こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第5主日(ヨハネ13:31-33a,34-35)今や人の子は栄光を受けた

2016-04-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/04/24(No.825)
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復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
今や人の子は栄光を受けた
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「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」(13・31)事実はこれとは正反対の出来事が起ころうとしているのに、イエスはあえて「栄光を受ける時が来た」と言われました。イエスの心の内を、探ってみることにしましょう。

日曜日のミサに用いる「聖書と典礼」を大きなものに取り換えることにしました。典礼委員会の話し合いに出席したとき、「通常の大きさの聖書と典礼は、人によっては文字が小さくて使われていない節がある」と報告を受けました。聞けば、聖書朗読の分だけ大型版が用意されていて、会衆の皆さんはすべて通常版だったそうです。

150部も購入し続けていたのに、文字が小さいからという理由で最初から敬遠されていたとしたら、実にもったいない話です。そこで、大きいものならばきっと手に取ってくれるだろうと思いまして、主任司祭の一存ですべて大型版に切り替えることにしました。

知っておいてほしいことがあります。費用の出どころです。クイズを出しましょう。「聖書と典礼」の費用は、どこから捻出されているでしょうか。次の3つから選んでください。(1)皆さんの日曜日のミサの賽銭から(2)皆さんの日曜日のミサの賽銭から(3)皆さんの日曜日のミサの賽銭から。どれだと思いますか?

(しばらくして)皆さん正解です。問題はここからです。大型版は便利ですが、通常版の聖書と典礼と、大型版の値段が同じわけではない。慎み深い中田神父はこれ以上言えません。中田神父が言えるのはここまでが限界です。あとは皆さんが考えてください。

福音朗読に戻りましょう。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」(13・31)実際の場面はユダが最後の晩さんの席から出て行ったあとにこう言われたのでした。つまりイエスは、ユダが手引きした人たちによって捕らえられ、十字架上での最期を遂げるとはっきり覚悟して、「今や、人の子は栄光を受けた」と言われたのです。なぜ、裏切られ、苦しみを受けることになるのに「栄光を受けた」と言うことができるのでしょうか。

ここでも、次の3つから選んでください。(1)イエスは御父の望みを完全に果たすことを「栄光」と考えていたから(2)イエスは御父の望みを完全に果たすことを「栄光」と考えていたから(3)イエスは御父の望みを完全に果たすことを「栄光」と考えていたから。何番だと思いますか?

まぁ何番でもいいのですが、イエスはどのような運命をたどるにせよ、御父の望みを完全に果たすことを「栄光」と受けとめていたのです。たとえそれが、人類の救いのために十字架上で命をささげてほしいという願いであっても、御父の望みであれば完全に果たそうと受け入れてくださったのです。イエスの完全な奉献は確かに御父にとって栄光であり、御父は御子イエスに栄光をお与えになりました。

またイエスはこうも言われました。「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」(13・32)目の前で、ユダが席を立って出て行ったのです。それでも、御父は御子に「すぐに」栄光をお与えになるというのです。

これはわたしたちにも何かを考えさせます。父なる神は、ご自分の栄光をすぐにお与えになるお方です。決して遅らせることはないお方です。わたしたちはそれを、どれくらい確信を持っているでしょうか。

誰かにお願いごとを持って行ったら、冷たくあしらわれ、断られた。心を込めて奉仕しているのに、感謝の言葉一つもかけられなかった。許しがたい状況や、裏切られた気分になることは日常あちこちで見られることでしょう。

しかし、御父はすぐに栄光を与えてくださるというのです。ということは、わたしたちは御子イエス・キリストと同じように、すぐに栄光を与えてもらっているのではないでしょうか。たとえ、親切を無にされたとしても、それは御父がわたしたちに冷たい仕打ちをしているのではなくて、すでに栄光の始まりなのではないでしょうか。

イエス・キリストはユダが晩さんの席を立って出て行った時すでに栄光を受けたとおっしゃっています。わたしたちもそうなのではないでしょうか。わたしたちの隣人愛が無駄に終わったと感じるとき、それはすでに神の栄光を映し出しているのです。神は返ってこなかった隣人愛の報いに代えて、ご自身の栄光を与えてくれるのです。ですから何も心配することはないのです。

