こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(マタイ13:44-52)あなたにとっての高価な真珠とは

2014-07-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/07/27(No.720)
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年間第17主日
(マタイ13:44-52)
あなたにとっての高価な真珠とは
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「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(13・46)わたしが今週取り上げたい箇所です。わたしたちも高価な真珠を一つ見つけることにしましょう。

高価な真珠が一つあると、その人は持ち物をすっかり売り払うと言います。わたしはこれを、「何物にも代えられない価値観」のことではないかと考えました。価値観とは、ものの見方や考え方のことですが、わたしたちに何物にも代えられないものの見方が身につけば、それは他のどんなものを手放しても惜しくないと思えるようになります。

例を挙げてみましょう。まずは人に対する見方です。「どんな人にも、必ず良いところがある。」これは人に対する価値ある見方だと思います。イエスは、どんな人にも天の国に迎えられる価値があると呼びかけました。当時の宗教指導者が切り捨てた人々にも天の国に招かれることができると語りました。イエスのように、わたしたちもすべての人に心を開き、その人のよいところを見つけようとする見方は、なにものにも代えられない価値あるものではないでしょうか。

次に、「どんなことにでも感謝する。」これも、わたしたちの生き方をすっかり変えるものの見方だと思います。イエスはご自分の教えが指導者たちに受け入れられない中でも、父なる神をほめたたえました(マタイ11・25。今週の「聖書と典礼」のアレルヤ唱参照)。周囲の無理解の中でも、神に感謝することができたのです。

ある人にとっては今日一日が、これ以上ない辛い日と感じるかもしれません。そんな一日であっても、今日一日を神に感謝する。変わらずにこの態度を貫くことは、何にも代えがたい生き方ではないでしょうか。

最後に、「わたしは神に愛されている。」これも、わたしたちがほかのどんなものの見方を横に置いてもよい考え方です。イエスはご自分を死に追いやる人々に対しても、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23・34)と祈りました。イエスは誰も裁かず、すべての人を愛してくださったのです。イエスがわたしを愛してくださっている。だからわたしも、人を愛することができます。

3つ、例を挙げてみました。あなたにとってのかけがえのない宝が、人生の中に必ずあるはずです。神さまは必ずその宝に出会わせてくれると思います。その時を逃さず、ほかのものに目をやらず、神が示してくれた宝を手に入れたいものです。

今日、子供たちは11小教区が集まっての球技大会に参加します。試合ですから、勝ったり負けたりするでしょう。けれども、練習したことを試合の中で発揮できたら、勝ち負けの向こうにあるものの見方に触れるのではないかと思っています。それは、しなければならないことをした上で、すべてを神さまに委ねるという態度です。毎回、この姿勢で球技大会に臨めば、球技の結果とは別に、子供たちは高価な真珠を一つ見つけることになるのではないかと思っています。

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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(マタイ14:13-21)
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ちょっとひとやすみ
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▼養護施設に上五島地区司祭たちが訪問して交流会を持った。年に一度この機会を持つのだが、今年は二つの触れ合いのうちの一つしか実行できなかった。例年だと、野球の試合を組んで、そのあとにバーベキュー形式の食事会をしている。今年は野球ができなかった。
▼理由は、養護施設の子供たちのメンバー構成にある。今年の顔ぶれを見ると、高校生と思われる子どもたちが明らかに多い。野球チームを編成するとき、不公平にならないように小学生何人、中学生何人、高校生何人という割合があるそうで、今年は小学生が不足してチームを申請できなかったそうである。
▼わたしたちとの野球の試合というのは、養護施設対抗の野球大会に向けての練習試合を兼ねている。今年はチームを申請していないので、練習がてらの野球の試合も組まなかった。もし試合をしていたら、ほとんど高校生のチームだから、司祭チームはこてんぱんにやられていたに違いない。
▼残るは、バーベキュー形式の食事会での交流。こちらは天気も良くて、問題なく開催された。子供たちは大喜び、わたしたちもひと時賑やかな食事ができていやされた。子供たちがすくすくと成長し、社会に巣立って、社会の中でかけがえのない価値観を掘り当ててほしい。

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今週の1枚
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第327回目。交流会の一コマ。子供の目はどんな環境にあっても美しいと思った。

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年間第16主日(マタイ13:24-43)忍耐によって、良い実を結ぼう

