こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第1主日(マタイ24:37-44)すべての人のために、救い主を待つ

2010-11-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/11/28(No.504)
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待降節第1主日
(マタイ24:37-44)
すべての人のために、救い主を待つ
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木曜日に、250ccのバイクで青方に行ったのですが、中ノ浦に抜ける山道の途中でスリップしまして、バイクと一緒に転倒してしまいました。山越えして中ノ浦に出る人は説明すればすぐわかる場所ですが、浜串から中ノ浦に峠を降りていくと、左に出る道と右に出る道に分かれます。

青方に向かっていたので、右に曲がり、出口に向かっていました。右に曲がってすぐに、今度は左カーブです。そのカーブで膨らんでしまって、あわてて後輪のブレーキをかけたら、右端の泥の塊のところでスリップしてステーンと転んだわけです。

転倒した時、バイクに挟まれたまま泥の塊で1メートルほどスリップしました。すねを擦りむきましたが、幸いに頭も打たず、骨も折れず、無事に帰ってこれたのが不思議です。転倒直後、自分の後ろから車が2台やってきましたが、車にひかれなかったことは、神さまに守ってもらったんだなぁと思いました。

今日の日曜日のために、いのちの大切さ、特に出生前のいのちの大切さについて説教で触れなさいと、大司教さまから小教区の司祭たちに通達が来ていました。いのちは、自分で守れないことがあります。特に、出生前のいのちは、母親が守ってくれなければ、自分で自分を守ることができません。

今年の教会暦の始まり、待降節第1主日に、いのちの大切さについて考えることは、大変意義深いと思います。救い主は、幼子としてお生まれになります。幼子は、母マリアの胎内で、準備の時を刻みます。わたしたちが救い主を待つ間、まさに救い主は出生前のいのちなのです。

ほかの胎児と同じように、自分で自分の命を守れない、弱く小さな姿に、救い主は置かれています。その命を大切に見守り、誕生を待ち望みます。救い主の誕生を、いのちの大切さという見方で考えるとき、わたしたち自身にも深くかかわってきます。わたしたちはみな、待ち望まれて生まれてきているからです。

わたしのもとに、よく来てくれた。わたしの孫として、よく来てくれた。一人一人が、そうやって待ち望まれて生まれたことを知っていますから、救い主の誕生にも、同じ思いを向けてみましょう。わたしたちのもとに、おいでくださることをよく決断してくれました。感謝申し上げます。わたしたちは、あなたがおいでくださることを、心待ちにしています。こんな気持ちが心に湧いてくるなら、待降節の過ごし方は素晴らしいものになるでしょう。

ところで、救い主の誕生を、冷ややかに見ている人もいます。日本では、クリスマスという言葉を知らない人はいないと言ってもよいくらいですが、クリスマスが救い主の誕生を祝う日だということを知っている人は、あまりいないのです。

驚くかもしれません。けれども、クリスマスという言葉だけを知っている多くの日本人にとって、クリスマスに必要なものはクリスマスプレゼント、ケーキ、サンタクロース、クリスマスツリー、これくらいなのです。

カトリック教会が準備する時期よりもはるか先に、クリスマスの商売のために世の中は飾りたてています。まさに、今週の福音朗読にある通りの有様です。「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。」(24・38-39)

「何も気がつかなかった」と言っています。何も気がつかずに、日々を過ごし、クリスマス当日も過ぎていくのです。救い主の誕生の抜けたクリスマスを祝う人々は、クリスマスが終わると初売りのために飾りを取替えようと大忙しです。

ここで、イエスのもう1つの忠告が響きます。「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」(24・40-41)

救い主を待つ人は、救い主の到来の日に残って留まることになりますが、救い主を待っていない人、クリスマスを祝っていながら、救い主を迎えない人は取り去られ、いなくなるのです。

クリスマスという、同じ言葉を口にしている二人のうち、一人は連れて行かれ、もう一人は残されます。この重大な事実を耳にした時、わたしたちはただ自分たちが救い主を待つだけでよいでしょうか。とてもそうは思えません。救い主を待ちながら、クリスマスの準備をしませんかと、人々に語りかける必要があるのではないでしょうか。救い主の到来に、一人でも多くの人を招くべきではないでしょうか。

