こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)取って食べ、いのちをいのちとして受ける

2011-06-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/06/26(No.540)
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キリストの聖体
(ヨハネ6:51-58)
取って食べ、いのちをいのちとして受ける
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大分の叙階式にどうしても未練があって、6時45分からミサを開始しました。知らずに7時においでになった方はお許しください。ここまで協力してもらったのに、船が出るのかどうか、説教書いた時点では保証はありませんで、説教している時間にはきっと決定しているでしょう。

今日はキリストの聖体の祭日です。ミサで祝われる聖体の秘跡について、どうしても話したいことに絞って話を進めます。イエスを信じることができないでいるユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」(6・52)このことにこだわって、その先に進むことができないでいます。

わたしはこう考えます。「イエスが、天からおいでになった方で、世を生かす方であれば、きっと何かの方法で、御自分を食べ物として与えてくださるに違いない。」これは、イエスを信じているからたどり着く考えです。イエスを信じることができないユダヤ人たちは、どうしてもこのように考えることができないでいます。ですから先へも進みません。

イエスの言葉を信じる者が、世を生かす食べ物にたどりつきます。最後までイエスを信じ続けた弟子たちには、「どうやって食べさせることができるのか」を知ることができました。最後の晩餐の席で、パンとぶどう酒の形のもとに、イエス・キリストがとどまって、弟子たちをはじめイエスを信じる者すべてに、イエスは食べ物になってくださいました。

パンとぶどう酒のもとにイエスがとどまる聖体、わたしたちの食べ物となってくださった方が、「世を生かすためのわたしの肉」となるためには、もう1つわたしたちからの協力が必要だと思います。それは、イエスの食卓に連なるということです。

イエスの食卓に連なる者に、ミサの中で司祭は次のように呼びかけます。「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い。」もちろん聖体拝領のことを直接には指していると思いますが、神の子羊の食卓は、御言葉の食卓と、聖体の食卓と、両方を忘れてはいけません。御言葉の食卓にも、「世を生かす」力があるのです。

この、「イエスの食卓に連なる努力・工夫」を、わたしたちは続ける必要があります。日曜日(主日)のミサに参加する努力・工夫はもちろんですが、平日のミサに参加する努力・工夫も、イエスの食卓に連なるためにとても大切だと思います。なぜなら、平日のミサに参加する努力・工夫を忘れない人は、主日のミサに参加する努力・工夫を忘れないと思うからです。

食べ物、飲み物は、眺めているだけでは食べ物、飲み物になりません。手に取って食べ、飲むのでなければ、世を生かすことはないのです。イエスを信じることでイエスの食卓までたどり着き、とって食べることで「世を生かすためのわたしの肉」といたしましょう。また、「わたしはこうやって、この世を生きている」と証しする者となりましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(マタイ11:25-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼6月26日(日)は大分教区司教の叙階式。どうしても参加したくて、あらゆる方法を探った。ところが、前日25日(土)はことごとく自分が乗りたい航路の便は欠航になる。ガッカリし、心が折れそうだった。当日どうなったのか、前日に原稿を書いているので知らない。
▼知り合いの方は、朝6時50分の、わたしとは別航路の高速船に乗って佐世保にいったん上陸するのだと聞いた。長崎上陸を望んでいる自分としては、佐世保に上陸から移動というのは想定していないので、行けるルートがありそうだというのはうらやましいが、長崎からのルートでダメなら、今回は諦めるしかない。
▼長崎の教区長見三明大司教が今回の叙階式を司式する。わたしの記憶では、見大司教が司教叙階式を執行するのは初めてではないかと思う。それもあるので、どうしても行きたいと熱望しているのだが、ちょうどのタイミングに、いちばん来てほしくないコースで台風が来てしまったのだ。
▼諦め・・・るか。そうなると、日曜日以降の過ごし方は別のことを考えよう。山積みになっている本を片っ端から読んで整理するとか、次に予定が控えている原稿を思い巡らしてみるとか、まぁいろいろある。26日は7月9日(土)10日(日)にまたがっての馬込小教区巡礼の締切日でもある。
▼現時点で巡礼申し込みはほんのわずかだが、15人集まれば船の団体割引対象になる。「あきらめるな」という呼び掛けは、今度はここで響いてくるかもしれない。諦めなければ道は開ける。最近身近に体験した事じゃないか。

‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
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第147回目。大分の司教叙階式の写真。1人中央に後ろ向きでいるのが浜口末男新司教。
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三位一体の主日(ヨハネ3:16-18)「神ご自身」が最高の贈り物

2011-06-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/06/19(No.539)
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三位一体の主日
(ヨハネ3:16-18)
「神ご自身」が最高の贈り物
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短い朗読箇所でした。今週の朗読から、三位一体の主日に合わせて、御父・御子・聖霊の栄光を等しくたたえたいと思います。

今日の朗読から三位一体の神様を考える鍵を探しましょう。冒頭の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(3・16)ここから、何かをつかみたいと思います。

わたしは、「与える」という言葉に注目してみました。ものを与えるというときのことを考えてみましょう。そこには与える人とそれを受ける人がいて、与えるものがあります。何かを「与える」時、必ずこの3つが必要になってくるでしょう。

では、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」この語りかけの中では、先に示した3つの条件は、御父が与えるお方で、独り子を与えます。受け取る相手はこの世にいるわたしたち人間です。そこで、「何かをお与えくださる神」について、次いで「独り子をお与えくださる神」について、考えを進めましょう。

まず、神は「与えてくださる神」です。わたしたちは神を思い描く時に、まずはじめに「与えてくださる神」だということに信頼し、期待してよいのだと思います。

神はどのように与えるのでしょうか。わたしたちは人から何かを頂く時、そのほとんどが良いものだと思いますが、結果的にいらないものであったり、同じ物が増えたりということもあるのではないでしょうか。

神が与える時はどうでしょう。神が人間に何かをお与えになる時、結果的には必要ないもの、すでに持っていて二重になるものをお与えになったりするのでしょうか。わたしは、それはあり得ないと思っています。

神は、わたしたちが今必要なもの、すでに手に入れているものなどすべてをご存知です。わたしたちは、神が与えてくださる一切のものに信頼を寄せてよいのです。

また、神がお与えくださるものには、等級というものはあるでしょうか。あの人は特別に大切な方だから、デパートで買い物をして贈り物を用意しよう、あの人は気心知れた人だから、同じものでも少し安く手に入れて贈り物にしよう。わたしたちはそんな使い分けをしています。

神はどうなのでしょうか。神には、そのようなことも考えられないと思います。人間に命をお与えになる神は、いろいろ等級に差を付けて与えたりするはずがありません。すべての人間に、かけがえのない命を、一つひとつ最上級の命を、お与えくださるのではないでしょうか。

次に「独り子をお与えになる神」の姿を考えましょう。神は、ご自分の独り子を、二つとないものとしてお与えになり、またすべての人に公平にお与えになります。

この点について、わたしたちはこれまで、御子イエスキリストがこの世においでになったことを、二つとない出来事として、またすべての人に与えられる大切な出来事として、考えてきたのでしょうか。

神がお与えになった独り子は、絶対に必要なもので、すべての人に公平に与えられることを話しましたが、もっと踏み込んで考えると、わたしたちに与えられた御子キリストは、神がお与えになるものの中でいちばんすぐれたもの、いちばん良いもののはずです。

「いちばんすぐれたもの」と言う時、わたしたち人間の世界ではいろいろあるものの中でいちばんすぐれたものかも知れませんが、神にとっていちばんすぐれたものとは、「神ご自身」以外にありません。御父が与える独り子は、いろいろあるものの中でいちばんすぐれたものではなく、唯一無二の、すぐれたものなのです。

そうであれば、神がこの世にお与えくださった独り子は、神ご自身でもあることになります。イエスが弟子たちに話してくださった通り、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10・30)ということなのです。

御父と御子がまったく一つで、神が与える最高のものは神ご自身なのですから、御父と御子は唯一の神であるということです。そして、最愛の御子をこの世にお与えになりますが、与える相手であるこの世も、この上なく愛しておられたことになります。

なぜなら、神がお与えになることのできる最高のものを、この世に与えてくださったからです。この最高の愛もまた、神の思いそのもの、神ご自身ということではないでしょうか。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という招きの言葉は、「与える」ことに注目すると、父と子と聖霊が唯一の神であることを学ぶ手がかりともなることがわかります。

