてを充てて、イエスの復活の証人になってくれる人を、いつも求めておられます。イエスが復活し、イエスにかけた希望がわたしの持ち物のすべてですと言えるような人を探しておられます。もし、「自分も、イエスにかけた希望だけを持ち物にして生きていきたい」と願う人がいるなら、何かの行動を起こしてほしいと思います。

復活徹夜祭、夜を昼に変えて祝い、証しを伴わなかった生き方を証しをしながら生きる生き方に変えるまたとない機会です。行動を起こし、復活の証人になろうとする人のそばに、復活の主は必ずいてくださいます。一人ひとり、「確かに、あなたがたに伝えました」との天使の言葉を自分のこととして受け止めましょう。一歩前に出る勇気を、今日のミサの中で願いましょう。


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‥次の説教は‥‥
復活の主日(日中)
(ヨハネ20:1-9)
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ちょっとひとやすみ
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▼主の復活、おめでとうございます。今年、わたしにとっての「復活」は、広島カープの復活です。この文章をまとめている13日(日)の時点で、9勝4敗でセ・リーグの首位に立っていました。13日(日)は雨で中日戦が中止。勢いがあるだけに、もったいないなぁと思ったものです。
▼嬉しくて、サンデースポーツを録画しました。雨で中止でも、録画する価値があります。それは、順位表で堂々の首位だったからです。嬉しくて、順位表の画面で一時停止にして、3時間くらいその画面をテレビに映したままでいました。
▼巨人ファン、阪神ファンには笑われるかもしれないけれど、今年は優勝してくれるのではないかと、本気で思っています。そうなると、クライマックスシリーズで巨人をひと捻りして、日本シリーズは東北楽天、向こうも広島が日本一から遠ざかっている事情を考慮してくれて、1984年以来30年ぶり?の日本一だ。もしかしてだけど。
▼広島カープファンは血の気が多い人が多いとか。真偽のほどはわからないけれども、自分にもそういう傾向があると思っています。去年広島の呉で1度、マツダスタジアムで1度試合観戦に行ったけれど、やはり現地での応援はいい。今年も行きます。
▼風邪からも復活したし、不調のパソコンも多少の出費はあったけれども復活したし、あとは夢の体の復活までこぎつけたいものです。たまたま長崎の大波止で高校時代の同級生が運転する個人タクシーに乗ったところ、わたしの名前を名乗ったら「昔はホリが深かったのに・・・名前を言われても全くわからなかった」と唖然とされました。
▼ちょっと悲しかったので、もっと自分の体と厳しく向きあって、タクシー運転手の同級生を納得させたいです。今は標準体重よりも15kgもオーバーしているから、無理もないです。みるみる・・・とはいかなくても、自分で妥協できるくらいにはなりたいです。

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今週の1枚
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第312回目。可能であれば、復活徹夜祭の典礼の様子。

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聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)イエスの憐れみにすべての人がより頼むように

2014-04-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/04/18(No.704)
‥‥‥†‥‥‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
イエスの憐れみにすべての人がより頼むように
‥‥‥†‥‥‥‥

「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。ペトロははっきりと、イエスとの関係を否定しました。マタイ福音書によると、彼は直前まで「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(26・33)「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(26・35)と言っていたのです。それなのに、「わたしはイエスを知らない」と言ったのです。

ペトロが「違う。わたしはイエスの弟子ではない」と言ったことは、その言葉だけでしたら、ゆるされるかもしれません。けれども、言葉の意味している内容は、もっと深刻なのではないでしょうか。

イエスはいつも、希望のない人に希望を与える人でした。場合によっては、命をよみがえらせて絶望の淵にある人に希望を与えました。ですから、「わたしはイエスの弟子ではない」と言った時、それは「わたしはイエスに希望を置いていない」と言っているようなものなのです。これまで目にしてきたイエスの姿を、完全に否定したことになるのです。

ペトロが事の重大さを分かっていたかは分かりませんが、結果的に彼はイエスの予言の通り、鶏が鳴く前に三度イエスを否定したのでした。三度、希望を与え続けてきたイエスを否定したのでした。

