こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)清い生活、神の心にかなう生活は心の中から

2009-08-30 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/08/30(No.433)
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年間第22主日
(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
清い生活、神の心にかなう生活は心の中から
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伊王島・高島地区は、今回の衆議院選挙に関しては土曜日ですべて投票が終わっています。島民すべてが、日本の多くの人々よりも一歩先に選挙を終えて日曜日を迎えていることになります。

わたしも、一票を投じてきました。誰に入れたのか、何党に入れたのかはここでお話しする必要はないと思うのですが、やはり最終的には、わたしの心にあることを少しでも形にしてくれそうな候補者、政党を選ぼうと考えて投票に行きました。

もちろん中には、その人がどんな人であるかはどうでもよくて、どの政党に所属しているかでその人に投票した、という有権者の方もいらっしゃるかも知れません。それはまぁ、例えて言えばお気に入りのプロ野球球団があって、その球団のユニフォームを着ている、それだけで応援しているというようなものです。年がら年中空振り三振していてもかまわないというのです。

わたしはそういう応援の仕方は正直言ってどうかなぁと思っている人間です。ですから、「何党に所属しているから」というだけで一票を投じる勇気のある人には、それはそれでたいしたもんだなぁと思います。

今日の福音朗読ですが、ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちがイエスのもとに集まっている場面で事件が起こります。イエスの弟子たちの中に、「洗わない手で」食事をする者がいるのを見たのです。

昔の人の言い伝えを固く守って生きる人々にとっては、目を覆いたくなるような出来事でした。それは、お気に入りの球団の選手だった人が自由を得て他の球団に移ったようなものです。または、ある候補者が、応援している政党から、対立している政党に鞍替えして立候補してしまったというようなものかも知れません。とても納得できないことだったのです。

ですが、イエスの説明は、理解ある人にはもう一度考えさせる照らしとなりました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」(7・15)形式にのっとって手を洗わず、掟に外れたことをしている。それは見た目には良くないことですから、掟に外れることを何よりも恐れている人にとっては、目を覆いたくなるような場面だったのです。

けれども、イエスは昔の人の言い伝えである「手を洗う」という儀式よりも大切にしていたことがあったはずです。もし、昔の人の言い伝えが何よりも大切だったとしたら、集まっている学者たちに言われる前に、イエスが弟子たちを厳しく叱ったことでしょう。

イエスは、弟子たちが昔の人の言い伝えを守るために手を洗うことを放棄しても、とがめなかったのです。なぜなら、言い伝えのために手を洗っても、それだけでは神を喜ばせることに直接結びつかないからです。

むしろ、ここには書かれていませんが、イエスと弟子たちは食事の時に感謝の祈りを唱えてから食事をしたことが想像されます。食事の前に祈ること。そのことのほうが、規則のために手を洗うことよりも大切なこと、より神を喜ばせることだと彼らは知っていたのです。

今回の総選挙は歴史的な選挙だと大騒ぎしています。外から聞こえる声に踊らされて投票しても、国のためにならないのではないでしょうか。外から聞こえてくるものは、たいてい大きな騒音です。むしろ、自分の心の中から、「ああ、そうだなぁ、それが本来の政治の姿だよなぁ」と思える、同感できる意見に賛成することが、必要なのだと思います。

つまり、今日の福音で問われていることは、今のわたしたちの生活にも同じことが問われているということです。身近な例で言うと、今回の総選挙にだって同じことが求められているのだと思います。イエスが求めていること、それは、人の言うことに右往左往するのではなく、本当に神を喜ばせるためにしなければならないことは何だろうかと考えることです。

イエスの時代に、本当に神を喜ばせるためには、昔の人の言い伝えに考えもなしに従うことではなくて、その人が心から、神を喜ばせることだと思えることを行う。そんな態度が必要でした。この態度はイエスによって初めて示してもらった態度でした。

今のわたしたちの時代も同じです。例えば選挙にしても、何も考えずにこれこれの党から出ている人に一票というのではなくて、この人は何と言っているだろうかと考えてから一票を入れる。そうすることでわたしの一票を用いて神を本当に喜ばせることになると思うのです。

「そんなの建前であって、実際は頼まれたらその人に一票入れなきゃいけないんだよ」とおっしゃるかも知れませんが、たとえそうだとしても心の中から、「うん、この人でいい」と思うことは、どんなときでも必要だと思います。

イエスは今日の最後にこう言いました。「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(7・21-23)

このイエスのみことばから考えるべきことは、心の中にある思いをととのえなければ、わたしたちは自分の清さを保つことはできないということです。「主よ、あわれみたまえ」とか、「世の罪をのぞきたもう主よ、われらをあわれみたまえ」とわたしたちはミサの中で唱えていますが、本当に心の中からの声になっているでしょうか。よく考えてみましょう。

ミサ中によそ見をしながらでも、人の欠点に気を散らしながらでも、「われらをあわれみたまえ」と口は言うことができます。そうであってはいけないのです。心の中から、そう思って、ふさわしい祈りを唱えましょう。平和のあいさつ「主の平和」と言うときも、心の中から平和を願ってあいさつを交わしたいものです。