2014-07-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/07/20(No.719)
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年間第16主日
(マタイ13:24-43)
忍耐によって、良い実を結ぼう
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「僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言(った)」(13・28)。たとえ話の中で主人に毒麦を取り除くことを提案した僕は、主人が当然この意見に賛成してくれるものだと考えていました。けれども主人の思いは違っていました。

悪の芽をすぐに摘み取るべきだと進言する場面は、イエスと弟子たちの間でも見られました。「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』」(ルカ9・54)。しかしイエスは二人の弟子を戒められました。

たとえ話の主人も、たとえを通して父なる神の思いを語るイエスも、最後まで悪の芽を忍耐しようとします。最後まで忍耐することがご自分の宣教活動の強さであるとおっしゃりたいのでしょう。今週は、「イエスは忍耐によって宣教を完成させる」とまとめたいと思います。

学生の夏休みが始まりました。小学生には「夏休み中は侍者の当番の日だけではなく、ミサのある日は毎日来なさい」と強く勧めました。ドッヂボール大会の抽選は強運を引き当て、これ以上ない組み合わせに入りましたが、それでも全敗する危険はあります。全敗すれば、歩いて若松東小学校脇の愛らんどプールに行って終わりになるでしょう。

けれども、全敗していてもミサに欠かさずやって来るなら、わたしは心を打たれて、大村市民プールに連れて行くこともあるでしょう。そのためだけではないけれども、忍耐する強さを養うために、欠かさず来なさいと言いました。保護者の方も協力をお願いしたいと思います。

福音朗読に戻りましょう。「毒麦」のたとえを朗読しましたが、ある人々はこのたとえを生ぬるい活動の弁明だと考えていました。つまりイエスの宣教活動は、ある人々にとっては煮え切らないもの、生ぬるいものと映っていたのです。弟子のヤコブとヨハネの反応は、その1つの例でした。

けれども、イエスがあいまいな態度を取っているわけではないことは、違う場面の言葉で知ることができます。イエスが裏切られ、逮捕される場面で、「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」(マタイ26・53)と弟子たちを戒めたことでも分かります。

イエスの宣教活動の受け止め方が二分してしまう原因は何でしょうか。それはわたしたちにあると思います。イエスを少しの疑いもなく神から来られた方、救い主と信じるなら、イエスの宣教の姿勢に疑問を持つことはないでしょう。

もしどこかで、単に偉大な人に過ぎないと考えているのであれば、人は間違う可能性があるので、イエスの宣教活動に疑問が生じるかもしれません。問題は、わたしたちがどれだけ疑いを持たずにイエスを救い主と信じきることができるかではないでしょうか。

けれどもイエスの計らいに一切の疑いを持たないというのは、簡単なことではありません。ふだんの生活で耳に入ってくる事件や事故のニュースは、神がきっと計らってくださると信じるのを難しくさせます。

世界は今も紛争が絶えません。イスラエルとパレスチナ自治政府の暴力の応酬を心配して、教皇さまも動きました。でもいまだに収まりません。先日はウクライナ東部で民間機が撃墜され、乗客284人とパイロット他乗務員15人全員の命が失われました。イエスがだれかを動かして、また国家を動かして、暴力を止めさせることはできないのでしょうか。

悲しいニュースを聞いて、それでもイエスを救い主と信じる。それはまずは司祭・修道者の召命を受けた者が担うべき使命だと思います。司祭・修道者は、イエスを信じるということでしか、自分の価値を証明することができないからです。

司祭・修道者はイエスにしか拠り所が無いのですから、もう一度自分を奮い立たせて、「悲しい出来事の中にあっても、わたしは神の計らいを信じる」と声を上げたいと思います。もしわたしたちの声が理解されなくても、神の計らいは変わりません。

だれかが、神の計らいを少しも疑いなく信じるなら、社会の状況は変わると思います。イエスは、神がご自分をいけにえとしてこの世を救ってくださることを少しも疑わずに十字架にはりつけにされました。表面的には、みじめな最期でした。けれども神の計画は、イエスの死に至るまでの従順と忍耐によって完成したのです。