神は与えようとご計画されたこの世に対して、最高のもの、神ご自身をお与えになりました。与えようと計画された神の思いもまた、神ご自身と言えるものですから、御父・御子・聖霊はこの世に最高のものをお与えになる唯一の神ということなのです。

最後に、私たちの生活の中から一点振り返りの場面を持つことにしましょう。ふだんわたしたちは大切な人から何かをいただいた時、お返しを考えますが、神に対しても何かお返しのようなものを考えても良いのではないかと思います。

何を神に返すことができるでしょうか。本来は返すことのできるものなど何もないのかも知れませんが、この与えられた命を、最後にお返しとして用意するのがふさわしいのではないかと思います。

お返しはできるだけ良い状態で届けるのが筋です。高級な品物の中には、長い時間をかけて完成される物があります。そのように、わたしたちも与えられた人生という時間を使って、より完成されたものとなって神に自分をお返ししたいものです。

何度も試練や誘惑を乗り越え、神に喜ばれる言葉と行いを身につけて、精一杯お返しできるものになりましたと、神に最後に申し上げる人生でありたいと思います。

神ご自身を与えてくださる三位一体の神を今日のミサの中でたたえつつ、わたし自身はお返しとして最後に神のものとなれるように、日々の生活を見直す一週間といたしましょう。


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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(ヨハネ6:51-58)
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ちょっとひとやすみ
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▼苦し紛れと言うか、頭が回らなくて、昔使った説教の原稿を取り出してみた。まずは当時のそのままの原稿を読み返してみたが、そのままではちょっと納得できない個所もあり、わずかに手直しした。それでも、今になっても理解できない個所もあったのだが、この分については説教を4回こなす中で、消化したいと思っている。
▼大雨が九州を襲った。特に南九州では、災害をもたらしているようだ。道路の冠水、床下・床上浸水など。雨が降れば、当然水かさが増す。雨の中で何か写真を撮影できないかと思って、ふだん通る道の中で目を配っていたら、「滝」を連想させる場所に目がとまった。
▼「滝」が現れるその場所は、浜串教会に出入りする急こう配の峠にある。晴れた日でも、水が流れていることがある。ということは、ふだんからあちこちの水が集まる場所なのだろう。雨が降り続くと、水量がさらに増して、写真のような「滝」になる。
▼この「滝」で、座禅を組むことを考えた。座禅と言っても、修行をするつもりではなくて、洒落で、「滝と言えば座禅かなぁ」くらいの感覚である。ただ、写真を撮影した時点で、これは相当な水量であり、洒落では済まなくなると思った。これだけの水量ともなれば、覚悟が必要になるかもしれない。
▼そんな、「聖霊降臨」の頃の雨が梅雨の時期と重なり、今は楽しみの釣りも出ることができず、気分転換の必要を感じている。思い切って、福江の教会の巡礼にでも行ってみるか。

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新企画今週の1枚
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第146回目。浜串の「滝」。勝手につけた名前だが、写真以上に実物は迫力あり。
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聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23)聖霊が注がれ、神のいのちを思い起こす

2011-06-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/06/12(No.538)
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聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23)
聖霊が注がれ、神のいのちを思い起こす
‥‥‥†‥‥‥‥

雨になりました。聖霊降臨は恵みの雨が降ると聞いたことがあります。雨を必要としている人もいると思います。もちろんすべてではないでしょうが、聖霊の望むままに、雨を通して恵みが注がれると考えたいです。

黙想会を終えて帰ってきました。説教師は、函館トラピスト修道院の高橋重幸神父さまでした。聖書の日本語訳にも関わっている神父さまから、深い学びを分かち合ってもらいました。ただ話はなかなか聞いてすぐわかるものではなかったので、かなり忍耐を要求されました。何度か居眠りし、ノートパソコンでメモを取っていたのですが、何ページもスペースキーで空白を入れている時間もありました。

学識のある人は、話がそれた時の余談も気が利いています。学びの足りないわたしなどは、説教師の余談がむしろ興味深く聞くことができました。いくつかありますが、その中で唸らされた話があります。

多くの人の前で話をする時、次のことをわきまえておきなさいと言われました。集まった会衆のうち、話を聞いているのが半分、話を聞いている人のうち、注意して話を聞いている人がその半分、注意して話を聞いている人のうち、理解できる人がさらにその半分、話を理解できる人のうち、なるほどと同意してくれる人がその半分。

