こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第4主日(ルカ4:21-30)イエスの歩みに自分を合わせよう

2007-01-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/01/28(No.280)
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年間第4主日
(ルカ4:21-30)
イエスの歩みに自分を合わせよう
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今日の福音朗読箇所は、きれいに先週の続きになっております。先週の話の展開をもう一度思い出すと、今週の朗読も読みやすいと思います。

先週の呼びかけは、イエスを信仰生活の中心にしっかり据えましょうということでした。私たちが中心に導かれて、すべての中心にイエスがおられることに気付いたなら、今度は私たちから外に働きかけて、社会を、あるいは世界を変えていけるんだという話でした。

このメッセージの延長線上に今日の出来事はあるのですが、イエスは、あくまでもご自分はすべての人にとっての中心であって、誰かと特別に親しくなったり、ひいきしたりはしないという態度を保っておられます。ですが、話を聞いている会衆は、そうではなかったようです。昔も今もあったのでしょう、「縁故主義」を無意識のうちに持ち込んでしまい、イエスとの関係をゆがめてしまいました。

話を簡単にすると、こういうことです。「よその土地であっと驚くことをしたのだから、郷里のここでは、同郷の私たちには、もっと特別なサービスをしてくれて当然だ」ナザレの会堂に集まる会衆は、イエスは自分たちの味方で、いやそれ以上に、郷里の私たちにひいきするくらいで、ちょうどいい関係なんだと、思い込んだのです。

その思い込みは、たとえばこういうことかも知れません。郷里から選ばれた国会議員さんが、郷里のために橋を架けてくれたり、広い道路を通してくれたりするのは当たり前で、私たちが当選させてやったのだから、それくらいひいきしてくれて初めて、自分たちが選んだ国会議員さんとして認められる、そういう感じでしょうか。

政治や経済の関わりで例を挙げると、ちょうど当てはまるというのですから、ナザレに集まった人たちが期待していたことが、いかに世間的で、打算的だったかが分かると思います。「この人はヨセフの子ではないか」という言い方は、「どこかの殿様の家に生まれたとでも思っているのか?私たちの地元で生まれたくせに、私たちにサービスしないとは何事だ」と、イエスが出来事の中心にいてくださることではなくて、会衆にとって都合の良い場所に、イエスを引きずり込もうとしているわけです。

イエスはそういう魂胆がはっきりと見て取れたので、みずからその輪の中から出ていこうとされます。ナザレの会衆の期待する中心に留まることは、イエスにとってすべての人の中心に留まって、すべての人に影響を与え、すべての人の心を変えていくことには決してならない。そう考えたのです。

「わたしはあなたたちのご機嫌取りはしない。正面から、神様を生活の中心に据えて暮らしたいと願っている人々のもとに、わたしは出かけます」そう宣言するイエスの姿は、縁故主義、血縁、地縁のもとでしか考えることのできない人々を激怒させ、イエスを崖から突き落とそうとする、とんでもない行動にまで及ぶことになります。自分たちの都合に合わないイエスというこの人は、もはや救い主でも郷里のヒーローでもなく、目の前から消し去ってやりたい「敵」に変わってしまったのです。

私たちはどうでしょうか?幸いにと言いましょうか、イエスと血縁関係がありませんし、先祖を辿ってもそういう縁故は絶対に見つかりません。ではその幸いな私たちは、イエスが「白」と仰ることを、そのまま「白」と賛成してきたでしょうか。

聖書の別の出来事を例に考えてみましょう。マルコ福音書に、「嵐を静める」という箇所があります(マルコ4:35-41)。私は次のようなことを考えたのです。イエスはもしかしたら嵐に遭遇することもご存知だったかも知れない。それならどうして、早めに手を打たなかったのか?何も溺れそうになるまで待たなくても良さそうなものなのに、ということです。
最終的に、イエスはギリギリまで手を差し延べませんでしたが、私たちが「どうしてもっと早く手を差し延べてくださらないのか」と考えてしまうのは、これこそ、イエスが「白」と考えておられることに意見して、「そういうやり方は黒」と言っていることにならないでしょうか。

