こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第26主日(マタイ21:28-32)外に立つ人に近づく時、イエスに会わせてもらえる

2020-09-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/9/27(No.1083)
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年間第26主日(マタイ21:28-32)
外に立つ人に近づく時、イエスに会わせてもらえる
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【期間限定】YouTubeで説教を視聴できます。チャンネル登録歓迎します。
https://youtu.be/S38boBKl7OA
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「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」(21・28)。ぶどう園の所有者が二人の息子にかけた声です。二人の息子は、「つらい場所で働きたくない」単純に、そのようなことだったかも知れません。父親の思いを探ってみましょう。

本日、午後3時から、江里山の移住記念碑前で、田平教会の基礎となってくれた移住者たちの記念ミサをおこないます。9月の「世界難民移住移動者の日」に、移住者である先祖たちに思いを馳せるのはふさわしいことです。

せっかくですので、与えられた福音朗読を移住者のことも少し念頭に置いて考えると、「ぶどう園」で息子たちが働けば、当然ぶどう園の労働者に出会うことに繋がっていきます。父親の思いはそこにあるのではないでしょうか。息子たちがぶどう園の労働者に出会えば、労働者を通して父親をより深く知り、愛することができるようになるはずです。

今年の「世界難民移住移動者の日」に当たって発表された教皇様のメッセージも、これとぴったり当てはまります。教皇様は、難民に思いを寄せ、「『服は破れ、足は汚れ、顔はゆがみ、からだは傷つき、ことばも通じない彼らの中に、主を見ることが難しかったとしても』、避難民はわたしたちを主に会わせてくれるのです」と仰っています。わたしたちはこの司牧的な課題に具体的な行動で応える必要があります。教皇様が発表されたメッセージから、ぶどう園で息子たちが労働者と出会ってほしいと考えたたとえ話の父親、また父である神の思いに触れることにしましょう。六つの具体的な行動で弱い立場にある人たちに近づくように促しています。以下、引用いたします。

理解すること。理解するためには、知らなければなりません。イエスご自身がそれを教えておられます。「話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ・24・15-16)。移住者と避難民のこととなると、話題に上るのは数ばかりです。しかし、そこにいるのは人なのです。彼らに会えば、彼らを知るようになります。彼らのこれまでの歩みを知れば、彼らを理解できるようになります。わたしたちがこのパンデミックの中で耐え忍んできた明日をも知れない状況は、今まさに避難民が抱えている状況です。

仕えること。仕えるためには、寄り添わなければなりません。善いサマリア人のたとえです。「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見てあわれに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカ10・33-34)。恐れと偏見は、わたしたちを他者から遠ざけ、「寄り添う」こと、愛をもって仕えることを妨げます。仕えるために近くにとどまるということは、単なる義務の先にある行為です。弟子たちの足を洗う際、イエスはそのもっとも偉大な模範を示してくださいました。上着を脱いでひざまずき、手を汚されたのです(ヨハネ13・1-15参照)。

和解すること。和解するためには、耳を傾けなければなりません。神ご自身が、そのことを示しておられます。神は御子をこの世に遣わすことにより、人間の耳をもって、人類のうめきに耳を傾けたいと思われたのです。和解して相手を助ける愛は、耳を傾けることから始まります。現代世界において、謙虚に注意深く耳を傾けることだけが、真の和解をもたらすことができるのです。避難民というもっとも脆弱な立場にある人々と、ひどく病んでいるわたしたちの地球の叫びに耳を傾けることで、隣人、多くの見捨てられた人、自分自身、そしていつくしみを絶えず与えてくださる神と和解する機会を得たのです。

ともに成長すること。成長するためには、共有しなければなりません。初期のキリスト教共同体は、共有することをその本質的な要素としていました。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだという者はなく、すべてを共有していた」(使徒言行録4・32)。神は、この地球の資源がごく一部の人のためだけに活用されることをお望みになりません。だれも排除することなくともに成長するためには、共有することを学ばなければなりません。今回のパンデミックは、わたしたち皆が、同じ舟に乗っていることを思い起させました。真に成長するには、もっているものを共有し、ともに成長しなければなりません。

促すこと。促すためには、巻き込まなければなりません。それは、まさにイエスがサマリアの女になさったことです(ヨハネ4・1-30参照)。主は近づき、耳を傾け、心に語りかけ、それから真理へと導き、良い知らせを告げる人に変えておられます。他者のために尽くしたいと思うあまり、相手の豊かさに目がいかなくなることがよくあります。助ける相手を真に促したいと思うなら、その人を巻き込んで、その人自身をそのあがないの主役にしなければなりません。今回のパンデミックは、共同責任がいかに重要であるか、そして、軽視されがちな人々も含め、あらゆる人が貢献してはじめて危機に立ち向かえるということに気づかせてくれます。

