こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

主の昇天(マルコ16:15-20)昇天されたイエスの姿に私たちの模範がある

2006-05-28 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/60528.asx

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週のお説教」
06/05/28(No.241)
‥‥‥†‥‥‥‥
主の昇天
(マルコ16:15-20)
昇天されたイエスの姿に私たちの模範がある
‥‥‥†‥‥‥‥

今日は主の昇天の祭日のミサです。主の昇天は単純に主が父なる神のもとへ昇られたということだけではない、もっと多くのことを考えさせる出来事です。主の昇天を通してどんな点をさらに学ぶことができるのか、思い巡らすことができるのか、いっしょに考えてみることにいたしましょう。

まず、天に昇られたということが意味することの一つは、人となって地上においでになり、救いの計画をすべて完成なさった神の子イエス・キリストが、この世を去る準備がすべて整った、ということです。神の子が人間の体を受け取り、この世にとどまって活動すべきことはすべて成し遂げたということになります。

主の昇天の中で取り上げている点は、私たち人間の置かれている事情とも比べながら考えてみるとよいと思います。まずはイエスが天に上げられたのはすべてを成し遂げたからだといいましたが、当てはめて人間がこの世から上げられるとき、あるいはこの世から取り去られるときは、いつでもすべてを成し遂げたところで取り去られているのでしょうか。

私は違うように思います。イエスが天に上げられていくときはすべてを成し遂げての凱旋ですが、私たち人間がこの世から取り去られるときには、多くの場合やり残したことがあり、また完成できずに終わって迷惑をかけたままになったりするものです。

イエスはすべてを成し遂げ、それも、すべてを完成させてから天に昇っていかれます。その姿は私たち人類に示された道しるべと言ってよいでしょう。誰も十分に真似ることはできませんが、それでも考えてみる価値があるのです。私はこの人生を終えてこの世から取り上げられるときに、すべてを成し遂げてから神に呼ばれていくことができるだろうか。もし不可能だとしたら、これからの人生を私はどのようにして最後を迎えるべきなのだろうか。考えなければならないということです。

次に、イエスが体も含めてすべて天に上げられたことを考えてみましょう。「天に上げられた」といっても、イエスの場合は誰かに上げてもらったという意味ではなくて、天に昇ったということのていねいなな言い方として考える必要があります。イエスは誰の手も必要となさいません。誰からも助けてもらわずに、ご自分で天に昇っていくのです。

さてイエスの体も含むすべてが天に上られたことについて、次のように考えることができるでしょう。イエスについて、すべてが父なる神に受け入れられた、すべてが父なる神の御心にかなったということです。すべて、御父に受け入れられるよいもの、御父の栄光、誉れと認められたので、天に上げられたということです。それも、完全なものとして受け入れられたのです。

この点も、私たち人間のおかれている事情と比べてみましょう。私たちは、努力すれば、神に受け入れられる者となるでしょうが、完全に受け入れられるということはないと思います。どんなに優れた人であっても、たとえばそれは、生きているときから聖人とたたえられるような人物であっても、神に完全に受け入れられる人間はいないと思います。神のあわれみによって、私たちは受け入れてもらえるに過ぎません。

そこでイエスが完全に父なる神に受け入れられたということをどのように理解すればよいのでしょうか。私たちにとって縁遠い話として受け止めるべきでしょうか。私は別の受け止め方をすべきだと思います。つまりイエスが完全に父なる神に受け入れられたのであれば、私たちは神に受け入れられるために、イエスの生き方に一つでも二つでも見習わなければならないということです。

もちろん、イエスの生き方を完全に身につけることはできないけれども、イエスの生き方は確かに神に受け入れられるのだから、一つでも二つでも自分の中に取り込むべきだということです。

