こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第1主日(ルカ21:25-28,34-36)身を起こして、いつも目を覚まして

2021-11-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/11/28(No.1150)
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待降節第1主日(ルカ21:25-28,34-36)
身を起こして、いつも目を覚まして
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待降節第1主日、典礼暦がC年に移行しました。これから一年、おもにルカ福音書が主日の典礼に朗読されます。ルカ福音書はたとえば「放蕩息子のたとえ」など、特色ある朗読が多く、きっと楽しく過ごせると思います。

[白くまくん]説教の切り出しに使った日常の出来事にも現れていますが、中田神父もついに、司祭になって最初にお仕えした川添神父様のような日々を過ごすようになってきました。この神父様は日常生活を常に話題に取り上げる神父様でした。出会う人、耳にしたこと目にしたこと、すべてが日曜日のミサ説教の呼び水になったり、「神の家族」という教会新聞の原稿になったりしていました。

私がお仕えするようになってから三、四年もすると、「主任神父様のそばでめったなことは言ったらいかんよ。すぐ説教にされたり『神の家族』に書かれたりするからね」と噂されていたものです。川添神父様もそこは承知していて、「最近はずいぶん用心するようになってきて、話のネタが転がってないなぁ」とぼやいていました。

福音朗読に移りましょう。終末について語られています。終末は「消滅」とか「滅亡」なのではなく、「完成の時」なのだから、身を起こして頭を上げなさい、人の子の前に立つことができるようにいつも目を覚まして祈りなさい。この姿勢が大事なのだと強調しています。

何かの最終盤になった時、人は二つの反応を示すものです。一つは、適度に力を抜く態度。もう一つは、さらに速度を上げたり、もっと力を入れたりする態度です。第一の例としてオリンピック選手を挙げましょう。金メダルが確定した選手が、あと一回「世界記録に挑戦する試技をする」としましょう。走り幅跳びとか、棒高跳びとか、そういう競技を私は想定しています。そこで全力で跳躍すると、それはものすごい世界記録が出るかも知れません。

しかし、まだ余力があって、今回世界記録に認定されてもう一度跳べば塗り替えるだけの自信があるならどうでしょう?これ以上は絶対跳べない。そんな跳躍をするでしょうか?適度に力を抜いて、さらにその次の世界記録を出す余地を残すのではないでしょうか。私だったらそうします。

第二の例を挙げましょう。長らく法廷で争いをして、最高裁判所まで持ち越してきた。その際新しい証拠を提出してこちらに有利な判決を勝ち取ろうとしているとしましょう。本当はあっと驚く証拠を提出できるけれども、一歩手前の証拠でも十分だからと、その人は取っておきの証拠を提出しないでおくでしょうか?最高裁判所は最終判決の場なのですから、ここで力を抜くということは考えられません。提出できるものはすべて出すはずです。

このように、物事の最終盤で一方は余力を残し、一方はすべてを出し尽くす。そういう場面はあると思います。ではイエスがおっしゃる「身を起こして頭を上げる時」「人の子の前に立つ時」は、やや力を抜いて備えておく時でしょうか、すべてを出し尽くすべき時でしょうか。私は、「すべてを出し尽くすべき時」ではないかと思います。

この「すべてを出し尽くす態度」を学ぶ季節が、待降節なのではないでしょうか。日本で言われている待降節はラテン語で「アドヴェントゥス」英語では「アドヴェント」と呼ばれますが、こうした諸外国の単語にあえて近づけるなら、「降誕準備節」が待降節です。ただ待つのではなく、「よく準備して待つ」のです。

「よく準備して待つ」とはどういうことでしょうか。だまって寝て待っても、クリスマスはやって来ますが、積極的な準備をしてクリスマスを迎えなさいということです。もっと言えば、全力を尽くして主の降誕を待つ。そのためにこれからの日々を使いましょうということです。

福音朗読の結びは、二通りの招きかも知れません。「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(21・36)一つは終末の時であり、もう一つは主の降誕の時です。いずれにしても、「いつも目を覚まして祈る」ことが必要です。