バイクで転倒した同じ日、奈良尾病院で面白い人に会いました。違う小教区の信者さんで、26歳で洗礼を受けたというお父さんでした。この方は、地域の人に「教会に行ってみませんか」と積極的に誘って、今現在8人が、教会のミサに出席しているのだそうです。

その人々に、「祈りはそんなに難しく考えなくてもいいのだよ」とか、「最低限の教えは、覚えてもらうことになるけど、教えを学ぶと、神さまがわたしたちを愛してくださっていることがよくわかるよ」とか、わたしよりもわかりやすい教え方で、教会に誘っている人に救い主をお迎えする準備をさせていると話していました。

肺炎で病院に入って、自分が誘った人たちがどうしているか心配でたまらないと、自分の病気以上に教会に導こうとしている人々のことを心配しているのです。わたしは15分以上その人の話に耳を傾けていましたが、頭の下がる思いでした。本当に面白い人でした。次のお見舞いの時に、まだ入院していたら、もう1度会いたいなぁと思っています。

救い主の到来を待つことには、特別な意味と価値があります。すなわち、幼子としてこの世においでになる救い主を待つことは、わたしたちの命の大切さを改めて考えることにつながります。わたしたちはみな、待ち望まれていたいのちです。同じように、救い主も待ち望まれておいでになるべきです。信じているわたしたちはもちろんですが、信じていない人々も、いつか信じてくれるように、働きかけるのです。

そして、救い主を待ち望まないクリスマスは、どんなに華やかな飾りがあっても価値がありません。救い主の到来がわたしたちの最大の関心でなければ、クリスマス飾りは何もわたしたちにもたらしてくれません。わたしたちの救い主を待つ姿勢が、クリスマスの意味と価値を人々に証しするものとなるよう、証しの力を願いましょう。


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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(マタイ3:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼修道会の神父さまが上五島を巡礼するためにやって来た。浜串出身の神父さまは修道会の神父さま1人だけだと思うが、同じ修道会。出身の神父さまの母親が仲介して実現したのだろう。何とこの神父さま、アフリカで宣教をしているそうだ。3年ごとに帰国していると聞いた。
▼帰国の機会に、五島を巡礼しているという。聞けば、50年前、中学生の時に五島を訪ねて、いつかまた行きたいと思っていたのが延び延びになっていたらしい。どうやら本人は、いつでも行けると思っていたようだ。思い立ったときに行かないと、どんなに近くても行けなくなることはあり得る。
▼出身は奄美大島。暖かい土地だから、アフリカ宣教も志願されたのだろうか。わたしの知り合いの奄美出身司祭は、いずれも個性的。「超」が付くと言ってもよいか。明るく、快活に話す神父さまだ。「神父さまは遠くアフリカに赴任ですが、わたしは生まれ故郷から車で30分の場所に赴任です」と言ったら、腹の底から笑っておられた。
▼知り合いの奄美出身司祭とイントネーションがよく似ている。気のせいかもしれないが、日本語はとてもきれいだ。土日はとても冷え込んだから、暖かい土地で普段暮らしている神父さまには特別堪えたのではないだろうか。立ち話で盛り上がってしまったが、食堂に上げてから話すべきだったか。
▼土日、一緒にミサを捧げた。アフリカでの日常のことは聞かなかった。けれども、この声で、アフリカでもミサを捧げているのだろう。わたしは遠いアフリカの大地を思った。そこに、神父さまのミサを捧げる賛美の声が、響いているのだろう。

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新企画今週の1枚
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第111回目。丸めることのできるキーボード。旅行に持って行けそう。
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王であるキリスト(ルカ23:35-43)十字架のキリストに、王の姿を見る

2010-11-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/11/21(No.503)
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王であるキリスト
(ルカ23:35-43)
十字架のキリストに、王の姿を見る
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いよいよ、教会暦の最後の日曜日がやってきました。来週からは新しい一年の始まり、待降節です。今週の「王であるキリスト」の祭日を通して、この一年を振り返ることにいたしましょう。

