こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

王であるキリスト(ヨハネ18:33b-37)王であるキリストのために部下は戦う

2018-11-24 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/11/25(No.973)
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王であるキリスト
(ヨハネ18:33b-37)
王であるキリストのために部下は戦う
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年間最後の主日「王であるキリスト」の祭日を迎えました。来週からは待降節で、新しい一年が始まります。ついでの話ですが、来週の待降節以降葬儀が入った場合、守るべき祭日・待降節・四旬節・復活節の主日はミサを伴わない「ことばの祭儀による葬儀」を行うことになります。ご協力をお願いします。

最近太ったなぁと実感する出来事がありました。バイクを動かすためにヘルメットを装着しました。するとほおがヘルメットの中で圧迫されて、非常に窮屈だったのです。顔に肉が付いて、窮屈になっていました。

ヘルメットはいちばん大きなサイズを買っているので買い換えることはできません。そこで安全の保証はできませんが、ヘルメットの内側は発泡スチロールなので、内側を金づちで均等にたたき続けます。すると発泡スチロールが潰れて、隙間ができ、少し楽になります。

ここで考えたのですが、ヘルメットの内側をたたくとヘルメットの安全性が犠牲になりますから、ヘルメットではなく、私の頬を金づちでたたいたら、ヘルメットの中で隙間ができるのではないか。そう思って金づちを手に取ってみたのですが、思い直しました。一月の駅伝大会にひょっとしたらまた声がかかるかも知れないので、顔がもう少し小さくなるように、努力しようと思っています。

さて今日与えられた福音朗読の中で、「わたしの国は、この世には属していない。」(18・36)という言葉に目を留めました。この言葉だけで、イエスの御国があること、そうであれば、イエスの御国に属している人々もいることになります。そこから考えて、では私はイエスの御国に属している人間なのだろうか、という問いもわいてきます。

ピラトの前でイエスは「わたしの国は、この世には属していない」と言い切ったので、ピラト自身もイエスの御国に属していないことを突きつけられ、態度決定を迫られています。その場ですぐにイエスの御国に属する人間となることを選べば、ピラトはイエスをユダヤ人に引き渡さなかったことでしょう。

実際イエスは、「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。」と言っています。ですが実際には、その場でイエスがユダヤ人に引き渡されないように戦った人は現れなかったのです。

ではイエスの御国に属する人間が誰もいないということなのでしょうか。そうではないと思います。イエスが十字架への道を歩む中で、イエスの元を離れなかった人々、イエスの仲間に加えられた人々がいたからです。ベロニカという女性、マグダラのマリア、イエスの愛しておられた弟子、何よりもイエスの母マリア。こうした人々は、王であるキリストがお選びになった道を最後まで離れなかったのです。

また、イエスの代わりに十字架を背負ったクレネのシモン、一緒に十字架にはりつけにされたうちの一人もまた、王であるキリストの道を共に歩んだのです。いったんはイエスから身を隠した他の弟子たちも、あとでは王であるキリストの道を自分たちの選ぶべき道と思い直し、使命を全うしました。

では、私たちは王であるイエスの御国に属する人間なのかと問うてみたいと思います。イエスの御国に属する人間は、信じない人の手にイエスを渡すまいと戦う人です。わたしはイエスが引き渡されようとしている時に、このような態度を取ることができるでしょうか。

ではイエスが引き渡されようとしている場面とは何でしょうか。私たちの周りで、あからさまに不正が実行されようとしているとしましょう。それはまさに、イエスが悪を行う者の手に引き渡されようとしている場面です。そうした場面で私はどれくらい不正と戦おうとしているでしょうか。

不正行為、悪口、嘘、いろんな場面を見たり聞いたりしながら、戦おうとしないなら、そのたびにイエスは悪を行う者の手に引き渡されているのではないでしょうか。私たちは時代や場所は違っても、ピラトの前に立たされている王であるイエスに、自分が御国に属している人間であると証明する必要があると思います。

