こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第7主日(ルカ6:27-38)神様の恵みは、いつもすぐに働く

2019-02-23 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
19/02/24 (No.989)
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年間第7主日
(ルカ6:27-38)
神様の恵みは、いつもすぐに働く
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今日、期待に胸を膨らませて、三人のお子さんが初聖体を受けます。この中には、先週洗礼を受けたお子さんが二人います。初聖体を受ける最後の準備のために、お話をよく聞いていてください。

御聖体は、見た目は小さなパンですが、このパンの中にイエス様がおられます。イエス様は洗礼を受けた皆さんの心の奥深くに入るために、小さなパンの中におられるのです。お化粧道具もそうですが、粒が大きなものは奥深くに入っていきませんが、小さなものは奥深くまで入っていくのです。イエス様は、皆さんの心の奥深くまで入っていくために、小さなパンの形に留まっておられるのです。

小さな姿になったイエス様は、私たちのどの場所まで来てくださるのでしょうか。御聖体を、皆さんが「アーメン」と言っていただくと、あっという間に溶けてしまいます。他の食べ物だったら、よく噛んで食べてもしばらく形が残っているでしょう。けれども御聖体は、きっとすぐに、形が無くなってしまいます。見えなくなって、私たちの隅々にまで届いていきます。

隅々と言いましたが、どこまで届くのでしょうか。中田神父様はこう思います。御聖体のイエス様は、すぐに形が見えなくなるけれども、それは、すぐにみんなのそば近くにいるために、形をなくしてしまうのです。普通の食べ物は、エネルギーになるまで時間がかかります。イエス様はわたしたちを恵みでいっぱいにするために、すぐに形がなくなり、見えなくなって私たちの力になってくださるのです。御聖体をいただいた時からすぐに、イエス様は私たちの中で働き始めるのです。

私たちは健康な時だけではなく、病気の時もあります。病気の人は薬をもらいますが、薬が効き始めるのにも時間がかかります。飲んですぐ効く薬はないのです。けれども御聖体は、「アーメン」といただいてすぐに、あなたの中で働き始めるのです。病気の時も健康の時も、罪を犯している時でも、イエス様の恵みは、受けたらすぐに、働き始めるのです。

毎日、すぐに働くお恵みが必要です。一日が始まって、家族みんな、守ってもらう必要があります。朝、ほんの少しでいいからお祈りする家族に、神様の恵みはすぐに働いてくれます。朝のお祈りでいただく恵みが昼頃届くのでしたら、間に合いません。神様のくださるお恵み、特に教会でいただく御聖体やゆるしのお恵みは、すぐに働き始めるのです。

すぐに働いて、わたしたちを守ってくださる。御聖体の恵みは、そのようなお恵みです。毎週お恵みにあずかってください。そして、恵みを忘れない人になってください。家族の中で、「神様の恵みはすぐに働き始めるんだよ」と自信を持って言える人になってください。これから、初聖体の決意表明をしましょう。

(日曜9時以外のミサの説教のために)今週も、先週と同じように、初聖体の子供達に話す内容をかいつまんで話したいと思います。9時のミサで、三人のお子さんが、期待に胸を膨らませて初聖体を受けます。その中の二人は、先週洗礼を受けたお子さんです。緊張すると思いますが、きっと話をよく聞いてくれると期待しています。

聖体は、見た目は小さなパンですが、このパンの中にイエス様がおられます。洗礼を受けた人の心の奥深くに入るために、小さなパンの中に留まってくださった。これが話の基本です。お化粧道具もそうですが、粒が大きなものは奥深くに入っていかず、小さくなるほど奥深くまで入っていくのです。

小さな姿になったイエス様は、私たちのどの場所まで来てくださるのでしょうか。御聖体を、「アーメン」と言って拝領すると、あっという間に溶けてしまいます。他の食べ物だったら、よく噛んで食べてもしばらく形が残っているでしょう。けれども御聖体は、すぐに形が無くなってしまいます。見えなくなって、私たちの隅々にまで届いていきます。

隅々と言いましたが、どこまで届くのでしょうか。中田神父様はこう思います。御聖体のイエス様は、すぐに形が見えなくなるけれども、それは、すぐに人間のそば近くにいるために、形をなくしてしまうのです。普通の食べ物は、エネルギーになるまで時間がかかります。イエス様はわたしたちを恵みでいっぱいにするために、すぐに形がなくなり、見えなくなって私たちの力になってくださるのです。御聖体をいただいた時からすぐに、イエス様は私たちの中で働き始めるのです。

人は健康な時だけではなく、病気の時もあります。病気の人は薬をもらいますが、薬が効き始めるのにも時間がかかります。飲んですぐ効く薬はないのです。けれども御聖体は、拝領してすぐに、あなたの中で働き始めるのです。病気の時も健康の時も、罪を犯している時でも、イエス様の恵みは、受けたらすぐに、働き始めるのです。

毎日、すぐに働くお恵みが必要です。一日が始まって、家族みんな、守ってもらう必要があります。朝、ほんの少しでいいからお祈りする家族に、神様の恵みはすぐに働いてくれます。朝のお祈りでいただく恵みが昼頃届くのでしたら、間に合いません。神様のくださるお恵み、特に教会でいただく御聖体やゆるしのお恵みは、すぐに働き始めるのです。

すぐに働いて、わたしたちを守ってくださる。御聖体の恵みは、そのようなお恵みです。毎週お恵みにあずかってください。そして、恵みを忘れない人になってください。初聖体を受けたなら、家族の中で、「神様の恵みはすぐに働き始めるんだよ」と自信を持って言える人になってほしいのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第8主日
(ルカ6:39-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼堅信式が先週終わり、ほっとした。この子たちが田平教会、平戸地区の希望となっていく子供達だ。よく話を聞いてみると、全員部活のキャプテンだという。人気・実力が無ければ、そう選ばれるものではない。
▼初聖体が今週行われる。女の子一人と、男の子二人。頭の回転の良さそうな子供がいる。その子が必ずしも教会に親しんでくれるとは限らないが。ただ、頭のいい子は将来何かを成し遂げ、結果を残す。それが回り回って、歳を重ねた自分に届いてくれたらと願うばかりだ。
▼先週と今週、子供のために説教を考えてみた。子供は勘がいいから、話が真実かどうかをすぐに見抜く。私の説教は、子供達に真実と受け止めてもらえるだろうか。騙せる人を騙せても、子供を騙すことはできない。
▼とても良い話をいただき、ボートが利用できるようになった。いろいろ備品が必要になる。そろえていく楽しみがある。ただ、「ここは結果を出せる場所だ」と言える場所をまだ見つけていない。これからいろんなことを試して、人を乗せて案内できるようになりたい。

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今週の1枚
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第596回目。初聖体。この子供達も長い目で見ると田平教会平戸地区の希望。

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年間第6主日(ルカ6:17,20-26)神の国はあなたがたのものである

2019-02-16 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
19/02/17 (No.988)
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年間第6主日
(ルカ6:17,20-26)
神の国はあなたがたのものである
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今日一列目に座っている二人は、洗礼を受ける兄妹です。来週には初聖体を受けます。きっと楽しみにしていると思います。二人は、お母さんと一緒に神父様のところに初聖体を受けたいですとお願いに来ました。神父様はすぐに「もちろんいいですよ。お安いご用です」と言いたかったのですが、少し考えさせるために厳しいことを言いました。

二つ、厳しい質問をしました。覚えているでしょうか。一つ目の質問は、「初聖体を楽しみにしていると思うけれども、『楽しみにしていた初聖体が終わったから、教会に行くのはやーめた。』こんな気持ちだったら、洗礼も初聖体も受けられません。どうしますか?」この質問に妹さんは立派に答えてくれました。『初聖体のあとも、続けて教会に行きます。』」

もう一つの質問はこうでした。「これからもしかしたら、小学生中学生になって、習い事や部活に行くかも知れません。『部活で忙しくなったから、教会に行くのはやーめた。』こんなふうになるなら、洗礼も初聖体を認めることはできません。どうしますか?」この質問にも、立派に答えてくれました。『小学校に入っても中学生になっても、続けて教会に来ます。』」中田神父様はこの返事を聞いて、約束を守ってくれることを信じて、洗礼と初聖体を授けることにしました。必ず約束は守ってください。お願いします。

神父様には小学生の時の忘れられない出来事がいくつかあります。その中の一つを、今日の洗礼式と、中学生がお昼二時から受ける堅信式に役に立てて欲しくて話したいと思います。ご飯としょう油の話です。

神父様のお家は、初めのうちお父さんが船の仕事で頂く給料で生活していました。お父さんは1ヶ月のうち27日働いて3日帰ってきていました。お給料を受け取って、それですべてをしなければいけません。お母さんは働きに出ず、子供達と過ごしていました。

昼ご飯の時です。ご飯としょう油だけでした。「お母さんおかずは?」と聞いたら「ない。ごめんね」と言われました。他にもお金が出ていくので、とうとうおかずが買えなくなったのです。そんな時に、教会の班の班長さんがやってきて、教会費をお願いしますと言っています。

お母さんは用意していた封筒を班長さんに預けました。その時子供の私は、「おかずがなくても、教会費は必ず払うんだな」と思ったのです。お母さんは私たちにこう言いました。「神様が生かしてくださるのだから、神様のためのお金は減らすことはできない。」神父様はその時に、私たち子供はご飯としょう油で生かされているのではなくて、神様に生かされているんだなと覚えたのです。

神父様は時々、お母さんが学校の担任の先生から「子供さんがいつも同じ服を着ています」と言われているのを聞いていました。服を持ってなかったからです。だから神父様は友達から「着たきり雀」と言われていましたが、私を生かしてくださっているのは神様だと知っていたので、何を言われても平気でした。

忘れないでください。今日洗礼の恵みをくださった神様が、二人を生かしてくれるお方です。来週初聖体のお恵みを与えてくださり、中学生になった時に堅信のお恵みを与えてくださる神様が、あなたたちを生かしてくださるお方です。ですから、これからも続けて教会に来てください。神様の恵みを受けて、神様に頂いた永遠の命を大切にしてください。二人が約束してくれることを信じて、洗礼を授けたいと思います。

(日曜9時以外のミサの説教のために)今週の9時のミサで、二人のお子さん、兄と妹が洗礼を受けます。9時のミサではその二人に向けて話をする予定です。そのままの話をするわけにはいかないので、内容をかいつまんで話したいと思います。

お話しした二人は、お母さんと一緒に初聖体を受けたいですと私のところにお願いに来ました。すぐに「もちろんいいですよ」と言いたかったのですが、少し考えさせるために厳しいことを言いました。一つ目の質問は、「楽しみにしていた初聖体が終わったから、教会に行くのはやーめた」では困るとはっきり言いました。妹さんは「初聖体のあとも、続けて教会に行きます」と立派に答えてくれました。

もう一つ、「これからもしかしたら、部活で忙しくなったから、教会に行くのはやーめた」となるかも知れない。大丈夫かと。この質問にも、立派に答えてくれました。中田神父は子供達の立派な返事を聞いて、洗礼と初聖体を授けることにしました。

私は続けて、小学生の時の忘れられない体験を話しました。ご飯としょう油の話です。実家は、初めのうち父が船で稼いだ給料が全てでした。遠洋漁業で1ヶ月のうち27日働いて3日帰ってきていました。給料を受け取って、それですべてを賄わなければなりません。

ある日の昼、ご飯としょう油だけ並んでいました。「お金が底をついたのだ」と分かりました。そんな時に、教会の班長さんがやってきて、「教会費をお願いします」と言われました。

お母さんは用意していた封筒を班長さんに預けました。子供ながらに、「おかずがなくても、教会費は必ず払うんだな」と思ったのを覚えています。母は信念を曲げない人でした。「神様が生かしてくださるのだから、神様のためのお金は減らすことはできない。」

私は時々、母が学校の担任の先生から「子供さんがいつも同じ服を着ています」と言われているのを聞いていました。友達からも「着たきり雀」と言われていました。何を言われても平気でした。私を生かしてくださっているのは神様だと知っていたからです。

洗礼を受ける二人にこれだけは伝えたい。今日洗礼の恵みをくださった神様が、二人を生かしてくれるお方です。次週初聖体のお恵みを与え、中学生になった時に堅信のお恵みを与えてくださる神様が、あなたたちを生かしてくださるお方です。二人が続けて教会に来て、神様に頂いた永遠の命を大切にしてくれると信じ、洗礼を授けたいと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第7主日
(ルカ6:27-38)
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ちょっとひとやすみ
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▼田平から宿を取った都城市まで車で走った。6時間もかかった。帰りも6時間。片道5千円くらい浮くけれども、数人で行くならまだしも、一人で行く時は交通費がかかっても公共機関で行くべし。都城グリーンホテルに到着した時は、ばったり倒れてしまった。
▼一通り、周囲の町を見渡す。都城駅周辺も、結構な都会だった。ここでは夕食だけしかお金を使わず、明日の日南市油津にある天福球場までの道のりと、明日球場に着いてからどの選手を見ることができるだろうかと思うとじっとしていられなかった。
▼翌日。朝早くから朝食をとって、ナビの言われるままに一時間ちょっと車を走らせた。そう言えば思い出した。朝、車を見たらボンネットも屋根も凍っていた。「宮崎だよね?ここ」首をかしげる。車のエンジンをかけ、暖房を入れてしばらく氷を取り除く。
▼一時間ちょっとのドライブが、どこをどう走ったかは分からない。気にもしていないが、日南市の漁港がナビに現れた時、道路に立て看板が見えた。「カープキャンプ観戦駐車場はこちら。」正確な表記は覚えていないが、その看板を見た時「キター!」と思ったのは確かだ。ひょっとしたら、それで満足して田平に帰っても構わない、それくらいの興奮だった。
▼駐車場に車を置くと、人が集まっている場所があり、のぞいてみると球場行きシャトルバス乗り場だった。30分おきにバスが運んでいるそうで、ウキウキして乗ると、同乗した年配の人たちが得意げに自分のひいきの選手が昨日はああだった、今日はどうだろうかと話をしている。それだけで、「盛り上がってるなぁ」と思ったのだった。
▼準備体操を重ねている頃に球場に入った。長野選手を探していたのだが、お恥ずかしいことに見つけられない。そうこうしていると近くにいたファンが「あ、あれ長野じゃ?」と言っている。慌ててカメラを向ける。熱心なカープ女子の用意していたカメラに驚く。長さ50cmはあろうかと思われるレンズをセットしたカメラを一脚にセットしていた。それに比べたら私のEOS Kiss X9がオモチャに見えた。

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今週の1枚
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第595回目。facebookには日南キャンプ複数。今週は洗礼式と堅信式。

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年間第5主日(ルカ5:1-11)イエスのことばに信頼し、一歩踏み出す

2019-02-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/2/10(No.987)
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年間第5主日
(ルカ5:1-11)
イエスのことばに信頼し、一歩踏み出す
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年間第5主日C年、「漁師を弟子にする」場面が選ばれました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5・5)ペトロの勇気ある答えに、私たちも耳を傾けましょう。

先週マラソン大会の報告を少しだけしましたが、お恥ずかしい話がくっついていまして、ついでに話したいと思います。53分42秒で走り終えて、完走した人から順に、司祭館と信徒会館のお風呂を開放してひとまず着替えることになります。希望者は「コンカナ王国」というホテルの大浴場に連れて行ってもらえるのですが、私は福江でのマラソンを終えてすぐ上五島に船で移動し、実家に帰ることを優先したので、教会信徒会館のシャワーだけ浴びさせてもらったのです。

疲れていたのでしょうか。またもやここで着替えを持たずにシャワーに入ってしまいまして、信徒会館から司祭館に戻って着替えるまで、グチョグチョに濡れた服をまた着て戻りました。司祭館で慌てて着替え、上五島行きのフェリーに乗るために若い司祭にターミナルに送ってもらったのですが、フェリーの中で荷物を確認したら、なんとマラソンで着ていた服がリュックに入ってないのです。

レジ袋に放り込んで、司祭館の応接室に置いたまま、司祭館を出るという失態をしでかしました。福江教会の助任の山内啓輔神父様に、「すまんけど、これこれの忘れ物をしたので送ってくれ」とお願いする羽目になりました。きれいに洗濯を終えて戻ってきましたが、私のパンツ、山内神父様が選択してくれたのでしょうか?

マラソン大会のコースは堂崎天主堂から福江教会まで約9キロあるのですが、楽々走り終える人は別として、私のように最後は気力もなくなるようなレベルの人は、振り返るとよくまぁ最後まで走り終えたなと我ながら感心するのです。残り3キロあたりで気力体力をすべて奪い取るような坂道が待っていまして、去年もそうでしたが、今年もこの坂道をどのように登り切ったのか、全く思い出せないくらい疲れ果てました。

何も考えられないくらい疲れていましたが、それでも何かしら、希望はあったのです。なぜならその坂を登り切ると、あとはゴールまで2キロとなり、確実に終わりが近づくからです。自分で勝手に「地獄の上り坂」と名付けていますが、この坂を登り切る力はどこから来たのかと考え直しました。

もはや気力も体力もなくなった頃にこの「地獄の上り坂」がやって来るわけです。体力とか、気力を超える何かが、背中を押してくれた。そうとしか考えられません。私はその「何か」を、ペトロの言葉から考えてみたのです。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5・5)

ペトロもまた、夜通し働き、体力も気力も残っていませんでした。何をどうやっても、結果を出せるはずがない所まで追い詰められていました。それなのに、「お言葉ですから」そう言って、網を降ろしたのです。釣りをする人はよく「最後の一投」とか言って仕掛けを降ろしますが、ペトロは最後の一投はすでに降ろして引き返してきていたわけで、さらにもう一回網を降ろすのは自分のためではなくイエスのためだったのです。

すると状況が一変しました。「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(5・6)のです。もはやペトロの気力体力の延長線上には何も期待できませんでした。全く違うものに信頼を寄せて、一歩踏み出したのです。ペトロの延長線上ではなく、これから始まる「イエスのことば」に信頼を寄せて、歩き出した。そこで状況は一変しました。

私も、それに近い感覚をマラソンで味わいました。もはや自分の気力体力は「この地獄の上り坂は登れない。生まれて初めて、歩いてこの場をしのごう。」そういう誘惑に駆られていたわけです。自分の気力体力の延長線上では、もはや乗り切ることは無理だったのです。

しかし、何かが背中を押してくれました。全く違う何か。言い過ぎかも知れませんがそれが、「イエスのことば」なのだと思います。「ここで歩いたら、田平教会の今年一年の司牧活動も、肝心な時に歩くことになるぞ。それでもいいのか。」言葉に表せば、そういうことでしょうか。

状況は一変しました。坂を登り切って、急に元気が出てきました。どこにこれだけの元気が残っていたのかと思うくらいです。それは、坂を歩いてからでは決して得られない劇的な変化でした。あのときの体験があるから、戻ってからの司牧も頑張れますし、ここだけの話ですが、ルームランナーも今も続けて30分40分のトレーニングを積み上げています。

ペトロが体験したことは、「イエスの言葉に信頼を置いて一歩踏み出すと、状況はすっかり変わる」ということです。ペトロが持っている気力体力の延長線上にはもはや希望は何も見えなかったのですが、そんな中でイエスのことばは人に希望を与え続けるのです。

私たちがどんなにこの先続けても希望が持てないと考えるのは、自分の気力体力、知力の延長線上で物事を考えているからだと思います。全く違う道があります。イエスのことばに信頼を置いて一歩を踏み出すということです。

イエスは今も、私たちにことばを掛けて、「わたしを信じる者は決して乾くことがない」(ヨハネ6・35)「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(同11・25)「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(同14・12)と招き続けているのです。イエスのことばに信頼を置くかどうかはあなたに委ねられています。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(ルカ6:17,20-26)
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ちょっとひとやすみ
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▼「イエスのことばに信頼して一歩を踏み出すと、状況は一変する。」果たしてそうであろうか。そうであって欲しい。放蕩息子のたとえは、父親の財産を無駄にしてしまったが、かつて父に愛された日々を思い出し、立ち直った。財産は無駄になったが、父のことばによって生きる者となった。
▼大好きな韓国ドラマの中で、「イ・サン」というのがあって、その中である人物が牢に入れられ、牢の中からこう言う。「大きな権力を手にした者は、転落も早いものだ。今の私がそうであるように、いずれそなたも同じ目に遭うであろう。」野心に駆られた人物が、野心に燃える同じタイプの人に忠告する。そして同じことがドラマでは起こった。
▼私たちは神の手の中にあるのだから、神の言葉に信頼を置いて一歩を踏み出すのでなければ、やはり世の中と同じ目に遭うのではなかろうか。神の言葉に信頼を置いて再出発するために、この世のものをどれだけ失っても、再出発さえできれば。実はそこまでの気持ちには到達していないのだが、そうでありたい。そう信じたい。
▼いよいよプロ野球もキャンプ情報が入り出し、自分もじっとしていられなくなってきた。日南キャンプを視察しに行こう。今年の目玉は長野選手。自分としては、「巨人の看板」を引きずっていないか、その辺を見てみたい。すっかりチームの一員となってチームを盛り上げてくれていたらと、心から願っている。

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今週の1枚
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第594回目。いちおう、キャンプの模様を。数日お待ちください。

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年間第4主日(ルカ4:21-30)敵意の中を悠然と立ち去るイエス

2019-02-02 | Weblog
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年間第4主日
(ルカ4:21-30)
敵意の中を悠然と立ち去るイエス
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「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」(4・30)先週のイエスの恵み深い言葉は会堂内にいる人々に期待を持たせましたが、人々が期待していたのは社会一般に行われている地元への利益誘導とか身内にもたらされる特権とかでした。イエスは政治家でもなく、権力を用いて身内に恩恵をもたらす人でもありません。人々が勝手に思い描いていた期待は崩れ去り、イエスは人々の憎しみに取り囲まれます。絶体絶命の危機に、イエスは何を思ったのでしょうか。

司祭団マラソン大会は、まずまずの成績でした。去年のタイムを更新したからです。「悔いはないか?」と言われたら、もう少し走れたかも知れないなぁという悔いはあります。9キロのマラソンを走りきった翌日には、浜串の海に出てイトヨリ釣りを満喫していたからです。筋肉痛で一歩も動けないほど走っていれば、翌日ウキウキしてボート釣りなどできないはずですから。

教会敷地の道路向かいに、黒毛和牛の像が設置されましたね~。私は賄いさんにこう言いました。「これから牛肉は買いに行かずに、こっそり包丁で削ってくるだけでいいよね。」さらにこう付け加えました。「あんまり頻繁に行くと牛に怒られるからね。」「どんなふうにですか?」と言うので、「『もう~』って怒られるさ」と言いました。

「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」(4・28-29)かわいさ余って憎さ百倍と言いますが、まさにそういう状況でしょう。けれども人々はイエスに怪我一つ加えることができませんでした。利益誘導を期待していたのも事実でしょうし、身内が恩恵にあずかれるかも知れないと思っていたのも事実でしょう。だから対抗も反論もできなかったのだと思います。

敵意と憎しみの中を通り抜けて、イエスは悠然と立ち去っていきます。今週の聖書朗読の中でいちばん最後、もしかしたら中心部分ではないのかも知れませんが、私はイエスの姿を見送るようにしてじっと眺めてみました。どんな思いだったのでしょうか。

一つ考えられるとしたら、イエスがエルサレムに入られる場面です。イエスは子ロバを用意してもらい、それに乗ってエルサレムに入られます。マタイ福音書を引用すると、「そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」(マタイ21・9)ここでイエスは歓喜の声に迎えられていますが、彼らがまもなく「十字架につけよ」と叫ぶこともご存じでしたから、歓喜の声を気に留めることもなく、悠然と通り抜けたのだと思います。

両方に共通するのは何でしょうか。それはイエスを取り囲んでいる人が歓喜の声を上げても憎しみを燃え上がらせても、イエスはその声に振り回されなかったということです。敵意の中でも歓呼の中でも悠然とその中を通り抜けることができたのは、イエスが王の中の王であったからです。父である神が王であるキリストの保証であり、民衆が一喜一憂しても、全く振り回されることはなかったのです。