きっと、イエスのなさり方のほうに大切な意味があるに違いない。こういう気持ちにいつも向かっていけばよいのですが、イエスが出来事の中心にいて、中心となる大切な意味はここにあるんだよと仰っているのを、どうも私たちは認めたがらないのです。

どうして私だけ苦しいのか、どうして私は慰めてもらえないのか、どうして教会はミサに来い、祈りをしろ、告解をしろ、教会維持費を払えとうるさいのか。そういう思いはすべて、イエスが中心にいて、イエスが大切な意味を教えてくださるということを認めたくない気持ちの表れではないかと思うのです。

今目の前で起こっていることにイエスが示そうとする意味を探そうとしないのは、イエスを中心に置きたくないからです。歴史の中で培われてきた教会運営のやり方、信仰育成の手段に頭から反発するのは、やはり、イエスはこのやり方で私たちに何を願っておられるのだろうか、そんな気持ちを持てないことからすべては始まるのではないでしょうか。

私たちにはイエスに対する地縁、血縁を期待できない国と時代に生まれました。イエスを都合の良い場所に置くのではなく、私の信仰生活の中心にイエスをしっかりお迎えするよう、じゅうぶんに心を開きたいものです。知らず知らずのうちに、イエスを山の崖から突き落とそうとする者の一人になることのないよう、常に心を開いておきましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼教区広報誌「よきおとずれ」の割り付けの日。この日はノートパソコンと紙の資料を入れたカバンを抱えて編集室に出勤する。出社の途中で税金の納付のため、会計室を訪ねた。言われた額を支払っているときに、机の上に置いたカバン、ノートパソコンが入ったカバンが「縦置き」の状態から転がり、床に落ちてしまった。
▼虫の知らせがあったのかも知れない。この日はノートパソコンをカバンに入れるとき、底にプチプチの緩衝材を詰めていた。それが命綱となって、パソコンにスイッチを入れたとき、何事もなく起動した。落ちたときは正直青ざめたものだ。
▼やれやれと割り付けを終えて島に帰る。帰りにカバンを何度か持ち替えたのだが、なぜか気付いたときにはほぼ間違いなく右手で持っていた。自分は左利きなので、左の方が腕力もある。それなのに、どんなに持ち替えて歩いていても、気が付いたときには右に持ち替えていた。カバンを持っていると意識したときはすべて右で抱えていたときだった。
▼右で持ってばかりいるとどうしても腕が疲れるので、左に持ち替える。すると左はもっと早く疲れてしまい、結局右に持ち替えるのである。変な癖だなぁ、と思いつつも、大いに興味を持つ事象だった。想像だが、無意識のうちに左を守ろうとしていたのかも知れない。左腕は繊細なことにも使われる腕なので、十分に考えられることだと思った。

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こうじ神父絵手紙
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第63回目。この本、話せば長くなりますが、いい本ですよ。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(ルカ5:1-11)
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年間第3主日(ルカ1:1-4;4:14-21)私の中心で呼びかける声に答えよう

2007-01-21 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/01/21(No.279)
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年間第3主日
(ルカ1:1-4;4:14-21)
私の中心で呼びかける声に答えよう
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今日朗読された福音は、ルカ福音書のいちばん最初の部分と、ちょっと離れている箇所をくっつけて読み上げられていました。実際は、「イエスは『霊』の力に満ちてガリラヤに帰られた」(4・14)で分かれております。

朗読の後半部分から話したいので、後半部分がどのように書かれているかを説明しておきたいと思います。ルカは私たち読者の目を、最初は少し広い場所から、だんだん狭めていって、中心部分に向かっていくように自然と案内しています。

