こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(マルコ10:46-52)身近な声を耳障りに思っていないか

2018-10-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/10/28(No.969)
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年間第30主日
(マルコ10:46-52)
身近な声を耳障りに思っていないか
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年間第30主日を迎えました。年間の主日は第33主日までで、その次は王であるキリスト、その次は待降節ですから、年間の主日もあと少しだなぁと感じます。皆さんも典礼暦の季節感が感じられる人になってもらえると嬉しいなぁと思います。

季節感と言えば、野球もいよいよ締めくくりの日本シリーズですね。今週の説教は準備するのに苦労しました。なぜかというと、ここ数日耳鳴りがして、説教の準備に没頭できなかったからです。どんな耳鳴りかというと、一日中、「がんばれカープ」という広島カープの応援歌が鳴り響いていて、どうしてもその耳鳴りを追い出せなかったのです。

原因は、日本シリーズに広島が出ているからなのですが、どうやったら耳鳴りが解消できるのかなぁと考えていたら、広島の恩人から連絡が来まして、「28日試合を見に行きませんか?」と誘いを受けたのです。思い切って出かけることにしました。

花粉症の人が花粉を混ぜた米を食べて病気を治す治療法があるそうです。私の耳鳴りも、マツダスタジアムで「がんばれカープ」を歌えば、ひょっとしたら治るかもしれない。藁にもすがる思いで耳鳴りの治療に行ってきます。月曜日の朝ミサは広島司教館でささげてきます。

福音朗読はバルティマイのいやしの物語です。バルティマイはイエスが道を通られると聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(10・47)と叫びました。人々が黙らせようとしますが、構わず「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。

それだけ叫び声を上げれば、多くの人の耳に声がこびりついたと思います。耳鳴りがするほどだったかもしれません。耳障りな音を排除したい人もいたはずです。もうこの段階になると、バルティマイの叫びは「人の声」ではなくて「やかましい音」と受け取られていたのでしょう。「やかましい音」であれば排除したいと思って当然です。

イエスはどうだったのでしょうか。みんなと同じくバルティマイの叫びが、耳につくと感じたでしょう。けれどもイエスはバルティマイの叫びを拾い上げてくださいました。私たちも必死に声を上げて願いを取り上げてもらう様子は想像できると思います。頭では分かっても、自分と違う人が叫びを上げた時には、邪魔に思ったり、面倒に感じたり、不必要だと切り捨てたりするわけです。

なぜ人は、自分には関係ないと思ったら「目が見えるようになりたいのです」(10・51)という切実な願いも押さえつけてしまうのでしょうか。目が不自由な人が「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んでいれば、「目が見えるようになりたいのだな」と想像できるはずです。それなのになぜ、イエスに「この人を面倒見てあげてください」と案内することができないのでしょうか。

きっと、自分のことで頭がいっぱいだからです。イエスに群がる群衆は、自分が何か恩恵を受けたい、自分の必要を満たしてもらいたいと、自分のことで頭がいっぱいなのです。バルティマイの叫びは、もっともだけれども、やはり自分とは関係がないので、耳に入れたくないし、耳鳴りがするほど叫ぶのが面倒で、排除しようとしたわけです。

少しでも、「この人の願いは私の願いでもある」と考えることができたら、最初から優しく接して、イエスに取り次いでもらえるようにみんなで努力したでしょう。始めから、「あの男を呼んで来なさい」「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」と、バルティマイをイエスのところに連れて行ったでしょう。

どうしたら、「この人の願いは私の願いでもある」と考えることができるのでしょうか。そのためには、自分のことで頭がいっぱい、自分のことで精一杯、そんな生き方を少し変えることだと思います。そしてしばしば、自分のためだけの人生から生き方を変えるきっかけは、自分の努力ではなく、出会う人が与えてくれるのです。

司祭館に住まわせてもらう主任司祭が「自分のことで精一杯」という生き方を横に置くきっかけを与えてくれるのは司祭館のチャイムを鳴らす人たちです。日によって、時間によっては自分のことで頭がいっぱいの時もあります。ついこの前も、純心高等学校2年生の黙想会をお願いされました。40分くらいの話を3回分用意するとなると、何を話すか考える、どう話すか考える、話の原稿を起こしておく、準備は相当必要になります。

