こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第1主日(マルコ1:12-15)悔い改めて福音を信じる生き方に舵を切る

2015-02-22 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/02/22(No.754)
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四旬節第1主日
(マルコ1:12-15)
悔い改めて福音を信じる生き方に舵を切る
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四旬節の主日に入りました。イエスは荒れ野でサタンの誘惑を受けます。同時に天使がイエスに仕える中で、イエスは荒れ野での誘惑を退け、ガリラヤに行って神の福音を宣べ伝えました。どのような誘惑を受けても最後は福音を宣べ伝えるイエスの姿に、四旬節を過ごす心構えを学びとりましょう。

地域の皆さんは福見修道院のシスター岩谷チヅ子さんをよくご存知でしょう。木曜日、脳梗塞の症状が出て朝4時半に上五島病院に救急搬送されました。わたしにも連絡が入ったので、朝ミサの時間を気にしながら上五島病院に駆けつけ、病者の塗油を授けました。

ただ、脳内には多量の出血があったようで、処置を受けたものの土曜日朝お亡くなりになりました。日曜夜6時から修道院で通夜、翌月曜日11時から福見教会で葬儀ミサです。お祈りください。わたしも何かを話さなければなりませんので、これから考えてみたいと思います。

福音はとても短い語りの中で、イエスが受けた誘惑とガリラヤでの伝道の様子を伝えます。同じ出来事を伝えるマタイやルカは、誘惑の具体的な内容や、どのようにサタンに立ち向かったかを述べていますが、マルコは具体的な内容には触れません。この世にあってはイエスさえも誘惑にさらされる。そのことは折り込み済みなので、もっとその先、誘惑を乗り越えたイエスに注目させようとしているのだと思います。

では誘惑を退けたイエスの次の行動とは何でしょうか。それは、神の福音を宣べ伝えたということです。こうしてイエスはわたしたちに、誘惑にさらされることはこの世では避けられないが、その先の神の福音を宣べ伝えることに、いつも心を向けて生活を整えなさいと呼びかけているのです。

それでも、ある疑問が残るでしょう。「誘惑を乗り越えた先の宣教は理解できるが、誘惑をそう簡単に乗り越えられるだろうか。」サタンと呼ばれる悪霊は、人間よりも知恵と力に勝る霊です。誘惑をそんなにたやすく乗り越えられるものでしょうか。

この疑問には次のように答えたいと思います。イエスは40日間、荒れ野で誘惑を受けました。このイエスの40日間は、40年の荒れ野でのイスラエルの民の試練を暗示していると思います。また、当時は40年という期間はほぼ人間の一生をも表すほど長い期間だったでしょう。

ですから、イエスが40日間荒れ野で誘惑を受けていたあいだ天使がそばで仕えていたように、わたしたちが誘惑を受けるとき、イエスがそばにいて誘惑を乗り越えさせてくれるはずです。それは短期間ではなく、人間の一生に渡ってイエスは誘惑に立ち向かうわたしたちを守ってくださるということです。

わたしたちのちっぽけな力では、強大な悪の誘惑に打ち勝つことは不可能でしょう。しかし、イエスが常にそばにいて守ってくれます。そして誘惑を乗り越えて、神の福音を宣べ伝える者としてくださるのです。

では、何を宣べ伝えればよいのでしょうか。宣教は、何かを伝えるということの前に、生き方そのものだとわたしは思っています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1・15)このイエスの宣教の第一声に従い、わたしたちが悔い改めること、福音を信じた生き方に留まることがわたしたちにできる宣教ではないでしょうか。

たとえば、徴税人のマタイはイエスの声に従い、弟子となりました。ユダヤを支配するローマ帝国への税金として徴収したお金を数える生き方から、イエスに聞き従うことを中心に据える生き方に切り替わったのです。わたしたちも大なり小なり、お金を数えて生きる生き方をしています。わたしたちが大胆に、イエスに聞き従うことを中心に据えて生きる人に変われば、それは社会に対して大きな宣教になるわけです。

ナタナエルという人は、フィリポにイエスを紹介されて「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1・46)と言いました。ナタナエルはイエスに出会い、すっかり変わりました。出身地や、性別や、人種や身分の違いに左右されず、イエスをすべて信じ、受け入れる人に変わったのです。