なるほどと言ってくれる人のうち、話を覚えて帰るのはまたその半分。最終的に、ミサが終わって話を覚えて帰る人はミサに参加した人の32分の1だけだそうです。これには司祭一同思い知らされました。高橋神父さまの説教をわたし自身今年の糧にしながら、司祭としての働きに活かしていきたいと思います。

さて、今年の聖霊降臨の学びとして、「いのち」を切り口にして考えてみたいと思います。大きな試練を経験した方々、たとえば大震災を経験した方々は、何もかも失ってしまった中で、「いのち」だけはとりとめた、「いのち」が助かったから、またやり直すことができる。そういう難しい場面に立たされたのだと思います。

ここで「いのち」と言ったのは、体のいのちもありますが、神から与えられた永遠のいのちを考えることがより大切だと思います。体のいのちは、残念ながら無くしてしまった人々もたくさんおられます。それでも、すべての人は、神から与えられた永遠のいのちを失うことはないと思うのです。

福音朗読で、イエスはユダヤ人を恐れて家の中に閉じこもっていた弟子たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」(20・19)と言われました。さらに弟子たちに、御自分の手とわき腹とをお見せになりました。「手とわき腹の傷を見せる」というのは、イエスが、体としては確かに死なれたということです。死ぬことがなければ、復活もないわけです。

けれども、イエスは体は死んでも、神のいのちは一瞬も失うことはありませんでした。この「神のいのち」に、はっきりと目を向けるように、今日イエスは弟子たちに言葉をかけるのです。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(20・22-23)

「聖霊を受ける」これは聖霊降臨の出来事を思い起こさせます。使徒言行録にあるように、弟子たちには炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました(使2・3)。これは、「いのち」という切り口で考えると、「神のいのち」をはっきりと意識する出来事だったのではないでしょうか。

弟子たちは、聖霊降臨まで宣教活動の時を待っていました。聖霊が注がれると、宣教に打って出たわけですが、その弟子たちの働きは「神のいのちに奉仕すること」だったのです。体のいのちについてはだれでも配慮していましたが、神が与える永遠のいのちに心を配るように、弟子たちは外に向けて声を上げたのでした。

今日の福音朗読では、「罪のゆるし」について奉仕するようにと弟子たちを促します。罪がゆるされていのちを取り戻すのは、体のいのちではなく永遠のいのちです。ここでも、聖霊を受けたなら、神が与える永遠のいのちのために奉仕しなさいと呼びかけているわけです。

わたしたちにも、聖霊降臨は同じことを呼び掛けます。聖霊が注がれ、心の目が開くとき、わたしたちはみずからの神のいのちに心を配っていただろうかと考えが及ぶようになります。神が与える永遠のいのちを滅ぼさなければ、どんな人にも道は開ける。そのことを聖霊は気付かせてくれます。

自分自身が、聖霊に照らされて神のいのちを大切に考えるようになったなら、次は周りの人にも同じ配慮をしてほしい。わたしたちに注がれる聖霊は、次の目標を教えてくれるのです。

神が与える永遠のいのちに、心を向ける。聖霊はあらためてそのことをわたしたちに教えようとします。恵みを受けて、永遠のいのちを養い、いのちを保つならば、どんな場面にあっても次の道は開けます。わたしたちに注がれる聖霊が、最も大切なものを教え導いて、証しへと結び付けてくださるように、引き続きミサの中で祈ってまいりましょう。

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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(ヨハネ3:16-18)
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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会中、すまないとは思ったが外に出て買い出しをした。これには訳がある。期間中は、基本的にカトリックセンターと大司教館に缶詰めである。そうすると、のどが渇いたりすると何か飲み物が必要になる。
▼かつては黙想会中は各部屋に小さなポットが用意され、お茶を自由に飲むことができた。最近は経営の効率化か、そういうサービスはなくなってしまった。そのため必要に迫られて、カトリックセンター内に備え付けの自動販売機で飲み物を買うことになる。
▼最近500ミリリットルのペットボトルは150円である。1本目は、何も考えずに買って飲んだが、翌日2本目を買おうと自動販売機の前に立ってみて考えた。この調子で4日連続で500ミリリットルの飲み物を買い続けると600円必要になる。600円あれば、2リットルのペットボトルが2本買えるのではないか?
▼そう考えて浦上教会下のスーパーに行ってみると、案の定、2リットルのペットボトル入りがお買い得の値段で売っていた。中には、2リットルで158円のものすらあるではないか。迷わずわたしはその158円を買い、カトリックセンターに戻った。
▼2リットル入りだと言っても、これを数日に分けて飲むのはそれなりの意志の強さが必要である。ついたくさんあると、一度に飲んでしまうからだ。前日に飲んだ500ミリリットルの空き容器に移し替え、それを1日分として夜の水分補給に充てた。
▼2リットル容器から飲むと、ついつい飲みすぎてしまう。だが、500ミリリットルの容器に移したことで、計画的に水分を補給できた。おかげでこの黙想会期間中は、暴飲暴食もせず、健康的な生活だった。