いくつかの言葉を拾って説明しますと、最初にガリラヤという地方を紹介し、次にガリラヤの中でもお育ちになったナザレに私たちの目を向けさせます。ナザレに入ると、さらにナザレの会堂、会堂の中のイザヤ書(これは旧約聖書ということでしょうか)、そして、イザヤ書を受け取ったイエスへと、だんだんと私たちの目を「ルカが案内したい中心」へと向けさせているのです。

ここまでをまとめておくと、ルカは、ガリラヤという広い土地から始まって、だんだん場所を狭め、最後には物語の中心であるイエスに、私たちみなを注目させてようとしている、ということです。その、紛れもない証拠が、最後のほうに書かれている言葉です。「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」(4・20)。これは、私たちをも含めて、すべての人の目が、世界の中心、救いのみ業というたいへん大きな出来事の中心におられるイエスに、今注がれているわけです。

もう少し、話を進めていきましょう。この、すべての物事の中心で、変化することなく、周囲にも流されないイエスは、中心にいてすべての人に一つの言葉を語られました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4・21)。貧しい人に福音を告げ知らせ、捕らわれている人に解放を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる。この、誰もなしえなかった力強い救いの業が、イエスが中心に立って会堂にいる皆に語りかけてくださることで実現したというのです。

ここで、私が強調したいのは、「あなたがたが耳にしたとき実現した」という言葉です。人間を救うという大きな働きは、神様がことを始めなければ、もちろん始まることすら不可能ですが、現実には、私たちが心を開いて、あるいは耳を澄まして「聞いたときに」実現すると言っているのです。まずはイエスが人間に語りかけ、行いで模範を示します。それを、人間が聞き、あるいは見て変えられていくときに、本当の意味で神様の救いの計画は大きく動き始めるのではないでしょうか。

一つのたとえを考えてみましょう。安定して回っているコマを思い描いてみてください。安定して回るコマの外側は、ものすごい勢いで回っています。ところが、コマの中心は全く動かず、回転もしていないように見えます。実際には回っているのでしょうが、精巧に作られたコマは、中心がきちっと決まっていて、回転しているときに動かないのです。中心が少しも動かないことで、コマは安定する。反対に中心が決まらないコマは、どれだけ勢いをつけても止まってしまいます。

私たちの生活は回っているコマのようです。あっという間に次の日曜日が回ってきます。一日一日があっという間に過ぎて、勢いよく回っています。一週間のうちには、実りある一日だったなあという日もありますが、今日一日は何だったのだろうと思う日もあるでしょう。良かったと思える一日と、あまり良くなかった一日との違いは、中心が決まっていなかったということにあるのではないでしょうか。忙しく回転していく毎日の中で、決して動かず、それでいて私たちの中心にふさわしいものがあるか、そうではないのかで、大いに違ってくるのではないでしょうか。

もうお分かりと思いますが、中心にイエスがおられることで生活は安定して回っていきます。私たちは中心からの声に耳を傾け、中心におられるイエスの言葉を生活の中で実現させることが大切なのです。けれども、「どのようにして中心からの声に耳を傾ければよいのでしょうか」と考えるでしょう。

どのようにして「中心からの声に耳を傾ける」のでしょう。それは、「できる限り中心に近づく」ということです。イエスに親しく触れることができる場所まで、私が近づくということです。一週間の中では日曜日がそうですし、一日の中では朝夕に、私の中心におられるイエスに近づくことで、声を聞くことができます。

ではイエスは、中心にいて私たちにどんな声を響かせているのでしょうか。今日の朗読では次のような言葉が響いています。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(4・18-19)。このイエスの言葉は、私たちが耳にしたとき、聞いて、その呼びかけに応えようとしたときに実現します。

イエスは、今日私たちに招いてくださいます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。私たちが、少しずつでもイエスに変えられて、この世の不正や差別、偏見に流されないで、イエスという中心に導かれて動く決心をするなら、社会は動かせるのです。イエスの働きは、今も、私たちが耳で聞いて、私たちが変わろうと決心するとき、今このときにも実現していくのです。

