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こうじ神父
「今週のお説教」
07/10/28(No.323)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第30主日
(ルカ18:9-14)
神よ、私をあなたの平和のために用いてください
‥‥‥†‥‥‥‥
祈るために神殿にやってきた2人の人物をたとえに、イエスは人間の取るべき態度について教えてくださいます。神の前に正しいと認められる態度を、たとえから学びなさいと言いたいのでしょう。
たとえに登場する1人はファリサイ派の人です。彼は自分が、神の前に十分正しいと認められていると考えています。その理由は3つあります。「社会にあって罪人扱いされている仲間ではないこと」「週に二度断食していること」「全収入の十分の一を差し出していること」です。ファリサイ派の人は、個人的にも社会的に見ても、明らかに正しい人間だという自信がありました。
ところが、あとでイエスに指摘されているとおり、ファリサイ派の人は神に正しいと認められていなかったのです。これまた、理由を3つ挙げておきましょう。「神は、どの仲間に入っているかで正しいかどうかを判断しない」「ましてや何を何回したかで正しいかどうかを判断しない」そして極めつけは「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない(マルコ10・18)」ということです。ファリサイ派の人には、義とされる要素が残念ながら何一つありませんでした。
神殿に祈るためにやってきたもう1人の人は徴税人です。彼は、自分が神の前に正しいと言えるものを何一つ持っていませんでした。神の前に並べ立てるものが何もなかったのです。それはある意味で幸いなことでした。何も、神の前に披露するものがなかったので、自分のありのままをさらけ出し、神の憐れみにすがったのでした。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(18・13)。
そうすると実は、ファリサイ派の人も、徴税人も、神の前に正しいと言えるものは何一つなかったということになります。ファリサイ派の人も、徴税人も、本当は何も誇るものがなかったのです。ではどうして2人の祈りはこんなに違ってきたのでしょうか。
それは、本当に神さまのほうを向いて祈っていたかどうかの違いでした。ファリサイ派の人は、立ち上がって「神よ」と唱えていましたが、実は神を向いていたのではなく、周りの人を見回して祈っていたのです。祈りを神に聞いてもらうことよりも、自分で自分の祈りを聞いて満足したかったのです。つまり自己満足の祈りです。
徴税人の祈りはファリサイ派のそれとは全く違っていました。徴税人は遠くに立って、目を天に上げることもしませんでしたが、心はまっすぐに神さまに向かって祈っていたのです。脇目もふらず、神に向かって祈っていたのです。神の前に正しいとされるのは、不器用でもいいから、まっすぐに神さまに心を向けている人たちなのです。矛盾しているようですが、神の前に誇るものが何もない人こそ、神に正しいと認められるのです。
ここで朗読箇所から、祈りの形に注目して2人の違いを考えてみましょう。私たちの祈り方にも大変参考になる点があると思います。
祈りは「祈る人(共同体)」と「神」との対話であるはずです。誰かと比較して自分の正当性を祈りの中で主張する必要はありません。ファリサイ派の人は徴税人と比較しながら祈っていました。そうではなく、徴税人のように誰のことも気にせず祈るべきです。祈りを聞き入れてくださるのは周りにいる誰かではなく神なのですから。
2人の祈りに興味深い違いがあることにも気付きました。ファリサイ派の人は、「神様、わたしは・・・します」と祈っているのですが、徴税人は「神様、わたしを・・・してください」と祈っているのです。もしかしたらこの違いに、義とされるか否かの分かれ目があるのかも知れません。
いくつか言葉を入れてみましょう。
「神様、わたしはあなたを愛します」という祈りと「神様、わたしを神を愛する人にしてください」という祈りとでは、ずいぶん聞こえ方が違います。
同じように、「神様、わたしは謙虚になります」というのと、「神様、わたしを謙虚にしてください」とでは、聞いている神さまにとってはあとの祈り方が断然優れていると感じられるでしょう。
ほかにも、「神様、わたしは約束します」と言い切るのと「神様、わたしを約束に忠実にしてください」とでは求めているものが違ってくるのではないでしょうか。
いくつか当てはめてみましたが、「神様、わたしは・・・します」と祈るのと、「神様、わたしを・・・してください」と祈るのでは、私は後者のような祈りが神に喜ばれるのではないかと感じます。
その典型は、アシジの聖フランシスコの「平和を求める祈り」です。アシジの聖フランシスコは「神よ、わたしをあなたの平和のために用いてください」と祈りました。これは、徴税人の祈りそのものではないでしょうか。
静かに祈るひととき、神と親しく対話するその時に振り返ってみましょう。いつの間にか「神様、わたしは・・・します」と祈っていないでしょうか。祈りが聞き入れられないと感じるとき、むしろ「神様、わたしを・・・してください」と祈ってみてはいかがでしょうか。「神よ、わたしに慰められることよりも慰めることを、理解されることよりも理解することを、愛されることよりも愛することを望ませてください」。
