こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(ルカ18:9-14)神よ、私をあなたの平和のために用いてください

2007-10-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/10/28(No.323)
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年間第30主日
(ルカ18:9-14)
神よ、私をあなたの平和のために用いてください
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祈るために神殿にやってきた2人の人物をたとえに、イエスは人間の取るべき態度について教えてくださいます。神の前に正しいと認められる態度を、たとえから学びなさいと言いたいのでしょう。

たとえに登場する1人はファリサイ派の人です。彼は自分が、神の前に十分正しいと認められていると考えています。その理由は3つあります。「社会にあって罪人扱いされている仲間ではないこと」「週に二度断食していること」「全収入の十分の一を差し出していること」です。ファリサイ派の人は、個人的にも社会的に見ても、明らかに正しい人間だという自信がありました。

ところが、あとでイエスに指摘されているとおり、ファリサイ派の人は神に正しいと認められていなかったのです。これまた、理由を3つ挙げておきましょう。「神は、どの仲間に入っているかで正しいかどうかを判断しない」「ましてや何を何回したかで正しいかどうかを判断しない」そして極めつけは「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない(マルコ10・18)」ということです。ファリサイ派の人には、義とされる要素が残念ながら何一つありませんでした。

神殿に祈るためにやってきたもう1人の人は徴税人です。彼は、自分が神の前に正しいと言えるものを何一つ持っていませんでした。神の前に並べ立てるものが何もなかったのです。それはある意味で幸いなことでした。何も、神の前に披露するものがなかったので、自分のありのままをさらけ出し、神の憐れみにすがったのでした。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(18・13)。

そうすると実は、ファリサイ派の人も、徴税人も、神の前に正しいと言えるものは何一つなかったということになります。ファリサイ派の人も、徴税人も、本当は何も誇るものがなかったのです。ではどうして2人の祈りはこんなに違ってきたのでしょうか。

それは、本当に神さまのほうを向いて祈っていたかどうかの違いでした。ファリサイ派の人は、立ち上がって「神よ」と唱えていましたが、実は神を向いていたのではなく、周りの人を見回して祈っていたのです。祈りを神に聞いてもらうことよりも、自分で自分の祈りを聞いて満足したかったのです。つまり自己満足の祈りです。

徴税人の祈りはファリサイ派のそれとは全く違っていました。徴税人は遠くに立って、目を天に上げることもしませんでしたが、心はまっすぐに神さまに向かって祈っていたのです。脇目もふらず、神に向かって祈っていたのです。神の前に正しいとされるのは、不器用でもいいから、まっすぐに神さまに心を向けている人たちなのです。矛盾しているようですが、神の前に誇るものが何もない人こそ、神に正しいと認められるのです。

ここで朗読箇所から、祈りの形に注目して2人の違いを考えてみましょう。私たちの祈り方にも大変参考になる点があると思います。

祈りは「祈る人(共同体)」と「神」との対話であるはずです。誰かと比較して自分の正当性を祈りの中で主張する必要はありません。ファリサイ派の人は徴税人と比較しながら祈っていました。そうではなく、徴税人のように誰のことも気にせず祈るべきです。祈りを聞き入れてくださるのは周りにいる誰かではなく神なのですから。

2人の祈りに興味深い違いがあることにも気付きました。ファリサイ派の人は、「神様、わたしは・・・します」と祈っているのですが、徴税人は「神様、わたしを・・・してください」と祈っているのです。もしかしたらこの違いに、義とされるか否かの分かれ目があるのかも知れません。

いくつか言葉を入れてみましょう。

「神様、わたしはあなたを愛します」という祈りと「神様、わたしを神を愛する人にしてください」という祈りとでは、ずいぶん聞こえ方が違います。

同じように、「神様、わたしは謙虚になります」というのと、「神様、わたしを謙虚にしてください」とでは、聞いている神さまにとってはあとの祈り方が断然優れていると感じられるでしょう。

ほかにも、「神様、わたしは約束します」と言い切るのと「神様、わたしを約束に忠実にしてください」とでは求めているものが違ってくるのではないでしょうか。

いくつか当てはめてみましたが、「神様、わたしは・・・します」と祈るのと、「神様、わたしを・・・してください」と祈るのでは、私は後者のような祈りが神に喜ばれるのではないかと感じます。