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新企画今週の1枚
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第145回目。純和室だったので机がなく、苦肉の策でパソコンを高くした。
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主の昇天(マタイ28:16-20)疑う弟子たちに近寄って力強い言葉をかける

2011-06-05 | Weblog
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11/06/05(No.537)
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主の昇天
(マタイ28:16-20)
疑う弟子たちに近寄って力強い言葉をかける
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今日は、「主の昇天」の祭日です。土曜日に、太田尾小教区の信徒の方24人が浜串教会を訪問してくれました。太田尾小教区は、この前亡くなった松永正勝神父さまがおられた教会で、わたし自身も初めて主任司祭に任命された小教区です。

24人の巡礼団の方々は、松永神父さまのおられた土井ノ浦教会などを訪ねて、その足跡をたどり、祈るためにやって来たのだと思います。その中で、かつて赴任していたわたしのところにも、表敬訪問してくれたのだろうと想像しています。

太田尾小教区巡礼団の訪問を受けて、わたしは別のことを思い出しました。そう言えば、太田尾小教区ではご昇天の祭日に決まって山登りをして、山の上でミサをして、遠足を楽しんでいたなぁということです。今年、その楽しい思い出を巡礼団が来てくれたことで思い出しました。

では福音朗読に入りましょう。弟子たちはガリラヤで指示されていた山に登り、イエスに会い、ひれ伏しました。ところがそこに、マタイはもう1つのことを書き加えました。「しかし、疑う者もいた。」(28・17)というのです。

この「疑う者もいた」という書き込みは、非常に気になります。というのは、弟子たちにとって、またこの福音書を読み、聞く人々にとって、もっと言うと後世のすべての人々にとって、都合の悪い出来事だからです。復活したイエスと出会っているのに、みながみな心からイエスを信じ切れていないというのですから、場合によってはその事実を伏せておけばよかったはずです。

マタイはなぜ、この「疑う者もいた」ということを書き残したのでしょうか。この点から今週は出発したいと思います。ここで、「疑う」と日本語に訳された言葉は、もとの意味をたどると「2つの方向に歩む。人の中に2つの思いがあり、分裂した状態」を表すのだそうです。

同じ「疑う」場面は、湖で嵐に遭遇した時にも体験しました。弟子たちが舟を漕ぎ悩んでいるときにイエスが湖の上を歩いてこられ、ペトロに「来なさい」と言います。ペトロは湖の上を歩き始めますが、波に気付いて恐ろしくなり、助けを求めました。イエスの「来なさい」という言葉を信じたいのだけれども、現実に振り回されて心が2つに分かれている。この状態を「疑う」と表現しています。

心が2つに分かれ、信じたいけれども信じきれない。こういう状態が「疑う」という意味でしたら、それは、信仰に至るきっかけとなり得ます。信じたいけれども心を邪魔するものがあって、神にまっすぐに心を向けることができない。これは誰にでも起こりうることですし、何か力をいただけば、迷いを断ち切って一心に神に助けを願う人に生まれ変わることができるわけです。

実は今日の出来事に、そのヒントがあります。「疑う者もいた」その弟子たちに、イエスは何をなさったでしょうか。イエスは近寄って来て、言葉をかけました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28・18-20)

わたしはこの場面で、プロ野球の試合を重ねて考えました。ピッチャーが打者に連続して打ち込まれたり、フォアボールを立て続けに出したりするとき、よく監督が飛んで行って、何か一言二言声をかけると、そのピッチャーが立ち直ってピンチを切り抜けるということがあります。