イエスは、心の中をととのえなければ、わたしたちは清さを保つことはできないと強く迫ります。生活の隅々にまで、イエスのこの願いが行き渡りますように。身近な例で言えば、心の底から、この決断が正しいと納得して、一票を入れることです。あらゆることに、イエスの期待することが行き渡るとき、わたしたちはこの社会に神の掟に根を張った神の国を建設することができるのだと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼カナダから司祭の育成のために来日し、福岡で司祭としてほとんどの時間をささげた司祭(故人)の遺品の中に、中田秀和画伯の作とされる聖ヨセフの絵が含まれていた。カナダ人司祭ジャック・ツルデル師が人生の最期に帰国した時に持ち帰っていたのだが、モレアルという地の神学校でこのほど見つかった。ちなみに中田画伯は旧山口ザビエル聖堂内の絵を手がけたことで知られていると思う。
▼福岡での司祭養成にはたくさんのカナダ人司祭が奉仕してくれたが、今も健在でおられる聖書学の教授が、見つかった絵について問い合わせてきた。福岡の信徒から、間接的に、絵について知っていることがあれば教えてもらいたいという。
▼わたしはその絵についてほとんど記憶がないため、絵のことは中田画伯の跡を継いで工房を開いている方に尋ねるのが手っ取り早いと思い、FAXで問い合わせてみた。結果、実物を拝見しないと、父の作であるかどうかは何とも言えないという。近いうちにデジカメの画像を見てもらい、父のものであればそのことが紹介文として添えられて絵が人の目に留まるようになるだろう。
▼系図を並べても自分に何のメリットもないが、中田秀和画伯の父上は中田倉吉(くらきち)、中田倉吉の兄弟、つまり中田秀和画伯の叔父には中田七右エ門(しちえもん)がいる。この中田七エ門は、わたしの父方の祖父である。余計なことだが、それほどの恵まれた血統を持ちながら、なぜ小学生の時は音楽も図工も「2」だったのだろうか。

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新企画今週の1枚
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第40回目。聖ヨセフつながりで。高島教会の聖ヨセフ像。木彫。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(マルコ7:31-37)
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年間第21主日(ヨハネ6:60-69)この夏、あなたをおいてだれのところに行きましょう

2009-08-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/08/23(No.432)
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年間第21主日
(ヨハネ6:60-69)
この夏、あなたをおいてだれのところに行きましょう
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夏休みをいただきました。故郷に帰ってみると、夏休みを満喫している小学生、中学生にたくさん会いました。夏休みもあと1週間になると、宿題が気がかりなものですが、遠く離れた学校に通っていたわたしは、近くの学校に通っていた同級生たちとは違うことが気がかりになります。それは長崎に帰る日の天気です。

夏休み残り1週間になると、いつも天気予報を穴の開くほど見て、「フェリーが欠航にならないかなぁ」とつぶやいていました。この8月末というのは、ちょうど台風が長崎を通過する時期でもありましたので、強風波浪注意報とかが発表されると小躍りして喜んでいたものです。

けれども最終的にはフェリーも欠航せず、競り市に引かれていく牛のような重い足取りで上五島の奈良尾ターミナルに向かったものでした。今では、早く馬込教会に帰りたい気持ちが先になっています。

さて今週の福音朗読個所では、イエスのこれまでの言葉や行いにとうとう付いていけなくなり、弟子たちの中に離れていく者が現れます。もしかしたら、イエスに熱狂的になっていた人たちの熱が冷めたということだったかも知れません。

これまで行動を共にしていた弟子たちでしたが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6・60)と言って背を向けます。この時点で12人の弟子たちが残ったわけですが、イエスは「あなたがたも離れて行きたいか」と問いかけました。

イエスが言われた「あなたがたも離れて行きたいか」(6・67)という言葉は、自分にはぐっさり刺さります。中学生高校生の時、神学校に戻りたくなくて、フェリーが欠航すればいいのにと思っていた時期がありました。20歳を過ぎてくると、同世代の仲間が社会生活ですでに給料を手にし、わたしにおごってくれたりします。わたしはそんなことできる身分ではなかったので、羨ましい気持ちになりました。

そんな気持ちはすべて、司祭への召命を危険にさらすものです。その度にイエスから「あなたがたも離れて行きたいか」と言われていたはずです。司祭召命をしっかり見ようとしてなかったそのときどきの自分は、きっとイエスの期待に応えてなかったのだと思います。

「あなたがたも離れて行きたいか」というイエスの言葉には、「きみたちだけは残ってくれるよな」という期待が感じ取れます。ペトロは本心は迷っていたかも知れません。イエスのすべてを理解しているわけではないのですから、このままついて行くことができるだろうかとためらっていたとしても不思議ではありません。

ところが、ペトロはきっぱりとイエスについて行くことを表明しました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(6・68)ペトロをはじめ12人の弟子たちは、離れ去っていった弟子たちが見抜けなかったイエスの何かを掴んでいたのです。この人について行ける。そう思えるだけの何かを、この時までに掴んでいたのです。

わたしも、イエスの何かを掴んで、今この日まで司祭として続いているのだと思います。イエスについて行きますとは言いながら、わたしが置かれている環境で、「だれが、こんな話を聞いていられようか」という出来事は少なからず起きています。

教区との関わりで、広報委員長に任命されていますが、教区報「よきおとずれ」に何かを載せる際に、「えー、どうしてこうなるの」というような思いを内心持ちながら紙面に掲載することだってあるのです。そんな時にも、「あなたがたも離れて行きたいか」とイエスに難しい質問を向けられている気がします。

幸いに、司祭召命の歩みを続けて留まっています。何が自分を留まらせているのでしょうか。きちんと説明はできません。ただ、何かを掴んだのです。ペトロのように、戸惑いながらも、ついて行けるだけの何かを、イエスに見つけたのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(6・60)。

きちんとした説明はできませんが、体験したことを話すことはできます。2つ、話しておきましょう。夏休みに入る前に、中町教会を使わせてもらって葬儀ミサをささげました。皆さんご存知の方の葬儀ミサです。わたしは説教の中でこう言いました。「今旅立っていく故人の今日に、希望を置くために、信仰が必要です。今旅立とうとしている故人の明日に、期待するために、信仰が必要です。」

これまで何度となく葬儀ミサの説教をしましたが、あのような言い方で信仰の必要性を祈りに集まった人に語り掛けたのははじめてでした。念入りに準備したからあの言葉が出て来たというわけではありません。また、経験を積んできたから、あの言葉が出て来たのでもないのです。

もし、あえてそれを説明するなら、あの時イエスがわたしにあのような言葉を授けてくれたのだと思っています。つまりイエスははっきりと、わたしの準備したこと以上の言葉を示して、イエスについて行けるだけの確信を与えてくれているのです。

わたしの経験からではとても思い付かない言葉をわたしの舌に授けてくれて、イエスについて行けるだけの確信を与えてくれるのです。この体験が、「だれが、こんな話を聞いていられようか」という危機がおとずれても、わたしを支えてくれているのだと思います。
わたしは同じ方の前日の通夜の時にも、イエスが先について行けるだけの何かを授けてくださるのだと感じました。前の日の通夜が、夜の6時に行われましたが、通夜のために夕方5時半、中町教会に行ってみると、たまたま、そこにシリアという国で木工職人に技術指導をしているシニアボランティアの家具職人に出会ったのです。

まったく前触れもなしにです。その日、その職人は夏休みで日本に帰国しており、彼の妻と故郷が同じだという女子パウロ会のシスターに夫婦で会いに来ていました。わたしは通夜と葬儀でたまたま夏休みを1日遅らせたので、シリアで技術指導をしているはずの人と中町で久しぶりに再会したのです。

どんな偶然もここまで重なることは難しいでしょう。けれども、イエスはこのようなことを通して、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」と言えるだけの確信を与えてくれるということです。だれにとっても、何かしら、ついて行けるだけの確信を与えてくれる。イエスはそのような方なのです。

「あなたがたも離れて行きたいか。」きっとイエスは、ついて行けるだけの十分なものを先に示してくださったのではないでしょうか。その何かを、はっきり掴むための照らしを、今日のミサの中で願うことにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼「休み中は釣りですか」とか「釣りできましたか」とか、いろんな人に言われた。まず、郷里の教会で奉仕しているシスター。それから、大学生。そして、土曜日に帰ってから高島教会のご婦人から。よほど、わたしが釣りに依存して生きている「依存症」と思われているらしい。五島の人や、大学生はともかく、高島の人は、伊王島にいるわたしのことを、何だと思っているのだろうか。
▼実家では母と、次男とわたしの3人で寝起きとなった。みんなよくしゃべる。だれも話を聞いていないかのようだった。手料理に舌鼓、とまではいかなかったが、まぁ、小さい頃の味は楽しめた。それにしても、母も69歳、次男が結婚してくれれば、料理も卒業できるのになぁ。もちろんこれは、わたしの勝手な望みなのだが。
▼他の弟たちと妹は、わたしの滞在中には戻らなかったが、それぞれ予定を立てていたり、来ることができない理由があったりするようで、いちおう連絡があり、それぞれの状態は耳にした。これは、去年までとは少し違うかもしれない。去年までは生きているのか死んだのか、それすら分からない弟がいたのだから。
▼気になったのは、教会での朝のミサ。何だか子どもたちの数が少ない。ラジオ体操が始まるまでにはミサも終わるので、ミサに来るためには少々早起きしなければならないが、この5年ほどですっかり子どもの参加が減った気がする。楽しみにしているので、頑張ってきてちょうだいね。
▼今年は休暇の日程の最初の1日を通夜と葬儀に費やしたので休みは短かった。それでも、旅立っていく人のお手伝いを、本人と遺族にとっては見ず知らずの神父さまにお願いして自分はのんびりと夏休みを取るなんてことはとてもできないので、お世話してよかったと思う。特に旅立つ方を見送るのに信仰の態度が必要だと語り掛けることができたので、わたしにとっても学びの多い経験をさせてもらった。

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新企画今週の1枚
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第39回目。このポーズ、とっても気に入っています。

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年間第22主日
(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
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聖母の被昇天(ルカ1:39-56)賛美を受け継いで証しをしよう

2009-08-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/08/15(No.430)
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聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
賛美を受け継いで証しをしよう
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聖母の被昇天の祭日を迎えました。マリアが胎内の子を身ごもったと知り、先に身重になっていたエリザベットにあいさつに行く様子が描かれています。今年は、エリザベットがマリアに語ったことばを鍵にして、朗読箇所を読み進めていきたいと思います。

エリザベットはマリアの訪問を最大限の賛美で迎えました。「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」(1・43)そして、主が2人に目を留め、2人のために偉大な働きをしてくださったことをたたえます。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」(1・44)

わたしはこの、エリザベットの最後のことばがとても心を打ちました。マリアとエリザベットの2人こそ、このことばにふさわしい人物です。「主がおっしゃったことは必ず実現する。」堅くこのことを信じた偉大な女性だったと思います。

さらに、このことばは旧約の人物をも思い出させます。アブラハムは、子どもに恵まれない時期に、主を信じて息子イサクを与えられました。ノアは、洪水が起こることをだれも信じていない時に主に命じられたとおりに準備して、命を救われました。モーセは、エジプトの軍隊がイスラエルの民を紅海まで追ってきて、絶体絶命のときに主を信じて民を無事に渡らせました。

マリアの心にも、エリザベトの確信に満ちたことばは届いたことでしょう。マリアが続けて声を上げた賛美には、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた人は幸い」という思いが、賛美の全体に行き渡っているからです。

エリザベトの確信がマリアの賛美ににじみ出ています。いくつか拾ってみましょう。「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」(1・48-49)「身分の低い者を高く上げ(てくださる)」(1・52)「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。」(1・54)主がおっしゃったことは必ず実現する、そのとおりになる。マリアもまた、実感があったのです。

では、出来事が起こった時よりも後の時代の人々にとって、エリザベトとマリアの体験はどのような意味があるのでしょうか。マリアの次の言葉に注目しましょう。「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」マリアははっきりと、「後の人々、いつの世の人も」と言っています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた人は幸い」という思いが後の人々にも受け継がれ、たたえられることになると言うのです。

実際に、マリアの思いは受け継がれているのでしょうか。2000年経った今でも、マリアとエリザベトの確信は正しいと証明されているのでしょうか。間違いなく、マリアの思いは受け継がれ、今の時代にあっても「主がおっしゃったことは必ず実現する」と証明できます。

そこで、今日は8月15日、終戦の日でもありますので、戦争に関わる歴史の中で、例を挙げたいと思います。長崎にやってきた修道会の司祭に、マキシミリアノ・マリア・コルベという司祭がいます。彼はヨハネ・パウロ2世の在世中に聖人となりました。

コルベ神父の最後は、皆さんもある程度はご存知でしょう。ナチスによって強制収容所に連れて行かれ、脱走者が出たことで見せしめで殺される人が10人選ばれた時に、1人の人の身代わりを申し出ました。

彼は、死にたくないと言って憐れみを乞うていた人の身代わりになっただけではなく、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11・25)というイエスのみことばに絶対の信頼を置いていることを証ししたのです。希望のない強制収容所の中で、「主がおっしゃったことは必ず実現する」という希望を生き抜いたのです。みごとに、現代にあってマリアとエリザベトの確信を受け継ぎ、証ししていると思います。

同じく、強制収容所の中で、ガス室で処刑された別の修道女がいます。エディットシュタインというカルメル会の修道女です。コルベ神父はポーランド人で迫害を受けましたが、エディットシュタインはユダヤ人だったことでナチスの迫害を受けました。

エディットシュタインには神の不思議な導きがありました。彼女はユダヤ人でしたから、もともとは純粋なユダヤ教徒でした。けれども、イエス・キリストの中に真理を見いだし、キリスト教に改宗し、さらにカルメル会修道院という、社会から遠く離れることになる場所に入ったのです。彼女もまた、現代にあってイエスのみことばは必ず実現すると信じ、証しを立てたのです。

60数年前の人々が、過酷な環境の中で立派な証しを立ててくれました。わたしたちは、それに比べればはるかに証しをしやすい環境の中にあります。「主がおっしゃったことは必ず実現する」と、堂々と宣言できる自由な社会の中に生きています。そこでわたしたちも、マリアとエリザベトに倣い、「主がおっしゃったことは必ず実現する」との思いを証ししたいと思うのです。

ところで、「主がおっしゃったことは必ず実現する」と言っても、具体的な例が思い付かない人もいるかも知れません。何をたとえに引いて、証しをすればよいのでしょうか。2つ、示しておきましょう。1つは、去年の列福式です。188人の殉教者が、神のもとで、幸いな状態に置かれていることを教会は正式に宣言しました。

わたしたちの先祖が、わたしたちの時代に対して、イエス・キリストを信じる者の幸いを証ししてくれました。わたしたちが188福者を堂々と証しするなら、わたしたちもまた「「主がおっしゃったことは必ず実現する」と証しをする人の仲間です。

もう1つ考えてみました。8月15日、終戦の日は平和を願う日でもあります。イエスのみことばを信じて生きると、今一度確認するまたとない機会です。そのみことばとは、ヨハネ福音書の一節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(14・27)です。

わたしたちが平和のために力を尽くすなら、イエスが、平和を与えてくださる。この信仰に生きることは、すばらしい証しになると思います。まだ平和は実現していません。イエスが与える平和は、どのようにしてもたらされるのか分かりません。けれども、「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じて生きるまたとない機会です。

すでに手に入れたもののためではありません。まだ手に入れていないものを、あたかもそれはすでにあるかのように、確信して生きるのです。こうして現代のわたしたちは、聖母被昇天の祭日にマリアとエリザベトの賛美を受け継いで、「主がおっしゃったことは必ず実現する」ことの証し人になります。


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ちょっとひとやすみ
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▼8月15日は確かに「ふくれ饅頭(まんじゅう)」を各家庭が準備して食べていた。聖母被昇天に食べる、長崎ならではの食べ物である。ただ、それ以外の記憶がないのはなぜだろう。おそらくミサに出かけているので、おろしたての服を着て出かけているはずだが、新調した服の思い出はクリスマスにはあっても8月15日にはない。
▼思い出そうとしても出てこない。もし出てこないのであれば、これからの残りの時間で、思い出を作るようにしたほうが良いかもしれない。8月15日に、何かの形でふだんと違った過ごし方をして、この日を記念する。あるいは、この日を特別な形で過越していく。そんなことを考える必要があるかもしれない。
▼自分としては、戦争とか終戦とかの関連は8月15日には薄い。これもまた、記憶をたどるのではなく、記憶を刻んでいく作業が必要なのだろう。なぜ8月15日が終戦となったのか、なぜ8月6日、8月9日に原爆が投下されたのか。たまたまだったのか。そんなことを自分なりにもう一度学び直して、自分の中での記憶を刻まなければならないと感じる。
▼歴史は観る角度によって、さまざまな解釈が可能だと思うが、12月8日に真珠湾攻撃が始まり、8月15日に終戦を迎えるというのは、キリスト教の観点で考えると偶然では片付けられない。歴史を見守っている神のご計画が、その中にあったと思えてならない。ちなみに12月8日は無原罪の聖マリアの祭日、8月15日は言わずと知れた聖母被昇天の祭日である。聖マリアの祭日に、神はどのような計画を盛り込んでいたのだろうか。
▼頭はぱっぱと切り換えなければ先に進めない。1時間後には、明日の年間第20主日の説教に取りかかる必要がある。このコーナーを書き終われば、スイッチを入れ替える。仕事柄それができなければやっていけない。わたしの体内のどこに、リセットスイッチはあるのだろうか。体外にあるのだろうか。もしかしたら、海上にあるのだろうか。

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新企画今週の1枚
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第37回目。昨年の写真ですが、平和祈願祭での浦上からの祈りの行進の様子です

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(ヨハネ6:51-58)
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年間第19主日(ヨハネ6:41-51)イエスのみことばに固く留まる

2009-08-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
09/08/09(No.429)
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年間第19主日
(ヨハネ6:41-51)
イエスのみことばに固く留まる
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今年の年間第19主日は、8月9日は、長崎原爆の日と重なりました。わたしよりも皆さんのほうが詳しいのですが、原子爆弾の投下によって、たくさんの方が亡くなられました。
1つの話をわたしは聞いております。爆心地にいちばん近かった浦上教会ではこの日ゆるしの秘跡が行われていました。お祝い日前の告白、すなわち8月15日聖母の被昇天の祭日を迎えるためにゆるしの秘跡の場を設けていたのです。

浦上教会に籍のあるカトリック信者は当時1万2千人いました。そのうち8千人が、瞬時に亡くなったと言われています。さらにその中の何百人かが、浦上教会に集まってゆるしの秘跡を受けていたのです。

福音朗読に入りましょう。今日の朗読箇所は、始めと終わりを同じ言葉で挟んでいます。「わたしは天から降って来たパンである。」(6・41、また6・51)ヨハネは、このような強調のしかたで、イエスがどのような方であるか考えさせようとしています。天から降って来たパンであるイエスにつながることが、本当に生きるということなのだと分からせたいのです。

浦上教会で原爆投下の瞬間ゆるしの秘跡が行われていたことを話しましたが、当然ゆるしの秘跡を受けるために集まっていた人々は、聖母の被昇天の日にミサにあずかり、聖体を拝領するための準備をしていたわけです。

そう考えると浦上教会の人々は、「天から降って来たパン」であるイエスに近づこうとしていた人々だとはっきり言うことができます。言い換えると、この人たちは、イエスが言われたみことばを十分理解していたということです。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(6・51)

長崎の空に落ちた一発の原子爆弾で、たくさんの人の命が奪われました。命は取り戻すことはできませんが、その人々の中に、他の人々とは明らかに違った行動を取って、命を奪われた人々がいたのです。

それは、教会に行って聖母の被昇天の祭日のために心の準備をしていた人々のことです。この人々は、どんな困難があろうとも、教会に行ってゆるしの秘跡を受けたかった人々でした。イエスが言われた「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」というみことばに全幅の信頼を置いていた人々が、当時の8月9日、長崎の1つの教会に集っていたのです。

わたしは、あの日浦上教会でのゆるしの秘跡にあずかりに行った人々の生き方は、決して滅びない生き方だと思います。体の命は奪われるかも知れません。けれども、どんな恐怖も、どんな脅しも、浦上教会に行く人々の足を止めることはできませんでした。それはすなわち、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」とのみことばに信頼を置く生き方は決して滅ぼすことはできないと、証しをしてくれたのだと思うのです。

そこで、わたしは2つのことを考えました。1つは、自分自身の生き方です。わたしは、イエスのみことばに絶対の信頼を置いて生きているだろうかと考えました。まず心に浮かんだのは、病人訪問の場面でした。病人の部屋に行くと、まず回心の祈りを唱えて、次に福音書の一節を読み、主の祈りを唱えてから聖体を拝領します。福音書の一節に、わたしはよく今日の箇所、それも終わりの部分を選んで朗読しています。

福音書の一節を読む時は、「イエスは言われた」と前置きしてから朗読をしていますが、「わたしは、命のパンである」(6・48)と朗読しながら、わたしの中で、「確かにそうだ。命のパンであるイエスに、わたしは活かされて生きている。これは疑いようがない。」そんな気持ちで聖体拝領する病人のために朗読をしてあげているのだろうか。あらためて考えてみたのです。

また、自分自身の反省として次のことも浮かんできます。「イエスは、命のパンである。」この確信がわたしにあるのであれば、わたしは本当に生き生きと日々を暮らしているだろうか。命のパンをいただく、それも、ほとんど例外なく毎日いただいていながら、わたしの生活は生き生きとしたものになっているだろうか。実感があれば問題ありませんが、迷いがあるとすれば、なぜなのか。考えさせられたのです。

2つめとして、イエスのみことばには違う形での呼びかけもあると感じます。それは、「わたしたち・共同体として、社会に対してイエスのみことばに絶対の信頼を置いて生きているだろうか」ということです。浦上教会で、ゆるしの秘跡を受けようとしていた人々は、あの日の午前中、防空壕にも留まらず、畑にも行かず、工場にも行かず、教会に行ったのです。

行くことのできた場所がいろいろあった中で、1つだけ選んだのが教会に行ってゆるしの秘跡を受けることでした。6日後、聖母の被昇天にミサにあずかり、聖体を拝領することを思い描いて、あの日教会に行ったのです。それは、社会に対して、イエスのみことばに絶対の信頼を置いて生きているという証しになりました。

1人では大きな証しを立てることはできなかったかも知れません。けれども浦上の人々は大勢で、おそらく何百人単位で、社会に対して証しを立てたのです。「イエスは命のパンです。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きるのです」と証しを立てたのだと思います。

社会に対して証しを立てるためには、キリスト信者すべての協力が必要です。キリスト信者のだれもが、命のパンであるイエスをいただいて生きていることを、右にも左にもそれずに証しをする必要があります。

「だれそれさんは確かにイエスを必要としている人だが、別のあの人はキリスト信者だけれどもイエスを必要としていないじゃないか。」そう反論されないように、社会に対して力強い証しになるように、答える必要があります。皆が「わたしは、天から降って来た生きたパンである」とのみことばに「アーメン。その通りです」と答える必要があると思います。

