こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第6主日(ヨハネ14:15-21)あなた方はこの真理の霊を知っています

2008-04-27 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/04/27(No.355)
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復活節第6主日
(ヨハネ14:15-21)
あなた方はこの真理の霊を知っています
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復活節第6主日は、「世界広報の日」にあたっております。そこで、今日の福音を、「世界広報の日」と結び付けながら考えてみたいと思います。

「世界広報の日」とは、私たちキリスト信者すべての使命である福音宣教のうち、とくに新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画、最近ではインターネットなどの広報手段をもちいて行う宣教について考え、反省し、祈り、献金をささげる日です(カトリック教会ハンドブック)。

日本のようにマスコミや技術の進歩している国で、広報が社会や文化に及ぼす影響ははかりしれないものがあります。広報の重要性を再認識し、広報を通して社会と人々にどのように関わっていくことができるか、また、実際どのように関わっているかを考えることが大切です。

そこで、私たちは、広報の大切さを理解し、社会と人々にどのように関わっていくことができるかを具体的に考えることにしましょう。

当たり前のことですが、広報する人は、社会と人々に知らせるべきことを持っていなければなりません。たとえば長崎教区の広報委員会は、毎月お知らせすべきことを委員で確認し、長崎教区の人々に幅広く教区内の出来事や長崎教区の必要事に答えるような内容を「よきおとずれ」を通してお知らせしています。少なくとも、そのつもりでいます。

また、教会の中で自分たちに特に必要なことを知らせてもらうことも広報活動です。この広報のために、広報委員を置いている教会もあります。その広報委員さんは、自分の中にお知らせ内容があるのではなくて、これこれのお知らせをお願いしますと主任司祭や評議委員や経済評議員の方々から依頼されてそれをお知らせします。こうして、お知らせすべきことを与えられて、それを忠実に、また確実にお知らせするよう努力しているわけです。

広報を依頼されている人々は、何を知らせるべきかを与えられて、きちんとその内容を伝えようとします。ではそもそも、教会が社会と人々に向かって広報する内容とは何なのでしょうか。また、教会が社会と人々に向かって広報する内容は、どのようにして与えられるのでしょうか。

その問いに、今日の福音は答えてくれていると思います。ヨハネ福音書14章の16節から17節「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」という箇所です。

併せて、聖書と典礼5頁に記されている「真理の霊」についての説明をお読みください。「真理」は、「確かなもの、信頼に値するもの」を表すとともに、「隠されているものをあらわにすること」をも表すとあります。ですから、弟子たちに注がれた弁護者である聖霊、真理の霊とも言われるお方は、注がれたあと隠しておくようなものではなくて、社会に対して、人々に対して明らかにすべきものだということです。

この、イエスが御父にお願いして注がれる弁護者、真理の霊が、そもそも社会に、また人々に告げ知らせるべき内容ということになります。弁護者、真理の霊は弟子たちだけに注がれたのでしょうか。そうではありません。聖霊降臨によって、イエスを信じるすべての人に注がれています。ですから、聖霊を受けた私たちすべてが、社会と人々に広報すべき内容を与えられていることになるのです。

ともすると私たちは、「広報は広報委員会とか、広報機関とか、そういったところが引き受けることであって、私たちには縁遠いことだ」と思っているかも知れません。けれども、根本的にキリスト教の広報機関が知らせるべきことはキリスト信者すべての使命でもある「御父と御子から注がれた真理の霊を証しすること」なのです。

そう考えると、広報活動はまずは私たち一人ひとりが社会と人々に対して真理の霊を証しすることから始まり、それをもっと効果的に、組織的に行うために新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画、インターネットといった広報手段の活用に向かっていくことになります。私たちは決して無関係ではなく、一人ひとり、大切な広報の担い手であるべきなのです。

「そんなこと言っても、わたしにみんなの前に立ってお知らせしなさいと言われても無茶です」と思うかも知れません。みんなの前に立ってお知らせするのは、それは代表の人がする仕事なので、たしかに全員は無理かも知れません。けれども、だれもが真理の霊を、だれかに告げ知らせる「担い手」なのではないでしょうか。