御父は御子イエス・キリストにすぐに栄光を与えてくださったように、わたしたちにも栄光を与えてくださるのだと思います。あとはわたしたちの生き方が問題です。わたしたちは毎日の生活で、御父の栄光を映す鏡として生きているのですが、わたしという鏡は、御父の栄光を曇りなく映す鏡になっているでしょうか。報われなかったから、裏切られたからと言って不平不満に陥り、御父の栄光を映すはずのわたしの心は曇り、輝きを失っているのではないでしょうか。

「わたしは今、御父の栄光を受けた。」毎日の生活で、このように神に感謝できる人は幸いです。それは華々しい栄光ばかりではありません。裏切ろうとしているユダが晩さんの席を立ち、出て行ったように、信じていた人に裏切られ、惨めな思いをする形かも知れません。それでもわたしたちは、御父がすぐに栄光を与えてくださる方であると信じ、「わたしは今、御父の栄光を受けた」と声を上げたいのです。

生活のすべてに、父なる神は栄光を与えることがおできになります。「こんな思いまでしなければならないのか。」もしもそのような体験をされたのでしたら、「わたしは御父から栄光を受けた」と胸を張って答えましょう。こうしてわたしたちの信仰は灼熱の火で精錬され、清められるのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ14:23-29)
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ちょっとひとやすみ
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▼教会学校小学1年生の代用教員として土曜日午後1時半の要理を受け持った。はじまりは一週間前で、保育園に務めるシスターが「たびら春祭り」に太鼓の演奏を保育園から出すということで、午後からの教会学校と重なり、要理はどうしましょうかと相談されたのがきっかけだ。
▼「ピンチヒッターしてもかまわないよ。」二つ返事で受けた。シスターは大喜びだ。いよいよ当日になってみると、雨が降り、太鼓の皮が痛むので演奏は中止になるらしかった。ただし「神父さま、きっと子供たちのけいこはしたいでしょ?わたしは今日は予定通りお休みさせていただきます」とちゃっかりけいこは回ってきた。
▼引っ越すと必ず体験することが3つあって、1つは町内放送がまだ慣れないせいか聞き取れないこと。2つめが個人で引いている固定電話に間違い電話がかかってくること。3つめが寝坊して迷惑をかけることだが、1つめと2つめはちゃんと経験したが、3つめはないなと高をくくっていた。なぜなら今回赴任した教会には巡回教会がなく、寝坊してもほぼ被害がないからだ。
▼ところがそこが落とし穴だった。今週の説教と午前中格闘して昼食後、ウトウトしてきたのでつい居眠りをしてしまった。気が付いたら午後1時35分ではないか。慌てて信徒会館に行ってみると、代用教員のルーズさに呆れ果てた小学1年生が玄関で待ち構えていた。
▼「はやく~。」遅れたことを咎めることもなく、快く迎えてくれた子供たちに救われた。予定していたことをこなしたが45分の持ち時間のうち15分で終わってしまい、もしも時間が余ったらと思って用意していた「聖書かるた」を目一杯やって、こちらがメインのような感じになってしまった。

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新企画今週の1枚
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第432回目。24年前の叙階式カードを配ろうとして全然足りなかったのでコピー。

ホームページもご覧ください。
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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
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† 神に感謝 †
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復活節第4主日(ヨハネ10:27-30)イエスは命がけで教会家族を守る

2016-04-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/04/17(No.824)
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復活節第4主日
(ヨハネ10:27-30)
イエスは命がけで教会家族を守る
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「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」(10・27)イエスの言葉は自信に満ち、確信を持って語られています。わたしたちもイエスの自信に満ちた言葉に少しでも答えることができるように、御言葉に耳を傾けましょう。

ミサの初めにも祈りを呼びかけましたが、このたびの熊本の地震は、大震災と呼べるような被害になってきました。わたしたちはまず、祈りによって災害に遭った方々のために手を差し伸べたいと思います。

さてわたしは、説教する時間は10分で十分、12分で十二分と思っています。ちなみに先週は11分7秒でした。それと皆さんにお断りしておかなければなりませんが、わたしは毎度ミサの初めから終わりまでを録音しています。それはミサにどうしてもあずかれない病人やその看護をしている人、様々な事情を抱えて参加できない人のためです。

また説教の原稿も、インターネット上のブログやホームページにアップしたり、メルマガで配信したりしています。より多くの人が、ミサの説教を目にし、手に取ることができるようにするためです。長崎教区を一歩出ると、月に一度だけ司祭が巡回してミサを行い、ほかの日曜日は自分たちで聖書を読み、訓練を受けた奉仕者が月に一度のミサで用意された御聖体を授ける教会があるのです。正式な説教もありません。

