こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第5主日(ヨハネ8:1-11)イエスと、真ん中にいた女性が残った

2007-03-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/03/25(No.288)
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四旬節第5主日
(ヨハネ8:1-11)
イエスと、真ん中にいた女性が残った
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今日の福音は、姦通の現場で捕らえられた女性を前にして、律法学者たち・ファリサイ派の人々と、イエスとのあいだで駆け引きが行われます。人々の憎しみの輪の中に投げ出され、恐れおののくこの「罪を犯した女性」の様子を、私たちは十分に想像できます。

この女性は、言い逃れのできない姿でイエスのもとに連れて来られました。女性もそれは覚悟していたでしょう。当時の律法は、姦通の罪を犯した両当事者を石打ちにして、イスラエルの共同体から取り除くように命じていました(申命記22・22)。もう彼女には生き延びる道はないとさえ思えたでしょう。たとえ人々が、掟を文字通りに実行しなかったとしても、すでに姦通の罪で訴えられたこの女性は、「死の淵」で怯えていたのです。

女性が崖っぷちまで追い詰められたその時、イエスの心の思いが明らかにされました。イエスはひとまず、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8・7)と仰って、人々を立ち去らせました。胸に手を当てて正直に考えるなら、誰も、人を罪に定めることはできないのです。もし、それができるとすれば、ただひとり、「罪を犯したことのない」イエスだけが、人を罪に定めることができるのです。

年長者から始まって、一人、また一人と去っていきますが、イエスは最後まで残られました。姦通の罪を犯した女性にとって、最後までイエスがお残りになったそのことだけで、ご自分が罪を犯したことのない方で、人を罪に定めることのできる唯一のお方であることを知らせるに十分でした。

罪を犯した女性は、はじめのうちイエスに何かを期待していたでしょうか?私は、あまり大きな期待は持っていなかったと思います。それは、イエスとこの女性だけが残されたときも、まだ同じ気持ちだったかもしれません。イエスは何も言わないけれども、最後まで残られた。イエスから、自分の犯した罪がどう裁かれるのだろうか。そんな思いで頭はいっぱいだったのではないでしょうか。

イエスは、震えおののいている女性に、想像もつかなかった言葉をかけてくださいました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8・11)。

これは、ただ罪をとがめなかったと言うだけでしょうか?そうではないと思います。彼女は罪の重さで、「死の淵」「崖っぷち」に立っていました。それはもう、いったん死を味わったと同じだったかもしれません。イエスはそこから女性を助け上げて、「いのち」へと連れ戻してくださったのではないでしょうか。「あなたを罪に定める」と、もしもひとこと言えば、彼女はもう助からなかった、そんなぎりぎりのところから、イエスは、神の深いゆるしを味わわせて、死からいのちへと移してくださったのです。

この世の中に、罪がなくなるわけではありません。洗礼を受けたキリスト信者が、罪を犯さないなどということでもありません。だから、一人ひとりは罪を憎んで人を憎まず、みながイエスのおかげで死から命に連れ戻していただいたのだとわきまえて、助け合って生きていくべきなのです。

私たちの身の回りには、姦通の罪を犯す人はそういないかもしれません。ですが、私たちはみな、夫に対して、妻に対して、親に対して子に対して、つながっている教会に対して、最終的には神に対して、裏切ったり、取り返しのつかないことをしてしまうことがあり得るのです。たまたま、人目に付かなかったかもしれません。たまたま、つじつまが合ってその場を逃れたかもしれません。そんな綱渡りをしているうちに、私たちは自分のしたことは忘れてしまい、他人の罪を見て裁いてしまうのです。

イエスは、「死の淵に立たされた罪人」すら、いのちへと呼び戻してくださいました。それは、私たちにとるべき模範を教えてくださっているのです。人々が神の民に心惹かれるとすれば、イエスの模範を一生懸命生活に当てはめようとするカトリック信者の姿を見るときではないでしょうか。罪人を罪に定める場所は、世の中にいくらでもあります。イエスは、公の罪人を前にしてすら、「わたしもあなたを罪に定めない」と仰ったのです。裁くことで人を選り分ける世の中と違う神の愛に満ちた社会が、教会であるはずです。