ここで言う「真理」とは、「隠されているものをあらわにすること」であると確認しました。私たちがみな、真理の霊を注がれているのであれば、それは私の中で隠しておくべきものではなく、明るみに出して知らせるべきもののはずです。どんなときに、どんなふうに知らせたらよいのでしょうか。

いくつか、示しておきたいと思います。私たちが信じているものは、いつどこででも広報する材料になります。私が1週間の中で出会う何人かの人がいるでしょう。その人は、何を大切にしている人でしょうか。この世限りのものを大切にしているでしょうか。その人に、私たちが信じているものをちょっと紹介することができます。

私は、滅びないもの、永遠の命を信じています。そして、復活への希望を持っています。この世限りのものを大切にしていますが、滅びないものに少し目を向けてみませんか。完全に同じ言い方ではなくても、このような言い方で私に注がれた「真理」の広報担当者になることができるのです。

また、なぜミサに行くのか、はっきりした答えを持っているなら、私たちはみな立派な広報担当者です。来週から、特別な祭日が続きます。具体的には、主の昇天、聖霊降臨、三位一体、キリストの聖体、イエスのみ心です。これらの祭日を前にして、なぜミサに行くのか、その答えを全員持っているなら、それは社会に対して大きな広報活動になります。

なぜミサに行くのか。それは、永遠の命を与えてくださるイエス・キリストと親しく交わるためです。私たちに復活の希望を与えてくださるイエス・キリストと確実に出会うためです。こうした答えを全員持っているなら、ミサに集まることがそのまま、広報活動になるのです。そして全員がミサに行く時、全員が広報担当者の務めを果たすことになるのです。

せっかくですから、ミサに行くことができるのに知りながらわざとミサに行かないというようなことはしないようにしましょう。一人ひとりがミサの価値や意味を広報活動できるのに、ミサを通しての広報活動に協力していないとなると、力は半減してしまいます。

もう一つ、一人ひとりの力でできる大きな広報活動を紹介しておきます。「よきおとずれ」や、毎年の「祝日表」、教会掲示板のポスターなどを通して「教皇さまの今月の意向」というのがお知らせされています。この、「教皇さまの意向」に、全世界の信者が心を合わせて生活を営むなら、全世界の信者すべてが、教皇さまと一つになって社会と人々に広報担当者の務めを果たすことになります。世界中のキリスト信者が、教皇さまと心を一つにしていることを知れば、社会は大きな衝撃を受けることでしょう。

私たちは、今週の「世界広報の日」にあたって、自分たちも広報活動に一役買うことができることを考えました。最後に、今日の日のための特別献金によって、現代の伝達手段で効果的に真理の霊を世に示すための協力をしましょう。私たちの理解と協力があれば、きっとイエス・キリストが示した福音の価値を、すべての人が理解するようになると思います。世界のすべてを、イエス・キリストが示した福音が照らしますように。


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ちょっとひとやすみ
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▼5月連休を前に、ひょっこり五島に帰り、父親の様子をのぞきに行った。日帰りの強行軍、例えて言えば東京から飛行機で2時間の土地に日帰りするようなものである。帰ってきてから後悔するのだが、日帰りはあとで疲れがどっと出るのでやめておけばよかった。
▼前の日に時間を明記してFAXして出かけた。心配なので様子を見に行ったのだが、本人は今後の運命を神さまに委ねきっているのか、いたっておだやかな様子だった。「急に見舞いに来たりしてどうしたんだ?」と言われると、何も言えなくなってしまう。
▼この日のために「自分史」を書くためのノートを用意して持って行った。いつ話をして渡そうかとそのことばかり気にしていたがとうとう最後まで話を切り出すことができず、「これを置いて行くけん」と言って渡しただけで、詳しい説明はできずじまいだった。その場で「自分史」のノートであることは確かめてくれたが、それ以上は触れることができなかった。
▼いろいろ心配していたことを聞き出したかったのだが、結局は4、5時間ほど自分が実家で羽を伸ばしてきただけのような見舞いだった。2年前の父の日に合わせてマッサージ器を買ってあげたがだれも使わないので、この前も自分が全身マッサージコースを3回も繰り返して使って帰った。
▼これからも、無理してでも帰って様子を見に行ってあげようと思う。心は離れていないと言っても、その場にいてあげることは何にも代えがたいと思うし、中学に入る時からずっと世話になりっぱなしだったから少しでも親孝行しようと思う。帰り際、父親に「おおきに」と言われたが、父親にそう言われたことが何だか寂しかった。