そう考えると次のような答えにたどり着けるでしょう。私たちは与えられた人生を全うしなければならず、何かを投げ出したまま人生を終えてはいけないということ、そして、自分の人生を全うしたときに神に受け入れてもらえるように、イエスの生き方を私の生活の中に織り込む工夫をしなければならないということです。この二点を心がけて生きるということが、私たちなりに主の昇天を理解して生きるということにつながるのです。

主の昇天はイエスに与えられた栄光であると同時に、私たちに示されたメッセージでもあります。示された呼びかけ、招きをよく理解して、生活を整えていきましょう。神に受け入れられる人生を送るなら、私たちも天に引き上げてもらえるはずです。私の人生全体を神に受け入れられるものに変えていけるように、今日神の栄光に上げられたキリストに導きを願いましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう」(アモス8・5-6)
▼さすがにここまであくどいことは考えないが、自動二輪の制約が解けるまで長くて待ちきれない。自動二輪で二人乗りするためには免許取得後1年を経過してからでなければ許されない。なんと長いことか。それにしても自分より体重の重い人を乗せたら、シーソーのようになってひっくり返ってしまうが、その辺は十分に気をつけなければならない。
▼どうせ、小型限定の免許では飽き足らず、普通自動二輪の免許を取りにいくわけだが、そうやって排気量の大きなものに乗れるようになっても、自動車専用道路とか高速道路を二人乗りで走るためには免許取得から三年が必要となる。できれば振り落としたい人を後ろに乗せて高速道路を100キロで走りたい。高速を降りたとき後ろに乗せた人がいなくなっていたら・・・もちろん実行はしないけどね。
▼そう言えば、高速道路とかで便利なETCは、バイクのためにこそ普及させてほしいアイテムだと思う。バイクに乗るときに皮の手袋を装着するが、この状態で財布を開いてコインを取り出すのは至難の業。そうなると手袋をはずしてお金を払い、また手袋を装着してゲートを出る、それまでのうちに後続の車にクラクションの一つや二つ、きっと鳴らされるに違いない。
▼聞くところによるとETCをかつてのハイウェイカードのように提示すれば支払いが済むという話だが、これだとかなり後ろにも気を使わずに済むかもしれない。高速でもしも出会ったら、クラクション鳴らさないでね。

‥‥‥†‥‥‥
こうじ神父絵手紙
‥‥‥†‥‥‥
第27回目。ホームページ制作三種の神器を紹介します。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)イエスは「わたしの愛にとどまりなさい」と招きます

2006-05-21 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/60521.asx

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週のお説教」
06/05/21(No.240)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ15:9-17)
イエスは「わたしの愛にとどまりなさい」と招きます
‥‥‥†‥‥‥‥

5月17日、中田神父の大叔父さんになる中田武次郎神父様が91歳でなくなりました。33歳で戦争から帰り、その後7年間の神学校生活を経て40歳で司祭になった方です。神学生の弟さんがいましたが、その弟さんは戦地で命を落としていました。戦争が終われば神学校に復帰して司祭になってくれるものと母親は期待しておりましたが希望が絶たれ、それではと力を落とす母親を喜ばせるために神学校に入ったと聞きました。

戦争が終わって、本来なら出征前に勤めていた役場に戻れることになっていたのに、神学校に入り直すことを決心した話に、今日のイエスの招きがちょうど当てはまりました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15章13節)。

弟さんは友ではないにしても、信頼できる相手、互いに心を打ち明けることのできる相手ですから、イエスのたとえにそのまま当てはめて良いと思います。まさに武次郎神父様は、戦地で散っていった弟のために、普通の将来を捨てて弟が目指していたことのために命を捧げたのでした。

本来であれば、何もかもなくなった苦しい時代にまず必要なことは、生活していくための土台を作ることだったはずです。何かの仕事を見つけたり、お金になることを思いついたり、とにかく食べていけるように、まずは今を生き抜くことが、普通であれば第一に考えるべき事ではないでしょうか。