それでも司祭館のチャイムは鳴るわけです。玄関に行って応対します。また机に向かい、続きを考えていると別の要件でチャイムが鳴ります。たまには机に向き直ったと思ったらチャイムです。けれども一つ一つの要件は、私を必要としているわけです。

こんなことですから、心の持ち方を変えなければ続きません。「この人の願いは、私の願いでもあるのだ。」私の願いなのですから、どんなにチャイムが鳴ろうとも、応対すべきです。チャイムを鳴らす人は、一人一人、願い事があるわけです。「何をしてほしいのか」と聞いてあげることで、きっと司祭という立場でイエスに従う人になれると思います。

最後に、先を行くイエスが向かう場所を確認しておきましょう。イエスが向かうところ、それは十字架です。「この人の願いは、私の願いでもある」手を差し伸べてあげることで、私たちは十字架上で命をささげてくださるイエスにより近づくのです。

イエスを見物について行くのであれば、自分のことで精一杯でついて行ってもよいでしょう。けれども私たちがついて行くイエスは、ご自分の罪ではなく、わたしたちの罪を背負うためにエルサレムに向かわれるのです。「この人の願いは、私の願い」ずっと同じ思いで、十字架に向かっておられるのです。私たちも、日々誰かに手を差し伸べることで、イエスの歩む道を歩くことができます。

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‥次の説教は‥‥
年間第31主日
(マルコ12:28b-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼「耳鳴り?違うでしょ。」きっとそう言われるに違いない。だが一日中、「がんばれカープ」が鳴り響いている。土曜日の第一戦、大瀬良の先発。相手は千賀。相手は13勝、こっちは15勝。データ上は上回っている。現地で早く応援したい。
▼私の父は一度しか物事を教えない人だった。道具の作り方、良い者とそうでないものの見分け方。私も司祭26年目を歩きながら、あまりにも「こう」と道を示すのは良くないのではないかと思い始めた。一つの例を挙げて、聞いた人があれこれ考えるような示し方が良いのではないかと思うようになった。
▼しょせん、こちらが明確に道を示しても、受け取る側はこちらの期待通りに受け取るとは限らない。むしろ期待に添わない受け取り方をすることだってある。だったら、相手がどのように受け取るかなど気にせず、考えるヒントだけ出せば良いかと思っている。
▼しかしヒントだけ示されても自分で答えにたどり着けない人はどうするか。それはちょっと気になる。仮にあと25年生きるのであれば、「ヒントだけでは自分なりの答えにたどり着けない人」をどう導いていくか、そこを考えてみよう。
▼私の25年は、「答えはこうですよ」「答えはこちらですよ」そういう導き方だったと思う。一方はカトリックでないカップルが結婚の相談に来た時に「あなたも洗礼を受けたら?」とずいぶん押した。確かに受けてくれる人は多かったが、その後はどうなっているのだろうか。
▼ヒントを出して、「どんな答えを私に期待しているのだろうか」と受け止め、「私の答えはこうです」と返事をもらう。そんな活動に舵を切ろうと思う。ある人は私の期待する答えを出そうとするかもしれない。「それは本当にあなたの答えですか?」本当の答えを神様にご報告できる折り返し25年でありたい。

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今週の1枚
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第576回目。信徒会館裏。今は竹藪だが、在任中に「祈りの公園」を造りたい。

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年間第29主日(マルコ10:35-45)苦しみを苦しみとして受け取るだけで十分

2018-10-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/10/21(No.968)
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年間第29主日
(マルコ10:35-45)
苦しみを苦しみとして受け取るだけで十分
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今週は田平教会出身の神父様がまた一人叙階50周年「金祝」を迎えます。福音朗読に触れながら、これまでの道のりがどんなに大変なことか、50年の重みはどれほどか、考えてみたいと思います。ひょっとしたらご本人は大変さや重さについて何も語らないかもしれません。私なりに、推察したいと思います。

50年を迎える出来事の中で、いちばん大変だろうと想像するのは結婚50年です。2つ理由があります。1つは夫婦が両方とも生きている必要があるということ、もう1つは結婚した年齢が30歳を過ぎると、50年後には80歳になっているということです。

