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こうじ神父
「今週の説教」
2018/10/28(No.969)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第30主日
(マルコ10:46-52)
身近な声を耳障りに思っていないか
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第30主日を迎えました。年間の主日は第33主日までで、その次は王であるキリスト、その次は待降節ですから、年間の主日もあと少しだなぁと感じます。皆さんも典礼暦の季節感が感じられる人になってもらえると嬉しいなぁと思います。
季節感と言えば、野球もいよいよ締めくくりの日本シリーズですね。今週の説教は準備するのに苦労しました。なぜかというと、ここ数日耳鳴りがして、説教の準備に没頭できなかったからです。どんな耳鳴りかというと、一日中、「がんばれカープ」という広島カープの応援歌が鳴り響いていて、どうしてもその耳鳴りを追い出せなかったのです。
原因は、日本シリーズに広島が出ているからなのですが、どうやったら耳鳴りが解消できるのかなぁと考えていたら、広島の恩人から連絡が来まして、「28日試合を見に行きませんか?」と誘いを受けたのです。思い切って出かけることにしました。
花粉症の人が花粉を混ぜた米を食べて病気を治す治療法があるそうです。私の耳鳴りも、マツダスタジアムで「がんばれカープ」を歌えば、ひょっとしたら治るかもしれない。藁にもすがる思いで耳鳴りの治療に行ってきます。月曜日の朝ミサは広島司教館でささげてきます。
福音朗読はバルティマイのいやしの物語です。バルティマイはイエスが道を通られると聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(10・47)と叫びました。人々が黙らせようとしますが、構わず「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。
それだけ叫び声を上げれば、多くの人の耳に声がこびりついたと思います。耳鳴りがするほどだったかもしれません。耳障りな音を排除したい人もいたはずです。もうこの段階になると、バルティマイの叫びは「人の声」ではなくて「やかましい音」と受け取られていたのでしょう。「やかましい音」であれば排除したいと思って当然です。
イエスはどうだったのでしょうか。みんなと同じくバルティマイの叫びが、耳につくと感じたでしょう。けれどもイエスはバルティマイの叫びを拾い上げてくださいました。私たちも必死に声を上げて願いを取り上げてもらう様子は想像できると思います。頭では分かっても、自分と違う人が叫びを上げた時には、邪魔に思ったり、面倒に感じたり、不必要だと切り捨てたりするわけです。
なぜ人は、自分には関係ないと思ったら「目が見えるようになりたいのです」(10・51)という切実な願いも押さえつけてしまうのでしょうか。目が不自由な人が「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んでいれば、「目が見えるようになりたいのだな」と想像できるはずです。それなのになぜ、イエスに「この人を面倒見てあげてください」と案内することができないのでしょうか。
きっと、自分のことで頭がいっぱいだからです。イエスに群がる群衆は、自分が何か恩恵を受けたい、自分の必要を満たしてもらいたいと、自分のことで頭がいっぱいなのです。バルティマイの叫びは、もっともだけれども、やはり自分とは関係がないので、耳に入れたくないし、耳鳴りがするほど叫ぶのが面倒で、排除しようとしたわけです。
少しでも、「この人の願いは私の願いでもある」と考えることができたら、最初から優しく接して、イエスに取り次いでもらえるようにみんなで努力したでしょう。始めから、「あの男を呼んで来なさい」「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」と、バルティマイをイエスのところに連れて行ったでしょう。
どうしたら、「この人の願いは私の願いでもある」と考えることができるのでしょうか。そのためには、自分のことで頭がいっぱい、自分のことで精一杯、そんな生き方を少し変えることだと思います。そしてしばしば、自分のためだけの人生から生き方を変えるきっかけは、自分の努力ではなく、出会う人が与えてくれるのです。
司祭館に住まわせてもらう主任司祭が「自分のことで精一杯」という生き方を横に置くきっかけを与えてくれるのは司祭館のチャイムを鳴らす人たちです。日によって、時間によっては自分のことで頭がいっぱいの時もあります。ついこの前も、純心高等学校2年生の黙想会をお願いされました。40分くらいの話を3回分用意するとなると、何を話すか考える、どう話すか考える、話の原稿を起こしておく、準備は相当必要になります。
それでも司祭館のチャイムは鳴るわけです。玄関に行って応対します。また机に向かい、続きを考えていると別の要件でチャイムが鳴ります。たまには机に向き直ったと思ったらチャイムです。けれども一つ一つの要件は、私を必要としているわけです。
こんなことですから、心の持ち方を変えなければ続きません。「この人の願いは、私の願いでもあるのだ。」私の願いなのですから、どんなにチャイムが鳴ろうとも、応対すべきです。チャイムを鳴らす人は、一人一人、願い事があるわけです。「何をしてほしいのか」と聞いてあげることで、きっと司祭という立場でイエスに従う人になれると思います。
最後に、先を行くイエスが向かう場所を確認しておきましょう。イエスが向かうところ、それは十字架です。「この人の願いは、私の願いでもある」手を差し伸べてあげることで、私たちは十字架上で命をささげてくださるイエスにより近づくのです。