ここで手を抜くことなど考えてはいけません。「もう少し祈りをサボっても、救い主を迎えることができたかも知れない。」誰がその「もう少しサボっても」の程度を知っているでしょうか。主を喜び迎えるために、生活を整え、祈りにさらに心を込め、救い主の到来を知らずに過ごしている人にも呼びかける。これらすべてが、「いつも目を覚まして祈りなさい」ということです。ただ単に手を合わせているだけではないのです。

心が鈍くなるような誘惑はあちこちにあります。以前の人たちが、私ほど準備をして過ごしただろうか。将来の人たちが、私ほど準備をすると言えるだろうか?そうした思いはすべて「罠」なのです。誰とも比べたりせず、すべてやり切って、主の降誕のその時を迎えましょう。全力で準備して迎えるなら、その喜びはひとしおだと思います。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日(ルカ3:1-6)
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ちょっとひとやすみ
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▼「しまむら」で以前パンツを買った。紺色の生地に、「白くま」が全体にデザインされていた。ある時そのパンツを見て、お尻のあたりの「白くま」が消えていることに気付いた。
▼私はこう考えた。「あー、洗濯のしすぎで白くまのプリントが消えたのだろう。まめに洗濯をするのも善し悪しだなぁ。」そのことを洗濯をしてくれている賄いさんに何気なく告げたら反論された。
▼「プリントが薄くなって消えたのは、神父様が釣りにしょっちゅう行って、堅い木の椅子に座るからです。洗濯のせいではありません!」真偽の程は分からないけれども、「白くま」の消えたパンツを今日も履いて過ごしている。

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今週の1枚
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第757回目。今、こたつ生活。座椅子を使うとこたつの底が深く、足置きは必須。

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王であるキリスト(ヨハネ18:33b-37)どんな試練の中でも、キリストは私たちの王です

2021-11-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/11/21(No.1149)
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王であるキリスト(ヨハネ18:33b-37)
どんな試練の中でも、キリストは私たちの王です
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王であるキリストの祭日、年間最後の主日を迎えました。ピラトが「それでは、やはり王なのか」(18・37)とイエスに問い返した部分が印象に残りました。私たちが、「それでは、イエスはやはり王なのか」とこの世の権力者から問われている、そんな受けとめかたをして学びを得ることにしましょう。

今月は急死された方の葬式をいくつも引き受けました。ご遺族にとってはもちろん一期一会の葬儀なのですが、主任司祭は急死された方への言葉が二度三度、続くことになります。司祭も人間ですから、だんだん話すとっかかりを見つけるのが難しくなります。

それでも、何かを話さなければなりません。そのたびに、もがき苦しんで言葉を絞り出しています。そんな時に今週の「王であるキリストの祭日」が巡ってきました。

朗読される福音は典礼がA年であるかB年であるかC年であるかで違いがあると思いますが、私の中では「主よ、あなたは世々にわたって私たちの王です」という信仰を表す日曜日だと考えています。

では今置かれている中で、私はどのようにこの信仰を表すかというと、「どんなに似たような状況の葬儀が続いても、誠実にミサをささげ、説教をする」これが司祭である私にとって「あなたは私たちの王です」という信仰表明です。

王であるキリストが私にこう命じているのです。「似たような状況の葬儀が続いているが、それでも誠実さを示してくれるか?」それに対して「はい」と答えることで、今の時代に「王であるキリスト」を証しすることができるのだと思います。

どの時代にも、「王であるキリスト」への忠実が求められてきました。そしてその求めに「はい」と答えてくれる人がいました。イエスのすぐそばにいたペトロは「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われます。それに対しペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました(ヨハネ21・15)

ある人は殉教によって、ある人は誠実な人生によって、ある人は生き方を回心することで、王であるキリストへの忠実を表してくれたのです。私たちにも、自分にできる形で「キリストは私たちの王である」この信仰を表すことを求められているのだと思います。

福音朗読のピラトは、「それでは、やはり王なのか」とイエスに問いかけました。嘲りと嘲笑を受け、みすぼらしい姿をしていたイエスに、ピラトは興味も関心も無かったはずですが、それでも王なのか?と確認したのです。

イエスはいよいよ十字架のほかに残るものがない状況になって、王であると宣言します。すべての人の救いのために、十字架を選び取る王であると、公言するのです。ここでは、イエスに敵対する人々も救うために十字架を選ぶ姿を想像しますが、イエスが十字架上で命をささげる相手は、敵対する人ばかりではありません。