私たちキリスト者が、王であるイエスを、悪意ある人々や信じない人々に引き渡さないと言葉や態度で努力する時、私たちは今の時代にあって御国に属する国民です。イエスの教えに反すると言って、イエスを引き渡さないよう努力する。弱さや力不足を認めながらも悪の力に抵抗する時、神の国は今ここに存在しているのです。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(ルカ21:25-28,34-36)
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ちょっとひとやすみ
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▼月曜日。ある韓国巡礼団が「ミサのために同行して来る予定の聖職者が来ることができなかったので、現地の主任司祭にミサをして欲しい」と案内所に依頼が入った。結論としては引き受けなかったので、その巡礼団には申し訳ないことをした。
▼いよいよ、勉強している韓国語でミサをする日が近づいているのかも知れない。実はオリジナルの韓国語ミサの本を、まだ二頁くらいしか直読直解できない。勉強そのものは韓国人司祭に指導いただいて一通り終わっているのだが、まだ「ミサ聖祭を終わります。行きましょう主の平和のうちに。神に感謝」ここまで韓国語で終わることができない。
▼せっかく指導いただいた韓国語のミサだし、韓国からの巡礼団はひっきりなしにやって来るのだし、これ以上の環境はない。与えられた機会を逃せば、勉強したことも無駄になりかねない。
▼そういうことで、せっかく勉強した韓国語のミサ儀式書を、何かの形で公開していこうと思う。そうやって、自分の勉強したことの再確認と、進んだ部分までは決して後戻りしない、その決意を表そうと思う。
▼勉強を指導してくださった韓国人神父様の恩に報いるためにも、半年後「五月連休後」あたりを目標にして、韓国語ミサ儀式書に沿ってミサができる日本人司祭デビューをしたい。誰も興味ないかも知れないが、それでもゴール目指していこうと思う。

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今週の1枚
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第580回目。日本シリーズが終わった時から、一年は始まっている。長い一年が。

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年間第33主日(マルコ13:24-32)今この場で、救われる日を生きる

2018-11-17 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/11/18(No.972)
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年間第33主日
(マルコ13:24-32)
今この場で、救われる日を生きる
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「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」(13・32)今週の福音朗読の結びです。「だれも知らない」というのは「知る必要がない」そう考えた方がよいでしょう。報復とか、裁きであれば、備えておく必要があり、それがいつなのかを知っておくことは意味があります。しかし救いの日は、私たちがその日を知っていても知らなくても、「救われる日」なのです。

過ぎた週に、母親の兄であった繁一伯父さんの葬儀のため鯛ノ浦に出かけてきました。その間お祈りいただいた皆様には感謝申し上げます。火曜日の朝5時に息を引き取り、私の母親から連絡が入ったのは5時15分でした。火曜日は基本的に夜に修道院のミサです。水曜日の朝ミサの後の移動も考えましたが、朝の船に乗るのは時間的に難しいので、思い切って火曜日の修道院ミサの後博多に移動して、太古丸に乗りました。

火曜日夜の11時45分に博多を出た船は水曜日の朝5時40分に青方に着きました。実家で着替えを済ませ、個人的に伯父さんの家にお悔やみを伝えに行きました。通夜の祈りで出向く時は個人的な話はできないかもしれないので、前もって出かけました。亡くなった当時の様子などを聞くことができて、通夜の話をする助けになりました。

実家に戻ってから、何を話すかを考えました。考えながら、10年前に父親を送った時のことを思い返していました。私は父親に申し訳ないことをしたと思っています。10年前の葬儀ミサの説教は、原稿がしっかり残っています。それもそのはずで、亡くなる前から、父親の枕元で父親の顔を眺めながら葬儀ミサの説教を書いていたからです。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」人間の死は裁きを経て救いに招かれる時なのに、私は知らなくてもよいその時を待てずに、前もって準備をしていたのです。

「父親の時は、亡くなる前から葬儀ミサの説教を書いたなぁ」と思い出しながら、亡くなった伯父さんのための説教を考えました。両方を比べてみて思ったのですが、亡くなる前に考えた話と亡くなってから考える話とでは違いがあると感じます。今さらですが、父親の葬儀ミサ説教も、亡くなってから考えるべきだったかも知れません。

さて私たちの生きている時代も、「人の子が戸口に立っている」(13・29)時代と言えます。ただし、「裁きを思ってその日を恐れながら待つ」のではありません。人の子の到来の時は、「救いの日」なので、私たちがその日を知っていても知らなくても、「救われる日」なのです。すると私たちの日々の過ごし方は、その日に備え用心深く過ごすというよりも、「毎日を着実に生きていく、今日を神様の喜ぶように生きていく」その積み重ねなのだと思います。

今を着実に生きる中で、人の子が到来するとどう変わるのかは考えておいてよいと思います。イエスはご自分の再臨の時を悟らせるために、「いちじくの木のたとえ」という身近なものを使って話しました。できるだけ、身近なたとえを考えたいと思います。身体に注目してみました。私たちの手は、この世で生きるために「手を開いて」活動しています。それが再臨の時を迎えると「手を閉じる」ことになるでしょう。「手を閉じる」とは祈る姿ですから、神にのみ手を向けるということです。

この世では目を見開いて情報を得たり、判断したりします。それが再臨の時を迎えると「目を閉じる」ことになるでしょう。「神を顔と顔を合わせて眺める」ようになり、あちこちから情報を得る必要もなくなります。耳についても同じことです。耳を閉じて、ただ一つの声、神の呼びかけに耳を澄ますことになります。

他にもたとえることができると思いますが、これくらいでよいでしょう。そして私がたとえたようなことを、生きている間に体験しておくことは有益だと思うのです。手を開いて活動しているだけではなく、手を閉じて、手を合わせて神にのみ心を向ける。神に心を向ける時間が退屈で窮屈であれば、救われてからの私たちの時間はどれほど退屈でしょうか。

「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(13・29)「天地は滅びるが、わたしの決して滅びない。」(13・31)神に心を向けるひとときが、退屈、窮屈と感じない人になりたいものです。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(ヨハネ18:33b-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼何があったのだろうか。11月に入ってからと思うが、利用しているホームページのサービスがダウンしていた。11月3日(土)に福岡での神学院祭に参加してホームページを更新しようとしても更新できない。
▼なぜだ?と思いサービス会社に連絡を取るも返事なし。「ひょっとして契約更新を怠ったか?」とも思ったがそうでもなさそう。結局10日後あたりから更新できる状態に戻っていて、何だか「私が更新し忘れた」みたいに思われて嫌だった。
▼問題山積。メルマガ更新も、FacebookはTwitter経由で連携が取れていたのに、最近連係が解除されている様子。おかげで複数の人から「Facebookでブログが見られなくなりました。更新をお休みしているのでしょうか。もしかしてご病気でしょうか」まで声が届いた。
▼そうではなく、Twitter経由の連携が解除されていたのを長らく知らずにいたわけだ。連携に関係する項目をいじってみたが、「Facebook SDKを読み込めませんでした。connect.facebook.netがブロックされていないかどうか、ご確認ください。」と、分かりづらい説明しかもらえなかった。Facebookは仕方がないから直接更新する。これでまた一手間増えた。
▼他にも、「メルマガが11月から配信されてきてない」とのこと。配信は休んでいないのだが、どこかのサーバーがため込んでいるのか?原因不明の不調で私のほうがどうかなりそうだ。
▼年末になる。典礼暦が入れ替わると説教の型紙も作り直さなければならない。それがメルマガの朗読箇所に転用されていく。これを例えば半年分くらい作ると目の前の煩雑さから逃れられる。以前は典礼暦のテキスト入力を引き受けてくれていた人がいたが、その人は天に旅立ってしまった。

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今週の1枚
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第579回目。11月15日。単年会員に入会したかったが、葬儀ミサで申し込めず。

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年間第32主日(マルコ12:38-44)神への信頼ゼロの献金ではいけない

2018-11-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/11/11(No.971)
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年間第32主日
(マルコ12:38-44)
神への信頼ゼロの献金ではいけない
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年間第32主日B年の福音朗読の中から、「やもめの献金」について考えてみたいと思います。「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(12・44)金持ちたちの献金とやもめの献金の間には、金額以上の決定的な開きがあると思います。

半年くらい前の話です。初金曜日の病人訪問をしている時に、見知らぬ青年が、これから訪ねようとしている家のそばでうろうろしていました。私はその人に用事はないので、構わず家に入ろうとしたら、その青年が「おばちゃん家にいるの?玄関から様子をうかがったけど声が聞こえなくて」と私を呼び止めました。その時私は白のスータンを着ていました。