今週の福音朗読は、人々が口々にイエスを侮辱している様子が目立っています。兵士は、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(23・37)と言っています。そこで、王に必要な資質について、考えてみたいと思います。

1つの点に注目してみましょう。十字架にかけられているイエスを、3通りの人物が侮辱しています。議員たちと、兵士たちと、十字架にかけられていた犯罪人の一人です。彼らに共通している要求があります。それは、「自分を救ってみろ」ということです。「神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(23・35)

これは興味深い点だと思います。救い主に対して、自分を救えと言っているのです。彼らが、イエスを全く理解しなかったことを、よく表しています。救い主は、自分を救うためにおられるのではなくて、わたしたちを救うためにおられるのです。それなのに、イエスを侮辱する人々は、自分を救ってみろ、と言ったのです。

そこで王に必要な資質ですが、王は、自分の民を罪から救う者でなければなりません。他人を救うどころか、自分すら救えない人が、王であるはずがないと、人々は考えていました。本当に、十字架上のイエスは、人々を救えないのでしょうか。

イエスを侮辱する人々に関して、もう1つの興味深い点があります。イエスを侮辱しているそれぞれの登場人物は、イエスとの距離が少しずつ違っています。議員たちは、イエスから遠くに立っている人々でした。イエスのことを全く興味を失ってしまった人々と言ってもよいかもしれません。

兵士たちは、イエスのそばにいます。「イエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った」(23・36-37)とありますから、近づいて、イエスをより詳しく観察できる立場にありました。彼らはイエスに興味がありますが、心を開いてイエスの言葉に耳を傾けるつもりはありません。

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、同じ刑罰を受け、さらに深くイエスを観察できる人々でした。そして、自分たちと同じ極限の刑罰を受けるイエスを、なぜ逃れようとしないのか、不思議に思っています。

ここで、イエスとの距離を取り上げたのは、イエスが、目の前にいる人に対してだけ王であるのではなく、遠くにいる人にも、民を罪から救う王であることを考えるためです。そして実際に、それぞれの距離にある人々が、救われていくのです。

十字架にかけられていたのは、イエスをののしった人だけではありませんでした。もう一方にかけられていた犯罪人は、イエスが自分たち犯罪人を救うことができると信じました。

当時の一番重い刑罰を受けていたのですから、最低の人間だったことになります。その、最低の人間と同じ場所にとどまっているイエスを、ほかの人にはできない力あるお方だと理解したのでした。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23・42)「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)このやり取りは、イエスの最後の言葉の中でも、特に心を打たれます。

兵士と同じ距離にいた人の中に、イエスを神の子・救い主と認めた人がいました。百人隊長です。「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美しました(23・47)。この百人隊長は、百人の兵士を束ねる隊長ですから、人の心をよく理解できる人でした。この百人隊長の目には、イエスが人々を救うために最後まで自分の責任を果たしていることが見えていたのです。

では、イエスから遠く離れている人々はどうでしょうか。「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。」(23・48)とあります。心を打たれて帰って行った群衆がいたのです。イエスは、どん底にある犯罪人も、興味があるけれどもイエスに忠実に従えない弱い人間も、全く興味を示さなくなった冷淡な人をも、救ってくださる王なのです。

十字架にかけられているイエスを見て、救いを得られない人々と、救いに至った人々がいました。出来事は同じなのに、結果に違いが現れたのは、イエスの姿をどう受け止めようとしているか、わたしたちの態度にかかっているのではないでしょうか。

人間的にはみじめな姿になっているイエスを見て、最低の人間にまで手を伸ばそうとしていると見るのか、何もできないみじめな姿だと見るのか、わたしたちの受け止め方にかかっているということです。

では、十字架にかけられているイエスを見て、今のわたしたちはどう受け止めるのでしょうか。あんなに弱く貧しい姿にまで自分を置いてくださったのだから、わたしが罪を犯し、深い淵に落ちたとしても、わたしのそばに来て救ってくださる。わたしの王となってくださる。そのような思いで十字架上のイエスを見つめることができる人は幸いです。