築き上げること。築くためには、協力しなければなりません。神の国を築くことは、すべてのキリスト者に共通の使命です。だからこそ、嫉妬や不和や分裂への誘惑に負けずに協力することを学ばなければなりません。わたしたちの共通の家を守り、神の原初の計画にいっそう近づけるためには、だれをも排除しないかたちで、国際協力、世界的な連帯、地域レベルでの取り組みを確実なものとするよう努めなければなりません。

ぶどう園に行けば、労働者と汗まみれになります。それが、今日イエスに出会うことにつながります。今日、イエスに出会って「考え直し」、神の心に留まろうとするなら、私たちのどのような過去も、明日は救いに変わってゆくのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第27主日(マタイ21:33-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼配信を続けているメルマガの中に「ミニまぐ」という発行形態がある。文字数2000字以内で発行している。これまで十数年、「まぐまぐ!」を削って2000文字に収める作業をしてきたが、今週の原稿を2000字に収めようとすると、教皇様のメッセージはもはや教皇様のものではなくなってしまう。ただでさえ、無理して説教時間の制約の中に収めているから、これ以上無理はできない。
▼困ったと思っていたが、「待てよ」というアイディア(別の方法)が浮かんだ。たとえば(A)と(B)みたいに分けて配信すれば、全部を届けることができる。そうすることで、私が無理に無理を重ねて2800文字にもなるもとの原稿を短くする必要もなくなる。
▼ひとまず、この形で「ミニまぐ」は再スタートしようと思う。どうしても困るという声があれば、またその時考えよう。もとの原稿で表現したい内容を、体験談を削ったりして配信するのは不本意だったのだから、両方得をするはずだ。
▼毎日、体重計で体重を見ている。毎日点検することが大事。ライザップのように見違える体型にはならないけど、病院で体重計に乗って初めて体重を知るようなことではいけないと思っている。少し歩き始めてもいるし、そのうちに体重計に乗るのが楽しくなるだろう。
▼雨が降る日はどうしているか。15年くらい前に買った「Wii Fit」を引っ張り出した。台所の出窓くらいのボードに乗って、ゲームに釣られて体を動かしている。55に近づいているオジサンが、フラフープのゲームやスキーのスラロームを、ボードの上でしているのを想像すると、ちと気味が悪いが。

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今週の1枚
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第690回目。平戸の聖地の一つ安満岳。別ルートで下りたら「通行止」だった!

ホームページもご覧ください。
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今週の「笑える」
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「NHKの古畑さんの番組面白い」「え??『古館さん』だと思うけど。」
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† 神に感謝 †
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年間第25主日(マタイ20:1-16)どの時点で恵みにあずかっても感謝できる人になる

2020-09-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/9/20(No.1082)
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年間第25主日(マタイ20:1-16)
どの時点で恵みにあずかっても感謝できる人になる
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「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(20・16)およそ30年、身近な例にうまく当てはめることができずにいましたが、今回はうまく当てはまりそうです。

先週、司祭館の床の間のある部屋から「骨壺」が出てきたと、前振りだけしておりました。賄いさんから「床の間の部屋を掃除すると、何だか肩が重くなるとかずっと見られている気がする」と言われたのですが、「そんなことあるはずがない」と相手にしてなかったのです。

そうしてしばらく経ってから、大声を上げて助けを呼ぶので泥棒か?と、床の間の部屋を見に行きましたら賄いさんが腰を抜かし、床の間を指差して座り込んでいました。「出た!」と言っているのです。

そこで床の間の引き出しを開けますと、何と「骨壺」が出てきました。さすがにこんな物は置いておけないと思い、風呂敷に包んで納骨堂に移動しました。あとで中を確かめましたが、何も入ってなかったのでひと安心です。誰が、どんな目的で置いていたのかは分かりませんでした。もし皆さんで心当たりの方がおられたらご一報ください。また、近いうちに使う予定のある人も、ご一報ください。格安でお分けします。

さて今週の福音朗読、最後の結びは「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」となっています。私は正直、この部分が十分消化できずにいました。30年ものあいだです。

今年は突破口が見えた気がします。夜明け前に雇われた人から始まって、最後は夕方五時に雇われた人までいたわけですが、「もう一度雇われることになったらどうだろう?」と考えてみたのです。

今回の一連の騒動の後に、もう一度広場で雇われることになったら、どうだろう?夜明け前に雇われ、一時間しか働かなかった人より多く賃金をもらえるだろうと思っていたのに、彼らと同じ一デナリオンしかもらえなかった人は、次の日、また夜明け前から仕事を求めて広場に立つのだろうか?そんなことを思ったのです。

皆さんはどう思いますか?「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」(20・12)ここまで不平を言った人たちが、次も夜明け前に立つでしょうか。十中八九、この人たちは夕方ギリギリにしか、広場に立たないのではないでしょうか。

一方で、五時頃雇われ、一時間しか働かなかった人たちは、次に雇われる時にもっと早く広場に立つのではないかと思うのです。ずる賢い者もいるかも知れない。皆が皆ではないでしょうが、主人の寛大さに心を打たれ、一日分の賃金をもらえるなら、何もしないでいるよりは、ぶどう園で汗を流そう。そんな人が出てくると思うのです。

夜明け前から働いて、結局賃金に不平を漏らした人は、「夜明け前から立っていても馬鹿らしい」と思い、一時間しか働かなかったのに主人の寛大さに触れた人々は「早く広場に立って、この前のお礼にもっと長く働こう」と思う。これが、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」ということなのではないでしょうか。

同じことは、洗礼をいつ受けたかということにも考えさせられます。今の時代、残念ながら幼児洗礼を受けた多くの人が、教会から姿を消しています。彼らは「夜明け前から」主のぶどう畑に入るのを許された人々です。ある人はこう言って、来なくなりました。「小さいうちに、一生涯ぶん祈りをしたから。」祈りがもたらす実りを味わう頃には、もう教会から遠ざかってしまいました。

一方で、成人してから洗礼を受ける人、結婚を機に洗礼を受ける人がいます。彼らが皆教会に留まっているわけではありません。私もそれは認めます。ただ、後で洗礼を受けた人は、受けた洗礼の恵みに感謝しています。自分で責任を持って洗礼を受けたので、自分が教会の家族に入れてもらったことを感謝しているのです。

できるなら、「結婚信者」とか「新信者」という言葉は無くなればいいなぁと思っています。神の子となり、神から永遠の命に招かれ、神の家族とされた。いきさつはそれぞれですが、夜明け前に恵みを受けた人も、あとで恵みを受けた人も、主であるイエスの前で互いに喜び合える教会家族でいたいなぁと心から願っています。

福音朗読に重ねて考えましょう。もう一度、洗礼を受けるとしたら、あなたはどのように行動しますか?「生まれてすぐに洗礼を受けるのは割に合わない。もう一度やり直すなら、人生の終わり、日暮れ前に受けて滑り込みたい」と思いますか。それともやはり生まれた時に洗礼を受けておきたいと思いますか。

今日、本来なら「福者カミロ・コンスタンツォ殉教祭」が焼罪(やいざ)殉教公園で行われる予定でした。カミロ神父様は、燃えさかる火の中で殉教しました。ご自身の信仰と、私たちの信仰を、火で精錬するために、殉教してくださいました。カミロ神父様がもし、もう一度人生を与えられるとしたら、「洗礼は亡くなる直前で十分。殉教などとんでもない」と思うのでしょうか。

私はご本人ではありませんが、もう一度人生を与えられても、生まれた時に洗礼を受けて、殉教を求められたら喜んで殉教したのではないかと思うのです。「最後に回心したこの連中と、火に焼かれて命をささげた私たちとを同じ扱いにするのですか?」殉教者がこんなことを言うはずがありません。