その典型は、アシジの聖フランシスコの「平和を求める祈り」です。アシジの聖フランシスコは「神よ、わたしをあなたの平和のために用いてください」と祈りました。これは、徴税人の祈りそのものではないでしょうか。

静かに祈るひととき、神と親しく対話するその時に振り返ってみましょう。いつの間にか「神様、わたしは・・・します」と祈っていないでしょうか。祈りが聞き入れられないと感じるとき、むしろ「神様、わたしを・・・してください」と祈ってみてはいかがでしょうか。「神よ、わたしに慰められることよりも慰めることを、理解されることよりも理解することを、愛されることよりも愛することを望ませてください」。


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ちょっとひとやすみ
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▼カトリック教会は西暦2000年を大きな区切りとして意識をして過ごした。たとえば、「贖いの大聖年」という呼び方で、大きな恵みを受ける年になることを世界中に知らせた。具体例としては、2000年のこの1年は、一定の条件が揃えば全免償が与えられた。全免償とは、人間が神に対して果たすべき償いを、すべて免除してもらえるということである。
▼別の例としては、各国に働きかけて、旧約聖書の伝統にのっとり、負債をすべて免除し、自由を取り戻す活動に積極的に参加した。途上国は先進国から多額の債務を担っており、しばしばそれは債務超過、債務不履行の状態になっているのだが、2000年を機会に負債をすべて水に流してほしいとキリスト教指導者たちは先進国指導者たちに働きかけた。
▼結果どうなったかを正確に把握していないが、アメリカのクリントン大統領始め、世界中の先進国指導者たちがこの提案を受け入れ、債務を帳消しにしたと理解している。もともとの働きかけはロックバンドの「U2」というグループのボーカル、ボノボさんが提唱し、それが世界中に広がって大きなうねりとなったとされる。ボノボさんは熱心なキリスト教徒だったのかも知れない。
▼話は長くなったが、この第三の千年紀(ミレニアム)を機会に動き出した壮大な一つの企画を紹介したい。アメリカのとある修道院で始まった企画だが、現代の超一流写本家を集めて、かつての聖書写本のような現代版の写本を制作し、例えば100年後とかの次の世代に残そうという企画である。
▼手法は古代の聖書写本の製作法で、作るのは未来に向けての現代的な写本。画期的な企画だと思った。古代の聖書筆写法にならい、本物の鳥から羽ペンを作り、インクを含ませて羊の皮で作った紙(羊皮紙)に文字をつづっていく。
▼写本が制作された時代の言語はヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語だったわけだが、今回は現代英語を用いた。イラストもふんだんに配置する。しかも現代のセンスでまったく新しく描く。こうした取り組みで制作された現代版写本を印刷したものが、長崎純心大学に寄贈された。

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今週のセンテンス
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第3回目。「行間を」読めは分かるけれど、"to get the most out of anything"が不明。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第31主日
(ルカ19:1-10)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第29主日(ルカ18:1-8)深く潜ると、神は答えをくださる

2007-10-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/10/21(No.322)
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年間第29主日
(ルカ18:1-8)
深く潜ると、神は答えをくださる
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今週は、朗読された福音の結論部分を考えてみたいと思います。イエスはこう言いました。「(まして)神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる(18・7-8)。イエスは昼も夜も叫び求める人に答えてくださる、しかも速やかに答えてくださると言います。

まずは昼も夜も叫び求めることが必要ですが、たまたま私は聖書朗読について、最近ずっと考え続けておりまして、いったいどうやったら信者の皆さんはうまく聖書朗読ができるようになるだろうか、そういうことを昼も夜も考え続けておりました。

「神さま、いったいどうやったらうまくいくのですか」。叫びにも似た思いで答えを求めていたのです。ようやく、一つの答えにたどり着きました。神は速やかに、答えてくださいました。今日はそれを分かち合ってみたいと思います。

皆さんのうち多くの人は、朗読台に向かう、それだけでもう緊張して上手に読めないと感じている人が多いのではないかと思います。なぜ緊張するのか、どうしたらうまくいくのか、突き詰めて考えてみたことがあるでしょうか。

第一の、そして最大の理由は、(たくさんの)人の前に立っているということだと思います。(たくさんの)人の前で読む機会が滅多にないので、緊張の原因になっているのでしょう。反対に、誰もいなければ、どんなに緊張するという人でもうまく読めるのではないでしょうか。「誰もいないのであれば、わたしでも読めるかもしれない」そう思っている人が今おられるかも知れません。