イエスを信じない人々は、「自分を救ってみろ」とイエスを侮辱しました。イエスが十字架から降りないことを、人々を罪から救う王のしるしと読み取る信仰が今必要です。本当はこの1年、罪によって自分が落ち込んだ時、「わたしを思い出してください」「あなたはわたしと一緒にいる」と、イエスは絶えず助け起こしてくれているのです。

この1年を振り返り、あのときは助け起こされたのだなぁと思い出せる場面を探してみましょう。きっと何かがあるはずです。その助け起こされた主を、来週からは新たな気持ちで待ち望むことになります。十字架に架けられたイエスに、あらためてすべての人の救い主・王の姿を確かめるための恵みを、このミサの中で願いましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(マタイ24:37-44)
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ちょっとひとやすみ
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▼堅信を受けた中学生には、まず聖書の朗読を子供たちが持っているMP3プレーヤーでこれから生涯にわたって聞くことができるように、材料をプレゼントしてあげた。結構高くついた。それでも、これから日常生活で音楽のように聞いてくれるなら、今の時代の方法で、聖書に親しむことができるかもしれない。
▼よく人の話を聞かなければ、と思ったことがあった。焼き肉の話から始まるのだが、「中学生はとてつもなく食べますよ」と言うので、そんなものかなぁと思いつつたくさんの食材を用意した。ところが、勢い良く食べるのは男子だけで、女子はそれほどでもなかった。対象となる中学2年生8人と、わたしの合計9人で食べたのだが、思いのほか量は進まなかった。
▼焼肉パーティーを、かなり落ち込んで帰って来た。なぜ、食が進まなかったのだろう。こうじ神父だけが混じっての食事に、遠慮があったのだろうか。まぁそういうこともあるかもしれないが、お腹いっぱい食べてもらおうという当初の計画は、挫折してしまった。
▼精肉店に行って、とんでもなく食べる連中だから、と言ったのだが、しばらくはその店にも行けないかもしれない。どの顔で、会えばよいのだろうか。「いつもはもっと食べるんですけど」と本人が言った。そういう説明はよいから、目の前で食べてほしいのである。
▼まぁ、結果からすると、話は半分くらいに聞いておくべきだ、ということか。おにぎりはたくさん食べたし、飲み物は足りなくなったのだから、食べる気はあるということだ。あとは、普通に考えて、食材の調達はした方がよい、というのが今回の反省となった。
▼この苦い経験は、ほかのことにも通じるかもしれない。話半分、と言うのか、ほどほどに、と言うのか。いずれにしても、人の話にあまり左右されず、自分の勘と経験に照らして、本当に鵜呑みにしてよいのか、吟味しなければならないと思った。来年につなげよう。

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新企画今週の1枚
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第110回目。地域のミニバレー大会で8戦全勝優勝。後輩司祭も優勝に貢献。
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年間第33主日(ルカ21:5-19)聖霊の7つの賜物に信頼して生きよう

2010-11-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/11/14(No.502)
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年間第33主日
(ルカ21:5-19)
聖霊の7つの賜物に信頼して生きよう
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今日は、堅信の秘跡を受ける中学2年生に話しかけたいと思います。前もって断っておかなかったので、堅信式のミサにあずかれば、今日は務めを果たしたと考えて、朝のミサに来てないかもしれませんが、それはわたしの責任ですから仕方ありません。それでも、今日は、堅信を受ける受堅者に話しかけたいと思います。

今週の福音朗読は、年間を通しても特別に難しい箇所かもしれません。この世の終わりがやってくるとき、今日の朗読に書いてあるような恐ろしいことがいくつも起こるというのです。おそらく、1度読んだだけではとても理解することはできないでしょう。

まずは、面倒くさがらずに、2度3度と繰り返し読むことから始めましょう。堅信の秘跡を受ける人は、聖霊の7つの賜物を受けます。それは、「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し、敬う心」です。知恵と理解が聖霊の賜物として与えられるのですから、2度3度と読み返す努力と合わさって、きっと何かの理解が得られると思います。

繰り返し読むと、次のことに気が付くでしょう。それは、さまざまな恐ろしいことをイエスは予言しますが、同時にどういう心構えが必要かについても、ちゃんと話してくださっているということです。2つの箇所を拾ってみましょう。

