こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第6主日(ヨハネ14:23-29)聞いている言葉にお遣わしになった父の声が

2019-05-25 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/5/26(No.1005)
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復活節第6主日
(ヨハネ14:23-29)
聞いている言葉にお遣わしになった父の声が
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「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」(14・24)主の昇天を来週に控えた復活節第6主日に、イエスのこの言葉を考えてみることにしましょう。

聖母月の締めくくりである「聖母行列」を無事に終えることができました。聖母像を先頭に、ロザリオを唱えながら行列したわけですが、行列をしたということだけが聖母行列の意味ではないと思います。聖母と共にこの五月を歩む。聖母の生き方に倣ってこの五月を生きる。そういうことを最終確認するための行列ではないでしょうか。

では聖母の生き方とはどのようなものだったでしょうか。それはイエス・キリストの言葉を生きて力ある言葉として受け止める生き方でした。たとえば婚礼の席でぶどう酒がなくなったとき、イエスの言葉が今にも台無しになろうとしていた婚礼を喜びに変えました。この時イエスの言葉が場面を喜びに変えることを信じて疑わなかったのはマリアお一人だったのです。

ですからわたしたちの聖母行列も、イエスの言葉を生きて力ある言葉として受け止めたマリア様の生涯に、これからも見倣っていきますという気持ちで聖母行列に参加したわけです。イエス・キリストの言葉は今は「聖書」という文字に書かれた言葉ですが、私たちもマリアに倣い、「生きた言葉として私たちに語られている」そう受け止める工夫・努力が必要です。その努力はふだんの教会生活から始まっているかも知れません。

私は田平教会に赴任するに当たって忘れられないことがあります。赴任したその年の夏に、大司教様が駐日バチカン大使を連れて平戸地区を視察で回られた折、田平教会に立ち寄ってくださいました。田平教会の説明を私が引き受け、その内容を大司教様が大使に英語で通訳します。「この教会はおよそ百年前に中田藤吉神父様が先頭に立ち、信徒が力を合わせて建てたものです。」

さらに「中田藤吉神父様から百年後に、師の血筋に当たる中田神父が献堂百周年を祝うことになります。これも大司教様の粋な計らいです」と大司教様に伝えたのです。その時大使に通訳しようとしていた大司教様は驚いたような顔で私を見て、「そうだったのかね?」と言われました。私は心の中で「そこは、『そうなんだよ』と言ってくださってよいのに」と思ったものでした。

私はこの話を単なる思い出話で話したのではなく、説教の冒頭で触れたイエスの言葉を思い出すきっかけにしたかったのです。「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」イエス・キリストの言葉は、福音書に刻まれた二千年前の話ではなく、今も生きて、力ある言葉だということです。

大司教様が私を田平教会に任命したとき、本当に百年前の中田藤吉神父様と私のつながりには気づいてなかったかも知れません。けれども神の摂理は、今も変わらず働いているのです。大司教様を通して、神は不思議な計らいを、実現させてくださったのです。ある意味大司教様がお気づきで無かったということが、神の摂理であることを物語っています。こうして、ふだんから「神の言葉は生きていて力がある」という体験を積むことで、福音書に語られるイエスの言葉により深く耳を傾けることができるようになるでしょう。

もう一つ考えたいことは、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14・26)このみことばです。私たちが触れることのできるイエスの言葉も、自分勝手に解釈すべきではありません。聖霊の照らしがあってこそ、その意味が説き明かされるのです。

聖書を読み、学ぶ中で、聖霊の照らしはどのように与えられるのでしょうか。私はそのとっておきの場が「聖書の分かち合い」だと思っています。田平教会ではまだ実践されておりませんが、少人数で聖書の箇所を読み、それについて感じたことを分かち合うという聖書の学びです。

イエスはかつてこう言われました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18・20)少人数で聖書を読むとき、聖霊が聖書の読み方を導いてくださり、よりよい学びをお与えになるのです。一人で専門書を読み、聖書を学ぶことも可能ですが、集まって分かち合いをするなら、聖霊の照らしによって大きな実りが得られることでしょう。