ですから戦争から帰ってきて神学校に入る決意をしたというのは、普通には考えつかないことだと思います。たとえ神学生であった弟が戦死したからといって、自分が神学校に行けば親はどうなるのか、働きがない自分への仕送りは誰に面倒を見てもらうのか、考えれば二の足を踏む、断念するだろうと思うのです。

けれども、武次郎神父様は自分が今ためらってしまえば、ただでさえ33歳から神学校に入って司祭になるまでに一体何年かかって何歳になるのだろうかと考えたとき、迷う暇はなかったのだと思います。それ以上に、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というイエスの言葉が、武次郎神父様を後押ししていたのではないかなと思いました。

たしかに武次郎神父様はイエスの言葉を生きたわけですが、それは見える部分だけのことではなかったと思います。見える部分というのは、弟さんが果たせなかったことを自分が代わりに達成するということですが、この出来事の中には、もっと深いイエスとのつながりがあったのではないでしょうか。

イエスは、「わたしの愛にとどまりなさい」と招きました。この招きに忠実に答えること、このイエスの招きに最大限協力する道が、神学校に行き、司祭になるという決断だったと思うのです。武次郎神父様はビルマ(現在のミャンマー)で終戦を迎えました。戦争は終わったけれども一年間は現地の捕虜収容所で強制労働をさせられたそうです。

どんな苦しい目にあったか分かりません。信仰を捨ててしまうような誘惑が起こったとしても不思議ではありません。それなのに、弟さんのきっかけがあったとは言え、司祭への道を歩む決意をしたのは、イエスの愛にとどまるとの思いがどんな困難をも乗り越えさせたという体験があったからではないでしょうか。

しかも武次郎神父様の神学校行きは、もう一つの働きを含んでいたと思うのです。それは、弟の思い、自分の夢を果たせなかった弟にも、イエスの愛にとどまることを叶えさせてあげたい、自分が神学校に行って目標にたどり着くことで、弟の分もイエスの愛にとどまることになると考えていたのではないでしょうか。

どんなに困難な時代であっても、だれかがより強くイエスの愛にとどまる者にならなければ、家族は本当の意味での幸せを得られない、誰かが友のために命を捨ててイエスが教えるまことの愛に生きる者とならなければと考え、神学校入りを決意したのではないでしょうか。本人の思いを十分に伝えることはとうていできませんが、混乱から立ち直ろうとする時代に神と人間がしっかりつながって生きるために、神と人との仲介者となるべく武次郎神父様は導かれたのだと思います。

もちろん、すべての人が神学校に入るわけではありません。そういうことを言いたいのではなくて、私が今生きている場所でイエスの愛にとどまって生きるんだという思いを忘れて欲しくないということです。

多くの人が掟を守り、友のために自分の身を削って、イエスの愛にとどまろうとしています。ですが、自分が今あるのはイエスが私たちのために命を投げ出してくださったおかげなのに、そのことを意識せず、まるで私の力で今日も明日も生きているかのように暮らす人がいる。決してそうであってはいけないのです。

せめて、自分からイエスとのつながりを断ち切るような生き方はして欲しくありません。「わたしの愛にとどまりなさい」という呼びかけを、適当に聞き流すのではなく、私は生活のどの部分で、イエスの愛にとどまって生きているのだろうか、時々ふり返りながら生活を整えていきましょう。