宣教は、忍耐によって完成するのだと思います。イエスの忍耐がわたしたちの忍耐の物差しです。さまざまな活動の中に毒麦が紛れ込みます。身近な人の集まりの中にも毒麦が蒔かれることでしょう。それでも、忍耐して良い麦の実を神に差しだしましょう。こうした忍耐の積み重ねが、いつか社会から毒麦を刈り取ることになるのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第17主日
(マタイ13:44-52)
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ちょっとひとやすみ
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▼浜串小教区内を移動していて、日中も濃い霧がかかっている日に当たることがある。珍しいと思い、場所を決めて撮影しようと考えた。だが撮影のタイミングを失ってしまった。「あ、霧だ」と思った時にすぐに車を降りて撮影すればよかったのだが、引き返してみると全体が霧に包まれ、撮影に向かない状態になっていた。
▼霧ははっきり形のあるものではないから、陸地と海がはっきり見えて、しかも霧が確実に迫ってきているという複数の好条件を見たなら、それはすべてを横に置いてすぐさま撮影すべきだった。10分もたたないのに、思い返してその場所に戻ってみると景色は一変していたのである。残念だった。
▼そこから考えると、気象の変化はものすごく速いのだと感じる。10分で、景色がすっかり変わる。すると10分で、晴れから大雨になることもあり得るわけだ。それは人間の歩く速度ではなく、車の速度だと思ったほうがよい。だから、歩いて天気の急変を避けることはできないと考えるべきだろう。
▼納得はしていないが、かろうじて霧がかかり始めた状態と、霧に覆われた状態を同じ場所から撮影できた写真が撮れたので、facebookに掲載している(「中田こうじ」で検索)。「ちょっとひとやすみ」には、福見教会地区が霧にかかった状態をアップした。
▼福見の集落には、切り立った崖になっている岬がある。ここを霧が駆け上がることがある。すごいなぁ、と思うのだが、いつも写真を撮るのを忘れてしまう。見惚れて忘れるほど、すごいのだ。この集落の人たちは、あの崖を登る霧を見て、写真は撮らないのだろうか。もし写真があればぜひ掲載したいものである。

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今週の1枚
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第326回目。福見教会周辺を覆う霧。午後5時。きっと梅雨が明けるのだろう。

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年間第15主日(マタイ13:1-23)辛抱強く御言葉に耳を傾ける

2014-07-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
14/07/13(No.718)
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年間第15主日
(マタイ13:1-23)
辛抱強く御言葉に耳を傾ける
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今週の福音朗読では「種を蒔く人」のたとえが選ばれました。今週のまとめとして、「辛抱強く御言葉に耳を傾ける」としたいと思います。

子どもたちの夏休みも近付いてきました。夏休み入ってすぐに、ドッヂボール大会が待っています。今日午後1時半から、参加教会が集まって対戦チームの抽選会があります。中田神父も抽選に加わるので、できるだけ強くないチームが当たるように、小学生とその保護者の皆さんはお祈りしておいてください。

練習に参加した子供、試合に参加した子供にはごほうびとして「大村市民プール」を予定していますが、たとえば3試合して3戦全敗だったら、「愛らんどプール」ということもあるかもしれません。中田神父が「なるほどこれなら連れて行ってもいいなぁ」と思う結果を出してほしいと思います。そのためにはまずは練習です。

福音の学びに移りましょう。イエスはたとえを用いて語りました。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」(13・3)何をたとえているのでしょうか。2つの方向から考えてみました。1つは、良い土地に落ちた種だけに価値を置いて話をしたという考えです。もう1つは、道端に落ちた種、石だらけで土の少ないところに落ちた種、茨の間に落ちた種、良い土地に落ちた種、どれも同じ価値でとらえているという考えです。

どちらがこのたとえを理解するのに適しているかは、当時の農夫たちの種蒔きの仕方を知ると見えてくると思います。イエスが人々と共に暮らしたパレスチナではまず種を蒔き、その後で耕していました。刈り入れ後の農閑期に村人が行き来すればそこには道ができました。しかしその「道」も、種を蒔けば耕されて農地に変わります。

そうした習慣があったので、農夫は「道」にも種を蒔きました。また農閑期にいばらが生えても、いずれは耕すので、気にせず種を蒔いていました。すると、このたとえに登場する農夫は、どの種にも芽を出し、実をつけることを平等に期待していることが分かります。無駄になる種もあるかもしれないと分かってはいますが、「この種は無駄になる種」「この種は実をつける種」と区別しているわけではないようです。

こうした背景を踏まえると、農夫は常に自分の蒔いた種が芽を出し、実をつけてほしいと期待していると理解したほうがよいと思います。つまり、どの種も同じ価値があるものとして見ているということです。

ではイエスがたとえに取り上げた「種を蒔く人」とは誰のことで、「種」は何を表すのでしょうか。いろんな可能性を含めて話しているのでしょうか。わたしは、イエスの頭の中には、ただ一人の「種を蒔く人」が思い描かれていると考えています。それは、父なる神です。そして父なる神が蒔く種とは、「イエス・キリスト」のことではないでしょうか。

「種を蒔く人」を父なる神、「蒔かれる種」をイエス・キリストとしてもう一度たとえの全体を読み返してみましょう。父なる神は、御子イエス・キリストをこの地上に「種」として蒔いてくださいました。御子がお生まれになった場所は家畜小屋でした。ほとんど誰にも知られずに誕生の瞬間を終えたのです。

イエスはあちこちに出かけて神の国を告げ知らせました。心に深く根付かない人々にも、御言葉を土の中に埋めてしまって実を結ばない人々にも神の国を語りました。もちろん、御言葉を聞いて、思い巡らし、信じて受け入れる人々もいました。

イエスはあらゆる場所で、分け隔てなく御言葉を宣べ伝えたのです。すべての人、無駄になるかもしれない人も含めて、あらゆる人に豊かな実りを期待して御自分を御父から蒔かれた種として与え続けたのです。イエスを理解する人のためにも、理解せず、いのちを狙う人のためにも、御自身を種として、すべて与えつくしたのです。

朗読の終わりにたとえ話の説明が加えられています。これは、後の教会が付加と考えられています。今回のイエスのたとえ話を、マタイ福音書を読み聞きながら生きた共同体は、「種を蒔く人」は唯一のお方であり、蒔かれた種もイエス・キリストただ一人だと理解していたのです。

わたしたちはどのように受け取ればよいでしょうか。父なる神は、すべての人に御子イエス・キリストを種蒔きしてくださいました。どんな環境にある人にも、実を結んでくれると期待して、分け隔てなく種蒔きは行われました。あとは、父なる神が蒔いた種である御言葉を、わたしたちがどのように扱うかにかかっています。

蒔かれた相手によって御言葉という種の価値が重かったり軽かったりするのではありません。すべての人に、同じ価値ある御言葉が与えられています。何か、工夫をして、受けた御言葉を実らせたいものです。

そこでわたしは、皆さんに「辛抱強く御言葉に耳を傾ける」ことを勧めたいと思います。どれくらい辛抱強く耳を傾けるかというと、心に留まった御言葉を、たとえば30回繰り返して読み込むくらい辛抱強く向きあってみましょう。すると、見えなかったもの、気づいていなかったことにたどりつけるのではないかと思います。

置かれた身分によっては、60回繰り返して読む辛抱強さが必要です。もっと言うと、司祭は御言葉に決定的に触れるために、100回繰り返して読む辛抱強さが必要かもしれません。ここまで辛抱強く御言葉と向き合えば、父なる神は必ず豊かに実をつけさせてくださるでしょう。

「耳のある者は聞きなさい。」(13・9)わたしは、御言葉に対してどのような準備ができているでしょうか。この御言葉を30回繰り返すことでも、実を結ぶための辛抱強さが備わっているか、試されると思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(マタイ13:24-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼久しぶりに冷や汗をかいた。紙の金銭出納帳にプリントアウトするのが滞っていたのでしばらくぶりにプリントしてみると、出力した結果と銀行通帳の数字が合わない。紙の出納帳に記録する前に表計算ソフトで管理しているが、表計算ソフトの数字と銀行通帳とはピッタリ合っている。
▼これはどういうことだ。以前は紙に出力しても数字に狂いはなかったのに、ある時点から数字が合わない。台風襲来で司祭館から一歩も出ることができないし、思い切って原因を探ることにした。表計算ソフトの書式の、入出金を記録している書式と、紙に出力する書式を見比べているうちに原因が分かった。
▼単純な計算間違いだった。司祭が管理している金銭を表計算ソフトに記録するとき、月ごとに「今月の収入計」「今月の支出計」「今年度の収入累計」「今年度の収入累計」「今月の収支残高」「今年度の累計収支残高」これら6項目が分かるような仕組みにしているのだが、なぜか去年の12月に限って、「今月の収支残高」「今年度の累計収支残高」が間違っていた。
▼さきの6項目はわたしが電卓で計算しているわけではない。単純なsum関数を表計算ソフトに埋め込んでいて、その結果が見た目には数字となって表れるようになっている。毎月の集計結果は今に始まったことではなく、10年くらい前から利用している関数式だ。
▼ところがこの関数式が、去年の11月までは正常に埋め込まれているのに、12月に限って間違った関数式が埋め込まれていた。去年の12月の時点で4万7千4百4円のずれが生じ、それ以降はずっとこのずれを引きずったまま、計算を続けていたのである。約10カ月分のプリントアウトを済ませて最後の数字を眺めたときに、初めてどこかの時点で間違っていることに気付いた。印刷はやり直しだし、インクも紙も無駄である。
▼なぜ、関数の埋め込みを間違ったのかまったく分からない。わたしは算数も数学も「2」だったので分かろうというのが土台無理なのだが、人間のミスを人間が発見すること、しかも自分のミスを自分で発見することがこんなに難しいとは思いもしなかった。早速正しい結果をプリントし、銀行通帳にも47404円入金した。