そんなある教会で、実はわたしの説教が印刷され、司祭の来ない日の補いに用いられているそうです。目の前の皆さん以外にも、さまざまな人を支えている田平教会のミサ録音、田平教会での説教ですので、皆さまにも少しご協力をいただき、中田神父の外へ向かっての活動をこれまで通り継続させていただきたいと思っています。

福音朗読に戻りましょう。短い朗読個所の中に、イエスの力強い言葉が何度も繰り返されています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」(10・27)「彼らはわたしに従う。」(同)「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(10・28)「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」(10・29)

イエスの確信に満ちたこれらの宣言は、本当なのでしょうか。わたしの心には、イエスの言葉をそのまま受け取るのをためらう引っ掛かりがあります。この前ある方が司祭館のチャイムを鳴らして「田平教会の何々地区の者です。何々の活動をするために、カトリック教会を辞めます」と言ってきました。わたしは「念のため言っておくけど、その選択は最悪だよ。カトリック教会に満足できないところが確かにあるかもしれない。でもあなたが言うその活動は破滅だと思う」と引き止めました。けれども「もう決めたことだから」と言って帰ってしまいました。

こんなことが足元で起こっているので、「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」というイエスの御言葉を、何の躊躇もなく受け入れるのは難しいのです。しかしそれでも、イエスの言葉は全面的に信頼するに値するのだと思います。

おとといの金曜日、わたしは何人かの人に誘われて、教会の下の浜を見に降りてみました。途中何カ所か、道のないところを切り開いて進みました。降りてみると立派な浜が広がっていました。今は道もありませんが、皆さんにとってこの浜は大切な場所のはずです。

わたしが言うまでもありません。この浜から皆さんの先代、先々代の人たちが、レンガを背負ってこの丘に登り、教会建設のため汗を流したのでした。田平教会に積み上げられているレンガの一つ一つが、皆さんのご先祖の汗と涙の結晶のはずです。先輩方は黙々とレンガを運び、また貝殻を焼いて漆喰の材料を用意して、永遠の命を与えてくださったイエス・キリストの羊であることを証明した。イエスの声を聞き分け、イエスに従う者であることを口先ではなく行いで証明したのです。

私事になりますが、わたしの父方の祖父は七右衛門と言います。その兄弟倉吉はイトという女性と結婚しました。イトの父親は幸右衛門で、幸右衛門の兄弟に卯之助という人がいて、卯之助の子に中田藤吉神父さまがおられます。直系ではありませんが、わたしの系図は確実に藤吉神父さままでたどっていくことができます。

その藤吉神父さまがわたしを田平教会に招いてくださり、「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と言えと、促しているのだと思っています。「百年前の証を、百年経った今も証しせよ」と言えと、促しているのだと思います。

皆さんはイエス・キリストが血を流して救ってくださった子供たちです。イエスが永遠の命を与え、決して滅びない、だれもわたしの手から奪うことはできないと言って、イエスの手の中にある子供たちです。ですからたとえどんなオオカミが食い荒らしに来ても、どんな災難が降りかかっても、決して悪の勢力に奪い取られたりはしないのです。

百年前の先祖たちは、イエスの声を聞き分け、イエスに従う信仰をこの教会レンガの一つ一つで証ししてくれました。わたしたちもイエスの言葉を信じる羊であると、態度で答えていく必要があるのです。

三つ例を示しましょう。百年前、家庭での祈りは隣の家まで聞こえるほど響いていたはずです。百年後の今、祈りを響かせる家庭を必要としています。百年前、できたばかりの聖堂に毎日何十人もの人が平日のミサにあずかっていたことでしょう。今は20人くらいです。もう一度、平日のミサに足を運んでくれる家族を必要としています。百年前、だれもが力を合わせ心を合わせ、一つになっていたことでしょう。「だれかがやってくれるさ」ではなく、「わたしは今日から、教会家族の一致のために協力する」と手を挙げてくれる家族を必要としています。

イエスは十字架の上で血を流して命を分け与え、全力でわたしたちを守ってくださいます。わたしたちはイエスの愛にどのように答えますか?百年前の先祖たちは立派に答えました。あなたはどうしますか?今わたしたちに問われていると思います。