私の思い込みだけで話をしても納得してもらえないでしょうから、ある人に協力してもらって実験してみました。ある時この人に聖書朗読について尋ねたところ、こんなふうに言われたことがあります。「ミサの聖書朗読なんてとんでもありません。あんな場所に立って朗読すると想像しただけでも心臓が飛び出しそうです。」

ところが、それほど怖がっていたのに、試しに聖堂に1人だけにして朗読をさせると何とか朗読することができたのです。ちなみに、私が聞き手になって座っても意外なほどに落ち着いて読むことができました。「誰もいなければ、あるいはほとんど人がいなければ、上手に聖書を読むことができる。」この仮説は実験である程度証明されました。

ただし、実際に朗読するのは多くの参列者を前にしてです。聖書は神のことばを民衆に読み聞かせるという目的があるのですから、人がいない中で読んでもほとんど意味がありません。聖書朗読をひどく恐れる人であっても、誰もいないときには立派に読むことができた。この経験を実際の聖書朗読に何とか活かせないものか。考えてみました。

実験に協力してくれた人は、人が集まっていると意識しない程度なら、十分に朗読することができていました。ミサに大勢の人が集まって、みんなが自分を見ている、みんなが耳を澄ませて聞いていると思ってしまうので、苦手な人は舞い上がってしまってうまく朗読できなくなるということです。

そうなると、やはり誰もいないような場面でしか苦手な人はうまく読めないということになります。それでは先ほどから言っているように、聖書朗読の意味を為さないのです。何とかして、誰もいない雰囲気を作ってあげれば、聖書朗読を恐れる人にも朗読ができるのではないでしょうか。

問題の原因を平面的に考えても、いつまでたっても問題は解決しないだろうと思います。聖書朗読を恐れる人は、同じ場所に自分に耳を澄ませている人がいると感じると落ち着いて読むことができなくなるのです。そうであれば、問題を取り除くために、平面的に考えるのではなく、立体的に考える必要があると思います。

つまりこういうことです。朗読する人は、地下1階にいて聖書朗読をしていると考えるのです。そして朗読を聞いている参列者は地上1階にいて耳を傾けている。こう考えるとうまく解決できるのではないでしょうか。

参列者は皆地上1階にいて、朗読する私は地下1階にいる。そう思えば、たとえ地上1階に50人いようが1000人いようが、まったく気にする必要はなくなります。朗読者は、地下1階で、1人で朗読していると思えばよいのです。

これが、中田神父が今週昼も夜も神さまに叫び続け、答えをいただいた聖書朗読のコツです。聖書朗読に立ちはだかる困難を平面的に考えるのではなく、立体的に考えること。こうすることで今までどうしても取り除けなかった恐怖を克服することができるのではないでしょうか。

ところで、現実問題として教会は立体的な建物ではありません。地下1階などありません。考え方としては画期的でも、実行できないのであれば机上の空論になってしまいます。せっかくここまで考えたのに実行できないのでは神さまからの答えになっていません。神さまが示してくださった答えには、もう少し続きがありました。

地下1階がなくても、地下に潜ればよいのです。地下の、誰もいない場所に朗読する人が潜ることができれば、問題は解決すると思います。具体的には、自分が朗読しようとしている箇所に、深く潜るようにすること。これが、地下1階で朗読するコツだと思います。

例を挙げてもう少し具体的に説明しましょう、今週の第2朗読はパウロがテモテに宛てて書いた手紙です。この手紙を朗読するとき、ミサに来ているみんなに読んで聞かせようと思わないで、あなたはテモテになったつもりで手紙を読めばよいのです。「[愛する者よ、]自分が学んで確信したことから離れてはなりません」(3・14)。

みんなに読んで聞かせようとすれば、あなたはパウロのつもりで読むことになりますが、それでは相当荷が重いと思います。そうではなく、パウロが私に手紙を書いていると思って、読むのです。あなたはふだん、手紙をもらうことがあるでしょう。その手紙を、自分1人で読むつもりで、読んだらよいのです。ただ1つだけ、ゆっくり、はっきり読んでくだされば、それで十分だと思います。

これが、与えられた朗読箇所の中に深く潜っていくということです。みんなに読んで聞かせようと思わないことです。お願いされた朗読箇所に深く潜り、自分の家に、アパートに届いた手紙を1人で読んでいると思って朗読台に立つと、きっとうまくいくと思います。お試しください。