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今週の1枚
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第325回目。台風一過。船揚げしたついでに、船底を洗い、ペンキの塗り直し。

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年間第14主日(マタイ11:25-30)あなたの重荷を軽くしてくださるイエスに近づく

2014-07-06 | Weblog
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こうじ神父
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14/07/06(No.717)
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年間第14主日
(マタイ11:25-30)
あなたの重荷を軽くしてくださるイエスに近づく
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年間第14主日、これから待降節の前まで年間の主日が続いていきます。どうかするとあっという間に待降節、降誕節になってしまう危険もあります。各自で具体的な過ごし方を持ってこれからの年間の季節を過ごすきっかけをつかむことにしましょう。今週のまとめとして、「あなたの重荷を軽くしてくださるイエスに近づく」としたいと思います。

皆さまのご好意により、7月3日聖トマの霊名の祝いを本日用意していただきました。心から感謝申し上げます。だんだん機敏さが無くなり、思いついたことをパッと実行できなくなっておりまして、皆さんもどかしい思いをしておられることでしょう。これからはわたしに本当にできることは何か、よく考えてそこに力を集中したいと思います。

さきほど、教会の暦に沿った具体的な過ごし方を考えましょうと言いました。教会暦は待降節から始まります。一年を一回の登山になぞらえてみました。わたしは登山のことを実際には知りませんが、「準備」「訓練」「実際の登山で味わう苦しみ」「登頂した喜び」「無事に下山」という流れになると思います。

すると待降節は、登山の前に必要な計画作りや情報収集といった準備に当たります。信仰生活の中では、わたしたちが信ずべきこと、守るべきことの再点検などにあてはめられます。降誕節は、訓練です。イエスも宣教活動を開始するまで、ヨセフとマリアのもとでお暮しになりました。わたしたちも信ずべきこと、守るべきことにどんな質問をされても何かしら答えられるように訓練をします。

準備と訓練を経て登山がはじまりますが、当然苦しみも味わうことになります。山が高ければ高いほど、酸素は少ないし、足場は悪くなるからです。わたしたちの信仰も、誘惑を受けたり、同じ信仰の人が全く教会に足が向かわないのを見て無力感を覚えたりするでしょう。その苦しさを乗り越えなければ、「信仰していて良かったなぁ」という気持ちにはなれないと思います。

登山は苦しみの連続ですが、登頂し、そこから眺める景色はすべてを忘れさせるでしょう。イエスの復活、昇天、聖霊降臨の恵みは、これまでの試練や苦難を忘れさせる素晴らしいひと時です。この喜びがあって、わたしたちは信仰を続けていけるわけです。

そして登山は無事に下山して完成します。登頂しても、帰り着くことができなければ、その登山は失敗です。登頂して味わった達成感と喜びを携えて、慎重に、かつ大胆に行動する必要があります。わたしたちの信仰の歩みで、復活節を終えてからの年間の季節は、この下山にあたる部分です。復活によって神の栄光を表したイエスを心に携え、復活の喜びを告げ知らせるために、人々が住む社会に派遣されていきます。この一連の繰り返しで、わたしたちは典礼暦の一年を過ごしているのです。

福音に入りたいと思います。イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(11・28)と言い、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(11・30)と励ましてくださいます。わたしがこのことを考えるきっかけをいただいた経験をお話しして、皆さんと分け合いたいと思います。