福音書の中には、さまざまな苦しみを背負った人々のいやしが描かれています。会堂長ヤイロは、目に入れても痛くない娘を失いましたが、イエスによって生き返らせていただきました。一人息子を失ったやもめも、その一人息子をイエスによって返していただきました。

「どうしてこんなに苦しまなければならないのですか?」誰にも説明できないような重荷を背負った人の王となるために、イエスは十字架を担われ、命をささげてくださったのです。

この方に、「あなたは世々にわたって私たちの王です」と信仰を言い表します。イエスを信じて生きる人、イエスを信じて旅立つ人、すべての人が王であるキリストを証しする時、キリストは世々にわたって私たちの王であるのです。

私たちが信仰を表明するイエス・キリストは、すべての人に命をかけたお方です。王として、すべての人の生命財産に責任を持ってくださいます。「それでは、やはり王なのか」このピラトの質問に、「それでも、イエス・キリストは私たちの王です」と答えることができるように、準備を整えましょう。

この世の権力者、世俗的なすべてのものが、「それでは、やはり王なのか」と挑発しています。どんな挑発も、私たちから真理を奪い取ることはできません。私たちにとっての真理、それは「イエス・キリストは私たちの王です」この言葉の中に込められています。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日(ルカ21:25-28,34-36)
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ちょっとひとやすみ
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▼試練は遠くにあるのではなく、ごく身近にある。それを考えさせられた数週間だった。神はなぜ、二度も三度も急死した人の葬儀を私に背負わせるのだろうか。そんな思いに押しつぶされそうだった。
▼王であるキリストの祭日が、この状況を救ってくれた。説教を考える中で、最終的に気付いたのは「どんな重荷を背負ったとしても、それはひとりで背負っているのではない。イエス・キリストが共に背負っておられる」ということだった。
▼季節がいよいよ冬に傾きつつある中、急死する人と続けて向き合ううちに、この務めの重さをつくづく考えた。それでも、重いけれども、担う価値のある十字架である。

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今週の1枚
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第756回目。田平教会出身で、福岡教区で身をささげた田川神父様。
「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11・30)。

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年間第33主日(マルコ13:24-32)人の子が戸口に近づいていると悟りなさい

2021-11-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/11/14(No.1148)
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年間第33主日(マルコ13:24-32)
人の子が戸口に近づいていると悟りなさい
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今週、「年間第○○主日」を聖書と典礼に印刷する最後の週です。そして来週は「王であるキリストの祭日」を迎えます。ただ年間としての来週は第34週です。王であるキリストの祭日をいよいよ迎えるに当たり、イエスの言葉はこれまでの信仰の歩みの総決算が近づいていると知らせています。

「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(13・29)イエスの言葉に何を感じるか、あなたが感じた印象は大丈夫なのか、考えてみることにしましょう。心に感じたことが正しければ安心できます。心に感じるものが正しくなければ、王であるキリストの祭日までに急いで修正しなければなりません。

土曜日に、お告げのマリア修道会のシスターが9人、まとめて訪ねてきました。いろいろ役職に就いていたのではないかというような人たちがずらっと玄関に挨拶に来たので何事かと思いましたら、「私たちはお告げのマリア29回生です。昨年奉献生活50周年を迎え、一年遅れですが教会巡礼をしている途中です」と話しておりました。

「おー、50歳になりましたか」と、ひとまず「よいしょ」しましたら会話が弾みました。驚いたのは、入院している1人を含め、同期で入会した10人全員が奉献生活50周年を迎え、1人も欠けていない、と言うのです。不摂生極まりない私たち司祭だとそうはいかないと思います。50周年を迎えられず、欠けてしまうことは大いにあり得ます。さすが、「清貧」の誓いを立てているだけのことはあるなと感心しました。

もう一つ私は声をかけました。「責任者とか役職とか、いろいろ重たい荷物はもう降ろしたのですか?」すると何人かが「いえ、まだ背負子に背負っております」と言ってお互いに笑いました。この境地に達すると、「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(13・29)この言葉は自分たちの救いが近いと知らせているのだと心躍らせるのではないかと思いました。