来週になると、私たちは主の昇天を祝います。主が天に昇られるのは、聖霊をお与えになるからです。私たちに与えられたイエスのみことばが、今も生きて力強く働いてくださる。そのためには聖霊による解き明かしがいつも必要です。聖霊のご降臨を願いながら、イエスのみ心の月へと続いていく一週間を希望のうちに歩むことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
主の昇天
(ルカ24:46-53)
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ちょっとひとやすみ
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▼保育園行事の聖母祭に参加してきた。計画から準備まで、カトリックではない一般の保育主任が今取り組んでくださっているそうだ。よく考えられた聖母祭だった。子供達は「五本指の祈り」という祈りをしていた。教皇フランシスコがまだアルゼンチンの司教だった時に人を祈りに招くのに用いたものだそうだ。ネットで調べた。
▼聖母にバラの花びらを撒く「花蒔き係」に選ばれた園児たちが、「五本指の祈り」の節目節目で「あめのきさき」という聖歌に合わせてバラの花びらを撒く。中には真上に撒いていて自分の頭に降ってきてマリア様に届いていない園児もいた。懸命さは、マリア様に届いていたと思う。
▼評議会メンバーの親睦会というか、今年度奉仕してくださる皆さんと食事を交えて交流を深めた。新旧交代会が年度の終わりにある。これはご苦労さんかいなので、ねぎらいの意味だが、年度初めに「よろしくお願いします」との思いを込めて食事を取ってもよいのではないか。
▼この食事会で「世の中は実績を強調して活動や人物の理解を得ようとしますが、私たち教会の活動は、『右の手のすることを左の手に知らせない』そのような活動です。だれかに強調したりしませんが、神様は目に見えて実績を作る活動も、目に見えない隠れた奉仕も、すべてよくご存知です。信頼してそれぞれの持ち場での務めを果たしてください」と励ました。
▼教会は目に見える形の中で、神様の目に見えない活動を引き継いでいる。目に見えない活動を見てくださっている神を信じていなければ、活動の力も湧いてこない。信仰が土台にあっての奉仕なのである。

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今週の1枚
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第612回目。マリア様に祈る子供達に、マリア様の心が種蒔かれますように。

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復活節第5主日(ヨハネ13:31-33a,34-35)互いに愛し合う中にイエスがおられる

2019-05-18 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/5/19(No.1004)
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復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
互いに愛し合う中にイエスがおられる
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「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13・34)イエスが示された「新しい掟」を、私たちは実践し、世に示さなければなりません。具体的に、その方法を探っていきましょう。

いよいよ、四連覇が近づいてきました。実際には実現しないかも知れませんが、私の中では四連覇間違いなしだと思っております。現時点では首位ではありませんが、首位の後ろで、あたかも「あおり運転」をしているかのように「オラオラ」と言いながらぴったり追いかけていくほうが面白いことに気づきました。

今日はそんな話題を延々話す予定ではありませんで、こういう声もありがたいなぁという体験談を紹介します。教会をいくつか転勤している中で、新成人を迎える人をお祝いしてあげる機会を何度かいただきます。私のほうからは教会での祝福式と、何か思い出になる記念の品をと思ってプレゼントを用意します。これからの時間に少しでも役に立ってくれたらいいなぁと思いながら記念品は選んでおります。

そういう中で、十年前に成人式を迎えた人から、いただいた品物を今でも持っていて、生きる力をいただいていますという便りが届きました。私はその人には、これからこういう時間を過ごせたらいいですねというカードと記念品を渡したような気がしますが、それが十年経っても力をもらっているということで、お役に立てたのかなぁと思っております。

私も、人からいただいた声かけや品物を、大切にするタイプです。その時どんな気持ちでこの品物をくださっただろうか。どんな思いであの言葉をかけてくださっただろうか。年齢が50歳を過ぎて、少し考えが及ぶようになったのです。

私の場合は、成人式の折ではありませんが、助祭のときに頂いて28年経った今も大切に使っている祭服があります。結婚式を執り行うときに身にまとう祭服です。ほかにも、聖体の永久礼拝の時に着用しています。この祭服を着て結婚式を執り行うたびに、身の引き締まる思いです。今になって思うと、「取り扱う祭儀の尊さを、いつまでも忘れるな」そういう思いが込められていたのではないかと考えます。