イエスは「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と仰います。イエスとの親しさに常にとどまっていることができるよう、ミサの中で願い求めることにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼うーん、どうやら母の日だったようだが、小型のミュージックプレーヤーに説教を238回分録音してプレゼント。それでおしまい。でもそんな話を先週書こうとしていたのではない。おそらく(と言っているところが頼りないが)聖書講座の話をしようとしていたのではないだろうか。
▼聖書講座の勝手な予想では、たいていがシスターのずらっと並んだ「社交倶楽部」のような場で話をするものだと思っていたわけです。シスターなら受けそうなダジャレも用意しての講義開始だったのですが、3分ほどしてとある教会の主任神父様が生徒の席に着席して私の講義を聴き始めるではありませんか。
▼「みなさん今週から詩篇の『賛美』のグループについて話します。その前に鉛筆を見ていて気が付きました。鉛筆は人間が作った物ですが、いろんな濃さの物がありまして、HB、B、2Bとかあります。3Bなんていうのがあれば『賛美』につながるものとして買ってこようと思ったんですが残念ですねぇ。ありませんでした。
▼でも、シャープペンの芯を見ていたら、ありましたよ3Bが。ほーら。やっぱり『賛美』も『3B』も、どちらも人間が作った物なんですねぇ。」「そんな話はナンセンス!もっと準備をしっかりしなさい!」とはっきりものを仰りそうな先輩が聴講していたので、ここまでのダジャレは飲み込んで、とうとう最後まで話すことはありませんでした。

‥‥‥†‥‥‥
こうじ神父絵手紙
‥‥‥†‥‥‥
第26回目。雲仙殉教祭に行くので、現地で何かを見つけてきます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の昇天
(マルコ16:15-20)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)枝を栄えさせる幹が何より大事です

2006-05-14 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/60514.asx

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週のお説教」
06/05/14(No.239)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ15:1-8)
枝を栄えさせる幹が何より大事です
‥‥‥†‥‥‥‥

母方の祖父母がまだ元気だったときのことです。末っ子にたった一人の妹、つまり祖父母にとっての女の子の孫が生まれたとき、祖父と一緒に杉の木をたくさん植えに行った記憶があります。確かにその時期だったという確信はありませんが、そうではなかったかなあと思っています。

あのころの習慣だったのでしょうか、木を植えて子や孫が成長したときに、植林した木は家財道具か何かに使われるのだと聞きました。実際にはどうなったのか分かりませんが、植林したあとも時々その場所に行って下草を払い、ある程度伸びてくれば枝打ちをしに行った覚えがあります。

当時の印象は、「林業の仕事には絶対に就かないぞ」ということしか感じませんでした。わざわざ遠い山の奥まで道具を担いで登って行って、汗だくになって下草を払い、高くなった杉の木によじ登って枝打ちをします。こんなに辛い仕事は、まっぴらごめんだと思ったのでした。

林業は植林してから何十年も先を思い描いて仕事をする気の遠くなるような作業の連続です。それでも、枝打ちの作業をしなければ木はまっすぐに伸びないし、節だらけの価値のない木になってしまいます。下草を払わなければ、木は決して大きくなりません。地道な作業ですが、決しておろそかにはできないことだったのです。当時子供だった私には理解できないことでした。

そうした並はずれた努力の結果育った木は、どれほど価値があることでしょう。今でこそ海外の輸入材に押されて、日本では木を育てても手間暇がかかりすぎて割に合わないと言われていますが、本当に材料を知っている人なら、国産の木材は海外のものに絶対に負けないと思っています。

今、林業を例に少し話しましたが、杉の木は多くの場合幹である木が大事なのであって、枝は木が立派になるまで絶えず払い落とされていくのです。ここには、イエスがたとえに話した、ぶどうの木と枝、イエスにつながっていることの大切さが私たちに身近な形で描かれているのではないでしょうか。ぶどうを栽培している人は私たちの中にほとんどいません。むしろ、木を植えた経験のある人のほうが、たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

イエスが話したぶどうの木にも通じることですが、枝にどれだけ注意を向けても、幹である木を大切に育てなければ、実をつけることはできないし、植林した木であれば努力は無駄になってしまいます。幹である木が、どれほど大切であるかということをここでよくよく知る必要があります。幹に全神経を注ぐことが、結果の善し悪しを左右するということです。