「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。」(21・8)「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。」(21・9)「惑わされないように気をつけなさい。」

「惑わされないように」「ついて行ってはならない」「おびえてはならない」と、具体的な心構えを示してくれています。では、今拾い上げたようなことは、この21世紀に起こるような出来事でしょうか。「それは起こる」と、わたしは言っておきましょう。しかも、身近な場所で、それは起こると思ってください。

例を挙げましょう。堅信の秘跡を受けて、ますます教会の中で期待される人になっていきますが、堅信の秘跡を受ける皆さんの周囲は、神の恵みを全く理解しない雰囲気に充ち満ちているのです。これまで、学校の授業で、一言でも、次のような話が出てきたでしょうか。「神の語り掛ける言葉に耳を澄ましてみよう。きっと、あなたが進むべき道を、神が示してくださる。」おそらく、1度も出てこないはずです。

むしろ、「部活で心と体を鍛えよう。授業に真剣に耳を傾けよう。これらは、君が将来、高校や大学に行ったとき、社会人になったとき、役立つ人になるために大切なのだ。」そこまでしか話してくれないはずです。高校に行っても、大学に行っても、社会人になっても、堅信を受ける皆さんの周囲は、神の恵みについて一言も教えてくれないのです。

これは、形を変えたイエスの予言の実現だと思っています。「神の恵みなんてどこにもいらない。必要なのは、今学校で勉強し、部活で身につけていること。これより大事なものはないんだ。」わたしたちの周囲は形を変えて、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」と言っているわけです。

けれども、「ついて行ってはならない。」このイエスの言葉を思い出しましょう。学校の勉強と、部活。これだけであなたの時間をすべて埋めてしまってはいけないのです。先生が学校と部活を大切にしなさいと言ったとしても、その2つで生活時間をすべて埋めてしまったら、道を間違えてしまいます。

皆が当たり前のように考えてしまっている雰囲気の中で、堅信を受ける皆さんは堂々と、別の生き方を示してください。それは、「勉強と部活が、わたしのすべてを形作ってくれるのではない。日々の生活の祈りの中で、また日曜日の礼拝の中で出会っている神が、いちばん深い場所でわたしを形作ってくれている。だからわたしは、教会に行く。」堂々と、証しをしてほしいのです。

もちろん、教会に堂々と行く皆さんには、ものすごい逆風が吹いています。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」(21・10-11)「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。」(21・12)「教会に1回も行ってないカトリック信者も、立派に学生生活をこなしているじゃないか。立派な社会人になっているじゃないか。あなたが時間をかけて出かける教会に、意味があるのか。」面と向かってそう言う人が現れるかもしれません。

イエスはどう答えるでしょうか。「それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」(21・13-15)堅信の秘跡が与えてくれる聖霊の7つの賜物は、必ずあなたを助けてくれます。

考えてみてください。立派に学生生活を務めても、立派な社会人になっても、聖霊の7つの賜物が注がれなければ、教会で神の恵みを受けなければ、何のために人は生きているのかさえ、確かな答えにたどり着けないのです。神だけが、人が生きる目的を教えてくれるのです。教会に1度も来ることなく、神の照らしと導きを受けずに、人生に目的を失っている人がどんなに多いことでしょう。日本には、生きることを断念する人が、年間3万人もいるのです。