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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼「今週のネタにちょうど・・・」と思っていたネタも、このたびの熊本大地震で吹っ飛んでしまった。これは大震災とも呼べるほどの被害だ。専門家が14日のは前触れで、15日が本震だとの見解を出した。両方とも平戸市田平町まで揺れが届いた。
▼熊本であんな被害が出る地震に見舞われるのだから、もはやどこも安心ではない。わたしの思い過ごしかも知れないが、地震で教会の鐘が鳴ったのは生まれて初めてだ。聖堂にはこれといった影響は見られないが、あらためて「何があってもわたしたちは揺れない」という神への信仰を確認する必要を感じた。
▼地震は確かに怖いが、わたし個人の問題では引っ越し後にパソコンの調子が悪くて恐れている。トイレに行って戻る、その5分くらいの間にハードディスクが固まって、にっちもさっちもいかなくなることが多発している。仕方なく電源を無理やり落とす。
▼こんなことを繰り返していると必ずハードディスクが壊れる。その前にハードディスクのクローンを作っておきたい。そうは思うがなかなか行動に移さない。このままでは大量のパソコン資料を無駄にしてしまいかねない。どこで線を引いてパソコンを退役させるか。そこが問題である。
▼教会の下の浜、遠浅で五島の蛤海水浴場を思い出した。まだ具体的な計画はないが、十分釣りもできそうだ。まずは浜から投げ釣りをするか。

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新企画今週の1枚
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第431回目。教会下の浜は、きっとわたしを待っている。

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† 神に感謝 †
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復活節第3主日(ヨハネ21:1-19)あなたは第三の薬を受け入れますか

2016-04-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
16/04/10(No.823)
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復活節第3主日
(ヨハネ21:1-19)
あなたは第三の薬を受け入れますか
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今回の辞令で上五島の浜串教会から田平教会へ赴任してまいりました中田輝次(ナカダコウジ)神父です。どうぞよろしくお願いいたします。昭和41年の3月12日生まれ、平成4年3月17日の信徒発見の日に司祭に叙階されて、24年目を歩んでいるところです。

上五島を出るときに、先輩後輩からそれぞれ念を押されてきました。先輩からは「田平教会の人たちはまじめだから、あなたがふだん言っているおやじギャグとか冗談は言わないように。信者から呆れられるよ」と言われました。

後輩からは、「先輩は1週間に8日釣りに行きたい人だけれども、赴任した翌日にボートを手に入れてさっそく釣りに行ったりしたらダメですよ」と言われました。ご忠告はありがたく聞きまして、「ヘイヘイ」と聞き流して出発しました。ただ一つ、冗談がどれくらい通用するかが心配です。

わたしは現在、薬を3種類服用しています。1つは生活習慣病予防健診でコレステロール値が引っ掛かり、これを抑える薬です。2つめは何年か前に痛風の発作が来て、それ以来尿酸値を抑える薬を服用しています。これらは毎日です。

3つめの薬は、これ以上禿げないための薬です。薬の名前は壱岐ゴールドとか、黒白波とかです。これは保険がきかない高い薬です。最後の薬は効果があっているのか自信がありませんが、保険もきかない高い薬だから、きっと効果があると信じて時々服用しています。

さて福音朗読ですが、復活したイエスが七人の弟子に現れ、大漁の奇跡を体験させる場面でした。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」(21・5)と声をかけた時、「ありません」と答えるしかなかったようです。この時点で弟子たちは漁師としての知識を総動員して漁をおこなっていたはずです。たとえるなら、最初わたしが話しました「効果が認められる薬をきちんと服用して手を尽くしている」のと同じです。しかし劇的な変化は起こりませんでした。

そこでイエスは、新しい声をかけました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」(21・6)それはベテラン漁師が考えもしなかったこと、経験や知識にない指示でした。これはつまり、第三の薬、第三の方法です。

「舟の右に網を打ちなさい」という指示は、必要ないと言えば必要ありません。指示通りにしても大漁に恵まれるとはとても思えません。信じないという選択肢もあったでしょう。けれども弟子たちは、「それをして何かが変わるの?」という指示に、素直に従ったのです。

状況は劇的に変化しました。変わらないはずの状況が変わりました。これは一つのしるしです。わたしたちの生活に、変わらないはずの状況を変える第三の薬、第三の方法は、イエス・キリストにあるということです。イエスの御言葉を、心を開いて素直に受け取る。ここに、わたしたちの置かれている状況をすっかり変える鍵があるのです。