イエスはぶどうの木で、幹が大切であることを言い聞かせるほかにも、幹である木とつながっていることがどれほど大切であるかも強調します。植林した木も、丸坊主ではいけないわけです。太陽の恩恵を受けるために、いちばん高いところには枝を残しています。残しておくべき枝は、幹としっかりつながって、葉を茂らせる枝でなければなりません。ぶどうの木も、どの枝を残すべきかよく見極めて剪定し、つながっている枝には豊かな実りを期待するのです。残すべき枝には、当然幹である木にしっかりつながっていることが期待されています。

今日朗読したたとえ話でイエスが伝えようとしていることは二つにまとめられるでしょう。一つは、ぶどうの木であるイエスが枝である私たちにとってどれほど大切であるかということ、もう一つは、この大切なイエスに私たちがつながっていなければならないということです。枝であるわたしが、よりどころとすべき幹であるイエスはどのような方であるか、もっともっと真剣に学ぶ必要があります。そして、そのイエスにいっときも離れずにつながっていることを心がけなければならないということです。

一つ目のイエスそのお方がどれほど大切であるかを考えるために、今日起こった一つの出来事を例に話したいと思います。今週高島教会に来るときに、二つのものを忘れずに持っていこうとずっと心に留めていました。一つは、司祭館に置いているコピー機のトナーという部品です。四月の初めから頭にあったことでしたが、今週こそはと思って持ってきました。

もう一つは、絵はがきです。今回高島教会も絵はがきの中に含めて10枚組でセットを組みました。高島教会の皆さんにいちばん早く届けようと思って、忘れずに持ってきたわけです。ただし、この二つを忘れないようにと頭を使った結果、この日私は携帯電話を忘れてきたのです。

ご存じないかも知れませんが、高島教会の司祭館は、昨年電話を取り外しました。一年間のうちに、何回かしか電話は使用されていなかったからです。しかも、中田神父のほうから電話をかけたことはこの2年で一度もありません。何回か電話がかかってきただけでしたので、こんな状態では電話は必要ありません、携帯電話があれば用事は済みますということで、話し合って電話は取り外したのです。

そういうわけですから、反対に携帯電話は絶対に持ち歩かなければなりません。いざというときの命綱ですし、中田神父が伊王島に連絡を取るときにもどうしても必要です。それなのに、それほど大事だというのに、忘れてきたのです。携帯電話でできるはずの用事が三時間ほどストップして、両手をもぎ取られているような不自由さを感じました。

現代にあっては、もしかしたら携帯電話がぶどうの木のような意味を持っているかも知れません。携帯電話がどれほど便利で重宝するか、ほとんどの人が痛いほど分かっています。電話そのものは大変便利ですが、それを肌身離さず持っていなければ全く用をなさないことも事実です。携帯電話と所有者とが離ればなれになっていては、意味がないのです。

こうして、現代の私たちにもぶどうの木であるイエスそのものがどれほど大切であるか、イエスそのお方について十分に知っておくことがまずは大切であることが分かってきます。イエスは私たちの救いのために死んで復活することを喜んで選んでくださった方です。イエスご自身のすばらしさは、たとえ私たちが知ろうと努力しなかったとしてもそのすばらしさを失いませんが、私たちがよく学び、イエスから決して離れないようにすることでもっと意味のあるものになるのです。

では二つ目の問題である、どのようにして幹であるイエスと枝である私たちはつながって暮らすことができるだろうかということです。さっきの携帯電話の話で言えば、伊王島を出発する前に一度でも携帯電話を使っていれば、高島に来るときに忘れたりはしなかったことでしょう。残念ながら、出発前の時間には携帯電話を使いませんでした。このちょっとの差で、高島に着いてからは何とも心許ない、誰からの連絡ももらえないしこちらからも連絡できないもどかしい時間を過ごしました。