私が新成人を迎えた人に贈ったものも、思いは込められていますが、それがどれくらい伝わるかは別問題です。その人は私の思いを十二分に汲んでくれて、カトリック信者としてより一層励んでくださっているわけです。本当にありがたいなぁと思います。

誰かの思いが込められた言葉や贈り物が、受け取った人をより成長させる。受け取った人がキリスト者としてより高い生き方を目指すようになる。その様子がいつか送り主にも届いてその人の成長を喜ぶ。これは十分、今週の福音朗読でイエスが弟子たちに命じられた「新しい掟」を生きる姿だと思うのです。

誰かが誰かのことを思う。そして小さな行動を起こす。その小さな行動が相手の心に届いて、相手はよりイエスの望みに答えようとする。受け取った相手がこんな日々を送って、キリスト者としてさらに成長を目指していることがこちらにも伝わってくる。ここにすでに、イエスが弟子たちに命じられた「互いに愛し合いなさい」という生き方が織り込まれているのではないでしょうか。

ひょっとすると皆さんは、「互いに愛し合いなさい」と言われるが、平凡な私たちにはとてもそのようなことはできないと思っているかも知れません。けれども平凡な生き方の中にも、必ず誰かのために小さな行動を起こすことは可能だと思います。

その行動が届いた人の中で心に響き、よい実を結んでイエスの喜ぶ生き方を目指すようになる。これで十分なのです。私がイエスの示す新しい掟から考えたのは、「そこにイエスが生きておられるなら、互いに愛し合っている何よりの証である」そういうことです。

互いが互いのことを思い、小さな行動を起こす。その働きかけを受け取った人の中でイエスが生きておられるなら、イエスの命令にそって互いに愛し合っているのです。難しい生き方をイエスは命じたのではありません。互いに働きかける間柄の中に、イエスが生きておられるなら、新しい掟を実践しているのです。

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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ14:23-29)
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ちょっとひとやすみ
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▼ネタに事欠いてぐーたらエッセーを。旅行に出て宿泊すると部屋に備え付けの「アメニティ」を利用する。だが利用はしても、ほとんどは使い捨てで終わる。まれに立派な部屋に泊まると「持ち帰ろう」と思えるような備品を見る。今回持ち帰ってきた。
▼ふだんあまり整髪料を使わないが、現在使用中の整髪料は、可能なら出先でも使用したいと思うのは当然だろう。だがそんなアイテムに限って持って行くには大きすぎる。私の整髪料も「大容量300g」とあって、仮に中身が少なくなってきていても、容器が小さくなるわけではないのでどうしてもかさばってしまう。
▼そういうわけで、「小分けする容器があればいいなぁ」と思った矢先、今回利用した宿の「シェービングジェル容器」に目が留まった。「これを使い切って、中を洗って詰め替えれば、出先で重宝するではないか!」まぁそんなところである。
▼問題はどうやって詰め替えるかだ。使い捨ての小さな容器は口も小さい。ケーキに生クリームを飾る(何と呼ぶのか知らないが)道具みたいなものを尋ね回ったが適当なものがない。あれこれ探しているうちに「注射器」を思い付いた。やはりその手のものがあった。早速注文。
▼実にこちらの希望にマッチした商品が届いた。これで整髪料を注入。ジェルタイプの整髪料が少しずつ詰まっていく。少し苦労したが、無事に完了。こうなると面白くなってもう一本詰め替えてみたくなる。こうして二本詰め替えたところで悪い癖が出た。詰め替えたら満足したのである。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第611回目。詰め替えたことで満足した。今度は出先で本当に使うのか疑問。

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復活節第4主日(ヨハネ10:27-30)わたしの羊はわたしの声を聞き分ける

2019-05-11 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2019/5/12(No.1003)
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復活節第4主日
(ヨハネ10:27-30)
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける
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「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」(10・27)福音朗読箇所の冒頭の部分ですが、「誰かの声と誰かの声を聞き分ける」それだけではないようです。少し掘り下げて、今週の糧といたしましょう。