わたしたちの生活を振り返ってみましょう。ふだん、第一の薬、第二の薬は、誰に言われなくても気掛けて服用していると思います。健康維持のために病院から出されている薬とか、生活を豊かにする手段をふんだんに取り入れていることでしょう。しかし、第三の薬、第三の方法についてはどうでしょうか。つまりイエス・キリストからいただく恵みを取り入れて、本当に価値ある生活を手に入れようとしているでしょうか。

「信仰のために時間をかけて、生活が本当によくなるの?」と思っているかもしれません。「利くか利かないか分からないものに時間もお金もかけたくない」と思っているかもしれません。失意の底に沈んでいた弟子たちもそうでした。それでも弟子たちは、第一の手段第二の手段と、あらゆる手を尽くして何も変わらなかったので、第三の方法、第三の薬にかけてみたのです。

わたしが言うことができるのはここまでです。弟子たちは第三の方法、第三の薬であるイエス・キリストの言葉に従い、劇的な変化を体験しました。わたしも、たとえば病者の塗油の秘跡を授けて、イエス・キリストの恵みに信頼を寄せた人が死の淵から生還するのをこの24年で3人見てきました。あなたはどうしますか?わたしが言えるのはここまでです。

もし、親子の信頼関係が第一第二の方法で深まっていかないとしたら、イエス・キリストにより頼むという第三の方法、第三の薬は考えてよいと思いませんか。もし夫婦の関係がぎくしゃくしていて、第一第二の方法で互いの信頼が深まらないとしたら、イエス・キリストにより頼むという方法は、試してみるべきではないでしょうか。

信仰は、変わらないものを変える第三の方法、第三の薬だと思います。信仰に興味のない人もいますから、必要ないと言えば必要ありません。イエス・キリストにより頼むことがただちに目に見える効果をもたらすとはとても思えません。信じないという選択肢もあるでしょう。それでもわたしは、「それをして何かが変わるの?」というこの第三の薬、第三の方法であるイエス・キリストを皆さんにお示ししたいのです。

家庭での祈り、主日のミサはもちろん平日のミサ、聖母月など季節ごとに行われる信心業、個人的な聖書の朗読、ゆるしの秘跡などの諸秘跡、これらはどれも、イエス・キリストに源を置いた第三の方法、第三の薬です。皆さんはこの保険のきかない薬を手に取りますか、手に取りませんか。

復活したイエスはあらゆる手を尽くしても状況が変わらないで失望している弟子たち、失望している現代のわたしたちに声を掛けてくださいます。わたしたちの耳には「それをして何になるの?」と聞こえるかもしれません。あえてその問いに答えましょう。復活したイエスにより頼む人は、必ず報われるのです。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:27-30)
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ちょっとひとやすみ
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▼涙がうっすらにじんだ船出だった。見送りのうちの何人かに、心のうちを打ち明けずに旅立った。それが自分の中での心残り、もしかしたら見送ってくれたその人の心残りだったので、涙をそそったのかもしれない。
▼鐘を鳴らすつながりで、最後は大声で「浜串教会の鐘を鳴らすのはあなたです。福見教会の鐘を鳴らすのはあなたです。田平教会の鐘を鳴らすのは?」と叫んだら、ちゃんと「あなたです」と返事をもらうことが出来た。
▼だんだん船が有川港を離れていく。気持ちも離れていき、頭は切り替わる。これから田平町に住み、田平教会の主任司祭となる。佐世保港が見えてくると、いよいよその覚悟がついてきた。レンタカーを一台借りて、いざ田平へ。
▼ここからは迷うことのない道なりの旅。そう思っていたが、何度か道を間違え、車線変更のため隣の車にぺこぺこ頭を下げながら軌道修正しつつ田平教会へ。いよいよ近づくと、運転は付き添いをしてくれた信徒にお願いする。
▼嬉しい田平教会初上陸。生涯初ではないのだが、初めて旅行者としてではなく住人として田平教会の空気を吸った。ここでどれくらいの時間が与えられるかわからないが、与えられた務めを精一杯果たすつもりだ。よろしくね。
▼実感はあまりない。けれども赴任の日に自己紹介された人の顔と名前を覚えようと懸命に頭を回転させたので、ああ、なんとなく始まるのだなと、そういう思いは湧いてきた。ただ二度と忘れない名前と、何度聞いても覚えられない名前があるのはなぜだろう?

