こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第2主日(マルコ9:2-10)栄光の姿を途中で見て、死と復活まで共に歩む

2021-02-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/2/28(No.1108)
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四旬節第2主日(マルコ9:2-10)
栄光の姿を途中で見て、死と復活まで共に歩む
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四旬節第2主日は「イエスの姿が変わる」場面です。どうやら毎年この場面をA年だとマタイ福音書、B年(今年)だとマルコ福音書、C年だとルカ福音書から学ぶことになっているようです。私も今ごろ理解しました。

三人の弟子を連れて、イエスは高い山に登りました。当時は他のいかなる方法もなかったわけですから、山に登るためにはイエスと一緒に、イエスが登られたように登らなければなりません。今でしたらたとえば富士山に登るのに、五合目までは乗り物に乗ってたどり着けます。下りる時もそうです。緊急の場合は、ヘリコプターもあるでしょう。

しかし聖書の時代にそんなものは存在しませんから、イエスと一緒に登ることに何の疑問もなかったでしょう。すると、山を下りる時にイエスから「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」(9・9)と弟子たちが命じられたのは意味深いでしょう。イエスと共に、復活のその日まで歩き通したあとでなければ、弟子たちには語れないこともあるということです。

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(9・2-3)誰もたどり着けない姿、誰も近づけない境地。そういうものをここで思いました。人間で言えば、「神がかっている」という状態かも知れません。

昔のことを思い出します。川添神父様と中田神父は、私の伯父さんの船で長崎から五島沖まで出かけて船釣りを何度かしました。重さ1キロくらいのイトヨリを釣らせてくれる秘密の場所でしたが、私が大きなイトヨリを釣って有頂天になっていると、川添神父様は大きな甘鯛を釣り上げるのです。イトヨリと甘鯛では、値段が全然違います。甘鯛のほうが数倍高いと思います。その甘鯛を、易々と釣り上げ、私には「お前のところには甘鯛は居ないようだな」などど冷やかすのです。

どうしても理由が知りたくて、司祭館に戻ってから聞いたのです。「どうして主任神父様は甘鯛を釣り上げて、私にはイトヨリばかりかかるのですか?」するとこういう答えが返ってきました。「おれはイトヨリが喰いつきそうになったら外して、甘鯛にだけ喰わせてるからさ。」これには返す言葉もありませんでした。

今は川添神父様は天国でしょう。私にはまだ時間があります。川添神父様の境地にまでたどり着いたら、誰かにうそぶいてみたいものです。「狙いの魚以外の時は針から外して、狙いの魚の時だけ喰わせているのさ」と。誰にもたどり着けない境地を身近な例えにしてみました。

イエスは、一瞬だけ、誰にもたどり着けない境地を見せてくださいました。ただ、イエスの輝く姿は、高い山に登ってお示しになった姿です。ペトロが提案したような、その場に仮小屋を作ってとどめておくことはふさわしくありません。「登山は下山するまでが登山」なのです。

弟子たちはイエスと一緒に登り始めました。頂上で、輝く姿を見ました。しかしその姿は、まだイエスが成し遂げるわざの途中に過ぎないのです。これから山を下りて、人々の中に戻られます。そこにはイエスのいのちを狙っている人々がいます。それでもイエスはすべてを成し遂げ、人の生涯の中での谷底、死者の中から復活するのです。

一般の登山でも、山に登り始めてから、下山して完了するまで、様々なことが起こり得ます。イエスと歩き始めた登山は、なおさらそうです。イエスが登った場所と同時に、イエスが下りた場所にもお供する。その時私たちは、「今見たことをだれにも話してはいけない」とのみことばを理解するでしょう。

何か、身近な方法で、イエスと共に歩き、イエスが登った場所に登り、下りた場所にお供する方法はないでしょうか。私は、「十字架の道行」をおすすめします。十字架の道行を通して、人々の嘲りの中でイエスと共に歩き、十字架に挙げられたゴルゴタの丘まで登ります。埋葬されたイエスを眺めて、私たちの心はイエスが下りたところまで下りていきます。そしてイエスの復活を仰ぎ、語るべきことばを授けられるのです。

最後に、来週は四人の子供達が初聖体を迎えます。洗礼を受けて、イエス様の子供として育ってきました。いよいよ、イエス様がいちばん近くいてくださるのです。これから、聖体に養われて、イエス様とずっと歩きます。楽しいことも、辛いことも、イエス様と一緒に歩くようになります。ぜひ子供達にも、ロザリオや十字架の道行を通して、イエス様の歩く道をいっしょに歩く人になってほしいです。

