こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第8主日(マタイ6:24-34)病気の時も健康の時も「思い悩むな」

2011-02-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/02/27(No.520)
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年間第8主日
(マタイ6:24-34)
病気の時も健康の時も「思い悩むな」
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こちらに赴任してから、月に2回病人訪問に回っています。行った先の教会でまちまちですが、毎週お見舞いに行く習慣のある教会もあれば、月に一回お見舞いに行く教会もあります。そしてお見舞いして、病人の聖体拝領をします。
皆さんのほとんどが、病人の聖体拝領を受けたことがないでしょうから、少し説明しておきます。病人の聖体拝領は、ミサを、ぐっと短くしたような形になっています。最初に招きがあり、回心の祈り「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します・・・」と唱え、聖書を朗読します。聖書朗読の後、ご聖体の容器を開いて、一緒に主の祈りを唱えます。
そして聖体拝領するときには、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたを置いて誰のところに行きましょう。」という受け答えをして聖体を拝領します。最後は拝領祈願みたいな祈りを唱えて、祝福の祈りを唱えて終わります。ほぼ、ミサの流れに沿っています。
この中で、聖書朗読の部分がありますが、儀式書には5通りの朗読箇所が用意されていまして、実はそのいちばん最初に、今週の福音朗読箇所が選ばれているのです。もちろん、いちばん最初に載せているからと言って、司祭がほとんどこの「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。・・・」(6・26以下)を選んでいるとは限りませんが、わたしも時々この個所を読みます。
ここから何が見えてくるかというと、病人訪問を受ける人たちにとって、今週の福音朗読箇所はとてもよくわかる箇所、自分のこととして身近に感じる箇所になっているということです。病気で、心もからだも弱っているときに、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」という言葉は、神さまが病気の自分にも目を注いてくださっていることをよく感じさせてくださると思います。
または、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(6・30)という言葉も、命の危険を感じている人にとって、力強い言葉ではないでしょうか。
今週の朗読箇所でイエスがいちばん言いたいのは、「思い悩むな」ということです。そして、この朗読を生活でいちばん身近に聞く人は病人訪問を受けている人と言ってよいでしょう。すると、病気で、心もからだも弱っているときにいちばんイエスが言いたいことは、「思い悩むな」ということになります。
実際には、病院に入院している人がいちばん思い悩むことの多い人のはずです。わたしが見舞った人の中には、家族のある人がたくさんいます。配偶者であるとか、子供たちであるとか、きっと家で待っている人のことが、心配でたまらないはずです。
それでも、イエスは「思い悩むな」と呼びかけ、イエスに深い信頼を寄せることを教えようとするのです。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(6・27)とも言っています。病院に入院している人にとっては、「思い悩んだからといって、退院をわずかでも早めることができようか」ということかもしれません。
入院している人、自宅で病気療養中の人は、いつか退院し、健康を取り戻す日が来るでしょう。入院中の不自由な思いに比べれば、療養中の不自由さを思えば、解放された喜びはひとしおだと思います。
そんなとき、もしかしたら入院中のことを思い出すかもしれません。辛かった時のことを振り返るかもしれません。でもイエスは、病気の時、つらさを味わっているときから、変わらない態度でわたしたちに呼びかけています。それは、「思い悩むな」ということです。
ですから、あなたが入院中または病気で自宅にいる間に「思い悩むな」というイエスの言葉を深く学んだのでしたら、退院後、病気からの回復後も変わらずイエスの「思い悩むな」という言葉に忠実であるべきでしょう。
イエスは変わらない態度でわたしたちに接してくださいます。わたしたちは、イエスに、変わらない態度を保つことができるでしょうか。思い悩むに違いない、そういう時に「思い悩むな」と呼びかけるイエスを、今のわたしは信頼できるだろうか。あらためて自分に問いかけてみましょう。
なかには、病気の時はイエスの言葉に信頼を寄せようと必死になっていたのに、健康を取り戻すとその時の熱意を忘れてしまうという人もいます。そうではなく、「わたしは、病気の時も健康の時も、変わらずイエスに信頼します」と答えることができるよう、力を願いましょう。


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‥次の説教は‥‥
年間第9主日
(マタイ7:21-27)
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ちょっとひとやすみ
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▼葬儀のため、先週の日曜日は叙階式ミサに参加できなかった。よって、「今週の1枚」は掲載する写真がない。大変申し訳ない。教区の広報委員なので、そのうち写真が利用できるようになるかもしれないので、その時には追って掲載する予定。
▼「泣いて馬謖を斬る」という中国のことわざがあるが、E-Magazineは廃刊することにした。「最近説教が届かない」と前任地の信徒の方から言われ、「やっぱりそうか。ここはもう利用できないな」と判断した。「泣いて・・・」は、実質この発行スタンドがいちばん読者数が多かったからである。
▼メルマガが届かないのに、どうやって届いていない読者に「撤退のお知らせ」をするのか。わたしもわからないが、とにかくこちらとしては誠実に、E-Magazineからの配信作業をして、確かに配信の準備を整えた上で、撤退する以外にない。これまでも、E-Magazineに限らず配信作業は続けて来たのだが、E-Magazineから配信を受けている人には本当に申し訳ないと思う。
▼もしかしたら、撤退することでこれまでの読者320人がすべて消えてしまうかもしれない。配信されなくなったなぁ・・・で終わる人もいるに違いない。何人かは、配信の必要性を理解してくださり、自発的に配信先を探すかもしれない。とにかく、最大の顧客を失うのは痛恨の極みである。
▼無料のメルマガというスタイルは、営業としてはなかなか成り立たないらしい。そうなると、よほど体力のある会社でないと、続けていくのは難しいだろう。E-Magazineからは、自分は撤退するが、会社の運命はどうなるのだろうか。ちょっと気になる。

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新企画今週の1枚
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第127回目。ずいぶん外の日差しはまぶしくなってきました。日焼けしそうです。
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年間第7主日(マタイ5:38-48)霊が注がれ、人は新しい生き方を歩む

2011-02-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/02/20(No.519)
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年間第7主日
(マタイ5:38-48)
霊が注がれ、人は新しい生き方を歩む
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今週の福音朗読箇所は、先週の朗読箇所と一続きになっています。先週の朗読箇所でイエスは「昔の人はこう言っていた。しかしわたしは言う・・・」という形で律法学者やファリサイ派の主張を反駁(はんばく)しましたが、今週の朗読箇所でも同じように「昔の人はこう言っていた。しかしわたしは言う。」という形で、イエスが人々に求めていることを明らかにします。

一続きと言いましたが、先週の朗読箇所とは違いもあります。先週の部分でイエスは、掟が神の本来の望みからずたずたに引き離されていたのを、元に戻すことに力を注いでいました。それが、今週の部分ではもっと進んだ取り組みに人々の目を向けようとしています。ひとことで言うとそれは、「新しい生き方への導き」です。

では、「新しい生き方への導き」とはどういうものでしょうか。それは、律法が教える生き方を超える生き方のことです。律法が「目には目を、歯には歯を」と教えるとき、悪人に手向かわない生き方をイエスは教えます。

当時の人々は、損害を被ったとき、同じだけの損害を相手に与えることは普通のことと考えていたわけですが、イエスはそれをゆるしませんでした。イエスは具体例を出して、とことん相手と向き合う新しい生き方を示します。

「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」(5・39-42)

これらの勧めだけでも、とても実行できそうにないのですが、イエスはさらに難しい勧めを与えました。「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(5・44)当時の人々は「隣人を愛し、敵を憎め」という生き方を当然のことと考えていたのです。ですからイエスの勧めは、とても受け入れられないものでした。

わたしたちにとっても同じです。わたしたちに「隣人を愛し、敵を憎め」というはっきりした掟はないかもしれませんが、気持ちは理解できるはずです。わたしたちにとっても、敵は憎むべきもの、倒すべきものと思っているでしょう。それを、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と命じるのですから、「なぜ?」と問い返したくなるのです。

イエスの勧めは、今の時代にあっても「新しい生き方」です。復讐してはならない、敵を愛しなさいというのですから、人々の考えを超える生き方です。果たしてそれは可能でしょうか。もし可能なら、どんな人に求められる生き方でしょうか。

中田神父は、正直に言うと、不可能だと感じます。仕返しをするな、と言いますが、これまでしばしば、「やられたらやり返す」そんなつもりで生きてきました。言葉尻をとらえて、「やられたら四倍にして返す」そんなことさえ考えて生きてきたのです。

もし、不可能と考えていることが可能になるとしたら、それは、なぜイエスがわたしたちに新しい生き方を求めてくるのか、そのことを考えないと答えは出ないと思います。イエスは、なぜこうした新しい生き方を求めるのでしょうか。

それは、過ちの繰り返しを断ち切るためではないでしょうか。「復讐しても、また新しい復讐を生む」「敵を憎んだら、憎しみが返ってくる」確かにそうなのです。過ちを繰り返し、歴史が繰り返されていきます。そこへイエスは、過ちを繰り返さないために、新しい生き方を持ち込んでくださったのです。

新しい生き方は、誰かが生きて初めて、その生き方を見習うことができます。復讐しない生き方、敵をも愛していく生き方を最初に生きてくださったのは誰でしょうか。疑いもなく、それはイエス・キリストです。

平手で顔を殴った人に手向かうことなく、衣服を奪い合う人にすべての衣服を手放し、ゴルゴタの丘まで三度倒れながらも歩き通したイエス・キリストが、わたしたちに新しい生き方の模範を残してくださいました。ご自分を迫害する者のために、十字架の上で祈り、悪人にも善人にも、救いの道を開いたイエス・キリストが、新しい生き方を最初に生きてくださったのです。

新しい生き方を見習って生きることは困難を伴います。慣れている道ではないからです。けれども、日本人のわたしたちには、すでにたくさんの先祖たちの模範があります。26聖人がそうですし、205福者殉教者や、188福者殉教者がいます。彼らは、イエスの歩いた道をまっすぐに歩き通しました。

新しい道を選ぶことは、難しすぎると感じるかもしれません。けれども、イエスの霊が注がれると、わたしたちはこの道を選ぶことができるようになります。それはたとえて言えば、決心つかない事柄に、誰かから背中を押してもらって、決断するようなものです。わたしたちが新しい道を選ぶ力を、聖霊は必ず与えてくださいます。

新しい生き方に、大きく舵を取りましょう。復讐しない、敵をも愛する生き方に、永遠の命に至る道が続いているのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第8主日
(マタイ6:24-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼遠い遠い先の夢。神学生になるために最初のお世話をした人が、いつか司祭になること。これはどんな司祭にとっても最上の喜びだろう。もしかしたら、そのような夢が、現実になるかもしれない。
▼神学生になるためには、神学院に入学することから始まる。神学院に入学するためには、主任司祭が書類を整えてあげる必要がある。もちろん、本人が入学試験に合格することが前提になるが。
▼わたしは、かつて1人の小学6年生が神学院に入学するに当たって、書類を整えてあげたことがある。その子が、今年は朗読奉仕者に選任されることになった。朗読奉仕者の次は祭壇奉仕者、その後は助祭、司祭と進んでいく。
▼ただし、あまり実感はない。なぜかというと、今触れた神学生の場合は、「司祭になりたい」と相談を受けて、「行ってごらん」と勧めたわけではないからだ。実は、両親が本人を連れてきて、「神学院に入ることにしていますので、書類をお願いします」とお願いされて書類を整えたからだ。
▼今後、もっと関わりを持って、「神学院に行きたいです」「そうか。行ってごらん」「はい、行ってみます」そういうやりとりをして、神学生を送り出し、育ててみたい。そしてその暁に、その子が司祭になるのをこの目で見届けてみたい。2月20日の長崎教区の司祭叙階式の日に、こんなことを思った。

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新企画今週の1枚
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第126回目。叙階式の1コマ。後でアップします。
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年間第6主日(マタイ5:17-37)神の望みに叶うように、この1つを心に

2011-02-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
11/02/13(No.518)
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年間第6主日
(マタイ5:17-37)
神の望みに叶うように、この1つを心に
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今週の福音朗読は、律法学者やファリサイ派の人々に、ご自分の考えをはっきりと示し、宗教指導者たちの陥っている過ちを真っ向から反論しています。イエスの考えの土台になっているのは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(5・17)というものです。

まずは、「廃止する」という言葉を、できるだけもとの言葉に近い形で考えることから始めましょう。ここで使われている「廃止する」は、もともとは「ばらばらにする」を意味しているそうです。ですから、律法や預言者(これは旧約聖書全体を表します)が本来持っていた精神を忘れ去り、宗教指導者たちはそれをばらばらにしてしまいました。

そこへイエスがおいでになって、「律法を廃止するためではなく、完成するために来た」と仰ったのです。律法本来が持っていた精神を現わすように、律法に新たないのちを吹き込もうとされたのです。

では律法本来の精神とは、どのようなものでしょうか。律法はもともと、神への愛と隣人への愛を表す手段でしたが、人間に都合のよいようにさまざまな解釈が加えられ、本来の姿を失っていました。

例として、マルコ福音書の7章9節から13節を引用してみます。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。

それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

宗教指導者たちは人間の都合に合わせたたくさんの解釈をはさんで、神の掟を神の掟の価値から引き下げていました。ですからイエスの反論は相当に厳しかったのです。イエスが完成させようとしたのは、人間の都合でばらばらにされてしまった律法を、神への愛と隣人への愛を表すというただ1つの方向に秩序付けることでした。

ただ1つの方向に秩序付ける。この考えで今週の福音朗読を読み返してみましょう。イエスは「これまではこのように命じられていた。しかし、わたしは言っておく。」と反論して、事細かに説明しています。さらに複雑になるではないかと思っておられるかもしれませんが、よく読み返すとイエスの反論がなるほどと理解できるようになります。

例えば殺すなという掟については、凶器を使った殺人だけではなくて、人のいのちを、神から引き離してしまう行為はすべて神に反するのだということを明らかにします。兄弟に腹を立てる、「ばか」と言う、これらは隣人をおとしめるものですから、すべて責任を問われるのです。

姦淫するなという掟については、神が与えてくださった結婚の尊さを軽視し、破壊する行為は、思い・望みを持つこともすでに神の望みに反するということです。肉体的な行為だけに限られるというような人間の解釈は、神が用意した掟の崇高な価値を引きずり下ろすことになるのです。

他にもイエスは具体的に掟のあるべき姿を説明されますが、大切なのは、人を神への愛と隣人への愛に向かわせるはずだった掟を、本来の姿に立ち返らせようとしたということです。

そしてすべてを本来の姿に立ち返らせようとしたイエスの思いは十字架上で完成されました。わたしたちが、生活のすべてを神の望みに合わせるには、わたしたちの力では全く足りませんでした。そこで、イエスが十字架にはりつけになって、わたしたちを神の愛に結び合わせようとしたのです。

「すべてを神の望みに合わせようと努力するのは不自由で窮屈だ」と思う人もいるかもしれません。けれどもイエスははりつけにされた十字架上で、「成し遂げられた」と仰ったのです。人間を、神の愛に結びつける。その救いのわざが、十字架によって完成されたと言っているのです。

はりつけにされた姿は、まったくもって不自由な姿です。けれども、イエスが、御父への愛のためにはりつけにされていることを考えてみる必要があります。御父への愛のためにはりつけにされているイエスは、本当は完全な自由を手に入れていたのではないでしょうか。神の望みに、完全に結びあわされた生活を人が志すことは、本当の自由を手に入れる道だと思うのです。

今週の朗読の最後、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(5・37)というイエスの言葉があります。神が掟に込めた思いを、人間の都合であれこれ解釈するのではなく、「生活全体を、神さまが喜ぶ方向に向ける」この1点にわたしたちは心を砕く必要があります。ただ1つの原則で生活する。この決意を新たに、今週も過ごしていきましょう。


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‥次の説教は‥‥
年間第7主日
(マタイ5:38-48)
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ちょっとひとやすみ
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▼この数週間、メルマガ配信で頭を悩ませている発行スタンドがある。以前にも書いたかもしれないが、まともな発行ができず、困っている。申し訳ないが、名前を書いておく。E-Magazineという発行スタンドである。手を焼いている。
▼2月6日のメルマガ発行の際、土曜日の午後2時ごろ3時ごろ、4時ごろにメルマガの配信をかけた。都合5回、メルマガの配信をかけたが、とうとう配信してくれなかった。しかも、配信済みのログには、今回の画像にある通り、配信済みのリストとしてちゃんと掲載されているのである。
▼だから、わたしにはもう責任がない。配信会社側は、「1日のメルマガの量が膨大になって」とか「1日の配信回数を1回と想定していたので」とか説明しているけれども、配信が完了したというリストに載っていれば、こちらも安心するわけだし、それ以上こちらが何も手を出せない。だから、「E-Magazineから配信が届かない」と言われても、わたしには手の施しようがないのである。
▼できるだけ、他社のメルマガ発行スタンドに移っていただければありがたい。メルマガの最後に掲載しているように、PC用のメルマガはほかにも数社利用している。都合のよいものにぜひ乗り換えてほしい。該当の発行スタンドには申し訳ないが、この発行スタンドでは過去にも何度か、配信してもらえなかった前科があるのだから。
▼乗り換えをお願いしたいが、ほかの発行スタンドは仮申し込み・本登録の形が多く、ケータイで受け取っている人には不便だと思う。だから申し訳なく思っている。こんなに迷惑がかかっているのに、わたしとしては謝るくらいしかできることがない。本当に悔しい。この悔しさをどこにぶつけたらよいのか。
▼悔し紛れに、2月6日の分を2月8日(火)の夜7時5分ごろに配信をかけた。これで6回目だが、7時5分に、夜8時の配信予定と指示をして配信を書けたところ、夜7時29分59秒に配信されたようである。
▼経験上、このE-Magazineという発行スタンドが無事に配信を受け付けてくれるのは、0分から15分くらいに、該当するメルマガの配送予約を入れて、お祈りしながら待つ、そういう場合だ。「配信はしたけど、ちゃんと届くのだろうか・・・」こんな心配をするのはもう懲りた。もう疲れた。なので、このメルマガの最後にあるいろんな発行スタンドを見て、どれかに乗り換えていただければと思っている。