先週中田神父は、代表を務めている「声の奉仕会マリア文庫」の設立40周年記念ミサと交流会に出席してきました。このボランティア団体は、目の不自由な方々に、録音などの音訳を用いて情報提供しお支えするという活動をしております。事務所が長崎市橋口町にありますが、すぐ近くには県立の「長崎点字図書館」がありまして、長崎で大会を開くようなときには協力したりしています。

このマリア文庫の設立40周年記念ミサの説教で、ちょうど今週の説教につながるかなぁという話をしました。マリア文庫は「声の奉仕」を通して視覚障害者に貢献しております。「声」は単なる「音」とは違うと考えています。単なる「音」は、そこから何かの考えや思いを汲み取ることはできませんが、「声」はすでに考えや思いが込められているわけです。受け取る相手は、「声」に込められた考えや思いを理解します。

こうした、考えや思いの詰まった「声」で視覚障害者に40年奉仕してきました。十分評価できる活動だと思いますし、誇りに思ってよいのですと、会員の皆さんをねぎらいました。この話は、たとえとして、今週の福音朗読の学びにお役に立つのではないでしょうか。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」イエスが羊たちにかけるのは、「声」です。羊を呼び、また羊が迷わないように導く「声」です。「声」を聞く羊は、「声」の主(ぬし)であるイエスの考えや思いを理解します。「声」を理解する羊ですから、それはイエスを受け入れた人々です。イエスの声に、安心して自分を委ねることができると理解したとき、イエスの声に従う人に変わります。単に声を聞き分けるのではなく、その声に喜んで従うのです。

イエスの声を聞き分け、イエスに従う一方で、イエスは「わたしは彼らを知っており」と言っています。イエスが、「名前や顔を知っている」というような意味なのでしょうか。そうではありません。聖書、特に旧約聖書で「知る」という言葉は「愛する」という言葉と置き換えられます。創世記では、「アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み・・・」(創世記4・1)ほかにも「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。」という例があります。

ヨハネは、旧約聖書を深く理解し、念頭に置いて福音書を書きました。ですから「わたしは彼らを知っており」は、「わたしは彼らを愛しており」に置き換えられるわけです。
そうすると、イエスの次の言葉もつながりが良くなります。「わたしは彼らに永遠の命を与える。」(10・28)「知っている」というだけの人に永遠の命を与えるというのはつながりがよくありません。「愛している」という意味であれば、永遠の命を与えるというのはよく分かります。このように、ヨハネ福音書の中で「知る」という言葉が「愛する」という意味合いを持っていることがあるのです。

「声を聞き分ける」「知っている」これらの言葉がもっと踏み込んだ意味を持っていることが分かると、私たちも自分の態度を見つめ直す機会になります。私たちはイエスとどのようなつながりを保っているのでしょうか。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」私たちはイエスの声を、単に聞き分けるだけのつながりでしょうか。それだけではいけないのです。イエスの声に耳を傾け、聞き従う人でなければなりません。

私たちが、イエスの声に聞き従うとき、イエスは単に私たちを知ってくださるだけではなく、私たちを愛して、永遠の命を与えてくださいます。踏み込んで、イエスとのつながりを持ちたいと望む人に、イエスも踏み込んで永遠の命を与えるのです。

私たちはイエスとのつながりをどのように保ちたいでしょうか。年に一回のつながりですか。洗礼を受けてから亡くなるまで、七つの秘跡それぞれで一回だけのつながりですか。イエスとの踏み込んだつながりを、「聞く耳のある者」となって、永遠の命を味わうつながりを保ち続けることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼1000号過ぎたよ。990号あたりでは、「今か今か」と思っていたのだけれども、いざ1000号になってみると、忘れていた。ほんと、情けない話。この「ちょっとひとやすみ」を読んでいる人の中で、有料版を購読しておられる人がいるはず。その方は名乗り出てください。1000号記念を差し上げます。
▼「キリ番」と言って、記念になるような番号、数字を残す人もいると思う。クルマに乗っていれば、1111キロで写真を残すとか、12345キロを残すとか。1000号は立派な記念だったと思うが、何もイベントせずに通過点になってしまった。1500号はあるかもしれないが、2000号は絶対に無いぞ。
▼毎週発行しているメルマガを「毎週プレゼントが届く」と表現して喜んでくださった方がいて、「こんな声を掛けてくれる人もいるんだ」と、すごく嬉しかった。なかなかメルマガの反応にお目にかかれないが、こうしてたまに来る声援はありがたいものだ。
▼大阪で田平の人を訪ねたことを何人もの人から声かけられた。「喜んだことでしょう~」とみんなが言っていた。甲子園とセットで行ったわけだが、それでも田平の人を訪ねていったことがこんなに話題になるとは。田平を懐かしむ人は、他にもおられる。機会を見つけて訪ねたい。