ペトロの罪は、ペトロだけの罪ではないと思います。大事な場面で責任から逃げ出してしまう弱さや、自分が助かりたいために人を蹴落とす醜さは、どんな人にも隠れています。ペトロと同じ場面に立たされたとき、わたしたちも同じ過ちを犯してしまうのです。

だからこそイエスは、すべての人の罪を背負って、十字架にはりつけにされました。「決してつまずきません」「知らないとは決して申しません」と言ってそれでも裏切ったペトロの罪も、「引き渡したらいくらくれますか」と言って自ら進んで裏切ったイスカリオテのユダの罪も、イエスは背負ってくださったのです。

弱さや醜さのために、背を向けてしまう人間をイエスは憐れに思い、いのちを投げ出して救ってくださいました。問題はそのあとです。弱さや醜さを認めてイエスに憐れみを願う。わたしたちを救ってくださる主に哀れな姿をさらけ出して感謝する。そこに一人ひとりが向かっていく必要があります。どんなに弱くみじめでも、絶望してはならないのです。

「決して裏切らない」と言ったペトロさえ、イエスにとどまることができませんでした。わたしたちは一人残らず、イエスの憐れみによってしか救われないことを認める必要があります。この後に続く十字架の礼拝では、すべてを委ね、救いのわざに感謝しますと態度に表わしましょう。一人ひとり十字架の前で動きを止めて、礼拝いたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(マタイ28:1-10)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼聖金曜日に愚痴をこぼして申し訳ない。この部分は13日に書き込んでいる。聖週間を過ごす中で、典礼を行う時に不便に思うことがあって、記憶のためにここに書いておこうと思っている。
▼別に今年に限って感じた不便ではないのだが、儀式を進めるための「儀式書」に不備があると思っている。13日(日)で例を挙げると、枝の行列を進めるために、B5変形判の「聖週間の典礼」(青色の表紙)が1冊必要で、さらに福音書の朗読にA5版の「毎日のミサ・聖週間と復活の八日間」が必要である。
▼なぜそういうことになるかと言うと、B5変形判の儀式書には必要な聖書朗読が実は入れ込んであるのだが、昔からの儀式書を使用している場合、その聖書は現在の改定版以前のフランシスコ会聖書が載せられている。これでは信徒のパンフレットと整合性が取れず、先の「毎日のミサ」がどうしても必要になる。
▼さらにミサが進んでいくと、説教、信仰宣言の後に共同祈願を唱えるから、必然的に「聖書と典礼」のパンフレットも手元に用意しなければならない。すると、とっかえひっかえ、実に面倒くさいことが儀式中に発生するのである。
▼わたしの考えはこうだ。ぜひ、すべてを一冊にまとめたA5判の典礼書を用意してほしい。B5変型判でもよいのだが、これは実際に開いてみると大きすぎて邪魔になる。司教様のように本を持つ専用の係が必ず付いているなら話は別だが、われわれ下々は儀式書を持ってすべてを執り行っている。
▼つまり、片手に儀式書を持ち、枝を祝福したり聖水を振りかけたり香炉を振ったり、復活のローソクに文字を刻んだり、忙しいのである。こんなときにいかにも格式ばった大きな儀式書は邪魔になる。だからすべてを一冊に収納した、A5版の儀式書を要望する。
▼それが無理であれば、すべての文字をデータに落として、適宜プリントして使えるようにしてほしい。そうすれば、必要な人は印刷して自分の好みの大きさにするだろうし、必要ない人の分まで無駄に印刷する手間も省ける。わたしの場合、データがあるならタブレットにPDFデータとして置くかも知れない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第311回目。可能であれば聖金曜日の典礼の様子。

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聖木曜日(ヨハネ13:1-15)イエスに従うために限界を設けない

2014-04-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/04/17(No.703)
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聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
イエスに従うために限界を設けない
‥‥‥†‥‥‥‥

シモン・ペトロはイエスに言いました。「わたしの足など、決して洗わないでください」(13・8)。「決して洗わないで」とは、たいへん強い言葉です。福音書を調べると、「決して」という強い言葉は、ほとんどの場合イエスの用いている言葉です。イエスが強い言葉を使うことができるのは、イエスにはすべての言葉に確信があるからです。