「わたしは天から降って来た生きたパンである。」命の危険を冒しても、大胆に社会に対して証しをした時代があり、証しをした瞬間がありました。わたしたちも、イエスのみことばに生きている、自分を生かし、世を生かすイエスのみことばに生きていると、いつでも証しができるように日々を調えましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼ペーロン大会は準優勝。3レース競って、2位・2位・1位という成績。これは言うことない成績。本音を言うと、第2レースも勝っていたかもしれないレースだったので、悔しさは残る。その気持ちがあれば、次につながる。またやればいい。
▼高島に行く時にまた忘れ物をした。前回はUSBメモリーを忘れて痛い目に遭ったが、今回は携帯電話も忘れてきた。携帯電話を忘れると、連絡手段がいっさい取り上げられてしまう。ちなみに高島には固定電話を置いていない。
▼忘れたのだから、あれこれ考えてもしかたがない。それで説教作りに集中することにした。それでも、電話連絡がつかないと心配している人もいるだろうし、携帯にメールを入れて返事がないと首を長くして待っている人もいるだろうし、忘れたことを連絡できないもどかしさもあって、携帯を持っていないとそれはそれで気になるものである。
▼「あー、また忘れたのかな」と思ってくれれば助かるのだが、多くの人はそうでもないらしい。「大事な時にしか携帯を鳴らしたりしないのに、どうして返事をしてくれないのですか?」「忘れてたの」「えーっ、そんなことは思いもしませんでした。そう言えば2階で携帯の呼び出し音が鳴っていましたが、あれが忘れていた携帯だったのですね」そこまで分かっていて、どうして気付かないのだろう・・・
▼もはや携帯は何かの身分証明のようなもの、もしかしたら海外にいる時のパスポートのようなものかも知れない。無かったら歩いていても不安になるのだから、それはパスポートを紛失している人の気分に匹敵するだろう。こんな時代になったんだなぁ。
▼戻ってきて携帯を確認した。案の定、メール、電話などいろいろ入っていた。本当に申し訳なく思っている。連絡を付けたり、必要な対応を準備したりして、失った半日を取り戻そうと努力している。失った半日を取り戻すのに、1日はかかりそうである。

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新企画今週の1枚
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第36回目。大分県にある日本一長い人道吊り橋を見学してきました。4枚掲載。




詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖母の被昇天
(ルカ1:39-56)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第18主日(ヨハネ6:24-35)イエスが見ているものを見る目を養う

2009-08-02 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/90802.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
09/08/02(No.428)
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年間第18主日
(ヨハネ6:24-35)
イエスが見ているものを見る目を養う
‥‥‥†‥‥‥‥

ここ数ヶ月で、わたしの目に明らかな変化が生じ始めました。いろんな兆候はあったのです。一例を挙げますと、時計を外して、裏に刻まれている文字を見ようとしても、まったく見えないのです。焦点を合わせることができず、メガネを外してみると、何とか読み取れるようになりました。

その瞬間、「ううっ!」と思ったのです。近視のメガネを外して文字が見えるようになったのですから、明らかにこれは老眼です。ガックリきました。メガネを外して物を見ている人は自分とは違う世界の人たちだと思っていましたが、とうとうその仲間入りをすることになりました。

あまり認めたくはなかったのですが、どうしても今までの近視のメガネでは調節できない部分が出てきたので、夢彩都にある眼鏡屋さんに行って相談しました。レンズをいろいろ組み合わせて最適のレンズを提案してくれるわけですが、「この状態に、1枚加えてみます。どうですか?」

「よく見えます。」「あー、今1枚加えたのは老眼のレンズです。お客さま、43歳ですよね。私も、43歳から遠近両用のメガネを使い始めました。思い切って、使い始めることも1つの手です。」「じゃあそうします。」まぁそういうことで、今週からそういうレンズの入ったメガネを掛けています。「そういうレンズって、遠近両用のレンズってこと?」とか言わないの。

今この状態では、近くも遠くもかなりよく見えています。よく見えるようになってみると、見えてなかったんだなぁということもよく分かります。何が見えてなかったか。それは、今までとは違う助けをもらわなければ、今までのことができなくなってきているという事実です。

もちろん、近視のメガネを外せば、近くのものは見えていました。けれども、そういう状態でしばらく過ごしても、自分が遠近両用の補助が必要だとは分かっていなかったのです。遠近両用の補助を得て初めて、「あー、遠近両用が必要になっていたんだなぁ」と分かったということです。

この体験は、今日の福音朗読箇所を考えるのに役立ちました。イエスと群衆のやりとりで、群衆にイエスの指し示したものが全く見えていないことが明らかになります。群衆はイエスと弟子たちを追いかけました。

そして追いついたのですが、イエスは群衆に釘を刺します。「あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(6・26)イエスと五千人の群衆の間で、パンの奇跡が行われました。パンの奇跡の中でイエスが示そうとしたのは民を養う神としてのご自分でした。ところが、群衆がパンの奇跡の中に見たものはパンだったのです。

イエスはパンの奇跡ではっきりと「わたしが示そうとしている物を見なさい。わたしが伝えたいことに気づきなさい」と促していました。この部分を、わたしたちは自分の生活の中に見る必要があります。わたしたちは目の前で起こっていることに何を見ているのでしょうか。それが今日の説教の中心部分です。

いちばんまずい状態について触れておきます。福音朗読のいちばん最後の部分です。「彼らが『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください。』と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(6・34-35)

群衆は、自分たちに命を与えてくれるまことの食べ物は、イエス・キリストなのだととうとう気づきませんでした。群衆はイエスのそばにいながら、イエスからいちばん遠い考えをしていたのです。

さて、わたしたちはどうでしょうか。身近な出来事の中で、イエスがわたしたちに分からせようとしていることに目が向いているでしょうか。具体例を挙げて考えてみます。7月1日は188福者の列福記念日になっていました。何人かの人は、「そうだった。7月1日は福者の記念日だった」と思い出したことでしょう。思い出し、その日にミサに参加した人もいると思います。

