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こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第21主日(ルカ13:22-30)どこで、狭い戸口から入ろうと努力しますか

2025-08-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2025/8/24(No.1371)
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年間第21主日(ルカ13:22-30)
どこで、狭い戸口から入ろうと努力しますか
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「狭い戸口から入るように努めなさい。」(13・24)イエスの招きは、「できればそうしなさい」ではなく、狭い戸口を通った先でしか、主人と喜びを共にすることはできないという強い招きです。自分のこととして受け止めるきっかけを探しましょう。

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」その人が体験した「狭い戸口」の先で神が用意しているものがきっとあって、「狭い戸口から入る」体験をしてみないことには、それを軽々しく口にできないのだと思います。

苦い思い出があります。初めての教会で数年が経ったときでした。私はその教会で聖歌の奉仕をしてくださっている聖歌隊の練習担当を命じられていましたが、この方々に生意気なことを言ってしまい、主任神父さまはじめ、先輩の助任神父さまにも迷惑をかけたのでした。当時、聖歌隊はいつになっても新しいメンバーが加わらず、このまま先細りしていくばかりでした。結論だけ申しますと「私はいつまでも皆さんの子守をするつもりはありません」と言ったのです。変化を起こすつもりでした。

この発言が炎上しまして聖歌隊から猛抗議を受け、「私たちはもうお手伝いしたくありません。指導してくれる司祭を変えてください」とそれはもう大変なことになりました。結局私は責任を取って聖歌隊の指導を外され、先輩の助任司祭が指導をすることになります。代わりに引き受けてくださったのが中濱繁喜神父様でした。

当時の主任司祭は私にこう言って反省を促しました。「あのなぁ。60歳にならんと言えんこともあっとぞ。言うとることがどれだけ重いことか、考えてものを言えよ。」最初で最後、当時の主任司祭から受けたお叱りでした。

今になって考えると、主任司祭が言いたかったのは「お前が主任司祭を何年も務め、いくつもの教会を通ってみないと分からないこともあるんだぞ」そういうことだったと思います。下五島地区に来てこれまでと全く違う経験をしました。狭い戸口を通らせていただきました。酸いも甘いも経験してから何かを言うのと、経験もないのに言うのとでは、言葉の重みは全く違ってきます。当時の主任司祭の一言は、「狭い戸口」を通り抜けた司祭だけが言える、重みのある言葉でした。

どんな時代にも、親の世代よりも子供の世代が高い教育を受けるものです。すると子供は親よりも多く得た知識をもとにして意見することがあります。ですが高い教育を受けているだけでは、本当に「狭い戸口」を通った人の知恵や言葉に優るとは限らないのです。

私は母親から、「世の中に絶対ということはない」この一つを教えてもらいました。母は中学までしか教育を受けていません。大学を卒業し、さらに高度な専門教育を受けた私とは比較になりません。しかし、「世の中に絶対ということはない」という教えは、厳しい社会をくぐった人だから言える言葉であり、私にはとてもありがたい言葉でした。

「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」(13・26)たとえ話の中で家の主人から締め出しを食らった者たちが主人に必死に弁明しています。主人はこの人たちの本性を見抜いています。彼らは調子のよい時だけ顔を出し、日ごろは主人の思いに背を向けて生きてきたのです。

「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(13・27)彼らは「狭い戸口」を避けて日々を送ってきたのです。いざという時に、この「狭い戸口から入る」努力をしたかどうかが問われるのです。

私たちに当てはめてみましょう。「ご一緒に祈りをしましたし、聖書講座にも行きました。」それはそうかもしれませんが、祈りをしたことがある、聖書講座に行ったことがあるだけでは、必ずしも「狭い戸口から入る」努力をした保障にはならないのです。むしろ一日も欠かさないこと、毎日続けることのほうが、「狭い戸口から入る」証明になることがあります。

今日も明日も、欠かさずに朝夕祈る。これは並大抵のことではありません。誰の目にも止まらないかもしれません。しかし神は、「狭い戸口から入ろうと努力する」これらの人々を見ておられるのです。

聖書愛読運動に現在取りかかっています。詩編の朗読の三年目です。私の見立てでは、通常終了の待降節までには読み終えることができないけれど、年明けてから残り四回ほど付け加えれば、詩編150編をすべて読み終えることができると考えています。

三年前、詩編をすべて読み上げるという目標は、文字通り「狭い戸口」に思えたことでしょう。典礼委員でさえそう感じていたかもしれません。しかし皆さんは、「狭い戸口から入るように努めなさい」という招きに応えてくださり、経験した人でないと分からない喜びにたどり着こうとしているのです。

イエス様が招いた道であるからには、私たちは必ず「狭い戸口から入る」ことを求められます。狭い戸口の先には、招いてくれた主人と共にする喜びが待っているのです。ここまで説教を聞いて、皆さんはそれでも狭い戸口から入ることを避けようとするでしょうか、イエス様の招きを信じてみようかなと考えるでしょうか。このミサの間に考えることにしましょう。


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‥次の説教は‥‥
年間第22主日(ルカ14:1,7-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼「暑さを吹っ飛ばそう」と考えて企画してみたが、来週は母親の外来治療の週で、曜日を設定するにもさまざま支障が来る。それで企画はボツとなった。関係者の皆さん、申し訳ありません。
▼金曜日、広島カープは一時3-0で「この試合もらったな」と思ったのが、いろいろ仕事を終えて経過を確認したら「4-4」になっていた。この時点で勢いの差をまざまざと感じ、「これは最後まで観ない方が良さそうだ」と考え、眠りについた。翌朝の新聞を見て、「4-6の逆転負け」にやはりかと納得できた。8月に盛り返せばCSの楽しみだけは残るのだが。

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今週の1枚
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第978回目。教区からメールアドレスが支給される。結局、専用メーラーを用意

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† 神に感謝 †
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