イエスを見物について行くのであれば、自分のことで精一杯でついて行ってもよいでしょう。けれども私たちがついて行くイエスは、ご自分の罪ではなく、わたしたちの罪を背負うためにエルサレムに向かわれるのです。「この人の願いは、私の願い」ずっと同じ思いで、十字架に向かっておられるのです。私たちも、日々誰かに手を差し伸べることで、イエスの歩む道を歩くことができます。
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‥次の説教は‥‥
年間第31主日
(マルコ12:28b-34)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼「耳鳴り?違うでしょ。」きっとそう言われるに違いない。だが一日中、「がんばれカープ」が鳴り響いている。土曜日の第一戦、大瀬良の先発。相手は千賀。相手は13勝、こっちは15勝。データ上は上回っている。現地で早く応援したい。
▼私の父は一度しか物事を教えない人だった。道具の作り方、良い者とそうでないものの見分け方。私も司祭26年目を歩きながら、あまりにも「こう」と道を示すのは良くないのではないかと思い始めた。一つの例を挙げて、聞いた人があれこれ考えるような示し方が良いのではないかと思うようになった。
▼しょせん、こちらが明確に道を示しても、受け取る側はこちらの期待通りに受け取るとは限らない。むしろ期待に添わない受け取り方をすることだってある。だったら、相手がどのように受け取るかなど気にせず、考えるヒントだけ出せば良いかと思っている。
▼しかしヒントだけ示されても自分で答えにたどり着けない人はどうするか。それはちょっと気になる。仮にあと25年生きるのであれば、「ヒントだけでは自分なりの答えにたどり着けない人」をどう導いていくか、そこを考えてみよう。
▼私の25年は、「答えはこうですよ」「答えはこちらですよ」そういう導き方だったと思う。一方はカトリックでないカップルが結婚の相談に来た時に「あなたも洗礼を受けたら?」とずいぶん押した。確かに受けてくれる人は多かったが、その後はどうなっているのだろうか。
▼ヒントを出して、「どんな答えを私に期待しているのだろうか」と受け止め、「私の答えはこうです」と返事をもらう。そんな活動に舵を切ろうと思う。ある人は私の期待する答えを出そうとするかもしれない。「それは本当にあなたの答えですか?」本当の答えを神様にご報告できる折り返し25年でありたい。
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今週の1枚
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第576回目。信徒会館裏。今は竹藪だが、在任中に「祈りの公園」を造りたい。
ホームページもご覧ください。
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/10/28(No.969)
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年間第30主日
(マルコ10:46-52)
身近な声を耳障りに思っていないか
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年間第30主日を迎えました。年間の主日は第33主日までで、その次は王であるキリスト、その次は待降節ですから、年間の主日もあと少しだなぁと感じます。皆さんも典礼暦の季節感が感じられる人になってもらえると嬉しいなぁと思います。
季節感と言えば、野球もいよいよ締めくくりの日本シリーズですね。今週の説教は準備するのに苦労しました。なぜかというと、ここ数日耳鳴りがして、説教の準備に没頭できなかったからです。どんな耳鳴りかというと、一日中、「がんばれカープ」という広島カープの応援歌が鳴り響いていて、どうしてもその耳鳴りを追い出せなかったのです。
原因は、日本シリーズに広島が出ているからなのですが、どうやったら耳鳴りが解消できるのかなぁと考えていたら、広島の恩人から連絡が来まして、「28日試合を見に行きませんか?」と誘いを受けたのです。思い切って出かけることにしました。
花粉症の人が花粉を混ぜた米を食べて病気を治す治療法があるそうです。私の耳鳴りも、マツダスタジアムで「がんばれカープ」を歌えば、ひょっとしたら治るかもしれない。藁にもすがる思いで耳鳴りの治療に行ってきます。月曜日の朝ミサは広島司教館でささげてきます。
福音朗読はバルティマイのいやしの物語です。バルティマイはイエスが道を通られると聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(10・47)と叫びました。人々が黙らせようとしますが、構わず「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。
それだけ叫び声を上げれば、多くの人の耳に声がこびりついたと思います。耳鳴りがするほどだったかもしれません。耳障りな音を排除したい人もいたはずです。もうこの段階になると、バルティマイの叫びは「人の声」ではなくて「やかましい音」と受け取られていたのでしょう。「やかましい音」であれば排除したいと思って当然です。
イエスはどうだったのでしょうか。みんなと同じくバルティマイの叫びが、耳につくと感じたでしょう。けれどもイエスはバルティマイの叫びを拾い上げてくださいました。私たちも必死に声を上げて願いを取り上げてもらう様子は想像できると思います。頭では分かっても、自分と違う人が叫びを上げた時には、邪魔に思ったり、面倒に感じたり、不必要だと切り捨てたりするわけです。