最後に、姦通の女性に向けた最後のことばを私たちも持ち帰ることにいたしましょう。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。ゆるされて、いのちに連れ戻していただいたことを、わたしたちも携えて社会に出かけましょう。みなが罪を犯すのですから、人を罪に定めるという罪は犯さないようにしましょう。この一週間、「わたしもあなたを罪に定めない」このみことばを通して、イエスを社会に証しすることにいたしましょう。



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ちょっとひとやすみ
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▼ようやく伊王島にもADSL高速電話回線がやってきた。と言っても長崎市本土ではすでに光回線が利用可能なので、ようやくという感じなのだが、これでいくつかの部分でストレスを感じずに済むようになる。
▼一つは、添付ファイルの送信。これまでは3MBほどのファイルを添付して送信するときに、3分かかるか、5分かかるか、そんなことを心配しなければならなかった。これからは10秒もあれば送信できるようになるだろう。
▼二つめは、アップデートファイルの更新。30MBくらいのアップデートファイルを更新する場合は、2時間、場合によっては3時間はパソコンを動かせなかった。他のことに時間を充てればよいのだろうが、なかなかそこまで気の利いた時間管理はできない。せいぜいシャワーに行ってご飯を食べて、忘れるくらいしか対処法がなかった。いまは3分もあれば十分である。
▼三つめは、今まで見ることができなかった映像クリップを、今回初めて開くことができるようになった。それまでは映像を見ようにも、10分の1映像が流れると止まってしまい、また10分の1流れて止まるという調子だった。流れるような映像!車が走っている、バイクが飛んでいる!わけないか。

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こうじ神父絵手紙
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第71回目。伊王島に車を持ち込んだり、島からバイクを持ち出すときの船です。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(ルカ23:1-49)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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四旬節第4主日(ルカ15:1-3,11-32)神は先に、私のもとに走り寄ってくださる

2007-03-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/03/18(No.287)
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四旬節第4主日
(ルカ15:1-3,11-32)
神は先に、私のもとに走り寄ってくださる
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今週の福音朗読は、放蕩息子のたとえです。もしかしたら聖書のたとえ話の中でいちばんよく知られているたとえかも知れません。この朗読箇所を、四旬節という季節に結び付けて特に考えてみましょう。

四旬節、イエス・キリストの受難と復活を準備するこの季節は、回心と悔い改めを促す季節です。先週の説教で、回心は神にきっぱりと向き直ることだと話しました。今日のこの放蕩息子のたとえの中でも、財産を使い果たし、食べるにもいよいよ困った息子が、これまでの生活を悔い改め、父親に向き直る決心をします。この態度が、回心する人の姿です。

毎年四旬節になると、この「放蕩息子のたとえ」は朗読されているはずですが、私たちは父親の息子、兄と弟の二人についてはしばしば話を聞くわけですが、どうしたものか、父親の姿についてはじっくり考えたことがなかったかも知れません。そこで今年は、父親に焦点を絞って考えてみたいと思います。

父親は、これまでの生活がふさわしくなかったことを十分反省した息子をゆるしてあげました。ここでよく考えたいことがあります。父親は、息子が十分反省したことを確認して、息子をゆるしてあげたのでしょうか。私はそうではないような気がしてならないのです。

確かに、弟のほうは遠い国の片隅で、反省の態度を表しています。父のところに行って言う言葉も準備ができました。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(15・18)。息子が反省したから、父親はゆるしてあげたのではないでしょうか。

実際はそうではありません。「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(15・20)のです。まだ息子が反省の言葉を言う前の話です。このたとえ話に出てくる父親は生身の人間ですから、息子の言葉を聞かなければ反省しているのかどうかも分からないはずなのです。

ところが、父親は反省の弁も聞くことなく、先にゆるしてあげたのです。ここに、たとえ話の父親のことをもっとよく学ぶ理由が出てきます。私たちは、十分反省したことを確認してからでないと、なかなか人をゆるしてあげることができません。けれどもこのたとえ話の父親、つまりイエスが示す憐れみ深い神の象徴であるあの父親は、悔い改めを確認してから動くのではなく、先にゆるしを与えるために動いてくださるのです。

この、ゆるすために先に動いてくださる神の姿を、放蕩息子のたとえに登場する父親から学び取りたいのです。息子が十分反省したことを確かめてから「よし、ゆるす」と言うのであれば、父親のほうから走り寄る必要もありません。父親は家の中にいて、息子が平謝りに謝るまで放っておくこともできたでしょう。それなのに父親は、息子が家を飛び出してからいつ帰ってくるかも分からないのにずっと待って、先に走り寄って抱きしめてあげたのです。

