こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第30主日(マタイ22:34-40)あなたの「最も重要なもの」が掟を理解させます

2008-10-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/10/26(No.382)
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年間第30主日
(マタイ22:34-40)
あなたの「最も重要なもの」が掟を理解させます
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律法の専門家は、イエスを試そうとして尋ねました。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(22・36)。私たちは、イエスを困らせようとしてではなく、自分自身への真剣な問いかけとして考えてみましょう。「わたしにとって、最も重要なことは何でしょうか」。どんな答えが出てくるでしょうか。

考えるヒントとして、これまでになくしたものを振り返ってみると参考になるかも知れません。たとえば、何か大きな損失をこうむった。または、大きな喪失感を味わった。その時からあなたは、もう立ち直れない、もう未来はないと思って生きてきたでしょうか。

それでも多くの人が、一から出発し直して、今は新たな気持ちで日々を歩んでいるのではないでしょうか。大変な喪失感を味わった時期があったかも知れませんが、そうした時期を乗り越えて、今を生きているのだと思います。

私自身も、大きな損失をこうむった時期がありました。もちろん人によって何が大打撃かは違いがあると思いますが、私はある時、これまでたくさん残していたパソコンのデータを失いました。説教の原稿、教会学校の教案、黙想会の原稿、恩人や友人に宛てて書いた手紙、出会った多くの人との記念写真。ある時それらすべてを失い、がっかりし、怒りさえこみ上げてきました。

大きな損失をこうむりましたが、だからといって人生を投げ出すことはありませんでした。資料や何かの記録や思い出は、失ってしまうことは残念ですが、それらが自分のすべてではありません。これからも新しい出会いもあるでしょうし、これまで以上に資料や記録を残すこともあり得るからです。

また、皆さんよくご存じですが、私は5ヶ月前に、父を亡くしました。若かったとは言えないけれども、平均寿命79歳にさえ届かない71歳でした。どうして?なぜ?現実がなかなか受け入れられませんでした。よく言われるように、大きな穴が開いたような感じがしました。

愛している人を失うことは大きな損失です。でも、それでも私は前を向いて歩いています。もう前を向いて歩けない、人生はこれで終わってしまったと、そこまでの失望感を味わったわけではありませんでした。

重大な喪失感を味わって、ようやく「わたしの最も重要なこと」が見えるようになりました。「わたしの最も重要なこと」は、これまでに失ったものの中には存在せず、違うところにあった。もっと言うと、私を立ち直らせてくれた神の中に、「最も重要なこと」があったということです。

神の中に「最も重要なこと」があったと言いましたが、別の言葉で言うと、大きな喪失感の中でも神が与えてくれた「前を向いて歩いていける」という力こそが、「最も重要なこと」だったのかも知れません。

なぜ、前を向いて歩き続ける力が、「最も重要なこと」と言えるのでしょうか。それは、神が与えてくれた「前を向いて歩き続ける力」が、神が私を愛し続けておられるしるしだからだと思います。

これ以上ないという喪失感を味わっても、神は私を見捨てず、愛し続けてくださった。そうであれば、最も重要な第一の掟は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(22・37)となるわけです。

同じような考え方に立つと、「隣人を自分のように愛しなさい」(22・39)という掟も理解できます。私に、もう一度前を向いて歩き続ける力を与えてくれた神の次に、重要なのは隣人なのです。隣人、しかも、ずっと私を見捨てず、見守ってくれた隣人が、だれにでも1人はいるものなのです。

1例あげたいと思います。私個人の司祭としての活動ですが、2002年の誕生日から、だれにも相談せず、日曜日の説教をメールマガジンで配信するサービス(メルマガ名「こうじ神父今週の説教」)を続けています。簡単に言うと、申し込んでくれた人に、毎週説教を送り続けているという活動です。

現在第382号なのですが、メールで送った説教をだれも読んでもらえず、だれからも振り向かれずに廃刊しなければならないという危険もありました。けれどもそのメルマガは今月まで6年7ヶ月連続、それも毎週配信できています。

なぜ、相手も見えない人に説教を送り続けることができたのでしょうか。それは、奇跡的にも第1号から欠かさず読んでくれている人がいたからです。私は知りませんでしたが、これまでの382回、6年7ヶ月の説教を、欠かさず読んでくれていた人から便りがあったのです。それで、こんな人もいるんだなぁと力を与えられたのです。