イエスを証しするのに十字架上の死はわたしたちにとって抵抗があるかもしれません。しかし人間的な思いを捨てて、大胆にイエスのありのままを語る人に変われば、大きな宣教ができるのです。

長い人生のさまざまな場面で、わたしたちは神に敵対する勢力の誘惑にさらされています。イエスが共にいて、誘惑に打ち勝つことができるように守ってくださると信じて、目の前の誘惑に振り回されず、むしろ大胆に自分の生き方を証しに変えましょう。

「わたしは、イエスを中心に据えて生きます。」この証しがあれば、難しい言葉がなくても誰もがイエスの弟子、宣教の担い手となれるのです。


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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(マルコ9:2-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週は大見え切ったが、一つだけズルイことをしたので謝っておきたい。徒歩巡礼をした相方と、2日目から車でバックアップしてくれることになった後輩司祭、ほか多少なりとも関係する人たちが今週の「ちょっとひとやすみ」を読んでいないことを願いたいが、2日目のコースでは姑息なまねををした。
▼「今村巡礼折り返しコース」の2日目は、厳密には平良町多良駅から諫早市(ホテル)の約34kmである。だが初日で相方がリタイアし、正直わたしの気持ちは折れていた。このまま先のルートをまともに歩いたら、この日予定していた午後5時半の諫早教会でのミサに間に合わないのではないかと心配になったのである。
▼そこで一計を案じた。車でバックアップしてくれる後輩司祭が、わたしと、リタイアすることになった司祭を乗せ、宿泊した佐賀駅隣のホテルから平良町多良駅まで運んでくれた(後輩が車でのバックアップを引き受けてくれたのでこの移動が実現したが、もともとこの区間はJRで繋ぐ予定だった)。
▼多良駅到着は8時15分。2日目から車でバックアップしてくれた後輩と、リタイアし、その車に乗って長崎に帰る後輩を見送れば、本来ここから歩き始めなければならないわけだ。だがわたしは前の晩に下調べをし、「9時4分にやって来る各駅停車で次の肥前大浦駅まで乗り継ぎ、そこから歩こう」と前もって決めていたのである。
▼多良駅から肥前大浦駅は一区間に過ぎないが8kmある。2時間弱の計算だ。本来8時15分に徒歩でスタートすれば、肥前大浦駅付近を10時頃通過することになる。1時間遅れの9時4分、誘惑する電車が到着した。ためらうことも恥じることもなく切符を買い、一区間乗車した。肥前大浦到着が9時17分。瞬間移動して約45分稼いだ形だ。これでこの先の徒歩巡礼にもかなり余裕が持てるようになった。
▼肥前大浦駅から歩きだして、午前11時に去年の「大浦天主堂→今村天主堂コース」2日目にちゃんぽんを食べた店を通過した。うまいちゃんぽんの記憶がよみがえったが、残念ながらまだお腹が空いていない。そりゃそうだろう。泣く泣く先を急いでいると、11時半頃に予期せぬことが起きた。朝から車でのバックアップに回ってくれていた後輩司祭が、自分の進行方向に立って待ち構えているではないか。
▼わたしは心臓が飛び出るくらいに驚いた。8時15分に「じゃあな」と見送り、それから小一時間潰して9時4分JRに乗ったのがバレたかと思ったからである。そんなことを知る由もないバックアップの後輩司祭から痛いところを突かれた。「先輩えらい早かったですねー。12時頃に去年のちゃんぽん屋あたりでちょうど合流かなと思って様子を見に来たら、ずいぶん進んでるじゃないですかー。」
▼『お、おー。かなりペースを上げたからなぁ。11時に例のちゃんぽん屋を通過したけど、まだお腹すいてなかったからやり過ごしちまったよ(汗)』「先輩そろそろ12時ですよ。少し先に別のちゃんぽん屋があるので、そこで一緒に食べましょう。先に行って待ってます。」『そ、そうだな。そうするか(大汗)』さらに1km進み、指定された別のちゃんぽん屋で合流、ちゃんぽんを食べたが、さすがにほとんど食べた気がしなかった。

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今週の1枚
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第361回目。この店のちゃんぽんがうまかったのだが。ズルしたので今回お預け

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年間第6主日(マルコ1:40-45)困難な立場にあるときほどイエスがそばにいる

2015-02-15 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/02/15(No.753)
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年間第6主日
(マルコ1:40-45)
困難な立場にあるときほどイエスがそばにいる
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今週は季節のはざまに置かれた年間の主日から四旬節に移行する週です。水曜日には灰の水曜日が設定されていて、頭に灰をかぶり、四旬節の償いと犠牲が始まります。この典礼の切り替わりの季節に、今週の朗読個所から学びを得ることにしましょう。

何とか、徒歩巡礼を終えてきました。3日間歩き続けましたが、わたしと一緒だったもう一人の神父さまは初日で太ももを痛めギブアップ。2日目以降リタイアしましたので、2日目と最終3日目はたった一人の徒歩巡礼でした。徒歩巡礼と言うよりも、トホホ巡礼と言った感じです。

初日に相方が歩けなくなったことで「あー、明日からが思いやられるなぁ」とへこみ、わたしは考えられないミスを犯しました。その1つは洗濯物です。初日を終え、店を探して食事を済ませ宿に戻り、明日の準備のために着ていた物を洗濯乾燥機に投げ込んだのです。

2時間ほどして戻ってみると、洗濯物は桜の花びらのように細かくちぎれた紙屑が無数にくっついた状態で乾いていました。「これはヒドイ。誰だ?こんなことする人は」などとぶつぶつ言いつつ、散乱した紙屑を洗濯物からはがしていて気付きました。その紙屑は、わたしが迷子にならないように用意した巡礼地図だったのです。1日のコースを4分割したものを3日分、ポケットに入れたまま洗濯していたのです。

別の事件は最終3日目の朝に起こりました。「あぁ、今日も単独徒歩巡礼か・・・あれっ、今何時だ?」やってしまいました。6時起床の予定が、目覚ましに気付かず7時に起きたのです。最終木曜日は大浦天主堂に到着して2時25分のジェットフォイルまで予約していました。

寝坊した1時間を挽回しなければなりません。セットで付けた朝食はあきらめ、とっとと出ようと手に掴んだものを頭からかぶったのです。ところがその頭にかぶったものがどうやっても頭を通過しません。つまり頭からかぶるものじゃない物を、生涯初めて頭からかぶったのです。独りになれば考えられないミスを犯します。次回からは、最悪でも単独での巡礼にならないメンバーを集めなければとつくづく思いました。

さて福音朗読は、「重い皮膚病を患っている人をいやす」場面です。説教の準備のために解説書を読んでいて、興味深い箇所に行き当たりました。それはギリシャ語写本の問題で、どの写本をもとに翻訳するかで意味がすっかり変わる個所が聖書にはあるというものでした。

この問題に該当するのが「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」(1・41)という日本語訳の「深く憐れむ」の部分です。多くの日本語訳で参考にした写本は「深く憐れんで」という読み方を採用したものですが、古い写本の中には「イエスが怒って、手を差し伸べてその人に触れ」と解釈しているものがあるのだそうです。

もし両方の解釈を示されたら、皆さんはどちらを採用するでしょうか。「イエスが深く憐れんで・・・」を採用すれば、わたしたちが一般に想像するようなイエスさまの姿に当てはまるので受け入れやすくなります。一方「イエスが怒って・・・」を採用するとなれば、「イエスさまは怒ったりするだろうか」と疑問を持つことでしょう。

聖書を突き詰めて読もうとすると、今回のような難しい問題が出てきます。聖書は解釈が分かれるとき「より困難な読み方がより正しい」という原則があるそうです。これに従えば、だれでも受け入れられる「イエスが深く憐れんで・・・」よりも「イエスが怒って、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言った」という解釈がより実際に近いことになります。そして「より困難な読み方が、より正しい学びを得られる」ということになるのではないでしょうか。

方言を身近な例として考えてみましょう。方言の中には、標準語ではなかなか言い表せない用例もあると思います。驚きを表す「あっぱよ」は「びっくりした」でほぼ言い換えができるかもしれませんが、同情とか、共感を表す「あおー」とか「あよー」は、標準語ではなかなか言い換えが難しいと思います。「あおー」「あよー」を「同情」「共感」と言ってみたところで、年配の方々は決して納得しないでしょう。

この場合、「より困難な解釈がより正しい」のです。どの標準語でも言い表せないけれども、「あおー」は「あおー」なのです。その場面で同情し、共感したに違いありませんが、「あおー」を別の言葉に置き換えるのは、ほぼ不可能だと思うのです。

では「イエスが怒って、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言った」この困難なほうの解釈に立つとしたら、誰に対して、何に対して怒ったのでしょうか。それは人を困難な状況に突き落とした病、神の望みに適った生活をさせまいとする悪への怒りなのです。

らい病とかハンセン病と言われる重い皮膚病を患った人は、家族からも離れて暮らさなければならず、人が近づくと「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫ばなければなりませんでした(レビ記13章45節)。共同体の交わりを絶たれ、人間以下の生活を強いられたのです。

イエスはそのような重い皮膚病の人に、深く憐れまれたのです。人をこのような悲惨な目に遭わせる悪に対して怒りに震え、深く憐れんでこの人の病を取り除いてくださったのです。誰も手を差し伸べてくれず、触れてくれる人もなく、絶望の淵に立たされた人に、「わたしがもう一度、あなたを家族や共同体の交わりに戻してあげる」と、怒りに震えながら、深く憐れんで、いやしてくださったのです。

わたしたちはどうでしょうか。誰かを助けるために手を差し出す時、怒りに震え、深く憐れんで手を差し出すことがあるでしょうか。誰も助けようとしないその時、助けない人々や助けようとしない雰囲気に怒りながら、たった一人ででも助けようとする場面があるでしょうか。

あなたがもし、困難なほうの解釈に立たされる場面があるとしたら、恐らくその立ち位置は正しいのだと思います。キリスト者として、勇気を持ってそこから一歩を踏み出してください。あなたの怒りにも似た深い憐れみを、イエスはきっと共にいて、支えてくださいます。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(マルコ1:12-15)
‥‥‥†‥‥‥‥


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ちょっとひとやすみ
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▼3日間に及ぶ徒歩巡礼を無事に終えてきた。正確には巡礼には該当しないかもしれないが、浦上キリシタンが今村キリシタンを発見し、そのうちの何人かを伴ってほぼ今回のルートを辿って喜び勇んで長崎に帰り、大浦の司祭に報告に行ったことを想像しながら歩くことができた。
▼最初司祭2人で始めた徒歩巡礼だったが、相方が太ももを痛め初日で戦線離脱となったのは精神的にきつかった。2日目から単独徒歩巡礼となったわけだが、志を同じくする人が隣にいない中で歩き続け、前に進むのは徒歩そのものとは別のきつさを感じた。
▼ただもともとの計画では、いざとなったら1人ででも成し遂げようと思っていたから、当初の計画通りと言えば言えなくもない。とは言え初日から1人で徒歩巡礼を始めていたら、本当に完遂できていたか今となっては分からない。1日だけとは言え、共に歩いてくれた後輩司祭には感謝している。相方をしてくれたこの司祭は、ゴール地点の大浦天主堂そばでわたしを待ってくれていた。
▼今年の3日間徒歩巡礼のゴール、国宝大浦天主堂でしばらくお祈りし、帰りのジェットフォイルに乗り込むため、大浦から大波止までの移動に2人でタクシーに乗り込んだ。運転手がわたしのリュックサックを見て「旅行なさってるのですか」と聞くものだから、事実をありのまま「たった今、諫早から大浦まで歩いてきたんですよ」と答えたら、「お客さんご冗談でしょう」と言わんばかりに運転手から大笑いされた。
▼わたしはムッとして「今日だけじゃなくて、福岡の大刀洗というところから都合3日間で90km歩いて大浦に来たんだよ(「それでも笑うか」と心の声)」と答えると運転手は黙ってしまった。厳しい徒歩巡礼を成し遂げたその事実が、相手を圧倒し、黙らせたわけだ。その後も同乗していた後輩司祭と、最終日諫早からの道のりで起こったことをあれこれ話して大波止に向かったが、運転手は一切口をはさむことはなかった。
▼わたしの歩いた距離はたかだか90kmだが、26聖人の歩いた距離は京都から長崎である。道行く人、連行した役人たちを黙らせるには十分すぎるほどの迫力があったに違いない。わたしが歩いた諫早長崎間の約6時間25kmでさえ一般の人を黙らせたのである。26聖人の道のりが日本の人々に及ぼした効果は計り知れないと思う。
▼そう考えると、キリスト者はキリストを知らない人やキリスト教を信じない人に対して、自分が何かしら圧倒するもの、良い意味で黙らせるものを持っておく必要があると思う。「信仰のために100km以上離れた2つの教会の間を3日間で歩いて結ぶことができる」たとえばこのような、口をはさませない圧倒的な証しを、何かしら持っておく必要があると思うのである。
▼それは別に、若いからとか体力があるからできるような証しでなくても構わない。何十年と続けてきた朝夕の祈りだって、十分に圧倒的な証し、人を黙らせる力ある証しである。そうした証しがかつてはそこここにあったから、司祭が250年奪われても、またキリシタンのうちの何人かが殉教したり流配されたりしても信仰が伝承されてきたのではないだろうか。
▼来週に続く。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第360回目。目的地に到着。腕を組んで威張りすぎ。

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年間第5主日(マルコ1:29-39)だれもがイエスに手を貸す人、もてなす人

2015-02-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
15/02/08(No.752)
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年間第5主日
(マルコ1:29-39)
だれもがイエスに手を貸す人、もてなす人
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年間第5主日に朗読されるイエスの活動は、時間に縛られず、場所も多岐にわたり、精力的に活動する様子が描かれています。イエスの宣教に触れた人々の中で、シモンのしゅうとめが目を惹きます。この、シモンのしゅうとめから今週の学びを得ることにしましょう。

いよいよ今週10日(火)から12日(木)にかけて、徒歩巡礼を実行に移します。去年、大浦天主堂から福岡の今村教会に向けて歩きましたが、今年はその折り返し、今村教会から大浦天主堂を目指して3日間歩きます。今、日程とコースを発表しました。「いつ巡礼に行くのですか」「どこを巡礼するのですか」とミサの帰りに聞かないでください。

徒歩巡礼ですから、もちろん先人たちの思いを反芻しながら巡礼するのですが、今年は他にもいろんな思いを胸に秘めて巡礼しようと思っています。一人の女性は手術を控えています。術後の経過によっては生活が一変するかもしれません。その人のことを少し思いながら巡礼しようと思います。また一人の男性は心を病んでしまっています。その人の重荷が少しでも軽くなるために、巡礼の労苦を神さまにささげようと思います。「巡礼の苦労に勇気づけられる人がいるかもしれない。」この思いを胸に、徒歩巡礼に行ってまいります。

福音朗読は、先週の朗読個所とつなげて見渡すと福音記者の伝えたいことがより鮮明になると思います。先週は会堂でイエスが宣教する姿が描かれていました。今週の朗読個所は、この会堂を出たところから始まります。

「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。」(1・29)となっています。ここから翌朝までの出来事が今週の朗読箇所ですが、実に精力的に働いておられます。日中の2つの場面に続き、夕方になると、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を家の戸口に連れてきました。さらに朝早くまだ暗いうちに、イエスは人里離れた所へ出て行き、祈っておられます。

ここまで整理すると、イエスは昼間会堂で宣教し汚れた霊を追い出し、シモンとアンデレの家に行ってシモンのしゅうとめの熱を去らせ、夕方には病人や悪霊に取りつかれた者を家の戸口でいやし、朝からは人里離れた場所で祈って、次なる宣教の場所へ赴いています。活動の場所も多岐にわたり、時間も日中、夕方、朝早くと、それこそ食事をする暇も、寝る間も惜しんで宣教しておられるのが分かります。

寝る間も惜しんで宣教するイエスに、人々はどのように反応したのでしょうか。今週の朗読では、人々のさまざまな反応は見当たらず、ただ一つだけ、シモンのしゅうとめが熱に悩まされているのを解放してもらうと、「彼女は一同をもてなした」(1・31)とあります。

今週の朗読個所に限っても、病気をいやされた人はきっとたくさんいたはずです。けれどもその人々の反応は記録されていません。どのような事情だったのか分かりませんが、シモンのしゅうとめの反応が唯一の手掛かりです。彼女の一同をもてなす姿から、何を学べばよいでしょうか。

シモンのしゅうとめのもてなしは、日常の務めを超える奉仕です。まずわたしたちに、自分のことだけで手いっぱいになっていないか、考えさせていると思います。

ちょうどわたしも、徒歩巡礼に向けてのトレーニングをしながら同じようなことを考えました。徒歩巡礼は、1日約7時間歩いて、それが3日間続く行程です。1日7時間とられると、ほとんど何もする時間はないなぁとつい考えがちです。

けれども、1日は24時間あるのだし、6時間睡眠を取れば残り18時間です。そこから徒歩巡礼のために8時間引いたとしても、それでもなお10時間残るのです。食事のために3時間引いたとしても残り7時間です。これはつまり、通常と違う働きを8時間果たしたとしても、それでも10時間は自分のための時間が残るということです。

そこからもう少し考えると、自分の生活で手いっぱいと考えている人にとっても、どこかに時間がないか考え直す余地がまだあるということです。イエスと行動を共にしている弟子たちのように直接的に宣教活動にかかわることも可能だし、シモンのしゅうとめのように弟子たちをもてなす奉仕活動や隣人愛の実践といったことや祈りの集いに参加することなど、宣教活動を支えることも可能です。

もし、だれもが「自分たちはみな、通常の生活の上にさらに何時間かイエスの宣教活動のお役に立てる時間を持っている」と考えてくれるようになれば、今の時代にもイエスはわたしたちを使って存分に宣教の実りを生むことができるのだと思います。

いつも決まった人がとか、限られた何人かがイエスのためにも時間を使えますと言っているのではなくて、だれでも名乗りを上げる。そのような教会家族であれば素晴らしいと思います。シモンのしゅうとめの姿は、イエスによって喜びを味わった人はだれでも、もてなす人になれるのですよと訴えかけているのではないでしょうか。

イエスは場所を選ばず、昼夜を問わず、あらゆる形で宣教し続けます。そのためにわたしたちの協力を必要としています。わたしたちのうち何人かだけが「教会のために働いてもいですよ、イエスさまのために働けますよ」と名乗りを上げるのではなく、だれもが声を上げる、そういう小教区となるよう願っていきましょう。わたしたちはだれもが、イエスに手を貸す人、もてなす人なのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(マルコ1:40-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年もいよいよ徒歩巡礼に行くことになった。期間は10日(火)から12日(木)の3日間。去年、大浦天主堂から今村教会に向けて歩いたので、今年はその折り返しのコース。言ってみれば、去年片道しか歩いていないので、今年折り返して完成ということだ。
▼去年の話を覚えていない人も何人かはいるかもしれない。その方々はブログ「こうじ神父今週の説教」(http://blog.goo.ne.jp/knkouji)2013年12月15日の分を読み返して、それからまた戻ってきてほしい。繰り返すのが面倒だ。
▼そうは言ってみたものの「ひとでなし」と言われそうなので「話の森」ホームページ右上の部分に今村の信徒発見についてまとめてくれた先輩の記事を転載しておく。これを読めば当時の事情が詳しくわかる。この出来事に触発されて、巡礼を志したということだ。
▼お世話になる2つの教会の神父さまに連絡を取った。出発地点の教会である今村教会の主任神父さま。今村教会の現在の主任神父さまはかつて学生時代に教会司牧実習で1年お世話になったことがある。快く受け入れてくださったので力を得て徒歩巡礼を開始できそうだ。
▼もう1人の教会は諫早教会の主任神父さま。今村→佐賀→諫早と歩いて、2日目の夕方にミサをさせてもらうことになっている。「歓迎します」と二つ返事をもらった。大先輩であるが、気さくに申し出を受けてくださり、ホッとしている。
▼翌3日目は、大浦天主堂でミサをささげるのが理想的だが、わたしは自分の小教区の巡回教会である福見教会に急いで戻り、ミサをささげようと思っている。子供たちが待っている。子供たちに「たった今歩き終わったよ」と報告できる。ちょっと威張れる。

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今週の1枚
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第359回目。自動車免許更新の優良講習案内。もうこの時期が来たかぁ。

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年間第4主日(マルコ1:21-28)生活の中心にイエスが入り、そのイエスが外に語られる

2015-02-01 | Weblog
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こうじ神父
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15/02/01(No.751)
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年間第4主日
(マルコ1:21-28)
生活の中心にイエスが入り、そのイエスが外に語られる
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年間第4主日です。イエスが会堂に入って教えます。人々はその権威ある教えに驚きました。イエスが会堂に入る姿から、今週のわたしたちの学びを得ることにしましょう。

個人で所有する祭服の補修が出来上がり、先週途中から着用しています。絹織物特有のごわごわした感じが何とも気持ちいいです。これが何カ月、何年かすると自分の体にぴったり合うようになって、ごわごわしなくなるわけですが、その過程がまた楽しみです。

釣りに行っていて気付きましたが、定置網の仕掛けが浜串漁港の沖合に入りましたね。早々と鯛が50枚近く入ったそうで、今年は幸先よい滑り出しで嬉しいです。黙想会の指導に来てくださる神父さまが話を聞いたら喜ぶでしょう。神父さまはきっとお魚も好きだと思います。黙想会の時はアジの差し入れがあればうれしいなぁと思っています。

定置網と言えば、わたしも鯛を釣ったら名札を付けて釣りの帰りに定置網に放り込んでおこうかなと思いました。お父さんたちに同行して朝から引き上げて新鮮な状態でお刺身をいただけるかもしれません。でも定置網を勝手に生簀(いけす)として使えないので、要相談です。

さてイエスが会堂に入って教える様子には、重要な意味が込められています。会堂で聖書を学び、祈ることは、ユダヤ人男性にとって生活の中心となる出来事でした。

現代のわたしたちにとって会堂はこの聖堂のことですが、わたしたちの中で聖堂で過ごすことを生活の中心と考えている人はまずいないのではないでしょうか。おそらく、収入を得るための労働が生活の中心だと考えている人がほとんどだと思います。

わたしたちはユダヤ人が思い描く背景を理解して読む必要があります。イエスが会堂に入り、教え始めます。それはつまり、彼らにとっての生活の中心にイエスが入り、教え始めたということなのです。イエスはその人にとって中心となる場所で、最も大切な場所で語ったのです。

生活の中心で語られたイエスの言葉は、「権威ある新しい教え」(1・27)と映りました。その目に見えるしるしとして、汚れた霊に命じると、霊はイエスの命令に従います。汚れた霊にとりつかれていた男は、霊を追い出してもらったことで、生活の中心である会堂で集会に参加する喜びを取り戻すことができたのです。

ここで言う「権威」とは何でしょうか。わたしたちはつい権威と言うと権威を振りかざすとか、権威をかさに着るとか、抑圧的なことを想像してしまいます。ここで「権威」とあるのは、言葉と行いが完全に一致しているさまを表します。「囚われている人に解放を与えるために来た」イエスは、汚れた霊に取りつかれている男性を解放して、言葉と行いが完全に一致していることを証明したのです。

さらに会堂で権威ある者として教えるイエスの評判は「たちまちガリラヤ地方の隅々にまで」(1・28)広まりました。「隅々にまで」とあるのは単にガリラヤ地方一帯にというよりも、人々の話題に上らない場所がないほど、それこそ井戸端会議にでも話題に上るほど広まったという意味でしょう。イエスが中心で語ったこと教えたことは、その権威と力強さのゆえに生活の隅々にまで広まるのです。

ここから、何が見えてくるでしょうか。イエスは当時の社会の中心に入って権威ある者として教え、その評判は隅々にまで広まったということです。そしてこの一連の出来事は、当時のユダヤ社会の中だけで起こるのではなく、現代にあっても起こる出来事なのです。