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ちょっとひとやすみ
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▼カトリック教会は西暦2000年を大きな区切りとして意識をして過ごした。たとえば、「贖いの大聖年」という呼び方で、大きな恵みを受ける年になることを世界中に知らせた。具体例としては、2000年のこの1年は、一定の条件が揃えば全免償が与えられた。全免償とは、人間が神に対して果たすべき償いを、すべて免除してもらえるということである。
▼別の例としては、各国に働きかけて、旧約聖書の伝統にのっとり、負債をすべて免除し、自由を取り戻す活動に積極的に参加した。途上国は先進国から多額の債務を担っており、しばしばそれは債務超過、債務不履行の状態になっているのだが、2000年を機会に負債をすべて水に流してほしいとキリスト教指導者たちは先進国指導者たちに働きかけた。
▼結果どうなったかを正確に把握していないが、アメリカのクリントン大統領始め、世界中の先進国指導者たちがこの提案を受け入れ、債務を帳消しにしたと理解している。もともとの働きかけはロックバンドの「U2」というグループのボーカル、ボノボさんが提唱し、それが世界中に広がって大きなうねりとなったとされる。ボノボさんは熱心なキリスト教徒だったのかも知れない。
▼話は長くなったが、この第三の千年紀(ミレニアム)を機会に動き出した壮大な一つの企画を紹介したい。アメリカのとある修道院で始まった企画だが、現代の超一流写本家を集めて、かつての聖書写本のような現代版の写本を制作し、例えば100年後とかの次の世代に残そうという企画である。
▼手法は古代の聖書写本の製作法で、作るのは未来に向けての現代的な写本。画期的な企画だと思った。古代の聖書筆写法にならい、本物の鳥から羽ペンを作り、インクを含ませて羊の皮で作った紙(羊皮紙)に文字をつづっていく。
▼写本が制作された時代の言語はヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語だったわけだが、今回は現代英語を用いた。イラストもふんだんに配置する。しかも現代のセンスでまったく新しく描く。こうした取り組みで制作された現代版写本を印刷したものが、長崎純心大学に寄贈された。
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今週のセンテンス
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第3回目。「行間を」読めは分かるけれど、"to get the most out of anything"が不明。
詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。
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‥次の説教は‥‥
年間第31主日
(ルカ19:1-10)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/10/28(No.323)
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年間第30主日
(ルカ18:9-14)
神よ、私をあなたの平和のために用いてください
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祈るために神殿にやってきた2人の人物をたとえに、イエスは人間の取るべき態度について教えてくださいます。神の前に正しいと認められる態度を、たとえから学びなさいと言いたいのでしょう。
たとえに登場する1人はファリサイ派の人です。彼は自分が、神の前に十分正しいと認められていると考えています。その理由は3つあります。「社会にあって罪人扱いされている仲間ではないこと」「週に二度断食していること」「全収入の十分の一を差し出していること」です。ファリサイ派の人は、個人的にも社会的に見ても、明らかに正しい人間だという自信がありました。
ところが、あとでイエスに指摘されているとおり、ファリサイ派の人は神に正しいと認められていなかったのです。これまた、理由を3つ挙げておきましょう。「神は、どの仲間に入っているかで正しいかどうかを判断しない」「ましてや何を何回したかで正しいかどうかを判断しない」そして極めつけは「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない(マルコ10・18)」ということです。ファリサイ派の人には、義とされる要素が残念ながら何一つありませんでした。
神殿に祈るためにやってきたもう1人の人は徴税人です。彼は、自分が神の前に正しいと言えるものを何一つ持っていませんでした。神の前に並べ立てるものが何もなかったのです。それはある意味で幸いなことでした。何も、神の前に披露するものがなかったので、自分のありのままをさらけ出し、神の憐れみにすがったのでした。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(18・13)。
そうすると実は、ファリサイ派の人も、徴税人も、神の前に正しいと言えるものは何一つなかったということになります。ファリサイ派の人も、徴税人も、本当は何も誇るものがなかったのです。ではどうして2人の祈りはこんなに違ってきたのでしょうか。
それは、本当に神さまのほうを向いて祈っていたかどうかの違いでした。ファリサイ派の人は、立ち上がって「神よ」と唱えていましたが、実は神を向いていたのではなく、周りの人を見回して祈っていたのです。祈りを神に聞いてもらうことよりも、自分で自分の祈りを聞いて満足したかったのです。つまり自己満足の祈りです。
徴税人の祈りはファリサイ派のそれとは全く違っていました。徴税人は遠くに立って、目を天に上げることもしませんでしたが、心はまっすぐに神さまに向かって祈っていたのです。脇目もふらず、神に向かって祈っていたのです。神の前に正しいとされるのは、不器用でもいいから、まっすぐに神さまに心を向けている人たちなのです。矛盾しているようですが、神の前に誇るものが何もない人こそ、神に正しいと認められるのです。
ここで朗読箇所から、祈りの形に注目して2人の違いを考えてみましょう。私たちの祈り方にも大変参考になる点があると思います。
祈りは「祈る人(共同体)」と「神」との対話であるはずです。誰かと比較して自分の正当性を祈りの中で主張する必要はありません。ファリサイ派の人は徴税人と比較しながら祈っていました。そうではなく、徴税人のように誰のことも気にせず祈るべきです。祈りを聞き入れてくださるのは周りにいる誰かではなく神なのですから。
2人の祈りに興味深い違いがあることにも気付きました。ファリサイ派の人は、「神様、わたしは・・・します」と祈っているのですが、徴税人は「神様、わたしを・・・してください」と祈っているのです。もしかしたらこの違いに、義とされるか否かの分かれ目があるのかも知れません。
いくつか言葉を入れてみましょう。
「神様、わたしはあなたを愛します」という祈りと「神様、わたしを神を愛する人にしてください」という祈りとでは、ずいぶん聞こえ方が違います。
同じように、「神様、わたしは謙虚になります」というのと、「神様、わたしを謙虚にしてください」とでは、聞いている神さまにとってはあとの祈り方が断然優れていると感じられるでしょう。
ほかにも、「神様、わたしは約束します」と言い切るのと「神様、わたしを約束に忠実にしてください」とでは求めているものが違ってくるのではないでしょうか。
いくつか当てはめてみましたが、「神様、わたしは・・・します」と祈るのと、「神様、わたしを・・・してください」と祈るのでは、私は後者のような祈りが神に喜ばれるのではないかと感じます。
その典型は、アシジの聖フランシスコの「平和を求める祈り」です。アシジの聖フランシスコは「神よ、わたしをあなたの平和のために用いてください」と祈りました。これは、徴税人の祈りそのものではないでしょうか。
静かに祈るひととき、神と親しく対話するその時に振り返ってみましょう。いつの間にか「神様、わたしは・・・します」と祈っていないでしょうか。祈りが聞き入れられないと感じるとき、むしろ「神様、わたしを・・・してください」と祈ってみてはいかがでしょうか。「神よ、わたしに慰められることよりも慰めることを、理解されることよりも理解することを、愛されることよりも愛することを望ませてください」。
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ちょっとひとやすみ
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▼カトリック教会は西暦2000年を大きな区切りとして意識をして過ごした。たとえば、「贖いの大聖年」という呼び方で、大きな恵みを受ける年になることを世界中に知らせた。具体例としては、2000年のこの1年は、一定の条件が揃えば全免償が与えられた。全免償とは、人間が神に対して果たすべき償いを、すべて免除してもらえるということである。
▼別の例としては、各国に働きかけて、旧約聖書の伝統にのっとり、負債をすべて免除し、自由を取り戻す活動に積極的に参加した。途上国は先進国から多額の債務を担っており、しばしばそれは債務超過、債務不履行の状態になっているのだが、2000年を機会に負債をすべて水に流してほしいとキリスト教指導者たちは先進国指導者たちに働きかけた。
▼結果どうなったかを正確に把握していないが、アメリカのクリントン大統領始め、世界中の先進国指導者たちがこの提案を受け入れ、債務を帳消しにしたと理解している。もともとの働きかけはロックバンドの「U2」というグループのボーカル、ボノボさんが提唱し、それが世界中に広がって大きなうねりとなったとされる。ボノボさんは熱心なキリスト教徒だったのかも知れない。
▼話は長くなったが、この第三の千年紀(ミレニアム)を機会に動き出した壮大な一つの企画を紹介したい。アメリカのとある修道院で始まった企画だが、現代の超一流写本家を集めて、かつての聖書写本のような現代版の写本を制作し、例えば100年後とかの次の世代に残そうという企画である。
▼手法は古代の聖書写本の製作法で、作るのは未来に向けての現代的な写本。画期的な企画だと思った。古代の聖書筆写法にならい、本物の鳥から羽ペンを作り、インクを含ませて羊の皮で作った紙(羊皮紙)に文字をつづっていく。
▼写本が制作された時代の言語はヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語だったわけだが、今回は現代英語を用いた。イラストもふんだんに配置する。しかも現代のセンスでまったく新しく描く。こうした取り組みで制作された現代版写本を印刷したものが、長崎純心大学に寄贈された。
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