この経験から話したいのですが、イエスとつながっているためには、時々、イエスの名を呼び求めればよいのではないでしょうか。これから食事をしようかというとき、大切な会議や仕事の前に、何気ないときでも、ふっと空を見上げたり自分をふり返ったりしたときにイエス・キリストを思い浮かべるなら、私たちは絶えずぶどうの木であるイエスにつながっていることができるのではないでしょうか。

何も教会に足を運んだときだけに制限する必要はないと思います。教会の中だけにイエスと私との絆を閉じこめる必要はありません。どうすればいいのかなあとふと思ったときに、「イエス様、どうすればいいですか」と思いを向ける、声をかけるのです。そんな場面を一日のうち何度か持つようにすれば、生活の中で常にイエスとつながっていられるのではないでしょうか。

イエスとつながって生活していく何より身近な方法は、祈りを唱えることです。5月は聖母月です。どうぞ教会で、家庭で、ロザリオの祈りを唱えてみてください。また朝晩の祈りを通して、イエスに心を上げる時間を確実に用意しましょう。

以前話したことがあると思いますが、指定暴力団の組織に足を入れていた人たちがイエスを堂々と証ししているという実例を話したことがあると思います。そこには彼らの妻たちの切実な祈りがあったとされています。たとえば次のような祈りでした。「イエス様、この人は今からこのコップについだ水を飲みます。この水を飲むときに、イエス様に背くような仕事から一日でも早く足を洗おうと思うようにしてください」。

または、「イエス様、わたしの夫は浮気はしていないといつも言い張っています。でも着ている物を洗濯していると絶対嘘をついています。今わたしが洗濯している物を着たらもう二度と浮気をしないように、イエス様あの人を導いてください」。どれくらいせっぱ詰まった祈りであったか、何となく伝わるのではないでしょうか。夫にコップ一杯の水を渡すとき、着替えの洗濯物を渡すとき、そのたびに妻が祈っていたという話は、イエスにいつもつながって生きるということを身近に考えさせるのではないでしょうか。

イエスとつながって生活を組み立てていく知恵を願い求めましょう。イエスはほかの誰とも比べることのできないほど私たちの生活に関わりが必要な方です。また私たちの必要に誰よりも答えてくれる方です。人生という一回限りのチャンスに、豊かなぶどうの実をつけるためにも、イエスとのつながりを絶やさないようにしたいものです。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼先週は「あ、この内容を来週のちょっとひとやすみに書こう」とか思っていたのに、その場になると思い出せないものですね。74歳になる司祭館の賄いさんが、「最近忘れたりすることがあるので、メモを取っておかなきゃ」と言っていたようでしたが、74歳でしたら少しくらい忘れたほうが、かわいいかもしれませんよ。
▼いったい何を書こうとしていたのか。よく分からないが今浮かんだことをつらつらと。大型商業施設に立ち寄ったときのこと、いろんなバイクが駐輪場に並んでいるのを眺めていると、明らかに定年後と分かる一人の男性が駆っているバイクが進入してきた。そのバイクはライダーに似合わずピカピカの大型車で、おろしたてといった感じだった。
▼誰がどんなバイクに乗ろうが勝手だが、思わず「すげぇ」と思い、駐輪後にはしげしげと眺めてしまった。最近駐輪場では品定めするように眺めて回ることが多いので、そのうちに職務質問を受けたりして。職業は?何と答える?
▼ここまでの記事を書くまでに2度居眠りしてしまった。書き始めたのは午後9時だったのに、書き終わったのは11時40分を過ぎていた。相当お疲れだ。明日は明日で総会が控えており、まだ配信が終わったからと言ってすぐに眠れるわけではない。顔を洗って、もう少し頑張るか。ところでいったい何を書く予定だったのだろう?