イエスは高い山に登り、誰も近づけない境地を垣間見せてくださいました。頂上だけでなく、谷底である人間の死まで、イエスと共に歩む。そうして私たちは、イエスと歩き始めた登山を完了し、復活の栄光に招かれるのです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)
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ちょっとひとやすみ
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▼電車の中で財布から金を抜き取られ、窮地に陥る夢を見た。お札とクレジットカード、免許証、保険証まで抜かれている。駅で助けを求めようと途中下車し、駅の中に交番があったので助けを求めた。ところがおまわりさんは相手にしてくれない。財布がきちんとあるし、電車賃も間に合っている。作り話ではないかと。
▼身分証明ができなければ、信用もしてもらえないのかと、悲しくなった。どこを探しても身分を証明するものがない。困り果てている場面で目が覚めた。あれは何を伝えたかったのだろうか。「持ち物をあらためて確認せよ」ということか?一週間、思い巡らしている。

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今週の1枚
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第715回目。ETCカードの新しいのが来た。こっちより、楽天クレカ届いてないよ

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四旬節第1主日(マルコ1:12-15)生き方の根本的な転換をイエスは求める

2021-02-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/2/21(No.1107)
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四旬節第1主日(マルコ1:12-15)
生き方の根本的な転換をイエスは求める
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21日、田平教会の中学生5人と大人1人が、堅信の秘跡を受けます。大司教様が説教でていねいに説明してくださると思いますが、主任神父様も、堅信を受ける皆さんに、心構えを話しておきたいと思います。

まず、堅信の秘跡は司教様が授けると学びました。長崎教区には2人の司教様、ヨセフ髙見三明大司教様とペトロ中村倫明補佐司教様が与えられています。堅信を授けてくださるのは髙見三明大司教様です。

皆さんは、主任司祭の顔だったら、目を閉じても思い浮かべることができるでしょう。頭ピカピカ、最近ひげを伸ばして、説教のときに笑えない話をする神父様です。それだけ記憶に残っているからですね。

では、髙見三明大司教様の顔は、目を閉じても思い浮かべることができるでしょうか?名前は聞いたことがあるけれども、顔が思い出せないかも知れません。けれども堅信を受けるのですから、顔をしっかり見て、目に焼き付けて帰ってきてください。堅信式が終わったら、もう近くでお顔を見ることはないかも知れませんが、それでも忘れない。それくらいしっかり目に焼き付けて帰ってきてほしいのです。

中田神父様は中学1年生の時に、神学院で堅信式を受けました。司祭になることを目指す生徒を育てるのが神学院です。堅信を授けてくださったのは、里脇枢機卿様でした。「司教様」と呼びませんが、枢機卿様の多くは司教様です。里脇大司教様が枢機卿様になってすぐでした。

今でも、里脇枢機卿様をはっきり覚えています。枢機卿様の地位になると、緋色の服装が正式な服装になります。中学生に制服があるように、黒のワンピースの形をした「スータン」が制服です。司教様は黒のスータンに赤の帯と、頭に赤いかぶり物をするのが正装です。枢機卿様は、全身緋色のスータンに赤い帯、頭にも赤いかぶり物が正装です。

私たち神学生が玄関で枢機卿様を待っていると、黒の高級車から、颯爽と枢機卿様が降りてこられました。なんと全身緋色のスータンに、赤い帯、赤い帽子、黒の革靴の下にチラッと見えた靴下も真っ赤でした。中田神学生は最初に何と思ったでしょうか?真っ黒の高級車から、真っ赤な服の「お方」が出てきたのです。中田神学生は「うわ、相当な不良だわ」と思ったのです。赤い服に赤い靴下。神学生の服装の決まりから考えたら、それはもう最高の不良の格好ですよ。中学校でも、でしょ?

第一印象はそうでしたが、堅信式のミサは厳かな雰囲気で行われました。堅信の秘跡を受ける人が一人ずつ、枢機卿様の前に立ちます。枢機卿様は慣れた手つきで、堅信のために用意された聖人の名前を呼びながら堅信の秘跡を授けます。私たちの学年の堅信名は、福音を書いた聖人「ルカ」となっていて、「ルカ。父の賜物である聖霊のしるしを受けなさい」「アーメン」「主の平和」「主の平和」とやり取りします。

いよいよ私の順番がやって来ました。枢機卿様の顔は私の30センチ前です。私が見たもの。それは枢機卿様の鼻の下でした。私の記憶では鼻の下が10センチくらいあって、鼻にかかった声で私に呼びかけたのです。「るか。ちちのたまものであるせいれいのしるしをうけなさい。」

私は必死にこらえて、「アーメン」と答えました。「しゅのへいわ」のあともようやく「主の平和」と答えました。申し訳ないけれど、枢機卿様の大切なお話は覚えていません。鼻の下が10センチあったこと、聖香油を塗ってもらったこと。これだけが、私の堅信式の思い出です。

それでも、聖霊の七つの賜物があの時堅信を受けた同級生に働き、知恵と理解・判断と勇気・神を知る恵み・神を愛する恵み・神を敬う心がどんどん育っていって、当時いた17人の同級生のうち、4人が司祭になりました。そのうちの3人が、今も宣教の第一線で働いているのです。

今週の福音朗読は、イエス様がサタンから誘惑を受け、誘惑をはねのけて、ガリラヤで宣教活動を始める様子です。イエス様の声が一つだけ朗読の中にありましたね。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1・15)。

イエス様が語った声をよく考えましょう。最初にこう言っています。「時は満ち、神の国は近づいた。」そしてそのあとに「悔い改めて福音を信じなさい」とあります。イエス様はこの順番で呼びかけて、「神様が先に、贈り物として、神の国の姿を見せてくれたのです。だからあなたたちは、神様のほうに向き直りなさい」と促しているのです。

堅信の秘跡で、聖霊の七つの賜物が与えられます。神様は先に恵みを注いで、私たちにこれから向き直る方向を示してくれるのです。もちろん堅信を受けるために勉強はしました。お祈りも今まで以上にしました。けれども勉強とお祈りの量に比べたら、聖霊の七つの賜物の大きさは比べものになりません。

堅信の恵みの凄さを中田神父様が気づいたのは、堅信を受けてから14年も経ってからです。聖霊の恵みが、神学校生活を続け、教会に通い続ける私を育ててくれて、ついに神様を知り、神様を愛し、神様を敬うために生きる司祭してくださいました。司祭に叙階された時に、こんなにすごい恵みを中学1年でもらったんだと、神様に深く感謝したのです。

堅信の秘跡を受けた途端に、もう教会に行くのは終わりだと、勝手に中断してしまう人がいます。その人は、自分の力で堅信の秘跡の恵みを受けたから、教会に行く必要は無いと考えているのでしょうか。本当に自分の力で恵みを受けたのでしょうか?

いいえ、そうではありません。お父さんお母さんに、おじいちゃんおばあちゃんに聞いてご覧なさい。誰も、自分の力で堅信の恵みを受けたと言わないと思います。そして、聖霊の恵みのほうが、私の努力よりはるかに大きいことを知っているから、続けて教会に来ているのです。

堅信の秘跡を受けて、神様の招きにはっきりと向き直りましょう。恵みはいつも、先に与えられます。私たちが神様の示す道に喜んで向かうことができるように、「聖霊来てください」と、聖霊の賜物を願うことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日(マルコ9:2-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼葬儀が入った。霊名「マグダレナ」という方。マグダレナが「マグダラのマリア」だとすると、新約聖書の中でマリアに次いで際立っている女性だ。イエスの十字架上の最後を、遠くから見守り、復活の時、最初の証人になった。常にイエスの近くにいた生き方だ。亡くなった方も、ご自身がイエスの近くにいる生き方で、子供や孫をイエスに出会わせる生き方をした。
▼さらに亡くなった方は、先に息子さんをなくされた。イエスを先に失った母マリアと重なる。シメオンから「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2・35)と預言を受け、実際に十字架状の最後でその苦しみをささげる。亡くなった方は、マグダレナの模範と、マリアの模範を身にまとって、旅立っていく。

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今週の1枚
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第714回目。今年も叙階の恵みが与えられる。三人の新司祭はいつ以来だろうか。

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年間第6主日(マルコ1:40-45)初歩の段階で有頂天にならず、イエスに付き従う

2021-02-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/2/14(No.1106)
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年間第6主日(マルコ1:40-45)
初歩の段階で有頂天にならず、イエスに付き従う
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1月17日から中止されていたミサが、およそ一ヶ月ぶりで再開されました。平日のミサも止めていたので、修道院を含め多くの方々に影響が出ました。再開された今週のミサの説教は、福音朗読からの学びと併せて、仮にミサが中止されても、信仰を養い、維持する工夫を学んで帰りたいと思います。