長崎教区には約100人の教区司祭がいます。教区司祭が亡くなると、できる限りすべての用事を横に置いて葬儀に参列します。わたしは22年前に司祭になりましたが、それから5年くらいは亡くなった司祭を納めた棺を聖職者墓地まで担いで行き、土葬していました。感じとしては、浜串教会から後浜串のバス停まで担いでいくような感じでした。

おもに、亡くなった司祭と関わりのある司祭が棺を担ぐのですが、担ぎ手の司祭の身長がばらばらだったりしますと、ある司祭にはより棺の重さがかかったり、ある司祭はあまりに背が低くて、担いでいると言うよりもぶら下がっているようなこともありました。

わたしも何度か棺を担ぎましたが、たいてい亡くなった先輩司祭たちは自分たちより体が小さいのに、なぜか棺には重さを感じました。わたしはその重さは体の重さだけではない、なにか年数から来る存在の重さのようなものを感じたものです。

時には、「少しぐらい手を抜いても、ばれないだろう」という気持ちが起こることもありました。ところがそういう時に限って、「しっかり担げ。気を抜くな」というお叱りの声を受けたのです。必ずしもわたしに言ったものではなかったかもしれませんが、だれかが気を抜くと、それが全員に重さとして伝わり、厳しさを教えるために注意する司祭もいたわけです。

棺に寄り添い、真剣に棺を担ぐ中で、わたしはこう考えました。イエスが「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(11・29)と言ったのは、真剣に事に当ってみてようやく分かるものなのだと言うことです。棺を担ぐのは決してやさしいことではありませんが、気を抜かずに真剣に担ぐなら、負いやすいものになり、重たいはずのものが軽く感じられたのです。

司祭になって6年目くらいには、長崎市から土葬の許可は下りなくなりました。それからは聖職者墓地にご遺体の棺を担ぐことは無くなりましたから、今の40代後半までの司祭が、この経験をした最後の世代だったことになります。現役の司祭が亡くなった司祭を担ぐという体験が、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」という呼びかけになっていたのだと思います。

肩に食い込む重みは、今でも忘れません。その重みを感じながら、これからも司祭としての務めを果たしていくつもりです。それは希望のない重荷ではなく、むしろ喜びをかき立てる重荷です。信仰の歩みは、時として肩に食い込む重荷ですが、その荷が負いやすいもの、軽いものとなるのは、真剣にその重荷を担う時です。それは、真剣にイエスに近づくことでもあります。わたしたちがより真剣にイエスに近づこうとするとき、イエスがわたしたちの重荷を軽くしてくださいます。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(マタイ13:1-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼そう言えば、今日のNHKのど自慢は、新上五島町が会場だった。どこかで歌う場面があり、「長崎の鐘」をうたったところ、「とても上手ですね。NHKのど自慢に出たら?」とおだてられたが、素性がばれるし、仮に歌わなければならなくなったときにピエロ役に抜擢されるかもしれないし、考えれば考えるほど応募する気になれなかった。
▼金曜日には、土曜日の予選会のことを盛んに町内の有線放送で流して、見学に来てくださいとお知らせしていた。きっと楽しいだろうなぁ。見学くらいだったら、行ってもいいかもなぁ。案外、司祭は応募していなくても、シスターは応募していたりして(笑)。
▼わたしの知っている人で、参加すればまず間違いなく合格するであろう女性を2人知っている。声量があり、歌を楽しんでいるのがよくわかる人だ。この2人のうちどちらかが予選に参加して、本線に出てきたら、上五島にもこんなに素敵な歌声の女性がいるんだときっと視聴者も感心してくれると思う。
▼さて、NHKの宣伝はこれくらいにして、わたしは安倍総理大臣に一言申し上げたい。総理大臣は、中国には「力による現状変更は許されない」と盛んに言っていますが、ご自分は「数の力」による現状変更を許すのですか?
▼武力も、数の力も強引なことをしようとすればそう変わりないでしょう。だとしたら、力による現状変更は許されないはずです。お願いですから、現状変更しないでください。国会周辺や、総理官邸周辺で頻繁に繰り返されているデモを、どのように聞いているのですか。蚊の鳴き声としか思っていませんか。
▼「あの時総理が解釈変更に舵を切ってくれて良かった」と、振り返った時に思うのでしょうか。わたしは「あの時舵を切っていなかったならどんなに良かっただろうか」と考えるであろうグループの一人であります。

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今週の1枚
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第324回目。チャンスがあれば、霊名のお祝いの様子。少しアップに時間を。

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