その次に大変な50年の祝いとして、司祭叙階50年を取り上げたいです。たいていの人が、75歳を過ぎた頃に叙階50年となります。司祭の定年は75歳と言われていますので、50年過ぎるまでは特別な事情がなければ現役世代ということになります。しかし肉体的にも精神的にも、30歳前に司祭になってから、75歳まで変わらず現役で居続けるというのは、本当に難しいことではないでしょうか。

与えられた朗読箇所の中で、ヤコブとヨハネが「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(10・37)と願い出ました。単に名誉が欲しかったのではないと思います。自分たちの労苦が、「報いにつながる労苦であるという保証が欲しい」そういうことだったのではないでしょうか。

私たちは弱さを抱えた人間です。取り組んだことが記憶や記録に残ったり、何らかの報いが返ってきたりすることをどこかで期待しているわけです。苦労が苦労だけで終わることを、とても恐れているわけです。想像ですが、浜崎神父様もこの50年は、言葉に表せない苦労を味わってきたことでしょう。

その苦労に対して、今どのようなお気持ちなのかなぁと考えるのです。イエスを間近に見て、そばで暮らした弟子達さえ、報いの保証を取り付けたかったのですから、見ることも聞くこともできない現代にあってイエスのためにささげた50年を、どのように受け止めておられるのかなぁ。とても興味があります。

報いがなくても何も不満を感じない時期もあります。司祭になって25年の銀祝まで、これと言って報いはありませんでした。会社に勤めると、勤続25年で特別表彰とか会社丸抱えの慰安旅行とかあるかもしれません。司祭も25年で1年間のリフレッシュ休暇を願うことができるそうですが、同級生3人のうち誰もリフレッシュ休暇を願いませんでした。

特に、何かを与えられなくても、25年は務めることができました、ですが折り返しを過ぎてみると、1年1年が長く、つらく、重く感じるのです。50歳を過ぎて急に身体の疲れが取れなくなったり、今まで苦労せずにできていたことができなくなったり、それはもう前半25年までの1年と、折り返したあとの1年は少なくとも肉体的には感じ方が違うと思います。

浜崎神父様が、そっくり同じ体験をしているかは分かりません。ですが生身の肉体です。似たような思いはなさっているでしょう。その上で、折り返しの25年を完走したというのは、これはすごいことだと思います。肉体的な弱さをカバーするのは精神ですから、精神面で、きっと前半の25年とは違う何かを体得したのかもしれません。

福音朗読に登場するヤコブとヨハネは、言ってみれば弟子としての前半戦で、報いの保証を願ったわけですが、彼ら2人も含め、次のように諭しています。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」これは、弟子たちの後半戦に向けての心構えではないでしょうか。

弟子たちは前半戦は地上のイエスと共に行動し、宣教活動にいそしみました。後半戦は、復活したイエスが遣わしてくださった聖霊と共に宣教活動です。霊が導く宣教の形に自分を合わせていきます。弟子たちに求める宣教者の姿が、「皆に仕える者」「すべての人の僕」だったわけです。

「報いがあったらいいなぁ」と思います。それは本心です。前半戦のように、「報いがなくても構わない」と正直言い切ることができません。肉体の衰えとか変調は隠しようがありません。けれどもそれらを乗り越える、少なくとも乗り切る基(もとい)は、「皆に仕える者」「すべての人の僕」になりなさいというイエスの招きなのだと思います。

「僕」について、私はルカ福音書の次の箇所を思い出します。「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。」(ルカ17・7-9)

これに対し、僕の返事はありませんが、僕は「主人が私に具体的な感謝をしてくれない」と不平を漏らすでしょうか。そんなことはないはずです。そこから考えて、後半戦の25年を勤め上げた先輩神父様も、同じ心境に到達なさったのだと思うのです。肉体的な限界を乗り越えて忠実に務めを果たせたのは、徹底してイエスが招いておられる「皆に仕える者」「すべての人の僕」の境地に達しているからに違いありません。

私も自分のあり方を考えます。26年経過した今は、26年前の新司祭の姿よりも、24年後の金祝を迎えた先輩神父様方に近いと感じます。肉体的な部分だけでなく、精神的にも、「皆に仕える者」「すべての人の僕」ただそれだけで十分であると言える境地に達したいものです。苦しみを苦しみとして受け取る、困難を困難として受け取る。イエスの弟子はそれだけで十分である。そんな境地を、お祝いを受ける浜崎神父様から学び取りたいと思いました。

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(マルコ10:46-52)
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ちょっとひとやすみ
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▼「頼まれていることは時を置かずに」という話。先週だったか先々週だったか、「葉書を2通」と書いたような気がするが、この件は片付いた。だが仕事は私に休みを与えてくれない。20日には決まって提出している15分程度のマリア文庫宛ての宗教講話、11月から始める「聖書愛読運動-詩編を読む-」の導入解説。まずはこの2つにすぐに取りかからなければならない。
▼さっき、小学生が司祭館のチャイムを押した。「お父さんのグローブをもらって帰りたいです。」9月に開催されたカトリック平戸地区評議会主催の球技大会でチームに参加し、たまたま忘れたグローブを、主催者の方で預かってもらっていた。10月9日にちょうど顔を合わせたので「忘れ物のグローブは田平教会チームのメンバーのものです。あずかって帰りたい」と声をかけた。
▼「すぐにお届けします」と言ってから早くも12日。子供に「もらってきて」と言ったお父さんは当然受け取れると思っていただろう。日曜日21日は参加しているチームでの試合があり、この時点で焦っているに違いない。うまく受け取って渡すことができれば幸いだ。
▼この記事を書いている間に、ケータイに電話が入った。「これから届けに行きます。遅くなって申し訳ありません」ということだった。まずは一安心。あとは今日のうちにお父さんが取りに来てくれれば明日何とか間に合いそうだ。
▼返事を出していない葉書がもう一つ出てきた。明日までに到着と書かれている。どうして今まで放置していたのか。心配しているに違いない。返事を待たれているものには時を置かずに返事を。そういう人でなければ、残りの25年お役に立てないのではなかろうか。

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今週の1枚
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第575回目。撮影する道具を主任司祭用途で買った。撮影する道具が主役だなんて。

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年間第28主日(マルコ10:17-30)昨日の自分に死んで、イエス・キリストを選ぶ

2018-10-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/10/14(No.967)
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年間第28主日
(マルコ10:17-30)
昨日の自分に死んで、イエス・キリストを選ぶ
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「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(10・17)イエスに走り寄ってきた人の問いは、誰にとっても答えを知りたい問いかけでしょう。ただ、よく考えると、答えを知っているかもしれません。ひょっとしたら答えを避けているかもしれません。

長崎市伊王島の馬込教会時代、5年間賄いをしてくれた人を久しぶりに見舞いました。黒崎教会から山奥に入った介護老人保健施設に入所していました。あれから9年経って、ずいぶん弱ってきているということで見舞いに行ったのでした。

この賄いさんは私と5年間、漫才の相方のようなやりとりを司祭館でしていました。食事の時テレビで「住宅に落雷被害」というニュースが流れると、「雷に当たると痛いんだよ。ビリビリッと来てね。」「え?当たったことがあるんですか?」「ないね~」

またある時は「お、深堀さんがテレビに映ってる。元気だったんだ~」「え?その深堀さんは知り合いですか?」「知らんね~」そのうちに私が何か言うと警戒するようになるので、一ヶ月は黙っているのですが、もうそろそろ大丈夫と思うとまたからかうのです。

ある時ネット通販で荷物が届きました。箱を開けずにいると中身が気になるのか、「箱を開けなくて大丈夫ですか?」と聞いてきます。私は手かざしをして、「私は神様の次に能力を与えられているから、手をかざすと中身がすぐに分かる」「本当ですか?」「あー、これは『キリスト教神学事典』だ。」

箱を開けると当然注文したものが入っています。それをこの賄いさんは手品を見たような顔をして驚くわけです。それに類することを5年間さんざんしました。そんな日々を過ごしたので、いよいよ弱ってきたと子供夫婦から連絡を受け、これは見舞いに行かねばと思ったのです。

見舞いに行った時間は、たまたま、ホールに集められてそれぞれが活動をする時間でした。車椅子に乗っていました。わたしが目にとまり、よほど嬉しかったのかこう切り出しました。「あ~中田神父様。本当に中田神父様ですよね。夢のようです。これでもう死んでもかまいません。」