生活の中心をイエスに求めましょう。善悪の基準をイエスに求めることで、私たちの社会にキリストの望みを行き渡らせることができるように、力を願い求めることにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼最近2度にわたって15時30分の「長崎発伊王島行き高速船」に2分遅れで乗れないという憂き目にあった。汗だくになって走れば間に合ったかも知れないが、「駆け込み乗船」も格好悪いし、それに冬場に汗かいたのを冷やしてしまうと風邪を引く。ここはおとなしく、次の16時25分に乗ることにした。
▼口をとがらせて長崎の大波止ターミナル待合所に入り、15時30分に客が乗船した後のがらんとした座席に座ってふて寝(ムッとして寝ること)をしようとしたら、待合所の出口付近に伊王島の人が一人悠然と座っているではないか。遠くから背中をぱっと見て、あーあの人だと分かる人だったが、この人は15時30分に間に合っていたはずである。なぜそこにいるのか。
▼時間まで寝ることにしていたが、船を1便余裕で見送った人を観察しようと決めたら興味がわいてきて、眠かったのに目が冴えてきた。その人はいったん自分の荷物を置くと喫煙所に行ってタバコを一服し、荷物のことなど気にせずにトイレに行き、戻ってきてお茶を買い、物思いにふけりながらお茶を飲んだ。それは何も時間を持て余してのことではなく、どうやらいつもの仕草のようだった。
▼船を1便やり過ごすなどという「暴挙」は、40歳の私にはとてもできないことだが、このご老人はそうやって自分のペースで船を「利用」し、自分の生活を楽しんでいるのだろう。それに引き替え、自分は船の時間に振り回され、忙殺されながら過ごしていると感じた。これが「生きている」実感のある人と「息をしている」実感しかない人との違いだろうか。

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こうじ神父絵手紙
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第62回目。横浜から2年前に長崎のケアハウスに引っ越したご夫婦だそうです。
モデルになってもらいました。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第4主日
(ルカ4:21-30)
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年間第2主日(ヨハネ2:1-11)イエスが日常を喜びに変える

2007-01-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/01/14(No.278)
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年間第2主日
(ヨハネ2:1-11)
イエスが日常を喜びに変える
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今日の福音のいちばん初め、「その時」と書き換えているところには、もともと「三日目に」という言葉があります。どうしてそのまま載せないのかなあと思うのですが、いちおう、あるものと思って今日の説教は組み立てています。

ヨハネは、時間とか、場所を慎重に書く人ですから、「三日目に」と書いてある場合、それは意味があると考えるべきです。「その時」とでは大きな違いがあります。意味を考えてもらうためにも、そのまま載せて欲しかったのですが。

まず「三日目に」の意味を考えてみましょう。三日目にというからには、昨日、一昨日、一昨昨日があるはずです。聖書を少し前に戻って読んでみると(皆さんも、ぜひあとで少し前を読んでください)、はっきりしないんですね。「その翌日」で始まる記事が、連続で三回も出ています。そうなると、三日目にというのは、いつから数えて三日目かと不思議に思います。

ここでは、「三日目」の意味をもう一つの面から考えるべきでしょう。それは、「イエスの復活」ということとの結びつきです。イエスは、「三日目に」復活されました。だれもが知っている事実です。ヨハネも、福音書が読み上げられる頃には三日目にイエスが復活したことは知られているだろうと見込んで、「三日目に」と書いたのかも知れません。つまり、今日の朗読を考えるときに、三日目にイエスが復活したことと結びつけて考えると、大切なことが見えて来るんだよと、ヨハネはにおわせているわけです。

私はこう考えました。イエスはこの日の婚礼の席で水をぶどう酒に変えました。水は、この場合、「色も味もない」と考えてみましょう。それを、(復活した)イエスはぶどう酒という喜びを与えるものに変えてくださいます。日常生活という、何の変哲もない場所、決まった人と毎日顔を合わせる限られた生活、そんなものが、イエスと出会って、イエスを知った日から、喜びを生み出す場所・出会いに変わるということなんです。