自分自身に当てはめて考えてみました。ミサが始まる時、入祭の歌に合わせて入堂します。特に大祝日のミサでは聖堂中央の通路を通って入堂します。参列者の様子が気になります。聖歌に力がなければそれも気になります。今日のミサは何人か。いろいろ気にして通路を歩いているのです。

もっとイエスのように、悠然と入堂できるはずです。私がささげる礼拝は、父なる神へ、会衆とともにイエスによってささげる礼拝です。今日のミサに何人出席していようが、それが何だというのでしょう。揺るぎない心で、入堂し、ミサをささげる。イエスが人々の間を通り抜けて立ち去られたあの場面を思い巡らしながら、自分自身の取り組む姿勢を考えさせられたのです。

皆さんも、イエスが敵意の中を通り抜けて立ち去られた場面から、ふだんの生活を思い起こしてみましょう。皆さんの中には、家庭で祈りをしている方もおられるでしょう。一方で内心は「ほとんどのカトリック信徒は、朝晩の祈りをしていないかも知れない」という疑いも持っているかも知れません。

それが何だというのでしょう。私は朝晩の祈りを全うする。祈りを受け取るのは父と子と聖霊の神です。周りを気にして何になるでしょう。神様と私だけが、ささげている朝晩の祈りを知っています。それだけで十分ではありませんか。祈りを受け取ってくださる神だけが、私を今日生かしてくださるのです。

ある日、五島から長崎に向かうフェリーの甲板で、一人の先輩司祭が私にこう言いました。「俺は最後まで司祭職を全うする。たとえ長崎教区のすべての司祭が職務を全うできなかったとしても、私は全うする。そういう覚悟だ。」

ひょっとしたら私が、先輩をうさんくさい目で見ていたのかも知れません。私の目が「お前はチャラ男だ」と訴えていたのかも知れません。あのフェリーで交わした会話が、その先輩と交わした数少ない会話です。言葉で言ったことはないですが、この先輩すごいなぁと思いました。

イエスは敵意に取り囲まれている中を、悠然と通り抜け、立ち去って行かれます。私たちカトリック信者も、熱心に信仰してどうなるのだと、静かな敵意の中に取り囲まれています。イエスのように、悠然と通り抜けましょう。

堅信式、初聖体式を控えている子供達も、強い気持ちでいて欲しいと思います。カトリックの信仰を守り抜くということは、いつの時代でも火の中・水の中を通るよりも難しい道なのです。それでも悠然と、堅信式、初聖体式を通り抜けることにしましょう。私たちが見るべき相手は、わたしたちを生かし、救ってくださる全能の神なのです。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(ルカ5:1-11)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
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▼今年のマラソン大会は、本気で「通過点」だと思っている。トレーニングをする中で当日を迎え、今日(土)も練習を再開している。カレンダーにもトレーニングに掛けた時間を真面目に記録している。あと1~2ヶ月もすれば、私の顔はヘルメットの中でも隙間ができるだろう。
▼暴飲暴食もしなくなった。全くしないというわけではないが、トレーニングのおかげなのか、急に体重が増えることもなくなった。あちこち疲労は残るが、痛めて翌日練習を休むという場面は全くない。とても良い状態だ。案外これが唯一心配な点かも知れない。
▼2月5日は日本26聖人殉教者の祝日。教区主催のミサは明日3日に26聖人記念館前の広場でささげられる。都合があって行けない。5日に、田平教会でミサをささげる。この田平教会は26聖人にささげられた教会だ。26人の司祭を輩出することを目指してささげられた教会だ。
▼現時点で22人なので、26人目を見ることは私はないが、いつの日にかそういう日が来て欲しい。そう願ってミサをささげようと思っている。私たちは現実が22人であっても、26人になることを悠然と願ってミサをささげる。
▼「今こういうことをして何になるのか。」今を見て考えればそうだろう。しかし教会の歩みは50年とか、100年の歩みでもある。私は揺らぐことなく、まかれた種が実を結ぶことを信じ、悠然とミサをささげる。

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今週の1枚
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第593回目。初めて度付きのサングラスを買った。車・バイクの運転が楽に。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント
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