私も一度、大変申し訳ないことをして、家に帰り着く前に見つけてもらったことがあります。私は高校卒業してすぐに車の免許を取りに行きました。佐世保の自動車学校が、私の父親も教習を受けた先生のいる学校だったので、1ヶ月間佐世保の親戚の家に下宿して、自動車学校に通い、免許を取ることになったのです。

親戚の家から自動車学校までは結構な距離があって、親戚の家のある程度近くから自動車学校が出している送迎バスに乗せられて学校に行きました。初日は入校式ですから、夕方5時半までいろんな手続きを受け、6時頃に送迎バスに乗って6時半に朝乗せられた場所で降ろしてもらいました。

この日は2月の中旬で、6時半と言えばもうすっかり暗くなっている時間です。私は降ろしてもらった場所から歩き出しましたが、初めての夜道で道が分からなくなり、10分くらい歩いては降ろしてもらったバス停に戻り、また別の方向に10分歩いてはバス停に戻りといったことを何度も繰り返したのです。

そのうちに完全に迷ってしまい、どうにもならなくなって思い付いたたった一つのことは、「自動車学校に戻ってみるかなあ」ということでした。今になって考えると、近くの公衆電話から五島の実家に電話をかけて、親戚の家の電話番号を聞き出し、迷子になりましたと電話をかければ済んだことなのですが、子供だった私はそこまで頭が回らなかったのです。

3時間ほど歩き続けたでしょうか。夜の12時過ぎた頃に親戚のおじさん夫婦が車で私を見つけてくれて、すぐに車に乗せて連れ帰ってもらいました。「寒かったやろう」と心配してくれて、その日のことは何も咎められることはありませんでした。結局学校を卒業して免許を取るまで、けっしてあの時のことを責められたりはしませんでした。

言いたいことはいくらでもあったことでしょう。あんなに心配かけたのだから、ごめんなさいの一言くらいは聞きたかったかも知れません。振り返ると、私はごめんなさいと言ったのかどうか、はっきりしないのです。はっきりしていることは、私が謝る前にすでに、心配して家を飛び出して探してくれ、見つけ出してゆるしてくれたということです。

はっきり分かる形で、私はすべてをゆるしてもらうという体験をしました。あのときの体験は、人がゆるしてもらうというときは、こちらが十分反省したからその報いとしてゆるしてもらうということではなくて、一方的に、何の条件もなしに受け入れてもらうことなのだと分かったのです。

今日、私たちは放蕩息子のたとえを読み、特に父親の姿を考えてみました。弱さの中にある私たちを、神は全面的にゆるしてくださるということです。それも、私の回心が十分であるか不十分であるかに関わりなく、走り寄ってくださいます。

ぜひ、この神の深い憐れみに感謝し、信頼を寄せて毎日を過ごしてほしいと思います。自分の欠点や大事なときに逃げようとする弱さと真剣に向き合いましょう。神の憐れみに信頼を置くならば、私たちは何度でも罪の泥沼から立ち帰る必要があると思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼小教区の黙想会も無事に終えようとしている。去年と同様、引き受けてくれる神父様を探してお願いした。快く引き受けてくれた。いつもは顔を合わせることも少ないので、今回は思いがけず自分にとっても説教師の神父様を知る機会となった。
▼黙想会は夜の部と昼の部に分かれる。夜の部は長崎本土に仕事に出ている人がおもに参加し、昼の部は高齢者の方や夜に仕事をしている漁師の人が参加しているようだ。今年の説教師のことを知らない人もいると思うし、名前を聞いて「知ってる知ってる」と言っていたのに名前違いだったということもあったようだ。新しい風を送り込んでもらい、感謝の気持ちでいっぱいである。
▼ふと思い出して、古書を検索してみた。ここ10年ほどは探すことも思い付かなかったが、時間が経過したのでもしかしたら手放した人もいるかも知れないと思っていた。思った通り、その本が5つの古書店で見つかった。便利なものである。この古書検索システムのおかげで、見つからなかった本をずいぶん手に入れることができた。「日本の古本屋」というサイトなので、皆さんもお試しあれ。
▼「古書」で思い出したが、「古紙」と言えば古新聞、古雑誌。これらを回収する車は現在はとても重要な役割を担っている。世の中何でもリサイクル時代である。ところで、回収車に書かれた文字を見ておやと思ったことがあった。「古紙」ではなく、「故紙」と書いてあったのだ。初めて見たわけではないが、あの漢字を使うのにはそれなりの理由があるのかも知れない。もしも理由を知っている人がいたら、教えてください。この世に生きとし生けるものの、←これは余計でした。