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今週の1枚
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第610回目。ツルバラ。もう少しアーチに巻き付いてくれたら。福見のように。

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復活節第3主日(ヨハネ21:1-19△21:1-14)イエスの差し出す食べ物を食べる

2019-05-04 | Weblog
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復活節第3主日
(ヨハネ21:1-19△21:1-14)
イエスの差し出す食べ物を食べる
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復活節第3主日、復活したイエスが七人の弟子に現れる場面が朗読されました。続けてイエスがペトロに「わたしを愛しているか」と問いかける場面も選ばれています。この二つの出来事は「弟子たちに示すイエスの愛」でつながりがあります。弟子たちに示すイエスの愛は、同時に私たちに示すイエスの愛でもあります。

連休中に大阪に行ってまいりました。田平から大阪にいる子供達のもとに転出した人を訪ねることができました。教会の人の名前を挙げたら、ふるさとの田平を非常に懐かしがっておりました。

信徒会館裏手の土地を長崎大司教区に寄進していただいた関係で、主任司祭が計画していた事業の進み具合をかなり気にしておりました。「自分の目の黒いうちに、完成した姿を見せて欲しい」とお願いされ、「もう少し元気でいてね」とは答えましたが、明言できなかったのが悔やまれました。

残念ながら野球観戦は地元阪神に返り討ちに遭いまして、ようやく帰りの飛行機の列に並んでテレビを見ていたら三連戦の最後だけ勝ちました。「球場に行ったときに勝たんかい!」と思ったものです。

また、旅行中変化はないか、案内所から報告を受けていたのですが、新しく入れ替えた監視カメラでいろんなことが写っていたようです。以前は監視カメラの映像を確認できるのは祭壇の裏、香部屋でしたが、今何が行われているかを監視するのには不十分でした。現在は映像は案内所でチェックしていまして、その中に、聖水を入れた貝殻に手を入れた人たちが、お互いに水掛をしている様子が映っていたそうです。意味を理解できない人の仕業とは言え、残念です。

また、朝ミサが終わってから案内書が来るまでの静かな時間が狙い目だと思ったか、拝観時間9時からと書かれているのに朝7時8時に扉を開けようとしている人たちも写っていました。新しいカメラは高性能で、鼻毛に白髪が交じっているのまで分かりますから、皆さんもご注意ください。

福音朗読は、弟子たちに示すイエスの愛が、物語を理解する鍵だと思います。イエスの配慮が、徒労に終わった昨晩の漁を大漁に変えます。イエスは弟子たちが空しく漁から帰ってきたことをすでにご存知でした。弟子たちの無力感を変えることができるのは、目に見える成果です。この成果を彼らに与えてくれたのは、イエスの弟子たちに対する愛だったのです。

この場面を、別のたとえで考えてみましょう。家庭の中で、親が子を見守ることは当然ですが、子供が目標になかなか到達できないとき、むやみに親が手を貸したりすれば、子供が味わった苦労を水の泡にしてしまいます。子供が体験する苦労を実りに変えてあげるような見守りこそが、何より親の果たすべきことです。それこそが親の子に対する愛なのです。

ですから、イエスは弟子たちがもう一度湖に網を入れるのを見守ります。彼らの労苦が、イエスの愛ある配慮によって実を結ぶことを学ぶためです。イエスが望めば、魚を天から降らせることもできたでしょう。そうではなく、弟子たちの苦労、味わった無力感が無駄にはならないことを教えるのです。イエスの愛が、これまでの苦労や無力感を豊かさに変えてくれることを教えるのです。