例を挙げましょう。本来なら本人に承諾を得るべきですが、参考になるほうの例なので、きっと許してくれると思います。わたしが浦上教会の助任司祭をしていた時、一人の大学生と出会いました。もう20年くらい前の話で正確には覚えていませんが、司祭館にやって来て、たまたま応対に出たわたしに「洗礼を受けたい」と申し出たのです。

話を聞くと、大学に通うために入った下宿の大家さんが浦上教会の信徒でした。その大家さんから「せっかくだから、朝から浦上教会のミサに一緒に行かないか」と誘われ、誘われるままに通うようになったそうです。そこから気持ちが傾いて、洗礼を受けようと思ったのでした。

大学生はそれから一年近く勉強しまして、無事に洗礼を受けました。今は立派な家族がいて、わたしも毎年年賀状を交換しています。そしてこの説教も、ホームページから読んでくれているはずです。

紹介した大学生にとって、大学での勉強が生活の中心だったはずです。たとえ大家さんが「一緒に教会に行かないか」と誘っても「嫌です」と言うこともできたはずです。わたしが思うに、イエスは大家さんを借りてこの大学生の生活の中心に入って来られ、大学生の心の中に権威をもって語りかけ、その心を動かしたのだと思います。

一人の大学生の心の中に起こしたイエスのわざですが、今日こうして皆さんに紹介し、またこの説教がインターネット上で多くの人に閲覧されて、イエスのみわざは隅々にまで広まるのです。

現代にあって、イエスが生活の中心に入って来られ、権威ある者として教え、イエスの働きが隅々にまで広まるには、わたしたちがちょっと関わる必要があります。もちろんイエスは全能の神でありますが、あえてわたしたちの手を借りることを望んでおられるのです。

たとえばそれは、大家さんが下宿人に自分の信仰を表明したように、生活の中心で「イエス・キリストを信じている」と表明することで可能です。職場でお弁当を開くとき、食前の祈りをするだけでも、生活の中心で自分の信仰を表明することになります。あとは工夫次第です。

一人ひとり生活の中心で、イエスが権威をもって教える場を作ってあげましょう。わたしたちはきっかけさえ用意すればよいのです。後はイエスが存分に働いてくださいます。わたしたちのほんのちょっとのお手伝いで、イエスの評判が社会の隅々にまで広まります。そのちょっとのお手伝いをする勇気を、今日のミサの中で願い求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第5主日
(マルコ1:29-39)
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ちょっとひとやすみ
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▼今年も徒歩巡礼が近づいてきた。トレーニングは積んできたが、実際歩くのとトレーニングとは少し違うから、今の準備で大丈夫だろうかという不安はどうしても残る。去年の徒歩巡礼のためには長い距離を歩くこともしてきたが、今年はすべて、浜串教会から中ノ浦教会までの一往復9kmのみのトレーニングでここまで来た。
▼自分の中では、負荷のかかる峠越えを積み上げてきたので、距離が延びても対応できると思ってはいるが、実際に歩くと思ってもいないことが起こり得る。本当の長さを歩いていないことが本番で不安を感じさせ可能性がある。
▼とにかく、今回はこの練習で本番に臨むと決めた。それが間違っていたなら、一緒に参加してくれる相方には迷惑をかけるが、わたしがサポートに回って相方を助けることにしよう。あと10日。もう今さらこれまでの準備をやり直すことはできない。本番でトレーニングが正解だったかどうかを試すだけだ。
▼実はまだ、今回の徒歩巡礼で確実にお世話になる2つの教会に連絡を取っていない。このメルマガの発行の時点ではいくらなんでも連絡を取っているとは思うが、どちらもずっと上の先輩なので、連絡を取るのにどうしても気後れするのである。急がねば。
▼わたしは地図を印刷して通過する国道にマーカーを引いても道に迷う人間である。万全の準備をして、それでも珍道中になることがしばしばある。相方がそうでないことをひたすら念じている。相方も全くの方向音痴だったらどうするか?それが最後の難関だ。

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今週の1枚
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第358回目。ゼンリンの地図をお借りしました。線を引いても迷子になるわたし。

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