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新企画今週の1枚
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第430回目。信徒会館から田平教会のスナップ写真。重みのある堂々たる教会。

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神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)イエスが鳴らす教会の鐘に応えるのはあなた

2016-04-03 | Weblog
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こうじ神父
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16/04/03(No.822)
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神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
イエスが鳴らす教会の鐘に応えるのはあなた
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皆さまと主日のミサをささげるのも最後となりました。今週は「神のいつくしみの主日」と名付けられた主日です。長崎教区で転勤の絡む教会は、ほとんど、今週がお別れの説教となっていることでしょう。

福音朗読は復活のイエスが弟子たちに現れる場面、特にトマスにあらためて現れる場面が選ばれます。今日の説教、わたしたちすべてが神のいつくしみを感じるための助けになればと思います。

イエスがお亡くなりになった後、弟子たちは心を閉ざし、家の戸にも鍵を掛けて隠れるようにしていました。誰に従って生きていけばよいのか、何を頼りに生きていけばよいのか、全く分からなかったからです。

そこへ、復活したイエスが現れてくださいました。戸に鍵が掛けてあるのにおいでになったのですから、心理的・物理的、あらゆる形で自分を閉ざしていても、復活した主はおいで下さり、わたしたちを解放してくださることが分かります。

復活したイエスはすべてを閉ざしていた弟子たちに現れて、何を仰ったのでしょうか。いちばん印象的な言葉は、「あなたがたに平和があるように」(20・19)というものでした。この点に絞って、わたしの考えをまとめたいと思います。

復活した主がおいでになる前、弟子たちの心は不安でいっぱいだったでしょう。「不安」は「平安」がない状態です。どんな平安が奪い去られていたのでしょうか。まずは従っていく相手を失ったのです。エマオに向かう弟子たちは、次のようにイエスを言い表しました。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。」(ルカ24・19)誇りを持って、胸を張って従っていく相手を失ったのです。

さらに、従っていく相手を失ったことで、何を頼りに生きていけばよいのか、全く分からなくなりました。かつて2人ずつ組になって町々に出かけ、宣教しましたが、今はそのことも思い付きません。「わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11・1)と願って教えていただいた「主の祈り」を唱えてみることも思い付きませんでした。何かの抜け殻のようになっていたのです。

そこへイエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」と仰いました。何もかも奪い取られ呆然としていた弟子たちに、復活したイエスが現れ、すべてを取り戻してくださったのです。弟子たちはこれまで通り従っていく相手を取り戻し、頼りにすべき道標を取り戻したのです。

イエスは「あなたがたに平和があるように」と言いました。すなわち、不安のどん底に突き落とされていた弟子たちを、まずは引き上げてくださったのでした。細かいことを言う前に、根本的な部分に救いの手を差し伸べてくださったのです。

「弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ20・20)とあります。喜びが満ち始めれば、あとは問題ありません。必要な指示を与えさえすれば、弟子たちは本来の姿に立ち帰っていきます。

弟子たちの心が喜びに満たされたところで、イエスは指示を出します。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(20・21)「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(20・22-23)弟子たちはもはや以前の抜け殻ではなく、よく準備された状態に変わっていたので、イエスの指示に耳を傾けることができたのです。

トマスは、イエスの最初の出現に立ち会うことができませんでした。それでも、トマスもその後のイエスの出現で「信じない者ではなく、信じる者に」(20・27)変わります。トマスの中にも喜びが満ちて、「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)と答える人に変わっていたのです。

喜びが満ちあふれれば、人は、イエスの証し人として十分働けるようになります。イエスの復活後の弟子たちがそうでした。同じことは、わたしたちにも当てはまります。わたしたちの心が平安であり、喜びが満ちあふれているなら、イエスの証し人として働くことができるのです。

問題は、どのようにしてわたしたちが平安を得て、喜びに満ちた人に変わるかということです。答えは身近にあります。ふだんの生活で、当たり前のように実行していることです。「どこに、何があるかを知っていること。」これは信仰生活にも当てはまります。

わたしたちが信仰者として必要なものが、どこにあるかを知っているなら、当然そこへ行くことで平安を得て、喜びが満ちあふれるはずです。信仰者に必要なものは、どこへ行けば手に入るのでしょうか。疑いもなく、教会へ行くということです。