それに対し、例えるなら漫才の相方に話すように、私は返しました。「じゃあ財産を遺贈する旨の遺言をちゃんと残してね。なくなったあとミサをするから。」周囲にいた人はギョッとしたことでしょう。けれども、「死んでもいい」というのが本心なら、「遺言を書いて旅立ってね」と言われても驚かないはずです。人は核心を突くような言葉を言われたときに、自分の心構えを問われるのです。

さて福音朗読ですが、イエスから「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」(10・19)と言われた人は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(10・20)と言ってのけました。イエスはまだ彼の心構えを試す核心に触れていませんでした。

いよいよイエスは、彼の核心に触れる言葉を放ちます。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(10・21)彼が手放したくないものを手放さなければ、永遠の命を受け継ぐことはできないのです。

朗読箇所に出てきた人は「たくさんの財産を持っていた」人で、その財産を手放すことができませんでした。私たちが学びを得るためには、自分にとっての「手放すことができないもの」「手放したくなくて、目を背けているもの」が何なのかを見極め、向き合う必要があります。

では自分にとって「手放すことができないもの」「手放したくなくて、目を背けているもの」は何でしょうか。見つける方法を私は知っています。それを失うくらいなら、他のどんな苦労を背負ってもかまわないと感じるもの。それが「手放すことができないもの」です。

ある時私は、「そこまでして目を背けるか?」と驚いたことがあります。いちばん簡単な方法を提示したのに、それを避けて、地球を一周して別の方法を選ぶような人を見たのです。きっとその人にも、手放せないものがあるのでしょう。手放すくらいなら、地球を一周回ってでも別の方法を選ぶと態度で表明したわけです。

なぜ、人に手放せないものがあるのでしょうか。その人が手放せないと思っているものを手放さないと、イエスの声に聞き従うことは叶わない。それなのに、手放すくらいなら世界一周してでも別の方法を探ろうとするのです。その努力たるや、ある意味尊敬に値します。

たくさんの財産を手放せないという人がいます。イエスは別のところでこう言います。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12・20)財産以上に手放してはいけないものを見落としてはいないでしょうか。

二重の生活をしている人がいます。表向きの生活と、裏の顔がある人です。なぜ、一方を手放せないのでしょうか。イエスの照らし、導きによって与えられた生活に背を向けて、地球一周をして二重の生活を諦めない方を選ぶのでしょうか。なんと回りくどい人生でしょうか。

時に、まるでイエスが派遣してくださったかのように、手放せずにいる姿をズバリ言い当てる人と巡り会うことがあります。先週金曜日のことです。その日は初金曜日と葬式とが重なってしまいました。説教でもそのことに触れました。

その日の夕食、家族が用意した食事の席に呼ばれたのですが、一人の人が隣に座り、こう話しかけてきました。「神父さん。葬式の説教では『初金の病人周りを朝早くからこなしつつ、葬儀のミサと説教、大変やった~』みたいなアピールをすごく強調しましたね。あの掴みの部分は、必要ですか?必要ないでしょ?」

テーブルを囲んでいた人たちが凍りついたのを感じました。私に気を遣ってのことでしょう。ただ私は、「この人は非常に面白い!」と思ったのです。誰もそんな直球で私の説教の組み立てに意見する人はいませんから、「あんなこと言って」と肝を潰す思いだったのでしょう。

「神父さんが言いたかった本当のことは何ですか?」私も言いたかったことはこうだと手短に言いましたが、「伝わらなかったですね。最初のアピールが引っかかって。」ますます面白いと思い、名前を控えました。「どんだけ俺に食いついてるんですか?」と言われましたが、「おまえが面白いからだよ」そう言っているうちに食事は散会となりました。

「無礼者!」と切り捨てていたら、この人を記憶することはなかったでしょう。けれども私は自分の持っているものを捨てて、この人を手に入れたいと思ったのです。その場で説教して、押さえつけることもできたでしょう。けれども私は、私を捨ててその人を得たことを今も喜んでいます。

皆さんはどうでしょうか?永遠の命を得ることに比べたら、捨てられないものなんて何もありません。永遠の命、すなわちイエス・キリストを得るために、今日もミサにあずかりましょう。悲しみながら去って行くのではなく、昨日までの自分に死んででも、イエス・キリストを選び取ることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(マルコ10:35-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼忙しくなると仕事が片付かない理由をあれこれ考えてしまう。「手が四本あったらなぁ」とか「24時間秘書がいたらなぁ」とか。イエス様だって二本の手で働いたし、秘書も持たずに働いた。しかも電気のない時代にだ。贅沢言わない。言い訳しない。
▼葉書を2通出そうとしている。一人は田平教会出身で今年叙階50周年の神父様。「いよいよ近づきました、心よりお待ち申し上げております」という案内だ。もう一人はミサをお願いしてきた人だが、通常の「ごミサ預かりました。○○日におささげいたします」ではなく、もう少し何か書いてから出そうと思っている。
▼出会う人は歳を重ねるうちに手が回らないほど増えていくのに、一人ひとりへの気配りは行き届かない。クローンがいればどんなに人生楽しいだろうか。クローンもクローンが欲しくなるだろうか。
▼体の変化や、会話の変化、この人が人生のどのあたりにいるのだろうかと考えることがある。私の父が晩年たどった様子を思い出すことがある。こうなってああなって・・・私に思い当たることがある。できれば父の年齢までは健康でいたいが。

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今週の1枚
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第574回目。素敵な笑顔を見せてくれた。一日でも長く、笑顔を見せて欲しい。

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年間第27主日(マルコ10:2-16)子供たちをイエスの手の届くところに

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2018/10/7(No.966)
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年間第27主日
(マルコ10:2-16)
子供たちをイエスの手の届くところに
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今週の福音は、2006年の説教を参考にしてまとめました。いろいろ重なって全くのゼロから練り上げるのは困難と考えたからです。取り上げたいのは後半部分、人々がイエスに触れていただくために子供たちを連れてきた場面についてです。

今日から明日にかけて、小学生2人を長崎のカトリック神学院に体験入学に送ることとなりました。よく私は「神学院に行ったら未使用の下駄箱を見つけて、自分の名札を入れてきなさい」と声をかけて送り出します。

子供たちがどのように受け止めるかはわかりませんが、子供たちにとって、「もう一度戻りたい場所」になればこれ以上のことはないと思っていまして、体験入学でそれぞれが呼びかけを感じ、自分の場所を見つけて帰ってきてくれればと思っています。

神学院体験入学は明らかに子供たちを変える体験です。去年体験入学に行った一人は、それまでは頭を壁にピッタリつけて、「寝てませんよ」アピールをしつつ、ぐっすり眠っていたのが、いっさい寝なくなったのです。この日は本当に寝てないのか、気になってミサに集中できませんでした。

子供たちは体験入学を経てなぜ立派に育ったのでしょうか。私の理解ですが、それは、神学院が十分練り上げたプログラムでもてなしたからではなく、イエスが、ふだんの生活、ふだんの家庭環境では得られない導きをしてくださったからではないでしょうか。

もちろん神学院側は、あれやこれやの綿密な準備を重ねて、体験入学に来た子供たちを魅了しようとするでしょう。しかし突き詰めるとそれは、「人間が準備できる最高のものということ」です。しかしイエスは、神学院の神父様や神学生を通して、それ以上の導きと、直接届く教えを施してくれていると思うのです。

朗読箇所後半部分の中で、イエスは次のようにはっきり仰いました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(10・14)。子供たちが激しく、大胆にイエス・キリストに触れる環境が神学院にはある。私はそう思うのです。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」。この言葉は意味深いと思います。子供たちがご自分のそば近くに来ることをイエスが強く望んでおられるのです。子供たちはイエスに近づくことで、イエスから直接教え導かれる機会を得るのです。

私たち大人は、さまざまな思惑で子供たちが作られていくと考えがちです。もし人間の思惑よりもイエスの導きがすぐれていると思うなら、イエスに触れることができる環境を作ってあげてほしい。私たちはそのことだけに心を配れば、あとはイエスがすべてを計らってくれるのではないでしょうか。

神学院体験入学は、子供たちをイエスに触れさせるまたとない機会と思っています。体験入学で見たことが、今後どのように花咲くのかは予想できません。子供たちを教え導いた、イエスが体験した子供たちの中で花を咲かせてくれるでしょう。「子供たちをわたしのところに来させなさい」という言葉は、イエスからの「わたしが責任を持って子供たちを教え導きます」という強い決意の表れだと私は考えました。

見落とせない点があります。イエスは、「子供たちをわたしのところに来させなさい」の後に「妨げてはならない」と言っておられます。私たち大人は、いろんな障害物をそのまま放置して、知らずに子供たちがイエスのところに来るための環境を悪くしてしまっていることがあるのではないでしょうか。

たとえば、朝のミサに子供たちが参加するためには、当然家庭で朝のミサに間に合う時間に起きなければなりません。子供たちは疲れて眠たいから、朝のミサには起こさないでそのまま寝かせてあげよう。それが親の配慮だと思っているとしたら、私たち大人はイエスに叱られるのではないでしょうか。

むしろ、子供たちがイエスに近づくのに障害となるものを取り除いてあげることが、私たちにできるお世話なのではないでしょうか。日曜日の朝に眠くてミサに来ることができないとすれば、それはおそらく寝る時間が遅いからです。土曜日にもっと早く子供たちを休ませるようにすれば、朝のミサは決して早い時間ではないはずです。

部活や習い事など、どうしても外せないことで子供たちがイエスに触れる機会が遠ざけられているとしたら、それを仕方がないであきらめるのではなく、ほんの少しでもいいから、子供たちがイエスに触れるチャンスを確保してあげるように大人たちが努力して欲しいと思います。

また、「妨げてはいけない」と言ったのは、単に眼の前の子供たちのことだけ考えなくてもよいと思います。「洗礼を受けた神の子供」を、イエスに近づけるようにして欲しいのです。配偶者や、自分の手を離れてしまった子供たちであっても、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」という言葉は生きているのです。

今回体験入学に参加した子供たちがイエスに固く結ばれる機会を得て帰ってきてくれたらと願っています。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(10・14)イエスの招きは今も私たちに迫っているのだということを肝に銘じて、すべての子供たちがイエスに親しく触れることができるように、これからも努力を続けていくことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日
(マルコ10:17-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼過ぎた週は葬儀が2回入った。ふだんの一週間と比べると、2倍、いや3倍は長かった一週間のように感じた。木曜日の葬儀で、最後に家族との食事会に招かれ、そこで強烈な個性の青年に出会った。この人は最初少し離れたテーブルの席に座っていたのだが、自ら、私の隣りに座ってきた。
▼「今日の葬儀ミサの説教、『俺は今日忙しい合間をぬって葬儀をしてるよ』みたいな猛アピールしてましたよね」最初の挨拶でこんな切り出しをする人はいないわけで、私は気分を害するどころか「非常に面白い!」と思ったのである。
▼確かに、その日は忙しかった。初金曜日で病人訪問をしつつ、11時の葬儀ミサの務めを果たしたからだ。7時半から始まる家庭の病人訪問を10時の訪問者まで回り、10時20分、40分、11時の人たちにはお断りを入れて葬儀に入った。葬儀ミサ直前の病人訪問で感じたことを葬儀の中で関連付けて話したのだが、「結構忙しくしているでしょ」みたいな話し方をしていたと思う。
▼本人が隠しながら織り交ぜた「アピール」を、その人は私に突きつけたわけだ。「何を!」と思う司祭もいるかも知れない。だが私は「この人は実に面白い」と直感したのである。私がいくら「君はそう感じたかもしれないが、ご年配の人は『そんなに忙しかったのですか。ご苦労様でした』と思っているんだよ」と抵抗してみたが、「私は騙されません。あれはアピールです」と切り捨てられた。
▼あまりに興味深い人物だったので、スマートフォンで名前をメモを取ったら「そんなに私に興味ありますか?どうしてそこまで食いつくのですか?」と突っ込まれた。「理由は一つ。君が面白いからだよ。」久しぶりに、私を言い込める人と出会った。

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今週の1枚
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第573回目。その人を写メ撮っておけばよかった。神学院体験入学プログラム。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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