個人的に始めた活動、その誕生の瞬間から、決して見捨てず、自分のことのように思ってくれる人がいたことが分かりました。この経験から、第二の掟は自然に理解できるようになります。「隣人を自分のように愛しなさい」(22・39)。体験を通してイエスが、「あなたは見捨てられずにだれかに支えられ、今まで歩いてくることができたのだから、あなたも隣人を自分のように愛しなさい」と呼びかけているのだと思います。

自分にとって最も重要なものに気付いた時、最も重要な掟の意味が見えてきます。神をこの上なく愛することと、隣人を自分のように愛すること。この2つの掟は、真剣に毎日を生きているすべての人に十分理解できる掟なのです。


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ちょっとひとやすみ
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▼10月22日はまるでアクションドラマ「24(Twenty-Four)」のような1日だった。朝6時、月に1度だけの修道院チャペルでのミサをささげた。この日は教会聖堂でのミサはお休み。ところがこの日に限って、かつて長崎でよくテニスをしていたS神父さまのお父上と叔母?のシスターが前日から伊王島に宿泊し、22日朝にミサに行く予定をしていたらしい。
▼朝、修道院のミサを終え、司祭館に戻って朝食のパンを食べ、コーヒーを飲んで一息ついていたら朝9時に司祭館のチャイムが鳴る。上述の2人が「教会でお祈りさせてください」と訪ねてきたのだった。一緒に祈り、かつてお世話になったご子息の神父さまの話をして話が弾み、送り出した。
▼その後午前10時頃、例の神父さまからメールが来る。「父が訪ねてきましたか」。せめて前日に知らせてもらえれば。修道院のミサを変更できたのに。悔いが残った。そのことをメールで返事していると郵便物が届く11時になったので郵便受けを見に行くと長野県の保育士から手書きの手紙。以前馬込教会を訪ねたことがあり、メルマガを読んでいて、説教集がほしいとのこと。急いで準備した。
▼昼からは日鉄伊王島鉱業所閉山35周年慰霊祭(名称が長いなぁ)にカトリック側の追悼をするために出席。追悼の式典が終わると、日鉄伊王島鉱業所に縁のある人々で親睦会。この親睦会に顔を出し、結構いい気分になって帰る。戻ってちょっと居眠りしていると、あれあれという間に夕方になり(ロザリオの祈りが夕方5時半からなので、祈りには顔を出した)、なかなかお腹が空かないので先にWii Fitで30分の運動を済ませる。
▼シャワーを浴び、終わった頃に電話。とあるカトリック教会の広報部員で、子どものための全国誌「こじか」に記事を寄稿している神父さまですねと電話した理由を述べ、広報紙に「こじか」の記事を出典を明記して掲載させてほしいと言われ、大丈夫だろうと思ったので(厳密には著作権の問題が発生するかも)掲載O.K.ですと答えた。
▼1日で、こんなにたくさんのことが重なったのは珍しい。1週間で起こるようなことが1日に凝縮されて起こった。思い出せなかったこともあったかも知れないが、これほど複雑な出来事は神さまでなければ計画・立案できないに違いない。神さまは必ず存在するとこの日も思った。

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今週のセンテンス
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第54回目。ユーモアを込めて言うと、蚊は謙虚な生き物かも。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
死者の日
(ヨハネ6:37-40)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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どうかな、使えるかな?

2008-10-22 | Weblog
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年間第29主日(マタイ22:15-21)生涯をかけていのちを神にお返ししましょう

2008-10-19 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/10/19(No.381)
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年間第29主日
(マタイ22:15-21)
生涯をかけていのちを神にお返ししましょう
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ここ数年、10月から11月にかけては純心大学で一年生に授業をしに出かけています。最初の年こそ女子大生に囲まれてさぞウキウキだろうなぁと思っていましたが、そんな思いは全くの妄想だとすぐに分かりました。大学生のほうは40歳のおじさんとしか思っていないことに気付いたのです。まじめに自分の受け持っている授業に専念したほうがいいとすぐに感じました。

さてその授業の内容は、「いのちの時代を生きる」というテーマの授業で、「いのちの大切さをあらためて知る」ということと、「その大切ないのちをどのように生きていったらよいのか考える」ということが柱になっています。

初めに取り上げる「いのちの大切さ」の中で、次のような考えを示しました。「いのちを自分の持ち物だと考えると、いのちの大切さを見誤ることになります。持ち物と考えてしまえば、勝手に手放したり、また取り戻したりすことができると思ってしまうからです。ところが、仮に自分のいのちを手放した場合、取り戻すことはできないのです。むしろ、いのちは与えられたもの、預けられたものと考えるほうが、いのちの大切さをよりよく理解できると思います。」

「いのちが与えられたもの、託されたものであれば、与えてくれた方にいつかはお返しするつもりで生きていくべきです。それは、図書館で本を借りた時、返すまで大切に扱うのと同じことです。図書館から借りた本は、預けられたのですから、傷つけたり汚したり、ましてや頁を破いて価値を下げてはいけないように、私たちも預けられたいのちを傷つけたり汚したりすべきではありません。最低限、元の状態を保ち、できることなら美しく飾り、価値ある状態でお返しすべきです。そのような生き方を目指しましょう。」まぁだいたいこのような授業をしています。

私の中で、この授業と今週の福音でイエスが最後に語ったことばとがうまく重なりました。イエスは今週の朗読箇所の結びとして次のように語っています。「神のものは神に返しなさい」(22・22)。当然、キリスト者にとっていのちは神から与えられたものですから、私たちはいのちを神にお返しする生き方を目指すべきだということです。

大学生に向けた言葉でもう少し補うと、神から与えられたいのちを美しく飾り、神にお返しするように努力する。これが、わたしたちの生きる道なのです。置かれた生活の中で、神に与えられたいのちをそれぞれの生き方に合わせて美しく装う。家庭生活にある人は信仰に土台を置いた家庭を築き、いのちを美しく飾る。

修道生活や司祭職に呼ばれた人は、神のことばを生活に宿らせるようにすることでいのちを飾る。1人ひとりの置かれた生活の中で、神に与えられたいのちを輝かせる工夫を取り入れることが、「神のものは神に返しなさい」とおっしゃるイエスに答えることになるのです。

大学生の授業の中では、次のようなことも言いました。「与えられたいのちを美しく飾る生き方とは、どのような生き方を言うのでしょうか。例えばそれは、『人を生かす生き方』ではないでしょうか。自分の時間や才能や持っているものを使って、周りの人を喜ばせたり、元気づけたり、やる気を起こさせたりすること。それが『人を生かす生き方』だと思います。家族の中で、学生活動の中で、職場で、何かの集まりの中で、『人を生かす』ことに目を向けてみてください。」

同じように、私たちも人を生かすことに私の時間や才能や持ち物を使う時、与えられた自分のいのちを美しく飾る事ができると思います。もちろんこれは1例に過ぎないのですが、「与えられたいのちを美しく飾る生き方」が何も思い付かないなら、参考にしてみてはいかがでしょうか。イエスの言葉は今週私たちに強く迫ってきます。「神のものは神に返しなさい」。いのちを神にお返しする気持ちで日々を生きていくなら、イエスのこの呼びかけに答える1つの道となるでしょう。

私の中でもう1つ、「神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉と結びついたものがあります。それは、殉教者の生き方です。11月24日にはいよいよ188殉教者が列福されますが、彼らこそ「神のものを神に返す」という生き方に徹した人々だと思いました。殉教者たちは、いのちを神にいただいたことはもちろんのこととして、この世のすべてが、神から与えられたものだから、神にお返しすべきものだと考えていたのだと思います。

それはどういうことかと言うと、殉教者たちは自分のいのちを殉教によって美しく飾り、神にお返ししただけではなく、キリスト教の神をすべての日本人に知らせようと真剣に願っていたのです。長崎の西坂で殉教したニコラオ福永ケイアンは、処刑される前に次の言葉を残しました。「残念なことが1つあります。将軍様はじめ、すべての日本人をキリストへ導くことができなかったことです。」

みずからが与えられたいのちを美しく飾るだけに留まらず、「人を生かす生き方」を最後まで貫こうと努力していたことがよく分かります。日本人をイエス・キリストに導くことが、すべての人を生かす生き方なのだと固く信じていたのです。

彼ら殉教者の生き方には、2つの大きなお手本があると思います。1つは、神のものをすべて神にお返しになった独り子イエスに完全に倣おうとしていたことです。もう1つは、私たちに与えられたいのちを美しく飾る生き方の模範を示してくださったということです。私たちはもっともっと殉教者の生き方を学び、お手本を読み取って自分の生活に当てはめていくべきだと思います。

この1年で、いくつもの参考になる書物が出ています。少し前に出た「わたしは模範を示した」という赤い色の冊子とか、「ペトロ岐部と187殉教者」、また「恵みの風に帆をはって」という絵本などが特に参考になるでしょう。ぜひ読み返したり読み続けたりして、私は自分の置かれた場所で、どうやって「神のものを神に返しなさい」という呼びかけに答えていくのか、しっかり考えてみたいと思います。


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ちょっとひとやすみ
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▼長崎にあるカトリック大学のフレッシュマンセミナーに、講師として今年も声が掛かった。去年よりも1つ、歳を取っているわけで、フレッシュマンとの距離も去年よりも少し感じながら「いのちの大切さ」について授業をしてきた。人が人のいのちを大切にできないニュースが流れるたびに、いのちについて立ち止まって考える必要性がますます高まっていると感じる。
▼今赴任している小教区でこれまでの中で最大のヘマをやってしまった。会社であれば配置転換だろうか。減給だろうか。はたまた厳重注意だろうか。少し気の緩みがあったのかも知れない。そのことで小教区の活動にも支障を来してしまった。ばん回できればいいが、後々まで尾を引くのではないかと心配である。
▼何か思い出して書こうと思っていたらしいが、どうやら忘れてしまったらしい。何かの時のために手帳も携帯しているし、いざとなったら携帯電話にでも何でもメモは取れるのに、どうして何の手も打たずにここまで来たのだろう。前よりも歯車がうまく回らないとつくづく思う。そんな自分を受け入れながら、前へ進むしかないのだろうか。
▼思い出すまで数日この原稿を放置していた。忘れていたことか分からないが、任天堂のゲーム機"Wii Fit"は順調にトレーニングを続けている。以前ブームに乗っかってブートキャンプをやってみたが、練習内容のハードさに継続はしなかった。それに比べると40日間以上継続できているのだからたいしたものだと思う。
▼結果、30日過ぎたあたりで体重が1kgくらい落ちて、その状態からリバウンドしなくなった。まだ体脂肪率が26%あるのでまだ目標には遠く及ばないが、この体脂肪率についても薄紙をはがすような変化ではあるが減っている。急には減らないし、急に減らしても続かないかも知れない。
▼最近就職内定をもらっている大学生が、「もっと良い内定をもらえるのではないか」と不安になり、就職活動を終われない人が多いらく、名付けて「内定ブルー」と呼ぶらしい。私は現在「ココウォーク」に行ってみたいと思うが、行ってみるとつまらなくてもう行かなくなるのではないかと不安で行けない状態に陥っている。これって「ココウォークブルー」なのだろうか。

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今週のセンテンス
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第53回目。科学は偉大な進歩を遂げたが、現代が過去より優れているかは疑問です。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
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年間第28主日(マタイ22:1-14)王に生かされていることを思い出そう

2008-10-12 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/10/12(No.380)
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年間第28主日
(マタイ22:1-14)
王に生かされていることを思い出そう
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言葉はつくづく不思議な道具です。私たちがミサで耳にしている聖書、もともとは旧約聖書はヘブライ語で書かれ、新約聖書はギリシア語で書かれていました。それを、日本の一流の聖書学者が日本語に訳して、私たちは読んだり聞いたりしているわけです。

ある国の言葉を別の国の言葉に置き換える時、そこにわずかなロスが生じます。元の言葉が含んでいる意味を、一滴も漏らさずにほかの国の言葉に置き換えることは、大変難しいのです。

例えば、私たちが十字架のしるしをする時に最後に言っている「アーメン」は、あえて日本語に訳すと「そうなりますように」となりますが、ちょうど当てはまる日本語がないために、日本語にせずそのままアーメンと言っています。「父と子と聖霊の御名によって。そうなりますように」と言っても、しっくりこないのです。

「アーメン」1つを取っても、聖書が書かれた時の言葉をその国の言葉、例えば日本語に直すということは、大変なことであるというのが分かってもらえたと思います。ここまでのことを踏まえて、今日の福音朗読に当たってみましょう。

私たちの使う日本語は、「わたしの」とか「あなたの」、また「彼の」「彼女の」という言葉を省略することができます。例えば、「雨が降りそうなので、傘を持っていくつもりです」と言えば、「あー、自分の傘を持っていくんだな」とちゃんと伝わると思いますが、日本語以外では、「雨が降りそうなので、わたしは『わたしの』傘を持っていくつもりです」と、必ずだれの傘なのかをはっきり示す言葉遣いをするのです。

聖書には、「だれの」という言葉をきちんと日本語に訳して、見事に会話の微妙なやり取りを表現している例があります。典型的な例は、ルカ福音書第15章の「放蕩息子のたとえ」の中に現れます。兄が父に不平を述べ、父が兄を諭す場面です。

兄は父親に食ってかかります。「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」(ルカ15・30)。そこで父がなだめます。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(同15・32)。

巧みに使われているのがお分かりでしょうか。「『あなたの』あの息子が(あんなふしだらなことをした)」と兄がなじると、父は兄に、「『お前の』あの弟は死んでいたのに生き返った(中略)。喜ぶのは当たり前ではないか」そう言って、兄弟の絆を思い出させようとします。このように、「わたしの」とか「あなたの」をうまく日本語に訳出できれば、元の言葉の豊かさを現すことができるのです。

ところが、現実には元の言葉に「わたしの」とか「あなたの」という言葉がくっついているのに、日本語に翻訳するさい、それが省略されてしまう場合があります。当然、元の言葉の微妙な意味合いまでは伝わらなくなってしまいます。

今週の福音朗読の中で、「わたしの」とか「あなたの」という言葉が省略されてしまって、ロスが生じている部分があります。それは、王が招待客にもう一度家来を送る時に言わせる部分です。次のように書かれています。「招いておいた人々にこう言いなさい。『食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください』」(22・4)。

今読み上げた箇所を、元の言葉の通りに「わたしの」とか「あなたの」という表現を付け加えるとこうなります。「『わたしの』食事の用意が整いました。『わたしの』牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」。

日本語でこのように訳してしまうとくどい感じがします。その辺の事情があるのかは分かりませんが、日本語の聖書で省略されたこの「わたしの」という言葉は、あらためて考えると大変重要な役割があることに気づきます。

こういうことです。「『わたしの』食事の用意が整いました」。これはつまり、王が王宮で食べている食事の用意が整ったという意味です。一般庶民の食事ではなく、王宮での食事ですから、そこへ招待されることは名誉なこと、出席して当然のはずでした。

さらに続きます。「『わたしの』牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています」と言っている箇所も、一般家庭が所有している牛・家畜ではなく、王宮で使用される牛・家畜を屠って料理を作っていると言っているのです。

「わたしの」という言葉が加わっているだけですが、実はその重みは大変なもので、日本の感覚で当てはめるなら、天皇家御用達の材料でご馳走を準備しておりますのでおいで下さいという意味なのです。

それなのに、招待客は応じようとしませんでした。それだけでなく、王が遣わした家来たちを捕まえて乱暴し、挙げ句の果てに殺してしまったのです(22・6)。あからさまに、「王のことなど知ったことか」という態度を示したのです。

王がどのような態度に出たかはすでに示されている通りです(22・7)。王は望めば、大変厳しい処置に出ることも可能なのです。ただ、自分の意志で、喜んで王の招待に出席してくれることを期待しているのです。一方で、町の大通りで集められた人々は、招かれたことを重く受け止め、婚宴に出席したのでした。

そこで私たちも、王の招きに真剣に答えましょう。王はすべての人に「『わたしの』食事の用意が整いました」と招きます。なぜでしょうか。それは、王が振る舞う食事を通して、私たちが常に王に生かされていることを思い出してもらうためです。父である神が、主であるキリストが、私たちを生かしてくださっていることを思い出させるためなのです。

日曜日のミサは、私たちが一瞬も神さまなしに生きられないことを思い出すためのまたとない食事の場です。神のことばと、神の恵みによって私たちは生きている。神なしには一瞬も生きられない。それを思い出す食事の場が、ミサだと思います。

私は神との関わりなしに生きることができると言う人は、本当の意味で生きるということを放棄した人です。毎日の一分一秒、神から与えられなければ、私に命はないのです。

「『わたしの』食事の用意が整いました」。特にミサという神が用意する最高の食事に出席して、24時間神に生かされていることを思い出すことにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼俳優の緒方拳さんがガンで亡くなった。71歳だった。父親と同じ年齢だったことが、胸を打った。本来なら「へぇ。亡くなったんだ」で終わることが多いのに、71歳という年齢が特別な気持ちにさせたのだと思う。緒方さんの代表作と言われても分からないけれども、偉大な俳優だったことは分かる。それだけに、命を縮める病気を何とも恨みたくなる。
▼今年のノーベル賞が次々に発表されている。その中に日本人が4人もいて、そのすべてが理科系の学者だというので驚いている。物理学賞などは日本人が独占したらしい。これは凄いことに違いない。世界の学問の進歩に、日本人が貢献しているというのだから、これまた身近に感じ、会ったこともないのに日本人であることに誇りを覚えたりする。
▼こうした世界的な学者の貢献で、ガンに代表されるような困難な病気を、命を縮める要因から取り去ってほしいと思う。そうして、人間の命を縮めるものは病気ではないという時代が来てほしいものだ。命を縮められてしまうのは、42歳の今でも恐ろしいと感じる。平均寿命までは、期待していたいものだ。
▼平均寿命まで期待できると仮定して、晩年は何をしたいか。晩年は若い主任司祭のお手伝いを細々としながら、いろんな人と釣りに行きたい。特に、教会にまったく来ない人と、釣りに行ってみたい。まったく来ない釣り好きの人にも、何か言い分があるに違いない。そんなことを聞き出して、若い主任司祭の力になりたい。
▼別に釣り好きの人でなくてもいいから、教会に足が向かない人のところに自由に出入りして、話を聞きたいものだ。今はいろんなことに縛られているから、教会にいちばん遠い人たちとは、やはり私からもいちばん遠い人たちである。ぜひ、晩年はそういう人のもとを訪ねることを生きがいにしたい。

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今週のセンテンス
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第52回目。鳥の将来を配慮してあげましょう。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(マタイ22:15-21)
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年間第27主日(マタイ21:33-43)ぶどう園に「神の恵み」を重ねて読む

2008-10-05 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
08/10/05(No.379)
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年間第27主日
(マタイ21:33-43)
ぶどう園に「神の恵み」を重ねて読む
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朗読されたたとえは、神の恵みを考えるために大いに役立ちます。一人の人がぶどう園を作り始めました。そこから収穫を得ることが目的です。ぶどう園に垣をめぐらします。人が勝手に出入りして、ぶどう園を荒らさないためです。搾り場は、ぶどう酒を作るために必要です。見張りのやぐらも建てました。

主人はこれを農夫に貸し与えます。準備が整ったぶどう園としては、これ以上を望むことはできなかったでしょう。この至れり尽くせりのぶどう園を、私は神の恵みに置き換えてみたいのです。

神は溢れるほどの恵みに満ちておられます。この恵みは誰かに貸し与えるためのものです。それも条件を付けてではなく、無条件に貸そうとされます。たとえ話のぶどう園と同じように、神はご自分の恵みを、最高の状態にして、これ以上望めないというものに仕上げて貸し与えるわけです。

神は何かを与えるときに、できるお世話はすべて調えて、その上で私たちに恵みを与えてくださいます。たとえば洗礼のお恵みを考えてみても、そこにはすべてのものを新しくする力が準備されています。原罪とすべての自罪がゆるされ、神の子となり、神の国を受け継ぐ者となります。すべてを新しくして、その姿に生き続ける恵みを与える。ここまで準備の行き届いた恵みを、神は無償で、ただで与えてくださるのです。

ここで、私たちの態度が問題になります。与える神は、これ以上ないという準備をして、一つひとつの恵みを与えてくださいますが、それを受ける私たちの方は、どうなのでしょうか。ふさわしい態度ができているでしょうか。

福音に登場する農夫たちは、雇い主の寛大さと正反対の、とても残酷な態度をとっています。彼らの態度は、全く逆恨みとしか言いようがありません。僕たちが収穫を受け取りに来た時、何も収穫を全部取り上げるとは言っていないのです。

恵みが、恵みになるためには、「無償である」ということが必要です。農夫たちはこの点を取り違え、「ただで用意されたぶどう園」を、「自分の持ち物」にしようとしました。「ただで用意されたもの」、つまりぶどう園が「恵みの状態」のままだったら、いつまでもその恩恵を受けて収穫にあずかることができたはずです。それを、自分のものにしようとし、「神からの恵み」という状態にあったぶどう園の価値を引き下げてしまったのです。

ぶどう園の主が送った僕たちとの関わりは、神の恵みを繰り返し確認する機会になるはずでした。利用させてもらっている「ぶどう園」は、何から何まで準備してもらったぶどう園だった。これは何にも代えられない恵みだから、恵みに感謝して答えよう。そう考えるべきでした。

ところが、農夫たちは自分だけで味わいたいという気持ちがわいてきて、遣わされた人との関わりを閉ざし、自分の殻に閉じこもったのです。ぶどう園が「無償で与えられた恵み」と感謝できている間は実りをもたらしますが、自分のものにしようとし始めると「恵み」でない状態に変わってしまうのです。

自分の息子、独り子を送ったとき、主人はどのような気持ちだったでしょうか。残酷な仕打ちを僕たちが受けた後に、誰よりも愛している子を送ったのです。今度こそ、恵みが「無償である」ことを思い出す最後のチャンスでした。恵みとして与えたのですから、賛美、感謝、人間にしか表せない心の動きでもって、恵みに答えてほしかったと思います。神は恵みを与えた上に、いっしょに収穫を喜び合いたいのです。

私たちはどうでしょうか。私たちの心に、恵みのすばらしさを「引き下げてしまう」弱さが潜んでいないでしょうか。一人ひとりに用意された恵みを、誰かと比べることで判断を狂わせたり、欲に目がくらんで、自分のものでないものまで手に入れようとたくらんだりすることがないでしょうか。こうした心の動きは恵みの価値を引き下げてしまうものです。

恵みが「無償である」ということを、もう一度確かめましょう。それさえ忘れなければ、私たちはいつまででも恵みの中にいることができます。人間の欲に惑わされないように、神の恵みをいつも十分に活かす知恵を保つようにいたしましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼細かい字を読もうとして近づけた時にショッキングな体験をした。グッと近づけてみるとまったく読めなくなった。もちろん遠ざけても読めないので、眼鏡を外してみると、何と読めなかった字が読めたのである。これはいわゆる「老眼」の兆しだろうか。
▼もしもこれが老眼の兆しであれば、さらに読者の皆さんにお尋ねしたい。何かをしなければならないだろうか。それとも、何もしなくて大丈夫なのだろうか。そういうことすら、初めての体験で自分では何とも判断のしようがない。
▼このことと関係があるのか知らないが、最近は仕事を投げ出して眠ることが多くなった。ちょっと前なら何が何でも仕上げてから眠っていたところを、「ダメ、もう続かない。寝よう」と諦めが早い。諦めが早いと言うよりは、続かないのである。そして、途中で仕事を投げ出し、眠っていることが多い。
▼社会の窓事件もあったし(読者から「世界の窓」ではないかという指摘も受けた)、だんだん自分が自分でなくなっていく感じがして非常に寂しい。自分でなくなっているのではなく、本当は変化していると受け止めるべきなのだろう。どうも、最近の変化を受け入れられずにいる。
▼ぼやきばかりではおもしろくないので、列福式関連の話題を1つ。4日(土)に長崎教区内の小教区広報担当者に集まってもらい、列福式の式典中の取材要綱を説明する集まりを開いた。準備は優秀な事務次官が調えてくれていたので、私はただ「にわか大臣」として説明をする役である。
▼壇上に立って「えー、私が広報部の部長であります。取材活動全般についてご説明しますので、あとで質問などあったら聞かせてください」みたいなことを話した。するとなんとなく自分がひとかどの者であるような気分になり、また責任の重さをひしひしと感じ、役割や責任が、人を育てるのだなとあらためて実感できた一幕だった。

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今週のセンテンス
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第51回目。水不足の原因は何なのでしょう。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日
マタイ22:1-14
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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