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新企画今週の1枚
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第125回目。配信スタンドのログ(キャプチャ)。どうして配信されない?
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年間第5主日(マタイ5:13-16)神が「地の塩」「世の光」を使って世界を変える

2011-02-06 | Weblog
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11/02/06(No.517)
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年間第5主日
(マタイ5:13-16)
神が「地の塩」「世の光」を使って世界を変える
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今日、上五島地区で「信徒の集い」が開催され、浜串小教区も練習の成果を披露しに行きます。昨日の朝ミサでお知らせしていたんですが、大人の方で信徒の集いを見に行きたい方は11時半に車を出してくれるそうですから、どうぞ見に行って、発表する子供たちを応援してほしいと思います。ちなみにわたしも、ペトロに扮装して舞台に上がることになっています。

さて今週の福音朗読も、とてもよく知られているお話です。「あなたがたは地の塩である。」(5・13)「あなたがたは世の光である。」(5・14)説教の材料をいろいろ集めていたら、今までとは違った発見がありました。皆さんと分かち合いたいと思います。

今週の福音朗読を考えるために、まず身近な例から考えることにしましょう。皆さんの家庭には、蛍光灯や白熱球など、家の中を照らすものがあちこちにあると思います。わたしたちが知っている照明器具は、必ず電気をもとにして明るく照らすものばかりです。

これは今週の福音朗読を考えるのに大事な例題になります。蛍光灯も、白熱球も、それ自体は光を出さず、電気をもとにして光をつくります。ですから、蛍光灯の棒を持ってまわっているからと言って、あるいは白熱球を持ち歩いているからと言って、夜道を明るく照らして歩くことはできないのです。

イエスは弟子たちに、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と仰いました。わたしはこのイエスの言葉も、先ほどたとえに出した「蛍光灯」「白熱球」と同じようなとらえ方をしたほうがよいですよと、強く勧めたいのです。

「地の塩」「世の光」と呼ばれた弟子たちは、自分自身のよい行いだけで、塩の役割、光の役割を果たすことができるとは思いませんでした。弟子たちがイエスに深く結び付いていることで、またイエスによって注がれる聖霊に満たされることで、本当の意味で弟子たちを「地の塩」「世の光」にしてくれる。彼らはそのように理解していました。

初めに例として引いた蛍光灯や白熱球も、それだけでは周りを照らすことはありません。自分を光らせる場所に設置して初めて、蛍光灯も白熱球もその役割を果たすわけです。同じように弟子たちも、自分たちがイエスに深く結び付いているときに初めて、「地の塩」「世の光」として働くことができるのです。

そこで、わたしたちにもイエスの呼びかけを当てはめてみましょう。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」だから、その良さを発揮して、世に対して証しとなりなさいと、イエスは期待しています。

けれども振り返って考えると、自分はとても「地の塩」「世の光」とは言えないと感じてしまうかもしれません。自分自身の良い行いだけでは、とてもこの社会を福音の教えで味付けするとか、社会を福音の光で照らすのだと、そこまでの勇気は湧いてこないでしょう。

ここで思い出してほしいのは、弟子たちも同じことを感じた上で、自分たちが「地の塩」「世の光」となれるのは、イエスに深く結び付いているからだと理解していた点です。ですからわたしたちも、イエスに深く結び付いているならば、「地の塩」「世の光」となれるということです。

では、どのようにして生活の中でイエスと深く結び付いていくことができるのでしょうか。弟子たちは、イエスと一緒に寝起きし、イエスの言葉、わざ、すべてを目の前で見てイエスとの深い絆を保っていました。わたしたちはどのようにして、イエスとの絆を深めるのでしょうか。

3つ、考えてみましょう。「祈り・聖書の学び・隣人愛」です。礼拝も含めて、祈りを生活に取り入れる人は、確実にイエスの照らし・導きを受けますから、イエスとの絆を深める人です。主日のミサに参加し、恥ずかしがらず誰にも遠慮することなく祈るなら、それは社会にイエスの福音を染み込ませ、消えることのない光として輝くことになります。

聖書の学び。聖書に日ごろから親しむ人は、神の言葉に常に耳を傾ける人ですから、イエスとの絆を深める人です。神の言葉をたえず受け入れるなら、それはいつか、溢れて人々に注がれるでしょう。人は、心の中にあるものを語るからです。長崎教区で取り組んでいる「聖書愛読マラソン」も、神の言葉に耳を傾けるよいきっかけです。

隣人愛を常に心がける人は、イエスとの絆を深める人です。わたしたちはやみくもに隣人を愛そうと思っても実行できません。隣人愛の土台となっているのは、知らず知らずに学んできたイエスの教えです。

たとえば、「わたしの隣人とはだれですか」との問いかけに答えて話してくださった「良いサマリア人のたとえ」や、兄弟をゆるすように促す「放蕩息子のたとえ」など、わたしたちが隣人愛を実践する土台は、しばしばイエスの教えから来ています。ですから、隣人愛はそのまま、あなたがイエスという「地の塩」「世の光」を表すことにつながります。

結局、わたしたちが「地の塩」「世の光」であるのは、イエスに結ばれてこその話なのです。お話した3つの取り組みでわたしたちがイエスに堅く結ばれる生活をすれば、わたしたちは「地の塩」「世の光」であり続けます。そして、この「地の塩」「世の光」を、神は世の中で使って味を付け、真理の光を照らしてくださいます。

わたしたちも、イエスに堅く結ばれることで「地の塩」「世の光」となります。あとは、神が必要な場所で使ってくださるように、自らを覆い隠さないことです。神がこの世界を導く道具としてわたしたちをどうぞお使いください。そんな気持ちをこのミサの中でおささげいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日
(マタイ5:17-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼最近話題の情報機器と言うと、スマートフォンとそれを大きくしたようなタブレット型の通信機器だ。面白いなぁとは思うけれども、要らないかなぁと思ったりもする。ところが、大阪を会場にしての視覚障害者の施設長が集まった研修会で、今触れた情報機器が研修内容に取り上げられていたのには驚いた。
▼具体例を挙げて申し訳ないが、アップルのアイパッドは、全国的に利用が始まっているインターネットを使った視覚障害者の読書サービス「サピエ」には大活躍することを実演して見せてくれた。「サピエ」というサイトには、膨大な量の図書が、視覚障害者が利用できる形で登録されている。これを、移動時にも、自宅でも垣根なく利用できるのだから、わたしは目を丸くして見ていた。
▼問題は、どの情報機器も指で触れて操作することが前提になっているということだ。ボタンもタッチスクリーンなので、基本的には見て触ることになる。画面上のたくさんのボタンを、どうやって押し分けるというのだろうか。ところが、この情報機器を、駆使している達人が、実際にはいるというのだ。
▼わたしはにわかには信じられないが、あり得ないことでもないのかなと思った。研修会1日目の夜に親睦会を持ったが、食事をするときに視覚障害者はわたしたちと全く同じように食事をしていた。彩りを見ることができないだけで、あとはおそらく何も変わらないのだろう。ということは、情報機器では彩りは関係ないのだから、駆使する達人がいても不思議ではないということになる。
▼それでも、わたしは先に述べた情報機器にお世話になるのはまだまだ先のことだと思っている。みんなが、「使ってないの?遅れているね」と言われたら、考えることにしたい。それよりも、ノートパソコンがもっともっと進化して(1kg以内で、16インチ以上、しかも高速処理)、情報機器の先頭を走ってほしいのが本心である。

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新企画今週の1枚
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第124回目。何とか、「上五島地区信徒の集い」の写真を日曜日に撮りたいです。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/110206.jpg

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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