今回の中止期間に、私は聖週間の典礼の説教のことを考えていました。出来上がったわけではありませんが、たくさんの時間を与えていただいたので、どうにかしてそれを活かしたいと思ったのです。聖週間になった時に、皆さんが家庭にいても信仰を養う雰囲気に満ちた一週間を味わえるように、材料を提供したいと思っています。

およそ一ヶ月、心配の種もいくつかありましたが、結果的には杞憂に終わりました。たとえば、電話応対で振り回されるのではないかと思っていましたが、一ヶ月で四回電話を取ったでしょうか。ほとんど電話もかかりませんでした。それよりも心配していたのは、葬儀が入るのではないかという心配でした。皆さんが健康に十分気を付けてくださったおかげで、何も起こりませんでした。むしろ、洗礼式の依頼が入って、新しい神の子供が誕生したのでした。

ミサの中止期間に入った最初は、「何も起こりませんように」と考えていました。けれども日を重ねていくうちに、「この中止期間に、何かの実りが生じますように」と願うようになったのです。願えば、神様は必ず答えてくださる。本当にそのことを実感しました。長い迫害の時代を耐え、宣教師がいない中で信仰を次の世代に伝えていった先祖達も、きっと同じことを体験によって理解したのだと思います。願いは、必ず聞き入れられるのです。

さて今週の福音朗読は「重い皮膚病を患っている人をいやす」という物語です。イエスがこの人を深く憐れむ様子が印象的です。最後にこのいやされた人は「だれにも、何も話さないように」(1・44)というイエスの注意を守らず、人々に言い広めます。イエスが「この人は言いふらすだろうな」と、最初に見抜けなかったとはとても思えません。

彼の願いは真剣そのものでしたが、いやされたあとさらにイエスの指示にとどまれる人ではありませんでした。イエスの深い憐れみは、「第一段階には聞き従えるけれども、第二段階には従って来られない人」への、深い憐れみなのだと思います。

私たちも同じことです。第一段階、第二段階までは従って行けても、第三段階、第四段階になると自分に甘くなり、イエスの意向に従えないのです。たとえば中田神父も、「何も起こりませんように」という考えから「何かが起こりますように」という考えまではたどり着きましたが、「何かを起こしに行きましょう」とまでは考えなかったのです。

念のため、なぜイエスが「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と厳しく注意されたのか考えておきましょう。それはイエスの十字架による救いの道を理解できなければ、奇跡的ないやしが一人歩きする恐れがあったからです。

十字架の上で亡くなることでイエスが救いのわざを完成させる。これが第四段階のイエスの救いのわざだとすると、奇跡はそれよりずっと前の段階、第一段階なのです。第一段階だけで分かったつもりになってイエスのことを言い広めてもらっては困るのです。

新型コロナウィルスの影響下にあって、約一年が過ぎました。新型コロナウィルスと出会う前が、私たちの信仰生活の第一段階だったとしましょう。今コロナ禍にあって、懸命に信仰生活のあり方を探しています。これが第二段階です。すでにある人たちは、第二段階で信仰生活の模索をあきらめたかも知れません。

けれども間もなく、ワクチン接種や治療法すら見つかったりして、新型コロナの恐怖を脱出するでしょう。それからが第三段階で、もっと先の段階も待っています。どこまでも、どんな試練をくぐってでも、イエスに付き従う。それだけの覚悟がなければ、奇跡的ないやしも、あえて語る必要は無いわけです。

奇跡的ないやしを見せるイエスにはついて行けるが、十字架を担うイエスにはついて行けないのでしょうか。間もなく四旬節で、イエスの受難を黙想する季節です。私たちの信仰は、奇跡的ないやしに有頂天にならないし、どんな災難で揺り動かされても前を向いてイエスに付き従う。その確信を得るために、コロナの時代を過ごしましょう。この試練が与えられたものであれば、試練には必ず、次の段階に上がるための意味があるのです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日(マルコ1:12-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼先週の続き。でもってこの祈祷書、読み返しているうちに疑問が湧いてきた。「ミサにあずかるを得ざるときの祈り」は、祈りのタイトルがもはや「ミサに参加できない事情をもつ人」が思い出せないだろう。むしろ「このような祈りをしてみたら?」という提案もすべきなのではないか?
▼ほかにも、かつての十字架の道行にあった格調高い文言「御肉は破れ、御血は流れて御力尽き、なおも御渇きは耐えたもうべくもあらず」も、今となっては理解できる人がどれだけいるだろうか?祈祷書を開いた時、「どのように祈るべきか」を学ぶことができる。それが今の祈祷書の使命だと思う。