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こうじ神父絵手紙
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第70回目。今年の黙想会の説教師の神父様です。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ8:1-11)
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四旬節第3主日(ルカ13:1-9)さらに自分を神に向けるために

2007-03-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/03/11(No.286)
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四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
さらに自分を神に向けるために
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小教区の黙想会の時期になりました。今日から始まる教会も、来週から始まる教会も、年に一度の大切な修養の場として参加してほしいと思います。そこで黙想会への呼びかけとして、今週の福音朗読を考えてみることにしましょう。

今週の福音朗読には二つの柱があります。そしてこれら二つは、互いに関わりを持っています。第一の柱は、「悔い改め」ということです。それも、2度にわたって繰り返されています。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(13・3,5)。この繰り返しは、それだけ強く念を押しているということです。

悔い改めと言いますが、私は具体的にどんなことをすればよいのでしょうか。それは、悔い改めをどう理解するかということにかかってくると思います。私は「神から遠く離れた生活から、神と関わりを持った生活に向き直ること」と説明したいと思います。

例えば、今日一日仕事をこなし、疲れて帰ってきます。食事をし、テレビを見て、体を休める。おそらく体はそれで疲れが取れ、明日を迎えることができるかも知れません。ところが、一日を終えて眠りにつくときに、わたしと神とのつながりが全くないとしたら、私は問題だと思います。

神に心をあげること。一日の終わりにそのほんのわずかの時間を作ることが、まずは私にとっての悔い改めになるのではないでしょうか。疲れ果てて数を数える間もなく眠るということもあるかも知れません。それでも、私は今日、一瞬でも神さまを思い出しただろうか、この仕事は大変危険です、私を守ってくださいと心で祈っただろうか、そんなことを振り返りながら眠りにつくならば、「神から遠く離れた生活から、神と関わりを持った生活に向き直る」態度を行動に移せるのではないでしょうか。

「神と関わりを持った生活に向き直ること」。これは何も、今まで関わりを持っていなかった人にだけ呼びかけられているものではないと思います。毎日きちんと祈りを唱えたり、隣人愛の実践やこの四旬節の季節であれば何かしらの犠牲を実行しているという人でも、何か苦手な部分があって、神さまを向き合うことを避けているかも知れません。生活のどんなにささいな部分でも神さまと関わりを持たせていると言い切ることはできないと思います。面倒を避けて、適当にごまかしている部分があるのではないでしょうか。しばしば曖昧にして言い逃れようとしていたことや、避けていた部分にも、神との関わりを大切に考えて態度を決めるように、今日イエスは前半で呼びかけてくれているのです。

第二の柱は、「御主人様、今年もこのままにしておいてください」(13・8)というぶどう園の園丁の態度です。ぶどう園の主人から、「さっさと切り倒せ」と言われたときに園丁が示したのは、「憐れみ、いつくしみ」の態度でした。ぶどう園の主人と、その園丁の両方で、「限度を付けないほどのいつくしみ」が示されています。

もともと、ぶどう園の主人は園丁に命令を下すまでの間に相当な忍耐を示しています。ぶどう園の主人はいちじくの実を探しに来ていたわけですが、主人が探しに来ていたのは決していちじくの木が苗木の時にやって来て実がないではないかと言っているのではありません。十分に実が期待できるようになって、それから三年間辛抱していちじくの実を味わいたいと言っているのです。すでに、ぶどう園の主人も寛大な態度を示しています。

そこへ、園丁がさらに猶予を願い出ているのです。「御主人様、今年もこのままにしておいてください」。すでにぶどう園の主人が、人間的に見れば十分と思えるような寛大さを示したのですが、さらに常識では考えられないような、限度を付けないほどの憐れみ、いつくしみが園丁によって加えられています。

ぶどう園の主人と園丁によって引き出されたこのあふれるほどの愛は、最後には私たちを神に向かわせるのです。私たちが誰かに対して、「あなたをかばってあげられるのはここまでだ、もうあなたとこれ以上関わっていられない」と感じるとき、ぶどう園の主人と園丁がいちじくの木に対して示した「大きな憐れみ」を思い出してほしいのです。