イエスが奇跡を起こされた水の量はどれくらいだったのでしょうか。だいたい、600リットルくらいを考えてください。お風呂にいっぱい水を満たして、それを3倍くらいと考えたらいいでしょう。それだけの量のぶどう酒といえば、それはもう汲み尽くせない量という意味です。ですから、(復活した)イエスは私たちの日常においでくださり、平凡なもの・退屈な出会いの中にも、汲み尽くせないほどの喜びを与えてくださると取ることができます。

何となく、教会に来ているかも知れません。あまり感謝することもなく、毎日を過ごしているかも知れない。イエスがいつも目を注いでくださって、私たちを支えてくださっている。確かに、この信仰で変えられた、救われたという体験を一度でも味わうと、イエスと出会った喜びは汲み尽くせないのです。

もう一つ、今日の福音で、召し使いに言いつけた次の言葉にも注意を払いましょう。「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」(2・8)。「それ」とは、イエスによって変えられた「水」です。もとは何の変哲もない「日常」でしたが、イエスとの出会いにはっきり気付いたときから、喜びを生み出すようになった「日常」です。その、「ぶどう酒に変わった水」を、「持って行きなさい」と呼びかけるのです。これはつまり、福音宣教のことを言おうとしているのではないでしょうか。あなたが、イエスによって変えられた日常を、何気なく思える出会いを、どこかに運んでください。そう願っているのです。

最後に、一つのことを考えて答えを出しましょう。「それをくんで、持って行く」「イエスが与えてくださる恵みをくんで運んで行く」のですが、どうやって汲むのでしょうか?汲むものはお持ちですか?

私たちがイエスの恵みを汲むものがいくつかあります。祈りを通して、私たちはイエスの汲み尽くせない恵みに触れることができます。また教会の活動や、行事によっても、イエスの恵みに与るでしょう。さらに病床にある人であっても、苦しみ・痛みを捧げる中で、イエスの宝に触れることができます。私たちは、何かしらイエスの恵みを汲む道具を持っているし、イエスが喜びに変えてくださる日常は、汲み尽くせないほど広く深いのです。

生活を振り返り、私は何をもって、イエスが変えてくださる日常から、恵みを汲むことができるか、自分に問いかけてみましょう。「これかなあ」と思うものが見つかれば、喜んで出会う人に運んで行ってください。もし、汲むものをお持ちでない、汲むものが見つからない方は、熱心に、このミサの中で「わたしにも、汲むものを与えてください」と願うことにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼どうしても気になったのでベッドのそばにICレコーダーを置いて眠っているときにいびきをかいているかどうか録音してみた。確かにいびきをかいていた。今回は3度にわたって一定時間いびきが録音されていた。疲れ具合などでいろいろ違うのかも知れないが、「絶対に自分はいびきなんかかいていない」と信じていたから、ショックは大きい。
▼録音したものを聞いていると、どうしても自分だとはシンジラレナーイ。けれどもICレコーダーが嘘をつくはずもないから、覚悟して音に耳を傾ける。1度目はかすかにグーグー言っている感じ。2度目はグオーッという音も混じっている。3度目はけっこうな音量で、ゴォーゴォーと言っているようだった。
▼ションボリしている。研修会のときには大部屋で眠ったり、キャンプでは子供たちのそばで眠ったりしてこれっぽっちも迷惑などかけたことがないのだと思っていたのに、こんないびきをかいていたのだろうか。それとも最近太ったことで、体に負担が掛かってきたということだろうか。
▼証拠を目の前にしても自分の寝息なのだとは思えなかった。もっと気持ちよく、ぐっすり眠っているものとばかり思っていた。皆さんも健康には十分お気をつけください。

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こうじ神父絵手紙
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第61回目。「取って食べなさい」(A年)を絵手紙にしてみます。

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年間第3主日
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主の公現(マタイ2:1-12)人をあるべき姿に導くイエス