なぜ人は、自分には関係ないと思ったら「目が見えるようになりたいのです」(10・51)という切実な願いも押さえつけてしまうのでしょうか。目が不自由な人が「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んでいれば、「目が見えるようになりたいのだな」と想像できるはずです。それなのになぜ、イエスに「この人を面倒見てあげてください」と案内することができないのでしょうか。
きっと、自分のことで頭がいっぱいだからです。イエスに群がる群衆は、自分が何か恩恵を受けたい、自分の必要を満たしてもらいたいと、自分のことで頭がいっぱいなのです。バルティマイの叫びは、もっともだけれども、やはり自分とは関係がないので、耳に入れたくないし、耳鳴りがするほど叫ぶのが面倒で、排除しようとしたわけです。
少しでも、「この人の願いは私の願いでもある」と考えることができたら、最初から優しく接して、イエスに取り次いでもらえるようにみんなで努力したでしょう。始めから、「あの男を呼んで来なさい」「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」と、バルティマイをイエスのところに連れて行ったでしょう。
どうしたら、「この人の願いは私の願いでもある」と考えることができるのでしょうか。そのためには、自分のことで頭がいっぱい、自分のことで精一杯、そんな生き方を少し変えることだと思います。そしてしばしば、自分のためだけの人生から生き方を変えるきっかけは、自分の努力ではなく、出会う人が与えてくれるのです。
司祭館に住まわせてもらう主任司祭が「自分のことで精一杯」という生き方を横に置くきっかけを与えてくれるのは司祭館のチャイムを鳴らす人たちです。日によって、時間によっては自分のことで頭がいっぱいの時もあります。ついこの前も、純心高等学校2年生の黙想会をお願いされました。40分くらいの話を3回分用意するとなると、何を話すか考える、どう話すか考える、話の原稿を起こしておく、準備は相当必要になります。
それでも司祭館のチャイムは鳴るわけです。玄関に行って応対します。また机に向かい、続きを考えていると別の要件でチャイムが鳴ります。たまには机に向き直ったと思ったらチャイムです。けれども一つ一つの要件は、私を必要としているわけです。
こんなことですから、心の持ち方を変えなければ続きません。「この人の願いは、私の願いでもあるのだ。」私の願いなのですから、どんなにチャイムが鳴ろうとも、応対すべきです。チャイムを鳴らす人は、一人一人、願い事があるわけです。「何をしてほしいのか」と聞いてあげることで、きっと司祭という立場でイエスに従う人になれると思います。
最後に、先を行くイエスが向かう場所を確認しておきましょう。イエスが向かうところ、それは十字架です。「この人の願いは、私の願いでもある」手を差し伸べてあげることで、私たちは十字架上で命をささげてくださるイエスにより近づくのです。
イエスを見物について行くのであれば、自分のことで精一杯でついて行ってもよいでしょう。けれども私たちがついて行くイエスは、ご自分の罪ではなく、わたしたちの罪を背負うためにエルサレムに向かわれるのです。「この人の願いは、私の願い」ずっと同じ思いで、十字架に向かっておられるのです。私たちも、日々誰かに手を差し伸べることで、イエスの歩む道を歩くことができます。
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ちょっとひとやすみ
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▼「耳鳴り?違うでしょ。」きっとそう言われるに違いない。だが一日中、「がんばれカープ」が鳴り響いている。土曜日の第一戦、大瀬良の先発。相手は千賀。相手は13勝、こっちは15勝。データ上は上回っている。現地で早く応援したい。
▼私の父は一度しか物事を教えない人だった。道具の作り方、良い者とそうでないものの見分け方。私も司祭26年目を歩きながら、あまりにも「こう」と道を示すのは良くないのではないかと思い始めた。一つの例を挙げて、聞いた人があれこれ考えるような示し方が良いのではないかと思うようになった。
▼しょせん、こちらが明確に道を示しても、受け取る側はこちらの期待通りに受け取るとは限らない。むしろ期待に添わない受け取り方をすることだってある。だったら、相手がどのように受け取るかなど気にせず、考えるヒントだけ出せば良いかと思っている。
▼しかしヒントだけ示されても自分で答えにたどり着けない人はどうするか。それはちょっと気になる。仮にあと25年生きるのであれば、「ヒントだけでは自分なりの答えにたどり着けない人」をどう導いていくか、そこを考えてみよう。
▼私の25年は、「答えはこうですよ」「答えはこちらですよ」そういう導き方だったと思う。一方はカトリックでないカップルが結婚の相談に来た時に「あなたも洗礼を受けたら?」とずいぶん押した。確かに受けてくれる人は多かったが、その後はどうなっているのだろうか。
▼ヒントを出して、「どんな答えを私に期待しているのだろうか」と受け止め、「私の答えはこうです」と返事をもらう。そんな活動に舵を切ろうと思う。ある人は私の期待する答えを出そうとするかもしれない。「それは本当にあなたの答えですか?」本当の答えを神様にご報告できる折り返し25年でありたい。
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今週の1枚
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第576回目。信徒会館裏。今は竹藪だが、在任中に「祈りの公園」を造りたい。
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †