こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第31主日(ルカ19:1-10)ザアカイがアブラハムの子となったように

2010-10-31 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/10/31(No.500)
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年間第31主日
(ルカ19:1-10)
ザアカイがアブラハムの子となったように
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寒くなってきましたねー。学生たちが浜串教会前のバスに乗って学校に登校する様子を、司祭館の玄関に立ってできるだけ見送るようにしていますが、「神父さまー。寒くないですかー?」と声をかけてくれる小学生がいました。嬉しいなぁと思っていますと、「神父さまー。頭は寒くないですかー?」と言い直したので機嫌を損ねまして、「寒いに決まってるだろ」と大人げない態度を取ってしまいました。

今週の福音朗読箇所は、「徴税人ザアカイ」の物語です。ザアカイは「徴税人の頭で、金持ちであった」(19・2)とあります。徴税人ですから、嫌われてはいたでしょうが、世間的には成功した人と考えてよいでしょう。十分に豊かな人であれば、普通は、何不自由なく暮らしているはずです。けれども彼は、「イエスがどんな人か見ようとした」(19・3)とあります。

十分満ち足りた人であれば、イエスを見物しなくてもよいはずです。最後にはどうしても見たくてたまらなくなって、「走って先回りし、いちじく桑の木に登った」(19・4)のでした。つまり、ザアカイは豊かだったのに、心の中に何か虚しさがあって、それを満たしてくれる人を捜し求めていたのでしょう。イエスがその人かもしれない。そう思ったから、人目もはばからずに木に登ってイエスを捜し求めたのです。

実はイエスも、ザアカイを捜し求めていました。ザアカイ個人を捜し求めていたというよりも、ザアカイのように、心に満たされないものを抱えている人を捜し求めていたのです。ですから、イエスはザアカイに急接近します。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19・5)

ザアカイがイエスを迎えて、どのような会話を交わしたかはわかりません。けれども、彼がどんなに豊かであっても手に入らなかったものが、イエスを迎えた時に手に入ったであろうということは十分予想できます。それは一言で言うと「救い」ということです。これまで、「救いが与えられた」「救われた」という実感はなかったのですが、イエスと交わった時に、救いを実感したのです。

ただし、そこには手放しで喜べない事情もありました。周囲の人々は、「罪深い男のところに行って宿をとった」(19・7)イエスが、理解できなかったのです。徴税人のような罪人が、救いに招かれるはずがない。当時の人々の理解はそのようなものでした。イエスはザアカイを次のように人々に示します。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(19・9-10)

イエスによれば、ザアカイは「失われたもの」でした。「失われたもの」とは、救いを求めていながら、罪の弱さのために神を見失い、探し出してもらうまで捜し求めている人」のことです。それは、100匹の羊のうちの見失った1匹であるし、神殿で祈った2人の人のうち、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください。」(18・13)と祈った徴税人とも重なります。神に探し出してもらおうと、叫んでいる弱い存在なのです。

ザアカイは、自分がイエスに探し出してもらい、救われたことを感謝して、人々の前で自分の取るべき態度を表明します。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(19・8)

これはザアカイの寛大さの表れでもあると思いますが、もう少し考えると、「貧しい人々」を含む「弱い立場にある人々」が、希望を得て神を捜し求めるために力を尽くしたいという気持ちの表れではないかと思うのです。

打ちひしがれ、うつむいている人々が、神を捜し求め、神に探し出してもらうために、わたしは力になりたい。自分が経験した救いに、多くの人が触れてもらえるように、そのために自分の生き方を転換したい。そんな態度表明ではないでしょうか。

わたしたちを振り返ってみましょう。ザアカイが示した態度は、わたしたちに何かを教えてくれるかもしれません。彼は、自分が探し求めている間に、イエスが見つけ出してくれて、救いに招いてくれました。

もしわたしたちが、罪をゆるされ、イエスに探してもらって、救いに招かれた人間であるなら、今ザアカイと同じ態度を表明するように求められているのではないでしょうか。ザアカイが、自分の経験した救いに、多くの人が触れてもらえるように力になろうと決心したように、周りの人に、「あなたも、イエスさまが探している人です。イエスはあなたを探し出して、救いに招こうとしています」と呼びかけましょう。

呼びかける言葉はいろいろあると思います。どこにも心の平安を見つけることができないでいる人に、「あなたは、イエスに心の平安を求めたことがありますか?もしイエスに求めたことがないなら、思い切って心の平安をイエスに願い求めてはどうですか?」こんな呼びかけもできるでしょう。

何かが足りないと感じている人は、たくさんいます。わたしたちが、イエスによって救われたと心から信じるなら、何かが足りないと感じている人に語りかけるべきです。「あなたに足りないもの、それはイエス・キリストです。」もしこのように言うなら、わたしたちは大きな働きを世に対して果たすことになります。

イエスは、捜し求めている人を捜しています。弱さの中にいて、探してもらうしかない人々を、訪ね回っているのです。訪ねていくために、わたしたちの手足を必要としています。わたしたちが、社会の隅々にまで、「イエスがあなたを捜しています」というメッセージを伝えることができるよう、このミサの中で証しの力を願い求めましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(ルカ20:27-38)
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ちょっとひとやすみ
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▼500号にふさわしい内容ではないが、間違い電話の続き。先週葬儀が2つも続いた。一方の関係者が、朝、通夜の時間と葬儀の時間を電話で相談してきた。亡くなったのは深夜であるから、その日の朝、ミサに来てくれれば、直接顔を合わせて相談できるのに、である。その日の昼に、間違い電話がかかった。
▼2つ間違い電話がかかったが、1つは省略しておく。2つ目の間違い電話は、わたしを花屋さんだと思い込み、次のように言ってきた。「今日の通夜の会場に、少し花を増やしたいんだけど、お願いできるかな。」どう返事しようかと考えたが、まずはこう返事した。「花のことをわたしに相談しているけど、わたしでないとダメなの?」
▼亡くなった方の関係者と思われるその人は、それに対してこう言った。「今回お世話になったから、初めから終わりまで、お世話になりたいんだけど。」わたしは繰り返しこう言った。「どうしても、わたしがしなきゃダメかね。」「できなければ仕方がないけど」「わたしは中田神父だけど、わたしがしないとダメなの?」「あ、間違いました。すみません。」
▼こちらは、「すみませんじゃないだろう」と不機嫌になって、その日の通夜には「顔を見せれば間違いも減ります」と小言を言ってしまった。もっと心を広く持って、「お引き受けしましょう。こちらで花は適当なものを持っていきます」と返事をすればよかったなと今になって後悔している。保育所の花を摘んで、「電話をもらった花屋です」と言えばよかった。
▼こんな、どうしようもない性格の神父ですが、ここまでメルマガ500回続けることができたことは、わたしにとって大きな慰めです。きっと誰かが、このメルマガを通して教会とのつながり、神とのつながりを取り戻したのだろうし、違う説教に目を通して、実際に聞く説教がもっとすばらしい(そうでないかもしれないが)ことを実感していると思う。
▼この人生で、いろいろお役に立つことがあったかもしれないが、このメルマガが、長期にわたり、安定してお役に立てているのかもしれない。もちろん、500号は通過点だ。わたしが目指している場所は、もっと遠くにある。そこへたどり着いても、技術革新がわたしを助けてくれて、メルマガ発行を支えてくれるかもしれない。道半ばだ。

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新企画今週の1枚
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第107回目。500号記念ではないけど、D教会が最近設置した「風の聖母」です。
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ホームページもご覧ください。
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年間第30主日(ルカ18:9-14)祈りによって自分が何者であるか知る

2010-10-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/10/24(No.499)
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年間第30主日
(ルカ18:9-14)
祈りによって自分が何者であるか知る
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先週は同級生の神父さまに主日のミサをすっかりお任せしました。にわか主任司祭の体験を積んでもらおうという計画でしたが、よくよく話を聞くと、7年前から横浜教区の津久井教会で、月に1度くらいミサに呼ばれて主日のミサを捧げているのだそうです。あー、それなら、わたしも3つの教会のうち1つくらいは自分で説教をすればよかったなぁと、今になって後悔しております。

1つだけ、内緒話をしますと、いつも通りの順番で、高井旅教会→福見教会→浜串教会の順でミサを捧げたのですが、高井旅教会は夕方の5時から始めて、だいたい45分を目標にしてミサを捧げています。前もってそのことを伝えておりましたら、高井旅教会ではきっちり45分で、ミサを終えてくれたのです。

「すばらしいなぁ」と声をかけましたら、「奇跡だねぇ」と答えてくれました。あー、これなら残る2つの教会も、問題なく終われるだろうと思っていたのです。福見教会は高井旅教会で45分でミサを終えた直後でしたから、1時間きっかりでミサを終えたのですが、浜串教会はちょっと長かったですね。

わたしは3回とも説教を聞いたので原因は分かっていますが、説教の途中でハラハラして、何度も時計に目をやりました。自分が赴任してきた当初のことを棚に上げて言うのもなんですが、カトリック教会の信者さんは長い説教には慣れていませんから、長くなるといろいろ後ろが閊(つか)えてしまって、どうしても落ち着いて話を聞くことができないようです。

わたし自身は、「説教は10分で十分、12分で十二分」というのがモットーです。もちろん守れないことも多いのですが。

今週の福音朗読に入りましょう。祈るために神殿に上がって来た2人の人のたとえ話です。1人はファリサイ派の人、1人は徴税人でした。ファリサイ派の人と言えば、当時の宗教指導者層であり、知識に長けていた人です。一方の徴税人は、占領しているローマに納める税金を徴収し、規定以上のものを取り立てては、自分の懐を肥やしていた人でした。イエスはこの2人のうち、義とされて家に帰ったのは徴税人であると言い切りました。

どちらが正しい人か、という問いであるならば、ファリサイ派の人が正しいということになります。ファリサイ派の人の言い分はこうです。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(18・11-12)単に正しいだけではなく、普通の人ができない犠牲まで払っているのです。

それでも、イエスはファリサイ派の人の祈りを義としませんでした。これだけのことをしているから、正しい人に決まっている。罪深い生活とは一切関わっていないのだから、正しい人に決まっている。ファリサイ派の人は、そう考えて祈りを捧げていました。

他方徴税人は、神に報告できる正しい行いが何一つないことを知っています。ですから、こう祈る以外にないのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(18・13)神さまに誇るものが何もない。幸いなことにそれが、義とされて家に帰るきっかけになりました。

神さまに誇るものがある人と、神さまに誇るものがない人。両者はどう違うのでしょうか。それは、誇れるものがある人は、どうしてもそれを頼りにしてしまい、誇れるものがない人は、神に頼ることになる、その点の違いだと思います。

中田神父は、思い出せばいくつも、自分で誇りに思っていることがあります。3つ例を挙げれば、録音された聖書のCDを使って、ある小教区で聖書の通読会を行った経験があり、その時は何人もの人が、旧約聖書・新約聖書をすべて、通読しました。録音したCDを教会に集まって毎日聞いたのですが、これはうまく行きました。

また、こうして話している日曜日の説教は、ブログやメールで多くの人に読まれています。メルマガでの活動も、今週の説教が499回目になりました。来週で500回になります。これも、まぁうまくいったほうだと思います。

それから、前任地では偶然にも司祭館建設の場面に巡り合わせまして、当時の信徒と一緒になって、司祭館を無事に建て替えました。浜串教会の前任者は、今その司祭館で過ごしているわけです。わたしは釘一本、壁板一枚作業を手伝ったわけではありませんが、形の残る物ができたなぁとは思います。

とまぁ、自分に頼ってしまう材料があるわけですが、それではなかなか神に受け入れられる祈りはできないということです。むしろ、「わたしは神に見てもらうものが何もない。」そんな人が、神に受け入れられる祈りを捧げる可能性が高いのです。

もう一度、徴税人の祈りを振り返ってみましょう。彼は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。」(18・13)となっています。遠くに立ちましたが、彼の心は神の近くにありました。目を天に上げませんでしたが、心は神と向き合っていました。胸を打ちながら、打ち砕かれた心を神にさらけ出していたのです。

徴税人はきっと、自分の罪深さを悲しみながら帰って行ったのでしょう。それは、神の心を揺さぶったのだと思います。祈りを義とするのは神です。人間的な正しさで祈りが義とされるとは限りません。自分が罪の中にあることを正直に悲しむ。その人間らしさが、神に好まれたのではないでしょうか。

自分に頼れるものがあることはすばらしいことです。けれども、神さまの前に自分は何者でもないと本当に思える人は、もっとすばらしいのです。浜串の漁港にたくさんの漁業船が停泊していました。乗組員は今、次の出向を前に、休息していることでしょう。

これからまた荒海に立ち向かう乗組員全員が、「神に頼るのでなければ、わたしたちは何者でもない」と、神の前に自分をさらけ出して祈りをささげ、出発してほしいなぁと思っています。また家族の皆さんも、一緒に祈ることで、皆が神に自分をゆだねて生きる家族となれるようになってほしいものです。

「自分はこれだけのことをしている人だ」と、神さまを振り向かせようとする祈りではなくて、「わたしは自分には頼りません。すべて、あなたに委ねます」という思いが詰まった祈りを捧げる人になりたいものです。そのための恵みを、このミサの中で願い求めましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼おー、気が付いたら499号になっています。驚きました。また、500号記念で、401号から500号まで、少なくとも50回メルマガを読んでくださった方々は、ご連絡ください。無料で、説教の原稿ファイルと、mp3形式の録音説教を送らせていただきます。
▼こうじ神父は怠け者なので、はっきり「送ってちょうだい」と言ってもらうと助かります。「わたしのところには、言わなくても送ってくれるだろう」と当てのある方もいらっしゃるでしょうが、まあそう言わずに、送り先の住所をお知らせ願います。
▼400号は、感銘深いものがありましたが、500号は、本当に通過点だったかもしれません。ここまでの約2年間、責任を問われる立場に立たされることがあり、メルマガの土台となる説教と日常の生活は、忙しくなった分、常に綱渡りの状態でした。日曜日が来るまでに、メルマガを発行する、その競争をし続けていたと言ってもよいでしょう。
▼どうして競争しているのか、分からなくなることがあります。金曜日くらいからお尻に火がついて、頭の中のことを急いで書きだし、説教案をまとめます。本来なら、木曜日あたりからじっくり書くのが理想ですが、実際に成功したことは稀です。考えがあっても、文字に起こすのはいつも金曜日か、土曜日の午前中。短距離競走をして、ここまで来ました。
▼それでも、慰め多い感想をいただいたりして、力づけられました。心が折れそうになった時、説教を準備するのは難しいと感じますが、それでも続けることができるのは見えないけれども確かにいる読者の力だと思います。もちろん、直接、説教に耳を傾ける小教区の信徒もです。
▼井戸で水を汲み続ける。井戸の水は無限ではないので、より深い場所に水を求めて掘り下げることになります。このメールマガジンが、掘り下げた場所からのおいしい水を、皆さんに提供できるものとなれるよう、これからも精進したいと思っています。

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新企画今週の1枚
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第106回目。鉄川与助が手掛けた3つ目の教会。百周年を迎えた青砂ヶ浦教会。
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詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第31主日
(ルカ19:1-10)
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年間第29主日(ルカ18:1-8)その働きが、神に喜ばれるために

2010-10-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/10/17(No.498)
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年間第29主日
(ルカ18:1-8)
その働きが、神に喜ばれるために
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今週の説教は、「幻の説教」となってしまいました。この説教は、小教区の誰も、聞くこともこの原稿を読むこともないのです。実は今週、懐かしい同僚司祭がわたしを訪ねてくれて、主日のミサをすべてお願いしているからです。

S神父と言いますが、彼が長崎に来るという日程を聞き、「長崎で訪ねてみたい人はたくさんいるだろうけれども、もしよかったら五島に来てくれないか」と連絡を取ってみました。するとS神父は、快く引き受けてくれましたので、ついでに、「せっかくなら、1日主任司祭も引き受けてくれないか」とお願いしたのです。

S神父は修道会の司祭です。そのため、おそらく、小教区に赴任して主任司祭になるという経験は回ってこないと思います。そこで、1日だけですが、主任司祭の務めを引き受けてもらいたいと打診したのでした。彼はこの依頼にも喜んで応じてくれました。

おかげでわたしは、楽チン楽チン・・・と思っていたのですが、金曜日の時点で、無事に務めを果たしてもらえるか心配になってきて、かえって気疲れしそうな心配が出てきております。ただ、ここに書かれている中田神父の思いも、すべてメルマガの読者、ブログの読者だけのものになるかもしれません。

今週の福音朗読箇所には、イエスがたとえを話すにあたって、どんな狙いを持って話したのかがはっきり示されています。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」(18・1)わたしたちも、ここから道をそれることなく、今週の学びを得る必要があると思います。

「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」この狙いを、わたし自身が身近に感じたことがあります。それは、伊王島の馬込教会時代に経験した司祭館の建設です。長く歴代の主任司祭が住み続けた司祭館に別れを告げ、いよいよ新司祭館を建設することが信徒総会で了承されました。わたしはその時、ある教会でのことを思い出していました。

それは、長崎本土にある滑石教会のことです。滑石教会も、わたしが助任司祭で赴任した時に、教会が手狭になっていると皆が感じ始め、新しい教会が望まれていました。滑石教会の当時の主任司祭も、教会建設の必要性を十分把握していました。

その主任司祭は、わたしがお世話になっている1年の間に、肺炎でお亡くなりになったのですが、お別れする前に、教会建設について一言だけ、わたしに忠告してくれたことがありました。「教会は、祈らんば(祈らないと)建たんとぞ(建たないんだよ)。」

時々、新しい教会について教会役員と意見を交わしたりすることもあったようで、わたしも大変だろうなぁと経験はなくても気にはしていました。ただわたしの頭の中では、資金や、用地、業者の問題、また信徒が快く同意してくれるだろうかといったことくらいしか思い浮かばなかったのです。

もちろん、主任司祭は助任司祭のわたしも新しい教会に関心を持っていることを知っていました。そんな中で、「教会はな、祈らんば建たんとぞ」これだけを忠告して、新しい滑石教会を見ることなく、神に召されていったのです。

それから7年後に、わたしに司祭館建設に携わるチャンスが回ってきました。わたしの中で、とても大切にしてもらった滑石教会時代の主任神父さまの声が、わたしの心の中で響いていたのです。「司祭館も、祈らなければ、建たない。」

それはつまり、「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。」(詩127・1)ということなのです。計画の始めから終りまで、神に守られ、神に支えられた事業でなければならないということなのです。

わたしはついに、主任司祭の教えを実行する時が来たと思いました。司祭は建築家でも設計技師でもありませんから、祈ることで司祭館の完成を手伝う。わたしはそう心に決めたのです。幸いに、司祭館は立派に立ち上がりました。あの司祭館建設時代、不便もありましたが、今週の福音の教えにあるように、気お落とさず、絶えず祈った気がします。そうする以外に、わたしにできることがなかったのです。

新しい司祭館に住み始めてしばらくして、喜ばしい便りが届きました。新しい滑石教会と司祭館が、無事完成したのでした。本格的に着工が始まると聞いたとき、確か馬込教会の司祭館は新しくなっていたと思うのですが、その日から新たに、滑石教会と司祭館の建設のために祈りました。

わたしがお世話になっていた時代からおよそ10年かかりましたが、神によって建てられる真の神の家となることを願って、祈りました。ですから祝賀会に参加したときは、特別嬉しかったのを覚えています。

今週のたとえ話に社会的に不利な立場にあるやもめが不正な裁判官を相手にしていますが、彼女は、どんなに裁判官が公正さに欠けていても、自分の権利を守ってもらうためにあきらめませんでした。わたしはおそらく、彼女もその初めから、神に祈って自分を守ってくれるよう願いながら、これでもかと裁判官のもとに通ったのではないかと思うのです。

取り合ってくれない、周りにだれも協力者がいない。そんな中でも、神が守ってくれる。神が、この世の裁判官を動かしてくれる。そう信じて、あきらめなかったのではないでしょうか。彼女が見せた強さは、祈りに支えられた強さだと思います。そう考えてみると、わたしも彼女の態度が理解できるのです。

気を落とさずに絶えず祈る時、必ず道は開けます。わたしもそれを経験しました。わたしたちが今身近に控えている大きな出来事としては、2年後に小教区の中の福見教会と高井旅教会が、それぞれ100周年と50周年を祝おうとしています。大きな行事ですので、その重さに押しつぶされそうになるかもしれません。

けれども、わたしたちは神が自分たちの教会を支えてくださったことを祝おうとしているのですから、神に祈りつつ、この日の準備を進めていきましょう。神が、それぞれの教会を100年、50年見守ってくださったのだという感謝を、わたしたちなりに捧げる日として、計画を練りましょう。

そうすれば、単なる行事に終わることなく、喜びの日として迎えることができるに違いありません。気を落とさず、絶えず祈るようにとの主の教えを、ここでも発揮したいものです。


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ちょっとひとやすみ
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▼先週と今週で、大切な人とそれぞれ会うことができた。先週は、教育界で活躍し続けていて、現在は大学の名誉教授。長崎のカトリック大学に講義のためおいでになっていたのを、足を延ばして浜串まで訪ねてくださった。久しぶりに貴重なお話の時間を持つことができた。
▼今週は、同級生で修道会司祭ののS神父が訪ねてくれた。彼もカトリックセンターに聖書公開講座に来たついでに、足を延ばしてくれた。同級生なので気楽に、お互いの状況を話し、また話を聞いた。彼が本拠地東京で7年通っている教会の様子なども聞くことができ、楽しい時間となった。
▼同級生を港に迎えに行き、帰りがけに面白いことが起こった。小学校のそばを通過したときに、浜串の小学生たちがわたしの車を見つけ、「しんぷさま~」と呼びかけたかと思うと、「車に乗せて~」とせがまれてしまった。
▼まんざらでもないので、定員オーバーを知りつつ、○人を後部座席に乗せて浜串まで帰って来た。同級生のS神父は、「愛されているんだなぁ」と感心しきりだった。浜串にいったん到着してから、教会を2つ、見学した。その案内の間も、長崎教区の親しい司祭のことや、所属している修道会のことなど、いろいろ話したり聞いたりできた。
▼夜は、もう1人知人が加わって、食べ物飲み物を口に運びながら遅くまで語り明かした。2週にわたっての訪問客は、刺激的で、現状に満足してはいけないのだということを強く意識させてくれた。この浜串から、素晴らしいものを発見して、どんどん発信しようと決意を新たにした。

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新企画今週の1枚
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第105回目。高井旅教会にて。S神父と一緒に。
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詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日
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年間第28主日(ルカ17:11-19)すべてに感謝できるお方はただ一人

2010-10-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
10/10/10(No.497)
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年間第28主日(ルカ17:11-19)すべてに感謝できるお方はただ一人
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間違い電話は、よくある話ですが、わたしは1度だけ、間違い電話の人と付き合ったことがあります。まぁ、付き合ったと言っても、デートして食事をしたりとか、そういう付き合いではなくて、間違い電話のあとも、しばらく電話の相手をしたことがある、その程度の付き合いです。

深夜に、電話が掛かってきました。当時、主任司祭を始め、その教会には4人の司祭がいて、わたしは一番若い司祭だったので、基本的にすべての電話を取る必要がありました。深夜に電話が掛かってくれば、まずわたしが電話を取るわけです。

その電話は、若い女の子で、中学を卒業してから高校に行っていない子でした。本人はてっきり、自分の彼氏に電話を掛けているつもりだったらしく、「もしもし」と言ったらいきなりまくし立ててきました。日頃あまり話を聞いてもらえないのか、よくまぁ間違えている相手にこれだけ話せるなぁと、しばらく感心して聞いていたのです。

「あのね、電話間違ってるけど。」すると、その女の子はびっくりして、すぐ謝りました。ただわたしは面白かったものですから、「大変だね。良かったら続きの話、聞くよ」と言ったのです。それから2時間くらいは話を聞いていました。

話を聞いてもらって、嬉しかったのか、また電話していいかと言うものですから、あーいいよって、返事をしたのです。まだ若かったので、深夜に電話が掛かっても次の日の仕事に響いたりはしない時代でした。1ヶ月くらいは続いたでしょうか。その後は安心して、ピタッと電話はやみました。

女の子の電話の相手をしていて、こんなことを思ったのです。どんな人でも、自分がここにいるということを、必死になって知らせたい、知ってもらいたい、分かってくれる人がいてほしい。人は自然に、自分を分かってくれる人を求めるんだなぁ。そんなことを感じました。

さて福音朗読ですが、重い皮膚病を患っている十人の人が、イエスに憐れみを請い求めています。当時の習慣によると、重い皮膚病と診断された人は、社会から切り離され、礼拝にも参加できず、共同体の交わりに加わることができませんでした。健康な人が重い皮膚病の人のそばをたまたま通るときは、重い皮膚病の人たちは大声で「わたしは汚れた者です。わたしは汚れた者です」と叫んで、知らせなければならなかったそうです。

こうした決まり事は、さらに重い皮膚病の人を追い詰めていただろうと思います。先ほどの例でも触れましたが、誰もが、自分を分かってほしい、自分を知ってほしいと思うのに、当時の決まり事は、自分たち病気の人を避けるように、関わりを持たないようにと仕向けていたからです。

そこへ、イエスが通りかかりました。本来なら、「自分たちを避けて通ってください」と大声で叫ばなければならない決まりがありましたが、それさえも放り出して、「イエスさま、わたしを憐れんでください」と叫んだのです。自分を知ってほしい、自分を分かってほしいと、大声で叫びました。

この重い皮膚病を患っている人々は、どこかで、イエスの噂を耳にしていたのかもしれません。自分たちを分かってくれるのは、この人しかいない。だから、必死になって、自分のことを訴えかけたのでしょう。

イエスは彼らの訴えに耳を傾けました。つまりイエスは、すべての人、たとえ社会から切り離されている人でも、自分を知ってほしい、自分のことを分かってほしいと思っているのだと十分理解していたのです。わたしたちもある程度は分かっているでしょうが、イエスは人間の奥深くからの願いを、知っていたのです。

イエスが彼らの訴えを聞いて、何も特別な動作はしませんでしたが、奇跡的な働きかけをしてくださり、彼らの病気はいやされました。問題はここからですが、十人のうち一人だけ、サマリア人だったとされていますが、イエスのもとにかけより、感謝を捧げたのです。おそらくユダヤ人と思われる残りの九人は、イエスに感謝しに戻らなかったのです。

わたしはこう考えました。イエスに自分のことを知ってほしいと十人とも願ったのですが、イエスしか、自分の置かれた状況を理解できる人はいないと感じていたのは一人しかいなかったのではないでしょうか。なぜなら、残る九人は、ユダヤ人でした。ユダヤ人は、ユダヤ人の社会に戻ることで、多くの人から一定の理解を得られる可能性があります。

ところがサマリア人は、ユダヤ人と敵対関係にありましたので、たとえ健康を取り戻しても、社会的には孤立してしまう可能性があったのです。ほかに何も頼るものがない。そういう中で叫びを上げ、自分を知ってくださった唯一のお方に、感謝を捧げに来たのではないでしょうか。

この出来事からわたしたちが学びたいことは、「イエスだけが、わたしの拠り所です。」そんな気持ちが、わたしたちの信仰にあるでしょうか、ということです。信仰は持っているけれども、どこにでも拠り所があって、イエスだけを拠り所にしているわけではない。それがわたしたちの生活の現状ではないでしょうか。

だれでも、見られたくない部分は人に隠そうとします。それは家族に対しても、一緒に生活している人に対しても同じでしょう。そんな中で、わたしの良い点も悪い点も、すべてを打ち明けて拠り所にしたい。そんな相手はどれだけ身近な場所を探しても見つかりません。すべてを知ってもらうことができるのは、イエスのほかにいないからです。