最後の一人にまで寛大に恵みを与えてくださる神の思いを、もう一度考えてみましょう。「燃えて輝くともし火」(ヨハネ5・35)となってくださった福者カミロ・コンスタンツォ神父様の思いを、もう一度考えてみましょう。だれもが、洗礼に招かれた境遇を感謝できる人になれますように。だれもが、違った環境で洗礼に招かれた人を喜べる人になれますように。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日(マタイ21:28-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼平戸地区は9月の第3日曜日に「福者カミロ・コンスタンツォ殉教祭」のミサを焼罪殉教公園で午後2時からささげている。台風や、強風、雨のために現地での開催を田平教会聖堂に変更することはあるが、「中止」(台風直撃は別として)にはできるだけしない。
▼それだけこの殉教祭を大切にしているが、今年は何とも残念な結果となった。天気も上々なのに、もちろん台風も接近していないのに、殉教祭ができないのである。田平教会聖堂での開催も、「三密を避ける」ことが難しく、断念することとなった。
▼浦上教会に助任として入った20代のころ、毎年のようにこの殉教祭にマイクロバスで巡礼団を組んで出かけた。当時は、「平戸」は「遠路はるばる出かける場所」で、平戸大橋をバックに記念写真を撮る。これがお決まりの流れだった。
▼他にも平戸地区には「平戸ザビエル祭」「黒瀬の辻殉教祭(生月)」などがあり、巡礼には事欠かなかったが、今年はどこまで開催できるのか、開催しても、どんな制限を設けることになるのか、楽しみが削られることばかり頭によぎる。
▼田平教会に赴任するなど考えもしてなかった時代、よく殉教祭の帰りに「田平教会」に立ち寄って帰っていた。記憶はなんとも曖昧なもので、教会の敷地に入ったこと、聖堂の二階から内堂を見学したこと。
▼墓地がすぐ近くにあり、なぜか名前が同じ「中田藤吉」という神父様の胸像があった(大変申し訳ない!)こと、石段があって、あくまで記憶だが、遠くに海が見えていた(ような)。まさか、主任司祭となって風貌まで似てきた藤吉神父様をまじまじと眺める日が来るとは。

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今週の1枚
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第689回目。海岸清掃。「被造物を大切にする世界祈願日」環境整備活動の一環。

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今週の「笑える」
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「最近カツレツが悪くなってきた」「確かに、『滑舌』悪くなってるかも」
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† 神に感謝 †
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年間第24主日(マタイ18:21-35)億千万回兄弟を赦すことができるか

2020-09-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/9/13(No.1081)
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年間第24主日(マタイ18:21-35)
億千万回兄弟を赦すことができるか
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「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(18・21)当時のユダヤ社会では、三回赦してあげればそれは最上級の寛大さを示すことでした。七回は、それを上回る数でしたが、イエスはそれでもご自身の教えに到達できていないと答えます。

先日、長崎カトリックセンターで司祭集会が開かれ、前教区会計の不手際について集会を開き、今後の方針を話し合いました。集会は紛糾しまして、ほとんど何の結論も得られなかったのですが、私にとって収穫もありました。

それは、私が長崎教区で心の清い司祭の代表だと思っているある先輩が、こんなことを言っておられたのです。「私は教区内の司祭の不祥事に心が痛み、ミサで祭壇に立つのが恥ずかしい。できることなら逃げ出したい。それでも、自分の十字架を背負って、祭壇に立っています。

神の教会を、この世のもので健全な状態に立て直そうと考えるから、こんな悲惨なことになったのではないですか?長く教区会計を果たしてくださった先輩は、この世のもので神の教会を健全な状態にしようなどとは決して思わなかった。そこが根本的な間違いでしょう。」

この言葉を聞いて、「なんの実りもない、ただのガス抜き集会だったか」と失意のうちに帰るところでしたが、長崎教区もまだともしびは消えていない、捨てたもんじゃないと思ったのでした。教区報で掲載された不名誉な記事の内容は、残念ながら事実です。すべての教区司祭が、これから責任を負うことになります。

福音朗読に戻りましょう。たとえ話の王の前に引き出された家来は、「億千万」の借金を抱えていました。返せるはずがありません。それなのに王は、この家来を赦しました。この家来に赦される事情があったからではなく、王が一方的に赦しを与えてくれたのです。「億千万」の借金は、一般的には返済不可能な金額です。

ここで家来が学ばなければいけなかったのは何でしょうか。私は、王に対する信頼回復に努めることだったと思います。王に対してと言うより、王が導いている「国民」に対して、どうやったら信頼を取り戻せるか。この一点に絞って考えるべきだったと思うのです。

ところで、この「億千万」の借金を王に背負わせた家来は、外に出て自分に百デナリオンの借金のある友人に出会うと、「捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った」というのです。社会的な制裁を受けた人たちがしばしば、「懲役何年、執行猶予何年」という判決を受けたりしますが、この「億千万」の借金をした家来も、いわば執行猶予の状態だったはずです。それなのに、友人の借金の返済を強要したことで、かえって自分で自分の首を絞めてしまったのです。

この家来が取るべきだった行動は、この執行猶予中に、どうやって王の信頼を回復するか、どうやって国民への信頼を取り戻すかでした。友人と会った時、どうやって信頼を取り戻すかだけを考えていたら、あんなまねはしなかったでしょう。

今回、長崎教区の前教区会計も、これから信頼回復の日々を歩まなければなりません。長崎教区は関係者を切って捨てませんでした。切って捨てたなら、その他の司祭はそれ以上責任を問われなかったでしょう。けれども切って捨てなかった。それはつまり、すべての教区司祭が、教区長と教区民すべてに、信頼回復のための努力をせよという神からの呼びかけだったのだと思います。

田平教会の周囲を一周しますと、400mあります。この前歩いて、歩数を数えましたら、600歩で一周しました。これから必ずとは言いませんが、周囲を十周歩きますと6000歩です。一年365日、毎日は無理なのでその三分の二、240日歩くと144万歩です。まぁ、あと何年居るかは分かりませんが、億千万歩に到達するにはざっと174年が必要です。信頼回復の道を一歩ずつ、174年かけて取り戻すつもりでいます。

ついこの前も、有名人が逮捕されまして、それまでの活躍と社会貢献が何だったのかと問われました。転落するのはあっという間ですが、信頼を回復するためには私のたとえで言えば174年必要です。しかも、他のことには目もくれず、自分に借りのある人もいるかも知れませんが、それらを横に置いて、たった一つ教区民の信頼を取り戻すことだけに注力して174年必要です。一歩ずつ前に進みたいと思います。

「何でそこまで泥被らないといけないのか?」という意見は今でもくすぶっています。けれども教区民の信頼を回復する歩みは、関係者だけの働きでは不可能です。教区司祭全てが、誠実に努力することが、今週の福音から学ぶ教訓です。

「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(18・35)億千万歩歩き通せないかも知れませんが、私が倒れて眠りにつくまでには、私の兄弟である司祭を赦せるようになれたらと願っています。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日(マタイ20:1-16)
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ちょっとひとやすみ
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▼「命を落とすのみが、死だと言えましょうか。」先週の韓国ドラマは印象的な言葉を聞いた。生きながら、すでに死んでいる状態も、「死」と呼べるかも知れない。そこには社会的な「死」があり、政治的な「死」もあるだろう。もはや生きる意味を失っているのだから、本当にかわいそうである。
▼制裁によって「死」を味わった人は、どうすればこの世で再び生きる力を得られるだろうか。別の生き方で「生」を味わえる人はごくわずかで、もはやイエスによって、まったく新しい生き方を与えられる以外に道のない人もきっといる。
▼もし誰かが、死んだような生き方をしているのなら、そこに宣教のチャンスが確かに存在している。その人はほかの誰によっても「生」を味わえないのであり、まだ見たことのないイエス・キリストを待ち望んでいるのだから。こうした人を探すために、すべてのキリスト者は存在しているのではないか。
▼しかし単純に、「新しい生き方」のためにイエスを必要としている人ばかりではないだろう。これまでイエスを知らずに生きてきた人はまだよいが、ひょっとしたらイエスに土台を置いて生きている人(生きているはずの人)が、死んだような生き方をしているならどうなるか?その人にイエス・キリストを示しても、本当に「新しい生き方」を得られるのだろうか。このような人にどんな手を差し伸べれば良いのだろうか。

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今週の1枚
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第688回目。引退神父様の自宅テラスの屋根が飛んだ。だが命には代えられない。

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今週の「笑える」
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「いえ・き・たち(家来たち)」「どう考えても『けらいたち』だよ」
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† 神に感謝 †
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年間第23主日(マタイ18:15-20)イエスの光に照らされるように忠告し、導く

2020-09-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/9/6(No.1080)
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年間第23主日(マタイ18:15-20)
イエスの光に照らされるように忠告し、導く
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「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」(18・15)「忠告する」とか、「戒める」というのはなかなか簡単ではありません。聞き入れてもらえる何かの手立てを、イエスのことばから持ち帰りましょう。

台風10号が迫っています。台風9号でも東側のモチノキが折れ、聖堂東側の瓦に当たって瓦を落としました。信徒会館から教会の石段に下りていく入り口にあった大きな栴檀の木も、根もとから折れました。今度の10号ではいったいどれだけの被害になるのか、気が気ではありません。9号では幸いにステンドグラスを割られていませんが、どこか一カ所割れると、風が侵入して聖堂内は滅茶苦茶になるでしょう。

今晩私は、司祭館を諦め、信徒会館に寝ることにします。信徒会館で、台風が過ぎ去るまで、たくさん祈ろうと思います。小石が飛んで、ガラスを割りませんように。周りの木が、被害をもたらす凶器になりませんように。生向のボート、頼る人がなくて浮かべたままですが転覆しませんように。そして最後に、どこからかお中元の残り物の缶ビールが飛んできますように。いろいろお祈りしたいと思います。

福音に戻りましょう。「忠告する」のは容易ではありません。「お前に言われる筋合いはない」とばかりに、拒否されることも考えられます。最近は司祭が説教することさえ、「NHKニュースを見たぞ。お前に言われる筋合いはない」と言われそうです。それでも、心からの忠告を聞いてもらう何かの手立てがあるはずです。

こう考えました。「忠告する」という行為が、福音朗読の結びの「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(18・20)ここと繋がるようにすれば良いのではないでしょうか。「忠告する」場面が、「二人または三人が、イエスの名によって集まっている」そういう場になっていれば良いわけです。

前にも話したことのある失敗談ですが、今回も例に引こうと思います。今は司教様になった白浜司教様が高校三年生で神学校の生徒会長だった時、やんちゃだった私は後輩を連れて屋根裏から屋上に上がり、遅くまでおしゃべりしたことがありました。消灯時間過ぎて抜け出したのですから当然規則違反です。話し疲れて帰ることにしましたら、屋上と屋根裏をつなぐ扉のところで、白浜先輩が待ち構えていました。

40年前の話です。当時ですから「グー」で殴られても不思議ではありませんでした。心の中では覚悟していましたが、白浜先輩はこう言ったのです。「話は終わったね?もう遅かけん、戻って休まんね。」私にとっては「グー」で殴られたくらい白浜先輩の言葉は刺さりました。もちろんそれ以降は、同じ真似はしませんでした。

当時の白浜先輩の「忠告」は、どうして私の胸に刺さったのでしょうか。白浜先輩が真面目だったからでしょうか。反抗期の中学生の私に、そんなことは関係なかったと思います。そうではなく、私が先輩から忠告を受けた時、聖書の言葉が実現していたからだと思います。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

屋根裏で引き留められ、注意を受けた時、真っ暗だったはずですが、忠告を受けた私たちは照らしを受けていたのです。イエスの光で照らしを受け、過ちが明白になり、もはや説明の必要も無いほど、理解できたのです。

当時から「白浜聖人」とまで言われていた先輩のおかげで、そこにイエスがおられたのです。正しい道を選び続けなければいけない。たくさんの言葉は必要なくて、そこにイエスがおられるだけで、言うことを聞き入れ、立ち直ることができたのでした。

忠告することは難しい務めです。忠告されたことをいつまでも根に持つ人も現れるかも知れません。それでも、私たちは兄弟への忠告を、イエスが示す愛に倣って行いましょう。真に忠告する戒めは、滅びを望まぬ神の愛の表れなのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日(マタイ18:21-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼いつの話?と目を丸めた。ホームページ「話の森」の表紙の中に「HP編集責任:こうじ神父(カトリック浜串教会主任司祭)という一文があったのだ。「よく指摘されなかったなぁ」と思う反面、「目をつぶっていたのかな?」とも思った。5年も過ぎてるのに。
▼一つの出来事がどのように映るのか、人によって違いがある。今回ほど考えさせられる場面はないだろう。台風10号は猛烈な勢いで近づいており、過去に無かったほどの災害をもたらそうとしている。けれどもそれは、「近づいている人」にとっての話しなのかも知れない。どんなに凶暴な台風でも、直接の被害を受けない人には響かないかも知れない。
▼しかし、九州に何かを依存しているなら(部品とか、材料とか、食材とか)経済はストップするわけだし、それは日本だけでなく海外にも繋がっていく。まさに「ともに暮らす家を大切に」と言うことだ。そうしてみると、私のアンテナはあまりにも鈍感だった。
▼北米でよく発生する「ハリケーン」は、恐ろしいとは言えやはり「北米のこと」と思っていた。ともに暮らす家なのだから、必要とあれば助け合うべきだ。インド洋でも暴風が起こる。大西洋でも発生する。人の痛みを、分かり合える人にならねば。

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今週の1枚
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第687回目。9月に出された二度目の商品券。恩恵を受けた分は、還元しよう。

ホームページもご覧ください。
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今週の「笑える」
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「根瘤だし。これ便利なんだって」「それ、『根昆布』かもね。」
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† 神に感謝 †
コメント
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