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こうじ神父
「今週の説教」
2021/2/28(No.1108)
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第2主日(マルコ9:2-10)
栄光の姿を途中で見て、死と復活まで共に歩む
‥‥‥†‥‥‥‥
四旬節第2主日は「イエスの姿が変わる」場面です。どうやら毎年この場面をA年だとマタイ福音書、B年(今年)だとマルコ福音書、C年だとルカ福音書から学ぶことになっているようです。私も今ごろ理解しました。
三人の弟子を連れて、イエスは高い山に登りました。当時は他のいかなる方法もなかったわけですから、山に登るためにはイエスと一緒に、イエスが登られたように登らなければなりません。今でしたらたとえば富士山に登るのに、五合目までは乗り物に乗ってたどり着けます。下りる時もそうです。緊急の場合は、ヘリコプターもあるでしょう。
しかし聖書の時代にそんなものは存在しませんから、イエスと一緒に登ることに何の疑問もなかったでしょう。すると、山を下りる時にイエスから「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」(9・9)と弟子たちが命じられたのは意味深いでしょう。イエスと共に、復活のその日まで歩き通したあとでなければ、弟子たちには語れないこともあるということです。
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(9・2-3)誰もたどり着けない姿、誰も近づけない境地。そういうものをここで思いました。人間で言えば、「神がかっている」という状態かも知れません。
昔のことを思い出します。川添神父様と中田神父は、私の伯父さんの船で長崎から五島沖まで出かけて船釣りを何度かしました。重さ1キロくらいのイトヨリを釣らせてくれる秘密の場所でしたが、私が大きなイトヨリを釣って有頂天になっていると、川添神父様は大きな甘鯛を釣り上げるのです。イトヨリと甘鯛では、値段が全然違います。甘鯛のほうが数倍高いと思います。その甘鯛を、易々と釣り上げ、私には「お前のところには甘鯛は居ないようだな」などど冷やかすのです。
どうしても理由が知りたくて、司祭館に戻ってから聞いたのです。「どうして主任神父様は甘鯛を釣り上げて、私にはイトヨリばかりかかるのですか?」するとこういう答えが返ってきました。「おれはイトヨリが喰いつきそうになったら外して、甘鯛にだけ喰わせてるからさ。」これには返す言葉もありませんでした。
今は川添神父様は天国でしょう。私にはまだ時間があります。川添神父様の境地にまでたどり着いたら、誰かにうそぶいてみたいものです。「狙いの魚以外の時は針から外して、狙いの魚の時だけ喰わせているのさ」と。誰にもたどり着けない境地を身近な例えにしてみました。
イエスは、一瞬だけ、誰にもたどり着けない境地を見せてくださいました。ただ、イエスの輝く姿は、高い山に登ってお示しになった姿です。ペトロが提案したような、その場に仮小屋を作ってとどめておくことはふさわしくありません。「登山は下山するまでが登山」なのです。
弟子たちはイエスと一緒に登り始めました。頂上で、輝く姿を見ました。しかしその姿は、まだイエスが成し遂げるわざの途中に過ぎないのです。これから山を下りて、人々の中に戻られます。そこにはイエスのいのちを狙っている人々がいます。それでもイエスはすべてを成し遂げ、人の生涯の中での谷底、死者の中から復活するのです。
一般の登山でも、山に登り始めてから、下山して完了するまで、様々なことが起こり得ます。イエスと歩き始めた登山は、なおさらそうです。イエスが登った場所と同時に、イエスが下りた場所にもお供する。その時私たちは、「今見たことをだれにも話してはいけない」とのみことばを理解するでしょう。
何か、身近な方法で、イエスと共に歩き、イエスが登った場所に登り、下りた場所にお供する方法はないでしょうか。私は、「十字架の道行」をおすすめします。十字架の道行を通して、人々の嘲りの中でイエスと共に歩き、十字架に挙げられたゴルゴタの丘まで登ります。埋葬されたイエスを眺めて、私たちの心はイエスが下りたところまで下りていきます。そしてイエスの復活を仰ぎ、語るべきことばを授けられるのです。
最後に、来週は四人の子供達が初聖体を迎えます。洗礼を受けて、イエス様の子供として育ってきました。いよいよ、イエス様がいちばん近くいてくださるのです。これから、聖体に養われて、イエス様とずっと歩きます。楽しいことも、辛いことも、イエス様と一緒に歩くようになります。ぜひ子供達にも、ロザリオや十字架の道行を通して、イエス様の歩く道をいっしょに歩く人になってほしいです。
イエスは高い山に登り、誰も近づけない境地を垣間見せてくださいました。頂上だけでなく、谷底である人間の死まで、イエスと共に歩む。そうして私たちは、イエスと歩き始めた登山を完了し、復活の栄光に招かれるのです。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)
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ちょっとひとやすみ
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▼電車の中で財布から金を抜き取られ、窮地に陥る夢を見た。お札とクレジットカード、免許証、保険証まで抜かれている。駅で助けを求めようと途中下車し、駅の中に交番があったので助けを求めた。ところがおまわりさんは相手にしてくれない。財布がきちんとあるし、電車賃も間に合っている。作り話ではないかと。
▼身分証明ができなければ、信用もしてもらえないのかと、悲しくなった。どこを探しても身分を証明するものがない。困り果てている場面で目が覚めた。あれは何を伝えたかったのだろうか。「持ち物をあらためて確認せよ」ということか?一週間、思い巡らしている。
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今週の1枚
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第715回目。ETCカードの新しいのが来た。こっちより、楽天クレカ届いてないよ
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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こうじ神父
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栄光の姿を途中で見て、死と復活まで共に歩む
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四旬節第2主日は「イエスの姿が変わる」場面です。どうやら毎年この場面をA年だとマタイ福音書、B年(今年)だとマルコ福音書、C年だとルカ福音書から学ぶことになっているようです。私も今ごろ理解しました。
三人の弟子を連れて、イエスは高い山に登りました。当時は他のいかなる方法もなかったわけですから、山に登るためにはイエスと一緒に、イエスが登られたように登らなければなりません。今でしたらたとえば富士山に登るのに、五合目までは乗り物に乗ってたどり着けます。下りる時もそうです。緊急の場合は、ヘリコプターもあるでしょう。
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「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(9・2-3)誰もたどり着けない姿、誰も近づけない境地。そういうものをここで思いました。人間で言えば、「神がかっている」という状態かも知れません。
昔のことを思い出します。川添神父様と中田神父は、私の伯父さんの船で長崎から五島沖まで出かけて船釣りを何度かしました。重さ1キロくらいのイトヨリを釣らせてくれる秘密の場所でしたが、私が大きなイトヨリを釣って有頂天になっていると、川添神父様は大きな甘鯛を釣り上げるのです。イトヨリと甘鯛では、値段が全然違います。甘鯛のほうが数倍高いと思います。その甘鯛を、易々と釣り上げ、私には「お前のところには甘鯛は居ないようだな」などど冷やかすのです。
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今は川添神父様は天国でしょう。私にはまだ時間があります。川添神父様の境地にまでたどり着いたら、誰かにうそぶいてみたいものです。「狙いの魚以外の時は針から外して、狙いの魚の時だけ喰わせているのさ」と。誰にもたどり着けない境地を身近な例えにしてみました。
イエスは、一瞬だけ、誰にもたどり着けない境地を見せてくださいました。ただ、イエスの輝く姿は、高い山に登ってお示しになった姿です。ペトロが提案したような、その場に仮小屋を作ってとどめておくことはふさわしくありません。「登山は下山するまでが登山」なのです。
弟子たちはイエスと一緒に登り始めました。頂上で、輝く姿を見ました。しかしその姿は、まだイエスが成し遂げるわざの途中に過ぎないのです。これから山を下りて、人々の中に戻られます。そこにはイエスのいのちを狙っている人々がいます。それでもイエスはすべてを成し遂げ、人の生涯の中での谷底、死者の中から復活するのです。
一般の登山でも、山に登り始めてから、下山して完了するまで、様々なことが起こり得ます。イエスと歩き始めた登山は、なおさらそうです。イエスが登った場所と同時に、イエスが下りた場所にもお供する。その時私たちは、「今見たことをだれにも話してはいけない」とのみことばを理解するでしょう。
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イエスは高い山に登り、誰も近づけない境地を垣間見せてくださいました。頂上だけでなく、谷底である人間の死まで、イエスと共に歩む。そうして私たちは、イエスと歩き始めた登山を完了し、復活の栄光に招かれるのです。
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