‥‥‥†‥‥‥
こうじ神父絵手紙
‥‥‥†‥‥‥
第25回目。はっきりした予定はありません。思いついたものをあとで書きます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ15:9-17)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活節第4主日(ヨハネ10:11-18)聖体に養われる者は与え尽くす愛を深く学ぶ

2006-05-07 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/60507.asx

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週のお説教」
06/05/07(No.238)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:11-18)
聖体に養われる者は与え尽くす愛を深く学ぶ
‥‥‥†‥‥‥‥

ローマの殉教物語の中に、少年タルチジウスについての物語があります。当時ローマは皇帝による迫害が公然と行われていた時期でしたが、イエス・キリストを信じる人々は命がけで自分たちの信仰を守り通していました。

迫害は、たとえば教会の指導者を公衆の面前に引っ張り出して、野獣のえさにしたり、馬につないで真っ二つに引き裂いたりといった過酷なものでした。それでも教会の指導者、たとえばアンチオキアの司教聖イグナチオなどは、自分が野獣にかみ砕かれ、神のための小麦となることを切に望むとまで仰って殉教していったのでした。

そんな中で起こった殉教の物語ですが、ある共同体の中で礼拝に参加できない人々に御聖体を運んであげなければならなくなったのですが、緊迫した中で司祭に御聖体を運ばせるとあきらかに迫害者たちの目に留まり、ミサをささげる人がいなくなってしまうという問題が持ち上がりました。そうはいっても遠く離れた兄弟たちに御聖体を運んであげたい、司祭は頭を悩ませていたのでした。

そんなとき、少年タルチジウスがみずから志願して聖体を運び、離れている兄弟に届けたいと申し出ます。司祭は言いました。「タルチジウスよ、おまえの心からの願いはすばらしい。だがしかし、今は迫害の時代なのだ。少年であっても安全であるという保証はどこにもない。」

そこでタルチジウスは言いました。「司祭様、どうぞわたしにその務めをお任せください。わたしは少年ですが、まさかこんな少年に御聖体を運ばせているとは、迫害する者たちも考えはしないでしょう。もし見つかったとしても、わたしは命を捧げる覚悟ができております。」司祭は少年を祝福して、どうか無事に帰ってくることができるようにと祈ってから少年を送り出しました。

少年は服の内側に御聖体を大事にしまって、急いで御聖体を待っている兄弟たちのところへ向かいました。ところが、乱暴をはたらく少年グループと途中で出会ってしまったのです。この少年グループはさっそくタルチジウス少年に声をかけ、道をふさぎました。タルチジウス少年が何かを大事そうに胸に隠し持っていることに気づき、それを見せるようにしきりにけしかけます。それでもタルチジウスは関わりを持たないようにして去っていこうとしましたが、彼らの暴力を受け、その場で倒れ、命を落としてしまうのでした。

タルチジウス少年が乱暴を受けて命を落としたことが伝わり、キリスト信者たちは急いで彼を見つけに走りました。タルチジウスは命がけで、胸にしまった御聖体を守り通したのです。御聖体を守るために自分の命を投げ出した少年の勇気ある行動は、その後21世紀になっても語り継がれています。

本題に入りましょう。イエス様は良い羊飼いで、羊のために命を捨てると断言します。羊飼いにとって羊は愛すべき物です。愛するもののためではあっても命を捨てるにはよほどの事情がなければならないはずです。どのような理由があってのことなのでしょうか。

人が、愛するもののために命を捨てるには、次のような理由でなければ無理だろうと考えます。それは、「自分の愛するものの中に、命のすべてを見つけたから」「愛する対象(愛する相手)を、命を捧げても惜しくない」と思っているからではないでしょうか。羊飼いにとっての羊は、命を注いで育ててきたわけですから、それは命を捨てても悔いはないことでしょう。深く、命を注いだもののためなら、たとえ自分は命を失っても、注いだものの中に私が生き続けるからです。

先に話したタルチジウス少年のことを思い出しましょう。命を落とすまで御聖体を守ろうと思ったのは、自分にとって命そのものと同じくらい御聖体は大切なのだと信じ切っていたからです。自分の命を養い、支えているのは、ほかでもない、今この胸に大切に抱えている御聖体なのだと、固く信じていたからこそできた行動なのです。