「○○さんに用事ですか?これから病人の聖体拝領をするところなので、よかったら一緒に中に入りませんか?」「入っていいと?それじゃあ」と言って一緒に入りました。私はまっすぐに家庭祭壇の部屋に向かい、その青年も私にくっついて来ました。お見舞いを受ける人が家庭祭壇の前で椅子に座っています。青年が突然その人に話しかけました。

「おばちゃん!懐かしかねぇ。元気しとった?おいよ。おい。」自分の名前を言って、とても親しそうに話し始めました。しかし私は聖体拝領のために訪ねてきていて、およそ10分刻みに訪問先で人が待っています。この青年が話している間に聖体拝領の祈りの準備を整えて、青年の話が終わったらすぐに祈りをして聖体を授けるつもりでした。

ところがこの青年のおしゃべりは一向に終わりません。明らかにお祈りを始める態勢になっているにもかかわらず、「おばちゃん。俺お小遣いを持ってきたけん。使ってくれんね。こうして話すのは何年ぶりかなぁ。元気そうでよかったよ。早く会いに来ればよかったのにごめんね。」

とうとう私は頭にきまして、「あんたさ、久しぶりか知らんけど、お祈りが終わるまで待てないか。どう見てもたった今お祈りしようとしているよね。それを家庭祭壇の前に仁王立ちでおばちゃんとおしゃべりして。何とも思わん?おばちゃんと一緒にお祈りしてからでも、十分話せるでしょ」

するとその青年は「おばちゃん。俺邪魔したみたいやけん、またあとでね」と言っていなくなりました。家庭祭壇でベールを被って静かに待っているおばちゃんを見て、どうして自分の用事よりも祈りが先だと考えなかったのでしょうか。どうしておばちゃんと一緒にお祈りもせず、お金だけ渡して帰るのでしょうか。青年が立ち去って、ようやく聖体拝領を済ませ、次の家庭に行くために「また来月来ます」と声をかけると、病人訪問のその人は親切にもお車代を渡してくださいました。

突然やってきた青年は、たしかにおばさんに当たるその人にポケットからお札を手渡していました。気持ちよく払える額のお金だったのでしょう。一方で私も、訪問してくださったお礼にと、お気持ちをいただきました。ここで今週の朗読の「やもめの献金」を考えてみたいわけです。その青年がおばさんにお小遣いと言って渡したお金は、家庭祭壇で祈りをして聖体拝領を受けようと準備しているのを遮って渡されたお金です。私がいなくなってから、いくらでも個人的に渡せるはずです。当時のことを思い出すたびに、群衆を前にして誇らしく「大勢の金持ちがたくさん入れていた」(12・41)その場面と重なるのです。

青年は身なりもしっかりしていたので、きっと成功した人なのでしょう。おばちゃんへのお小遣いも、痛くも痒くもない額だったかも知れません。おばちゃんはどんな気持ちで受け取ったのかなぁと思いました。それに比べて、この人が私にくださった気持ちは、「自分の持っているものをすべて、生活費を全部」与えてくださるほどの重みを感じたのです。

「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(12・44)神殿で金を投げ入れた金持ちたちは、何を入れたのでしょうか。マルコ福音記者はわざと、「皆は有り余る中から入れたが」とだけ書いて、何を入れたかを書きませんでした。神殿の向こうにおられる神に有り余る中からゼロを入れたのです。ジャラジャラ音がするほど投げ入れたでしょう。けれども賽銭を投げ入れた人の神に対する信頼はゼロだったのです。

一方で、やもめの献金は、金額はゼロに等しい額でした。けれども彼女の神に対する信頼は、山より高く、海よりも深かったのです。今日まで神に信頼して生きてきた。明日も、神に信頼して生きていきます。彼女が献金箱に入れたのは、神への絶対的な信頼でした。その揺るぎない信仰が、イエスの心を打ったのです。

私たちも、ミサの礼拝に来て、献金をしています。金額はいろいろでしょう。ですが本当にささげてほしいのは一人一人の心です。「さあミサが終わった。これからしっかり働くぞ。」自分のため、家族のために、働くのでしょうが、家族を養ってくださるのは最終的には誰なのでしょうか。会社が、明日も生きている命を与えてくれるのでしょうか。

レプトン銅貨二枚を入れた女性は、「私の命を守ってくださるのは神なのです」その信仰を献金箱に入れました。私は今日のミサに、「私の命を守ってくださるのは神なのです」この信仰をおささげできているでしょうか。「今週もこうしてミサに来ることができました。来週もお願いします。」その気持ちの入った賽銭を、神様は喜んでくれるのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(マルコ13:24-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼健康診断が10月の司祭研修会とセットで提供されていて、申し込んだ人26人が受診した。その結果が届いたのだが、「なるほどそうだろうな」という結果だった。「肥満」「尿一般検査にて、蛋白が陽性」「肝機能異常」。
▼そんなもんだろう。健康な生活はしていないし、お酒も自分が飲みたい量飲んでいるわけでもない。みんながお酒をついでくれて、それを飲む。十分、不摂生である。来年の駅伝大会とマラソン大会に向けて、少なくとも運動を再開すべきだろう。
▼からだが重いのはよく分かっている。もっと軽かったら、一塁に走るのももっと楽だろう。あるいは長い距離走るのも、もっと楽しめるだろう。どこかに、「ここまで努力したら、これとこれは食べても飲んでもいいですよ」と、分かりやすく示してくれる人はいないだろうか。
▼自分だけの体ではない。それ以上に、自分で自分の体に納得できていない。だから自分が好きになれるような体を思い描いて、努力を始めよう。私と似たような状況の人がたくさんいるので、「どうやって体を絞ったの?」と聞かれるくらいになれたらなぁ。
▼長らく放置していた船にようやくエンジンが掛かり、秋冬のシーズンが開幕だ。平戸の瀬戸は大きな船が航行する。大きな船のスクリューは海をかき混ぜ、プランクトンがわく。そこから食物連鎖が始まる。うまく利用して、また平戸の海でリフレッシュさせてもらおう。

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今週の1枚
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第578回目。神学院祭到着後すぐの野外ミサ。もろに逆光で見えづらい。

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年間第31主日(マルコ12:28b-34)神への愛と隣人への愛は別々ではなく一体である

2018-11-03 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/11/4(No.970)
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年間第31主日
(マルコ12:28b-34)
神への愛と隣人への愛は別々ではなく一体である
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説教を書いている時点では、中田神父の今シーズンが終わっているのか、まだ決着がついていないのか分からずに書いています。私にとっては11月「死者の月」が今シーズンの終了の月です。12月からは新しい1年が始まります。自分で言うのも何ですが、まるで教会の典礼暦を地で行っているような生き方です。

10月28日、広島に行ってきました。博多まで車で走り、ヨドバシカメラという店に車を駐車して、新幹線で広島です。およそ4時間の行程です。広島駅に着くと恩人の方が車で迎えに来ていました。あとで知ったのですが、私が乗った車は広島の白浜司教様をお乗せする車でした。後部座席に座りましたので、司教様のシートに座ったことになります。大変なことをしてしまったかもしれません。

まずは司教様を表敬訪問に行きました。野球観戦に来ただけなのに、司教様は私のために面会時間を1時間とってくださり、コーヒーまで用意してくださいました。野球観戦にも興味をお持ちのようでしたが、分刻みの大変な務めですから、明日からの聖務のために無理な誘いはしませんでした。

日曜日の第2戦は見事にカープが勝ちました。実際に見に行った試合で勝って帰ってくるのと負けて帰ってくるのとでは雲泥の差です。司教館に泊めてもらう私は広島教区の神父様と司教館での反省会が大いに盛り上がりました。

翌朝は、司教様と司教館で生活する神父様方と、ご一緒にミサをしました。司教様が主司式をなさったわけですが、以前と変わらず、この日もとてもていねいにミサをささげました。真似をするのは失礼かもしれませんが、「まことにとうとく、すべての聖性の源である父よ、いま聖霊によってこの供えものをとうといものとしてください。」こんな感じです。

前日、コーヒーをいれていただいた時にも思ったのですが、この司教様はどんな小さなことにも真心を込めて、ていねいになさっていると思いました。こんな姿を、司教館の司祭たち、小教区訪問の時に集まった教区民の皆さんは間近で見るのだなと思いました。

コーヒーは安いコーヒーだったかもしれません。けれども司教様が、一介の司祭にていねいにお出ししたのです。それが何よりのごちそうだと思いました。同じように、司祭の時から一切変わらないていねいなミサの所作は、ミサにあずかる人にとって最高のもてなしなのだと思います。

これだけ素晴らしい司教様ですが、実は過去の発言で今も悔やんでおられることがあると打ち明けてくださったことがあります。かつて高校生だった時、後輩の神学生に次のように言い聞かせたことがあるそうです。「香部屋係は神様に奉仕する係だからいちばん尊い係で、ほかの係よりも優れている。」

高校生だった時、神様に対する熱意のあまりこのように発言したそうですが、「自分は当時の発言を悔やんでいる。神学生に与えられているすべての係が、等しく尊い係なのです。」当時を振り返ってこう言われたのです。

ここには次のような思いが込められていると思います。神学校で与えられるどの係も、最終的には神様をたたえ、神様の喜びとなる係だ。表面的には香部屋係がミサという大切な礼拝を準備するので尊いように見えるけれども、神学校で与えられるすべての係が、神様を礼拝する神学生を育成するきっかけになる。そういう視点が足りなかったとおっしゃりたいのでしょう。ご自分への戒めとして、司教様は憚ることなく、過去の失敗を話してくれるのでした。

白浜司教様から見えるのは、今週のイエスの言葉です。律法学者の質問「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(12・28)に、イエスは答えました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(12・29-31)

分刻みに忙しい中で、司教様はそんな様子をちらっとも見せずにていねいにいれたコーヒーを出してくださいました。朝のミサにご一緒した時、一つ一つの所作をこれ以上ないほどていねいにこなしながらささげておられました。真剣勝負の緊張感さえ伝わりました。

ここには隣人を自分のように愛しなさいという掟の実践が十分現れています。人に、これほどていねいに接しておられる。それだけですでに、神を心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、愛しておられることは明らかなのです。私は司教様を通じて、イエスが語られた第一の掟と第二の掟は、優れた人の中では二つの掟ではなく一つの掟となって現れるのだと理解したのです。

私は広島の司教様を遠くから眺める者に過ぎません。けれども司教様のお手本は、私の中に自分を映す鏡としていつもそばにあると思っています。一期一会の出会いでお仕えするように人を愛し、神を愛する。毎日鏡を見るかのように、戒めとして思い出し、務めを全うしたいと改めて感じております。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第32主日
(マルコ12:38-44)
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ちょっとひとやすみ
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▼今週は司教様づくしになってしまった。説教には書かなかったが、マツダスタジアムでの試合観戦後、司教館では大反省会を行って、司教様も私たちの話に耳を傾け、輪に加わってくださった。本当に頭の下がる司教様である。
▼大反省会の冒頭、司教様がこんないたずらで迎えてくれた。「お疲れ様。みんなテレビに映ってたよ。」そう言って、私を驚かせた。テレビに映ったことに驚いたわけではない。司教様がこんな冗談を言うことに、心底驚いたのだ。
▼かつて高校生だった時、生真面目で笑った顔など一度も見たことのない人だった。笑うような生き方は不真面目だと思っていたのかもしれない。本心は分からないが、当然冗談を言うはずもなく、卒業して大神学院に進まれた。
▼だが大神学院に進んで間もなく、健康を損ねてしまい、休学することになる。ここで心境の変化があったらしい。私が小神学院を卒業し、大神学院に入学する頃にはすでに白浜先輩も復学していたわけだが、別人のように変わっていた。
▼「箸が転んでも笑う年頃」という言葉があるが、白浜先輩は快活に笑い、時にジョークを飛ばし、「これがあの白浜先輩か?」と思わせる変貌ぶりを遂げていた。立派ではあるが近寄りがたい先輩としてではなく、誰からも愛される先輩へと進化を遂げていたのである。
▼「冗談だよ冗談。あっはっは。」そう言うところが真面目な司教様らしい。私ならば「テレビに映ってたよ」と言ってそのまま終わるだろう。とてもではないが、あの天真爛漫な司教様のようには進化しそうにもない。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第577回目。マツダスタジアムが一つになって燃えていた。持ち堪えてくれ!

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