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今週のセンテンス
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第28回目。音楽は私たちの希望と恐れの表現です。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
主の昇天
(マタイ28:16-20)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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復活節第5主日(ヨハネ14:1-12)わたしのうちにおられる父が、その業を行う

2008-04-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/04/20(No.354)
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復活節第5主日
(ヨハネ14:1-12)
わたしのうちにおられる父が、その業を行う
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今日の福音を考えるために、7つの秘跡のうちの1つについて、理解を深めて欲しいと思います。それは、病人のための秘跡です。30年以上前に、私は教会の教え方さんから、7つの秘跡を教えてもらいました。病人のための秘跡は、「終油の秘跡」と習いました。30年前でも、そのように教えられていました。

ところが、この病人のための秘跡は、「終油の秘跡」という言い方ではその恵みの持っている豊かさを言い尽くしていないことが40年前に分かってきたのです。「終油の秘跡」という言い方ではこの秘跡の持っている豊かさは言い尽くせないので、「病者の塗油の秘跡」と呼ぶようになりました。

終油の秘跡と呼んでいた時代には、この病人のための秘跡は危篤の状態にある人のためだけの秘跡であるとされ、一生に一度しか授けることのできないものだと考えられていました。教会の理解が足りなかったのです。

第二バチカン公会議によって、この病人のための秘跡は理解が深まります。この秘跡の持っている本当の豊かさが分かってきて、「終油の秘跡」と呼ぶべきではない、むしろ「病者の塗油の秘跡」と呼ぶべきであることが教会も分かってきたのです。

今手元に、「病者の塗油の秘跡の式次第」がありますが、この中に「三、塗油を受ける人」という項目があります。そこには、5つのことが明記されています。

1.病気または老齢のために危険な容態にある人には、つとめて塗油を授けるべきである。容態については慎重に考えた結果、重いと判断されるならばそれで十分である
2.この秘跡を受けた後で健康を回復したが、再び容態が悪くなった場合、あるいは同じ病気が長引いて容態がいっそう悪化した場合、繰り返して秘跡を受けることができる
3.危険な病気のために手術が行われるときは、手術の前に塗油を受けることができる
4.老齢によって体力が著しく衰えてくるときには、危険な病気でなくとも塗油を受けることができる
5.子どもも、この秘跡によって力づけられるまでの物心がついているなら、塗油を受けることができる

教会は、病人のための秘跡がこんなに豊かであったことをあらためて確認し、繰り返し授けることができることや、体力が著しく衰えた高齢者にも授けることができるのだから、「終油の秘跡」という呼び方を廃止して、「病者の塗油の秘跡」と呼ぶようにしたのです。私たちも、この秘跡について、この際はっきり理解し、誤解のないようにしたいと思います。

理解が深まることで、救われることがあります。一般的な病気の呼び方で、これまで「痴呆症」と呼んでいた病気があります。今は決してこの呼び方をしません。今は人々の理解が進み、「認知症」と呼んでいます。「痴呆症」と呼んでいた頃は、症状の理解が不十分だったのです。目の前にいる人は判断や理解力が衰えたり混乱したりしていますが、必ずしも痴呆になったわけではないのです。

今思うと乱暴な言い方をしていたなと思うのですが、当時は医学的にも、社会的にも、理解が足りずにそういう見方をしていたわけです。きっと、認知症と呼ぶようになって、私たちは症状の出ている方への理解も深まったし、接し方も変わってきたと思います。このように、認知症への理解が深まったことで、本人も、その家族も、きっと救われたと思っていることでしょう。

全く同じことが、病人のための秘跡にも当てはまります。理解が深まることで、この秘跡を受ける人も、家族も、救われるのではないでしょうか。教会の理解が足りなかったために、終油の秘跡を受けることになったと聞いただけで、本人も家族も、どれだけ辛い思いをしてきたか、私は十分想像できます。

ですからここではっきりさせたいのです。「終油の秘跡」という呼び方は理解が足りなかった。この呼び方を廃止して、本来この秘跡が持っているもっと豊かな部分を言い表すために、「病者の塗油の秘跡」と呼ぶようになったと言うことです。どれだけの人が病人のための秘跡を十分理解せずにこれまで過ごしてきただろうかと思うと、司祭を含めて、教会が犯してきた過ちが大きかったと反省させられます。

そしてこの病者の塗油の秘跡についての理解は、今週の福音の次の箇所と結びつきます。ヨハネ14章10節「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしのうちにおられる父が、その業を行っておられるのである」という箇所です。この病者の塗油の秘跡が授けられるとき、秘跡の中で父なる神が、イエス・キリストとともに働いておられます。

神が、秘跡を通して病人に働いているのに、危篤の人だけにしか働かないとか、一生に一度だけしか恵みのチャンスがないとか、そんなことがあり得るでしょうか。それなのに、教会はかつては理解が足りなかったために、病者の塗油の秘跡を狭い枠の中に閉じこめてしまっていたのです。

秘跡は、父なる神が、イエス・キリストとともに働いていることを理解するための絶好の機会だと思います。「わたしのうちにおられる父が、その業を行っておられるのである」という聖書の言葉を、しっかりこの目で確かめるまたとない機会です。司祭が秘跡を執行しますが、いつもそれは、「わたしのうちにおられる父が、その業を行っておられるのである」ということなのです。

それぞれの秘跡についてもう一度思い出してみましょう。洗礼式に立ち会うとき、洗礼を受けるその人を、神が目の前で神の子としてくださっているのです。堅信を受けているその人に、父と子が聖霊を注いでくださっているのです。聖体拝領するとき、イエスがご自分の体を割いて、私たちに分けてくださっているのです。あなたの罪を赦しますと司祭が言っているときに、イエスが私たちのそばにいて、罪を赦してくださっているのです。

そう考えるとき、病人のもとに来てくださる神が、危篤の人だけに恵みを注ぎましょうと言うなんて考えられません。一生に一度だけ恵みを与えましょうと言うとは思えません。むしろ、病気が重いとき、すぐにイエスは駆け寄って恵みを注いでくださるはずです。危篤になるまで神が待ってから出向くとは考えられないのです。繰り返しますが、教会はこのことについて理解が足りなかったのです。信徒の皆さんは教えられたとおりにしか学ぶことができなかったのですから、何も責任はありません。むしろ、教会側に、多くは教えた司祭に、責任があるのです。

特に今週は、病者の塗油の秘跡を通して、「わたしのうちにおられる父が、その業を行っておられるのである」ということを考えました。イエスは今も、御父とともに働いておられます。特に、秘跡の中で働いています。危篤の時にだけ働くのではなく、今日も働いてくださる神に、今働いてくださる神に、信仰を持つすべての人が信頼を寄せることができるよう、ミサの中で導きを願うことにしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼今週は種々雑多な話。ひんぱんに乗り降りする高速船「コバルトクイーン」に携帯電話を忘れた。原因は、高島の役員から電話がかかり、信徒が亡くなったので、通夜と葬儀ミサの日程を組んでほしいという伝言を受けたことに始まる。日程を思案していると携帯電話から電池切れの警告が聞こえてきて、「かけ直すから」と言っていったん電話を切った。たまたま、持ち運んでいた携帯電話の電源コードがあったのでこっそり高速船の電源コンセントの場所に差し込み、電話をかけ直して話を済ませた。
▼ところが、いざ船を降りる時には携帯電話のことは忘れてしまい、電源コードに差したまま忘れてきたというオチである。船を降りて慌てて連絡を取り、携帯電話を確保してもらったが、船員さんは「この人は勝手に船の電源から充電している」と思ったに違いない。実際、電源コードを差したまま放置してきたから、伊王島→高島→伊王島→携帯を忘れたことを思い出した→大波止→伊王島と走って船が伊王島に戻ってくるまでかれこれ1時間くらいは充電したことにはなる。印象を悪くしてしまった。
▼携帯電話は、何としても取り戻さなければならない理由があった。個人の電話番号もあったし、メールの内容も個人情報。さらに、今回の携帯は「お財布ケイタイ機能」を組み込んでいるため、コンビニで数千円分の買い物ができてしまう。この携帯を拾った人が悪意のある人であれば、大変なことになっていたところだ。
▼携帯版の説教メルマガ(2000字に縮小したもの)を発行しているが、読者に「最近の携帯は5000字まで受信可能なので、PC版のメルマガを携帯で受信すれば本来の説教が読めます。希望者は携帯のアドレスをこうじ神父に連絡してください」と案内したら、すぐに8人連絡してきてくれた。確実に読んでくれているという証しでもあり、縮小版ではない本来の説教を読みたいという人がいるという証しでもある。大いに勇気づけられた。
▼財布にあれこれ入れている会員カードやポイントカードを点検してみた。するとポイントカードのうち2枚は、期限切れになっていて使うことなく処分となった。ミスタードーナツのポイントカードはそんなに惜しいとは思わないが、JRのパスネットはまだ数百円残っていたのに、どうやら2008年の3月14日で使用できなくなるらしい。惜しいことをした。関東で利用できるパスネットをなぜ所持しているのかって?それはヒミツ。

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今週のセンテンス
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第27回目。人間の新生児って、他の動物と比べものにならないくらい無力です。

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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ14:15-21)
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復活節第4主日(ヨハネ10:1-10)羊が門を出入りして牧草を見つけられるように

2008-04-13 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/04/13(No.353)
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復活節第4主日
(ヨハネ10:1-10)
羊が門を出入りして牧草を見つけられるように
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今週の朗読はヨハネ10章です。このヨハネ10章を読み解くためには、その直前のヨハネ9章をどうしても頭に置いておかなければなりません。ヨハネ9章はどんな出来事があったかというと、「生まれつき目の見えない人のいやし」の奇跡が行われ、視力の回復の恵みを受けた人は、ファリサイ派の人々の脅迫「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」(ヨハネ9・34)にも屈せず、「あの方は預言者です」と信仰告白し、まことの羊飼いであるイエスの声に聞き従ったというのが大まかなあらすじです。

この「生まれつき目の見えない人のいやし」という出来事を受けて、今朗読されたヨハネ10章に入るわけです。直前のヨハネ9章でファリサイ派の人々は目が見えるようになった人に「お前は、あの人をどう思うか」と追求しました。イエスに直接尋ねるべき質問なのに、目が見えるようになった人を脅したのです。そこでイエスは、「羊の囲い」のたとえ、「羊の門」のたとえを通して、ご自分がだれであるか、ファリサイ派の人々に答えようとしたのです。

「灯台もと暗し」という諺がありますが、イエスが「羊の囲い」のたとえの中で、ファリサイ派の人々を「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る盗人や強盗」扱いしているのに、厳しい指摘を浴びていることにまったく気付きません。自分たちは律法に明るく、一般民衆の上に立つ教師であると思い上がっていて、羊である一般民衆に害を加えている盗人、強盗だとは露ほども思っていなかったのです。

上に立つ人がイエスから厳しい指摘を受けているのに、当の本人たちは「その話が何のことだか分からなかった」(10・6)。まずこの点に注目したいと思いますが、ファリサイ派の人々の愚かさを読みながら、教会で主任司祭として派遣されている私自身、十分にわが身を振り返る必要があると思いました。もしかしたら私が信徒に危害を加えている盗人、強盗になっていないのか。もし自分で分からなくなっているなら、同僚の司祭や、はっきりものが言える第三者に指摘してもらってでも、自分が重大な過ちを犯していないか、反省すべきだと思ったのです。