堅信を受ける皆さんと、すでに堅信を受けたすべてのカトリック信者は、堂々と証しを立てましょう。わたしは、今日も明日も、人生の目的と意義を教えてくれる神に、礼拝と感謝をささげる。わたしは、すべての同級生の前で、神に証しを立てる。この証しのために、今日堅信の秘跡を受ける皆さんは招かれ、聖霊の7つの賜物をいただくのです。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(ルカ23:35-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼堅信を受ける中学2年生を、ようやく晴れ舞台に送り出すことができた。きっと、胸を張って今日の日を迎えてくれると思う。以前ほど、大人の信者になるんだよと強調しなくてもよいかもしれないが、聖霊の賜物は、格段に自覚を促してくれると信じている。
▼お祝いをしてあげよう。この小教区の受堅者には、オリジナルのプレゼントを用意してあげようと思う。ちょっと、中身には触れることができないが、聖書の中に響く神の声に、生涯にわたって耳を傾けることができるように、そんなプレゼントを用意したい。
▼お祝いに食事はつきものだ。中学2年生と相談して「焼き肉」でどうだ?と尋ねたら、それがいいと言う。ただし保護者からは、「底なしで食べますよ。お財布、大丈夫ですか。」という心配も聞こえている。まぁ、いいではないか。どれくらい食べるのか知らないが、財布の底が尽きるか、子供たちがギブアップするか、勝負しようじゃないか。
▼車の中にカメラを据えることにした。専用のドライブレコーダーではないが、まぁそんなもの。運転の様子を、公開しようと思っている。車内の声が聞こえるのがちょっと心配だが、こうじ神父の活動の一端を、味わってもらえたらと思っている。はじめは、「浜串-福見」「浜串-高井旅」これらのルートの往復を体感できるようなものを準備したい。
▼それが済んだら、各地の教会に行くとか、行事に参加するとか、そのほかにも可能なことがあればいろいろ撮影して「話しの森ホームページ」に動画投稿していく。こういうものはまずは自分が楽しければそれでよいと思っている。議論を巻き起こすようなキワドイものは載らないが、よかったら、見に来てほしい。

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第109回目。あとで、堅信組の晴れやかな様子をアップします。あとでね。
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年間第32主日(ルカ20:27-38)人間に命を与えた神は永遠の命も与える

2010-11-07 | Weblog
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10/11/07(No.501)
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年間第32主日
(ルカ20:27-38)
人間に命を与えた神は永遠の命も与える
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年間第32主日が回ってきました。年間の主日も30週あたりになると、「あー、そろそろ今年の教会の暦も終わりに近付いているなぁ」と意識します。皆さんも十分ご承知とは思いますが、教会の暦・典礼暦は、年間第34週に当たる「王であるキリスト」で終わり、待降節、つまりイエスの誕生を待つ季節から新しい1年が始まります。

そうなると、典礼暦を締めくくるこの時期、わたしたちはどんな思いで過ごすべきか、まず知っておきたいのです。皆さん1人1人が理解してほしいのです。教会暦が1年の終わりに意識させようとすること、それは、「終末」についてです。終末と言っても今週、来週の終わりではなくて、この世界が終わりには完成する、ということについて、意識させようとします。

そこで、この世界の終りに何が考えられているかですが、わたしたちが唱える使徒信条の中にはっきり出てきます。「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。」人間は復活して、永遠のいのちに招かれるのです。この復活信仰について、今週の福音朗読は考えさせます。

今週の福音朗読で登場するサドカイ派は、ユダヤ人の中でも復活を否定しているグループでした。彼らは、復活という考え方を持っていないモーセ五書だけを重んじていました。そして、モーセ五書の中の申命記で取り上げられている規定を持ち出して、もし復活があるなら、大混乱になると主張したのです。

申命記25章5-6節には、次のような規定がありました。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」そして、この規定を盾にとって、今週のような論争を挑んできたのです。

イエスはサドカイ派の議論に、2つの点で答えています。まず、当時のユダヤ人が一般的に持っていた復活に対する考え方をイエスは訂正しました。当時、特にファリサイ派の人の間で復活後の生活は、この世の生活の延長と考えられていました。ですから復活後も結婚し、子供を産むと考えていたわけです。

イエスはその点をまず訂正します。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。」(20・34-35)子孫を残すのは、死を乗り越えようとするためです。復活した人はもはや死ぬことはないのですから、結婚して子孫を残す必要はありません。皆、兄弟姉妹のようになると思ってよいでしょう。

次に、サドカイ派が大切にしているモーセ五書から、復活はあると説明します。サドカイ派の人はモーセ五書に復活信仰は書かれていないと考えていましたが、アブラハム、イサク、ヤコブがいつまでも死に渡されたままでいるだろうか。むしろ神は、今もアブラハム、イサク、ヤコブを生かしてくださっていると考えるべきではないか。イエスはこのようにサドカイ派の人を諭しました。