「人の子が戸口に立っていると悟りなさい。」私はまだこの言葉に心が躍る、そういう境地に達していません。例えば玄関のチャイムが鳴ると、「人の子が戸口に立っている」など頭の隅にもなくて、「誰かい?もう忙しいのに・・・」なんて思うことすらあります。

司祭館のチャイムが鳴る時はそれ相当の用事のはずです。しかし喜びながら玄関に行くことはまずない・・・かなぁ。玄関越しに見えるシルエットで、誰なのか、どんな用事なのかをおおよそ見当付けて顔を整えて「おまたせしました」と応対しているのが正直なところです。

しかし人によっては、すばらしい心構えの人もいます。病人訪問で訪ねている人たちなど、前の日から、入念に準備をして待ってくださっています。聖体を運ぶ司祭を心待ちにして、ときには赦しの秘跡の準備をして、その日に備えています。こうした人にとって、戸口に近づいてくるその人は、イエス・キリストの喜びを届けに来る人なので、心躍らせるわけです。

私たち一人一人に当てはめてみましょう。私たちのもとにも、イエス・キリストは戸口に立つことになります。私たちの生活が、しばしばイエス・キリストに背を向ける日々であったなら、戸口に立つ人はまるで逮捕令状を持ってやって来た人のように思えるでしょう。私たちが何を言おうと、すでに逮捕令状が出ていれば逮捕されます。逮捕され、起訴されて、裁判を受ける。イエスキリストに背を向けた日々を送る人にとって戸口に立つイエス・キリストは審判者です。

私たちの生活が、イエス・キリストを家に迎え入れる生活の積み重ねであったなら、家の戸口に立つ人はきっと私たちに幸せをもたらす人です。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」(13・24-25)信仰が無駄に思えるようなことを体験しても、気を落とさずイエス・キリストはそばにいてくれると信じて日々を送る。そうすれば、最後に戸口に立ってくれるのはイエス・キリストなのですから、心躍る人が戸口に立っているはずです。

来週は王であるキリストの祭日です。この日にミサに参加する人は、いわば王であるキリストの前に立つ人です。イエス・キリストが審判者に見えるか心躍る人に見えるか。それは私のこれまでの生活にかかっています。

少なくともあと一週間あります。もちろん、来週のミサに背を向けることもできるでしょう。田平教会の家族はそんなことはしないと信じています。六年間、ミサに集まる皆さんに説教し続けてきたことは無駄ではないはずです。来週、心躍る人の前に立つ。そのつもりでこの一週間を過ごしましょう。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト(ヨハネ18:33b-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼24時間しか1日はない。「寝る時間を削って」というのもそんなに若くないから難しい。すると、「時短の工夫」しかない。
▼どこで時短ができるか、本人はなかなか気付かないものだ。これまでミサ動画の作成と音声のアップをしてきたが、それぞれ「アクションカメラ」「ICレコーダー」と別々に素材を用意して作成していた。
▼しかしそれはよく考えると作業が二重になっている。アクションカメラの素材から音声も取り出せば、時短になるわけだ。これに気付くのに一年以上かかった。

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今週の1枚
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第755回目。血圧計。よく見て欲しい。さかさま。69の28はありえない(*^o^*)

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年間第32主日(マルコ12:38-44)あなたのおささげは何を表していますか

2021-11-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/11/7(No.1147)
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年間第32主日(マルコ12:38-44)
あなたのおささげは何を表していますか
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今週年間第32主日の福音朗読は、神が私たち人間に何を求めておられるのかを考えさせている内容となっています。神は私たちに特別なことを求めているのではなく、ごく日常的な振る舞いを、神の望みに叶うように整えなさいと求めているのです。

今週は二つのことが取り上げられていて、一つは律法学者の振るまいが非難され、もう一つはやもめの献金が称賛されています。最初に前置きしたことを踏まえて考えるならば、律法学者は神の望みをないがしろにしていたことになり、やもめは神の望みを誰よりも実行していた、ということです。

ところで、律法学者の振る舞いは特殊なものだったのでしょうか。「長い衣を着る」「広場で挨拶される」「上席、上座に座る」というのは、特別な振る舞いとまでは言えなかったようです。それらが非難を受けたのは、彼らの傲慢さのためでした。