2007-01-07 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/01/07(No.277)
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主の公現
(マタイ2:1-12)
人をあるべき姿に導くイエス
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今日は主の公現の祝日です。幼子が公の面前に現れる、学者に代表される異国の人々にも王として示された祝日と言ってよいと思います。今年の学びとして、学者たちは幼子イエスを拝みに来たことで、本物の学者に変わっていったということを取り上げてみたいと思います。

占星術の学者たちは星に導かれてユダヤの国に入りました。「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2・2)。東方で見た星は、占星術の学者たちをイエスのもとへ導いていきます。正確に、確実にイエスのもとに導いたのですから、ある意味で「神の使い」と言えます。人間は人間を確実にイエスのもとに導くことはできませんが、神の使いであればそれが可能だからです。

幼子イエスを探し当てると、彼らは宝の箱を開けて「黄金・乳香・没薬」を贈り物として献げました。学者と皆から尊敬される人が、これほどの贈り物を準備して幼子のもとへ出向いてきたのです。この態度からも、学者たちが幼子のことを王・救い主と確信したのだと分かります。彼らはいったん自分たちの身分を横に置いて、幼子イエスの前にひざまずきました。

ひざまずいてイエスを拝んだとき、私は占星術の学者たちが本当の意味で学者、知恵者となったのではないかと考えました。世の中では学問を究めた人を学者として尊敬しますが、本当の意味での学者は、自分が人間であることを知っている人物ではないでしょうか。

学者が多くの知識を得ていることは誰もが認めます。けれども、自分がすべてのことを知っているとか、自分の手の働きは完全であるとか考えている人は、決して本当の学者ではないと思うのです。そういう人は自分を神と思っている人ですから、何かが違っているのです。本物の学者は、自分は人間であって、すべてを知っているわけではないとはっきりわきまえている人、自分に与えられた知恵を神に感謝できる人ではないでしょうか。

ですから、占星術の学者たちは幼子イエスを拝みに来て、自分が人間に過ぎないことを素直に認め、自分たちに与えられた才能を感謝して幼子イエスに贈り物をささげたことで、本当の意味での学者に変えていただいたのだと思うのです。東の国では誰もが彼らを学者だと認めていたでしょうが、イエスに贈り物をささげたことで、彼らはイエスによって学者と認めてもらったのです。

イエスによって認めてもらうこと。これが、学者を本物の学者にする唯一の道ではないでしょうか。お互い人間同士で認め合うだけでなく、神の子イエスに「あなたは本物の学者です」と認めてもらうことが、もっと大切なことではないでしょうか。このことは今日登場した学者にだけ当てはまることではなくて、すべての人に当てはまることだと思います。

すべての人が、イエスに認めてもらうことで本物になります。イエスが、「あなたは立派な父親です」「あなたは本物の母親です」あるいは「あなたは本当の意味で豊かな人です」「あなたは本当の知恵者です」と認めてくださったとき、私たちは本当の意味で目指しているものにたどり着くのです。

あなたがこの人生をすばらしいものに変えたいなら、どれだけ多くの人にほめられるよりも、イエスに「あなたの人生はすばらしい」とほめられることを選ぶべきです。どれだけ多くの人に「あなたは知恵者だ、あなたは豊かだ」と言われても、イエスに「あなたはそうではない」と言われてしまえば意味がないのです。

占星術の学者たちは、この点を私たちに教えてくれました。私たちはイエスによって、本物の学者と認めてもらいました。これからは胸を張って、学者としての人生を全うします。すでに自分たちの国でも学者として尊敬されていましたが、それでも彼らはイエスに自分たちのすべてを委ねて、新しい一歩を踏み出したのです。

私たちも学者から学ぶ必要があります。私たちは今すでに、何かを成し遂げているかも知れません。ある職業を続けてきて、専門知識を持っているとかその道のプロになっている人もいるでしょう。その上に、あなたの得た経験や知識を、イエスによって認めてもらうことにしましょう。イエスから「確かにあなたはプロだ、あなたはよくやっている」と声をかけてもらうことが、本当の意味であなたに喜びを与えてくれるはずです。