「まさか」とは思うのですが、その「まさか」が落とし穴かも知れません。門を通って囲いの中に入る羊飼いに羊は導かれていくのですが、私はその間に立って邪魔をして、羊が羊飼いに導かれるのを妨げている部分があるかも知れません。信徒に知らせるべきことを知らせなかったり、信徒の活動の芽を摘んでしまったり、飼い主のいない状態に迷わせてしまっていた部分があったのではないか。そんな部分があったかも知れません。率直に赦しを願いたいと思います。

反省の上に立って、それでは教会で主任司祭はどう振る舞わなければならないかを考えてみました。イエスの次の言葉にその答えを見つけました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10・10)。このイエスの言葉に、それぞれの教会の主任司祭は忠実であるべきだと思いました。羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために腐心する司祭こそ、真の牧者ということです。

あってはならないことですが、羊が命を豊かに受けるようにと心を砕かない司祭は、結局は盗人であり、強盗ということになります。この司祭は真の司祭か、あるいは盗人、強盗ではないのか。いくつかの面で、すでに結果を求められていると思います。

少なくとも3つの面で、結果を求められていると感じます。1つは、教会を動きやすい仕組みにしているかどうかです。「門を出入りして」自由に活動できるように配慮していたのかなと思います。さまざまな活動に待ったをかけ、主任司祭が信徒の手足を縛って、身動きができないようにしているとしたら、私は加害者になっています。

2つめは、イエスが与えたいと思っている人に、必要な恵みが届いているだろうかということです。「牧草を見つける」ように配慮したかということです。七つの秘跡の恵みが、信徒全員に、溢れるほどに届いているだろうか。司祭の都合で、恵みの食卓から信徒が遠ざけられているとしたら、やはり私は加害者になっています。

3つめは、もっとひどいことをしてないか、つまり誰かを傷つけたり、言葉で脅したり、考える力を奪ったりして「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたり」してなかったかということです。もしこんな状態だったら、主任司祭は永遠にその責めを負わなければならないと思います。この3つを振り返っていると、主任司祭はできるだけ仲人に徹して、信徒をもり立てる役に回ることを学ばなければならないと思いました。

今週の朗読からは、信徒の皆さんへの呼びかけも見えてきます。いちばん分かりやすいのは「羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」という箇所でしょう。説教のはじめに取り上げた生まれつき目の見えなかった人は、ファリサイ派の人々がどれほど脅しても、イエスへの信仰を曲げようとはしませんでした。羊は羊飼いの声を聞き分けます。これは学歴とか教養とかではない、何か特別な導きです。

神は、この聞き分ける力を信徒一人ひとりに与えておられます。週の初めの日の朝、婦人たちはイエスの遺体を納めた墓に出向きました。彼女たちの中に、聞き分ける力があったからです。今年列福式を控えている188殉教者のうち、184人は一般信徒です。信徒に、羊飼いの声を聞き、ついて行く力があったことの何よりの証しです。

どうか、信徒の皆さんが、「わたしが耳を澄ませば、ついて行く方向は必ず示してもらえる」と信じていただきたいと思います。信徒の皆さんに、神は真の羊飼いについて行く力を注いでいるからです。主任司祭はこれから、もっと信徒が豊かに命を受けるために、引っ張っていくのではなく支えてあげたいと思います。

今週の福音朗読を今年あらためて読み返して、教会づくりについて転換期にあると感じました。引っ張って行かなくても、いちばん後ろにいれば、必ず行くべき所に行く。これからはそんなつもりで、お手伝いできる態勢を作っていきたいと思いました。


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ちょっとひとやすみ
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▼「今日かも知れない、明日かも知れない、3ヶ月後かも知れない」というような事態に準備するのは、どんな心境なのだろうか。最近の事例では、福岡教区の新しい教区長任命がそれに近い心境だったかも知れない。2年ほど前に当時の教区長が亡くなり、今か今かと待ち続けてようやく次の教区長が任命された。
▼それでも、今回の人事でまたもや大分教区には「司教空位」の期間が発生するわけで、大分の教区民は「今日か、明日か、何ヶ月後か、来年か」そんな待ちかたをすることになる。それは身を焼かれるような思いが、長い期間続くことを意味する。神はこの期間を使って、何を教え、示そうとしているのだろうか。
▼こうじ神父にも、今まさに身を焼かれるような事態が起こっていて、「それはいつになるのか、3ヶ月後か、半年後か、年内いっぱいか、あるいはそれ以上か」誰にも分からないまま日々を過ごすことになりそうな気配である。こんな時、どんな心でいたらいいのだろうか。その日が今日であっても、来年であっても、心は平安で満たされている。そんな境地は、どうすればたどり着けるだろうか。
▼心の準備をするのもどうかなと思えるし、かと言って何もしないでその日を迎えるのも悔いが残るのではないかと思ったり、本当に身を焼かれる思いがする。どうにもできないのだけれども、何かできることはないのかと、本当に悩む日々になりそうだ。「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6・34)。その通り、と腹を決めることが、今の自分に可能だろうか。

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今週のセンテンス
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第26回目。子どもたちがものを学ぼうとする本能は、目を見張るものがあります。

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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
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‥‥‥†‥‥‥‥
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復活節第3主日(ルカ24:13-35)主よ、一緒にお泊まりください

2008-04-06 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/04/06(No.352)
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復活節第3主日
(ルカ24:13-35)
主よ、一緒にお泊まりください
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今年の復活祭を迎えて、復活したイエスと弟子たちや婦人たちとの出会いの中で、1つの発見がありました。それは、復活したイエスと出会う人が暗い顔をしていたり落ち込んでいれば、目の前にイエスがいても気付かないということ、反対に、心に喜びが満ちている時にはイエスだと気付くということです。

マグダラのマリアが復活したイエスと出会う場面を例に挙げましょう。この記事についてはマタイ福音書とヨハネ福音書が具体的な書き方をしています。マタイ福音書が残したマグダラのマリアとイエスとの出会いでは、神の使いからイエスの復活を知らされ、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(マタイ28・8)のでした。

すると、「イエスが行く手に立っていて『おはよう』と言われた」(同28・9)とあります。「恐れながらも大いに喜んでいた」という部分が、マタイが書き残したマグダラのマリアの内面です。マリアの心には喜びが満ちていたので、行く手に立っていたイエス、復活したイエスに気付くことができたのです。

ヨハネ福音書が書き残すマグダラのマリアとイエスとの出会いでは、「マリアは墓の外に立って泣いていた」(ヨハネ20・11)とあり、早くもイエスが立っておられた場面に出くわしているのに、「それがイエスだとは分からなかった」(同20・14)と言っています。復活したイエスも「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」(同20・15)と言って、泣いているマグダラのマリアが復活したイエスに気付いていないことを諭そうとしています。

こうしてみると、私が言おうとしていることが分かっていただけると思います。マグダラのマリアは、泣きながらイエスに出会った時、それが復活したイエスだとは分かりませんでした。一方大きな喜びで満たされていた場面では、復活したイエスをはっきり認めることができたのです。

この見方に立って、今日の福音朗読を読み返してみましょう。すぐに、私が取り上げたことが当てはまっていることに気付くはずです。エマオへの道を歩いていた2人の弟子は、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ24・15-16)とあるのです。

なぜイエスだとは分からなかったか。すぐにお分かりでしょう。イエスが「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(24・17)と言った時、「二人は暗い顔をして立ち止まった」(24・18)、まさしく二人は暗い顔をして、暗い気持ちになっていたのです。それで、一緒に歩き始めたイエスが復活したイエスだとは分からなかったのです。

イエスはそんな彼らに目の覚めるような言葉をかけました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(24・25-26)。そして、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(24・27)のでした。