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今週の1枚
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第713回目。旅先にて春を感じさせる第二弾。ただ来週は厳しい寒さになりそう。

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年間第5主日(マルコ1:29-39)生活のどの場所にも、イエスを迎えることができる

2021-02-06 | Weblog
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2021/2/7(No.1105)
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年間第5主日(マルコ1:29-39)
生活のどの場所にも、イエスを迎えることができる
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説教を準備した時点では、本日の「年間第5主日」で主日の公式ミサ中止は終了となっている予定ですが、実際はどうなっているでしょうか。期待を込めて、今週で公式ミサの中止は終わるという前提で話してみたいと思います。

今週与えられた朗読箇所は、「イエスのカファルナウムでの一日」と言えるような活動です。その中に「会堂」での活動があり、「家」での活動があり、「戸口」での活動があります。この三つは次のことを意味しているでしょう。「会堂」は人間の宗教生活の場であり、「家」は個人的な生活の場であり、「戸口」は公の生活の場を代表しています。ですから、「イエスのカファルナウムでの一日」は、人間生活のすべての場から人間を苦しめる悪の力を追い出した一日だと言えるでしょう。

イエスは、人を悪から救うためにこの世に遣わされたのですから、この一日はイエスの生涯全体を凝縮した一日となりました。イエスを招き入れた場所では、それぞれの場所で神の救いの働きが実現していきます。これは私たちに、一つのことを教えているのです。それは「私たちも、神の救いの働きにあずかるために、それぞれの場所でイエスをお迎えするべきだ」ということです。

福音朗読で紹介された場所は三つです。「宗教生活の場」「個人的な生活の場」「公の生活の場」でした。このどれもが、イエスをお迎えすると、神の救いのわざが実現する場となり得るのです。具体的に考えると、今週まで公式ミサが中止になっていましたので、「宗教生活の場」はどこにあるかと言うと、家庭祭壇のある場所です。家庭祭壇はあるけれども祈りはない。そういう生活から立ち帰って、家庭祭壇の前で祈る時間を取り戻します。すると神の救いの働きがここから始まります。

同じように、個人的な生活の場にも、イエスをお迎えしましょう。個人的な生活は誰にも左右されたくないと考えるでしょう。もちろんイエスをお迎えしても、個人的な生活を左右されることはないのです。もし、個人的な生活に、イエスが入ってきて欲しくないと考えていたら、そのような過ごし方とは決別しましょう。神の救いのわざが実を結ぶ個人的な時間のほうが、そうでない時間よりも当然重要です。

最後は、公の生活の場にイエスを迎えることです。職場に、摩擦を生じない形で、自分の信仰を織り交ぜてすばらしい結果を出した人を紹介しましょう。かつて日本ハムの監督を務めた外国人に「トレイ・ヒルマン」という人がいました。彼の口癖を覚えている人もいるでしょう。「シンジラレナ~イ!」彼は熱心なプロテスタント信者でした。「信じる」というたった一つの言葉を野球の職場に取り入れて、神のわざが公の場で実を結ぶよう、率先して働いたのです。

私たちも、生活のすべての場でイエスを迎え、すべての場所に神の救いのわざが実を結ぶお手伝いをしましょう。私たちが手伝う時、イエスはいつも私たちの手を使って大きな働きをしてくださいます。

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‥次の説教は‥‥
年間第6主日(マルコ1:40-45)
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ちょっとひとやすみ
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▼「長崎教区で一番売れる本は?」と聞かれて、何と答えるだろうか?「聖書?」売れているかも知れないが、「一番」ではない。人によっては黙想会のたびにこの本を買っていると思うが、何だと思われるだろうか?
▼それは長崎教区が発行している「祈祷書」だ。実際に手元に祈祷書が何冊あるか数えてみるとよい。3冊、4冊持っている人も珍しくないだろう。聖書は一冊も持っていなくても、である。来週に続く。

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今週の1枚
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第712回目。春を感じる便り。この木は大きな実がなるそうだ。楽しみである。

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