では率直に、あなたがこれまで積み上げてきたものを神の子イエスに認めてもらうためには何をすればよいのでしょうか。占星術の学者たちが教えてくれています。幼子を捜し当て、幼子の前にひざまずき、幼子に感謝のしるしをささげることです。あなたの手のわざを、あなたの身につけた知識を、幼子イエスによって祝福してもらうのです。幼子イエスの前にひざまずくとき、すべてが祝福に変えられるのです。

学者たちは幼子イエスに祝福され、希望のうちにそれぞれの国に帰っていきました。私たちも同じです。こうしてイエスのもとに集う私たちは、イエスの前にひざまずくたびにイエスによって祝福され、それぞれの生活の中に送られていくのです。イエスにあなたの今を認めていただいて、また新しい一週間にはいるのです。

私たちは今日、占星術の学者たちがイエスを拝みに来るのを見ました。学者たちはイエスに祝福されて安心して帰っていきました。同じ道を、私たちも歩みましょう。学者がイエスのもとに行き、本物の学者とされて帰っていったように、私たちもイエスによって祝福され、本来の姿に変えていただきましょう。あなたを本当の意味であなたらしくしてくださるのはイエスによる祝福です。喜んで幼子イエスに近づき、本来の私に変えていただくことにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼出会う人には出会うものなのでしょうか。昨年京都のノートルダム学院小学校の修養会の時に泊めてもらった修道院で一人の女子大生の話をした。たまたまノートルダム女子大に通っていた学生の中に浦上教会出身の子がいて、その子の名前とか当時の様子を詳しく話して思いがけない名前にしばらく会話が弾んだ。
▼1月3日に、箱根駅伝の復路を正座して観ていたときに、玄関のチャイムが鳴った。前日の2日に「明日教会見学を希望している方がいますが、教会にはいることができるでしょうか」と島のホテルから電話がかかっていた。来たな、と思って玄関に降りてみると、何と京都で話題になった女の子と、その家族が訪ねてきているではないか。
▼「京都で君の話で盛り上がったんだよ。『浦上教会でその名前だったらあの子しかいないよ』って言ってさ。あの当時、男の子みたいな格好して真っ黒に日焼けして教会に来てたもんなー」。けれどもこの前会ったその子は、すっかりレディーになっていた。母親に言わせると、最近女性に変身したらしい。
▼会うべき人には必ず会う。そういう気がしている。愛する人にも、自分を育ててくれる人にも、何かを教えてくれる教師にも。出会いにはすべて意味がある。人だけではない。土地も、食べ物も、本も、とにかくすべてのものが、出会うべくして出会っていて、意味があるのである。

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こうじ神父絵手紙
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第60回目。五島で何か見つけてきます。しばしお待ちを。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ2:1-11)
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神の母聖マリア(ルカ2:16-21)信仰者はイエスによって輝く

2007-01-01 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/01/01(No.276)
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神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
信仰者はイエスによって輝く
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皆さんおめでとうございます。教会は新たな年を、神の母マリアを祝って始めます。母としてのマリアの姿から、新たな一年を歩み始める知恵を学ぶことにしましょう。

まず聖書の中にマリアをさがしましょう。聖書は、どのようにマリアを登場させているのでしょうか。「おとめマリア」という姿でしょうか。「おとめマリア」として紹介するのは、イエス誕生にまつわる物語で一度取り上げているだけです。ではどんな姿で紹介するのでしょうか。「母マリア」の姿です。マリアは、おとめとしても十分すばらしい女性ですが、母マリアの姿の中に、彼女のすばらしさが最高に花開くのです。

女性が「母」であるからには、「誰かの母である」ということです。子供に対して生みの母であったり、育ての母として関わることで母となります。言うまでもありませんが、マリアはイエスの母です。実は、イエスとの関わりの中で、マリアのすばらしさは特に引き出されるのです。

例を挙げてみましょう。今日の朗読箇所では、羊飼いたちが飼い葉桶に寝ている乳飲み子をさがしあてて、広く人々に幼子のことを知らせに行きます。マリアはその時のことを心に納めて、思い巡らしていたとあります。マリアの思慮深さが、幼子イエスとの関わりの中で、まず発揮されたのでした。

また、婚礼の席で、水をぶどう酒に変える奇跡があったとき、マリアは「ぶどう酒がなくなりました」とだけ言って、あとはイエスがきっと何とかしてくれる、そう思ってイエスに対する絶対的な信頼の心を見せてくださいました。これもまた、イエスとの関わりの中で発揮された、マリアの徳でした。

さらに、イエスが十字架にはりつけにされる場面で、マリアはイエスと苦しみをともにします。イエスへの希望を失わなかった姿は、マリアの「内面の強さ」を感じさせます。マリアおひとりでは、とてもあのような強い信仰を保つことはできなかったでしょう。これもまた、イエスとの関わりの中で与えたれた恵みなのです。

こうしてみると、マリアが輝くのは、神であるイエスとの関わりにおいてであることが分かります。私たちが神の母聖マリアをお祝いするのは、イエスの母という姿の中にマリアのすばらしさが際立って現れるからなのです。

母マリアの姿は、ステンドグラスのすばらしさに例えることができるかも知れません。ステンドグラスは、どれだけ高価なものであっても夜にはその価値を十分知ることはできません。朝日が昇り、夕日が射し込む。その光を通してステンドグラスは輝きを増します。ステンドグラス本来の価値を引き出します。ステンドグラスを輝かせている光、それはイエス・キリストです。イエス・キリストという光に照らされるとき、マリアを始めすべての人はその輝きを人々の前に現すことができるのです。

今年初めの祝日に当たり、神の母聖マリアから模範をいただくことにいたしましょう。子供を教え導く父親母親は、子供を通して自分自身の徳が増し加えられます。ときとして私たちは、今の置かれている生活と違った生活ならきっと立派な信仰者になれると夢見ますが、今の生活の中にこそ、あなたを成長させ、徳に進ませるチャンスが与えられているということを学んでほしいと思います。

もう少し踏み込んで考えると、イエスは私の考えに賛成しているだろうか反対だろうかと考えることで私の判断は高められるし、イエスに全面的に信頼することで私はしっかりと立つことができる、すべての場面にイエスとの関わりをさがすことで信仰者としての私は輝くのではないでしょうか。

今年一年も、神の祝福に満ちた年となるように、神の母聖マリアに取り次ぎを願いましょう。マリアの模範を仰ぎましょう。私たちが自分を高めるのは、つねにイエス・キリストとの関わりをもって歩むときなのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼新年明けましておめでとうございます。今年の目標ははっきり見えています。簡単なことです。「その日の仕事は、12時までに済ませる」これです。今日のメルマガを仕上げたときにそう決めました。だらだらと12時過ぎても仕事してもそれほどよいものは生まれません。
▼夜型の生活は、結果として午前中の能率が下がって損をしている気がします。睡眠時間が足りないのです。さらに悪いことに、眠っているときにいびきをかいていることが判明しました。これは健康な睡眠の状態とは言えないと思います。そういうマイナスを考えると、自分の生活パターンは決定的に間違っているという疑いが生じたのです。
▼睡眠4時間でバリバリ働く人もいるでしょう。ですが私はその人と比べようとは思いません。同じことをした場合、私は午前中の時間あまり脳が働いていません。それよりも、できれば6時間、睡眠を取って午前中を効率よく過ごしたいと思ったのです。私は少ない睡眠時間ではどうしても働けないと分かったのです。
▼このところよく眠れて5時間、悪くすると3時間というときがありました。結局は無駄がどこかで能率が落ちていて、睡眠時間を失っているのです。もっと効率よく働いて、睡眠時間を十分に確保する。これがささやかな今年の目標です。

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こうじ神父絵手紙
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第59回目。ケーキも描いてないわけだけど、クッキー一袋描いてみます。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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