当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。
(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/210801.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/8/1(No.1133)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第18主日(ヨハネ6:24-35)
イエスが与えてくれるものなら何でも(2)
‥‥‥†‥‥‥‥
3年前の説教を引っ張り出して、もう一度取り上げることにしました。福音朗読で群衆がイエスに問いかけ、イエスが群衆に答えるやり取りが出てきます。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(6・34)「わたしが命のパンである」(6・35)。群衆とイエスの、しりとりのような言葉のやり取りはまったく噛み合っていません。この噛み合わないやり取りから今年も学びを得ましょう。
小教区報「瀬戸山の風」に書きましたが、墓地写真台帳を作成することにしました。これからのことを考えると、子や孫の世代が皆、墓地の場所を正確に記憶し続けているとは限りません。お墓の場所を調べてもらって墓参りをする。そんな事態が近いうちにやって来るかも知れません。
そこで、お墓に無事たどり着けるように台帳を作成することにしました。「瀬戸山の風」には来月も墓地写真台帳のことを書くつもりですが、150基ほど取りかかった時点で、すでにいくつか問題点が生じております。
たとえば、昔の墓のことです。石材店に建ててもらった墓ではなくて、レンガくらいの大きさの石をいくつも寄せて作った墓があります。これが誰の墓なのか、写真を撮影しただけでは全く分かりません。他にも、こけが生えてしまって名前が読めなくなっている墓もあり、これは困難な作業になるな、と感じながら進めております。
さて群衆とイエスの噛み合わない対話の最後はこうでした。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」「わたしが命のパンである」これは、イエスが招く場所にたどり着けない人間の、変わらない姿なのかもしれません。
多くの人がいろんな時代、いろんな場面で「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と問いかけるのですが、考えの及ばない私たちは、命のパンであるイエスにたどり着けないのです。
ミサの始めにお知らせしましたが、京都教区の名誉司教であったライムンド田中健一司教様が93歳でお亡くなりになりました。私は全く面識がありませんが、愛媛県宇和島市で生まれ、高松教区の司祭となりまして、司祭生活銀祝のときに京都教区の司教に選ばれ、以来21年間司教職を全うしました。
私がすぐに考えるのは、愛媛県で生まれ育った人にとって、京都教区の司教を務めるというのは相当困難な職務ではなかったか、ということです。同じことは、大阪の前田枢機卿様、広島の白浜司教様にも当てはまります。全く畑違いの教区で、どのように職務を全うしたのでしょうか。
イエスに近づくすべての人が、イエスからのパンを得ようとします。真剣に探し求めている人もいますし、見当違いなその場限りのパンを求める人もいます。司教としての召し出しを受けるような人は特に、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と、日々真剣に願い求めていることでしょう。
それに答えてイエスが、「わたしが命のパンである」と司教職という答えを示した時、きっと驚いたに違いありません。なぜ私が司教職なのですか。なぜ、自分の教区ではなく畑違いの教区なのですか。誰でも自分の理解を超えることは怪しく思うものです。そもそも受け入れられる内容のものしか、私たちは想像し得ないからです。
もしも、予期せぬ別の答えだとしたら、それを受け入れることができるでしょうか。私たちはか弱い人間なので、イエスの示す答えと噛み合わないことがあり得るわけです。「自分はそういう答えを考えていませんでした」と。
では「予想と違う」と言っている私たちと「わたしが命のパンである」と言われるイエスと、どちらに合わせるべきでしょうか。私たちがイエスの答えを驚き怪しまないために、次のような心構えが必要です。「イエスが与えてくださるものなら何でも受け取ります。」パンをくださいと願う私たちにどんな答えが示されたとしても、私たちは受け入れる。そんな心構えが必要だと思います。
イエスの示すパンが「本当の意味でパンとなる」そのためには、受け取る人間のほうが変わる必要があります。イエスが示すものを、「パン」として受け入れなければ、それは「命のパン」にはなり得ないからです。これがイエスの示された答えなのだと、謙虚に受けとめなければ、「パン」は人間の命に変わることができないのです。
イエスは集まった群衆にご自身をパンとして示しましたが、群衆はイエスを「命のパン」として受け入れることが出来ませんでした。群衆は、命のパンを受け取るために自分自身が変わる必要がありましたが、最後まで変わることができなかったのです。
イエスは命のパンとしてご自身を私たちに与えてくださいます。それが癒やしの奇跡を与えている姿であるか、十字架上で命をささげている姿であるか、私たちは選べません。「イエスが与えてくださるものなら何でも受け取ります。」そう心に決めましょう。どの場面のイエスであっても、それは私たちに必要なものを与えてくれる命のパンなのです。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第19主日(ヨハネ6:41-51)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼自分には関心の無いことでも、別の人には重大な関心事ということもある。人間は一人として同じではないのだから、違う関心を持っている人を「あなたは間違っている」などと決して言ってはいけない。
▼しかし、頭でそうだと分かっていても、しばしば「あの人は間違っている」と言う。違いを受け入れたり、違いから何か収穫を得たり出来るかどうか。人としての成長がここにある。いつまでも違いを受け入れないなら、それ以上の成長はない。
▼新しい風は、いつも若い人からとは限らない。新しい風を取り入れようとするすべての人から来る。新しい風は、「新しいもの」ではないかも知れない。すでにあるもの、すでに知られているものということもある。違いを謙虚に受けとめるなら、すでに知られているものからも吸収して、新しくなれる。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第740回目。アサガオ。確かに朝は開いて、昼夜はしぼんでいる。朝の楽しみ。
http://ss104313.stars.ne.jp/210801.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/
【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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こうじ神父
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3年前の説教を引っ張り出して、もう一度取り上げることにしました。福音朗読で群衆がイエスに問いかけ、イエスが群衆に答えるやり取りが出てきます。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(6・34)「わたしが命のパンである」(6・35)。群衆とイエスの、しりとりのような言葉のやり取りはまったく噛み合っていません。この噛み合わないやり取りから今年も学びを得ましょう。
小教区報「瀬戸山の風」に書きましたが、墓地写真台帳を作成することにしました。これからのことを考えると、子や孫の世代が皆、墓地の場所を正確に記憶し続けているとは限りません。お墓の場所を調べてもらって墓参りをする。そんな事態が近いうちにやって来るかも知れません。
そこで、お墓に無事たどり着けるように台帳を作成することにしました。「瀬戸山の風」には来月も墓地写真台帳のことを書くつもりですが、150基ほど取りかかった時点で、すでにいくつか問題点が生じております。
たとえば、昔の墓のことです。石材店に建ててもらった墓ではなくて、レンガくらいの大きさの石をいくつも寄せて作った墓があります。これが誰の墓なのか、写真を撮影しただけでは全く分かりません。他にも、こけが生えてしまって名前が読めなくなっている墓もあり、これは困難な作業になるな、と感じながら進めております。
さて群衆とイエスの噛み合わない対話の最後はこうでした。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」「わたしが命のパンである」これは、イエスが招く場所にたどり着けない人間の、変わらない姿なのかもしれません。
多くの人がいろんな時代、いろんな場面で「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と問いかけるのですが、考えの及ばない私たちは、命のパンであるイエスにたどり着けないのです。
ミサの始めにお知らせしましたが、京都教区の名誉司教であったライムンド田中健一司教様が93歳でお亡くなりになりました。私は全く面識がありませんが、愛媛県宇和島市で生まれ、高松教区の司祭となりまして、司祭生活銀祝のときに京都教区の司教に選ばれ、以来21年間司教職を全うしました。
私がすぐに考えるのは、愛媛県で生まれ育った人にとって、京都教区の司教を務めるというのは相当困難な職務ではなかったか、ということです。同じことは、大阪の前田枢機卿様、広島の白浜司教様にも当てはまります。全く畑違いの教区で、どのように職務を全うしたのでしょうか。
イエスに近づくすべての人が、イエスからのパンを得ようとします。真剣に探し求めている人もいますし、見当違いなその場限りのパンを求める人もいます。司教としての召し出しを受けるような人は特に、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と、日々真剣に願い求めていることでしょう。
それに答えてイエスが、「わたしが命のパンである」と司教職という答えを示した時、きっと驚いたに違いありません。なぜ私が司教職なのですか。なぜ、自分の教区ではなく畑違いの教区なのですか。誰でも自分の理解を超えることは怪しく思うものです。そもそも受け入れられる内容のものしか、私たちは想像し得ないからです。
もしも、予期せぬ別の答えだとしたら、それを受け入れることができるでしょうか。私たちはか弱い人間なので、イエスの示す答えと噛み合わないことがあり得るわけです。「自分はそういう答えを考えていませんでした」と。
では「予想と違う」と言っている私たちと「わたしが命のパンである」と言われるイエスと、どちらに合わせるべきでしょうか。私たちがイエスの答えを驚き怪しまないために、次のような心構えが必要です。「イエスが与えてくださるものなら何でも受け取ります。」パンをくださいと願う私たちにどんな答えが示されたとしても、私たちは受け入れる。そんな心構えが必要だと思います。
イエスの示すパンが「本当の意味でパンとなる」そのためには、受け取る人間のほうが変わる必要があります。イエスが示すものを、「パン」として受け入れなければ、それは「命のパン」にはなり得ないからです。これがイエスの示された答えなのだと、謙虚に受けとめなければ、「パン」は人間の命に変わることができないのです。
イエスは集まった群衆にご自身をパンとして示しましたが、群衆はイエスを「命のパン」として受け入れることが出来ませんでした。群衆は、命のパンを受け取るために自分自身が変わる必要がありましたが、最後まで変わることができなかったのです。
イエスは命のパンとしてご自身を私たちに与えてくださいます。それが癒やしの奇跡を与えている姿であるか、十字架上で命をささげている姿であるか、私たちは選べません。「イエスが与えてくださるものなら何でも受け取ります。」そう心に決めましょう。どの場面のイエスであっても、それは私たちに必要なものを与えてくれる命のパンなのです。
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▼自分には関心の無いことでも、別の人には重大な関心事ということもある。人間は一人として同じではないのだから、違う関心を持っている人を「あなたは間違っている」などと決して言ってはいけない。
▼しかし、頭でそうだと分かっていても、しばしば「あの人は間違っている」と言う。違いを受け入れたり、違いから何か収穫を得たり出来るかどうか。人としての成長がここにある。いつまでも違いを受け入れないなら、それ以上の成長はない。
▼新しい風は、いつも若い人からとは限らない。新しい風を取り入れようとするすべての人から来る。新しい風は、「新しいもの」ではないかも知れない。すでにあるもの、すでに知られているものということもある。違いを謙虚に受けとめるなら、すでに知られているものからも吸収して、新しくなれる。
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今週の1枚
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第740回目。アサガオ。確かに朝は開いて、昼夜はしぼんでいる。朝の楽しみ。
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† 神に感謝 †