御聖体は愛の形見と言われます。命の与え主、人間の造り主である神が、造られた人間のためにご自分の命を与えてくださった姿だからです。そこまで私たちを愛して、御聖体のうちにすべてを注いで下さったということを、タルチジウス少年はよく知っていたし、私たちも考えなければならないと思います。

そこから考えを広げて、御聖体に養われている家族、御聖体に養われている夫婦は互いに深く愛し合うきっかけが与えられています。御聖体をいただく私たちは、造り主である神の計り知れない愛の注ぎを受けているからです。神の愛が注がれている者同士ですから、身近なこの人を命を捨てるほどに愛していこう。そのように考えてみてはいかがでしょうか。

結婚している配偶者、また、親が子供を深く慈しむ、仕事の中で弱い立場の人をまごころ尽くして仕える。命を注ぎ、最後の一滴まで注ぐことは、愛する羊のために命を投げ出した羊飼いイエスを最高に学ぶ生き方だと思います。

そこで一つ忘れてはならないことがあります。自分が向き合っているその対象は、命を注ぎ尽くすほどの相手なのだろうか、見極めが必要かも知れません。本当に命を懸けて尽くす相手かどうかは、物差しを使って計ってみましょう。どんな物差しでしょうか。それは、相手の中にイエス様を見つけることができるかどうか、という物差しです。

趣味。自慢するかのように自分は命を懸けていると言い張る人もいるでしょう。けれども趣味の中に、イエス様を見つけて、命を注ぎ尽くすことなどできるのでしょうか。

財産、名誉、地位、健康。もしあなたが命を注いでいるものが、イエス様のかけらさえ見えないもの、相手であれば、もしかしたら命を捨てる覚悟は無駄になってしまうかも知れません。家庭には、心がければイエス様を見いだすことができます。夫婦のあいだには、イエス様が絆としてとどまって下さいます。

イエス様を見いだし、与え尽くす愛を学ぶ場を神様は一人ひとりにきっと用意しておられるはずです。身近なところでは、御聖体に養われている私たちの集いは、与え尽くす愛を学ぶ格好の場所です。それぞれが、与え尽くす愛を学ぶ場所に早くたどり着けるように、ミサの中で恵みを願っていくことにいたしましょう。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼一つ前に赴任していた教会の葬式に出ることにした。転任直前に洗礼を授けた成人の女性である。何度も死線を乗り越えて洗礼の恵みにあずかり、健康であればまだまだ生きられたであろう残りの時間を手放して神のもとへ旅だった。
▼洗礼名はマリア。洗礼名の話を切り出したときに彼女は疑いもなく「クリスマスに洗礼を受けるのだから、洗礼名はマリア以外考えられません」ときっぱり言った。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」というイエスの言葉がはっきり聞こえた思いがした。
▼巡回教会で重篤な病人が出たので月曜日にでも見舞いに行こうかなと思っていたところ、「月曜日はお忘れではないですよね。ハンセン病の療養所を訪問する日ですよ」と釘を刺された。見舞いを予定していた方には申し訳ないが、翌日に予定を組み直そうと思う。
▼今週は聖書講座の前半が木曜日に組まれている。ずいぶん前から頭に引っかかっていたので、この日に向けてすべての日程を調整していたのだが、今日一日ですべてにリセットがかかった。
▼どんなに人間が計画を立てようとも、神がお決めになった計画にはあらがえない。すべては神が用意した不思議な連関の中で動いているのである。運命論ではなく、こんなにすべての事態を一つの入れ物の中に納めることができるのは、まさに神業としか言いようがない。

‥‥‥†‥‥‥
こうじ神父絵手紙
‥‥‥†‥‥‥
第24回目。箱物がうまく描けるようになれば、さらに上達するそうです。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ15:1-8)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする