こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

待降節第1主日(マタイ24:37-44)すぐに「またあなたとともに」と言える準備を

2022-11-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2022/11/27(No.1209)
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待降節第1主日(マタイ24:37-44)
すぐに「またあなたとともに」と言える準備を
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いよいよ、「新しいミサの式次第と奉献文」を使ってのミサが始まりました。福音朗読に「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(24・44)とありますが、「ミサ式文の変更」という、「思いがけない出来事」で私たちは試されています。

用意しましょうと呼びかけたのに用意しなかった人は、「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(22・40-41)このように置いて行かれることになります。思いがけない出来事でしたが、今からでも私たちは、救い主の到来の準備に充てることができます。大人なので事情を理解できます。幸いなことです。

金曜日の中学生のけいこで、ミサ式次第の最終確認をしたあとに、「明日から、これまでのミサ式次第とはお別れです。さようなら」とおおげさに伝えますと、中学1年生の女子三人組はあっけらかんとしていて、「さようなら~」と手を振ってくれました。

大人の人、特に後期高齢者の皆さんは「人生の最終盤でなぜあらためてミサ式次第を覚えなければならないのか」という思いでしょう。ただ、中学1年生を思うと、ようやく12年生き始めたばかり。ミサの式次第も保育園で覚えたとすれば5年6年お世話になったに過ぎません。ですから未練も何もないのだなと思いました。この子供たちがこれから60年70年使用していくための典礼刷新です。どうか、ご理解ください。

実は今回のミサ式次第と奉献文の変更は、主日のミサに限ったことではありません。生活全般に関わる変更になると言って良いでしょう。食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり、人を送り出したり、こうした日常の出来事すべてに、ミサの式次第と奉献文の変更は関係しています。今日以降に結婚式、通夜、葬儀、納骨、その他何かしらの祝福を行うなら、どの儀式であっても、新しいミサ式次第の少なくとも一部分は関わってくるからです。

「主はみなさんとともに」という司式者の招きは、主日のミサ・週日のミサに限ったことではありません。あらゆる儀式を結ぶときに、司祭のこの招きが使われています。さらに困難なことに、今この場でおささげしているミサはかろうじていろいろな年代の方が参列していますが、保育園児だけ、高齢者だけの場所でミサをすることもあります。

つまり、あらゆる人が「目を覚まして」「用意していなさい」と言っているのです。思いがけない今回の変更は、呼びかけにどれくらい応えてくれたかを確かめようと主がおいでになる格好の機会です。今からでも遅くはありません。用意して、生活の中に、心の中に、主をお迎えすることにいたしましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日(マタイ3:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼ひとまず、「新しいミサの式次第と第一~第四奉献文」の変更を取り入れたミサを終えた。この原稿の時点では終わっていないが、どのように感じるのだろうか。何度か「模擬ミサ」をしてきているので、特別変わったことはないのだろうか。
▼もし今回の刷新での気付きがあれば、ここで分かち合ってみたい。何か「目からうろこ」というような体験があるのかも知れない。これまで携わってこられた方々のご苦労をねぎらいたい。お疲れさまでした。乾杯!

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今週の1枚
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第816回目。長いお付き合いとなるミサの儀式書。豊かさが学べますように。

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† 神に感謝 †
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王であるキリスト(ルカ23:35-43)あなたにとっての「王であるキリストの祭日」はいつ?

2022-11-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2022/11/20(No.1208)
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王であるキリスト(ルカ23:35-43)
あなたにとっての「王であるキリストの祭日」はいつ?
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今週一週間は、従来のミサ式次第でささげる最後のミサです。中田神父としては、一刻も早く新しいミサ式次第に移りたいくらいです。ただ、最初はうまくいかないことも多いだろうなぁと心配もあります。皆さんの協力を頂きながら、新しいミサ式次第でささげるミサを充実させていきたいです。

朗読台に「張り紙」をしました。朗読者は次の日曜日から「神のみことば」と唱えなければなりません。それで、うっかり忘れていても思い出すきっかけになるようにと、張り紙をさせてもらいました。そして朗読者が「神のみことば」と言ったら、会衆の皆さんも「神に感謝」とはっきり答えてください。

王であるキリストの祭日、年間の最後の主日を迎えました。今日はちょっと違ったことを尋ねます。皆さんには、忘れられない「王であるキリストの祭日」があるでしょうか?そしてそれはいつでしょうか?

中田神父にとっては、2019年の「王であるキリストの祭日」です。この日は11月24日でした。これでお分かりでしょうか?思い出せない人のために詳しく言います。この日はフランシスコ教皇様が来日されて、長崎でミサをささげた日曜日、「王であるキリストの祭日」でした。

この日、私たちは大勢で長崎に駆けつけ、ミサに参加しました。ミサに参加できなかった人も、テレビでその様子を見届け、テレビででも参加が難しかった人も、その時間に、それぞれの場所で心を合わせて祈ったはずです。2019年の「王であるキリスト」は、日本中のすべてのキリスト者が、また映像を見た世界中のキリスト者が、「イエス・キリストは王である」と讃えたのです。

あの日、直接ミサに参加した人もいるでしょう。そうでない人もいるでしょう。近くにいたかそうでないかは問題ではありません。もっと大切なことがあります。それはイエスを心から王であると唱えたかどうかです。今週の朗読に立ち帰ります。

朗読は十字架の場面ですが、さまざまな場所からイエスをあざける声が聞こえます。議員たちは、いちばん遠く離れて、他人事のようにあざけります。兵士たちも近寄ってあざけります。そしていちばん近くにいるのが、同時に十字架にはりつけにされた犯罪人です。

犯罪人のうちの一人は、イエスをののしりましたが、もう一人はイエスを「王」として認めました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23・42)。近くにいるからイエスを王と認めることができたわけではありません。十字架から降りないままのイエスの中に「王の姿」を見つけた人だけが、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うことができたのです。

フランシスコ教皇様がおいでになったとき、私たちはありとあらゆることを教皇様のために都合を付けました。教皇様が「王であるキリスト」の目に見える代理としておいでくださったからです。ですから今日私たちは、いつもよりもいっそう意識して一日を過ごしたいのです。「王であるキリストの祭日」を祝っている日曜日として、「イエス・キリストは王である」この信仰を再確認する日曜日として、過ごしたいのです。

イエス・キリストのために、何かを横に置いて日曜日を過ごす。ふだん、日曜日にしかできないことを抱えている人もいるでしょう。週に一回の楽しみとして、日曜日にしている趣味や娯楽があるかも知れません。晴れても雨が降っても欠かさずしている楽しみがあるかも知れない。

それらのどれか一つでも横に置いて、「イエス・キリストは王である」と、自分にも人にも信仰を表すための何かを実行してください。たとえばそれは、家に帰って新しいミサ式次第をていねいに読み返すことでも良いでしょう。

中田神父も、届いた儀式書をよく読み返して、今週一週間練習を積んでおこうと思っています。こうして私たちは、2022年の王であるキリストを、記憶に残る日とすることができるのです。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日(マタイ24:37-44)
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ちょっとひとやすみ
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▼新しく届いた「ミサ儀式書」の修正箇所が教区本部事務局を通じて知らされてきた。二箇所、指摘があった。まっさらな儀式書に訂正を入れるのは気持ちの良いものではない。しかし訂正をしないと、間違った状態で唱えることになる。
▼しかし悔しさをバネに、このたび刊行された儀式書と共にミサをささげていこう。修正箇所が、よりこのたびの儀式書を定着させる契機になれば。そして五年後に、最終的な儀式書が刊行されて、未来に誇れるものになれば今回の修正も報われる。

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今週の1枚
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第815回目。家庭菜園というか、地産地消というか。ネギは割合育てやすい?

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年間第33主日(ルカ21:5-19)主に信頼して命をかち取る

2022-11-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2022/11/13(No.1207)
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年間第33主日(ルカ21:5-19)
主に信頼して命をかち取る
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新型コロナの感染者がまた増えだしました。せっかく長崎県の感染警戒レベルが1に下がったところだったのに、あと二週間もすれば夏の感染者数を超えるかも知れないと言われています。土曜日にも海外からおいでになった家族に、「新型コロナのために、中には入れません」と事情を説明したところでした。さらに、このたびの外壁の落下があって、堂内の拝観を許可してあげたいけれどもそれができない状態が続いております。もどかしいです。

司祭館玄関の階段に、黄色いチェーンを渡しました。観光客がちょいちょい階段に上がって、教会の写真を撮ろうとします。それを遠慮してもらうために取り付けました。ご不便をかけますが、チェーンは輪っかを引っかけるだけの簡単なものですので、ミサをお願いに来たり、主任司祭に問い合わせがあったり、そうした本当の用事の人は遠慮なく階段を上がっておいで下さい。

今週の福音朗読、「終末」に関する出来事が取り上げられています。「世の終わりが近づいている」と言えば、混乱させるように聞こえるかも知れませんが、イエスもはっきり言っているように、混乱をもたらすように見える出来事は、実は証しをする機会です。人々が右往左往するなかで、私たちキリスト信者は、詩編の次の言葉を思い出すのです。「主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。」(詩編112・6)

「思い出す」と言っても、実際には思い出せなくても構いません。人々が右往左往するなかで、主に信頼してしっかりと立っているなら、そのキリスト信者は態度で詩編112編を歌っているのと同じだからです。私たちの皆が、主に信頼していることを「詩編の112編にある通りですよ」と言う必要はないのです。

もっと言うと、キリスト信者だから福音書の何章何節と言えなくても良いのです。言えることに越したことはありませんが、聖書が教える生き方を備えて下さるのは神様の方だからです。イエスは言っています。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」(21・5)。私が福音書の何章何節を覚えているから「対抗も反論もできないような言葉と知恵」を身につけるわけではないのです。何も心配要りません。

問題は、慌てふためくとき、右往左往するような場面で、主への信頼を失ってしまうことです。主に固く信頼する人、天地がひっくり返るようなときでも、主への信頼を失わない人は、命をかち取るのです。

ひょっとすると、今回の新しいミサの式次第も、右往左往するような出来事と言えるかも知れません。「また祈祷書が変わるのですか?」何人もの人から聞かれましたが、大事なことは、式次第が変わっても、変わらず私たちを招いておられる主に信頼することです。この主への信頼によって、このたびの大転換を乗り越えて、命をかち取ることにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト(ルカ23:35-43)
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ちょっとひとやすみ
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▼法務大臣が辞任した。私の記憶では、前にもうっかり発言で法務大臣が辞任したと思う。「職責」が人を育てるものだと信じていたが、どうもそうではないらしい。人を育てるのは何なのだろうか。「職責」でなければ、何が人を育てるのだろう。
▼「司祭も、司祭をしながら司祭になるのだ」と先輩から言われたが、「職責」という意味では、司祭だからと言って育ててもらえるとも限らない。本当に育ててくれるのは神への信頼なのではないか。神が、信頼する人を必ず育ててくれる。

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今週の1枚
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第814回目。司祭館の階段から教会の写真を撮らないで!脚立ではないのだから。

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年間第32主日(ルカ20:27-38)主はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

2022-11-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2022/11/6(No.1206)
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年間第32主日(ルカ20:27-38)
主はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
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十一月に入りました。死者の月です。3日(木)には「瀬戸山墓地に眠る死者のためのミサ」が行われましたが、参加されたでしょうか。今週の朗読は、死者の月である十一月と結びつけると、学びが得られるかなぁ、と考えました。

ふだんの生活であまり使わない言葉を知らないのは仕方の無いことかも知れませんが、この前NHK趣味の園芸でとある言葉が使われていて、その意味が分からずショックを受けたことがありました。プランターで野菜を育てるという内容でしたが、先生が生徒に「まめに見ておかないと『とう立ち』しますから気をつけましょう」と指摘して、生徒は先生に「分かりました」と答えていたのです。

ここで使われた「とう立ち」「とうが立つ」という言葉を、司祭館で尋ねたわけです。すると「ほら、『とうの立つ』っていうじゃないですか」とそのまま返されました。調べてみるとどうやら、「茎が成長しすぎて、頃合いを過ぎること」を意味するそうです。知らんかった。

さて今週の朗読でも、「知らんかった」で終わらないように、しっかり学びを持ち帰りましょう。朗読の中で、イエスがサドカイ派の人々に指摘する部分「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」(20・37)を取り上げたいと思います。これは出エジプト記3章からの引用です。該当する箇所を読んでみましょう。

出エジプト記3章6節です。「神は続けて言われた。『わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。」これは神がモーセに語られた言葉ですが、モーセは神の声をどのように聞いたのでしょうか。

過去の偉大な人物を並べて、「これこれの人の神である」とただ言っただけだと受け取ったでしょうか。そうではなく、先祖たちは神から忘れ去られることなく、今も神のうちにあって生きていると受け取ったのではないでしょうか。先祖たちは、神が名前を呼べば、いつでも返事ができるようにその時を待っているのです。

アブラハムが生き生きと登場する物語を思い出しました。「金持ちとラザロ」の物語です。金持ちが死ぬと、「宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた」(ルカ16・23)とありまして、金持ちがアブラハムに叫ぶわけです。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」(16・24)

これは当時すでに知られていた物語だと思われます。アブラハムは物語で生き生きと登場します。これだけでも、イエスが「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(20・38)と言ったことが十分うかがえます。イエスを信じるすべての人にとって、人は復活のその日を待って生きている人なのです。

人は寝起きして時間が進みますがこの時間には限りがあります。一方神を信じて眠りについた人は、眠っている時間は長いかも知れませんが、復活の希望があり、いつまでも神と共に生きることになるのです。

十一月、死者の月です。多くの人が身近な人を偲び、墓を尋ねて祈ることでしょう。墓に眠る人は、死の瞬間から復活の命が始まっています。次にお墓で祈るときには、ぜひ「復活の命が始まっていること」を心に留めて祈っていただきたいものです。


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‥次の説教は‥‥
年間第33主日(ルカ21:5-19)
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ちょっとひとやすみ
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▼11月、田平教会は毎年教会墓地に眠る人々のため、野外ミサを行う。最近は参加がより容易な「文化の日(夕方)」に実施している。40名ほど参加している。今年、墓地の敷地内でミサの準備をした。
▼準備は整い、ミサを始めたが、夕方の西日が直接参加した会衆に当たってしまった。私は対面なので、背中が西日で照らされている状態になった。どちらも大変だったが、私よりも信者の皆さんが大変だったろう。

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今週の1枚
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第813回目。AmazonでEcoShow(エコショー)を買ったが、セットアップで挫折。

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