ここで求めているのは、「限度を付けないほどの憐れみ、いつくしみ」です。人間の物差しではかる憐れみといつくしみを言っているのではありません。私たちの限度を超えて、その上を行く愛を示すときに、私たちは神に心を挙げることになるのです。

ここまで考えると、二つの柱は、どちらも神に向き直ることを呼びかけているということになります。神に心を上げる時間をすっかり忘れている生活は、もう一度考え直す必要があります。また、人間的にはゆるしがたい出来事や人に向き合わなければならないとき、人間の物差しを越えて愛を示すときに私たちは神に心を挙げることになるのです。

今週の呼びかけをじっくり考えるために、私たちは幸いに黙想会を受けようとしています。これまでの生活に、どこか神に見られたくないと避けてきた部分があるかも知れません。また、これ以上はあなたを受け入れられないと限度を付けていたかも知れません。黙想会はそんな私をもう一度神に向けていくまたとない機会です。さらに心を神に向けるために、また実りある黙想会となるように、このミサの中で恵みを願うことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼ミッションスクールの中学3年生のための1日黙想会を終えてきた。中学生はこちらからのせてあげるとどんどん付いてきてくれる。ある人は高校生の指導がまだしもしやすいと感じているらしいが、私は相手が誰であれ、マイペースでどんどん入り込んでいく。
▼今年は3年生に卒業までのことを振り返って、もしも小学6年生に「わたしたちの中学校においで」と呼びかけることはできますか、という問いかけをしてみた。学校に誇りを持って卒業し、先生を十分尊敬できて、自分たちが卒業生として自覚を持って次に歩み出すなら、きっと母校を推薦できるはずだ。そういう流れで話を進めた。
▼最終的には話の内容を一枚の「生徒募集」のポスターにまとめることで表現させたのだが、実に内容豊かで、想像をはるかに超える出来のいい作品が次々と発表されていた。今年は生徒が本当によく応えてくれた年だったと思う。もちろんこれまでの年もすばらしい生徒に違いないが。
▼ここ数年続けてお世話になっている中学校だが、今年の黙想会を終えて来年は何か変化があるかも知れないという予感があった。中学校に関わっている先生方にも入れ替わりがあり、それはまた自分に対する評価の変化にもつながるだろうし、来年はまた違った体制になるかも知れない。またお世話になることがあれば、その時は自分も新たな気持ちで臨みたい。

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こうじ神父絵手紙
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第69回目。こんな感じで中学3年生に話を進めました。

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四旬節第4主日
(ルカ15:1-3,11-32)
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四旬節第2主日(ルカ9:28b-36)人々の中におられるイエスに耳を傾ける

2007-03-04 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/03/04(No.285)
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四旬節第2主日
(ルカ9:28b-36)
人々の中におられるイエスに耳を傾ける
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今週の朗読から一点に絞って考えてみましょう。雲の中から聞こえた声です。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(9・35)。イエスに聞くこと、イエスにのみ、答えを求めること。これが、今日紹介したいメッセージです。

イエスと山に登ったペトロ、ヨハネ、ヤコブは、直接目で見たこと、その場に居合わせて耳で聞いたことがありますから、尋ねたいことがあればイエスに直接聞くことができました。私たちは時代も場所も離れているので、イエスの声を聞くためには違った方法が必要になってきます。それは、出会う人の中におられるイエスの声を聞くということです。私は、出会う人の中におられるイエスの声を聞くことができるでしょうか。

今の時代にあってイエスの声を聞くには、二つのことが必要です。まず、聞くために、心の中に静けさが必要です。日常のなかで静けさを作り出すことは、今では努力なしではできないことです。だれも観ていないのに、テレビが付けっぱなしになっている家庭も多いことでしょう。そんな中で、寝る前の少しの時間を祈りというかたちで静かに過ごす。これは静けさを作り出すために特に勧められることです。

もう一つの心がけは、「これはイエスが声をかけてくれたのではないだろうか」と考えてみることです。ひとつの例を紹介しておきます。先輩の神父様の体験です。今からもう25年も前に実際に体験したことです。この神父様は、ある日バスに乗ろうとバス停に向かいました。停留所のベンチに、当時の突っ張りだった学生がふんぞり返って座っていました。ズボンは、鳶職の人が履くようなダボダボしたズボン、髪は、当時はやっていたのでしょう、金髪の部分染めをしていました。