7月1日(水)に、ミサに参加しなかったとしても、思い出して何かの行動を起こした人はいるでしょうか。残念ながら行動を起こすこともしなかったという人もいるかも知れません。ここまででわたしが言いたいことは、「列福式で福者が与えられましたが、わたしたちはその時に何を見たのでしょうか」ということです。

一年経ってみて、列福式はわたしたちに何を示してくれたのでしょうか。鳩が飛んだのがあなたの目に焼き付いているのでしょうか。大きな福者の絵が掲げられていました。あの絵が、あなたの中に焼き付いたのでしょうか。それとも、真っ赤な祭服を着たたくさんの聖職者たちの姿が、最後に残ったのでしょうか。

わたしは、今並べたようなことは、いつか忘れられてしまうだろうと思います。ヨハネ・パウロ二世教皇さまがおいでになったとき、ミサは何色の祭服だったでしょうか。松山競技場でのミサの時、出し物として鳩は飛んだでしょうか。それらのことを、25年以上経ってみると、どうだったかなぁと思っているわけです。ただ一つ、寒かったことだけが印象に残っています。

そのたった一つの思い出が、わたしたちは問われているのです。教皇さまは、わたしたち日本のキリスト信者の中にかけがえのない良い物があることを気づかせるために、日本にやってきたのです。それは、司祭がいない迫害の時代にも、失わなかった信仰です。この信仰を見直してもらうために、教皇さまは来たのです。

250年もの間変わらなかった信仰は、188殉教者の中にあります。信仰とこの世の宝とを、交換することはできないと言って、信仰のためにこの世の命を手放しました。絶対に譲れないものは何かを知っていたのです。福者になった188殉教者たちは、迫害の中に、決して失われないイエス・キリストという宝を見ていたのです。パンの奇跡でパンを見ていたのではなく、パンの奇跡の中にイエス・キリストを見つけたのです。

わたしは、ヨハネ・パウロ二世教皇さまが来日して教えてくれたことは、わたしたちが持っている信仰が、迫害の中でも、信仰があまり大切にされない今の時代の中でも、決して譲れないものですよと教えてくださったと思っています。

教皇さまがおいでになったときも、188殉教者の列福式の時も、大変厳しい天気でした。皆さんの中にはそのことが忘れられないかも知れません。あるいは、どちらの時もたくさんの聖職者を見たかも知れません。けれども、これらのことはイエスさまが見ているものとは違うと思うのです。

教皇さまがおいでになった時にイエスさまが示そうとしたことも、列福式を通してイエスさまが示そうとしたことも、実は同じだと思っています。それは、「あなたに注がれた洗礼の恵みは、決して譲ることのできないものなのですよ」ということです。

今週の福音朗読を通して、「イエスが見ているものを見る目を養おう」と決意しましょう。イエスが見ているものを見ていなければ、わたしたちの目は今もピンぼけしているのと同じだと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼今年はペーロン大会の選手としてお呼びが掛かり、2週間の練習に参加して2日(日)に大会に参加する。前評判は3位。それを、なんとか準優勝(2位)に食い込もうというのが目標。本当は優勝を目指しているけれども、前評判1位をひっくり返すのは、水泳の北島選手を抜き去るほど難しそう。
▼ペーロンの練習に参加している間、声を使いすぎて嗄(か)れてしまった。説教はガラガラ声。昔「ボヘミアン」という曲を歌っていた歌手みたい。ちょっとあこがれていたので、今この声が使える間は、世良公則か葛城ユキになりきり状態。「あんたに~あげ~た・愛の日々を~・今さら・返せ~とは・言わないわ。」
▼今年はきっちり練習して、試合に臨むことができている。もちろん、きっちり練習していてもそれを上回るチームには勝てないが、練習したことがしっかり本番で出せれば、それはそれで納得できる。練習途中、口論になり、「お前が悪い」「お前こそ悪い」と避難し合う場面もあったが、それは真剣に勝つことを考えてのこと。今はケンカも力に変わっている。
▼応援が嬉しい。地元の応援に加えて、船で応援にやってきてくれる人たちがいる。気合いも入る。空回りしないように注意しなきゃ。ここ伊王島では、ペーロンを応援する人はタオルを振って応援するのが流儀らしい。タオルを振る動作が、選手の櫂(オール)をかく動作に似ているのかも知れない。「丘ペーロン」とも言う(間違ってたらゴメン)。
▼例年通り、前晩に主日のミサをささげた。選手が日曜日に安心してレースに臨めるためだ。しかたなく前晩のミサに来た選手を前に、わたしなりの檄(げき)を飛ばした。「高島で夕方にミサをしたあとにこう言われた。『伊王島からポォン、ポォンと気の抜けた太鼓の音が聞こえてました。』からかわれていた。ムカッと来たが、来週のミサで見返すためにも、絶対勝とうじゃないか。」これで気持ちが一つになればと願う。

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新企画今週の1枚
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第35回目。あとで、ペーロン激写の1枚を掲載します。あくまで予定。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第19主日
(ヨハネ6:41-51)
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