教会は司祭の手を通して皆さんを招き、集会祭儀を開き、秘跡を授け、恵みを与えます。その最初の合図は教会の鐘だと思います。高井旅教会は教会の鐘を鳴らしませんが、心の中では教会の鐘の音が聞こえると思います。教会の鐘は始まりを知らせ、信仰者を集めるのです。

そこで、皆さんへの置きみやげに、歌を歌って最後の説教としたいと思います。「あの鐘を鳴らすのはあなた」和田アキ子さんの代表曲です。作詞した阿久悠さんが教会の鐘を思いながら作詞したかは分かりませんが、信仰者を呼び集め、秘跡を執行して恵みを授ける、そのしるしとなる教会の鐘を鳴らす人が必要で、鳴らすのはあなたということです。

実際に鐘を鳴らしているのはシスターや信徒ですが、心の中で鐘を鳴らすのは皆さんお一人お一人です。主任司祭を通してイエスさまがあなたを教会に呼んでいますよ、あの鐘に応えるのはあなたですよ。そういう気持ちを込めて歌いたいと思います。

「あの鐘を鳴らすのはあなた」
作詞 阿久 悠
作曲 森田公一

まもなく、新しい主任司祭がやってきます。次の主任司祭も、皆さんを祭儀に招き、秘跡を執行し、恵みを届けます。わたしも、新しい教会の鐘を鳴らすために、旅立ちます。


‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ヨハネ21:1-19)
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ちょっとひとやすみ
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▼ようやくこの文章を書く時が来た。今回の転勤で、陸続きのところに異動となった。これまで「大島→伊王島→五島列島」だったので、「瀬戸の花嫁」を歌ってお別れしていた。「島から島へと 渡って行くのよ」という歌詞が、うまくはまるからだ。今回はそうはいかない。何か、適当な歌が見つかるだろうか。
▼こだわりがあるわけではないが、歌うとやはり雰囲気を作ってくれる。いい歌があればいいが、なければ卒業の「蛍の光」ということになるのだろうか。今回もフェリーでのお別れになる。フェリーの別れは辛いものだ。長く姿が見えているし、それだけ別れもひとしおだから。
▼たった一つ気がかりと言えば、インターネットプロバイダーのこと。これまでは新上五島町が委託して民間のインターネットプロバイダーが利用できないへき地対策で立ち上げられた「つばきネット」を利用していたが、どうやら新しい土地には「フレッツ光」に当たるサービスは届いていないらしい。わたしは高速通信を利用したいが、これから数年のうちに環境が改善されるのだろうか。
▼あまり気分が乗らない中で原稿をまとめている。この原稿は3月いっぱいで準備されたものだ。本来ならば、4月に入ってからの気分で書きたいところだ。これが五島での最後の「ちょっとひとやすみ」だというのに、
▼木は、その成長に応じて植え替えたりする。わたしはもうすぐ神の手によって植え替えられ、新しい土地に根を下ろす。新しい土地の養分をいただいて、新しい芽を出し、皆に利用してもらうことになる。木の周りに集まる人々にとって、わたしの存在はそんなにたいしたことではない。大切なのは「キリストという木に繋がている枝かどうか」ということだ。
▼こだわりがあるとすればこうだ。「日曜日のミサ説教が、キリストという木に繋がった枝としてキリストの養分を人々に届けているかどうか。」ただ一つのこだわり。ここがわたしの存在意義であり、新しい土地でもそのことを決して忘れずに精進しよう。

【希望の聖母に今日を託す祈り】
(浜串教会の岬に立つ)希望の聖母よ、
わたしたちの一日の始まりに
そばにいて、見守ってください。
天候に左右され、危険と向き合う漁に出ます。
厳しい競争が待っている学校や職場に出ます。
肩を落としそうになるとき、励ましてください。
わたしたちの願いを、いつも取り次いでください。
あなたがわたしたちの願いをイエスに取り次ぎ、
イエスが必ず願いに応えてくださいます。
いつも、わたしたちの希望でいてください。
道に迷うとき、確かな道イエスを指し示してください。
そしてすべての務めを終え、眠りに就くとき、
明日も見守ってくださる母でいてください。アーメン。

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新企画今週の1枚
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第429回目。浜串教会のマリアさま、浜串教会家族をこれからも見守り下さい。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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