感謝しに来たサマリア人は、イエスを自分の唯一の拠り所と理解していただけではなく、すべてを感謝できる唯一の相手としても理解していました。わたしが受けているもの、良いものも悪いものもすべてを感謝できる。イエスに対して、あらためてそのような信仰を呼び起こすことができるよう、このミサの中で恵みと力を願いましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼長崎で通夜と葬儀をお願いされ、出かけてきた。わたしの父方の祖父と、亡くなった方の父親が兄弟である。そういう縁があって、引き受けることになった。通夜の直前まで何を話すか迷っていたが、いくつかある定番の説教をやめて、通夜では次のようなことを話した。
▼「人間は、体を持っている間、一方ではすばらしい仕事をし、他方では過ちがあったり、欠点だらけだったりします。わたしはこの通夜に車を運転して出向きましたが、目の前にいた車が、車線を右に行ったり左に行ったりするものですから、「この野郎」と思いながらここまで来ました。そういう欠点を持っている人間ですが、こうして皆さまの前で、司祭として通夜の説教を果たしています。
▼ところが、いったん体を離れますと、人間は本来望んでいることをまっすぐに望み、心から求めているもののほうにまっすぐに向かっていくと思うのです。お亡くなりになった方は、キリシタン迫害を、身近に感じた人たちの子孫でした。迫害を受けたからこそ、この信仰が報われなければおかしいと、固く信じていたことでしょう。
▼ですから、この方は本来、キリスト信者として、神の救いを固く信じていた方なのです。体を離れた今、故人が望みをかけている神のもとへ、まっすぐに向かっていったであろうことは、十分予測できます。わたしたちは、体のあるうちは二心を抱えていることがありますが、体を離れると、望んでいることだけを、まっすぐに求めるようになるのです。
▼このほかにもいくらかのことを述べたのだが、95年の人生を、信仰の土台に立って、ひたむきに生きた人だったと思う。双子の、もう一方の方は(弟か、兄か分かりません)教区司祭であり、すでに神のもとに召されている。双子の神父さまのことを、今はいちばん近くに感じているに違いない。双子の兄弟が再会して、神のもとで憩っていると信じている。

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新企画今週の1枚
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第104回目。長崎の教会での葬儀ミサの様子。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/101010.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(ルカ18:1-8)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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年間第27主日(ルカ17:5-10)たとえからし種一粒ほどでも十分

2010-10-03 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/101003.mp3

http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/101003.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
10/10/03(No.496)
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年間第27主日
(ルカ17:5-10)
たとえからし種一粒ほどでも十分
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福音朗読のたとえ話の中には、心を打たれる話、なるほどと感心する話もたくさんありますが、「それはどうかなぁ」というものもあります。中田神父が、「それはどうかなぁ」と考えている個所とは、朗読の最初の部分です。

「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(17・5-7)

果たして、桑の木が、「抜け出して海に根を下ろせ」と言って、言うことを聞くものなのでしょうか?にわかには信じられません。桑の木が一体どうやって?と考えてしまうのです。みなさんは、「イエスさまがおっしゃったのだから、そうなるのだろう」と疑いもなく信じるでしょうか。

そこでわたしは、「これはもののたとえなのだ」と受け止めて考えることにしました。このたとえに込められている思いが実際に実を結ぶなら、このたとえは成り立つのではないでしょうか。そこでこのたとえに込められている思いは何か、ということを考えることにしました。

まず、桑の木です。背が高くなる木だそうで、15メートルにも達するものがあるようですが、普段見かけるのは数メートルの高さのものとされています。背が高くなる木なのですから、おそらく、土に深く根を張る植物なのでしょう。

この深く根を張る植物が、抜け出して海に根を下ろすというのは、たとえとして、「抜けないくらいに根を張ったものが、まったく違う場所で生まれ変わって生き始める」ということではないでしょうか。この考えに沿って、身近な例を考えてみましょう。

たとえでは、「抜け出して海に根を下ろせ」と言われていますから、簡単には抜け出せないものが、思い切って抜け出して、まったく違う場所で根を下ろすことが考えられているのでしょう。簡単には抜け出せないのに、「抜け出しなさい」と命じているのですから、たとえばそれは、「悪い習慣から抜け出せないでいる」と考えることができます。

すぐに思いつくのは「依存症」と呼ばれる状態です。アルコール依存症、ニコチン依存症、ギャンブル依存症、最近ではインターネット依存症など、いろんな依存症がありますが、こうした症状にある人は、意志の力では抜け出せません。また、周りの人の理解も十分でないことがあります。努力や、気合で治せるとか、抜け出せると思っているのですが、決してそうではないのです。