これはまさしく、近寄って来て言葉をかける場面です。監督が何を言うのか知りませんが、技術云々ではなく、きっと「お前に任せたんだから、お前を信じているぞ」そういった力強い一言ではないでしょうか。

イエスも、近寄って来て声をかけ、なかなか信じ切れない弟子たちを力づけるのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」ともすれば自分の学んだ知識や経験に頼りがちな弟子たちを、イエスに全面的に信頼するように、御言葉が導いていくのです。

しかしながら、弟子たちも人間です。イエスの言葉を聞いて決して右にも左にもそれない人物にすぐに生まれ変わったのかと言うと、そうではないと思います。

それはご昇天をお祝いしているわたしたちも同じことです。イエスの言葉は力強いのですが、わたしたちはそれを聞いてもなお、十分信じきれないという過ちを犯したり御言葉への信頼を忘れたりするわけです。

心が2つに割れることなく、真にイエスを信じて歩めるようになるためには、わたしたちは失敗も犯し、もう神に頼る以外に道はないというところまで追い込まれる必要があるのかもしれません。プロ野球のたとえを話しましたが、追いつめられてからの監督の一言は、何にもまして効果がある、これに似ています。

では最後に、弟子たちはご昇天の時に最後にガリラヤの指示された山でイエスにお会いして御言葉に力を得たのですが、現代のわたしたちはどこに行けば同じような体験を積むことができるのでしょうか。

わたしは、現代におけるイエスが指示された場所は「教会」だと思います。復活して昇天なさるイエスが、近づいて声をかける場所は、教会ではないでしょうか。弟子たちはガリラヤの指示された山ですべての民を弟子にするように、また洗礼を授け、掟を守るように教えることを命じられました。

イエスはわたしたちにも、教会で必要な命令を授けてくださいます。それは、「神を愛し、隣人を自分のように愛する」という新しい掟を自分自身が生きて、またそれを守るように人々に教えることです。この新しい掟を守るならば、その生き方を見た人が信仰に入り、洗礼を受け、弟子となるでしょう。わたしたちも弟子たちと同じように、イエスの言葉に力づけられた宣教者となるのです。

もちろん、すぐにわたしたちが完成されるわけではありません。失敗もするし、挫折することもあります。それでも、繰り返し現代の指示された山である教会に来ることで、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という御言葉に力づけられ、実を結ぶことができるのです。繰り返し、現代の指示された場所である教会に足を運び、宣教するための土台を固めていただくことにいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23)
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ちょっとひとやすみ
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▼試行錯誤の挙句に、ケータイで日曜日の説教をダウンロードして聞くことができるようになった。たぶん、スマートフォンでも聞くことができるのではないかと思うので、ケータイでメルマガを受信している人はお試しあれ。そして、「聞くことができた」「聞けなかった」など、声を聞かせてもらえればありがたい。
▼ただし、ダウンロードには通信料金がかかるので、定額制の料金を選んでおくことをお勧めする。詳しくは知らないが、「パケホーダイ」「パケホーダイダブル」など、通信料金を気にせずに利用できるコースに入っていないと、とんでもない請求が回って来るかも知れない。そこまでは責任持てないので、御注意を。
▼太田尾小教区のみんなが浜串を訪ねて来てくれた。当日は真夏のような日差しの日で、お年寄りにはちょっときつかったのではないだろうか。それでも久しぶりの人々に囲まれて、「にわか太田尾主任司祭」を味わわせてもらった。にぎやかな人々がやって来てくれていると、原稿を書いた時点では想像している。
▼中には、前もって出席がかなわないと聞いている人々もいる。この7~8年で、病気になったり徐々に体力を奪われたりして、ここまで来るにはちょっと心配ということになったのだろう。楽しいひと時を過ごすことができたと、巡礼団の人からぜひ報告してほしい。とくにわたしの霊名のお祝いのときによく時代劇の踊りを披露してくれたおじいさんに。
▼この日曜日、上五島ではトライアスロン大会が開催され、島じゅうが熱気にあふれる。トライアスロン競技には全く縁のない体型をしているが、厳しい練習を積んだ成果をぜひ発揮してほしい。日曜日のミサの聖書朗読をできずに応援に回った中学生も、代わりに精いっぱい応援してくれ。

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新企画今週の1枚
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第144回目。太田尾小教区の皆さん。なつかしさに笑顔もこぼれます(予定)。
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