朗読する人は、やはりどうしても人前に立つので目立ってしまいます。みんなを前にしているとことさら考えると失敗してしまいます。人前に立っているのではなく、むしろ神の前に自分の存在を示すためには、矛盾しているようですが、神への思いに沈潜していく必要があります。聖書朗読をしているときであれば、頼まれた聖書の箇所に深く潜っていく必要があるのです。

ですから朗読の声も、大声を出すのではありません。かえって沈黙するのです。「みんなに聞こえるように声を張り上げなきゃ」とか、「ひっかからないようにすらすら読まなきゃ」というようないっさいの雑音を自分の心から閉め出し、ただ自分に宛てられた手紙がよく理解できるように読もうと心がけるとき、神はいち早く私を見いだして必要に答え、力を貸してくださるのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼高島に土曜日に渡るのも今年は来週までだ。11月に入ったらさっそく「冬時間」で日曜日の馬込教会のミサのあとに渡ることになる。土曜日の高島のミサは夕方のミサになっていて、高島は夕方の便は割合簡単に欠航になるからだ。
▼どうかすると土曜日夕方のミサをしている間に島内放送が流れ、「長崎発○○時○○分の便は高島へは行かず、伊王島で折り返し運行になります。ご注意ください」といった放送が流れる。こちらは何が何でも伊王島に帰らなければならないわけで、帰りの便が突然運行中止になってはいけないので土曜日のミサ日程は10月いっぱいまで(夏時間)にしているのである。
▼冬時間の日曜日に切り替わると、いろんなことが切り替わる。まず土曜日に高島に行かない。ということは説教をギリギリまで考える時間ができることになる(ギリギリまでサボる口実にもなる)。日曜日、馬込教会の8時のミサは何が何でも9時に切り上げなければならない。9時12分には高島行きの便に乗っていなければならないのだから。
▼馬込教会の司祭館では朝食抜きになる。それまでの9時からの遅い朝食にありつけないが、代わりに高島で「朝食昼食兼用」が11時に出る。この食事にありつく頃は心理的には1日の務めは終わったという感覚になっている。当然午後からもいろいろ予定が詰まっていることもあるが、あとは「まじめにやっているふりをしつつ」こなしている感がある。高島の「ブランチ」を終え、一息ついて昼の便で伊王島に戻る。
▼ということでがらっと生活が変わる。こうじ神父はこの小教区で1年を半分ずつ別々の過ごし方をしているのである。今週の英語の勉強は、英文というのはどうしてこんなに長く長く後ろにつながっていくのだろうかと、思い知らされた一文です。それに対して、日本語はどちらかというと「前に前につなげていって、後ろは短い言葉」だと思います。


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今週のセンテンス
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第2回目。下線部。これだから英語は難しい。

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‥次の説教は‥‥
主日
(朗読箇所)
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年間第28主日(ルカ17:11-19)受けた恵みに感謝し、多くの人に告げ知らせましょう

2007-10-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/10/14(No.321)
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年間第28主日
(ルカ17:11-19)
受けた恵みに感謝し、多くの人に告げ知らせましょう
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今日イエスが語りかけるメッセージははっきりしています。「わたしは恵みを受けた」と気づくのはこの世で小さな人と思われている人たちだということです。イエスがここで言う「小さな人」は、「謙虚な人」に近い言い方です。そしてあとで考えてみたいのですが、「わたしは恵みを受けた」と気づくためには、自分は取るに足りない者だと、どこかで感じている必要があるのです。

まず、神の恵みを敏感に感じ取って生きた人を何人か紹介しましょう。旧約聖書からは、一人のやもめの話を紹介することができます。彼女はイスラエル地方に干ばつが襲っていた時代、シドンのサレプタに住み、食べ物も飲み水も底をつき、一人息子とともに死ぬのを待っていました。

「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」(列王記上17・12)。ところが神は、このやもめのもとにエリヤを遣わして、神は必ずあなたを助けてくださる、飢え死にすることはないと励まします。

イエスはこの物語を例に挙げてこう言いました。「確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた」(ルカ4・25-26)。彼女は干ばつの時に神の目に留まる何かを備えていました。それは、自分が小さな者であり、神の助けなしには決して生きていけないと知っていたということです。

新約の時代にいちばん目立って現れるのはマリアです。彼女は自分が小さな者であることを、ある意味世界中の誰よりもよく知っていました。彼女は次のような祈りを残しています。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです」(ルカ1・47-48)。世界でいちばん、自分が小さな者であると考えたので、神はかえってマリアに目を留めてくださいました。

今日の出来事は10人の重い皮膚病を患っている人たちの癒しです。この中で1人サマリア人だった人だけが、自分が小さな者、取るに足りない者であることを自覚していたということです。彼はほかの9人が生まれつき与えられていたものを持ち合わせていませんでした。だからなおさら、イエスに信頼を置くしかないと、心に言い聞かせていたのです。

彼がどれだけ不利な立場に置かれていたかを考えてみましょう。彼はサマリア人でした。サマリア人とはつまり、「外国人」であり、異教の礼拝が混じっていると言ってユダヤ人の礼拝から閉め出されていたのです。

彼はその上にさらに、病を得て社会からも締め出されていました。残る9人と比較するとよく分かりますが、残りの人たちはイエスと同じユダヤ人であり、神が選んでくださった民族と見なされていました。仮に病気が治らなくても外国人扱いされたりはしません。またもしも病気が治れば、ユダヤ人の礼拝に再び参加することができるのです。サマリア人が、たとえ病気が治ってもユダヤ人の礼拝にあずかれないのとは大きな差があります。

こうした不利な立場をよく分かっていたので、彼は他の9人とは違って、それこそ必死に、置かれている状況から解放されたいと願っていたのではないでしょうか。サマリア人の彼は、イエスに頼るしかないと他の9人よりもはっきり自覚した上で「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(17・13)と言ったのだと思います。

ユダヤ人であった他の9人は1人のサマリア人とは違うという意識がきっとあったと思います。9人がイエスに「憐れんでください」と叫ぶとき、自分たちがあわれな民族とか、神から見捨てられているという気持ちはなかったと思います。重い病気だけれども、私たちは神に選ばれたユダヤ人だ。だから、憐れみを受け、救われて当然だ。そんな気持ちだったのではないでしょうか。

イエスは10人すべてに憐れみを注いで、重い皮膚病を治してくださったのですが、感謝しに来たのは、サマリア人だけでした。「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」(17・18)。このサマリア人が私たちに教えていることは、救いの恵みはすべての人に注がれますが、恵みに気づく人と気づかない人が現れるということです。サマリア人は、自分は外国人で、礼拝も異なっている。救われるためには、イエスに頼るしか方法はないと、心の底から信じていたのです。イエスの他に頼るものが何もないと思っていたことで、民族や、礼拝の違いも超えて、神のあふれる愛に触れることができたと、サマリア人は皆の前で表明したのです。

私たちはもっと、今日のサマリア人に模範を仰ぐべきです。私たちの命は、イエス・キリストによってしか救ってもらえないと、今日のサマリア人のように固く心に決めましょう。サマリア人はイエスと違う民族でした。先祖にダビデ家の血筋も誰もいなかったことでしょう。

私たちも同じです。もし血筋で救いが決まるのであればイエスと同じユダヤの血筋の人は誰もいないのです。それでもイエスは今日のサマリア人に対してと同じように、日本にいる私たちにも注いでいます。10人のうち9人は恵みに気づきませんでした。日本人の中でも同じかも知れません。イエスに頼るしかないと気づいている人は、10人のうち1人しかいないかも知れない。