復活は、この世の終わりを考えるのにとても意味ある内容だと思います。人生の終わりや、この世界の終りが、そのまま消えてなくなってしまうものだとしたら、わたしたちには人生を全うするための希望がなくなることになります。消えてなくなる人生のために、わたしたちがどれだけ努力しても、空しいのではないでしょうか。復活の希望があるから、わたしたちは人生の終わりとこの世界の終わりを、希望をもって迎えられるのです。

今、1人の神父さまを皆さんに紹介して説教を終わりたいと思います。「よきおとずれ」の11月号1面で、人事異動が発表されました。その中で、1人の神父さまが、病気療養に入ることが発表されました。教会の主任司祭で、1つの地区の地区長も兼務していた神父さまです。

神父さまの病気は、肺ガンです。治療が困難な場所に症状が出ているということで、大掛かりな治療は行わないということでした。そうなると、神父さま本人の体力とか、気力とかに大きくかかって来ると思います。その代わりに、188殉教者の取り次ぎを願って祈ってほしいとお願いしています。

今、188殉教者は福者の位にありますが、取り次ぎによって奇跡が起こるなら、聖人の位に上げられる可能性があります。神父さまは、188殉教者の取り次ぎを信じ、奇跡を願っています。わたしも、神さまが必要とされる奇跡であれば、奇跡は起こると信じています。ぜひ、神父さまのためにお祈りをお願いいたします。

神父さまがどんな思いで1日1日を過ごしているのか、想像もつきませんが、ご自分の人生を神の望むように全うし、完成させたいと願って、今を大切に生きているのではないでしょうか。人生を全うしたいと思う中で、復活と、永遠のいのちを信じて、希望を持って生きていると思います。

サドカイ派の人は、復活を否定しました。わたしたちは復活を信じ、人生が完成し、世界も完成して終わることを信じましょう。今生きている人の中には、残り時間はこれくらいしかないと、宣告を受けている人もいます。それでも、復活への希望を信じて生きるなら、残された時間は大きな意味があります。

「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6・39)このように仰ったイエスが、大きな困難の中にある人も含めて、復活に希望を置く証し人としてこの人生を生き抜くことができるように、恵みを与えてくださる。そう信じて、このミサの中で祈りをささげたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(ルカ21:5-19)
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ちょっとひとやすみ
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▼11月3日、文化の日。皆さんはどのような過ごし方をしただろうか。わたしはつい自分の趣味を優先させて、海に出て釣りを楽しんだ。しかし、寄せられてきたメールを読むと、11月3日は趣味の日だけではなかったことを思い出した。
▼まず、日本カトリック神学院・福岡キャンパスでは、毎年この日を「召命の日」として九州全域から子供たちを招いて召命について働きかける日になっている。わたしも学生時代は、この日にやって来たM教会の担当に当たり、1日その教会の子供たちを案内した、とても楽しい思い出がある。助祭になった年には、その日の召命祈願ミサで説教をしたが、当時の福岡教区司教にコテンパンにダメだしされたこともあった。
▼関東の友達からは、美しい山の景色が届いた。佐世保からやって来た写真家と山登りをしたのだろうか。気分だけは高い場所で景色を眺めたつもりになった。いただいた写真は、ほかの人にも喜んでもらおうというやさしさが伝わって来る写真だった。
▼司祭館周辺には、食事のお世話をしてくださっているシスターが鉢植えやつる草の植物や、季節ごとに楽しみを用意してくれている。その中で、ニョキニョキと伸びて花を咲かせた植物が目にとまり、「これは何?」と尋ねたら、「皇帝ダリアです」ということだった。
▼調べてみると、「木立ダリア」とも言う植物だった。地上から、グイグイ伸びて、二階のベランダで花が見えている。どうしてここに花が見えるのかとベランダに行ってみると、5メートル、あるいは7メートルくらいの高さに伸びているではないか。
▼このベランダ、夏の間は毎日のように行き来したのだが、伸び続けているダリアには全く気付かなかった。「点滴石をうがつ」と言ったりするが、見えない変化も長い時間積み重ねれば大きな結果になるのだろう。わたしの人生にも、何かそのような足跡を残せたらと思う。

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新企画今週の1枚
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第108回目。皇帝ダリア。木立ダリア。Tree Dahlia
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