同じことは、イエスがペトロに「わたしを愛しているか」と尋ねる場面にも当てはまります。イエスがペトロを愛しているから、ペトロのイエスに対する愛が豊かに実るのです。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(21・15)ペトロの言葉とは裏腹に、イエスが十字架にはりつけにされたとき、ペトロはその場を離れたのです。それもご存知の上で、イエスの愛がペトロのこの返事を豊かに実らせます。ペトロは最後には、みずからが殉教することで、イエスへの愛を証明しました。

これらをまとめて、「イエスの差し出す食べ物を食べる」としたいと思います。弟子たちは食事をしながら、イエスの愛を理解したからです。イエスの愛からあふれ出た食べ物、イエスの差し出す食べ物が、弟子たちを造り変えていったからです。私たちも、イエスの差し出す食べ物を食べるなら、イエスの真の弟子へと造り変えられていくことでしょう。

余談ですが、「神が差し出す食べ物」に関連して、使徒言行録の次の箇所を思い出しました。ペトロが昼の祈りを終えたとき、幻を見て、示された獣(けもの)を屠って食べなさいと声がしました。もちろんペトロは「主よとんでもないことです」と答えますが、さらに声がして、次のように言われたのです。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」(使10・15)

これは意味深い言葉で、単なる食事のことだけではありませんでした。使徒言行録は宣教活動の最初の頃の物語ですから、異邦人に対する宣教はまだ議論の途中だったわけです。ペトロは幻を見て、異邦人に対する宣教も、神が差し出す食べ物であり、食べるべきだと理解したのです。弟子たちは常に、イエスが差し出す食べ物で満たされ、豊かになっていきました。弟子たちが受け継いだ教会も、イエスが差し出す食べ物で満たされ、豊かになっていったのです。

私たちも、復活の主に満たされて豊かになっていきたいものです。私たちに、イエスが愛をもって与えてくださる食べ物はミサの聖体と、宣教への派遣です。派遣は、直接の食べ物ではありませんが、イエスが愛をもって与えてくださるものです。私たちが受け入れるとき、教会はさらに満たされ、豊かになっていきます。

平戸地区にも新しく司祭が赴任してきました。新しく入られた山田教会の主任司祭と共に、ミサの聖体と宣教への派遣を受けて、さらに教会の民が満たされ、豊かになっていけますように。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
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ちょっとひとやすみ
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▼それにしても予想通りというか、危惧していた通りというか、阪神に負けてしまった。カープが逆転するような展開ではなかったのが、むしろ幸いだったか。タイガースファンに取り囲まれて観るカープ戦、これもかなり刺激的なものだった。
▼教区評議会総会で、聖フランシスコ病院が長崎教区の宗教法人の中に包括されるという説明を、大司教様が司祭だけの場ではなく信徒代表のいる場で話された。粛々と進められる事案だとは思うが、手を広げると抱きかかえているもののうち何かを落としてしまうようなことにならないか、多少心配ではある。
▼聖フランシスコ病院の経営状況と、国全体が抱える医師不足の中で、どれくらいこの病院を包括することで長崎からカトリックの精神を発信していくことができるか。見守っていきたい。言わば畑違いの分野を持つことが、新しい力となることを心から願う。
▼司祭館に帰ってみると、たくさんの報告事項が待っていた。一つ一つに耳を傾け、ようやく日常に帰る。座っている椅子、向き合っているパソコン、いつになっても片付かない机。ようやく日常が戻ってきた。旅行中の毎日清潔に整えられた部屋、いつの間にか取り替えられている備品といった暮らしは、貧乏人にはなじまない。
▼新しい司祭を地区に迎えた。バイクに乗ってやってきた。派手にやって来た。先輩司祭は百戦錬磨。またがっていたバイクを降りた若い主任司祭に、「お前、誰だ?」迎えている信者のご婦人方は先輩司祭たちが「誰?」といったのを真に受けて、違う人が主任司祭のはずだと探す。平戸地区の手荒い歓迎を受けて、新しい主任司祭の一日が始まった。

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今週の1枚
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第609回目。以前「コカ・コーラ カープ仕様」を紹介した人から本物が。感謝。

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