この神父様は、部分染めというおしゃれの仕方があることを知らなかったのだそうですが、親切心で、その突っ張り学生に言ったのだそうです。「よお、髪の毛にペンキの付いとるぞ。落としたほうがよかっじゃなかか」。

あとで、この学生と神父様は思いがけない出会いをします。何とこの学生、神父様が司牧しておられる教会の信者だったのです。その子が、日曜日のミサにあずかっているではありませんか。髪はきれいにまっ黒に戻していました。神父様はミサの帰りにこの学生に近寄り、声をかけました。「あの時バス停で会ったのは、あんたやったとね」。

すると学生は、こう答えました。「自分は、あんなダボダボのズボンを履いて、髪を染めて突っ張ることが、格好いいと思っていました。でも神父さんから『ペンキの付いとるぞ』と言われたときに、自分では格好いいと思っていたことが、人から見れば格好良くないのかなあと思って、元に戻したとです。でも、まさかバス停におったおじさんが、神父様とは知りませんでした。あ、おじさんと言ってすみません」。何とも微笑ましい話だと思いませんか。

この話を聞いて、私はこんなことを考えました。この学生は、心の奥底ではイエスの声を聞いたのではないか。この学生の主任神父様が何も知らずに「頭にペンキが付いているよ」と言ったとき、学生はその言葉を表面的に取らず、自分のことを真剣に思ってくれる人がいるんだなと考えたのではないでしょうか。

両親も、この学生のことを真剣に考えていたと思います。けれども、反抗期の子に遠慮して、声をかけられなかったのかも知れません。ところが、反抗期の自分に一歩も引かずに、心の中に届く声をかけてくれる人がいた。それは実際には主任神父様だったのですが、声をかけてもらったのは、反抗期であっても一歩も引かずに心に入ってきてくれるイエスだったのではないかと考えたのだと思います。教会に来て、自分に立ち戻るきっかけをくれたイエスにお礼を言いに来た。来てみたら、そこにバス停で会ったおじさんがミサをしていたわけです。

この学生に、両親さえも遠慮して声をかけてくれなかったのかも知れません。それでも、イエスは私たちの生活の中に入ってきて、誰かを通して声を聞かせてくれます。もちろんそのためには、声を聞き逃さないために心の静けさが必要です。私たちの心に静けさがあって、これはもしかしたらイエスの声だったのではないだろうかという振り返りがあれば、イエス様に聞き従い、イエス様の導きで生活を調えていくことができると思います。それは、司祭、信徒、修道者の区別なく、すべて洗礼を受けた人に同じように求められていることなのです。

「彼に聞け」。聞くことが、話すことよりも何倍も大切なことです。私にイエスが話しかけてくれる。そんな瞬間が、イエスと私たちの間にはあるのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼「うっそー!」ということが3つ。人は当てにならないと他人のことだけ考えていたが、今回は自分が当てにならなくなってきたのだと思い知らされた。「こじか」という子ども向けの読み物に毎月4本原稿を送っているが、締め切りを過ぎてようやく完成したと思ったら編集部から「神父様、今月依頼しているのは5月分の原稿でした。届いたのは、6月号掲載の原稿です・・・」。えー!そんなー。
▼目の不自由な方に声の情報をお届けする「マリア文庫」。毎月15分の宗教コーナーを用意している。その文章の中で2月9,10,11日のの3連休に触れて「土日は忙しいので、せめて月曜日くらいは休もうと」という部分があって、録音したものを聞いてみたら「せめて日曜日くらいは休もうと」と吹き込んでいた。あり得ないと思った。
▼あり得ないと思ったのに、同じ次の録音でもう一度しくじった。電車である高校生とバッタリ会ったのだが、「まさか電車でこうなるとは」という部分を「まさか電話でこうなるとは」と録音していた。ガックリ力が抜けた。
▼ガックリ力が抜けたのを、スイッチを入れ直してやり直すというのはものすごく力が要る。何せ「やったー。書き上げたー」と思った直後から書き直さなければならないのだから、とんでもなくエネルギーが必要になる。うーむ、来月分をうっかり書いてしまったのだから、来月安心だと思えばやり直しもできる。そう心に言い聞かせて、もう一度パソコンモニターとにらめっこだ。

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こうじ神父絵手紙
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第68回目。病院に入院して一度も司祭館を見ていない馬込の信者さんに届けました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ルカ13:1-9)
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