私たちがもしも、イエス・キリストに頼るしかない、この確信に自分を賭けているなら、もっと多くの人に、真剣にイエスを求めるチャンスを用意してあげる必要があります。働きかけて、「わたしも、イエスに頼るしかないと分かった」という人が1人でも2人でも現れるように、今週もまたイエスに送り出されて、社会の中で証しすることにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼前置きがほとんど無くて新企画に入ってしまうことになった。「今週の絵手紙」は100回掲載のうち3分の1ほどしか手書きのものはなかった。100回ということはほぼ2年続けたので、このへんで品を変えることにした。昔から英語は使えるようになりたいと思っていたが、今回からのコーナーを続けることで、自分自身英語の洗い直しをしようと思う。
▼第一回目は、コーナーそのものの説明も兼ねて、「ちょっとひとやすみ」を使って紹介することにした。ずっと勉強をしていく中で、毎週はっとさせられる何かを見つけて取り上げてみたいと思う。今回は、以前「絵手紙」コーナーで取り上げたカトリックの教え(2007年1月28日)を易しく説いている本の紹介。
▼この本は北米ではよく知られている本らしいが、意外なことにこうじ神父はその本の中にミスプリントを発見した。そこで私だけでは自信がないのである修道会の神父様に朝でなく夜でなく昼に尋ねたところ、どうやらミスプリントで間違いないとのこと。それを聞いたとき、内心「あー、まだまだ英語も鈍ってはいないなぁ」と思ったのだった。
▼ところが、ちょっと自慢げに思っていたらその神父様からこう言われた。「この本、懐かしいデース。私たちが小学校低学年のときに、一生懸命暗記した教科書デース」ということだった。ようやく理解できたのは小学校低学年の教科書だったのだ。どうりで難しい本は買っても読めず本棚に積みっぱなしになるわけだ。
▼久しぶりにその本を引っ張り出してみたら、この頁にミスプリントがあるということでドッグイヤーの印まで付けている。ところが、この2頁の中のどこが間違いなのか、あらためて見るとどうしても見つからない。1時間ほど目を皿のようにして読み返してみるが、それでも見つからなかった。そこで、みなさんにも披露して、どこにミスプリントがあるのか見つけてもらえればと思っている。

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今週のセンテンス
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第1回目。ミスを発見してアメリカ人神父様に見せたのに・・・違う頁だった?

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(ルカ18:1-8)
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年間第27主日(ルカ17・5-10)私に蒔かれた信仰の種で何かをしましょう

2007-10-07 | Weblog
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年間第27主日(ルカ17・5-10)私に蒔かれた信仰の種で何かをしましょう
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今週の福音朗読は、節を補って考えたいと思います。17章3節と4節でイエスはこう言います。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」この「赦し」が前置きされていると考えて実際の朗読箇所に当たると内容がよく分かります。

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」(17・5)と言ったのは、「罪を犯すたびに悔い改めましたとやって来る人を赦す」ために、信仰を増してもらう必要があると感じたからです。けれどもイエスの返事は、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」(17・6)十分であるというものでした。人を際限なく赦すための信仰の力は、すでにあるというのです。

使徒たちにすでに与えられている信仰、それは「わたしたちは主に愛されている」というものです。どんなに物分かりが悪くても、たとえ、イエスを見捨てて逃げてしまったとしても、すべて赦して愛してくださる際限のない愛を受けているというものです。彼らはのちに理解するのです。自分たちに与えられている信仰は、人をとことん赦してあげる力を十分持っている。悪の根を張ってなかなか抜け出せない兄弟も言うことを聞く。イエスに深く愛されているという信仰は、人を変える奇跡を起こすのにも十分なのです。

188殉教者から一つの例を紹介します。外海の山奥に、「次兵衛岩」という洞窟があります。ここはトマス金鍔次兵衛神父が迫害の中で活動するために隠れ家にしていた場所と言われています。この隠れ家で潜伏してキリシタンに秘跡の恵みを授け続け、のちに穴吊りの刑にされて殉教した金鍔次兵衛神父は、確かにからし種一粒の信仰を持っていた人です。彼は昼も夜も迫害に苦しむ信者たちを励まし続け、一人ひとりの信仰の種が消えてなくならないようにお世話してくれました。

まず、次兵衛神父は、自分自身のからし種一粒ほどの信仰を決して失いませんでした。1600年頃大村に生まれ、6歳で有馬のセミナリオに入学、その後イエズス会でお世話を受け始めました。迫害が激しくなり、マカオに追放されます。追放先で司祭を志して学び続けますがセミナリオの閉鎖という困難に直面します。

1620年、やむなく次兵衛はひそかに日本に戻り、伝道師として信徒の世話に当たります。けれども迫害の時代に信徒たちを真に慰めるのは秘跡の恵みだと痛感し、2年後にマニラに渡ってアウグスチノ会に入会して再び司祭になることを目指しました。そして1628年、セブ島で司祭に叙階されます。

マニラでは通訳の仕事に就き、この仕事のおかげで日本の教会が迫害で大変苦しんでいることを知りました。そこで日本に帰国したいと上長に願いますがなかなか願いが叶えられません。そこで居ても立ってもいられず、1631年マニラに寄港した日本船に飛び乗って、姿は侍として日本に帰国を果たしました。