ここから、二人の弟子たちの心に変化が現れることは十分推理できます。彼らは復活したイエスから直に聖書の説明を受けた時、あとで自分たちが振り返ったように「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていた」(24・32)ことに気付くのです。

心が燃え立ち、喜びに満ちてきた時に二人がイエスに書けた言葉は何だったでしょうか。それは、「一緒にお泊まりください」(24・29)でした。呼びかける相手がイエスだとはっきり分かっていなかったとは言え、目の前にいる復活したイエスをやり過ごすことなく、一緒にいてほしい、宿を共にして話を聞きたい。そんな気持ちに変わっていったのです。喜びが心にある時、人はイエスがそこにいることに気付くのです。

私たちにも同じことが言えると思います。ふだんの生活で暗い顔をしていたり必要以上に落ち込んでいれば、目の前にイエスがいても気付かないし、反対に、心に喜びが満ちている時にはイエスだと気付くのです。元に戻らないことをいつまでもくよくよして、前を向こうとしない人には、復活したイエスが目の前に現れて、「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と声をかけられても気付かないのではないでしょうか。

むしろ、エマオに向かっていた弟子たちのように、「一緒にお泊まりください」と声をかけましょう。復活したイエスが今も私たちに働きかけているとまだはっきり気付いていなくても、一緒に泊まって、時間を共にしてくださることで、私たちの目も開かれ、イエスだと分かるようになるでしょう。

仮に、悲しみにうちひしがれるようなことがあっても、「一緒にお泊まりください」とイエスに呼びかけるのです。悲しみの中から立ち上がる力を、イエスが与えてくださいます。見えなかった解決策、思いがけない助け手をイエスが示してくださるかも知れません。「一緒にお泊まりください」と言うことで、悲しみから立ち上がり、イエスと共に前を向いて歩く力を得るでしょう。

共にいてくださる主に力づけられた二人の弟子は、時を移さずエルサレムに留まっている弟子たちに起こったことを知らせに行きました。「一緒にお泊まりください」と願うなら、イエスはその願いに答え、力を注ぎ、復活したイエスを告げ知らせに行く人に変えてくださいます。


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ちょっとひとやすみ
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▼選抜高校野球の決勝戦を見ながら説教を書いていた。「ながら」はよくないのだが、9年前に選手で選抜優勝した若い監督率いる沖縄尚学がまたもや優勝するかという興味の尽きない試合だったので、ついついはまってしまった。結果はご承知の通り、「選手で優勝、監督で優勝」という、何ともドラマチックな結果になった。
▼最近高校野球を見ていると涙が出そうになる。何とも情けない話だが、高校生がはつらつと試合をしているのが、涙をそそるのである。それだけでもおじさんになったのだと痛切に感じるのだが、涙が目にたまってくるうちに、野球ではなくてもっと違うことで泣きたい気持ちになっていることと重なり、つらくなる。
▼泣いたり笑ったりが人生ではあるけれども、うれし泣きではなく別れの涙はやはりつらい。どうしても別れなければならないこともあるだろうけれども、それを知った上で明るく振る舞うのは胸が引き裂かれる思いがする。一日でも、やはり別れは先に伸びてほしい。高校野球を観戦していたのに、いつの間にか違うことと重ねて考えていた。
▼しかしどうしても別れなければならないのであれば、準備をしておいた方がよいのだろうか。準備をすれば、別れなければならないことを表に出すような気がして、失礼になるのではないかと思ったりもする。別れることではなく、今を大切にすることのほうが大事ではないのかとも思い、悩ましい。
▼知らせなければ「なぜ知らせてくれなかったのか」ということになるだろうし、知らせると「こんな場にふさわしくない」という思いもある。一週間に一回の書き込みが、ずっと同じ話題の経過報告では申し訳ない。もう少し考えてから、あるいはいよいよの必要を感じたら、ここでもお知らせするかも知れない。

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今週のセンテンス
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第25回目。諺「親切であるためには残酷でなければならない」。いい加減に更新だね。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:1-10)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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