もし、こうした「依存症」が思い当たる人は、今日の福音のたとえを自分のこととして受け止めましょう。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」これは、信仰すれば病気が治るという意味ではなく、「わたしは、適切な治療を受ければ、必ず治る。立ち直ることができる」と信じることです。

たとえその信仰が、からし種一粒ほどの信仰であってもかまいません。「こんな治療で、本当に治るのだろうか」「こんなことを続けていて、大丈夫なのだろうか。」不安に負けそうになる自分を、からし種一粒ほどの信仰が支えてくれるのです。「大丈夫。わたしはきっと、この治療で治すことができる。この努力を続けて、立ち直ることができる。」

こうして、適切な治療を重ね、依存症を克服したなら、それは、「抜け出して海に根を下ろせ」という命令が実現するのと変わらないくらいの出来事ではないでしょうか。「それはどうかなぁ」と、誰もが思うようなことも、からし種一粒ほどの信仰があれば、神を固く信じる信仰がわずかでもあれば、努力は実を結び、大きな結果を生み出すのです。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」わたしは、このイエスの言葉を考えるもう1つの例として、司教さまになっていく人のことを考えました。

今、福岡教区の司教さまは宮原司教さまです。この司教さまは、初めは長崎教区の司祭でした。それが、大分教区の司教さまにまず選ばれて大分教区に籍を移しました。皆さんも自分に当てはめて考えてほしいのですが、これから引っ越して、宮崎か大分に住むことになったら、はいわかりましたと簡単に受け入れることができるでしょうか?ずっと五島に暮らしていた人が、まったく違う環境に住み始めることを考えたら、簡単には決心できないと思います。

ところが、宮原司教さまは、まず大分の司教さまとして籍を移し、またあとでは、福岡の司教さまとして転籍し、自分に与えられた務めを引き受けたのです。長崎でしっかり根を下ろしていたのを、大分に移り、さらに福岡に移動してそこで根を下ろしました。

本当にできるか、心配はあったでしょう。けれども、信仰が、不可能を可能にしたのです。頭で考えると、難しい要求ですが、からし種一粒ほどの信仰さえあれば、神の恵みがそこに働いて、不可能を可能にしてくれるのです。

司教さまほどではありませんが、司祭も修道者も、難しい要求に戸惑いながらも違う場所に根を下ろして生きることの繰り返しです。わたしは浦上教会から始まって、滑石教会、太田尾教会、馬込教会、そして今の浜串教会と根を下ろしてきました。

長い場所では6年居ましたので、抜け出すのは難しいと感じることもありました。新しい場所で根を下ろせるだろうか?それでも、からし種一粒ほどの信仰が、大いに役に立ったのです。

皆さんの中にも、何かのきっかけを与えられて、まったく違う場所で根を下ろすように要求されていると感じることがあるかもしれません。「そんなの無理」と決めつけないで、信仰が支えになってくれれば、できるかもしれない。こうした信頼の心を、呼び起こしてみたらと思います。

あなたが信頼しようとしている信仰心は、からし種一粒ほどかもしれません。たとえそうであっても、イエスはその小さな信仰に、くみ尽くせないほどの恵みをそそいで、不可能を可能にしてくださいます。


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ちょっとひとやすみ
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▼上五島地区カトリック婦人会のミニバレーに明日参加する。もともと浜串はチーム力が上なので、わたしは巡回の福見・高井旅チームに加わる。浜串チームと福見・高井旅チームはそれぞれ違う対戦相手が割り当てられ、それぞれ結果が楽しみである。
▼明日の試合の後は、夜に慰労会が予定されている。わたしは立場上、両方の慰労会に参加しなければならず、あまり飲めないのでどういうふうに過ごしたらよいのか、今から気にかかっている。もう少しお酒が飲めるなら、どちらでも豪快に飲んで騒いで構わないと思うのだが。
▼実はミニバレーはまだ続きがある。10月からは一般のミニバレーのリーグ戦が予定されているらしい。そこにもわたしは強制参加を命じられていて、まだまだ運動することになるらしい。リーグ戦に入ると、土井ノ浦の後輩が強力な助っ人として参加してくれる。やはり若いに越したことはないから、心強い。
▼木曜日にボートで釣りに行った。イラ(こちらの呼び名は「ナベタ」)、カワハギ、イトフエフキ、エソ、ミノカサゴ、ベラ、よくまあたくさんの種類を釣り上げたと思う。それにしても、肝心のイトヨリはどこにいるのか?イトヨリを釣りたかったのだから、イトヨリが釣れなければ、釣れなかったも同然である。何とか地元の人から情報をもらって、イトヨリの刺身にありつきたい。

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新企画今週の1枚
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第103回目。これは2地区司祭団の親睦ソフトボール。正式大会は中止でした。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/101003.jpg

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日
(ルカ17:11-19)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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