彼は自分自身のからし種一粒ほどの信仰を決して粗末にしませんでしたが、その心は日本にいるキリシタンたち、迫害の中で散らされた羊のようになっているキリシタンたちをお世話することに向かっていました。昼は奉行所の馬丁になりすまして投獄された宣教師や信徒を訪ねては勇気づけ、夜は隠れ家でゆるしの恵みを与え、ミサをささげます。長崎奉行は次兵衛を血眼になって捕らえようとします。

長崎の探索を逃れた次兵衛は江戸に現れ、家光の小姓たちに教えを説き、そのうち数名が洗礼を受けました。キリシタンの中に残っているからし種一粒ほどの信仰をいつも大切に守り、さらに新しい種蒔きすらも迫害の時代に行っていたのです。

1636年11月1日、次兵衛は隠密によってついに長崎の片淵で捕らえられます。1637年8月21日、最初の穴吊りは三日間にも及びました。10月6日、二度目の穴吊り。この日次兵衛神父は37歳で天に召されました。日本に潜入し、6年の間で彼が導き、そして殉教していった信徒の数は637人にも上ったそうです。

トマス金鍔次兵衛神父は、神から種蒔かれた信仰の種を決してなくすことなく、その上さらに、迫害で苦しめられている信徒たちの信仰にも慰めと励ましを与えました。殉教をも恐れない次兵衛神父の信仰の種は、信徒たちにも受け継がれていきました。まさに「『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(17・6)とのみことばが実現したのです。

からし種一粒ほどの信仰でも十分であるという招きは、私たちを行動へと駆り立てます。キリスト教の信仰は、人口の少ない日本では小さく力ないように見えるかも知れません。からし種一粒ほどしかないその信仰で、奇跡を起こしましょう。

依存症に苦しんでいる人を立ち直らせたり、祈ることを軽蔑する人のために祈り、いつの日かともに祈る日を迎えたり、父や母を繰り返し悲しませる子どもを改心させるのです。それらは、すでに奇跡と言ってもよい働きですが、「(わたしは先に愛された者だから)しなければならないことをしただけです」(17・10)と受け止めているなら、あなたの信仰にキリストの教えを知らない日本の人々は驚きの声を上げるでしょう。そして、あなたの謙虚さを神はこの上なく喜び、かえって高く取り上げてくださるのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼こうじ神父は過去15年間ミサを捧げ続けて、どうしても集中できずに間を取ったことが1度ある。祭壇そばで仕えている小学2年生の侍者のコンビが、聖変化の時に鳴らす鈴を構えて次のような会話をしていたときのことだった。「(当の本人)ねぇ、もうそろそろ鈴を鳴らすときかな」「(相方)早く、今鳴らして」「(当の本人)ねぇ、さっきは鳴らさないといけなかったよね。今度鳴らすのはそろそろかな」「(相方)今、すぐ鳴らせ」
▼「(当の本人)うまく鳴らすことができないなぁ。今度こそちゃんと鳴らすよ。いつ頃かな」「(当の本人の両親が信徒席から身振り手振りで)何をもたもたしてるんだ。早く鳴らせ、鳴らせ!」「(当の本人)あっ、お父さんお母さんが手を振っている。お父さーん、ぼくここにいるよ」。この日は侍者のやりとりがあまりにおかしくて、腸捻転を起こしそうになり、しばしミサを中断したのだった。
▼ところが、今の小教区に来て、それを超えるハプニングに遭遇した。ミサの聖歌で、「心の貧しい人は幸い」という歌があるが、1人がとてつもなく音が外れてしまい、はてしなくもとの歌から離れてしまったために誰もその人を正しい歌に連れ帰ることができず、その人が唸って、みんな黙ってしまったことがあった。私はその間司祭1人で唱える祈りの部分にさしかかっていたが、途中で祈りの言葉を思い出せなくなり、ミサの儀式所を確かめてもう一度唱え直す羽目になった。
▼その祈りの部分はこれまで3500回以上唱えてた祈りなのに、それでも一瞬祈りが飛んでしまった。それ以後私はさらに集中力を高め、意識を唱えるべき祈り一点に注ぎ、祈ろうとするのだが、それでも今も祈りが続けられなくなることが何度か起こっている。人間は鍛錬することで過去を乗り越えることができる。果たして今受けている試練は、どのようにして乗り越えればよいのだろうか。

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こうじ神父絵手紙
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第100回目。日曜日、午後3時から聖堂内でギターコンサートを開きました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日
(ルカ17・11-19)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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