長い衣を着るのも良いでしょう。会堂に用意されている上席に座るのも良いでしょう。しかし座る人の心に、「私はあなたたちとは違う」とか「ここに座って当然である」こうした鼻につく態度があるなら、神の望みを踏みにじることになるのです。

次にやもめの献金ですが、神殿の献金箱に献金するのはだれもがすることであり、金持ちが10円玉を500枚ジャラジャラ入れて、5千円の献金を大げさにするのも日常見られることでした。だれもがすることであっても、特別な心がけで実行することが大切です。やもめの女性は、言ってみれば20円しか入れませんでしたが、1円も粗末にできない生活の中で、「神にすべてを委ねて生きる」その心がけも同時にささげたのです。

ちなみに郵便局は来年1月から、51枚以上100枚までの硬貨を窓口に預けると550円の手数料をもらい受けるそうです。皆さん、ここから先が大事です。理由もなく100円の献金をするのに10円を10枚入れるようなことはしないで下さい。あなたの10枚の10円で、郵便局から550円取られる可能性があるのです。

もちろん、日頃から数円のお釣りを貯めて、それを献金する人もいるでしょう。それはそれで、「お釣りを神様のためにすっかり手放す」という心がけですから、謹んでお預かりします。これからはもう少し頻繁に、窓口に出向かないといけなくなりそうです。

やもめの献金をイエスが称賛したのは、もっと深い理由からです。もう一度イエスの説明を読み返しましょう。「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(12・44)彼女の献金は、すべてを神に委ねきって生きるという態度の表れです。これは誰かのことを指しているのではないでしょうか。

すでにお気づきかと思いますが、「すべてを父なる神に委ねきって生きる」これを忠実に実行されたのはイエス・キリストです。イエスは生活費を全部入れただけに終わらず、最後は命そのものまで父なる神に差し出したのです。活動の初めから、常にこの覚悟があったので、傲慢な人をはばかることなく非難し、自分をすっかり神に委ねる人を称賛できたのです。

私たちに当てはめてみましょう。私たちが施すものは、父なる神に自分を委ねるしるしになっているでしょうか。ミサの前に献金箱に献金を入れています。ミサの献金は、今週一週間を父なる神に委ねるしるしになっているでしょうか。

実はすでに、ミサに来ている時点で、私たちは「時間」を父なる神に委ねています。日常忙しく働いて過ごす中で、すべての時間は神から与えられたもののはずです。「すべての時間はあなたからのものですから、感謝するためにここに来ました。」ミサに参加するまでの時間、ミサに参加している間の時間、その両方をこのような心でお委ねしたいものです。

中には、生きていることのすべてを神様に委ねている人もいるでしょう。前回の葬式で少し話した例えですが、私は小学生の体育の時間に、走り高跳びでバーを越える際、先生から指導もされていないのに背面跳びをしてしまい、思いっきり背中を砂場に打ち付けて息ができなくなり、景色が真っ暗になったことがありました。

初めて「このまま死ぬのかな」とちょっと思った瞬間でした。けれども幸いに何事もなく今まで生かされています。あの時も含め、私が今あるのは神様が生かしてくださったおかげだから、大切に生きようと自覚した出来事でした。

同じような体験をした人はきっといるでしょう。生死の境から帰ってきた人は、命の大切さを誰よりも知っています。その人は自然と神様にすべてを委ねて生きる道を選ぶはずです。身近にそのような人と出会ったなら、ぜひ生き方に耳を傾けましょう。きっとその人から、「やもめの献金」のたとえの意味を、頭ではなく肌で感じ、学ぶことができると思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第33主日(マルコ13:24-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼天気予報を見てボートで海に出た。午前9時まで風は「穏やか」の予報、10時から「4メートルの風」となっていた。実際その通りで、9時半まではほとんど風を感じなかった。ところが9時45分になると突然風が北西から吹き込むようになり、景色は一変し、ボートが流され始めた。
▼ふだん、予報を割引して都合の良いように受け取っていたが、今回のことで天気を甘く見てはいけないと身に染みて分かった。今月死者の月で、5・6年生の子供達と自分に関係する先祖の墓地を訪ねて回り、先祖に祈りをささげた。母方、父方、両方の墓を確かめられた子供もいて、役に立ったと思う。

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今週の1枚
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第754回目。信徒会館裏手に機械が入った。「祈りの公園」を思い描いて祈る。

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