ところでペトロも「決して洗わないでください」と言ったのですが、ペトロにとってもこれからイエスがなさろうとすることは決してあってはならない、そのような行為は絶対に受け入れられないという確信があったはずです。

ペトロは戸惑い、混乱したのではないでしょうか。それでもイエスは、ペトロの足元にかがみ、足を洗います。ペトロにとってあり得ない行動を、イエスは何のためらいもなく実行します。ペトロの中で、「自分の先生であるイエスはこうあるべきだ」という姿が完全に壊れました。

イエスは、ペトロの心の変化に十分気付いていたことでしょう。イエスは、「自分はここまでは変わることができても、これ以上は変われない」という壁が、まだあったのだと思います。イエスはその壁を壊し、ご自分が救いの計画の完成のためにすべてを与えつくす方であることを示そうとしたのです。

イエスが弟子の足を洗う姿は、どこまでも自分を与えつくす姿です。それは十字架上の姿、また最後の晩餐で制定された聖体の秘跡を予感させます。イエスはご自分を与えつくすのに、「これ以上は決してできない」という壁を作りませんでした。十字架上の死は、尊厳を一切奪われる最期です。ご聖体は、ご自身の姿が消えてなくなる秘跡です。何も残さず与えることを、イエスはためらいもなく実行なさいます。

弟子の足を洗い、わたしたちの食べ物となってくださり、尊厳も投げ捨てて十字架に向かわれるイエスは、わたしたちに「これはできない、これ以上は決して受け入れられない」というさまざまな壁を壊してご自分に倣うように招いています。

わたしたちは日々、イエスに倣って生き方を整えてきています。その中で、「これ以上は決して受け入れられない」という限界を作っていないでしょうか。わたしたちの心の中にある壁は、よりイエスの招きに答えていくのに、妨げになっていないでしょうか。

もしわたしたちに、自分で作った限界や壁があるなら、イエスにその壁を壊していただきましょう。今日イエスは、すべての人の前にひざまずき、限界の壁を壊し、より自由にイエスに従う人になれるように導いてくださいます。イエスの導きに自分を委ね、壁を置かずにイエスの声に聞き従っていく恵みと勇気をミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖金曜日
(ヨハネ18:1-19:42)
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ちょっとひとやすみ
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▼聖木曜日、伝統的に聖香油のミサが行われることになっている。長崎教区では火曜日に聖香油のミサが行われている。確かに典礼儀式書の細則を読むと、「この日に教役者と信者が司教とともに集まることが困難な場合には、復活祭に近い他の日を選んで行うことができる」となっている。
▼ルール上は問題ないが、わたしはそれを心の底から賛成しているわけではない。現状は「教役者と信者が司教とともに集まることが困難な場合」に当てはまると思えない。わたしの見たところ、現状はルールの拡大解釈であって、できれば聖木曜日に実施してほしいと思っている。
▼しかしこれ以上声を荒げても、わたしに何のメリットもない。従うしかない。だから聖火曜日に聖香油のミサに行くのは行く。その後に控えている「司祭の日の集い」も、ダイヤモンド祝(60周年)、金祝(50周年)、銀祝(25周年)、新司祭ともに関わりのある司祭の祝いなのでできるだけいるつもりだが、帰りの船の時間を見ながら帰るつもりだ。
▼聖火曜日は聖香油のために集まっているのか、「司祭の日」なるイベントのために聖香油のミサをしているのか。わたしにはどちらにも見える。まぁどちらでもいいけど。さっさと頭を切り替えて、聖木曜日に集中しよう。
▼今年はたまたま、聖木曜日に病人訪問の日程が重なっている。典礼儀式書の細則には、「聖体はミサの中だけで授けられる。病者には一日中、いつでも授けに行くことができる」とある。これこそ、最大限に解釈して活用すべき細則だと思うが。
▼小教区の巡回教会の信者で、本当にお見舞いが必要な病者がいる。夫は脳梗塞の後遺症を抱えて生活し、妻は老老介護で疲れ、平日のミサの帰り道でつまづいて倒れ、けがをした状態で今も生活を続けている。
▼ご聖体を授けるのは当然だが、わたしがその場に5分でも居てあげることが、夫婦の安らぎになる。だから、もし規則が許さないと言っても、わたしは聖木曜日と重なった今回の病人訪問でこの夫婦を訪ねることにしている。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第310回目。可能であれば聖木曜日の典礼の様子。

ホームページもご覧ください。
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受難の主日(マタイ27:11-54)かたくなな心の壁を壊す

2014-04-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/04/13(No.702)
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受難の主日
(マタイ27:11-54)
かたくなな心の壁を壊す
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キリスト教の典礼の頂点、核心の部分である聖なる一週間を迎えました。受難の主日は、復活の主日までの一週間を先取りします。「かたくなな心の壁を壊す」というテーマで黙想したいと思います。

全体はイエスの受難と死を描いていますが、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」(27・51-52)とあって、イエスの復活を予感させる出来事が織り込まれています。

ですから、今日の典礼は、聖木曜日・聖金曜日・復活徹夜祭の聖なる三日間すべてに参加するのが難しい人にも、イエスの死と復活によってすべての人に救いがもたらされたことを黙想させます。

もちろんより確実にイエスの死と復活を黙想するには聖なる三日間の典礼に参加することが望ましいのですが、今日の受難の主日にも大まかな要素が盛り込まれています。

今年の受難の朗読は、マタイ福音書から選ばれています。2つの点を指摘しておきます。1つは、キレネのシモンのほかはイエスについて行く人が登場しないということです。母マリアも、イエスの愛しておられた弟子も、ベロニカという女も、誰も登場しません。もう1つは、マタイ福音書の中ではイエスの死は復活を前提としているという点です。

2つの点を指摘したのは、人間の心のかたくなさとつながりがあります。イエスにつき従う人がいないということは、そのまま、弟子たちをはじめとしてもともとイエスに従っていた人たち、そしてイエスを理解しない人たち、すべてが心を固く閉ざしている様子を描いています。

マタイの受難の場面には、イエスを死に追いやる人々が強調されていますが、背後に隠れているイエスを信じる人も、受難の場面ではともに心を固く閉ざしたのです。そんな中でイエスは十字架の上で命をささげます。ベロニカも、母も、イエスの愛しておられた弟子も、一緒にはりつけにされる犯罪人も、わたしたちが予想しているような出来事は何も起こらずに命をささげるのです。

これは、1つのことを強調しているように思います。それは、「かたくなな心の壁を壊す」ということです。ただの一人も、イエスを心配し、イエスについて行く人がいません。そんな中で、イエスはご自分の命を、十字架の上で粉々に砕いて、おささげになるのです。わたしたちのかたくなな心の壁を壊すためです。

聖なる三日間、イエスはわたしたちのかたくなな心の壁を壊し、悔い改めを促し、復活の喜びへと招いてくださいます。かたくなな心を自分ではどうしても打ち砕くことができない弱いわたしたちを、イエスが命をささげて救ってくださいます。感謝の心で、この聖なる一週間を過ごすことにいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼「もしかしてだけど・もしかしてだけど・ちょっとひとやすみだけ読んでこれが説教ブログのおまけだってこと知られてないんじゃないの?」名前は知らないけど、お笑い芸人のまねをしてみた。
▼本当に、このコラムが「こうじ神父今週の説教」というカトリック教会のミサ説教メールマガジンの「おまけ」であることを知らない人がいるかもしれないと思い、今回呼びかけをすることにした。
▼さかのぼること12年前、2002年3月10日に、日曜日のミサ説教をメールマガジンで配信する活動を始め、今日まで配信702回を数えている。途中いろんな試行錯誤を経ているが、基本的には「ミサ説教」と「ちょっとひとやすみ(コラム)」の組み合わせで配信してきた。
▼一時期有料配信も手掛けていたが、有料配信を申し込む人の数に対して有料配信の手間のほうが負担が重く、有料はかなり前に廃刊にした。20人とか、30人有料配信に切り替えてくれるならそれはそれで考えるけれども、1人とか、2人の申し込みでは張り合いがなく、長くは続かなかった。
▼結果的に、無料配信は時代の流れとなり、多くの人に受け入れられ、今日を迎えている。そのメルマガ配信にあたっての、日々起こる出来事を綴ってきたのが「ちょっとひとやすみ」である。
▼このコラム欄は、思い浮かんだことを、思った通りに書いているので、わたしにとってのちょっとした息抜きになっている。もし、このコラムだけに目を通している人がいるなら、できれば本題の「こうじ神父今週の説教」に同時に目を通してほしい。

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今週の1枚
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第309回目。先週の釣り大会。左の人は、強風の中で総重量5.3kgのカサゴを釣った。

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四旬節第5主日(ヨハネ11:1-45)ラザロの生き返りにわたしたちの復活を見る

2014-04-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/04/06(No.701)
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四旬節第5主日
(ヨハネ11:1-45)
ラザロの生き返りにわたしたちの復活を見る
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四旬節第5主日、いよいよ典礼の頂点である主の受難と復活も近付いてきました。受難の週を迎える心の準備として、典礼のA年は四旬節第5主日に「ラザロの死とよみがえり」の出来事を取り上げています。「ラザロの生き返りにわたしたちの復活を見る」そのつもりで与えられた朗読に目を向けることにしましょう。

ここ数日、人生でいちばんたくさんの種類の薬を飲み続けています。尿酸値を下げる薬、コレステロールを下げる薬、風邪症状を抑える薬、扁桃腺の薬、痰を出しやすくする薬、喉に痛みが出たら飲む薬です。朝昼晩、飲む薬の種類は色々ですが、朝は今並べた薬を全部飲んでいます。薬だけでもちょっとした朝御飯です。

薬をまじめに飲んだおかげで、一週間つらい思いをしていた風邪の症状も今は楽になりました。今日は一週間遅れの釣り大会です。お世話係をしてくれる高井旅の海で、今年は魚を探してみたいと思います。

福音朗読に入りましょう。ヨハネ福音記者は、ラザロがイエスにとってどういう人であるかをさまざまな形で紹介しています。4つ拾ってみました。まず、姉妹のマルタとマリアが「あなたの愛しておられる者」(11・3)と紹介します。福音記者も、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(11・5)と証言しています。

次にラザロは、「わたしたちの友」(11・11)とあります。イエスの愛しておられる人、イエスやその弟子たちの友なので、何を置いても彼の元に駆け寄ります。

一方でラザロは、「墓に葬られて既に四日もたっていた」(11・17)とあります。この世の人々とのつながりはもはや断ち切られ、自分たちから遠く離れた人として扱われています。このラザロをイエスは生き返らせて、この世の人々とのつながりをすべて回復させようとします。

最後に、ラザロのためにイエスは涙を流されました(11・35参照)悲しみを分け合い、その人のために涙を流すのは、ラザロがイエスにとってどれだけ重要な人であったかを偲ばせます。

これらの部分をつなぎ合わせると、ラザロはイエスにとって放ってはおけない人、イエスの心を揺り動かす人、できるすべてのことを果たしてあげたいと思わせる人でした。

さて、ラザロについてこのようにまとめましたが、イエスが放っておけない人と考えているのは、本当にラザロだけなのでしょうか。わたしは、ラザロを通して、イエスがすべての人を同じように考えていると理解します。

イエスがラザロを生き返らせたのは、すべての人を、ラザロと同じように思っている、放っておけない人として、心を揺り動かされる人として、できることをすべて果たしてあげたい人として見ておられる、そのしるしだと思うのです。

ところで、一人ひとりに置き換えたとき、本当にラザロと同じ接し方をしてもらっているだろうかという疑問を持つかもしれません。わたしの家族は亡くなった。そもそも生き返らせてもらった人など聞いたことがないと。

もちろん、ラザロと同じ体験は起こらないでしょう。けれども、イエスは誰一人放っておくことができなかったので、十字架にかけられていのちをおささげになりました。イエスの右と左には犯罪人が十字架にかけられていましたが、何とかしてその人をも救おうとされました。

そしてイエスは、復活してご自身にできるすべてをわたしたち皆のために果たしてくださったのです。イエスがラザロを生き返らせたのは、イエスを信じるすべての人を復活させるしるしでもあったのです。

もう一度、ラザロの描写を振り返ってみましょう。ラザロはイエスの愛しておられた者です。わたしたちもイエスの愛しておられる者です。ラザロはイエスの友でした。わたしたちも、どんなときにもイエスは友としてそばにいてくださいます。

ラザロは葬られて、四日もたっていました。わたしたちも場合によっては罪の闇に葬られ、既に自力では立ち帰れなくなっている時もあるでしょう。それでもイエスは、わたしたちを起こしに来てくださいます。

イエスはラザロのために涙を流しました。同じくイエスは、わたしたちの悲しみに寄り添い、涙してくださるのです。ラザロとは、イエスがどんなお世話でも果たしてあげたい、わたしたちすべてのことです。

イエスがラザロに果たしてくださったのは、この世の命の生き返りだけではありません。イエスはマルタに「あなたの兄弟は復活する」(11・23)と言われました。そして続けて、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11・25-26)とも言われました。

ラザロのことだけでしたら、後に続く言葉は必要なかったでしょう。これは、ラザロのことをきっかけにして、イエスを信じるすべての人に、復活への希望を持たせる招きとなったのです。わたしたちもイエスを信じているから復活に招かれると、ラザロの出来事は教えています。

わたしたちは出来事をより真剣に見つめるとき、イエスの働きが、働きかける目の前の人のためばかりではないことに気付きます。今ここでこのような働きをなさって、すべての人に同じ喜びを届けるしるしとしてくださっているのです。ラザロ一人を生き返らせる働きではなくて、イエスを信じるすべての人は、イエスによって復活の喜びにあずかれる。今はそのしるしを示しているのです。

2週間ほどすると、わたしたちもイエスのご受難とご復活の場面に立ち会うことになります。イエスはわたしたち皆が、かけがえのない人、一人も滅びてほしくない人、救われるために十字架にはりつけになることも厭わない人であることを証明してくださいます。感謝して、これからの聖週間の典礼にあずかることにいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(マタイ27:11-54)
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ちょっとひとやすみ
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▼iPhoneに切り替えて重宝していることと不便に思うことと両方経験している。まずメールに関しては、Gmail(ウェブメールの一種)も従来のドコモのメールも受け取れるので、1台でほぼすべてのメールが確認できるようになった。
▼ただ、文字入力は圧倒的に従来のケータイのほうが正確に早く打てた。以前のものは押し下げる感覚があり、ボタン全体の配置も中央のボタンに突起があったために指先の感覚で正確に探すことができた。タッチ式のスマホではそうはいかない。
▼さまざまな絵文字が用意されているのは分かるが、デザインがいまいち。サイトを探せば、おしゃれなアイコンやいわゆるスタンプみたいなものが見つかるのだろうか。
▼ドコモメールはワンテンポずれが生じる。メールの着信の合図を受けてメールソフトを立ち上げると、立ち上げてから受信をしている。ウェブメールはメールソフトを立ち上げた時点ですでにメールは受信できている。
▼カレンダーも、従来のケータイでは音で知らせる項目が必ず含まれていた。iPhoneにはないようだ。リマインダーには音で知らせる機能があるが、カレンダーに入力し、リマインダーでも記入するというのは労力の無駄ではないか。
▼画像の大きさも違いがある。従来のケータイで撮影したいわゆる「写メ」とスマホで撮影した画像では縦横のサイズが違っている。以前のケータイで撮影したものの中には、ケータイで眺めるために撮影しておいたものがあるわけで、それらをiPhoneに移し替えて眺めてもサイズの問題で不満が残る。画像の保存形式も、ぜんぜん違う。
▼ほかにもさまざまあるが、それでもiPhone欲しさに機種変更したのだから、がまんしろよと自分に言い聞かせている。ホームボタンという命綱のボタンだが、頻繁に押すときっと壊れてしまうと思う。でもそのころには2年が経過して、新発売のiPhoneに乗り換えているのだろうか。

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今週の1枚
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第308回目。このアプリ便利そう。でもAndroid対応のしか発売していないけど。

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